みかぐらうた通訳~上田嘉太郎先生著作『みかぐらうた略解』に学ぶ~

『みかぐらうた略解』に学ぶ 天理教
『みかぐらうた略解』に学ぶ

皆さん、お変わりございませんか?

おかげさまで変わりなく過ごさせてもらっている「さまよい人」です。

私は、令和元年に天理教教会長に就任したばかりの50代後半新米教会長です。

IT弱者でありますが、奮起一発、令和3年5月からブログを始め、ちょっとずつ記事を投稿させてもらっています。

どんな記事を書いたらいいか迷いながら…、でも、何か書きたい気持ちは満タン。

そんな気持ちを抱えながら「おてふり」をしている最中、ふと思いつきました。

さまよい人
さまよい人

「おてふり」してるけど、自分、『みかぐらうた』の内容ちゃんと把握してないよな~。

そうだ、『みかぐらうた』の内容を現代の言葉で通して読んだら、今よりは理解深まるかもしれんなー。

…とは言え、自分には『みかぐらうた』の内容を現代言葉で通してまとめる能力はありません。

そこで、『みかぐらうた』に関する教内出版物にその役目をお願いすることにしました。

上田嘉太郎先生の『みかぐらうた略解』(道友社2019年出版)にご指導頂くことと致します。

では、いってみましょう。

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かぐらの歌

第一節

あしきをはろうてたすけたまへ
てんりおうのみこと

第二節

ちょとはなし かみのいふこときいてくれ
あしきのことはいはんでな
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし

第三節

あしきをはろうてたすけせきこむ
いちれつすましてかんろだい

「かぐらの歌」 【現代訳】

諸々の悪いことを一掃して、どうかおたすけ下さいませ。親神天理王命様。

一寸話をする。親神の言うことを聞いてくれ。悪いことは言わないから。
親神は、この世の初まりに、地と天とを象って夫婦を拵え、今日に至った。
これはこの世の人間創め出しの真実である。

親神は、諸々の悪いことを一掃して 真実にたすけてやりたいと急き込んでいる。
そのたすけとは、世界中の人々の心を澄まして、「甘露台」を名実共に建て上げることである。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,7~25)
さまよい人
さまよい人

こうやって現代文で通して読むと、親神様と人間の「対話文」のようになっているのだということがよくわかりますね。

よろづよ八首

「かぐらのうた」(みかぐらうた第一節~第三節)については、原典の原文を記載してから【現代訳】を記載しました。

このような「まとめ」をする場合は、まず原文を記載して、それと対比させるような形で通訳文を記載させるのが普通だと思います。

しかし、それだと上田先生の原著をただ書き写しただけになります。
それに加えて、『みかぐらうた』の【現代訳】を途切れ途切れでなく、〈読み物風〉に「通して」読んでみたい、という私の個人的な希望もあって、「よろづよ八首」以降は、あえて原典の《原文》は記載せずに、上田先生による【現代訳】だけを通して記載させて頂くこととしました。

『みかぐらうた』原典の《原文》については、ぜひとも、読者の皆様方各自で当たって頂きすよう、お願い申し上げます。

「よろづよ八首」【現代訳】

すべての時代にわたって、世界中を眺め渡しても、誰一人として神の思いの分かった者はいない。
それももっともである。これまで親神の思いを説いて聞かせたことがないのだから、何も知らないのは無理でないだろう。
この度は、旬刻限の到来により、親神が教祖をやしろに、この世の表に現れて、どんなことも委細を説き聞かす。
ここ大和のぢばは、神のおわす所と言っているが、その根本の由来は誰も知らない。
この元々の由来を詳しく聞いたならば、どんな者でも皆、ぢばが恋しくなる。
その元を聞きたいと訪ねて来るならば、万事を委細にわたって、その根本のいわれを言って聞かせよう。
親神が世の表に現れて、どんなことも詳しく事細かに説くならば、世界中の人々は皆勇み立ってくるだろう。
親神は、世界中の人間を皆隔てなく、早くたすけたいと急いでいるので、世界の人々の心を勇ませてかかるつもりである。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,26~36)
さまよい人
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「よろづよ八首」は明治3年に教えて頂いたのですね。

一下り目から十二下り目が慶応3年に教えて頂いたものですから、その後に教えて頂いたわけです。

かつては「序歌」と呼ばれたとのことですから、著書における「はじめに」のようなものですね。現代文で通して拝読すると、その壮大なスケール、威厳に圧倒される感じがします。

一下り目 【現代訳】

「一下り目」【現代訳】

正月早々に肥のさづけとは、何と、滅多にない格別なことだ。
その嬉しさで、にっこり。 …さづけを貰ったら、何と心強いことよ。
その喜びをもって、誠真実の心を定めよ。
そうすれば、豊かな実りを請け合おう。
神の働きを勢いよく顕す。
どこもかしこも、作物が並外れてよく実る。
何やかやと作物を作り、穫り入れるならば、
大和中が豊年になる。
こうした効能を見るところまで、しっかりとこの道について来い。
そうすれば、ついには、収穫量が常に過不足ないように定まる守護をする。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,37~47)
さまよい人
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一下り目はご利益を強調されているように感じます。

当時の教祖の環境(農家であり周囲も農村地帯であったこと)に合わせてお話を始められたということがよくわかりますね。

二下り目 【現代訳】

「二下り目」【現代訳】

とんとんとんと、正月に踊り初め(初づとめ)をするのは、何とも楽しく愉快なものである。
不思議な普請に取り掛かると、何と賑やかなことよ。
何事も良いように身に付く。
世の中は、あるべき姿へと改まる。
世の人々が皆、親神の教えについて来るならば、
謀反を引き起こす元を断とう。
身上、事情に苦しんでいる者を救い上げると、
病気を引き起こす元を断とう。
教えにつき従う心、人をたすける心を定めて変わらないならば、
土地所、国々が治まり、ひいては世界が陽気ぐらしに治まるであろう。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,48~59)
さまよい人
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二下り目では、農業以外の部分でのご利益をお知らせ下さっているようにも見えます。

いずれにしても、一下り目、二下り目は、本当に「初心者向け」導入の話をしておられる、という感じがしますね。

三下り目 【現代訳】

「三下り目」【現代訳】

月日の膝元たる庄屋敷村にある「つとめ」をする場所は、人間世界創め出しの元の地点であり、あらゆる守護の源、世の立て替えの始まる場所である。
その不思議な「つとめ場所」の普請は、誰にも頼まなくても、世界の人々が皆寄り集まってきて、自ずと建ち上がるに到るのは、実に不思議である。
よくぞ、ここまでこの道について来た。真実のたすけは、これからだ。
いつも心無い人々に笑われたり、誹られたりして、めづらしいたすけをするのである。
無理な願いはしてくれるな。親神の思いに沿い切る一筋心になってこい。

「何が何でもこれからは、ただ一筋に親神様にもたれ、思召に沿い切って進ませて頂きます。
病気になることほど苦しく辛いことはありません。私もこれからひのきしんに励みます。
ここまでこの教えを信仰してきたけれども、この神様が元の神様である、とは知りませんでした。
ついにこの度明らかになりました。この神様は真実の神様、実の守護をなし下さる神様に相違ありません。」

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,60~73)
さまよい人
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三下り目では「つとめ場所」のお話が始まって、いよいよ天理教の教理話を本格的にされる、という感じですね。

四下り目 【現代訳】

「四下り目」【現代訳】

人がどんなひどいことを言っても、親神は全て見抜き見通しであるから、気持ちを平静にせよ。
夫婦の心を一つに治めて通れよ。そあうすれば、何か喜ばしいことも現れてくる。
皆、側にいる者はよく見ていよ。親神のすることの一つひとつを。
夜も昼も、太鼓やかねといった鳴物を入れてつとめをする。側の者もさぞかし喧しく鬱陶しく思うことであろう。
いつも親神はたすけを急いでいるから、早くつとめを勤めて陽気な心になってこい。
村人はなおさら早くたすけてやりたい。けれども、このたすけ一条の親神の心が分からずにいる。
人間達が、何かにつけ万事たすけ合うことが親神の望みである。このことを心の底からよく思案するように。
そうなれば、病の根はすっきりと抜け、心はだんだんと勇んでくる。
ここはいわば、この世の極楽だ。その根源である『ぢば』へ、私も早くお参りしたい。

「ついにこの度は、濁りのない澄み切った心になりました。こんな有難いことはありません。」

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,74~85)
さまよい人
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四下り目を現代文で通して読むと、親神様は、本当に「おつとめ」のを急き込んでおられて、「おつとめ」というものを通して人間をたすけてやりたいと思っておられたんだなぁ、ということが伝わってきますね。

五下り目 【現代訳】

「五下り目」【現代訳】

広い世界の中には、人だすけをする所が、あちこちにあることだろう。
しかし、不思議なたすけをするのはこの元の『ぢば』である。ここから「帯屋許し」「疱瘡の許し」を出す。
水と神とは同じ理合いであって、水が物の汚れを洗い落とすように、親神は人の心の汚れをすっきり洗い清める。
人間誰しも欲のない者は無いが、親神の前にあっては欲は消え去る。
従って、いつまで信心しても陽気づくめに通ることができる。
酷(むご)い心をきっぱりと忘れて、やさしい心になってこい。
親神は決して難儀はさせない。ここは、たすけ一条の元の『ぢば』であるから。
大和ばかりではない。広く世界中どこどこまでもたすけて廻る。
ここはこの世、人間を創造した元の『ぢば』である。今までにない珍しい所が現れた。
どうでもこうでもの精神で信心するのならば、講を結ぼうではないか。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,86~97)
さまよい人
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五下り目では、元の「ぢば」について詳しくお話して下さっています。

親神様の教えの根幹として、元の「ぢば」・地場の理は外せない、ということを改めて認識されられます。

六下り目 【現代訳】

「六下り目」【現代訳】

人間の心というものは、まことに疑い深いものである。
不思議なたすけを顕すからには、どんなことも全て見定める。
世界中の人間の胸の内は、鏡に映るが如くに、全て親神の方に映るのである。
よくぞ「つとめ」の道に付いて来た。この「つとめ」こそが、たすけの根本である。
いつも、「かぐら」や「てをどり」を勤めることが、やがては珍しいたすけをもたらす。
何でもかんでもと願い出るが、親神の受け取る願いの筋も、実に様々である。
どれほど信心しても、神意にそぐわないようなことではならない。
やっぱり信心はしなければならない。心得違いを改めて、一から出直すことだ。
ここまで信心してきたからには、一つの効能も見せてやらねばならない。
この度、鮮やかに信心の効能の理が見えた。扇の伺いは、実に不思議なものである。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,98~109)
さまよい人
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六下り目でも、「つとめ」が救済の根本であることを繰り返されています。

「おつとめ」は「救済の土台」だ、ということを親神様は強調しておられるのですね。

以上、ここまでが前半。次から後半に入ります。

七下り目 【現代訳】

「七下り目」【現代訳】

一言「ひのきしん」の話をする。ほんの匂わせる程度のことであるが。
そこには親神の深い思惑があるので、誰も止め立てしないように。
世界中、皆誰しも、田地を必要としない者はいない。
良い田地があるならば、誰でも皆、同様に欲しいであろう。
それはどこの誰でも同じである。私もあの田地を求めたい。
親神は、無理にどうせよとは言わない。そこは銘々の胸次第、心次第である。
何としてでも良い田地が欲しいから、価はどんなに要っても求めたい。
この屋敷は親神の田地であって、蒔いた種は皆生える田地である。
ここは、この世の田地であるなら、私もしっかり種を蒔こう。
この度は、皆揃って、よくぞ真実の種を元の屋敷に蒔きに来た。種を蒔いた者は、肥料を置かずとも収穫することができる。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,110~120)
さまよい人
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七下り目は、田地の話ですね。

上田嘉太郎先生の解説には以下のようにあります。

「世界のふしんが(みかぐらうたの)後半の主題ですが、その後半の初めに、ぢばに伏せ込むひのきしんを仰しゃいます。世界のふしんは、ひのきしんによって進められるということです。(P.120)」

八下り目 【現代訳】

「八下り目」【現代訳】

広い世界や国々の中に、普請の用材になる石や立ち木がないものか。
不思議な普請をするのであるが、誰にも頼みをかけることはしない。
皆だんだんと世界から用材、人材が集まってきたならば、自ずと不思議な普請、世界の普請は出来上がってくる。
欲の心をきっぱりと忘れて、しっかりと誠真実の心を定めかけよ。
いつまでも普請を見合わせることになっても、内からするのではない。
むやみやたらに急いではならない。心の底からよく思案せよ。
何ほどか心が澄んだならば、すみやかに普請に着手せよ。
未だ道の付いていない、いわば山の中へと入り込んで、ふしんの用材となるべき石も立ち木も見ておいた。
この木を切って不思議な普請の用材にしようか、あの石を用石にしようかと思うが、全て神意によってすることである。
ついにこの度、人々の心が皆一様に澄み切ってきた。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,121~132)
さまよい人
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八下り目は一貫して「ふしん」のお話ですね。

(みかぐらうたの)後半の主題は「世界のふしん」だ、と上田先生の解説にあることを考えると、八下り目は、その中でも中心的なテーマについて述べておられる、ということになるでしょうか。

九下り目 【現代訳】

「九下り目」【現代訳】

広い世界をうちまわり、人の心を一洗二洗と洗い清めてたすけてゆく。
難儀不自由のないようにしてやろう。我を捨てて親神の心にもたれつくようにせよ。
見渡すと、世界の人々の心には、欲が混じっている。
欲を道連れの信心ならば、やめてくれ。親神は、そのような信心を受け取ることはできないから。
どこの誰であれ同じことである。よく思案し、心を定めて信心の道に付いて来い。
無理に信心の道に出よとは言わない。心定めのつくまでは。
この度は、誰も彼も皆、相当しっかりと思案をしなければならない。
山の中でも、あちらこちらで、「天理王命」の神名を唱えてつとめをする。
ここでつとめをしているけれども、真から親神の思いの分かった者はいない。
同じく神名を呼び出すのであれば、速やかにこの元なる屋敷を訪ねて帰ってこい。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,133~146)
さまよい人
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上田嘉太郎先生の解説によると、「九下り目は“人材の引き出しがテーマ”」だそうです。

「世界のふしん」 を行うためには、『人材』がとても重要であり必要だ、ということですね。

十下り目 【現代訳】

「十下り目」【現代訳】

人の心というものは、簡単には分からないものである。
不思議なたすけをしているが、人の心が身上を通して明らかになるのは、今が初めてである。
水の中に混じっているこの泥を、早く除去してもらいたい。
欲には際限がない、泥水のようなものである。心が澄み切ったならば、そのままにこの世の極楽とも言うべき境地になる。
末代までもこのことは、たすけ一条の話の種になるのである。
酷(むご)い言葉で諭しているのも、一刻も早くたすけたいとの親心からである。
難儀するのも我が心からであって、自分自身を恨むしかない。
病は辛いものであるが、その元を知っている者はない。
この度までは皆一様に、病の元を知らずにいた。
ついに、この度明らかになった、病の元は心遣いにあるということが。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,147~158)
さまよい人
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十下り目は、「おたすけ」の話ですね。

病の元は心であること、心が澄み切ったならば極楽の境地に至れるということ。

天理教における中心的ご教理の一つだと思います。

十一下り目 【現代訳】

「十一下り目」【現代訳】

月日の膝元、庄屋敷村にある神の館である「ぢば」を定める。
夫婦が揃ってひのきしんをする。これが何より一番の物種である。
親神の目には、世界中の人々がだんだんと、もっこを担ってひのきしんをするようになる姿が見えている。
欲を忘れてひのきしんをする。これが一番の肥やしとなる。
いついつまでも土持は続く。まだ続いているのなら、私も行って土持をしよう。
無理に止め立てをするではない。その心があるならば、誰なりと来るがよい。
何とも珍しい土持ちである。これが寄進となるのならば。
屋敷の土を掘り取って、移し替えるだけのことである。
この度までは皆一様に、親神の思いが分からずにきた。そのことが残念である。
ついに今年は、肥を置かずに十分に作物を収、穫することが出来た。何と頼もしいことか。有難いことか。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,159~170)
さまよい人
さまよい人

十一下り目は「ひのきしん」のお話ですね。

上田嘉太郎先生の解説によると、「(十一下り目の)最初に「ぢば定め」とありまして、まさに、『ひのきしん』は、ぢばへの伏せ込みです。」 だそうです。

十二下り目 【現代訳】

「十二下り目」【現代訳】

まずは大工の伺いに、どんなことも任せておく。
不思議な普請をするならば、伺いを立て、神意に則って言いつけるようにせよ。
皆世界中からだんだんと、この屋敷へやって来た大工に、不思議な普請の匂いをかけよ。
良い棟梁があるならば、早くこの元の屋敷へ寄せておけ。
いずれは棟梁が四人必要である。早く神意を伺ってみよ。
無理に来いとは言わない。そのうち、だんだんとついて来る。
何とも珍しいこの普請は、一旦取り掛かったならば、際限なく続く。
山の中へ行くならば、荒木棟梁を連れて行け。
これは小細工棟梁である。これは建前棟梁、これはかんな棟梁、と、それぞれの役割がある。
かくてこの度、皆一斉に、棟梁以下、大工の人衆も全て揃い、不思議な普請に取掛かる段取りが整った。

上田嘉太郎『みかぐらうた略解』(P,171~181)
さまよい人
さまよい人

十二下り目は、ふしんの進め方、段取りについてお話下さっています。

(みかぐらうたの)後半の主題は「世界のふしん」 だと学びましたが、まさしく後半の締めくくりにふさわしい内容だと言えそうです。

以上、天理教三原典の一つである『みかぐらうた』を、上田嘉太郎先生著作『みかぐらうた略解』の現代訳文の通しで見つめ直しさせて頂きました。

小さいながらも天理教教会長という役割を授かっていると、日々、朝づとめや夕づとめ等で『みかぐらうた』に触れる機会は少なくありません。
しかし、何気なく『みかぐらうた』に触れながらも、私の場合、なかなかその意味についてまでは思い至らず過ごしている、というのが正直なところです。

そのような私ですので、このたび、『みかぐらうた』をちょっと 〈読み物風〉に通しの現代文で読んでみることで、ちょっと「より身近なもの」に感じることが出来たような気がしています。

その際、忘れてならないのは、何と言っても、上田嘉太郎先生の解釈文が素晴らしい!という大前提でしょう。
上田先生の著作を通して、改めて『みかぐらうた』の素晴らしさを味わうことができました。有難うございました。
皆さまにも、ぜひ、上田嘉太郎先生著作『みかぐらうた略解』をご一読頂きたいものだと願うばかりです。

今後も、このようなお道の「基礎」についてしっかり学ばせて頂きたいと思っています。

ではでは、今回はこのへんで。

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