「百日のおさしづ」って知ってますか?

「百日のおさしづ」って知ってますか?アイキャッチ画像 天理教

皆さん、こんにちは。
ふらふら彷徨う「さまよい人」です。
「さまよいブログ」へようこそ。

私は、令和元年に小さな小さな天理教分教会の教会長に就任した者です。
令和3年5月からこのブログを始めました。

当ブログは「彷徨う新米教会長のブログ」と銘打っておりますが、天理教的な記事が少ない。
このブログの看板に偽りあり、と言われそう…(汗)
そこで今回は、天理教の教えに関わる内容の記事をお届けしたいと思います。

天理教に関わりのある記事を書こうと思いつつも、良いアイディアが思い浮かばないまま時が経過。
その中で、私共の教会の本棚にあった『対談百日のおさしづ』(飯降俊彦・平木一雄)という本が目に止まりました。

さまよい人
さまよい人

「百日のおさしづ」って時々聞くけど、どんな中身なのだろう 

と気になりました。
(お恥ずかしながら知らない私…汗)

と同時に、私のほかにも、天理教に関わりを持ちながらも、「百日のおさしづ」というものを知らない人って、結構いるのではないか、と思ったわけです。

そこで今回、私が、その飯降俊彦先生・平木一雄先生著『対談・百日のおさしづ』(道友社)という本を読んで、
「百日のおさしづ」とは何ぞや、ということを勉強してみることとしました。
そして、その学びを、ブログ記事としてアップすることにしたという次第。

私個人が、お恥ずかしながら教会長とは名ばかりの天理教初級者で、皆さまにお伝えできるほどのものを持ち合わせておりませんので、
調べながら、調べた結果を「初心者向け」という形でご披露したいと思います。

天理教に関心をお持ちの方には、きっと何かしら参考になることがあると思いますので、ぜひ最後まで読んでいってください。

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基本の用語説明

今回の記事は、天理教のことを、それほど詳しくはないけれどある程度は知っているという方(初心者)をイメージしながらまとめました。
なので、細かいお道の用語一つ一つまでは説明いたしません。

けれど、以下の用語については、この記事の土台ですので、その説明文を引用掲載しておきます。

「おさしづ」とは

「おさしづ」とは 

親神様じきじきの啓示の書である「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」を“三原典”といい、本教の教義はこれらに基づきます。

その中で、「おさしづ」は、教祖ならびに本席(ほんせき)様による口述の教えを筆録したものです。

親神様のほうから、その時々に応じて神意を述べられたものを「刻限のさしづ」、
人間の側からの伺うかがいに対して答えられたものを「伺いのさしづ」
といいます。

天理教HP(信仰している方へ)教え原典・教義書 より)

「おさしづ」とは、
個人や教会その他の、身上・事情の問題をはじめ、日常生活の中に起こる、いろいろな事柄について、親神様にお伺いしたことに対して、また、その時々に親神様から事細かに心構えや歩み方、身の処し方を指図して下されたお言葉を筆録したものです。

おふでさき』や『みかぐらうた』が神一条の信仰の根本、基準をお示し下されているのに対して、
『おさしづ』は、その時その場に応じて心の持ち方、身の処し方をお仕込み下さっているもので、神一条の信念に立って現実生活をどう行動するかという、応用問題に対する悟り方をお教え下さったものとも言えます。

『おふでさき』『みかぐらうた』とともに、天理教の三原典の一つ。

天理教婦人会HP>お道のことばおさしづ より)

「本席」とは

《本席の意味》

●別席に対して、「おさづけ」の理が渡される席を指す言葉。
●教祖(おやさま)が現身をかくされて後、存命の教祖の理を受けて「さづけ」を渡し「おさしづ」を与えられた「飯降伊蔵」を指して、本席という(おさしづM20・3・25)。

《飯降伊蔵と本席》

飯降伊蔵は、教祖御存命中から「仕事場」と呼ばれて、親神の指図を伝えていたが、
明治20年に教祖が現身を隠され、同年3月25日の、
「どうも今の処の仕事場と言うた事を消して、本席と定めて渡そうと思えども、このままでは残念々々。
さあ/\本席と承知が出けたか/\。」
という「おさしづ」で本席と定まり、さづけを渡すこととなった。

天理教研究所 HP>教理研究本席について より)

「百日のおさしづ」とは

「百日のおさしづ」とは何か調べて、以下のことが分かりました。(『天理教事典』参照)

「おさしづ」を出された飯降伊蔵(ご本席)様は、
明治40年(1907年)の6月9日(陰暦4月29日)に75歳でお出直し。

そのお出直しの3カ月前から、集中的に「おさしづ」が出された。

ご本席様お出直し直前の集中的な「おさしづ」の中で、
「十年掛かる話、百日で止(とど)めて了う」(おさしづ40.6.5)
との啓示あり。

これは、
明治40年3月13日からの話は、本来なら10年掛かって述べる話を(結果として6月9日までの約100日間で)集約して話すものだ、
という意味。

このことより、この期間の「おさしづ」を「百日のおさしづ」と通称している。

また、これが天理教の「おさしづ」として【最後の啓示】とされている。

「おさしづ」として最後の啓示?

 じゃあ、無茶苦茶大切なお言葉じゃないですか‼ 

ご本席様、お出直し前「100日間」のおさしづのことなのですね 

さまよい人
さまよい人

天理教信仰者の皆さま。
一教会の教会長に任命されておりながら “そんな初歩的なことも知らなかったのか” 

と責めないで…(汗)


だって、知らないものは知らないのですから…

(知ったかぶりをするよりいい、と自分に言い聞かせる…)

とても大切な「おさしづ」というのは分かりましたが、
それにしては、今の天理教の中で語られることは、あまりないような気がしますが…
(そう感じるのは私だけ?)

それはさておき、
飯降俊彦先生・平木一雄先生著『対談・百日のおさしづ』によれば、
「百日のおさしづ」の内容は、次の【3つの柱】が中心となっているそうです。

  • 【おさづけ後継】……「さづけ」を渡す後継者について
  • 【三軒三棟】……飯降家に関する「三軒三棟」のこと
  • 【神殿普請】……本部神殿建築について

今回は、飯降俊彦先生・平木一雄先生著『対談・百日のおさしづ』(道友社)という本を通して、
「百日のおさしづ」というものの解釈や意味には触れず(まだそこまで読み込めていない…汗)
その前段階の外形について、ごくごく簡単に紹介します。

「百日のおさしづ」の最初と最後

前述の通り、「百日のおさしづ」は、
明治40年3月13日~6月9日の約100日間にご本席様から出されたおさしづのことです。
明治40年3月13日~6月9日の約100日間に、上記3つの柱のお言葉があっただけではなくて、
それまで同様に、教会事情や身上伺いに関するおさしづも続けられており、
その数は150件余にものぼるとのことです。

その中でも、「百日のおさしづ」と通称されるお言葉は、
教会事情や身上伺い等の個別案件に関するおさしづを除いたもので、
『対談・百日のおさしづ』によれば、それは57回あるようです。

その「百日のおさしづ」の冒頭と終結のお言葉だけ紹介しておきます。

「百日のおさしづ」発端のお言葉

明治四十年三月十三日(陰暦正月二十九日)午前八時三十分
平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話

一万二千 足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。
これでは働けるか働けんか。さあしっかりせい。
教祖にこの道譲りて貰ろたのに、
難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない、言うて居た日あるのに、何と呆けている。
さあ/\ 今日はどういう話仕掛けるかも分からん。
さあ 皆用いるか/\。用いらねば 世界へどうして詫するか/\。これ知りて居るか。
年限数えてみよ/\。いつまでこんな事で通るか。
道は皆 継目あるで/\。継目知りて居るか/\。知らずに何と呆けて居る/\。
皆んな 取損いして居る/\。教祖という道 内から潰して居る。
世界の道で立ってあるか/\。学問で立つと思うか。
さあ/\ 世界の機械は何時なりとある。何時なりと買えるで。
神の機械あるか。あらしょまい。神の機械は、年限の理続くが 神の機械である。
これ 一時に聞き分けて 今日に返事して来い。
さあ 手の空いた者 席運べ/\。今の席 四席連れて来い。
さあ/\ 決まるもの決まりて来い/\。
早く こういう決まりして来た と言うて来い。

さまよい人
さまよい人

何と呆けている!

 というお言葉が強烈ですね 

「百日のおさしづ」最後のお言葉

明治四十年六月九日(陰暦四月二十九日)午前九時

昨日分支教会長普請の事につき会議を開き、
本席の御身上も普請の上から御苦しみ下さる事でありますから、
部下教会長一同わらじの紐を解かず一身を粉にしても働かさして頂き、
毎月少しずつでも集まりたるだけ本部へ納めさして頂く事に決め申しました、
と御返事申し上ぐ。

一寸一言/\、どういう事聞かすなら、これまで初まりから だん/\年限追うてある。
この道、皆思案してみよ。一寸も違わんで。十分の道 與えたる。
もう一仕切りの處 辛抱大抵/\。
それぞれの者 これでならと思う處、理治まったる。
二十年の間の事 思うてみよ。
今度 仮家普請と言うて、それだけのあたゑは 十分に与えたる。
こんな事は軽い事やで。
何も心の心配は一つも要らん。
心の理 治まったれば、案じる事要らん。
どうでもできるという事、これだけ 皆に聞かし置こう。
これでなけりゃいかん、これでなけにゃならん。
二十年の間 ほんの聞いただけにて、目に見ゆる事 無しに来た。
二十年の間 言うておいたる事 出て来たる。
道の者 皆 見て知って居るやろう。
これだけ一寸 知らし置こう/\。
皆々 惣々 思案無くばならん。皆々 力無くばならん。
この理 皆しっかり傳えて置こう。

教長より有り難う御座ります、と申し上げになる(しばらくして)

もう 十分の満足をして居る。席は満足をして居る/\。
又 今一時 席の身上の處 差し迫り、どうであろう こうであろうと、困難の中で 皆心を合わせ、もう一度 十年 何でも彼でもというは なか/\の精神。その精神というは、神の自由 受け取りたる精神。
何も皆、身上は成っても成らいでも 案じてくれる事要らん。
篤と心を鎮め。皆々 心勇んでくれ/\。

さまよい人
さまよい人

ご本席様最後のお言葉が

 「十分満足している」

 「皆々心勇んでくれ」

 というものだったというのは、印象深いですね 

「百日のおさしづ」の中身

「百日のおさしづ」の冒頭と終結のお言葉を見たところで、
では、全体のその中身はどうなっているのか、見ていきましょう。

飯降俊彦先生・平木一雄先生著『対談・百日のおさしづ』の本では、
「おさづけ後継」「三軒三棟」「神殿普請」の3つのテーマごとにおさしづを振り分けて説明してくださっています。

当記事では、「百日のおさしづ」の内容を、この本を通して勉強します。
この本に従って、「おさづけ後継」「三軒三棟」「神殿普請」の3つのテーマごとに見ていくことにします。

おさづけ後継の章

まずは、「おさづけ後継」について。

『対談・百日のおさしづ』本で、「百日(明治40年3月13日~6月9日)のおさしづ」中、
「おさづけ後継」に分類されているおさしづは、次の通りです。

  • 明治40年3月13日 AM8時30分/同日 PM8時頃
  • 明治40年3月22日   
  • 明治40年4月2日 AM1時半/同日 AM8時   
  • 明治40年4月3日 AM2時過   
  • 明治40年4月4日 PM11時40分   
  • 明治40年6月5日 AM1時半/同日 AM8時半/同日 PM10時20分   
  • 明治40年6月6日 AM4時半/同日 PM10時

「おさづけ後継」についての「おさしづ」内容

『天理教事典』には、以下のように記載されています。

おさづけの取次者については、飯降伊蔵亡き後、誰がなるか決定していなかった。

6月6日午前4時半の「おさしづ」で、上田ナライトを「さづけ」を渡す後継者(「つなぎ」「継目」と言われている)に指名され、
そのさづけは、「あしきはらいのさづけ」であるとのさしづであった。

上田ナライトは、この後12年間この役目をつとめ、大正7年7月11日より中山たまへがこれを受け継いだ。

『天理教事典』P,711より
さまよい人
さまよい人

「百日のおさしづ」では、

ご本席様の後「おさづけ」を渡す後継者として上田ナライト様を定めることを

皆に得心させようとされたのですね 

『対談・百日のおさしづ』本に「おさづけお運び」の流れが載っていましたので、紹介します。

  • 明治20年3月25日 飯降伊蔵、本席となる
  • 明治40年6月6日 上田ナライト
  • 大正7年7月11日 中山たまへ
  • 昭和13年7月26日 中山正善
  • 昭和42年11月26日 中山善衞

※すみません、今の真柱様(中山善司様)のお運びがいつからなのか、現時点で調べきれておりません。分かり次第記載します

「百日のおさしづ」という最後の大事な大事なおさしづのテーマの一つが、
誰が「おさづけの取次者」になるかということだったということ。
これは重いですよね。

今回この記事を作成する中で、
「おさづけの取次者」の変遷にはいろいろな歴史があるという情報に、断片的に触れました。
いろいろな面でデリケートな内容が含まれているようですので、ここではこれ以上触れません。

いずれしても、
この道にとって「おさづけ」は本当に重要なものであるということを、改めて教えられるような気がします。

三軒三棟の章

次に、「三軒三棟」について。

『対談・百日のおさしづ』本で、「百日(明治40年3月13日~6月9日)のおさしづ」中、
「三軒三棟」に分類されているおさしづは、次の通りです。

  • 明治40年4月8日 AM6時/同日 AM8時半/同日   
  • 明治40年4月9日 AM1時/同日 AM3時/同日 PM時9時半   
  • 明治40年4月10日 AM1時/同日 PM5時半/同日 PM時8時半   
  • 明治40年4月12日 AM7時頃   
  • 明治40年6月6日 AM4時半

「三軒三棟」についての「おさしづ」内容

『天理教事典』には、以下のように記載されています。

三軒三棟については、
飯降伊蔵本席の3人の子弟、(永尾)よしえ、飯降まさゑ、政甚の3軒のうち、
まさゑに後継者がないので、1軒が立っていない、
という点について、神意のあるところを示されたものである。

『天理教事典』P,711より
さまよい人
さまよい人

ご本席、飯降伊蔵様の次女まさゑ様の身の振り方を中心に、

飯降伊蔵様子弟の3軒の家に関するおさしづですね

この「三軒三棟」については、
今回の「百日のおさしづ」勉強の中で、
正直なところ、私にとって一番分かりにくい項目でした。

今回の記事をまとめるに至っても、
ご本席様の最後の「おさしづ」の中で「三軒三棟」として伝えようとなさっておられる神様の思召の中身を、まだつかめていない、勉強不足、
というのが実際のところです。

『対談・百日のおさしづ』本の中では、次のように書かれてありました。

平木 次に三軒三棟、つまり飯降家三人のことですが。

飯降 明治十五年から飯降家が親子もろとも、お屋敷に伏せ込んだということを形にあらわされたのが、三軒三棟になるわけです。
その中で二女まさゑが独身で子供がなかったので、「西に一人余分ある」とおっしゃった。
西というのは、本席の家からちょうど西にあたる永尾家のことです。
永尾よしゑの二女で十六歳になる「きぬゑ」を「まさゑ」の跡継ぎにということになったのです。道は末代ですからね。
広義に解釈すれば、一般の親子、兄弟姉妹が仲良く暮らす道を諭されていると言えましょう。

平木 これは、飯降家三軒のみの問題ではなく、親神様の思惑で、例えば教会に寄せられた人、住み込んだ役員、こうした人々に対する考え方を示されていると悟らせていただけますね。

飯降俊彦先生・平木一雄先生著『対談・百日のおさしづ』(道友社)P,13

参考までに、『対談・百日のおさしづ』に掲載されている、「飯降家と三軒三棟の年譜」を掲載しておきます。

【飯降家と三軒三棟の年譜】

  • 明治14年9月  ……おさと、まさゑ、政甚、櫟本からおやしきへ移り住む
  • 明治15年3月26日……伊蔵、まさゑ、おやしきへ(16年以降、中南の門屋に住む)
  • 明治20年3月25日……伊蔵、本席となる
  • 明治21年4月18日……よしゑ、上田楢治郎(ナライトの弟)と結婚、永尾家創設
  • 明治22年5月中旬……本席宅完成(のちの永尾宅)
  • 明治26年3月18日……おさと出直し(60歳)
  • 明治26年12月  ……本席の御用場兼住居完成(飯降本家)  
  • 明治28年7月29日……政甚、宮川小梅と結婚
  • 明治32年11月  ……飯降政甚宅完成(のちの飯降まさゑ宅=分家)

―――これで三軒三棟がそろう―――

(飯降俊彦先生・平木一雄先生著『対談・百日のおさしづ』(道友社)P,120より)

神殿普請の章

最後に、ご本部「神殿普請」について。

『対談・百日のおさしづ』本で、「百日(明治40年3月13日~6月9日)のおさしづ」中、
本部「神殿普請」に分類されているおさしづは、次の通りです。

  • 明治40年3月13日 PM8時頃/同日 AM3時/同日 PM時9時半
  • 明治40年3月22日
  • 明治40年4月5日
  • 明治40年4月7日 PM9時30分
  • 明治40年4月13日 AM6時半
  • 明治40年4月14日 AM9時半/同日 PM時8時半
  • 明治40年4月15日 AM2時
  • 明治40年5月8日 AM1時/同日 AM2時/同日 PM時12時過ぎ
  • 明治40年5月9日 AM5時半
  • 明治40年5月13日 AM2時
  • 明治40年5月17日 AM3時半
  • 明治40年5月20日 AM3時20分
  • 明治40年5月21日 AM2時半
  • 明治40年5月30日 正午12時半/同日 PM3時/同日 PM時10時/同日 PM時12時半
  • 明治40年5月31日 AM6時
  • 明治40年6月3日 AM9時
  • 明治40年6月7日 AM2時/同日 AM9時
  • 明治40年6月9日 AM9時

「神殿普請」についての「おさしづ」内容

『天理教事典』には、以下のように記載されています。

本部神殿建築については、
明治39年教祖20年祭を勤めた後に、来たる9年後の教祖30年祭を迎えるにあたり、
心を結集して事に当たるよう神意を示されている。

「三箇年の模様、五箇年の普請」(おさしづ40.5.8)
すなわち、この普請に当たり3年間準備にかかり、
5年かけて建築をするように、との「おさしづ」であった。

この神殿普請の提唱により、教団としては懸命な努力が続けられ、
大正2年(1913)12月 本部神殿(現在の北礼拝殿)、
大正3年4月には 教祖殿の完成をみるに至った。(大正普請)

『天理教事典』P,711より
さまよい人
さまよい人

ご本席様お出直し前の最期のお言葉の一つが、

神殿普請をしてほしい、というものだったのですね 

「百日のおさしづ」は、「一万二千足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。」というご叱責から始まるわけですが、
そういう経済的に苦しい状況の中であえて普請を打ち出しておられる、
というところが「百日のおさしづ」の厳しさであり、深い思案のしどころのような気がします。

当時の先生方とすれば、
正直「そんな無茶な…」という気持ちもあったかと思うのですが、
そういう困難を乗り越えて、最終的に、
「部下教会長一同 わらじの紐を解かず一身を粉にしても働かさして頂きます…」
という心を定めるに至ることができたからこそ、その後のお道の爆発的な伸展につながったのでありましょう。

ご本席様がお出直しになる直前、神様は、なぜそこまでしてご本部の神殿普請を急き込まれたのか。

『対談・百日のおさしづ』の本の中でもいろいろご教示下さっていますが、長くなりますし、その内容についてここでは紹介しません。
お互いそれぞれが、各自で「おさしづ」原文を読んだり、本書を読んだりして、思案させていただきたいものと思います。

まとめ

  • 天理教の「おさしづ」とは、
    個人や教会その他の、身上・事情の問題をはじめ、日常生活の中に起こる様々な事柄を親神様にお伺いしたことに対する応答として、
    また、その時々に親神様から直々に事細かな心構えや歩み方、身の処し方等を指図するものとして、
    本席、飯降伊蔵先生に神様が入り込んで発せられたお言葉を筆録したもので、
    『おふでさき』『みかぐらうた』とともに天理教三原典の一つ。

  • 天理教において「百日のおさしづ」と通称されているのは、
    「おさしづ」取次の飯降伊蔵(ご本席)様が出直される3ヶ月前からお出直し直前までの百日間に、
    集中的に出された刻限話を中心とした「おさしづ」のこと。

  • ご本席様は、明治40年(1907年)6月9日(陰暦4月29日)に、75歳で出直された。

  • ご本席様お出直し直前の集中的な「おさしづ」の中で、
    「十年掛かる話、百日で止(とど)めて了う」(おさしづM40.6.5)
    というお言葉が終盤(6月5日)に出ている。

  • これは、明治40年3月13日より6月9日にわたる約百日間に、
    本来なら10年掛かって述べる話を集約して話しておくという意味で、
    このことより、この期間の「おさしづ」を「百日のおさしづ」と通称している。

  • 「百日のおさしづ」の内容は、
    【おさづけ後継】……「さづけ」を渡す後継者について
    【三軒三棟】……飯降家に関する「三軒三棟」のこと
    【神殿普請】……本部神殿建築について
    以上、【3つの柱】が中心となっている。

  • 【おさづけ後継】……「さづけ」を渡す後継者についての「おさしづ」
    飯降伊蔵出直し後、誰がなるか決定していなかった「おさづけの取次者」として、
    上田ナライトを「さづけ」を渡す後継者に指名された。
    そして、そのさづけは「あしきはらいのさづけ」であると指図された。

  • 【三軒三棟】……飯降家に関する「三軒三棟」のことについての「おさしづ」
    飯降伊蔵ご本席様の3人の子弟、(永尾)よしゑ、飯降まさゑ、政甚の3軒のうち、
    まさゑに後継者がなく1軒が立っていない点を問題とされ、それが早く立つよう促された。
    そして、おやしきを支えるその飯降家「三軒三棟」が一つの心になって仲良く暮らすよう指図された。

  • 【神殿普請】……本部神殿建築についてについての「おさしづ」
    明治39年、教祖20年祭を勤めた後に、
    来たる9年後の教祖30年祭に向けて、心を結集して事に当たるように、との神意を示された。
    「三箇年の模様、五箇年の普請」(おさしづ40.5・8)というお言葉を出され、
    この普請に当たっては、準備に3年間かけて、建築には5年かけて行うように、
    と具体的な年限までも示して指図された。

以上、簡単に、天理教の「百日のおさしづ」というものを紹介しました。

ご本席様(飯降伊蔵様)がお出直しになる直前の百日間に発せられた「おさしづ」ということですから、
天理教にご縁を頂いた者は、みな、本当に大事にしなければならない「おさしづ」だと思います。

今回は、「百日のおさしづ」に対する解釈や悟りといった部分にまでは踏み込まず、
本当にごくごく初歩的な外側の形だけ、飯降俊彦先生・平木一雄先生著『対談・百日のおさしづ』(道友社)を土台として、
簡単に紹介させて頂きました。

皆さまにおかれましては、今回の記事をきっかけとして、
「百日のおさしづ」の中身や内容の部分にも踏み込んでいき、それぞれに解釈や悟りを深めて、
ぜひとも、これからの信仰生活の上に活かして頂きますようお願い申し上げます。

私は、お恥ずかしながら「百日のおさしづ」原文を、今回初めて通読しました。

拝読してみて感じたのは、
ご本席様の身上が危ない、という切迫感、そして、
早く「さづけ」を渡す後継者を決めないといけない、
飯降家3人の子弟の後顧の憂いを無くしておかなければならない、
お道の伸展のためにも後々の雛形になるような神殿建築の道筋をつけておかねばならない、
という神様の切羽詰まった思いでした。

「百日のおさしづ」は、今から115年前、ご本席様お隠れの明治40年のお言葉でありますが、
決してその当時だけのことではなく、現代にもつながっているお言葉だ、と思いました。
とても勉強になりました。

皆さまはいかがでしたか?
まだ「百日のおさしづ」を拝読したことがない方には、ぜひ一度拝読してみることをお勧めします。

それにしても、私、彷徨う新米教会長は、
小さいとはいえ一つの天理教分教会長に任命されておりながら、天理教について知らないことだらけで、本当に恥ずかしいばかりです。

これからも、もっと天理教について勉強していかねば…と思っております。

ではでは、今回はこのへんで。

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