新米教会長が感じる「コロナ禍」で良かったこと3つ

Boys sitting on bench 天理教

皆さん、こんにちは。「さまよい人」です。

まだまだ油断禁物ですが、世界を混乱の渦に巻き込んだ新型コロナワクチン感染症も、このところかなり縮小傾向の様子。感染者が減ってコロナ感染症罹患のリスクが減少するというのは、誠にありがたいことです。

それにしても、このたびのコロナ禍。本当に世界史に特筆される大きな節だと言えるでありましょう。

社会活動が大きく制限されて、世の中全体に大きな覆いが被せられたような息苦しい日々が続きました。

実に多くの諸行儀が中止となり、まるで世の中全体の動きが止まってしまったかのような停滞感さえ感じられた時もありました。

暗いニュースが続いて、心も曇りがち。

しかし、そういう暗い世相の時こそ、明るい面に目を向けたいものです。心のたすかりを説く道にご縁を与えて頂いた者なら尚のこと。

ということで、今回は、辛い苦しい「コロナ禍」だけれども、その中であえて『良かったこと』はないだろうか、と思案してみることにしました。

意識啓発系でよく言われるところの、2分の1水が入ったコップの、なくなった方ではなく残った水の方に意識を向ける、というやつですね。

今のところ、3つ思い浮かびましたので、それを以下記述していくことにします。この先、もっと思いついたら書き足していきたいと思っています。

スポンサーリンク

行事に追いまくられることがなくなった

今、私がコロナ禍で良かったと感じる最大のこと。

それは何と言っても、「行事に追いまくられる」ことがなくなった。これに尽きるのではないでしょうか。

おそらく、このことに共感して頂ける教内の人は多いと思います。

言い換えれば、コロナ前は、それほどにいろんな行事が乱立していたと言えるかもしれません。

本部、大教会、上級教会、教区、支部…、様々なレベルの教内コミュニティで、〇〇日、〇〇デー、〇〇会、〇〇団参、当番……等々、それぞれに実に多くの行事があり、コロナ前、天理教文化圏に所属する人々はそれに追われる日々を送っていたように思われるのです。

(私が、喜び心をもって勇んでそれに参加していなかったからそう思うのかもしれませんが…)

様々な教内コミュニティが定めた諸行事をこなすことに忙しく、知らず知らずの内に、天理教文化圏住人は「組織内行事をこなしていくこと=天理教を信仰すること」 と勘違いしてしまっていた面もあるのではないか? …などと、世上働き(この言葉死語?)しながら天理教教会に関わっている「ユルイ」天理教文化圏住人の私「さまよい人」は思ったりするのであります。

コロナ禍で、これまで行事に追いまくられていた天理教教会組織が主催する多くの行事が中止になりました。

楽しみにしておられた方や、それらの行事に救いを受けていた多くの方が残念な思いをしたり、かけがえのない機会を失ってしまったことでありましょう。

そうした諸行事に全力を注いでおられた誠真実の方々のことを思うと胸が痛むし、間違いなく、それはとても悲しく残念なことです。

しかし、その反面。

(大きな声では言えないけれど…) 実は、「助かった」と思っている人も少なからず居るのではないかしらん、と私は思ったりするのです。

多くの行事がなくなったから信仰できない、というのでは本末転倒でしょう。

何も行事がなくても、何気ない普段の生活=日常生活の中で、自分自身の心を見つめ直し歩み方を振り返る、より正しき道を求め実践していこうとする、という「お道の人」らしい通り方こそが本当に大切なことなのではないだろうか…

このたびのコロナ禍による諸行事の中止によって、そのようなことに思いを致す機会を与えてもらえたのではないでしょうか。

私は、そのことが、コロナ禍で良かったことの一つに挙げられると思っています。

「長いものに巻かれる」思考を抜け出すきっかけを与えてもらえた

次に、今私がコロナ禍で良かったと感じること。

それは、「(組織の)上に言われることをやっていればいい」という他者依存の考え方だけではこの先はダメなんだ、ということを考え始める契機を与えてもらったことです。

前述の、諸行事が中止になったこととも関連しますが、これまでは、ただ上から言われたことを素直に実践することが「良い」ことだと考えられていた面があるように感じられます。

しかし、このたびのコロナ禍で上から言われることが少なくなってくると、自然と、各個人個人が自分の頭で考えなければならないことが増えました。

コロナ禍によって社会全体が「集団から個人へ」という方向へ流れているということが、世のあちこちでささやかれていますが、それは、きっと『神様の思い』だと私は思うのです。この天理教教会も例外ではないはずです。

これまで、自分の考えは後回しにして親の考えを最優先に…というのが天理教の価値観でした。

それが完全に崩れたとは言いませんが、コロナの影響で、コロナ前は自分の頭で考えること少なく上に言われたことをこなすところ迄で思考が止まっていた人々に、一人ひとり自分の頭で考える機会が、これまで以上に多く与えられるようになったと私は感じます。

こうした社会現象は、長いものに巻かれていれば事足りていたこれまでの歩み方ではこの先行き詰まるよ、ということを神様が教えられているのではないかなぁ…と私は思ったりもします。

ということで、コロナ禍で良かったと私が思うことの二つ目。

それは、「長いものに巻かれる」思考を抜け出すきっかけを与えてもらえた、ということです。

系統を越えた教内へ視野を広げることができた

今の私がコロナ禍で良かったと感じること3つ目。

それは、今までより、系統を越えた教内へ視野を広げることができるようになった、ということです。

コロナ前でも、教区や支部の集まりや行事を通して、系統にこだわらない交流はありました。

とは言うものの、天理教教会の活動の中心は、やはり「本部ー大教会ー上級…」という縦の『系列』による繋がりだったと思います。

そのような状態であったのが、これも冒頭に述べた諸行事が中止になったことと関連しますが、コロナ感染対策でリアルな会合が減りインターネット等IT技術のお世話になる機会が増えました。その結果、YouTubeやTwitter等々にUpされる情報が大量に流れてきて、コロナ前に比べると、「系統の枠」を越えてお道の話や情報に触れる機会が、大幅に増えたのではないでしょうか。

前述の表現をこのケースに当てはめて表現するならば、「こうした社会現象は、系統にこだわった歩み方ではこの先行き詰まるよ、ということを神様が教えられているのではないかなぁ…と私は思ったりする。」 そのような言い方が出来るかもしれません。

それはもちろん、親と子という系統をないがしろにしていい等と言うつもりは毛頭なく、それはそれで尊重しつつも、これからの時代は、今まで以上に「系統の枠」へのこだわりを捨てて、道を求める同士としての交流を深めることが求められているのではないだろうか、そのようなことを思ったりします。

ということで、コロナ禍で良かったと私が思うことの三つ目。

それは、系統を越えた教内へ視野を広げることができた、ということです。

禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし)

コロナ禍でネガティブな面ばかりに目が行きがちな状況でしたので、今回は、ちょっと「ポジティブ」な面を探してみました。

読み返してみると、若干「無理矢理感」無きにしも非ず(笑)ですが、いずれにしても、
「禍福は糾える縄の如し」。(……わざわいが福になり、福がわざわいのもとになったりして、この世の幸不幸はなわをより合わせたように表裏をなすものであるの意。【出典:精選版 日本国語大辞典】)

悪いことがあれば必ず良いこともあると言われます。

良いところを見つけて、このたびの苦難を乗り越えていきたいものだと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

コメント

タイトルとURLをコピーしました