皆さんこんにちは。 さまよい人です。
早いもので、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災から27年経ちました。
毎年この時期になると、テレビから流れてくる信じられないような大災害の光景に目を疑い言葉を失った、当時の衝撃を思い出します。
その後も、台風による水害や東日本大震災等々大規模な災害や天変地異は後を絶ちません。
が、そのような社会的に大きなダメージを受ける状況下にあっても、常に、人知れず驚きの大奮闘をしている組織があります。
それが、「天理教災害救援ひのきしん隊」です。
私は、縁あって小さな小さな天理教分教会を担当することになった者です。
私の親がその小さな天理教の教会長をしていた関係で、子供の頃から天理教に深いご縁があり、天理教についてのニュースが知らぬ間に耳に入ってくるような環境で生活してきました。
なので、大きな災害が起きるたびに、「天理教災害救援ひのきしん隊」が活躍するというニュースに触れてきました。
私自身は「天理教災害救援ひのきしん隊」に隊員として参加したことがありませんので、実際には部外者と同じです。
が、それでも、天理教にご縁を頂いた者として、「天理教災害救援ひのきしん隊」が活躍するというニュースを耳にするたびに、何かしら誇らしい気持ちがしたものでした。
それと同時に、救援活動に当たって下さっている道の先人たち、また今も活躍して下さっている多くの方々の誠真実に、深い感謝を捧げつつ、首を垂れてその活動を見守らせて頂いているのであります。
今回は、平成7年に起きた阪神・淡路大震災を思い出させる時期を迎えた今の時節柄をとらえて、「 天理教災害救援ひのきしん隊」を紹介させて頂きたいと思います。
「天理教災害救援ひのきしん隊」についてネット検索。
すると、それは金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』(道友社)という本にまとめられている、とありました。
なので、その本を探し出して(教会にありました)、それを元にまとめさせて頂くことにしました。
「天理教災害救援ひのきしん隊」に興味を持たれた方、ぜひ、本書を手に取って読んでみてください。
この本すべてを紹介すると冗長になりそうです。
なので、おそらく皆さまが一番知りたいであろう「天理教災害救援ひのきしん隊」はどういう経緯で出来たのかという部分、すなわち「天理教災害救援ひのきしん隊」の成り立ちのところまでを、『駆けつける信仰者たち』という本の中から紹介させて頂くこととします。
ぜひ最後まで読んでいってください。
「天理教災害救援ひのきしん隊」とは
「天理教災害救援ひのきしん隊」の成り立ちをご紹介する前に、「天理教災害救援ひのきしん隊」とは何なのかについて確認しておきます。
天理教公式ホームページの中に、「天理教災害救援ひのきしん隊」についての説明があります。
天理教災害救援ひのきしん隊(略称:災救隊)は、昭和46年(1971年)に発足した全国規模の災害救援組織です。
災救隊は、定期的に訓練を重ねており、“有事”の際には迅速に被災地へ駆けつける体制を整えています。
災害発生時には自治体などと連携しながら、被災地に迷惑をかけない“自己完結型”の救援活動を展開しています。
自己完結型の全国規模の災害救援組織ということですね。
マスコミで報道されることがないのであまり知られていませんが、知る人ぞ知る、日本有数の災害救援組織です。
ちなみに、「ひのきしん」って何?
という方のために、天理教婦人会による「ひのきしん」の説明を紹介しておきます。
ひのきしんとは、
天理教婦人会 HP 「ひのきしん」 より
物やお金に恵まれた人が、財産をお供えするというような「寄進」とは違い、どんな人でも日々の生活の中で実行できる親神様への日々の寄進を言います。
日々元気に何不自由なく体を使わせて頂ける喜び。
今日一日無事に結構に過ごさせて頂いた喜び。
親神様に生かされているありがたさ。
その喜びと感謝の心から生まれる行動は、どんなことも全部「ひのきしん」です。
そこに込められている心が大切なのです。
それでは、「天理教災害救援ひのきしん隊」の成り立ちを見ていきましょう。
「天理教災害救援ひのきしん隊」成立の歴史
天理教災害救援活動の嚆矢
明治24年(1891) 10月28日 濃尾地震
天理教の災害救援活動は、明治24年の濃尾地震に対する復旧支援を嚆矢とするそうです。
明治24年(1891)ですから、天理教の災害救援活動は、今から約130年も前に始まった非常に長い歴史のある活動だということですね。
濃尾地震は、M8.0の大地震で死者が7200人余。全壊家屋14万2千戸。
壮絶な被害をもたらした大災害だったようです。
『駆けつける信仰者たち』には以下のように記載されています。
明治24年10月28日、濃尾地震。M8.0の大地震。死者が7200人余、全壊家屋14万2千戸。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,274
おさしづを受けて慰問使が派遣される。
本部から義援金(85万円)。
12月、南海支教会から名古屋訪問にひのきしん隊が出動。岐阜まで足を延ばす者も。
明治24年は教祖五年祭の年でした。
年祭活動盛り上がりの勢いをもって、おたすけ精神で救済活動に当たられたのでありましょう。
『駆けつける信仰者たち』によれば、南海大教会の山田作治郎初代会長が組織的な救援活動を行って復旧活動にいそしんだとのことです。
南海大教会による組織的な活動が、今の「天理教災害救援ひのきしん隊」の先駆けだったのですね。
また、ここを道あけとして岐美大教会が生まれたのだそうです。東愛大教会の道のかかりにもなったとのことです。
「天理教災害救援ひのきしん隊」前史 明治から昭和初期まで
明治30年(1897)前後から、全教挙げて災害救援に取り組もうとする機運が徐々に高まりを見せていたそうです。
明治29年(1894) 三陸大津波(明治三陸地震)
三陸沖地震(明治三陸地震)(M8.5)による大津波が東北地方を襲った際の災害救援について、『駆けつける信仰者たち』には、以下のように記載されています。
明治29年6月15日(濃尾地震の5年後)、三陸大津波(明治三陸地震)。M8.5の地震による。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,274
死者・行方不明者2万6千人余、全半壊1万戸。
7月2日、本部では義援金を募集。『道の友』に10ヶ月にわたり金額が報告される。
総額4千849円2銭3厘、衣類雑品合計3千211点。
天理教としての三陸大津波への災害救援は、経済面からの支援が中心だったようです。
明治29年は内務省秘密訓令が発令された年ですから、濃尾地震の時のような「人」の支援は難しかったのかもしれませんね。
明治43年(1910) 東京豪雨水害
明治43年(1910)8月中旬、東日本では数日間にわたって豪雨が続き、隅田川の堤防が破れ、下町一帯から近郊の区域にかけて一面は泥の海と化し、東京が120年ぶりといわれる大洪水に見舞われたそうです。
『駆けつける信仰者たち』には以下のように記載されています。
明治43年8月、東京豪雨水害。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,273
東海・関東・東北地方で死者・行方不明1359人、浸水家屋は51万8千戸以上。
天理教東京出張所は救護所を設置し、炊き出し場所を日本橋大教会に置いて、にぎり飯千人分(米一石)を2艘の船で配布。
東本分教会では3百人の被災者を保護。
教会本部から13府県に義援金合計1400円を送る。
以後も、続々と義援金が寄せられる。
各教務支庁や教会では救援活動が展開された。
『駆けつける信仰者たち』によれば、この東京豪雨水害をきっかけとして、東京教務支庁を中心に、教会系統を超えた横のつながりが結ばれて、首都在住の天理教教友たちが布教やたすけ合いに団結して当たるようになったそうです。
東京教区によるたすけ合いの活動は、関東地区だけにとどまらず、教勢の拡張に伴い広く全国各地へ向けられるまでに成長していったとのこと。
そしてそのおよそ10年後に、その東京が関東大震災に襲われます。
大正12年(1923) 関東大震災
大正12年(1923)9月1日正午前、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の関東大震災が発生。
死者・行方不明者は14万2千8百人を超え、家屋の全半壊が25万4千5百戸近く、消失家屋は44万7千戸を数えたそうです。
交通、通信、電気、ガス、水道などのあらゆる公共交通機関の損害も甚大で、関東大震災は、我が国の地震観測史上、最大の激甚災害であると同時に、首都を突然襲った大災害であったことから、政治や経済、社会に対する影響にも計り知れないものがあったとのことです。
『駆けつける信仰者たち』には以下のように記載されています。
大正12年9月1日、関東大震災。M7.9。死者・行方不明14万3千人、家屋全半壊25万4千5百戸、建物消失44万7千戸。東京・横浜は壊滅状態に。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,271~272
9月3日、『諭達第14号』の発布に基づき、天理教臨時震災救済本部を設置。被災地へただちに6万円の義援金を送り、全教に50万円の救恤金を募集。各地から衣類の提出、ひのきしん活動続く。
東京教務支庁では、震災当日より被災者を収容(10月20日までの延べ収容人数は、2万2360人)。
9月5、6の両日、にぎり飯を日比谷、上野方面などの被災者に配布。
9月11日から浅草橋、須田町でも麦湯接待。1カ所につき1日1万人。また慰問隊を編成し、九段、日比谷、宮城前、吉原、岩崎公園などを回る。
9月11日には、被服厰跡地など5ヵ所での慰霊祭のため弔祭使を派遣。横浜でも8ヵ所に弔祭使派遣。
9月21~10月20日、接待風呂を日本橋大教会焼跡で行う(利用者は延べ1万8千人)。
また教内でも被災教会・信者の調査を実施。衣類・食料の分配に努める。
山名大教会では、数百人の避難者を収容。
神戸在住の教会では、協力して神戸港突堤にテントを張り、救護所を設置。
海路で来た避難民に医療・食事を給する。
罹災者(児)のための慰安会、活動写真会を催す所も。
私たちの道の先達は、未曾有の大災害に遭遇しながらもそこで潰れてしまうことなく、そのような中も、おたすけという「信仰」を基盤とした、壮絶な災害救援活動を繰り広げていたのですね。
この時点ではまだ天理教災害救援ひのきしん隊という組織こそ誕生していませんが、現実の活動は、今の「天理教災害救援ひのきしん隊」そのものと言って過言ではないように思われます。
また、そうした活動の精神は、確実に今の「天理教災害救援ひのきしん隊」に受け継がれていると思います。
関東大震災における天理教災害救援ひのきしんは、結果として、より迅速で組織的な活動となる機運を高めることにつながったそうです。
その後、大きな災害が発生するたびに、直ちに天理教内に救援本部が設けられ、臨時のひのきしん実動隊が派遣されるようになっていったとのこと。
着実に「天理教災害救援ひのきしん隊」組織化への歩みが進んでいきます。
続いて、関東大震災後の十年間に発生した3件の地震と天理教の取り組みを、『駆けつける信仰者たち』から紹介していきます。
大正14年(1925) 北但馬地震
大正14年(1925)5月23日、北但馬地震。M6.8。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,271
死者428人、家屋全壊1千295戸、全焼2千180戸。
豊岡町の3ヵ所で接待風呂を開設。
2日間にわたり、天理外国語学校生60人が救援ひのきしん。
昭和2年(1927) 北丹後地震
昭和2年(1927)3月7日、北丹後地震。M7.3。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,271
死者2千925人、家屋全半壊2万3千470戸、全焼8千287戸。
京都教務支庁管内で救援活動。接待風呂や無料散髪も。
義援金として管長名義で1千円。また本教でも義援金を募集する。
昭和8年(1933) 三陸沖地震(昭和三陸地震)
昭和8年(1933)3月2日、三陸沖地震(昭和三陸地震)。M8.1の地震と大津波。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,270
死者・行方不明者3千64人、倒壊・家屋流失5千800戸以上。
3月5日、東京教務支庁に救援事務所を設置し、中山正善2代真柱自ら指揮を執る。
3月7日、救援事務所は衣類・毛布などを貨車2台で現地へ送る。
福島教務支庁の指揮で、多くの信者が被災地での後片付け、道路の修繕などを行う。
三陸沖は、大地震を繰り返しています。
明治29年(1894)明治三陸地震
→【39年後】昭和8年(1933)昭和三陸地震
→【78年後】平成23年(2011)平成三陸地震(東日本大震災)
被災地では、現地の大勢の教信者が“ひのきしん衣”としてハッピを着用し、倒壊家屋の後片付けなどに取り組んだそうです。
災害が起こるやすぐさま駆けつけるという天理教の姿勢は、着実に実績を積み重ねながら次第に発展・定着。
一般の人々からもその活動が期待されるまでに成長していったようです。
昭和9年(1934) 室戸台風
昭和9年(1934)9月21日早朝、四国の室戸岬に上陸した超大型台風は、翌22日にかけて日本列島を駆け抜け、全国各地に大きなつめ跡を残したそうです。
台風は、近畿地方を縦断したため、天理教教会本部、おぢばでも一部の信徒詰所や建物等に被害が出たとのことです。
天理教教会本部のある近畿地方に甚大な被害がもたらされたこともあり、天理教としての動きは極めて迅速であったことが記録されています。
台風が通過した22日の午前中には大阪教区が炊き出しの準備に取り掛かり、同日夜には被災地へ向けてにぎり飯を満載したトラックが教務支庁を出発したとのことです。
そして、被災後6日間のひのきしん出動延べ人数は約2万人余りを数え、本教の災害救援ひのきしん活動としては、空前の規模にまで膨れ上がったそうです。
『駆けつける信仰者たち』には以下のように記載されています。
昭和9年(1934)9月21日、室戸台風。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,270
死者・行方不明者3千36人、家屋の全半壊、流失、浸水は約50万戸。慰問使を派遣。
9月22日より救援活動開始。
9月27日からは、大阪支庁がひのきしん隊を動員。
また天理外国語学校、青年会、婦人会、教校よのもと会も参加。
6日間で延べ2万人。
災害時における“ひのきしん隊”という呼称は、この頃から『天理時報』などでしばしば見られるようになり、その一手一つの統制ある活動に、教内外が注目するようになってきたとのこと。
戦前の天理教災害救援活動を見ていますが、残念ながら昭和10年代後半の記録はあまり残っていないそうです。
終戦前にも自然災害は多く発生しているにもかかわらず、戦時体制が強くなり報道管制が敷かれていたためです。
ここまでは、主に戦前の災害救援活動を見てきました。
次からは、戦後の災害救援活動を見ていきます。
終戦後~「天理教災害救援ひのきしん隊」発足まで
昭和20年の終戦に伴い、様々な面で日本という国の形が変化しました。
災害への救援に対する法律も、それまで被災者の救援基金を定めただけの「罹災救助基金法」しかなかったのが、昭和22年(1947)に「災害救助法」が制定され、都道府県知事が責任をもって被災者の保護と社会秩序の保全を図ることと定められました。
国家が災害救援に本腰を入れる体制を整え始めたわけです。
天理教の方でも、災害が発生するたびに“ひのきしん隊”が出動し、実績を積み重ねていきます。
そして、それに伴い、天理教による災害救援活動の組織化の動きも、着実に進行していったのでした。
昭和23年(1948) 福井地震
昭和23年6月28日午後5時すぎ、福井平野を震源とするM7.1の直下型地震が発生。福井市では震度6、大阪や名古屋や富山でも震度4を記録。
福井市内の北之莊分教会に「北陸震災天理教救援隊本部」を設置し、そこを拠点にして、全国各地から集まった教友による“ひのきしん隊”が誠真実をもって災害救援活動にあたったとのことです。
『駆けつける信仰者たち』には以下のように記載されています。
昭和23年(1948)6月28日、福井地震。M7.1。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,268~269
死者3千769人。家屋全半壊4万8千戸近く。
福井市では全市の約4割が消失。
6月29日に慰問使を派遣。
7月6日以降、教会本部および11教区から、ひのきしん隊が出動。「北陸震災天理教救援隊本部」を拠点に各教区のひのきしん隊が活動。出動延べ人数は3千758人。
7月13~30日、市内で「無料天理教ひのきしん風呂」を提供。入浴者は延べ2万5千168人に上った。
各教区からのお義援金、多数あり。
福井地震の際の天理教の災害救援活動は、組織化の動きを大きく前進させるものとなったようです。
福井地震における救援活動や各教区での義援金や援助物資の募集、発送が一通り終わった後、この経験を生かして教務支庁内の教務部教区課で、災害救援活動のの拡充・強化をはかることとなったそうです。
具体的には、関東、中部、四国・中国といったブロック単位での協力態勢を練ることとし、自然災害の際の具体的な検討に入ったとのことです。
この頃から、「教区単位」での災害救援活動が定着したようです。
主な災害救援活動を見てみましょう。
昭和25年(1950) ジェーン台風
昭和25年(1950)9月3、4日、ジェーン台風。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,268
近畿・四国・北日本、特に近畿中部に被害。
死者・行方不明539人、被災家屋12万900戸、浸水被害40万2千戸に及ぶ。
9月10~15日大阪、奈良からひのきしん隊が出動し、延べ2千人が清掃活動を行う。
兵庫教区から尼崎市内に延べ350人が出動。
昭和28年(1953) 北九州大水害
昭和28年(1953)6月下旬、豪雨水害(北九州大水害)。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,268
天理教として200万円を支出し、また義援金を募る。その総額は1千63万7千125円に達した。
7月中旬~8月中旬、熊本地方では延べ4千390人が被災地で後片付け。
また7~9月、門司市でも福岡・山口教区のひのきしん隊が出動(延べ3千人)。
昭和28年(1953) 南紀豪雨
昭和28年(1953)7月中旬、豪雨水害(南紀豪雨)。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,268
大阪・京都・奈良・兵庫教区から相次いで和歌山県内の被災地にひのきしん隊を派遣。
災害救援活動への本格的取組み機運の高まりに伴い、昭和28年9月には、天理教教会本部・厚生部内に「災害対策委員会」が設置されたとのこと。
また、昭和29年には、東京教区災害対策委員会が発足したそうです。
本部からのトップダウンだけでなく、各地からの独自の動きもあったのですね。
昭和33年(1958) 狩野川台風
昭和33年(1958)9月26、27日、台風22号(狩野川台風)。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,267
静岡県内に大きな被害。死者・行方不明1千269人。
家屋全半壊および流失4千300戸、床上・床下浸水52万2千戸に及ぶ。
10月1日、災害対策委員会は、嶽東大教会(沼津市)に災害対策本部を設け、救援ひのきしん活動を指揮。
同日より、静岡教区救援ひのきしん隊270人が出動。
同教区隊は、宿泊隊とは別に2千300人を各所に出動させる。
10月5~9日、東京教区災害常備隊116人、神奈川教区救援ひのきしん隊59人が伊豆方面に出動し、土砂・流木の撤去作業を行った。
各教区や天理大学で救援募金。
各教区を単位として災害救援活動の実績を積み重ねながら、天理教の災害救援組織は着実に進化していったことがわかりますね。
昭和34年(1959) 伊勢湾台風
昭和34年(1959)9月26日、伊勢湾台風。近畿・東海・中部地方全域に大きな被害。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,267
者・行方不明5千98人。家屋全壊・流失4万838戸。浸水36万3千16戸。堤防決壊5千760ヵ所。
9月28日、奈良県五條市の被災地には、教会本部および奈良教区からひのきしん隊を派遣。
9月29日、大きな被害が出た教区に慰問使を派遣。
愛知教区では、水上班・医療班・建設班・輸送班・炊事班から成る救援ひのきしん隊を独自に編成。6教区9隊が名古屋市と半田市の臨海部で活動。
災害発生か後から12月初旬まで2ヶ月間、延べ7千人余が参加。
10月2~10日、天理教医療班が出動。
また三重教区では、同教区隊が四日市・桑名の被災地に出動。翌年には、愛知教区災害ひのきしん隊が結成される。
『駆けつける信仰者たち』を読むと、
伊勢湾台風の被害に対する支援を通して、「天理教災害救援ひのきしん隊」誕生への歩みが大きく進んだことがよくわかります。
おぢばへの伏せ込みというひのきしん活動の中核をなす青年会ひのきしん隊が、おぢばの外へ派遣されるのは、これが初めてのことであった。(編者駐:おやさとふしん青年会ひのきしん隊が被災地に派遣された)
これほど迅速な対応ができたのは、過去の災害救援活動の実績によって、準備態勢が整っていたからである。
つまり教会本部には、常時、災害対策委員会が置かれており、活動資金もトラックも用意されていた。それゆえ募金を待たずしてただちに出動できるようになっていたのである。各教区においても、知らせを受けて急ごしらえの“ひのきしん隊”が続々と結成され、被災地に乗り込んできた。
特に東京教区には、いつでも出動可能な常備隊があった。さらに、災害発生時には、近府県の教区はすぐに応援にかけつけるという申し合わせもできていた。こうして本教は、いよいよ本格的な救援活動に入っていくことになるのである。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,93
愛知教区では、伊勢湾台風をきっかけにして常設の災害ひのきしん隊創設の機運が高まり、昭和35年8月に「災害救援ひのきしん隊愛知教区隊」が結成されたとのことです。
昭和35年に、全教に先駆けて、今日の災救隊教区隊、すなわち「天理教災害救援ひのきしん隊」愛知教区隊が正式に発足したのですね。
国家の動きとして、甚大な被害をもたらした伊勢湾台風を教訓として、昭和36年(1961)11月「災害対策基本法」公布、翌37年「激甚災害法」が制定されました。
行政による総合的な災害救援の体制が、徐々に整えられていきます。
また、昭和40年頃からは地域消防団の常設消防組織への切り替えも進んで、社会的に、人々の災害対策に対する意識が大きく高まったとのことです。
そうした社会情勢を受けて、天理教でも、次第に常設の「災害救援ひのきしん隊」結成の機運が醸成されていったようです。
昭和36年(1961) 第二室戸台風
昭和36年(1961)9月16日、第二室戸台風。四国から大阪を中心とする近畿地方に被害。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,266
死者・行方不明202人。家屋全半壊・流失6万2千戸近く。浸水38万4千戸。
9月21~24日、浸水した西淀川地区に天理よろづ相談所の医療班による無料診療車が出動。
4日間の診療総数は5千200件近くに達した。
9月23日から1週間、大阪教区・青年会・天理教校隊約300人が西淀川区内の被災地に出動、水害後の汚物処理に当たった。
岸和田市でも、臨海部で延べ100人が後片付けと清掃。徳島には同教区隊が出動。
第二室戸台風の天理教救援活動では、天理よろづ相談所(病院)の医師や看護師から成る『医療班』までが出動しています。
医療班は、9月21~24日、大阪市の災害救助隊への協力という形で行われたそうです。
行政と天理教が力を合わせて災害救援に当たったのですね。素晴らしい‼
昭和39年(1964) 新潟地震
昭和39年(1964)6月16日、新潟地震。M7.5。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,266
死者26人。浸水1万5千戸。家屋全壊1千960戸。
6月21~7月1日、天理教校生から成る第1次隊63人が出動。
地元・新潟教区を含む6教区隊計175人が第2次隊として作業。
新潟地震の際には、地元の新潟教区隊に加えて、東京、大阪、長野、神奈川、群馬の5教区隊も駆けつけ作業に当たったそうです。
常設の精鋭隊である「東京教区ひのきしん隊」は、狩野川台風、伊勢湾台風の救援に次いで、3回目の出動となったとのこと。
また、この時は、その他多くの教区からも出動の申し出があったそうです。
しかし、受け入れ施設に制限があったため、すべて派遣することができなかったとのことです。
昭和42年(1967) 昭和42年7月豪雨
昭和42年(1967)7月8~10日、西日本各地に豪雨水害(昭和42年7月豪雨)。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,265
7月11日、天理教校専修科生150人から成る本部ひのきしん隊が神戸市兵庫区菊水町に出動。また兵庫教区も出動した。
7月16~18日、広島教区ひのきしん隊84人が呉市内で土砂除去の作業に従事。
昭和45年(1970) 高知水害
昭和45年(1970)8月21日、台風10号。直撃を受けた高知県では高潮により4万戸以上が浸水。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,265
8月30日~9月4日、教会本部からひのきしん隊が出動(188人)。高知市内を中心に後片付けと清掃活動。
昭和40年代になると、いつ災害が起きても出動可能な、本格的な「常備隊」の必要性が全教的に認識されるようになったようです。
昭和46年(1971) 「天理教災害救援ひのきしん隊」発足
昭和46年(1971)、災害救援ひのきしん隊の結成要項が作れられ、各教区隊の結成が呼びかけられた。
最初は青年会本部が管轄(同年12月、管轄はよのもと会ひのきしん部に移された)。
同年8月27、28日、災救隊教区指導者合宿訓練再開。この後、災救隊教区隊の結成が続く。
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,265
昭和46年、ついに「天理教災害救援ひのきしん隊」が正式発足したのですね‼
「天理教災害救援ひのきしん隊」 発足後、組織整備の動きは以下の通りです。
- 昭和47年8月、正式名称決定→「天理教災害救援ひのきしん隊〇〇教区隊」。
- 昭和48年2月、第1回 災救隊長会議開催。
- 昭和48年6月、第1回 幹部訓練。
- 昭和52年以降、隊長会議や幹部訓練、毎年実施。
- 結成をみた「天理教災害救援ひのきしん隊」各教区隊は、その後は、毎年のように各種災害の被災地へ出動。
- また災救隊は、災害発生時のみにとどまらず、いざという“有事”に備えて、定期的な訓練を実施。
「天理教災害救援ひのきしん隊」各教区隊は、 災害発生時の救援活動にとどまらず、平時から、災害救援に必要な知識や技術を身に付けるほか、隊として統率のとれた行動ができるよう、規律訓練も行っているそうです。
すごいですね。
「天理教災害救援ひのきしん隊」は、昭和46年に正式に組織として発足して以後、多くの災害に対する救援活動を展開してくださいました。
阪神・淡路大震災の際には、延べ1万3千人以上の隊員が400日以上活動。
東日本大震災の際には、延べ1万8千人の隊員が長期にわたって救援活動に取り組んだ旨が、 天理教公式ホームページの中の「天理教災害救援ひのきしん隊」に書かれています。
上記サイト( 天理教災害救援ひのきしん隊 )を見ると、その他の災害でも、本当に、数々の感動的な救援活動を繰り広げて下さっていることがわかります。
すべて紹介できれば良いのですが、もう既に長いものになってしまいましたし、この記事は「天理教災害救援ひのきしん隊」発足までを紹介することを目的としたものですので、今回はここまでとさせて頂きます。
願わくは、一人でも多くの人に、金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』(道友社)という本を読んで、「天理教災害救援ひのきしん隊」発足以後の活動について知って頂きたい、と願うばかりです。
まとめ
- 天理教災害救援ひのきしん隊(略称:災救隊)は、昭和46年(1971年)に発足した全国規模の災害救援組織。
- 明治24年(1891)10月28日に発生した濃尾地震の被害に対する天理教信徒による災害救援活動を嚆矢とし、その後、様々な災害への救援活動の積み重ねを通してノウハウを蓄積。
各教区を単位として、自給自足で災害救援活動を行う組織に成長した。 - 災救隊は、災害発生時のみ活動するのではなく、定期的に訓練を重ね、“有事”の際に迅速に被災地へ駆けつけることのできる体制を整えている。
- そして災害発生時には、自治体などと連携しつつ、被災地に負担をかけない“自己完結型”の救援活動を展開している。
以上、「天理教災害救援ひのきしん隊」の成り立ちについて、金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』(道友社)という本を抜粋するような形で紹介させて頂きました。
もっと簡潔にまとめたかったのですが、要約する力が不十分で、ちょっと長くなってしまいました。
この記事の意図は、「天理教災害救援ひのきしん隊」を一人でも多くの人に知ってもらいたいというものです。
どうか、一人でも多くの人に「天理教災害救援ひのきしん隊」の素晴らしさが届きますように。
ではでは、今回はこのへんで。
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