天理教 各教会の歴史探索(第106回)【西成大教会】『天理教事典』より

「西成大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号105番「都 大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号106番「西成大教会」について勉強します。

  1. 西成大教会(にしなり だいきょうかい)
    1. 河内地方・山田長造の入信(明治18年)
    2. 山田長造、河内から摂津へ移住しての布教活動(明治18年)
    3. 小山弥三七 初代会長の入信(明治19年)
    4. 小山弥三七 初代会長の布教活動(明治19年頃〜明治20年頃)
    5. 川口講社の結成、敬神組への加入(明治21年頃)
    6. 高安分教会の創設、川口講社の合流(明治22年)
    7. 初の神殿ふしん、川口集談所の開設(明治23年)
    8. 敬神組第3号から光道講第11号へ改称(明治24年)
    9. 教会移転の意見対立(明治25年)
    10. 教会移転問題に松村裁定、山田三右衛門の出直し(明治25年)
    11. 西成出張所の開設(明治25年)
    12. 神殿建築ふしん(明治25年〜明治26年)
    13. 西成支教会へ昇格 〜 相次ぐ部内教会の設置(明治27年〜明治29年)
    14. 教勢の低下・経済的困窮、小山弥三七 初代会長の失踪(明治31年)
    15. 高安役員・西岡善造による事情整理、小山弥三七会長の辞職(明治31年)
    16. 結城安蔵2代会長の就任(明治31年)
    17. 結城安蔵2代会長による教会再生の道(明治31年頃〜明治40年頃)
    18. 西成支教会のどん底時代を支えた中尾家族
      1. 中尾寅之助・モヨ夫妻
      2. 中尾善治郎
    19. 結城安蔵2代会長の高安引きあげ(明治40年)
    20. 中尾善治郎3代会長の就任(明治41年)
    21. 中尾善治郎3代会長 西成支教会へ常住 〜 奉告祭(明治41年〜明治42年)
    22. 神殿増築 教祖殿移築、会長宅建築(明治44年〜明治45年)
    23. 部内教会の設置 〜 西成分教会へ昇格(明治44年頃〜大正8年)
    24. 広がる西成の道(大正8年頃〜昭和4年頃)
    25. 松村梅代の中尾家入り 〜 西岡宗太郎との養子縁組、長女誕生(大正12年〜昭和5年)
    26. 阪急電鉄への一部土地売却 〜 教会建物のふしん(昭和3年〜昭和4年)
    27. 旧大阪教務支庁への移転、大阪府の不認可 〜 中尾善治郎3代会長の出直(昭和8年〜昭和9年)
    28. 中尾宗太郎4代会長の就任(昭和9年)
    29. 待望の大阪府認可(昭和9年)
    30. 室戸台風被災、教勢低迷 〜 教会移転(昭和9年〜昭和11年)
    31. 西成会長家族の高安常詰、中尾宗太郎4代会長の高安と西成 両づとめ(昭和11年頃〜昭和16年頃)
    32. 西成大教会へ昇格 〜 奉告祭(昭和16年〜昭和17年)
    33. 戦中・戦後の動き(昭和17年頃〜昭和29年頃)
    34. 中西和三郎の中尾家入り(昭和29年)
    35. 中尾和三郎の5代会長就任(昭和49年)
  2. おわりに
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西成大教会(にしなり だいきょうかい)

西成大教会Google検索より①
Google画像検索より

河内地方・山田長造の入信(明治18年)

西成大教会は、山田長造の入信から始まる。 

山田家は、大阪府中河内郡 曙川村 刑部に居住し、代々 農業を営んでいた。
明治10年(1877) の頃、山田長造は 悪性の不治の病で歩行もできず、発病以来 5年近くも苦しんでいた。

ある日、(山田長造は) 柏原から綿売に来た人 (恩智方面からの薪売りともいわれる) が、大和の庄屋敷の教祖の噂話をするのを 障子越しの病床で耳にした。

(噂話を耳にした山田長造は、藁にもすがる思いで、大和の庄屋敷に向かって) 一心に (回復を)祈念した。
そうしたところ、(驚くことに) 日ならずして 歩行もかなうようになるというご守護を戴いた。

(歩行出来る程にご守護頂いた山田長造は) 
この上は、何としても すっきり救けて頂きたいと(考え)、弟に付添って貰い、松葉杖を頼りに、おぢばへ帰った。

(おぢばがえりした山田長造は) 教祖にお目に掛り、(教祖から直接) お話を聴かせて頂いた。
そこからわずか3日間で、(5年近くも苦しんできた山田長造の病気は) すっきり治り、戻りは 険しい信貴山を、伊勢音頭を唄いながら 一人で (大阪府中河内郡) 刑部に帰った(のだった)。

『天理教教祖伝逸話篇』
58.今日は、河内から

明治十年頃のこと。

当時二十才の河内国の山田長造は、長患いのため 数年間 病床に呻吟していた。

ところが、ある日、綿を買い集めに来た商人から、大和の庄屋敷には、不思議な神様が居られると聞き、病床の中で、一心に念じておすがりしていると、不思議にも気分がよくなって来た。
湯呑みで水を頂くにも、祈念して頂くと、気分が一段とよくなり、数日のうちに起きられるようになった。

この不思議な御守護に感激した長造は、ぜひ一度、庄屋敷へお詣りして、生神様にお礼申し上げたいと思い立った。

家族は、時期尚早と反対したが、当人のたっての思いから、弟・与三吉を同行させて、二本の松葉杖にすがって出発した。
ところが、自宅のある刑部村から一里程の、南柏原へ来ると、杖は一本で歩けるようになった。
更に、大和へ入って竜田まで来ると、残りの一本も要らないようになった。

そこで、弟を家へかえして、一人でお屋敷へたどりついた。
そして、取次から、
「あんたは、河内から来られたのやろう。神様は、朝から、『今日は、河内から訪ねて来る人があるで。』と、仰せになっていたが、あんたの事やなあ。神様は、待っていられるで。」
と聞かされて、大層驚き、
「本当に、生神様のおいでになる所やなあ。」と、感じ入った。

かくて、教祖にお目通りして、数々のやさしいお言葉を頂き、約一週間滞在の上、すっきり御守護頂いたので、お暇に上がると、
「又、直ぐ帰って来るのやで。」
と、お言葉を下さった。

こうして、かえりは信貴山越えで、陽気に伊勢音頭を歌いながら、元気にかえらせて頂いた、という。

山田長造、河内から摂津へ移住しての布教活動(明治18年)

(不思議な御守護を戴き 感激した) 山田長造は、(大阪府中河内郡の刑部に戻った後) 信仰を続け(てい)たが、余儀ない事情があって、
明治18年に、摂津国西成郡 川口村 (現在の大阪市淀川区) へ移住(した)。

(西成郡川口村へ移住後も、山田長造は) 農業と人力車夫をしながら、にをいがけに励んだ。
そうこうする中、(山田長造ににをいがけされて)入信する者が (続々) 出て来(るようになっ)た。

後の 西成の初代会長・小山弥三七も、その一人である。

小山弥三七 初代会長の入信(明治19年)

小山弥三七は、
(縁あって、河内方面から自宅の) 近くへ移住してきた山田長造(から 天理教の話を聞くようになった。
小山弥三七は 当時 肥満して体が弱かったこともあり、山田長造の説く教理話に強く惹き込まれた。

そして、小山弥三七は 山田長造) の話を聞き重ねる内に、これこそ真理だと確信するに至り、(ついに、天理教に)入信(を)した。
明治19年(1886) のことである。

小山弥三七 初代会長の布教活動(明治19年頃〜明治20年頃)

小山弥三七は、
嘉永5年(1852) 12月28日、
摂津国西成郡 川口村・小山弥平の長男として出生(した)。

(小山弥三七は、天理教へ入信後は) 父祖の農業を営みつつ、池田方面へ青物行商の傍ら、布教をした。

(小山弥三七に にをいがけをした) 山田長造は、多人数の家族を抱えて道一条に専念するには事情が許さなかったので、
(摂津国西成郡地方においては) 事実上、小山弥三七を中心に 教勢が拡大された。

明治20年頃には 相当の信者が生まれた。

川口講社の結成、敬神組への加入(明治21年頃)

(山田長造や小山弥三七等の 熱心な布教活動によって、摂津国西成郡 川口村でも) 信者が (次々と)増えて行った。
(そして「川口講社」を結成した。)

(川口講社一同は) 信者の増加を受けて、教線の都合もあり、大阪市北区若松町の「北 大教会」の前身となる講社 (天地組) に加入する方向で調整を進めた。

そのような折、山田長造が
同郷のよしみということで 後の本部員・松田音次郎に (茨木基敬の「天地組」に加入しようと考えている旨を) 相談したところ、
「それは筋合いが違う、刑部の『敬神組』として信仰するのが本筋だ」
と 諭された。

(そうした経緯もあって、山田長造や小山弥三七等の布教活動により入信した摂津国西成郡川口村の 信者一同は) 
明治13年に結成されていた、松田音次郎の「敬神組」に加わった。

高安分教会の創設、川口講社の合流(明治22年)

明治22年3月3日、
(天理教教会本部より) 高安分教会 設置の許しがあって、
(河内地方) 近在の講社を統合して 高安分教会を創設することになった。

(そうした動きを受けて) 
同年(明治22年) 5月、
(大阪府中河内郡) 刑部の 松田音次郎は「敬神組」を率いて 高安分教会 設置に参与することとなった。
(それに伴って) 小山弥三七を中心とした「川口講社」も、高安(分教会)に所属することになった。

初の神殿ふしん、川口集談所の開設(明治23年)

さて、(摂津国西成郡川口村の)「川口講社」であるが、
それは、小山弥三七の伝道によって、日増に教勢が拡大され(ていっ)た。

(教勢拡大を受けて、川口講社は 移転・神殿建築を行うことにした。)

明治23年秋、
大阪府西成郡西中島村大字川口なる 中津川新橋北詰の土地30坪余を借り、(そこへ) 4尺の地盛りをした。
(そして) 光立寺(=地名) にあった 5間に3間の 法園寺の付属屋を買収して、この場所へ移築し (それを) 神殿とした。

こうして、西成最初の神殿は、明治23年10月に完成。

(それと同時に) 川口集談所 開設となり、
同月(明治23年10月)、敬神組講元・松田音次郎の臨席のもと 開筵式を執行。
(それと)同時に、小山弥三七は、敬神組第3号 講元となった。

敬神組第3号から光道講第11号へ改称(明治24年)

翌(明治)24年10月21日、
高安分教会の講名統一により、(小山弥三七が講元をつとめる) 敬神組第3号は「光道講第11号」と改称(した)。

(川口集談所の) 教勢も伸びて、出張所設置の気運も 高まりつつあった。

教会移転の意見対立(明治25年)

明治25年3月、
中尾寅之助が 土地 279坪9合5勺を お供えしたことを受けて、教会移転建築の議が起こった。

(そこで) 同年(明治25年) 5月1日、
(川口集談所である) 光道講第11号は
(大阪府西成郡) 西中島村大字川口より、
(大阪府)西成郡 中津村72番屋敷へ移転の 許しを、おぢばへ 願い出た。

そうしたところ、
「皆々 処一つ 一日の日を 生涯の事情に治めるなら、重々の理に許し置こう」
との おさしづであった。 (おさしづ 25・5・ 21)

(以上のおさしづを受けて、教会移転をどうするか、一同で話し合ったところ) 
周旋人の意見が 真っ二つに割れ(てしまった。)

会計を担当する山田三右衛門は、(強く) 移転反対を唱えた。
(山田三右衛門は)「重々の理に許し置こう」との神意は、
「移転建築は 時期尚早。むしろ 現在の集談所を増築するほうがよい」
(というものだ)とし、
(中尾寅之助から) 献納の土地は 畑などにし、その年貢で 教会の (生計)維持を計る(べきだ) と主張した。

山田三右衛門は 土地の有力者で、信仰も古く 年長者である上に、集談所会計の立場からの反対でもあったので、再三の会議もまとまらなかった。

教会移転問題に松村裁定、山田三右衛門の出直し(明治25年)

その(ような)中で(も)、積極的に移転建築をしなければならぬ と考える(者もいた。

そうした移転推進派の) 2〜3の周旋人は、かくなる上は、(上級) 高安の指示を仰ごうと、(明治25年) 9月3日、(小山弥三七) 講元と共に、炎暑のなか 高安分教会へ向かった。

(一方、移転反対派の) 山田三右衛門は、(そのような動きを事前に察知。)
暁闇をついて 高安へ先行した。

(暗闇の中、高安へ先着した 山田三右衛門は) 時の(高安)会長・松村吉太郎に、(縷々) (移転)反対の意見を述べて、賛同を得ようとした。
しかし、松村会長は (即答を避け、ここは)神意によるべし、と(して)伺いを立てた。
そうしたところ、移転すべしと(の神意が)示された。

それで、(松村吉太郎会長は) 山田三右衛門に 考え直すよう諭した。
しかし、(山田)三右衛門は (あくまでも) 自説を主張して 譲らなかった。

そうこうするうち、にわかに (山田)三右衛門は 横腹に激痛を覚え(るような状態となった。
そして) 苦悶の末、同夜(9月3日夜)、(なんと) 高安分教会で 急逝したのだった。

西成出張所の開設(明治25年)

この きびしい事情から、(川口集談所) 一同は、心を揃えて移転建築にかかることこそ 明らかな神意である(という)ことを悟り、移転の準備に着手した。

(それに) 加えて、
高安分教会「西成出張所」設置の許しを (明治25年) 9月18日に願い出た。
そうしたところ、
翌 (9月)19日に「これは 無くてなろまい」(おさしづ25・9・18) との 誠に鮮やかなお許しがあった。

(明治25年) 翌月10月26日、地方庁出願の許しを得て 出願し、11月17日付で 大阪府知事・山田道信より  (無事) 認可を得(ることが出来)た。
(これにより、正式に「西成出張所」開設となった。)

神殿建築ふしん(明治25年〜明治26年)

これと相前後して、
(明治25年) 11月には、4間に8間の 32坪になる 木造瓦葺の神殿建築に着工。
(明治25年) 12月2日「上棟」の許しを得て、(それと)同時に「月次祭 15日・九つの鳴物・紋」の許しも 頂いた。

明けて 明治26年春、(無事に 神殿建築)工事 完成。
4月13日 鎮座祭、14日 開筵奉告祭を執行した。

西成支教会へ昇格 〜 相次ぐ部内教会の設置(明治27年〜明治29年)

こうして、小山弥三七 所長のもと 西成(出張所)の教線は (着々と)伸展。
明治27年4月8日、
「西成支教会」に引直しの許しを得た。

(また) 同年(明治27年) 6月8日、部内教会 第1号の 豊島出張所 設置、
翌(明治)28年 5月28日、園田出張所 設置、
(明治)29年6月6日、東摂布教所 設置となった。

教勢の低下・経済的困窮、小山弥三七 初代会長の失踪(明治31年)

 (西成の)教勢は (着々と) 伸展していたが、(しばらくすると) 部内教会に問題が続出して、(西成)支教会の教勢(は) 漸次 低下し(た。
それと共に、教会の) 財政が 日を追って困窮していった。

そして、(そのような厳しい状況に加えて) 明治29年には内務省秘密訓令(が発令され、そ)の打撃もあり、(西成支教会は、更なる 厳しい環境に追い込まれた。)

(また、それに)加えて 小山(弥三七)会長の一身上の事情もあって (西成支教会は) 収拾し難い状態となった。
(そして) 遂に、明治31年4月29日、小山(弥三七)会長が 教会を出たまま 帰らなかった。

高安役員・西岡善造による事情整理、小山弥三七会長の辞職(明治31年)

これを知った(西成)役員は、高安分教会長・松村吉太郎に 善処方を懇請した。
松村(吉太郎)会長は、高安の役員・西岡善造に命じて、(西成支教会の)事情整理に当たらせた。

西岡善造は、行方の分からなかった小山(弥三七)会長の寓居が分かると、小山(弥三七)会長の多年の労を多とし、小山(弥三七)会長を日本橋の桝屋へ呼び寄せ その再起を勧告した。
しかし、小山(弥三七)会長の辞意は強く、止むなく 担任(会長)変更(の運び)となった。

結城安蔵2代会長の就任(明治31年)

小山弥三七が辞任のあと、(西成支教会一同は) 後任会長の選定に 幾度も会議を開いた。
しかし (なかなか)適格者(は)なく、結局、高安より役員の派遣を懇請することとなった。

(その結果) 高安分教会長・松村吉太郎の指示により、
明治31年7月7日、事情整理のため、高安分教会役員・結城安蔵が (西成支教会の後任会長に就任することとなり) 2代会長の許しを受けた。

結城安蔵2代会長による教会再生の道(明治31年頃〜明治40年頃)

事情整理とはいいながら、(当時の 西成支)教会は 火の消えたようにさびれ(ていて)、夜は狢(むじな) が のそのそと神殿にあがる(ような)有様で(あった。)
部内教会は 意気銷沈して 一向に振わず、結城(安蔵)会長の苦労は 一通りではなかった。

(かかる 陰鬱な環境下に送り込まれた) 結城(安蔵)会長は、(教会再生に向けて) 悲壮の決意を固めた。
教祖 ひながたの道を誓い、3年間の塩断ちをするなど 苦労のどん底を過ごした(のだった。)

西成支教会のどん底時代を支えた中尾家族

その(ようなどん底の)中、(結城安蔵)会長をたすけ、共に 教会専従で苦労したのが、中尾家族であった。

中尾寅之助・モヨ夫妻

結城(安蔵)会長と共に、(西成のどん底時代に)その苦労を共にした 中尾家の当主・寅之助は、後に3代会長となる 中尾善治郎の父親で、
安政元年(1854) 3月16日、京都府船井郡質志村・岸田利右衛門の長男として出生(した)。

(寅之助は) 長じて、大阪府豊島郡豊中村岡町22番屋敷の 古藤こと 古手屋中尾藤兵衛に奉公し、勤勉実直なのを見込まれ、明治7年 (1874) 9月8日、中尾家の養子となった。

明治21年、(中尾)藤兵衛の出直の後、(中尾寅之助は) 中津村下三番に移り食堂を始めたが、(病を得て苦しんでいた。)
明治23年11月、小山弥三七(初代会長)に 不治の病いを救けられて (天理教に)入信(した)。

(そして) 前述のごとく、(中尾寅之助が) 明治25年に自己所有の敷地を献納し、(それが) 西成出張所 創設の動機となった(わけである)。

妻・モヨも、(西成)出張所 普請に 最後の寄付が集まらず 行き悩んでいた時、貯えてあった 自分の葬式金100円也を献納して、やっと 普請の完成を見たのであった。

以来、中尾寅之助夫妻は、食堂を人に任せ、嗣子・善治郎と共に (西成支)教会に居住し、布教に奔走した。

(そして、中尾寅之助は) 結城(安蔵)会長 就任 1年後の 明治32年2月26日、西成支教会で出直した。

妻のモヨは、夫の出直後も (西成)支教会に留まって、万事 不如意の中を 炊事万端の責任をもって 尽力した。

中尾善治郎

また、一子・善治郎は、明治11年4月12日、(中尾)寅之助の次男として 出生。
父と共に入信し、明治26年9月、重い赤痢を救われて、両親と共に 西成支教会(の教務)に 専従となった。
(そして) 掃除はもとより 米搗きに至るまで、青年の要務一切をつとめた。

明治29年10月、(中尾善治郎は) おさづけの理を拝戴した。

明治31年6月、21歳で 教導職試補を拝命した (中尾)善治郎は、
結城(安蔵)会長の指示により、大阪天満松ヶ枝町の 箕己之助の借家を根拠地として 布教を開始(した。)

(中尾善治郎は) 筆舌に尽くしがたい困難を越えて 布教の実を挙げつつ、(その)一方、西成支教会の会計の要務もつとめた。

明治36年1月24日、堺原ひさゑを娶り、(その後も) 日夜 おたすけに奔走した。

結城安蔵2代会長の高安引きあげ(明治40年)

結城(安蔵)会長は、10年に亘る 困窮時代の西成を指導督励して 整理に尽力したが、ようやく その実が挙が(り、再生した教会活動も軌道に乗)った(のだった。

それに加えて) 当時、老齢会長(は) 変更(するように と)の大阪府令が発せられたことを受けて、
高安分教会長・松村吉太郎は、西成(支教会)の事情整理(も)完了(した)と悟った。

(そこで、松村吉太郎・高安会長は) 結城(安蔵・西成)会長に、高安へ引きあげるよう指示。
明治40年12月27日付をもって、結城(安蔵)会長は (十年近くつとめた西成支教会を去り、以後は) 高安分教会役員として 高安の教務に尽くすこととなった。

中尾善治郎3代会長の就任(明治41年)

(結城安蔵会2代会長の高安引きあげに伴い) 3代会長の問題が起こり、(西成支教会の中で) 論議を尽くした。

(最終的に) 高安分教会長・松村吉太郎の指示で、実地布教の功を積み かつ 西成支教会の敷地を献納した 故・中尾寅之助の 嗣子・中尾善治郎が 推挙された。

(それにより) 後任会長の論議も氷解して、
明治41年3月3日、中尾善治郎が3代会長に就任した。

中尾善治郎3代会長 西成支教会へ常住 〜 奉告祭(明治41年〜明治42年)

中尾善治郎(3代)会長は、西成支教会長 就任後も 天満布教を続けて (そこを) かなり教勢ある布教所とした。

(その)後、明治41年12月に至って (天満の)後任を 高島ミツに譲り、
ようやく (中尾善治郎)会長夫妻は 西成支教会に常住し、(西成支教会)3代会長として精励することになった。

かくて、翌(明治)42年 5月4日、
(3代)会長就任奉告祭、及び 天理教一派独立による 神道天理教会 高安分教会 西成支教会を天理教 高安大教会 西成支教会と改称の「奉告祭」を兼ねて、執行(した)。

同年(明治42年) 6月、大阪府知事 認可となった。

神殿増築 教祖殿移築、会長宅建築(明治44年〜明治45年)

中尾善治郎(3代)会長就任 3年余にして、
神殿 増築 教祖殿 移築、会長宅 建築 (の運び)となり、
明治44年11月に着工して、翌(明治)45年 5月(に) 竣工。

同月(5月)14日 鎮座祭、15日 奉告祭を執行した。

部内教会の設置 〜 西成分教会へ昇格(明治44年頃〜大正8年)

(一方) 中尾善治郎(3代)会長に基盤を築かれた 天満講社(の方)は、明治44年6月25日、宣教所となった。
他にも、部内教会に 初めて部属教会が設置されるなど、6ヵ所の部内教会を数えるに至った。

(そうした教勢の拡大を受けて)
大正8年(1919) 3月9日、分教会昇格の許しを得て (西成分教会へ昇格した。)

(そして) 同年(大正8年) 4月14日、昇格奉告祭を執行(した)。

広がる西成の道(大正8年頃〜昭和4年頃)

(西成は、分教会へ昇格して)以後、教祖40年祭提唱の大正10年までに 部内 9ヵ所。
大正10年1月27日以後、(大正15年執行の) 教祖40年祭までに 大阪兵庫を中心に 34ヵ所。
以上の部内教会の設置を見て、合計 43ヵ所の部内教会を数えた。

また、(西成の) 教線は、
大正10年に 静岡、(大正)11年に 香川、(大正)12年に 東京、
以上の如く 部内教会が設置され、
(また) 教祖40年祭後も、
昭和4年(1929) までに 19ヵ所の部内教会の設置を見た。

(これにより、西成分教会は) 全部内教会 62ヵ所となって、高安部内では 東本に次いでの 有数教会となった。

松村梅代の中尾家入り 〜 西岡宗太郎との養子縁組、長女誕生(大正12年〜昭和5年)

こうした教勢伸展の さ中、
中尾善治郎(3代)会長には 嗣子がなかったので、
大正12年4月9日、
洲本分教会 前会長・松村隆一郎 次女・梅代を 娘として入籍(した)。

(その後) 昭和4年11月1日、
(大阪府中河内郡) 刑部時代以来、西成と因縁深い 高安大教会 役員・西岡善造の 4男・宗太郎を 養嗣子として迎えた。

昭和5年8月17日、長女・千代子の出生をみた。

阪急電鉄への一部土地売却 〜 教会建物のふしん(昭和3年〜昭和4年)

昭和3年9月22日、
教会敷地中 42坪9勺を、阪急電鉄の軌道用に 売却せねばならなくなった。

(教会敷地 一部売却の後) その地上の建物を切り取り、
改めて「階上客間・階下食堂」の 2階建:のべ 32坪 (の教会建物)を新築。
併せて 教祖殿 修築に取り掛かり、翌(昭和)4年 4月に完工した。

旧大阪教務支庁への移転、大阪府の不認可 〜 中尾善治郎3代会長の出直(昭和8年〜昭和9年)

(教会敷地 一部売却への対応は 一段落したが) しかしながら、(中尾善治郎会長は 今後の更なる) 都市発展の様相を案じて、それ以後は、時折、移転候補地を視察し(て回ったりするようになっ)た。

しかし、昭和8年に至って、(ついに) 大阪市の都市計画で、豊津線 道路拡張のため、正面敷地 105坪余の買収を 大阪市より示され(るに至った。

西成分教会一同が その対応を検討していた) 折柄、
同年(昭和8年) 4月12日、
突然、高安大教会 初代会長・松村吉太郎より (中尾)善治郎会長に対し、旧大阪教務支庁の敷地建物を借用するよう指示があり、13日中に回答せよ とのことであった。

(中尾)善治郎会長は、(4月)13日役員を召集し、(旧大阪教務支庁の敷地建物 借用の提示について) 家族内勤者ともども 意見を聞いた。
そうしたところ、全員 賛意を表したので、即日(4月13日)、役員同道して 松村吉太郎に (提示案を) 受諾する旨 回答した。

続いて、部内直轄教会長会議を開催し、(そこでも)賛同を得て、
(昭和8年) 5月7日、大阪府中河内郡 若江村478番地へ 移転。5月9日出願。14日許しを受け、同夜、遷座祭を執行した。

(順調に段取りが進んで) 
続いて、地方庁の認可を得ようとした。

ところが、
(ここまでは 全て順調に進んでいたのだが、ここにおいて) 隣接教会との距離の問題で「大阪府の認可がおりない」という状況に 陥ってしまった。

(八方) 手を尽くしたが、解決できないまま、
(残念ながら、中尾)善治郎(3代)会長は、昭和9年4月28日(に) 出直した。

中尾宗太郎4代会長の就任(昭和9年)

(話は遡るが、
中尾善治郎3代会長の) 嗣子・中尾宗太郎は、
不幸にも、昭和7年12月10日、妻・梅代の出直にあった。

(その後、中尾宗太郎は) 翌 昭和8年6月30日、西成部内の 西典宣教所長となり、
同年(昭和8年)12月1日に娶った西島宣教所長・森田与之助(の) 3女・さくと共に、布教活躍中であった。

(昭和9年4月28日 中尾)善治郎(3代)会長(が)出直したため、
(中尾宗太郎は) 西典宣教所長を (妻の) さく に委ね、(西成分教会4代会長に就任することとなった。)

(そして) 昭和9年6月20日 西成分教会長の許しを得て、(中尾宗太郎が) 多事多難な西成分教会を担任することになった。

待望の大阪府認可(昭和9年)

(前会長時代からの懸案となっていた) 地方庁の認可(について)は、
(中尾宗太郎4代会長就任後、)
(高安初代会長) 松村吉太郎の指示により、
高安大教会役員・芦田義宣の交渉を得て、西成の費用持ちで 隣接教会の距離外移転を成した。

(そして) 昭和9年12月20日付で、(ようやく) 大阪府知事の認可を得(ることが出来)た(のだった)。

室戸台風被災、教勢低迷 〜 教会移転(昭和9年〜昭和11年)

この年(昭和9年) 9月21日、
室戸台風で神殿が大破損し、2代真柱の視察を得た。

しかし、相次ぐ問題と 遠隔地へ移転したことで 信者の心も離れ、(西成)分教会は 大変さびれ(てしまっ)た(。
その)上に、部内教会も沈滞し、翌(昭和)10年1月には 教会としての機能を充分に果たせないところが 8ヵ所という有様であった。

その(ような)中、(中尾)宗太郎(4代)会長は 必死に丹精をして、
昭和11年5月15日、
移転 並びに (4代会長)就任奉告祭を執行した。

西成会長家族の高安常詰、中尾宗太郎4代会長の高安と西成 両づとめ(昭和11年頃〜昭和16年頃)

その後 更に、(上級) 高安(大教会)の方針で 会長家族は高安へ常詰することとなり、
同年(昭和11年) 12月23日、(西成分教会の会長家族も、高安へ) 移り住んだ。

しかし、西成(分教会)の状況が、会長不在では事が運ばないような状態で、
止むなく (中尾)宗太郎(4代)会長は、自転車などで 高安(大教会)と西成(分教会)を往復し、両方(のつとめ)を兼務した。

西成大教会へ昇格 〜 奉告祭(昭和16年〜昭和17年)

(中尾)宗太郎(4代)会長は、温厚篤実の中にも 厳しい信仰信念に徹した人格者で、
よく この難局を乗り越え、
昭和16年6月12日、
西成(分教会)は 大教会(に) 陞級(した。)

(そして、) 翌(昭和)17年 5月22日、奉告祭を執行した。

戦中・戦後の動き(昭和17年頃〜昭和29年頃)

(西成が大教会に陞級した頃) 
(日本は) 時あたかも 太平洋戦争に突入し(た頃で、戦禍は日に日に拡大し)、
昭和20年6月15日には (アメリカ軍による第4回目となる大阪大空襲が強行され)
(西成)大教会も空襲を受けた。

(空襲を受けた西成大教会は) あわや全焼という中を、(中尾宗太郎4代)会長以下の必死の働きで、(何とか) 焼失を免れた。

戦後は、(懸命に復興に努め) 各年祭に 応分の働きを成した。

中西和三郎の中尾家入り(昭和29年)

昭和29年11月3日、
(中尾)宗太郎(4代)会長の長女・千代子に、
大江大教会前会長 中西孫三郎の 3男・和三郎を、婿養子として迎えた。 

中尾和三郎の5代会長就任(昭和49年)

昭和49年(1974) 1月26日、
中尾和三郎が5代会長に就任。

同年(昭和49年) 3月17日、
(5代会長)就任奉告祭を執行した。

〔出版物〕 『西成大教会報』(月刊)。


〔現住所〕〒578-0941 大阪府東大阪市岩田町3丁目2番33号
〔電話〕 072-961-2356

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,658〜660)

おわりに

西成大教会Google検索より②
Google画像検索より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

回目の今回は、
「大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

西成大教会GoogleMap③
Google Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 西成大教会の礎となった山田長造先生に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

刑部村の山田長造は、五年間梅毒を患い病床にいて、明治十年ごろ、綿を買い集めに来た商人から庄屋敷の話を聞いた。
矢も盾もたまらず弟を同行し、松葉杖にすがってお屋敷に向かった。
南柏原へ来て杖一本は要らなくなり、竜田へ来た時、あと一本も要らなくなった。
教祖のお言葉を頂いて御守護頂き、帰りは信貴山越えで伊勢音頭を歌いながら帰ったという。

前出の 森田清蔵 (教祖から『道のしるべ石や』と言われた人) が (山田)長造の病床に行った時、傍らで話を聞いて入信したのが、刑部村の友人・松永好松 (十八歳・南 初代)である。

松田音次郎は、風呂屋で (山田)長造のみかぐらうたを聞いて感銘した。
敬神組という講名を頂く。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,70 )

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】106回目の当記事では『天理教事典』の中の「西成大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。

西成大教会は、前回勉強した 都 大教会同様、高安大教会から分かれた大教会ですね。
高安大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

回に続いて2回連続で、高安から分離した大教会の勉強になります (^^)

そして、次回(第107回)予定の「南大教会」も、高安大教会から分かれた大教会です。

これまで当シリーズを継続する中で、
「教会番号連続3兄弟」的グループの存在がいくつかあることを学んできました。

【教会番号15〜17】 → 斯道会から分離した (15番)湖東 ー (16番)甲賀 ー (17番)水口
【教会番号37〜39】 → 東大教会から分離した (37番)牛込 ー (38番)深川 ー (39番)浅草
【教会番号64〜66】 → 撫養大教会から分離した (64番)周東 ー (65番)南阿 ー (66番)香川

今回の勉強を通して、以上3グループに加えて、教会番号順105〜107、すなわち、(105番)都ー(106番)西成ー(107番)南、
それも、「高安大教会」から分離した「教会番号連続3兄弟」グループである、ということを知りました (^^)

これまでの「教会番号連続3兄弟」グループ書写学習の際にも書いてきたことですが、
だからどうした、というツッコミが入るであろう無用の情報だということは重々承知しております。

…しかし、たとえ些細なことでも、これまで知らなかったことを知れたと喜びというのは誰かに話したくなるものでありまして、あえて ここに書かせて頂いた次第であります  (^^ゞ

西成大教会GoogleMap②
Google Mapより

西成大教会は、前回勉強した都大教会同様、高安大教会から分かれた大教会なわけですが、
今回の勉強を通して、都大教会とは創立の経緯は大きく異なることを知りました。

都 大教会は、
東京に布教に出ていた高安の布教師である 山脇亀吉先生のお話に感銘を受けた 小西政吉先生により開設された教会で、文字通り、まず高安があって そこから生まれた教会、という感じ。

それに対し、西成大教会は、
そもそも、河内方面の講社を統合して「高安分教会」を創設する際にその一部となった「川口講社」が母体。いわば高安大教会の創立よりも前に(講社という形で)「共同体」としては存在していた教会。

同じ高安の部内でも、その成り立ちは種類が異なる…と感じました。

『天理教教会所在地録』によると、
教会設立年月日は
西成大教会 明治25・9・19
都 大教会 明治33・4・7

そして、本部直属になったのが、
都 大教会 昭和16年6月8日 (『天理教事典』1977年版より)
西成大教会 昭和16年6月12日 (『天理教事典』1977年版より) 

西成・都、共に同じ高安部内で、西成の方が設立は古いが、
都の方が本部直属になった日がほんの少しだけ早い。
それで、教会番号としては、都 大教会の方が先(105番)で 西成大教会が後(106番)になっている――
そういうわけだったのですね。

教会番号など単なる便宜上のものですから、こうして そのことを話題にするのもおかしな話かとは思いますが、
ただ、今回の勉強を通して、「西成大教会」は 教会番号100番台だから古参の大教会群に比べると新しい教会だろうと思っていたのが、思っていたよりもかなり歴史のある古い教会だということを知り、その驚きもあって、ちょっとダラダラと そのことについて書き連ねた次第であります (^^ゞ

西成大教会Google検索より③
Google画像検索より

今回の書写学習を通して、
西成大教会の初代会長となる小山弥三七先生に教えを伝え、西成大教会誕生の起点を生んだ存在者、それが山田長造先生であるということを学びました。

書写学習で山田長造先生についていろいろネット検索したりAI (Chat GPT) に質問したりする中で、「西成大教会」学習の本筋からは外れますが、面白い解説に出会いましたので、自己覚書として、以下にコピペします。

【質問】

初期天理教の伝道者・山田長造は、大阪府中河内郡曙川村刑部の出身で、入信後に摂津国西成郡川口村に移住して布教活動を行いました。
これは、河内の気質を持った人が摂津で布教した、というふうに考えてもよいですか?
もしそうだとするならば、どのような苦労があったと想像できますか?

【Chat GPTの答え】

とても筋の通った見方です。
「河内の気質を身に帯びた伝道者が、摂津という異質な土壌で布教した」
――そのように捉えて差し支えありませんし、宗教史的にも十分に意味のある視点です。

以下、段階的に整理します。

① その理解は妥当か

結論から言えば、
はい、そのように考えてよいです。
むしろ、初期天理教の布教史を立体的に理解するうえで非常に的確です。

山田長造の位置づけ
• 出身:河内国中河内郡曙川村刑部→ 農村共同体・情義・信仰継承の文化
• 布教地:摂津国西成郡川口村→ 港町・商業・流動人口・多宗教

これは、
「信仰が自然に共有される社会」から
「信仰が選別される社会」へ赴いたことを意味します。

② 河内気質を持つ伝道者の強み

まず、長造には明確な強みがありました。
• 情に厚く、粘り強い
• 一度信じたら引かない
• 生活を共にする布教ができる
• 「たすけ」を自分事として背負う

👉これは 河内的信仰者の典型的長所であり、天理教の初期伝道者に最も多く見られる資質です。

③ 摂津(西成・川口)という布教地の壁

一方、川口村は 河内とは性格がまったく異なります。

川口村の性格
• 港湾労働・商人・職人が多い
• 出入りが激しく、定住意識が弱い
• 仏教・神道・キリスト教も流入
• 「よそ者」に対する警戒

摂津的反応
• 情より「実績」
• 信仰より「商売・生活」
• 長期的関係より短期的利害

👉河内では通じた
「困っているなら助ける」
「皆で信仰を支える」
という論理が、摂津では すぐには響かない。

④ 想像される具体的な苦労

情の押し出しが「重い」と受け取られる

河内的な
• 熱心な語り
• 深い関与
• 私生活への踏み込み
は、摂津では
「しつこい」
「距離が近すぎる」
と 受け取られやすい

信仰の「継続」が得にくい

• 一時的なおかげは喜ばれる
• しかし 入信・献身には慎重
• 商売が回復すれば 離れる人も多い

👉定着率の低さは、精神的に大きな試練だったはずです。

経済観念の違い

河内では、
• 家・講としての献身
• 共同体的支え合い
が理解されやすい。

摂津では、
• 献金=対価意識
• 時間も労力も「損得」で測られる

👉「心を尽くす」という発想が数字や成果で評価されがちだった。

「よそ者」であることの重み

川口村から見れば、長造は
• 河内出身の移住者
• 新興宗教の伝道者
• 地縁の薄い存在

👉信仰以前に、人間として信用されるまでに時間がかかったと考えられます。

⑤ それでも布教が成り立った理由

それでも彼が川口で布教できたとすれば、それは――
• 河内的な粘り
• 個々の「たすけ」を背負う覚悟
• 結果より誠実さを優先する姿勢
が、摂津的合理性を徐々に突破したからでしょう。

摂津では、
「話がうまい人」より
「損得を超えて動く人」
が、最後に信頼されます。

⑥ 宗教史的な評価

山田長造の事例は、
天理教が
「同質な共同体の内部宗教」から
「都市的・選択的宗教」へ移行する
その過渡期を体現した存在
と評価できます。

河内の熱を、摂津の現実の中で鍛え直した伝道者
――それが山田長造像です。

⑦ 文章化するなら(結語例)

山田長造は、河内の濃密な信仰風土の中で育まれた気質を携え、商業都市・摂津川口という冷静な土壌に身を置いて布教に当たった。
そこには、情と合理、共同体と個人という二つの世界の緊張関係があったと想像される。
その摩擦こそが、天理教が都市宗教として成熟していく過程を示している。

『天理教事典』の中に、
河内地方の山田長造先生が「余儀ない事業があって」摂津地方へ移住して、農業と人力車夫をしながら にをいがけ、、、、、に励んだ、
と書いてあったのを読んで、
大阪の土地事情に疎く、河内と摂津の違いがよくわからなくて 軽い気持ちで Chat GPTに質問したところ、以上のような回答が 一瞬で返ってきたのでした。

西成大教会とは直接関係ありませんが、出てきた答えが面白かったので、コピペしました (^^;)

それにしても、AI(Chat GPT)って凄いですね。

西成大教会GoogleMap①
Google Mapより

今回の勉強で印象に残ったこと、それは、教会史の中の「人間臭い」部分でした。

まず、明治21年頃、山田長造先生が、信徒が次々と増えてきたので講社を結成しようとした際の話。

山田長造先生は、地域的なつながりで茨木基敬先生の「天地組」(摂津地方)に加入する方向で調整を進めていた。
そうしたところ、同郷(河内地方)の松田音次郎先生から「それは筋合いが違う、(中河内郡)刑部の『敬神組』として信仰するのが本筋だ」と諭された。
それで、摂津地方の信徒が集まる講社だったけれども、河内地方の「敬神組」に加わった――

摂津地方で出来た共同体が 河内地方の共同体へ加わるということ。
現代なら、摂津も河内も すぐ近所の同じ大阪という感じで、どちらでも良いような 全く何の違和感のない行動です。
しかし、ChatGPTが書いていた如く、この当時の人々にとっては、河内と摂津では気質や文化に差があって大きな問題だったのかもしれません。

それにしても、
もし、山田長造先生が地域的なつながりを重視して 茨木基敬先生の「天地組」に加入していたら、西成大教会は 北 大教会の部内だったというわけで…

講社結成の際に相談した松田音次郎先生が「それは筋違いや、最初に信仰を導いてくれた河内の敬神組に入るのが本筋や」と諭されたので、敬神組に加わった――
その敬神組が、河内で講社を束ねて教会を創立する動きの対象となった為に、高安大教会の部内になった――、ということ。

天地組にするか 敬神組にするか、
歴史を俯瞰してみると、結果として、ここは 結構大きな運命の分かれ道(?)だったわけですね。

もし「天地組」に加わっていたら、それはそれで、後に「茨木事件」の対応でいろいろあったでしょうし…(^^)

現在の天理教の教会は「どこの所属か」というのを非常に重視しますが、
こういった史実を知ると、それは「初期の人間関係に影響されて決まった という部分がかなりある」ということが分かりますね。

西成大教会Google検索より⑤
Google画像検索より

また、西成大教会が まだ 光道講第11号だった頃に、
中尾寅之助先生が土地を献納したことを受けて、教会を移転するかどうかで意見が対立した史実も、実に「人間臭い」史実として印象に残りました。

当時、会計を担当していた山田三右衛門先生は、教会移転に断固反対で、今ある集談所を増築し、献納された土地は農地として活用し そこから獲れる作物を教会の糧にするべき、と主張された。

それに対し、せっかく土地を献納して頂いたのだし 絶対移転すべきだ、と主張される先生方も複数おられた。

移転を巡り、反対派と推進派の意見が真っ向から対立。

このような意見対立は、西成大教会に限らず いろんな所でありそうな話ではありますが、
興味深かったのが、移転推進派が上級・松村吉太郎先生に直訴しようとする動きを 移転絶対反対の 山田三右衛門先生が察知して、暗闇をついて 高安へ先乗りした、という史実でした。

まるで映画を観ているような―― (°д°) 

『天理教事典』には、
山田三右衛門先生の訴えを聞いた松村吉太郎先生は、ここは神意によるべし として伺いを立てた、
そうしたところ、移転すべし との神意が示された、
そこで、山田三右衛門先生に考え直すよう諭した、
けれども、山田三右衛門先生は、あくまでも自説を主張して譲らなかった――
と 書いてありました。

そして、驚くべきことに、
あくまでも自説を主張して譲らなかった山田三右衛門先生は、
にわかに 横腹に激痛を覚えるような状態となり、苦悶の末、同夜、なんと 高安分教会で 急逝された とのこと。∑(°д°;)

実に「人間臭い」史実… という感じがします。

こういった史実には、どういう神意が込められている と悟る事が出来るでしょうか。

人それぞれに 様々な学びが引き出せるだろう と思いますが、
私のような信仰落第生で世間知らずの者には、これ以上、このことを掘り下げて語る資格がない という自覚はあります。

よって、ここでは、
「教会」というのは、多くの人間が集まる場所で皆それぞれ考え方が違うから、いくら同じ信仰の元に集った人々といえども、考え方の違いで生じる摩擦は避けられない ということを 改めて教えられた――
という 当たり障りのない感想を書き加えるに留めておきたい、と思います。(^^)

西成大教会Google検索より④
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その他にも、
小山弥三七初代会長が 一身上の事情もあり失踪した後、上級・高安から 結城安蔵先生がその立て直しのため派遣されて2代会長となり、そのどん底時代を 中尾寅之助・モヨ夫妻が支えた、という話も 印象深かったです。

多くの人々が教会を離れていく中にあっても、たすけられたご恩を忘れることなく、上級から赴任された新しい会長をお立てし、どん底にあった西成大教会を支え続けられた 中尾ご夫妻。

そのお姿は、教祖ご在世当時、大和神社のふしにより人々が去っていく中でも、変わることなく おやしきに伏せ込み続けられた 本席様ご夫妻を彷彿とさせます。

その伏せ込みが、今の 西成大教会の隆盛の土台となっているのですね。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「西成大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、
その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

その他のことも、どれもこれも知らない話ばかりでした。
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て とても勉強になりました。
有難いことでした。

西成大教会Google検索より⑥
Google画像検索より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「西成大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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