Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
前回は
勝間和代氏動画【文字起こし】でお休み回(笑)
を頂きました。
今回は、再び
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】
の続きをいきます。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
教材は、
たまたま自教会にあった 1977年版の『天理教事典』。
今から27年も昔の、
1997年=昭和52年に出版された教材ですから、
記述内容は 昭和50年頃までで止まっています。
そして、
無条件に「原文」を書写していますので、
この記事を目にした関係者の方の中に、
この記述内容は事実と異なる!(~_~;) …
と 不快な思いをする方が おられるかもしれません。
ですが、
当ブログは、自己学習目的のものであり、
ただ単に「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年版)の記述内容を
淡々と書き写したもの。
ですので、
記事の記述内容の正確性というところまではよく検証できていない ということを
まず、お断りしておきたいと思います。
当シリーズ前回(7/13)記事では、
教会番号14番「北 大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号15番「湖東大教会」について勉強します。
- 湖東大教会(ことう だいきょうかい)
- 佐治正隆 初代会長の入信
- 湖東連合集談所の開設(明治22年頃~明治23年頃)
- 湖東支教会の設置と道の広がり(明治24年頃~明治32年頃)
- 上級普請、湖東分教会へ分離昇格(明治33年頃~明治35年頃)
- 湖東分教会から大教会へ(明治41年頃~明治42年頃)
- 湖東大教会による北海道開墾事業について
- 佐治正嗣2代会長の就任(大正12年~大正15年頃)
- 大教会の移転建築、初代会長出直(大正15年頃~昭和3年)
- 大教会移転建築の前後(昭和3年頃~昭和8年頃)
- 湖東大教会の中国布教(昭和12年~昭和20年頃)
- 終戦後(昭和21年頃~昭和27年頃)
- 佐治清子3代会長(昭和27年~昭和33年)
- 佐治将光4代会長(昭和33年~昭和46年頃)
- おわりに
湖東大教会(ことう だいきょうかい)
佐治正隆 初代会長の入信
湖東大教会 初代会長 佐治正隆は、
文久元年 (1861) 9月10日、
近江国甲賀郡佐山村神保、
農業 藤橋長右衛門の次男として生まれ、
登喜治良 と名づけられた。兄 光治良は
後の水口大教会 初代会長 藤橋光治良である。明治13年(1880) 20歳の時、
同村 嶬峨 (現 水口町嶬峨) 農業 佐治伊八の養女 くに と結婚、
佐治家に入り 農業に従事していた。(佐治)登喜治良は 明治16年 4月30日
大阪鎮台歩兵 第9連隊 第1大隊に 修業兵として入隊した。明治17年春 在役中
大和地方に行軍し、
奈良の今御門町の桝屋に宿営した際、
たまたま 宿の離れにお越しになっていた教祖を拝し、
宿の主から あのお方が大和庄屋敷の生神様であると教えられ、
教理の一端を聞かされ 深く敬慕の念を抱いた。これより先、
明治14年 9月頃 信仰をはじめた 京都の深谷源次郎から伝わった教えは、
京都府 下綴喜郡 宇治田原村 湯谷ヶ谷の
斯道会 第2号講元 西野清兵衛によって
信楽谷を越えて 江州甲賀郡方面に
明治19年頃 伝わって来た。(佐治)登喜治良は、
先年 教祖を拝した時の感銘と 聞かされる教理に感じて
信仰を始めた。明治20年(1887)、教祖のお身をかくされたことを聞き、
初めて庄屋敷に参った。葬儀は済んでいたが、
丹波市の宿に逗留し、
後の本部員 辻忠作から教理と教祖の道すがらを聞き 深く感動し、
一層 信仰を昂めた。帰郷後 漸く養家の了解を得て、
自宅に 斯道会 第95号講社を結んだ。講脇は 隣家の治武為吉であり、
周旋は 姉の難病を(佐治)登喜治良に救けられた 水口新城の 森井治三郎であった。明治22年春 早々 神式に改式、
家族一同の神符を頂いた。
湖東連合集談所の開設(明治22年頃~明治23年頃)
この頃
甲賀郡内に講社の結成多く
同信同志が集まって10講社連合を結び、
(佐治)登喜治良は その幹事に挙げられ、
郡内はもとより、伊賀、伊勢にまで足を伸ばした。しかし、
狭い郡内でひしめき合っている状態を潔しとしない(佐治)登喜治良は、
他に 布教の地を開拓することを志した。明治22年(1889) 7月、
「おさづけ」を戴いて帰宅した(佐治)登喜治良は、
かねての思いを実行するため、
(明治22年) 7月10日早朝
森井治三郎の案内で、治武為吉を伴い、
北方5里の 八日市方面の布教に出発した。その日、
宿と定めた臼田屋の主人の乞いにより、
難病に苦しむ 糠塚の福島源治を救けた。福島は
救けに感じて (佐治)登喜治良の布教に協力し、
支教会の設置にも尽力し、
後には 大教会役員となった。また、その頃
八日市の資産家 谷田寅吉は
息子の風眼を救けられ、
その持ち家を提供して 布教に協力した。また
野村の大久保紋助は
子供の育たないところ (佐治)登喜治良の導きを受け、
その熱烈な信仰に打たれ 信仰を始めた。谷田(寅吉)、大久保(紋助)は
その布教を扶け、後に 役員となった。この年(明治22年)
7月から10月に亘る4ヵ月間に
約20ヵ所余りの講社が結成され、
八日市市 中野町279番地に 第46号講社を結成し、
10月10日 湖東連合集談所を開設した。翌(明治) 23年秋、
同町上の町327番屋敷に 282坪の土地建物を買い求め 移転した。この年(明治23年)
教線は 湖東、湖北地方から 美濃、尾張へ延び、
後の名古屋大教会 初代会長 近藤嘉七が信仰を始め、
やがて その姉婿である 越後の 近藤徳蔵が入信した。
後の 北洋大教会の初代会長である。また、この頃
湖北地区 池の尻講社の講脇 堤丑松が
九州方面へ行商の途、教えを伝え、
筑紫の福原惣太郎に
それから 西海の鍋山孫三郎、
朝倉の内田松吉などに
教えが伝わった。
湖東支教会の設置と道の広がり(明治24年頃~明治32年頃)
この様に 教勢の伸展により、
明治24年(1891) 9月24日
湖東支教会設置の許しを得た。部内講社は53ヵ所。
(佐治登喜治良)初代会長は 31歳であった。翌25年に 事務所炊事場を新築した。
けれども
当時 滋賀県下では 教会は公認されず、
官憲の圧迫激しく、
祭典直前に警察へ連行されるなど 布教活動は容易でなかった。こうしたところから
(佐治登喜治良)会長は
しばしば県庁に足を運び 懸命の奔走をした。この努力が実って
明治25年12月20日
湖東支教会は 知事の公認を受けた。これが 県下公認の第1号であり、
地方教勢拡張の上に 端緒を開いた。更に信者の増加に伴い 教勢伸展著しく、
明治26年暮には
神殿60坪 (218m²)、及び 2階を教祖殿とした会長宅を新築し、
教会としての内容外観 共に整った。(佐治登喜治良)初代会長 八日市布教開始後
僅かに4年半であった。この年(明治26年) 、
筑紫支教会、金城西出張所などが 早くも設置を許された。更に 翌(明治) 27年には 西海、
(明治) 28年には名古屋、北洋の設置があり、
(明治) 29年には 朝倉、彦根、浅井、中郡 (なかごおり) が設置された。この年(明治29年)
江州小倉講社の菱川善次、
和南講社の谷口良蔵などによって
直接遠く 秋田方面への布教が開始され、更に 新潟方面では 新発田、栃尾、中条、村上、岩船、中蒲原、
山形では置賜など 名古屋、北洋の部内教会が設置される。この頃より
支教会役員の住み込みが始まった。翌(明治) 31年には
阿仁出張所が設置され、教勢は秋田北部に及び、
また 越後の南越、南蒲原、
九州では西照、
山形の天童、最上など
南北に 14ヵ所の教会が設立された。明治32年には
秋田の阿仁郡内の大館、南秋田などの部内教会が生まれた。
上級普請、湖東分教会へ分離昇格(明治33年頃~明治35年頃)
明治33年(1900)
上級 河原町分教会では 部内教会の急速な増加により、
従来の教会では手狭となったところから移転建築の議が起り、
佐治(登喜治良)会長は 率先賛同して、
この普請のために懸命に奔走した。この年(明治33年)、「おさしづ」に基づき
教勢充実している 湖東、甲賀、水口 3支教会の
分離昇格の議があり、(明治)33年 水口、
(明治) 34年に 甲賀が 分離昇格、
湖東は 普請に全力を挙げ、
明治35年 2月17日 湖東分教会に分離昇格、
本部直属教会に列した。
願書によれば 信者総数 2万戸となっている。当時 教会数は
分教会以下 94ヵ所の内 公認教会64ヵ所であった。
時に (佐治登喜治良) 初代会長は 42歳。この年(明治35年) 10月
河原町分教会の普請が完成した。湖東分教会の信者詰所は 最初 中山重吉宅の一室に開かれたが、
前年(明治34年) 買い求めた三島 (現天理プールの場所) に
事務所、 宿舎炊事場を建築した。しかし、
日露戦争前後の国内の疲弊甚だしく、
特に 教勢の伸びていた東北地方が
連年の冷害凶作により
教勢は 一時停頓の状態となった。この頃、(湖東)分教会では
副業として 大規模な養蚕、茶園経営など
前後10年に亘って 行われた。
湖東分教会から大教会へ(明治41年頃~明治42年頃)
明治41年(1908) 11月27日
本教の一派独立により
翌 明治42年 1月18日
天理教 湖東大教会と改称を許された。当時 教会数は 105ヵ所。
この前年(明治41年) 、
初代会長 佐治登喜治良は
戸籍の原本を 正隆 と改名した。
湖東大教会による北海道開墾事業について
教勢の著しい伸展を見た明治20年代は、
明治29年の内務大臣の訓令による圧迫、
日清、日露の度重なる戦役、
加えて 東北地方の凶作などにより、
全教的に教勢の停頓を来たし、
また 経済的困難が続いた。こうしたところから
この状態を一挙に挽回すべく、
大正5年(1916) 3月
北海道十勝開墾事業を起こした。東北、九州 両団体71戸 約100名の信者が渡道して
未開の十勝原野の開墾に着手した。当初の計画では 8ヵ月の予定が
予想をはるかに越す難事業となり、
前後4ヵ年にも亘り、
資金涸渇し、
成功の目途も危ぶまれる状態となった。(佐治正隆) 大教会長の心痛甚だしく、
大正7年 2月大患となり、また 大正8年 1月に至って、
湖東大教会は
本部より 教費滞納のため教務取扱停止の厳命を受け、
内憂外患 共に極まる苦境に立たされた。この様な中にも
開墾は成功し、成墾地を一括売却し 代金も受領した。その直後
第1次大戦後の不況が襲った。(湖東)大教会は
危うくこの難から免れ、
30年に亘る借財、未納金のすべてを完納することが出来たのであった。今も 北海道地図の十勝平野の中央部に
「天理教団体」と表示されている1,000町歩は
湖東大教会信者の苦闘のあとである。永年に亘る経済的困難を脱し、
以後 一切の事業を廃し、
布教活動に専心奔走することとなった。
佐治正嗣2代会長の就任(大正12年~大正15年頃)
(湖東)大教会は 新しい活気を取り戻した。
大正12年(1923) 5月3日
(佐治正隆) 初代会長の長男 正嗣が
湖東大教会長に任命された。(佐治正隆) 初代会長63歳、
(佐治正嗣) 2代会長は 27歳であった。教勢は甦り、
この年増設された23カ所の教会を入れて
教会数は 197ヵ所となった。翌(大正)13年 10月21日
就任奉告祭が盛大に行われた。この年(大正13年) は
殊に 筑紫部内の教勢の進展著しく、
年間新設教会29カ所を加え、204ヵ所となった。教祖40年祭に当って提唱された教勢倍加の声に応じて
教会数の増加著しく、
大正14年には 161カ所の増設があった。大正15年に 教祖40年祭が盛大に行われ、
年末迄に 16教会の新設があり、
大教会共 398カ所となった。
大教会の移転建築、初代会長出直(大正15年頃~昭和3年)
大正15年 教祖40年祭終了後、
(湖東)大教会の移転建築の議が起こり、
一時は 交通の便などから彦根案も出たが、
(佐治正隆) 初代会長の布教地である八日市町に決定、(大正15年) 11月には
八日市町大字小脇に 約1万2,000坪の土地を求め、
昭和2年4月 移転建築の許しを得て、
12月 県知事の認可を受けた。昭和3年(1928) 2月21日
地鎮祭を執行したが、
3月27日 (佐治正隆) 初代会長 病気再発し、
憂慮の中にも
大教会の移転建築は(佐治正隆) 初代会長の永年の懸案であるとして、
予定通り (昭和3年) 4月1日 起工式を敢行した。(佐治正隆) 初代会長は
喜びの色の中に、翌々日 4月3日、その生涯を閉じた。
享年68歳であった。
大教会移転建築の前後(昭和3年頃~昭和8年頃)
(湖東)大教会の移転建築は
着工以来 5ヵ年に亘って 進められた。主な建物は
木造瓦葺平家建神殿225坪、教祖殿48坪、祖霊殿23坪、事務所88坪、2階建客殿延88坪、信者宿舎185坪、役員宅兼信者宿舎65坪、炊事場66坪、浴場25坪、及び 門前に 2階建役員宅兼信者宿舎 延88坪 2棟、同82坪 4棟など、
総延坪1,624坪である。特にこの普請に当たっては、
教勢の伸長著しい 筑紫部内の働きは大きく、
(佐治正嗣) 大教会長は かねての意向により、
昭和5年12月 分離昇格の願書を提出した。昭和6年1月11日
筑紫中教会として分離昇格した。分離教会は 筑紫以下分教会3、支教会11、宣教所170、計184ヵ所であった。
当時 湖東部属教会は402ヵ所であったので、
湖東大教会は 218ヵ所となった。かくて、昭和7年 12月2日
移転建築落成奉告祭が
2代真柱臨席のもとに 盛大に執り行われた。昭和7、8年、本部においては、
所謂 昭和普請として 神殿、南礼拝殿、教祖殿の建築が進められ、
大教会挙げて 懸命に奔走し、
同時に教勢の伸展を遂げ、
昭和8年には 新設14カ所、
翌(昭和)9年にも 14カ所の教会が設置された。また 教祖50年祭を前に、
去る大正13年田部、田井庄、指柳に亘って求めてあった2町7反の詰所移転地に
事務所、炊事場、浴場などを建築し、
昭和11年の50年祭に一部使用し、
年祭後 本格的な詰所移転が着工され、
翌(昭和)12年の立教百年祭前に
現在地(=『天理教事典』1977年版出版当時) 田部71番地に移転を完了し、
従来の三島の敷地を 全部本部へ献納した。
湖東大教会の中国布教(昭和12年~昭和20年頃)
昭和12年(1937) 立教百年祭に当たり、
(佐治正嗣) 大教会長は本部員に登用され、
教学部長、一れつ会理事長を命ぜられた。(佐治正嗣) 大教会長は 41歳であった。
昭和12年 7月 日華事変勃発し、
戦火は中国大陸の全土に拡大するに至り、
教内では、邦人 及び 現地住民の人心救済を図る上から、
大陸伝道が呼びかけられた。(湖東)大教会では、
昭和3年以来 北京で布教中の教師 村山しな の布教を扶け、
大陸伝道の基盤を固める上から
昭和14年 役員 池戸信吉を 北京に派遣した。北京市西城大玉皇閣の遺構
土地約2,000坪、建物10余棟を買収し、
之を修復改装して、神殿 並びに付属建物とし、
往来する信者の足溜りとした。さらに日語学校を併設して
布教の基地とした。昭和17年 6月10日
2代真柱の視察、参拝があった。これより先、
(佐治正嗣)大教会長は
宗教大同連盟 神道部長として
昭和15年 3月より1ヵ年間 上海に駐在した。また 本部興亜部長として、
懐遠の大和医院の創設に尽力した。昭和16年 教規の改訂に伴い、
3月1日 名古屋分教会は
教会数51ヵ所を以って 大教会に昇格分離した。昭和20年 終戦となったが、
今次大戦に当たり人材の損失多く、
戦災教会10ヵ所、海外引揚教会6ヵ所(内 北洋2)で
教会数の1割が 直接 戦災を蒙った。
終戦後(昭和21年頃~昭和27年頃)
やがて安定に向かい、
昭和21年には 教会設立8カ所、
翌(昭和)22年には 設立6カ所を数えたが、
北洋の部内教会増設により、
昭和23年 2月28日
北洋は新設出願2カ所と共に教会数50カ所を以って分離、
大教会に陸級した。戦時中 海軍の通信教室となっていた信者詰所の荒廃甚だしく、
之を修復して、
昭和26年 12月1日
創立60周年記念祭が 真柱臨席のもとに盛大に執り行われた。しかし
その喜びもさめない 翌(昭和)27年 1月3日
(佐治正嗣)大教会長は 発病し、
(昭和27年) 6月13日
満54歳を以って 俄かに出直した。
佐治清子3代会長(昭和27年~昭和33年)
(佐治正嗣)2代会長出直により、
会長夫人 清子を3代会長として出願、
昭和27年 7月28日 任命された。当時 教会数は 180カ所であった。
(佐治清子)3代会長は 53歳であった。(佐治清子)3代会長は
(佐治正嗣)2代会長の遺志を継いで、
本部へのつとめに精励すると共に、
部内教会隈なく回り、
人々とのつながりを 一層緊密にした。
佐治将光4代会長(昭和33年~昭和46年頃)
嗣子 (佐治)将光は
教会本部青年としてつとめていた所、
真柱の内命あり、
昭和33年 10月26日
(佐治)将光が 会長に任命された。
当時25歳であった。教会数は186ヵ所であった。
(佐治将光)大教会長は 父祖の徳を承け、
「ぢば」への信仰に徹し、
豪毅の気性を以って率先垂範、
部内教会信者全般に清新、積極の気が満ち、
教祖80年祭に当たっては 画期的な活動を遂げた。昭和46年、創立80周年記念祭を執行、
教祖90年祭活動もつとめ終え、
教会内容の充実に向かい、旧に倍する活動を期して前進している。施設経営:
部内 三条分教会、三条保育所。
部内 彦根分教会、彦根幼稚園。出版物:
『湖東月報』昭和26年10月『おしらせ』として発刊今日に至る、教報タプロイド4頁500部。
(過去には『道潮』『湖東』など月刊誌、季刊誌あり)刊行物:
『初代会長追悼誌』(40頁、昭和3年7月)
『移転建築記念誌』(160頁、アルバム、大教会略史、昭和7年12月)
『二代会長しのびぐさ』(225頁、昭和8年5月)
『湖東のみち』(アルバム、大教会、部内教会、教会長写真、大教会略史、昭和36年11月)
『佐治登喜治良』(358頁、初代会長伝、昭和43年3月)〔現住所〕〒527-0018 滋賀県東近江市八日市清水3丁目2番6号
〔電話〕 0748-22-0210(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』(1977年版) P,347~350 )
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
15回目の今回は、
「湖東大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
湖東大教会は「斯道会」の流れを汲んだ大教会ですね。
斯道会=河原町大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
その中で、斯道会の道が全国各地に広がった要因の一つとして、
「江州商人の進取性」というものがある、
と説明していたのが 記憶に残っています。
今回、湖東大教会の初期の歴史を勉強する中で、
湖東大教会は、本当にその道の初期の初期から、遠方にたくさんの広がりを見せていた、
ということを知りました。
そのような、
狭い所に治まることなく全国あちこちへ広がっていこうとする外向きの力の逞しさ、
それは、江州商人=近江商人の気質みたいなものが土台になっていたのですね…
今回の学習を通して、改めてそれを感じさせられました。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】15回目の当記事では
『天理教事典』の中の「湖東大教会」についての記述を書き写したわけですけれども、
今回も、また知らないことばかりでした。
大正5年頃に、
経済的困窮から 北海道開墾事業に取り組んだものの、
それが困難を極め、
初代会長が心痛で、大きな患いを抱えるほどになったという話。
けれども、その巨大プロジェクトである開墾事業は
困難を乗り越えて成功に至り、
借財、未納金のすべてを、無事に完納することが出来たという話。
(北海道開墾事業という発想が、いかにも近江商人の進取性という感じがします)
高知大教会の勉強をした時に
大正8年(1919) 1月 本部春季大祭の際
“高知の他 10数ヵ所の直属教会が ご本部から【業務停止】処分を受けた”
という史実があったということを知りましたが、
湖東大教会も、同様に、
大正8年1月、
本部より教費滞納のため教務取扱停止の厳命を受けていた、
という話。
(大正8年本部春季大祭の際の【業務停止】処分というのは、かなり大規模なものだったのですね…)
…等々、その他のことも含め、
本当に 全く知らないことばかりでした。
勉強になりました。
今回の勉強を通して、
湖東大教会は、
道の付き始め当初から、
燎原の火の如く爆発的な勢いで広がりを見せたのだということを知りました。
その原点となったのは初代会長である佐治正隆先生なわけですけれども、
佐治正隆先生をそれほどまでに大きなうねりの起点とならしめた原動力は、
一体何だったのでしょうか。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に、次のような逸話が載っています。
146. 御苦労さん
明治十七年春、
佐治登喜治良は、当時二十三才であったが、
大阪鎮台の歩兵 第九聯隊 第一大隊 第三中隊に入隊中、
大和地方へ行軍して、
奈良市今御門町の桝屋という旅館に宿営した。
この時、宿の離れに人の出入りがあり、
宿の亭主から、
「あのお方が、庄屋敷の生神様や。」
とて、赤衣を召された教祖を指し示して教えられ、
お道の話を聞かされた。
やがて教祖が、
登喜治良の立っている直ぐ傍をお通りになった時、
佐治は 言い知れぬ感動に打たれて、
丁重に頭を下げて御辞儀したところ、
教祖は、静かに会釈を返され、
「御苦労さん。」
と、お声をかけて下された。
佐治は、教祖を拝した瞬間、
得も言われぬ崇高な念に打たれ、
お声を聞いた一瞬、神々しい中にも慕わしく懐かしく、
ついて行きたいような気がした。
後年、
佐治が、いつも人々に語っていた話に、
「私は、その時、このお道を通る心を定めた。
事情の悩みも身上の患いもないのに、入信したのは、
全く その時の深い感銘からである。」
と。
湖東大教会という一大組織を生み出した原点は、
身上・事情をたすけられたというものではなくて、
初めて教祖を拝した時の感銘と
「御苦労さん」と声をかけられて受けた感動の気持ちによるものであった、
という事実に、
改めて驚きを覚えます。
海のものとも山のものともつかない道に足を踏み入れるには、
それなりの一大決心が必要なもの。
多くの先代先生方は
何らかの困難をたすけられた経験が後押しとなって
その一歩を踏み出されたわけですが、
佐治正隆先生は、
事情の悩みも身上の患いもないのに、
ただただ、直に教祖を拝し、お声掛けを頂いた時の感動によって、
この道へ深く足を踏み入れられた。
これまで『逸話篇』を読んで
何となく知っていた上記史実でしたが、
こうして、大きな全体の流れの中に置いて眺めてみると、
それが如何に凄いことなのか、改めて感じられます。
常識的な考えではなかなか理解しにくい部分であるようにも思われますが、
ここは、やはり
「いんねん」というお道的な考え方が、
最もしっくりくるように 私には思われます。
それ以上に、
“この史実は、教祖の存在そのものが いかに人々を魅了するような輝きを放つものだったのか、ということを示している”
というところに着目すべきかもしれませんね。
いずれにしても、
今回も、いろいろと知ることができて、
とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「湖東大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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