天理教 各教会の歴史探索(第109回)【鹿島大教会】『天理教事典』より

「鹿島大教会」アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号108番「山陰大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号109番「鹿島大教会」について勉強します。

  1. 鹿島大教会(かしま だいきょうかい)
    1. 入信前の清水小太郎
    2. 松永鶴吉の入信 〜 たすけ一条の道 決意(明治21年〜明治24年)
    3. 松永鶴吉の能登布教(明治24年頃)
    4. 清水小太郎、松永鶴吉との対面(明治24年頃〜明治24年)
    5. 清水小太郎の入信(明治25年)
    6. 斯道会 550号講の結成(明治25年)
    7. 能登出張所の天理教教会本部お許し、石川県庁の申請却下(明治25年〜明治26年)
    8. 清水小太郎の弟・町駒小五郎の生い立ち
    9. 町駒小五郎の入信(明治26年)
    10. 町駒小五郎、出張所請願委員に就任 〜 遠隔地布教の取り組み(明治26年頃〜)
    11. 能登出張所から鹿島出張所に改称し申請 〜 待望の地方庁認可(明治26年)
    12. 教会の移転建築へ着手(明治27年)
    13. 相次ぐ部内教会の設立(明治28年〜明治31年頃)
    14. 谷川豊吉初代所長の辞任、清水小太郎2代所長の就任(明治29年)
    15. 苦難を乗り越え、神殿ふしんの完成(明治33年)
    16. 膨れ上がる債務、激しい困窮時代(明治33年頃〜明治35年頃)
    17. 清水小太郎2代所長の辞任、宮下勝蔵3代所長の就任(明治35年)
    18. 教会建物の喪失、粗末な長屋への移転(明治40年)
    19. 清水小太郎初代講元・宮下勝蔵3代所長の出直し、町駒小五郎4代所長の就任(明治41年)
    20. 鹿島支教会へ昇格(明治42年)
    21. 教祖40年祭活動、教勢倍加運動(大正10年〜大正15年)
    22. 鹿島分教会へ昇格(大正14年)
    23. 教会の移転建築(昭和2年)
    24. 移転直後を襲った金沢大火、火炎をはねのけた鹿島分教会の奇跡(昭和2年)
    25. 新たな部内教会の設立(昭和初期〜昭和10年頃)
    26. 鹿島大教会へ陞級(昭和16年)
    27. 町駒小五郎4代会長の出直し・清水秀一5代会長の就任、5代会長時代(昭和18年〜昭和31年1)
    28. おぢばにおける信者詰所の変遷(昭和35年〜昭和51年)
  2. おわりに
スポンサーリンク

鹿島大教会(かしま だいきょうかい)

鹿島大教会GoogleMap①
Googleストリートビュー より

入信前の清水小太郎

鹿島大教会の 初代講元・清水小太郎は、
元治元年(1864) 3月24日、
石川県 鹿島郡 鳥屋村字今羽坂イの 12番地(にて) 
町駒小三郎・ふでの長男として出生(した)。

(成人)後、本家である 清水家を継ぐため、清水ちよと結婚、婿養子となった。
その明敏、 精悍な天性は 年とともに磨かれていった。

(その頃、日本では) 徳川三百年の泰平の夢破れ、明治維新とともに、国民の政治意識が目覚め、殊に 西南戦争以後(は)、自由民権を旗印として、政府の政策に反抗する政治結社が 全国各地に結成され(てい)た。

これら 政党に加盟した人達は、弁舌を練るとともに 剣道(武術) をも身につけ「問答無用、腕で来い」という気概(を持つような人々)であった。

清水小太郎も、その一人であった。
(清水小太郎は) 学問習得にも 力を入れ(ていて)、
当時「羽坂の清水」といえば、近郷近在にその名を知らぬ者なし、といわれる程の 学識・力量ともに 衆に勝れた俊豪であった。

入信前の 清水(小太郎)は、
若年ながら、強きをくじき 弱きを助け 世のため村のため 献身(するような人物で)、村人から 強い信頼を受けていた。

松永鶴吉の入信 〜 たすけ一条の道 決意(明治21年〜明治24年)

天理教の教えは、西江州から県境を越えて 福井県に入り、
敦賀郡 愛発村 曽々木方面に伝わった。
(教えが広がる中で) 
明治21年(1888)、同村 (敦賀郡愛発村) の 松永鶴吉が入信した。

松永(鶴吉)は、万延元年(1860) 8月8日、
松永弥左衛門、さわの長男として生まれ、
農業とともに 石灰山の石灰焼きもしていた。

松永(鶴吉)は、同村 (愛発村) 谷川豊吉から 天理教の話を聞き、その深遠な教理に いたく心を動かされ、爾来、熱心に 信仰に励んでいた。

明治24年(1891) 4月、
(松永鶴吉が) 石灰山で作業中、突然 爆発事故に遭った。
(事故に遭って どうなるか 心配された)が、(松永鶴吉は) 不思議な救けを受けて (守られた。
このような 不思議なご守護を見せられた松永鶴吉は、この節を通して)、一層 信仰信念を深め、一身を捧げて この教えを広めようと (決意した。

そして)、 妻の反対を押し切り、後事を 谷川(豊吉) に託して、伝道の旅に出たのであった。

松永鶴吉の能登布教(明治24年頃)

(松永鶴吉は)
かつて、西国 88ヶ所 巡礼の途中、一夜の宿をともにした人との約束によって、
道をかえて、石川県 能登国 宝立村 にその人を訪ねた。

しかし、(そこでは その人に) 巡り会うことが出来なかった。
(そこで) 足を伸ばして、同県(石川県) 鹿島郡 鳥屋村 鵜屋旅館に 宿を求めたが、
このとき (松永鶴吉は) 既に旅費を使い果たし(てしまっており)、やむなく 同旅館(鵜屋旅館) の使い走りをしながら 布教を始めた(のだった)。

(松永鶴吉の布教による) おたすけのご守護は、すぐ 随所に現われた。
しかし (それに比例して) 非難攻撃が 日とともに激しく(なり、それは) 警察としても 放置する訳にいかない程であった。
(そのため、警察は) 万一の身の危険を憂慮して、(松永鶴吉に対して) 一時 この地を去るよう命じた。

しかし、松永(鶴吉)の 信念(は) 固く、救けを得て 信仰を始めた人たちを残して この地を去る事を 承諾しなかった。

(松永鶴吉は、村人たちからの) 反対攻撃に屈することなく (同地にとどまり) さらに熱心に 布教を続けたのである。

清水小太郎、松永鶴吉との対面(明治24年頃〜明治24年)

このことが 清水(小太郎) の耳に入るや
「警察の手におえんような者、わしが行って つまみ出してやる」
と(言って) 鵜屋旅館を訪れ、(清水小太郎は) 松永(鶴吉)と 対面した。

この時、松永(鶴吉)は 清水(小太郎) に向かって
「お前さん、将棋を知っていなさるか」と尋ねた。
(清水小太郎が)
「そう強くはないが 駒の動かし方くらいは知っている。それがどうした」(と答えると、松永鶴吉は)
「わしは、その将棋の歩です。わしの後ろには、飛車・角・金・銀… 偉い先生がたくさんござる。神様の話を 聞きたければ、わしが どんな偉い先生にでも会わしてあげる」
と言った。

(清水小太郎は、松永鶴吉のことを) 世間の常識も何も知らない者くらいに思って訪れたのであったが、
(事前の予想に反して) 松永(鶴吉) の口から語られる神一条の話は、博学なだけに、却って 清水(小太郎)の脳裏に 深く印象づけられた(のだった)。

一思いにつまみ出そうとして (鵜屋旅館を訪れた) 清水(小太郎)であったが、
(清水小太郎の語る) 尊い教えに触れて 驚嘆。
(当初、天理教に対して、つまみ出してやると息巻く程の 悪感情を抱いていたのが、そこから一転) 進んで協力しよう と思い返すほどになった。

それで、(清水小太郎は)
「ここに居ては 村人からの迫害、攻撃もあって、身の危険も案じられる。うちへ来い」
と言って、(松永鶴吉を) わが家へ 連れて帰った。

それ以来、松永(鶴吉)は、 誰れはばかるところなく、布教伝道に専心する事が 出来るようになった。

清水小太郎の入信(明治25年)

明けて 明治25年(1892) 1月23日、
(当時) 改進党の領袖として重きをなしていた 清水(小太郎)は、
家伝来の鎧、兜に身を固め、政党の争いの渦中に 乗り込もうとした。

この時、松永(鶴吉)は、清水(小太郎)の前に 立ちはだかって、
「ここはどうあっても 行かないで欲しい。行けば 必ず自ら怪我するか、人を傷つけるか、まかり間違えば 死人を出す。私が 今日まで あなたの家にご厄介になったのは、雨露がしのげるの、3度の食事がいただけるの、村人の反対攻撃が防げるの、そんな事が有難くて 居たのではありません。まさかの時には、我が命 捨ててでも この人 救けんならんと思って、今日まで その機会を待っていたのです。どうしても行きたい というのなら、私の手足の骨を折ってから 行ってくれ」
と、熱誠こめて 諫止した。

その (松永鶴吉の) 真実誠 (の姿) に、さすがの清水(小太郎)も 深く 心を打たれ、改めて 神様の話を聞くことになった。

(じっくりと 神様の話を聞いた清水小太郎は、改めて 深い感銘を受けた。
(そして) ここにおいて、ついに 清水小太郎は) 家屋敷一切を捧げ、底なしに飲む程 好きな酒も断って、神一条に 身を委ねる決心をした。

斯道会 550号講の結成(明治25年)

(地域の名士である 清水小太郎が 天理教に入信したのを見て)
「清水(小太郎)さんが信仰されるのなら 間違いあるまい」
と、村人たちも 続々(と) 入信(した)。

同年(明治25年) 2月末(には)、
早くも、清水(小太郎)を 講元に、
北原鍋吉・宮下勝蔵 を講脇として、
斯道会 550号の講を結成した。

能登出張所の天理教教会本部お許し、石川県庁の申請却下(明治25年〜明治26年)

さらに、宮下勝蔵が (斯道会) 717号、吉野利作が (斯道会) 718号を結成。
相携えて信仰に励んでいたが、
(しばらくすると) 3講 (=斯道会550号・717号・718号を) 合同(して) 教会(を) 設置(しようという) 機運(が)熟した。

(その結果)「能登出張所」設置願が提出され、
同年(明治25年) 11月22日付で (天理教教会本部の) 許しを頂いた。

越えて、(明治)26年 2月8日、
地方庁出願の許しを受け、石川県庁へ願書を提出した。
しかし、(石川県庁への申請は) 
(明治26年) 3月16日付けをもって「詮議 及び難し」として 却下された。

清水小太郎の弟・町駒小五郎の生い立ち

清水小太郎の 弟・町駒小五郎は、
慶応2年(1866) 8月8日、
町駒小三郎の次男として 出生(した)。

(町駒小五郎は) 頭脳明晰、学問を好み、
明治21年6月、第4高等中学校 (後の 第4高等学校) に入学。
(しかし、入学後)  僅か 3〜4ヵ月で、脳神経・脚気などを患い、電気治療、海水浴、温泉治療など 八方手を尽くしたが、さらに効なく 悪化するばかりであった。

町駒小五郎の入信(明治26年)

(もともと) 兄・小太郎の信仰を 冷眼視していた (町駒)小五郎であったが、
母・ふで (から 神様へお願いしてもらうことを たびたび懇願され、
ついに、母の) 切なる勧めに従い、神様に すがる気になった。

(疑心暗鬼の状態で おたすけを受けた 町駒小五郎であった)が、
松永(鶴吉)の ただ1回の おさづけで、(なんと) 永年の患いが 快癒したので(あった。

自らの身をもって 不思議なご守護を体験した 町駒小五郎は)
ここに(おいて) 翻然として 悟るところ(が)あり、
入信2日目に(して)、早くも、松永(鶴吉)とともに 奥能登・輪島へ 布教に出かけた(のだった)。

町駒小五郎、出張所請願委員に就任 〜 遠隔地布教の取り組み(明治26年頃〜)

地方庁から 設立願書が却下されるや、町駒(小五郎) が選ばれて「出張所 設立請願委員」となり、県庁との交渉に当たった。
しかし、入信(して まだ)日(の)浅い 町駒(小五郎) は、(石川)県庁側の質問に 明快に答えることができなかった。

そこで、町駒(小五郎) は、おぢばへ 初参拝。
その結果、大いに得るところ(が)あり、第2回請願の 準備を始めた。

(この頃、能登出張所 一同は、 地方庁からの認可が降りず) この地方では 十分な布教活動が出来ないので、遠隔地布教を 思い立った。

松永(鶴吉)は、富山県伏木港から 海路(で) 新潟県直江津に渡り、柏崎を経て長岡に達した。
(長岡に到着した 松永鶴吉は) 魚屋・細貝松太郎に にをいがけ、、、、、し、その従弟・佐藤嘉吉の おたすけを行った。
(そして) その後は、町駒(小五郎) を伴って、富山県 高岡・氷見・新湊方面に布教をした。

(また) 曽山又四郎は、奥能登・珠洲方面に出かけ、北原鍋吉は、石川県 羽咋郡方面に(出かけて) 布教を行った。

能登出張所から鹿島出張所に改称し申請 〜 待望の地方庁認可(明治26年)

かくて、同年(明治26年) 9月18日、
再度、地方庁出願の件を 神様にお願いした。

この時は、名称を「能登(出張所)」から、郡名をとって「鹿島(出張所)」に改めて 申請。
(まず、天理教)教会本部の許しを受けた。

(続いて) 同年(明治26年) 10月、
町駒(小五郎) が 単身 金沢へ乗りこみ、地方庁への 請願運動を続けた。
(そして) 同年(明治26年) 12月11日付(で) 
ようやくにして、地方庁の認可を 得ることが出来た(のだった)。

「鹿島出張所」初代所長として、上級・越乃國支教会から 谷川豊吉を迎えた。
しかし、(谷川豊吉は) 上級の勤めもあり、(また) 家が 敦賀にあったこともあって、
鹿島(出張所) へは ほとんど顔を出さず、清水(小太郎) が 専ら すべての采配を振るった。

教会の移転建築へ着手(明治27年)

(鹿島出張所の)遠隔地布教も 次第に成果があがり、内部が充実して(きた。
そうなって)くると、これまでの礼拝所では手狭を感じ(るようになり)、神殿建築の議が持ち上がった。

(そこで、石川県) 鹿島郡 島屋村大字今羽坂イの12番地(の) 清水小太郎の地所に、「鹿島出張所」建築を願い出た。
(その結果) 明治27年5月5日(に、天理教教会)本部の許しを頂いた。

続いて、同年(明治27年) 9月6日 手斧始め、10月26日 石搗き、11月6日には 上棟式の許しを受け、
504坪2合3勺の敷地に、
間口 6間、奥行き 10間の神殿、
3間に5間の詰所、さらに 教祖殿・客室のふしんが始まった。

相次ぐ部内教会の設立(明治28年〜明治31年頃)

かかるうちに、
明治28年(1895) 11月29日、曽山豊次郎 を所長として 長岡、
同日(11月29日)、町駒小五郎 を所長として 中越、
以上の 両出張所が生まれた。

さらに、
明治29年9月21日、曽山又四郎 を所長に 珠洲、
(明治)31年7月16日、北原鍋吉 を所長に 羽咋、
以上の各出張所が 誕生。

(また) 
長岡、中越 の部内教会も、次々と 設立された。

谷川豊吉初代所長の辞任、清水小太郎2代所長の就任(明治29年)

明治29年3月18日付で、谷川(豊吉)の後をうけて、
清水小太郎が、2代目所長に 就任した。

苦難を乗り越え、神殿ふしんの完成(明治33年)

(明治27年から取り掛かっていた) 教堂ふしんのために、(清水小太郎2代所長は) 清水家の 田畑山林 ことごとく伏せ込んだ。
また、池上愛太郎はじめ役員・信者たちも、すべて 財産を伏せこんだ。

(そのため、出張所内の一同は) 次第に 生活に窮するに至ったが、(しかし そのような苦しい中も 皆で力を合わせて耐え抜き)
満5年を費して、明治33年(1900) に 神殿が落成した。

同年(明治33年) 11月29日鎮座祭、翌30日には開筵式が挙行され、多数の信者が参集して、空前の賑わいを見せた。

膨れ上がる債務、激しい困窮時代(明治33年頃〜明治35年頃)

(明治33年に) 教堂は 立派に出来上がり、新築落成奉告祭も 盛大に行われたわけだが、(その少し前の) 明治29年の 内務省秘密訓令による 官憲の圧迫干渉によって、(鹿島出張所においても、徐々に) 布教は 困難を極め(るようになっていた。)

(そのような状況下にあって) さらに、日清戦役後の経済不況の波が この地方にも押し寄せ(てき)た。
教堂建築によって生じた負債が、日に日に膨らんでいった(のである)。

(日に日に膨れ上がる債務によって著しい困窮状態に追い込まれた 鹿島出張所では) 
役員・信者の離れて行く者が相次ぎ、(清水小太郎) 所長一家をはじめ 居残った人々は、その日の糊口に窮し、神様のお供えも 思うにまかせぬ状態に立ち至った。

清水小太郎2代所長の辞任、宮下勝蔵3代所長の就任(明治35年)

かかる中に、
明治35年3月22日、
清水(小太郎)に代わって、宮下勝蔵が3代所長に就任(した。)

教会建物の喪失、粗末な長屋への移転(明治40年)

(3代所長に就任した宮下勝蔵は、事態の) 挽回策を (あれこれ) 講じたが、
その甲斐なく、負債は ますます増えるばかり(であった。)

(そして) 遂に(は) 奉告祭後 7年目の 明治40年(1907) に至り、
折角 建てた教堂も 人手に渡さざるを得ない破目に(まで) 陥っ(てしまっ)た。

同年(明治40年)12月6日、(鹿島出張所は) 
(石川県) 金沢市 下小川町48番地の
2間半に6間の 粗末な長屋に 移転の余儀なき事態に立ち至った。

清水小太郎初代講元・宮下勝蔵3代所長の出直し、町駒小五郎4代所長の就任(明治41年)

(そうした 辛く苦しい状況の中) 
創始以来、鹿島の道の発展に尽くした 初代講元・清水小太郎が、
明治41年5月26日に 出直した。

また、(それに加えて、なんと) 3代所長・宮下勝蔵(まで)も(が)、
同年(明治41年) 7月28日に 相ついで出直した(のだった。)

(このような) 疲弊のどん底とも言える (鹿島出張所であったが、
そのような鹿島出張所において) 明治41年11月22日、
町駒小五郎が4代所長に就任した。

鹿島支教会へ昇格(明治42年)

(清水小太郎 初代講元・宮下勝蔵3代所長の出直し、町駒小五郎4代所長の就任… と 大きな節が続いた 鹿島出張所であったが)
しかし、(そうした激動の中でも) 遠隔地の教線は 次第に伸びて 部内(は) 13ヵ所に達し、
明治42年(1909) 2月28日、
鹿島出張所は、支教会に 昇格を許された。

教祖40年祭活動、教勢倍加運動(大正10年〜大正15年)

大正10年(1921) 10月、
(天理教教会本部より) 諭達 第13号をもって、大正15年1月に 教祖40年祭を執行する旨(が) 発表され、(教勢) 倍加運動が 提唱された。

町駒(小五郎)会長はじめ 役員一同(は)、(天理教教会)本部の提唱に応えるべく、部内教会の巡教につとめ、真剣に 倍加運動を推し進めた。

その結果、
同年(大正10年) 3ヵ所、
同(大正)12年には、北海道に教線が伸びて 宗谷宣教所 (中越部内)、
また、石川県鹿島郡 七尾町に、直轄の 七尾宣教所が、岡峰東造によって設立された。

(そして) 同年(大正12年) 中に 6ヵ所、
同(大正)13年に 3ヵ所、
年祭前年の大正14年には、一挙に 25ヵ所の新設をみた。

大正15年に入り、(教祖40年祭) 第1回 祭典執行の前日(の) 1月14日に 1ヵ所設立の許しを頂き、提唱以来 37ヵ所が新設された。
(鹿島支教会は、教祖40年祭 執行時に) 部内教会数 57ヵ所(となり)、提唱前の2倍半に達した。

鹿島分教会へ昇格(大正14年)

この間、大正14年(1925) 7月25日、
支教会から分教会に 昇格(した)。

教会の移転建築(昭和2年)

(分教会へ昇格後) 
同市(金沢市) 馬場2番丁14番地 (現在:東山3丁目10-17、地番変更) に 400坪の土地が購入できて、移転建築の許しを頂いた。

当時、教会会計には 13銭しか残っておらず、
(町駒小五郎)会長はじめ 役員一同、毎日 お粥をすすって過ごしていた時代であった。
(鹿島)部内一般も (教勢の) 倍加倍加で 疲れ切っていたが、
不思議なご守護を相次いで受けて、
昭和2年(1927) 4月、
ようやく 形だけの神殿ができ上がった。

(そのような状況の中) 月次祭の前日(の)17日に 急に話が決まって、
(金沢市) 下小川町の旧教会から (新天地である 金沢市馬場2番丁へ) 神様のお遷りを頂いたのであった。

移転直後を襲った金沢大火、火炎をはねのけた鹿島分教会の奇跡(昭和2年)

(金沢市の下小川町から馬場2番丁への移転を果たした) その5日後(の) 4月22日早暁、
(なんと) 金沢市はじまって以来の 大火事が発生し(たのであった。)
(この大火事は、金沢)市の中心部 800戸を烏有に帰し(た程だった。

(その大火事の猛威は 鹿島分教会にも どんどん接近し) 
未だ 屋根瓦もあがっていない新教堂も ドンドン火の粉をかぶった。

(そのような危機的状況の中、
教会の) 留守を守っていた 清水秀一 役員は、
「神様のお鎮まりを頂いた以上は 絶対に焼けない」
との信念(を)固く(持ち)、神前に額いたまま その場を離れず 頑張り通した。

(今にも猛火が教会を飲み込むか と思われた時、驚くべきことに) 急に風向きが変わった。
(鹿島分教会は、
後に「彦三の大火」として語り継がれる 金沢の大火事の渦中で) 
あやうく類焼を免がれるという 不思議な験しを見せられたのであった。

新たな部内教会の設立(昭和初期〜昭和10年頃)

大正末から昭和のはじめにかけて、金沢市の地元にも ぽつぽつ直轄(の) 信者ができ(ていった。)
(鹿島分教会一同は、その後も) 熱心に布教、おたすけにつとめた結果、
昭和9年(1934) 4月25日付にて、
袖江 (所長:多田隆三郎)
陸牧 (所長:曽山豊蔵) 
以上の 両 直轄宣教所が生まれた。

(また) 翌(昭和)10年10月24日には、
東金沢・金大樋、両宣教所 (いずれも後に 袖江部内となった) が 設立された。

鹿島大教会へ陞級(昭和16年)

太平洋戦争中は、(鹿島分教会においても) 専ら ひのきしんに力が注がれ、布教活動は いささか 沈滞気味となった。

(そのような中でも、鹿島分教会は) 
昭和16年(1941) 7月27日付にて、越乃國大教会から分離(し)、
本部直属の 大教会に陞級した。

時に、部内教会数(は) 70ヵ所(だった)。

町駒小五郎4代会長の出直し・清水秀一5代会長の就任、5代会長時代(昭和18年〜昭和31年1)

昭和18年(1943) 7月13日、
明治41年(に)4代会長に就任(して)以来、足かけ36年の長きにわたり、
鹿島の最も困難な時代に 教祖のひながたを見つめ 神一条に徹して 部内の修理・育成につとめた「町駒小五郎」が、
病にわかに改まって出直した。

(町駒小五郎4代会長の出直しを受けて) 
同年(昭和18年) 10月28日付で、
鹿島の草分け(の) 初代講元・清水小太郎の 長男・秀一が、5代会長に就任(した)。

(清水秀一5代会長は)
戦後の混乱を治め、(鹿島) 部内全体の向かうところを示して、ゆるぎなきものとし、
越えて、昭和31年(1956) 10月27日付で、嗣子・仁平に 会長職を譲って後も、引続き 部内の修理育成につとめた。

おぢばにおける信者詰所の変遷(昭和35年〜昭和51年)

(鹿島大教会は) 分離陞級後も、おぢばでは、引続き 越乃國大教会 信者詰所の一部を借りていたが、
昭和35年(1960) 5月27日(には)、元の 天理女子学院校舎の一部を借用し、独立の詰所とした。

(その後) 昭和40年6月、おやさとやかた東左1棟の前に 第9母屋を建築。
(第9母屋は) 前に別席場を控え、後ろに千人風呂があり、本部お勤め参拝や教庁関係も近く、絶好の場所に 新しい詰所を得た。
(鹿島大教会は) ここで 教祖80年祭を迎え、多数の信者が帰参、宿泊した。

その後も、年々 帰参者が増え、たちまちにして手狭となり、何かにつけて 不便をかこっていたが、
教祖90年祭を前にして、おやさとやかた北左4棟の1部を 詰所として使うようお言葉を頂いた。
(鹿島大教会) 全部内一手一つ、勇んで 年祭へのつとめに精進し、無事 (おやさとやかた北左4棟を) 完成して (教祖90)年祭を迎えた。


〔現住所〕〒920-0831  石川県金沢市東山3丁目10番17号
〔電話〕 076-252-2649

 (昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,194〜196)

おわりに

鹿島大教会写真①
ホームメイトリサーチ旅探天理教鹿島大教会 より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第109回目の今回は、
「鹿島大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

鹿島大教会AppleMapより①
AppleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも、鹿島大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

石川

後に 鹿島大教会となる 道の開拓者・松永鶴吉は、明治二十四年、敦賀郡愛発村曽々木の石灰山で働いていた時、突然の崖崩れに遭ったが、不思議にたすかった。
それを機に、にをいがけに出た。

ある日、能登から来た四国巡礼が、鶴吉宅に 一夜の宿を請うた。
旅人の足は 瘭疽ひょうそのため 馬の爪のようになっていた。
お願いをかけ、二週間くらいで 全快に近い御守護を頂いた。
巡礼から手紙を受け取った鶴吉は、その能登へ出向き、先々で 不思議な御守護を頂いたが、 神官、僧侶や村人の反対攻撃にあった。
鹿島郡鳥屋村へ行き、福島旅館に宿をとったものの、旅費を使い果たし、旅館の下働きをしながら布教に回った。
その地で 清水小太郎を導き、講を結んだ。

谷川豊吉名義の 能登出張所 (鹿島の前名) を 県に申請したが認可されず、交渉にあたった小太郎の弟・町駒小五郎は、教理を身につけるべく おぢばへ帰った。

二十六年、小五郎は 富山県高岡へ出〈後述〉、鶴吉は 新潟県長岡で 佐藤嘉吉 (長岡三代) をたすけた。
二十七年には 曽山又四郎が 奥能登へ布教に出て 角居藤太郎 (珠洲三代) を導いた。
鹿島は 小太郎二代所長のもとで、三十三年に神殿が竣工。
開筵式には、芝居小屋や見世物小屋が建ち、三日間 花火が 夜空を彩った。

折しも 日清戦争後の経済不況が立て合い、借財が焦げつき、憂色が襲ってきた。
四十年、河原町の 深谷源次郎が 北陸巡教の際、鹿島に立ち寄り「新規巻き直しの上、教会を設立した方がよい」と諭した。
金沢市小川町に移ってから 新天地が開けていった。

富山

鹿島系 中越の元一日は、明治二十六年、町駒小五郎が 高岡の荒川町 (現・定塚町) の宿屋から布教したことに始まる。
知人もなかったので、利屋町の銭湯の番台に 病人を紹介してほしいと 頼んでおいた。
料理屋東家の仲居が 番台から小五郎の話を聞き、胸を病んでいた 稲見某に それを伝えた。
稲見は 小五郎に、畠山平兵衛 (中越二代) を紹介した。
畠山家は 旧家で、平兵衛は 金融業を営む一方、司法調停委員などを務めていた。

小五郎は 三十日ほど連日、足を運んだ。
平兵衛は 妻に死別し再婚後、家庭的に満ち足りぬ わが境遇に いんねんを悟った。
また、小五郎が畠山家で出した茶も飲まず、座布団も使わない という真摯な態度と、説く教義の深さに感じ入り、信仰を始めるようになった。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,105〜106 )

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】109回目の当記事では『天理教事典』の中の「鹿島大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

鹿島大教会は、越乃国大教会から分かれた大教会ですね。
越乃国大教会は河原町大教会から分かれた大教会。
すなわち、斯道会の流れを汲む大教会。

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」斯道会に繋がる青年会斯道会「大教会系統樹」.jpg より

河原町大教会・越乃国大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

鹿島大教会写真④
ホームメイトリサーチ旅探天理教鹿島大教会 より

当記事では
『天理教事典』の中の「鹿島大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回もまた知らないことばかりでした。

お恥ずかしい話ですが、だいぶ昔、私は、漠然と、
鹿島大教会というのは 茨城県にある大教会なのだろう… 等と思っておりました (^^ゞ
Jリーグ「鹿島アントラーズ」に思いっきり引っ張られていたわけです。

しかし、鹿島大教会の「鹿島」は、茨城県鹿嶋市とは全く異なる、石川県の鹿島郡のこと。

もちろん、今は石川県にある大教会ということを知っていますが、
かつては、大真面目に 鹿島アントラーズのある茨城県の大教会のように思っていた というわけです。
お恥ずかしい… (#^^#)

また、名称に関する話題が出たついでに、名称に関して今回の勉強で初めて知ったことについて。
鹿島大教会は、最初は「能登出張所」という名称だったのですね。(これなら石川県とすぐわかる (^^)

「能登出張所」という名称でご本部のお許しを頂いて地方庁に申請したけれど、地方庁の認可がなかなか降りないため、「鹿島出張所」という名称に変更して再申請したところ、無事に認可を得ることができた、
それで「鹿島大教会」になった――
そういう経緯があったとのこと。
知りませんでした。

だからどう… というわけではありませんが、
教会の名称一つの中にも、様々な歴史が潜んでいるのだなぁ…ということを、今回、改めて感じた次第であります (^^)

鹿島大教会AppleMapより③
AppleMapより

それはともかく、
今回もまた、本当に全く知らないことだらけでした。

今回の書写学習の中で、まず印象に残ったのは、
越乃国支教会から能登へ布教に出られた松永鶴吉先生が、鹿島大教会の母体である斯道会550号の講元となる清水小太郎先生と出会ったシーンでした。

『天理教事典』によると、清水小太郎先生は、当時「羽坂の清水」と呼ばれて、近郷近在にその名を知らぬ者なし、といわれる程の学識・力量ともに 衆に勝れた俊豪であられたとのこと。

そんな地域の名士であられた清水小太郎先生が、
「自分の住む町にやってきて得体の知れない宗教の布教をしている奴がいる、それがどんどん広まっている」との噂を耳にした。
「その者は、聞くところによると、村人たちからの反対攻撃にも屈することなく、警察からの立ち退き勧告も無視して熱心に布教していてるらしい――」

義侠心あふれる清水小太郎先生は、
「警察の手におえんような者、わしが行ってつまみ出してやる」
と憤慨しながら、松永鶴吉先生の元へ乗り込み、直に対面された。
警察が持て余す程の人物なのだから、きっと胡散臭い怪しい人物に違いない、
と思いながら対面されたに違いありません。

ところが、会って話を聞いてみると
「噂に聞いていたのと違う、これは一角の人物だ」
と感じられた。

そして、なんと、
つまみ出すべく訪れた清水小太郎先生が、
逆に 松永鶴吉先生の語る教えに魅せられて、松永鶴吉先生を危険から守るために我が家へ匿われることに…  (°д°)

これは、表現が不適切かもしれませんが、
見方によっては「ミイラ取りがミイラになった」とも言えるわけで、
清水小太郎先生が地域の名士であられただけに、当時の石川県鹿島郡近辺の人々にとって、とてつもなく衝撃的なニュースだったのではないか、と想像致します。

鹿島大教会写真②
ホームメイトリサーチ旅探天理教鹿島大教会 より

清水小太郎先生の元に身を寄せることになった松永鶴吉先生でしたが、
『天理教事典』によると、
その地域の名士であられた清水小太郎先生に「家屋敷一切を捧げ、 底なしに飲む程 好きな酒も断って、神一条に 身を委ねる」程の凄まじい決断をするに至らせたのは、
政治の世界での 血生臭い抗争に出向いて行こうとした清水小太郎先生を、文字通り 体を張って命懸けで制止した 松永鶴吉先生の【誠真実】の姿であった、とのこと。

『天理教事典』には、
明治25年当時、清水小太郎先生は「改進党」の領袖として重きをなしておられた、
と書いてありました。

『天理教事典』の簡単な記述だけでは、
政党の領袖をつとめていた程の清水小太郎先生が「家屋敷一切を捧げ、好きな酒も断って」神一条の道に進む程の決断に至った経緯が、どうもピンとこないので、
それほどの大決断をさせた、松永鶴吉先生による「清水小太郎先生の抗争現場乗り込みを命懸けで制止した」という史実の背景というものを、ちょっと AIに聞いてみました。

今回は、Geminiに聞いてみました。

【Gemini への質問】

明治25年頃に、加賀・能登・越前あたりで、改進党などの政党による争いがありましたか?
あったとしたら、どんな争いでしたか?

【Gemini の回答】

明治25年(1892年)頃、
加賀・能登(石川県)や越前(福井県)を含む北陸地方では、日本の憲政史上でも類を見ないほど激しい政党間の争いがありました。

この背景には、
同年2月15日に行われた「第2回 衆議院議員総選挙」があります。

この選挙は、
時の松方正義内閣(品川弥二郎内相)が、政府に反対する「民党」(立憲改進党や自由党)を弾圧し、政府支持の「吏党」を勝たせるために行った熾烈な選挙干渉によって、各地で流血の惨事となりました。

特に石川県は、その激戦地の一つとして知られています。

1. 石川県(加賀・能登)での争い

石川県では、立憲改進党(民党)と政府支持派(吏党)が激突しました。

  • 抜刀壮士の襲撃 : 投票当日、金沢市近郊の石川郡や河北郡では、政府派の「壮士(政治活動家)」たちが投票所の前に陣取りました。
    彼らは日本刀を振り回して、改進党系の有権者が投票所に入るのを妨害しました。

  • 御手洗村(現在の白山市)の惨劇 : 2月15日の朝、石川郡御手洗村の投票場付近で、民党(改進党側)と吏党の支持者が激しく衝突しました。
    この際、民党側の人物が肋骨を抉られる重傷を負い、取材中の新聞記者までもが巻き込まれて負傷する事態となりました。

  • 「北陸新報」の受難 : 当時、改進党系の論調を張っていた『北陸新報』は、政府や警察から厳しい圧迫を受けました。
    記者が襲撃されるなど、言論の自由が暴力によって脅かされた時代でした。

2. 福井県(越前)での争い

福井県でも同様に、自由党や改進党を支持する勢力と、警察・政府支持派の間で激しい衝突が起きています。

  • 警察による妨害 : 警察官が戸別訪問して政府派への投票を強要したり、民党派の演説会を解散させたりといった公権力による露骨な干渉が行われました。

  • 有権者の抵抗 : 暴力を伴う妨害に対し、改進党側も「壮士」を雇って対抗しました。人力車で移動中の候補者が襲撃され、自衛のために拳銃を発射して応戦したというエピソードも残っています。

3. なぜそこまで激しかったのか?

当時の政治構造が、現在とは比較にならないほど「命がけ」だったからです。

  • 民党 vs 吏党 : 「節約」を掲げて政府予算を削ろうとする立憲改進党・自由党(民党)と、軍備拡張などを進めたい政府(吏党)の対立が極限に達していました。

  • 内務大臣の執念 : 品川弥二郎内相は「民党を根絶やしにする」ほどの勢いで警察を動員しました。
    これにより、全国で死者25名、負傷者388名を出すという、日本の選挙史上もっとも血なまぐさい選挙となりました。

いつもながら、一瞬で これだけの回答を出してくれる AIって 本当にすごい… (°o°)
と 驚いております。

鹿島大教会写真③
Googleストリートビューより

それはさておき、
このGemini の回答を見ると、明治25年当時の石川県における政治的対立というのは、言論による対立にとどまらず、暴力を伴う文字通り「血なまぐさい」抗争だったことがわかります。

で、清水小太郎先生は、その抗争のど真ん中におられた。
そして、今まさにその武力対決の場に出向かんとしていた時に、松永鶴吉先生は体を張って、命懸けでそれを制止された、というわけですね。

清水小太郎先生は政党の領袖であられたとのことですから、ちょっとやそっとの制止で思いとどまられるとは思えません。

きっと、松永鶴吉先生は、本当に狂気じみた程の熱量を持って、おそらく泣き叫ぶ程に絶叫しながら、清水小太郎先生を制止したのではないでしょうか。
その現場を想像すると、何とも言えない気持ちになります。

その結果、清水小太郎先生は、抗争の場へ行くのを思いとどまられた。
のみならず、「家屋敷一切を捧げ、 底なしに飲む程 好きな酒も断って、神一条に 身を委ねる」程の凄まじい決断をするに至られた。

教養があって社会的地位もあった清水小太郎先生にそこまでの人生大転換をさせた松永鶴吉先生――
松永鶴吉先生自身は、清水小太郎先生程の教育を受けた経歴はなく、また清水小太郎先生のように衆望を担って社会活動に携わった経験があったわけではありません。

しかし、それでも、結果的に、松永鶴吉先生の中には、清水小太郎先生の運命の分岐点ともいえるような場面でそれを左右するだけの力が存在していたと言えるわけです。

このような人の運命を変えた重い史実に触れて、
私の中に、人の運命を左右する程の力というのはどこから来るのだろう…という素朴な疑問で浮かんできます。

そして、そのような素朴な疑問を起点としてあれこれ思案をして最終的に辿り着くのは、
ありきたりですが、人の心を変えることのできるのは「誠真実」の心に他ならない、という心境なのでありました。

鹿島大教会の礎を築いた清水小太郎先生に運命切り替えの道を開いたのは、松永鶴吉先生の「誠真実」だった、という史実。

日々という 常という、日々常に 誠一つ という。
誠の心 と言えば、一寸には弱いように 皆 思うなれど、誠より堅き長きものは無い。
誠一つが 天の理。
天の理なれば、直ぐと受け取る 直ぐと返すが 一つの理。

よく聞き分け。

という『おかきさげ』のお言葉が、改めて 心に深く染み込んでくる気がします。

鹿島大教会AppleMapより②
AppleMapより

その他、今回の書写学習の中で 私が印象に残ったのは、
昭和2年の 教会移転直後の金沢大火の中で、鹿島大教会は 火事に巻き込まれる寸前で助かった、という史実でした。

昭和2年4月22日の金沢大火がどのようなものだったのか、
今度は、ChatGPTに聞いてみました。

【ChatGPT への質問】

昭和2年4月22日に 石川県で起きた大火事について 教えて下さい。

【ChatGPT の回答】

昭和2年(1927年)4月22日に 石川県金沢市で発生した大火は、
一般に「彦三の大火」(ひこそ/ひこさんのたいか) と呼ばれる大火災です。
当時の金沢では 最大級の 都市火災の一つでした。

🔥 彦三の大火の概要

  • 発生:昭和2年(1927年)4月22日 早朝
  • 場所:石川県金沢市・彦三町付近
  • 規模:市中心部 約800戸焼失
  • 性格:強風にあおられた延焼型の大火

金沢市史などでも、「市始まって以来」と形容されるほどの被害でした。

🔹 発生の経緯

出火は金沢市中心部の彦三町付近とされ、当日は

  • 空気が乾燥
  • 春先特有の強風
  • 木造家屋の密集

という条件が重なり、火勢が急速に拡大しました。
当時の金沢はまだ防火帯が十分でなく、
一度延焼が始まると市街地を一気に焼き抜く構造でした。

🔹 被害の状況

主な特徴は次の通りです。

  • 市中心部の住宅密集地が焼失
  • 約800戸が焼失(資料により若干の差あり)
  • 多数の罹災者が発生
  • 市街機能に大きな打撃

火の勢いは非常に強く、周辺地域では「市街が一面火の海」と証言されています。

🔹 金沢の都市史における 位置づけ

この火災は、近代以降の金沢において

  • 市街地防火の重要性を痛感させた事件
  • 都市改良・防火対策見直しの契機
  • 木造密集市街の危険性を露呈

という意味を持ちました。
明治以降も金沢は大火を経験していましたが、
昭和期初頭における象徴的な都市火災とされています。

🔹 宗教施設・周辺地区への 影響

火勢は広範囲に及び、
彦三周辺から風下方向へ延焼が進んだため、

  • 周辺町内の寺社・教会
  • 商家
  • 住宅地

が 次々と危険にさらされました。
記録によっては、風向きの変化によって類焼を免れた建物の証言も複数残っています。

🔎 まとめ

昭和2年4月22日の 金沢大火(彦三の大火)は:

  • 金沢市中心部から出火
  • 約800戸焼失の大規模火災
  • 強風下で急速に延焼
  • 近代金沢の防火史上重要な事件

でした。

ChatGPTの回答を読むと、かなり大規模な火災だったことがわかります。

そのような大災害の中でも、鹿島大教会は、
今にも炎に飲み込まれるかという状況の中、
急に風向きが変わって 危機一髪 延焼を免れたとのこと。

これまで、いろいろ 天理教大教会の初期歴史を勉強する中で、
鹿島大教会の他にも、奇跡的に大災害を免れた教会が 多く存在することを 学んできました。

たちまち 今思い出されるのは、
大森町大教会が 東京大空襲に際、3度も風向きが変わって、周辺一帯が焼野原になる中、ただ大教会神殿1ヵ所のみが残った、という史実ですが、

その他にも、
大規模災害や大空襲などで近隣周辺が次々と焼け落ちる中、不思議な力が働いて災害を免れるという奇跡を見せられた、
という歴史を持っている教会が いくつもあったと思います。

その中でも、特に 鹿島大教会の場合は、
昭和2年に 移転建築に取り掛かって「お目標めどう様」にお遷り頂いた直後に「彦三の大火」に遭遇したとのことで、
教会に猛火が接近しつつある時には、まさに阿鼻叫喚の状態だったのではないか と想像致します。

そのような大火事の中でも、教会の留守を守っていた 清水秀一先生は
「お鎮まりを頂いた以上は 絶対に焼けない」
との信念を固く持ち、神前にぬかずいたまま その場を離れなかった、
と『天理教事典』には書いてありました。

そして、清水秀一先生の信念の如く、
猛火が教会を飲み込むかと思われた時に 急に風向きが変わり、鹿島分教会は守られたのでした。

このような奇跡を見せられた当時の先人先生方は、
きっと、神様の存在を、
頭の中の理屈としてではなく、本当に実感を持つものとして 感じられたに 違いありません。
そして、それが、その後の 鹿島大教会の大発展の原動力になっているのでありましょう。

このような重い歴史を知るたびに、
自らの、頭の中で いろいろ理屈をこねまわすばかりの「頭でっかち信仰」への 気恥ずかしさが増す思いが致します。

そして それと同時に、
頭の中の理屈を越えた実感として神様の働きを感じ取れるよう、
そして、そこから、火事の中でも「絶対に大丈夫」ととどまり続けた清水秀一先生のごとき絶対的信念をつかみ取れるように、真剣に信仰実践に努めていかなければ…
との思いを強くするのでありました。

鹿島大教会GoogleMap③
Googleストリートビューより

その他にも、
後に4代会長に就任した 町駒小五郎先生は、
地域の名士だった兄(清水小太郎) が天理教に入信したのを冷ややかに見ていたのが、
それまで長らく患っていた多くの病気を、松永鶴吉先生のたった1回のおさづけでおたすけ頂いて、その感激から 入信して わずか2日後に 奥能登方面に布教に出られた――
という話。

また、
鹿島大教会においても、その初期に、
ほとんどの大教会が その初期に経験したと思われる 激しい困窮時代を経ていて、
明治40年には 鹿島出張所の教会施設が 借金のカタにとられて 移転を余儀なくされた――
という話など、
本当に知らない事ばかりでした。

どれもこれも、知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て とても勉強になりました。
有難いことでした。


当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「鹿島大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

鹿島大教会Google画像より
GoogleMapより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「鹿島大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

コメント

タイトルとURLをコピーしました