Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号27番「飾東大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号28番「東本大教会」について勉強します。
東本大教会(とうほん だいきょうかい)
中川よし初代会長の入信
東本大教会初代会長中川よしは、
明治2年(1869) 7月4日、
丹波篠山(現・兵庫県多紀郡篠山町) に、
明山謹七、同 宇能(うの) の長女として生まれた。幼時から心やさしく情け深い性格で、
子供心にもきわめて宗教心の厚い人であった。明治20年 7月、
(明山)よしは、丹波赤熊(現・京都府亀岡市東本梅町赤熊) の
中川弥吉と結婚した。明山家も中川家も、
元は 土地の豪族の流れをくむ裕福な家であったが、
明山家は 明治維新の激動に流され、
また 中川家は 結婚2年後に 弥吉が峠道の土木工事を請け負ったことが失敗して、
家産を傾けるに至った。このため 再起を図って(中川)弥吉夫婦は
明治23年春、
当時2歳の長男 庫吉を伴って 大阪南区 田島町に移住した。
弥吉の姉 いよの婚家の高向梅吉が この町に住んでいたためである。ある日、いよに導かれて、
松永好松(南大教会初代会長) より 教祖の話を聞かされた。
この時から、(中川)よしの 宗教家としての生涯が始まった。後年、(中川)よしは この時の心境を述懐して、
「初めて教祖のご履歴を伺った時、世の中にはこれほど尊いお方もあるのに、 数にも足らぬことに満足したり、不満を言ってきた自分の量見に愛想が尽きました。
ただもう 私は 自分を省みて恥じ入るばかりで、打ち倒れて泣きました」
と 言っている。
中川よし初代会長の赤熊布教
明治25年から29年の間、(中川)よしは
松永(好松) の命ずるままに、
郷里 赤熊で 困難な布教生活を続けて、
明治25年 4月、丹陽集談所を開設、さらに 3年半後、
(中川)よしの 赤熊布教当初からの最大の理解者であり 後援者であった
土地の名望家 日下部寅次郎を会長として
(出張所設立を)出願した。明治28年 10月30日、
丹陽出張所(現・南大教会部属 丹陽分教会) となった。なお、この間
明治26年 7月19日、
(中川)よしは「おさづけの理」を拝戴している。
中川よし初代会長の東京布教
明治29年 5月、
(中川)よしは 東京布教を志し、
庫吉、春子の2児を知人に託して
前年(明治28年) 9月
生まれたばかりの次男 光之助を抱いて
夫・弥吉とともに上京した。この年(明治29年) 4月には 内務省秘密訓令が発令され、
政府は 天理教撲滅を命じていた時代で、
布教活動は困難をきわめたが、
(中川)よしの 真剣捨て身の熱誠に
追々 教えを求める人がふえてきた。この時
郷里の母 宇能が 病(やまい)篤し との知らせで
(中川)よしは (明治29年) 11月に帰郷した。この母の病気は、
(中川)よしの 献身的「おたすけ」により、
すでにない命が 奇蹟的にたすかった。翌(明治)30年 11月27日、
(中川)よしは 再度 光之助を背に 単身上京した。夫・弥吉は
この時、関西九州方面に布教していた。
東本布教所の設置
かくして
宿なしの状態が約40日の後、
(中川)よしの人柄に打たれ、そのおたすけに浴した人々の話し合いから、
ようやく
明治31年 2月20日、
本所区外手町40番地(現大教会所在地) に1戸を借りて
落ちつくことになった。これから (中川)よしの布教は いよいよその白熱の度を加え、
明治31年 10月1日、
東本布教所(高安分教会 南支教会所属) の設置となった。
布教所→出張所→支教会→そして東本分教会へ
以来、この布教所は
旭日昇天の勢いをもって発展した。すなわち、
明治33年 4月14日 東本出張所に昇格、
明治39年 2月24日 東本支教会に昇格、
明治42年 2月5日には 東本分教会に昇格し、
この時、教師71名、教徒118名、信者2,000戸があった。大正8年(1919) 2月26日には 南分教会より分離、
高安大教会直轄となった。
中川よし初代会長出直し、中川庫吉2代会長の就任
大正11年 3月22日、
中川よし初代会長が 出直した。
享年54歳であった。同年(大正11年) 4月25日、
中川庫吉が2代会長に就任した。この時
支教会が 1ヵ所、宣教所は 76ヵ所 設置されていた。
分教会→中教会→そして東本大教会へ
昭和9年 1月25日、
東本は 中教会に昇格し
高安大教会より分離、本部直属となった。翌10年 10月24日には
分教会4ヵ所、支教会28ヵ所、宣教所274ヵ所、教会2ヵ所となり
東本は 大教会に昇格した。昭和18年 6月から 7月にかけて
本保、本愛、本芝の 3教会が大教会に陞級、
東本より分離した。
中川聡佐3代会長の就任
昭和20年 4月18日に
中川庫吉会長は 本部員に登用され、
昭和33年 8月27日 中川庫吉は会長を辞任し、
中川聡佐が 東本3代会長に就任した。このとき 部内教会は
直轄163、部属340、の 計503ヵ所であった。
中川聡佐3代会長出直し、中川うめ子4代会長の就任
昭和48年 5月28日 中川聡佐が出直し、
このため
同年(昭和48年) 7月26日
夫人の うめ子が 東本4代会長に就任した。
東本大教会の建築物の変遷
東本大教会は
その草分け当時から現在まで 1度も移転せず、
6畳と4畳半の借家の集談所から張り出し、
建て増し、買い足し、建て替えて大きくなってきた。本格的な神殿普請は、大正8年頃から計画され、
木曽の山を28も買って、
向島に製材所を設けて始められた。途中で、
(中川よし初代) 会長の病気のため、
この建築は本部へお供えすることを申し入れたが、
「やはり東本でやれ」ということになった。この建築進行中、
大正11年 3月、
会長 中川よしが出直し、また、この普請も、
翌年(大正12年) 11月には上棟式をする段取りまで進行していたが、
その3ヵ月前、
大正12年 9月1日の関東大震災で 焼けてしまった。この経験を生かした現在の神殿は、
当時の神殿建築としては珍しい 鉄骨鉄筋コンクリート造りで、
間口12間 奥行25間の 壮大なもので、
昭和3年 11月3日 地鎮祭執行以来、約3年の歳月を費やして、
昭和6年 6月竣工、7月20日 落成奉告祭を執行した。この神殿は、第2次世界大戦中の激しい空襲にも耐えて、
一望焼け野原となった中で、多くの生命を守ったのである。この神殿普請に並行して、東本アパートの建築も進められ、
昭和8年 7月完成し、
地下にボイラー室、風呂場、炊事場、食堂などを設け、
地上部分は、会議室、大広間、役員室、住み込みの「おたすけ人衆」の部屋などに使われることになった。
集談所から神殿普請に至るまでのあらまし
東本の集談所から始まって、神殿普請にいたるまでのあらましを
順を追ってみると、次の如くである。明治31年 2月20日、東京市本所区外手町40番地に一戸建ての家を借り 集談所開設、
同年(明治31年) 11月16日、東本布教所開所式に際して、9尺のトタンの張り出しをつくり、
明治34年 5月7日 布教所時代の建物、9坪1棟を買い取る。明治34年 6月28日、最初の神殿建築にかかる。
(明治34年) 12月21日に 3間半に6間半、22坪7合5勺、木造瓦葺の平家建1棟が落成し、鎮座祭執行。明治35年5月 12日、隣接家屋2棟18坪5合、
同(明治35年) 9月9日、隣接家屋1棟43坪余を買い取る。明治37年 5月、内部子弟 並びに おたすけ人の教養を高めるため 境内地に夜学校開設。
大正6年 4月、かねて建築中の客殿 竣工(1階56坪3合5勺、2階42坪2合5勺、計98坪6合)
同年(大正6年) 9月19日、染井の地に 東本共同墓地 竣工(総坪数472坪)
大正8年 5月19日、東本分教会教祖殿 完成(木造瓦葺平家建1棟47坪)、
同年(大正8年) 10月1日、東本分教会 神殿建築計画発表。
木造瓦葺平家建、入母屋造り、正面千鳥破風唐破風三重層、間口南北12間、奥行東西16間、建坪192坪、建築予算 約10万円。大正9年 6月14日、向島曳舟製材所において、礼拝殿建築起工式を執行した。
大正10年 7月末日、この時点の境内地の模様を概観すると、
東京市本所区外手町40番地、宅地1,877坪。
東京市本所区番場町18番地、
修徳夜学校敷地339坪、教祖殿47坪、仮神殿(階上52坪、階下56坪)、居宅平家建5棟、委員部2階建1棟、土蔵3棟、本所区番場町、旧佐竹子爵邸買収(木造平家建1棟、木造2階建1棟)
である。この頃(大正10年頃)より、中川よしは不快を感じていたが、
9月3日より 病床に臥すようになり、
翌 大正11年 3月22日午前4時41分、
享年54歳で 出直した。その 1週間前の 3月16日、
重態の(中川よし初代) 会長が 急に 月島に行きたいといい、
月島の境内に 丸1日で 2階2間の家を建築した。月島とは
長男・庫吉の担任する 本月宣教所のことである。その後 大正11年 6月16日、
工事の進捗とともに 境内建物取り払い、
神殿位置を決定して 掘り方が始まる。客殿2階の奥に神殿を増築し、階下の座敷全部を拝殿とし、遷座祭執行、
旧神殿は取りこわして 本月宣教所内に移築した。大正12年 8月30日、
敷地拡張と普請のため支障をきたしていた 西隣の40坪の家屋を土地付きで買収、
普請は順調に進んでいたが同年(大正12年) 9月1日 午前11時58分、関東大震災が発生し、
東本分教会は
仮神殿、教祖殿、会長室、炊事場、土蔵、修徳夜学校の2階家、新神殿用材のことごとくを
焼失した。2代会長 (中川)庫吉は、
焼け跡に 焼けトタンで仮小屋を造り、
「ここを一歩も動かず」と復興を決意し、
同年(大正12年) 12月30日、
曳舟にあった残材で仮神殿を完成、鎮座祭を執行した。大正14年 5月17日、
東京府調布町に 六踏園 青年修練道場を開設し、
昭和2年 12月、
伊豆大島元村に 六踏園 大島農場を開設して
少年保護教化活動を志した。昭和3年 10月10日には
東京府南葛飾郡 吾嬬町西7丁日27番地に、
少女保護「皐月の家」を開設した。また同年(昭和3年) 6月1日、
東本アパートの建築認可を得て 起工式を執行した。昭和6年 6月30日、震災復興建築の神殿が竣工。
鉄骨鉄筋コンクリート鋼板葺平家建、
地下1階、間口12間奥行25間、総坪数629坪であった。また昭和8年7月6日、
東本アパートが竣工した。
地下1階地上3階一部4階、鉄骨鉄筋コンクリート造り、総建坪1,191坪である。一方 昭和9年 10月3日、東本中教会詰所を
奈良県山辺郡 丹波市町別所100番地に建築した。
この敷地 坪数 5,923坪である。
関連事業、施設の経営
初代会長 中川よしは、
幼時より 人一倍苦労を味わっているためであろうか、
信仰に入ってからも
教祖の言葉の中で
「谷底せり上げ、一れつろくぢ」
の思想に 強く共鳴した。その日暮らしの生活に明け暮れする 東京下町の真中で、
体当たりの布教活動の中から、
親神様の思いを悟ってもらうには 最低このくらいの教養は必要だと痛感し、
そこに 学校設立という
煩雑な政治的手続きや交渉や 当時の東本とすればかなりの費用を投じても悔いない
情熱と意義とを見出した。東本夜学部(後に修徳夜学校を経て、現在の修徳高等学校となる) は、
教育の対象を、
教内がもちろん主であったが、それに限定せず 一般からも受け入れ、
授業料と教材は無料支給という形を かなり後まで実行し、
経営上その他の都合から授業料を取ることになっても、
修徳は 講師が充実しているのに安い という定評があった。この姿勢は (中川庫吉)2代会長の代になると さらに拡大され、
世の恵まれぬ子女の保護更生に 一生情熱を傾け尽くした。社会事業上の名称に「六踏園」とつけたのは、
「世界を六地に踏みならす」
との 世界人類救済を念じられた神言に基づいて つけたものである。天理教の信仰者にとっては、
「たすけ一条」が主であって、
社会事業は どうしても 従として考えがちである。東本部内でも、有力な人ほど そういう考えが多かったから、
こんな中で有為の人材を集め 経営していくには、
一方ならぬ苦労をなめた。ある時など、
上級の会長に呼びつけられ、
「六踏園などやめてしまえ」と叱られたが、
「私は 社会事業は死んでもやめられない」
と 初志を貫き通した。また 昭和2年、
伊豆大島に大島農場を開設したが、
数年後に 収容した少年たちによる騒擾事件が起こり、
この不祥事は 当時 新聞雑誌に大きく報道せられたので、
六踏園はもうやめるだろうと、
監督官庁の司法省でも 一様に思っていた。そんな中、
中川庫吉園長は 司法省に挨拶に行き
「やめさせてもらいます」と言うどころか
「今後 なお一層 自粛、緊褌一番やらせてもらいます」
と言ったので、
役人連中は目を丸くして
「まだやるのですか」と驚いた
という話が伝えられている。
関連事業、施設の消長と現況
以下 (関連事業及び施設経営の) その消長と 現況の概要を記す。
1、修徳学園中学校
2、修徳高等学校 (男女共学、全日制(普通科・商業科) 定時制、商業科)明治37年5月、教会への住み込み人とその子弟の教育のため東本夜学部として発足し、
大正2年 2月13日 修徳夜学校として正式に認可を受け、
昭和5年 3月12日 修徳実業学校、
昭和6年 3月23日 修徳商業学校、
昭和22年 4月 学制改革に伴い、修徳学園中学校、
昭和23年 4月 新学制により 修徳高等学校と、
幾多の曲折を経て 発展を遂げてきた。【六踏園】
1. 青年修養道場 調布農場 大正14年 5月17日設立、 東京都下調布町下石原
2. 青年修養道場 調布第二農場 大正15年 5月設立、 東京都下調布町小島分
3. 東京事務所 大正15年 10月1日設置 東本大教会内
4. 司法保護団体 六踏園 認可 大正15年 10月15日
5. 大島農場 昭和2年 12月設立 東京府伊豆大島元村字北野一
6. 皐月の家 昭和3年 10月10日設立 東京府南葛飾郡吾嬬町西7-27
7. 六踏園 皐月学園 昭和4年 5月14日認可
8. 鳥喰(とりはみ) 農場 昭和5年4月開設 昭和6年 1月14日認可 千葉県横芝町鳥喰
9. 沼島(ぬしま)学園 昭和5年 12月認可 瀬戸内 海淡路島西南の孤島、周囲2里
10. 沼島学園 印刷所 昭和6年 12月19日認可 大阪市東成区 本阪支教会内
11. 高鍋学園 昭和6年 4月1日設立 宮崎県児湯郡上江村
12. 淡路学園(沼島より移転) 昭和10年 12月兵庫県三原郡広田村 (淡路島)
13. 財団法人 六踏園に 組織変更 昭和11年 9月8日 認可これらの事業は
戦況の進展と 戦後の情勢の変化により 休止改変を余儀なくされ、1. 調布学園(養護施設)、
昭和23年 1月1日 児童福祉法施行により 同日付認可
(調布農場を改称し、戦災孤児、引揚孤児、浮浪児の収容施設として再発足す)。2.皐月母子寮、
児童福祉法により 昭和24年 4月1日認可。3.皐月保育園、
児童福祉法により 昭和26年 9月12日認可。以上の3施設が残り、
昭和27年 5月17日、
財団法人から、社会福祉法人 六踏園と組織変更の認可を受けて、
現在(『天理教事典』1977年版出版当時=昭和52年) に至っている。
東本の道の広がり
東本は
初代会長以来、東京本所の地を動かないこともあってか、
東本伝道線は 東京を中心に、その輪を広げている。昭和49年 5月末統計で
部内教会531ヵ所の分布を見ると、
東京都内243、関東6県150、計393で、
全体の74%を占めている。次に多いところは
関西近畿地方で 82ヵ所、15%だが、
大阪32、兵庫29、京都13、和歌山4、奈良2、三重2
となっている。以下 多い順に府県別で示すと、
北海道 8、
静岡 6、
宮城、福岡、宮崎 5、
岐阜 4、
福島、広島 3、
愛知、岡山、大分、長野、新潟 2、
富山、福井、山口、長 崎、鹿児島、高知、香川 1、
米国ロスアンゼルス 1、
となっている。〔出版物〕
機関誌『とうほん』 (季刊、昭和25年10月16日創刊)
東本大教会史編纂委員会編『東本大教会年譜表』(昭和43年10月16日東本大教会発行)
高橋兵輔著『中川與志』前篇(昭和16年4月20日天理時報社刊)
高橋兵輔著『中川與志』(昭和24年7月20日道友社刊)
東本大教会 史科集成部編『偉なるかな中川よし』(昭和27年3月22日東本大教会発行)〔現住所〕 〒130 東京都墨田区本所1丁目13番17号
〔電話〕03-3625-1171(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,601〜604)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
28回目の今回は、
「東本大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】28回目の当記事では
『天理教事典』の中の「東本大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
東本大教会は、高安大教会から分かれた大教会ですね。
高安大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
東本大教会と言えば、「中川よし」先生。
さまよう落ちこぼれ天理教信者の私でも、
そのご高名は存じ上げております。
今に比べると遥かに感性豊か(?)だった高校時代に、
たまたま家にあった高橋定嗣先生著『大いなる慈母』(道友社)を読んで
「こんな凄い天理教の人がいるのか‼」
と 強い衝撃を受けたことを覚えています。
あまりの衝撃で、
当時、今ほど本を読む習慣が身についていなかったこの私が、
関連本を探して、
高橋兵輔先生著『中川輿志』という分厚い本を
続けて読んだことが思い出されます。
天理教に縁のある生涯を与えて頂いた関係で、
当時も、私の身の周りには「天理教」があふれていました (笑)
しかし、
正直なところ、天理教についてあまり関心もなく、
掘り下げることもないまま日々を送っていた私でした。
そんな私でしたが、
高橋定嗣先生の書かれた『大いなる慈母』という本を読んで、
何を考えているのか分からないとよく言われる無表情・不愛想のこの私が、
心が震える程感動し、思わず涙が出たのでした。
天理教の人って、こんなすごいことしていたんだ…と。
今回、東本大教会について勉強する機会に、
本棚の奥から『大いなる慈母』を探し出して、
久しぶりに読み返してみました。
また、涙が出ました。
昔読んだことがあるので、かつての記憶の再想起…みたいになるわけですが、
それでも、
再読することで、昔の感動が甦ってくるというか、
失ってしまった純粋な気持ちを思い出すというか、
そういう感覚になりました。
今回、
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】「東本大教会」学習の回にあたり、
高橋定嗣先生著『大いなる慈母』を再読する機会を与えて頂いたお蔭で、
改めて、
「中川よし先生」の凄さ、
お道初期の先人先生方の 文字通り「命懸け」の信仰姿勢に触れることが出来ました。
それは、
先人先生方のそうした「命懸け」の信仰で【因縁】を切り換えて頂いたことによって
今の結構さがある、
ということを思い返す契機となりました。
お道にたすけて頂いた魂の系列に連なる者として、
時の流れとともに忘れてしまいがちな
そうした信仰の原点を、
折に触れて思い返していくようにしなければ…
と 気持ちを新たにさせて頂いたのでありました。
今回の『天理教事典』「東本大教会」の解説文を通して、
東本大教会の社会福祉事業の幅広さを、初めて知りました。
毎年、高校野球で活躍する「修徳高校」が東本大教会と関係あることは有名ですので
無知な私でも知っていましたが、
その他にも、
社会福祉法人 六踏園として、
養護施設・調布学園、皐月母子寮、皐月保育園なども
創設、運営しておられたのですね。
素晴らしい…ただ感動するばかりです。
また、
順調に進んでいた普請が、関東大震災によってことごとく消失!
にもかかわらず、中川庫吉2代会長は
焼け跡に焼けトタンで仮小屋を造り「ここを一歩も動かず」と復興を決意し、
その後、見事に復興を遂げられた話――
ただただ感動しました。
――その他のことも含め、今回も知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「東本大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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