Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号61番「治道大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号62番「都賀大教会」について勉強します。
- 都賀大教会(つが だいきょうかい)
- 都賀大教会のはじまり
- 速水久治良による北関東布教
- 日光大教会創設者・速水久治良、入信前の経歴
- 速水久治良と磯部久兵衛
- 速水久治良と田中善太郎の再会(明治12年)
- 速水久治良と田中善太郎の再会(明治12年)
- 速水久治良の関東布教(明治23年)
- 田中善太郎、信仰との出会い(明治23年〜明治24年)
- 田中善太郎長男・田中幸次郎の不思議なたすけ(明治24年)
- 都賀の礎を築いた田中幸次郎、その短い生涯
- 斯道会 第505号の結成(明治25年)
- 講社の拡大(明治25年〜明治26年頃)
- 都賀出張所の開設〜地方庁の認可(明治28年〜明治29年)
- 教勢の拡大〜神殿建築、田中善太郎2代会長就任(明治29年〜明治32年)
- 都賀支教会への昇格〜速水岩吉3代会長の就任(明治34年〜明治38年)
- 甲賀大教会 都賀分教会への昇格〜田中善太郎4代会長再任(明治42年)
- 田中善太郎4代会長の出直し〜林勝造5代会長の就任(大正4年)
- 役員の離散、沈滞する教会(大正5年頃〜大正10年頃)
- 老沼孫四郎6代会長の就任〜都賀分教会の再建(大正11年〜昭和3年頃)
- 老沼孫四郎6代会長出直し〜老沼宗三郎7代会長の就任(昭和3年〜昭和3年頃)
- 日光中教会 都賀分教会への改称〜部内教会の分離(昭和8年)
- 都賀大教会への昇格(昭和15年)
- 教会の整理〜神殿改造他ふしん(昭和15年頃〜昭和18年)
- 老沼宗三郎7代会長出直し〜老沼なつ8代会長の就任(昭和18年〜昭和3年頃)
- 教祖60年祭〜教祖70年祭(昭和21年〜昭和31年)
- 老沼なつ8代代会長辞職、老沼渉9代会長の就任〜昭和中期(昭和32年〜昭和42年頃)
- おわりに
都賀大教会(つが だいきょうかい)

都賀大教会のはじまり
都賀2代会長 (初代会長は 甲賀より 柏木六左衛門が来て担任)
田中善太郎 一家への信仰は、
明治23年(1890)、
日光大教会 創設者・速水久治良との交遊関係を通して、伝えられた。
速水久治良による北関東布教
速水久治良は 典型的な近江商人であり、
従って、日光を中心とする北関東の4ヵ所の大教会 (日光、都賀、中根、那美岐) の信仰の集まりは、
この近江商人が作った経路を辿って伝えられ、発展したものであるといえる。
日光大教会創設者・速水久治良、入信前の経歴
速水久治良は、入信前の近江商人時代に、
次のような関係で、田中家とのつながりをもっていた。(速水)久治良の 実姉・イソ は、縁あって 速水久左衛門の許に嫁いでいた。
この(速水)久左衛門の出店は『近江屋』と号して、下野国 下都賀郡 間々田にあり、
手広く 雑貨・荒物商を営み、地方屈指の店として繁昌していた。しかし、(速水久左衛門)夫婦は、不幸にして子供に恵まれなかった。
そこで、イソ の実弟である (速水)久治良が 16歳の 安政6年(1859)、
養子として 速水家に入った。速水久左衛門の実家は 近江国 愛知郡豊椋村 大字 大清水であったが、
(速水久左衛門は) 常に出店である (下野国=栃木県) 間々田の『近江屋』にいたため、
(速水)久治良も そこに呼ばれて、3年間 商業や家事の見習いをした。その後、
一人前になった (速水)久治良は (近江国の)大清水にある 速水家を興し、
ここで 近江商人として大成していった。彼(=速水久治良) は「関東久」と渾名される程で、
活躍舞台は 関東一円。将来、日光大教会 創設者として立つ下地は、
この商人時代にすでに作られていた ということができる。
速水久治良と磯部久兵衛
ところが、
(速水)久治良もまた (養父・速水久左衛門 同様) 子供に恵まれなかった。そこで、明治10年(1877) 4月13日、(速水久治良は)
近江国 神崎郡 建部村 大字 上中の
磯部久兵衛の 2男・岩吉 (=当時7歳・後の日光3代会長) を 養子としてむかえた。磯部久兵衛は、
(栃木県の) 間々田・宇都宮・日光の『大津屋』という酒店の監督をしていた関係上、
(速水)久治良とは 親しい仲であった。(速水)久治良は 他人の子供を育てることにより、
明治17年、20年と 2人の子供を授かり、大きな喜びにつつまれた。
速水久治良と田中善太郎の再会(明治12年)
明治11年の頃、(速水)久治良は 家族を連れて
(栃木県) 間々田の『近江屋』に 永く滞在していたことがあった。その時、
旅の装いもかいがいしく『近江屋』の暖簾を見て 故郷を忘れ難く、
江州出身者だろうか と『近江屋』を訪れた人があった。明治12年3月のことである。
その人は、
奇遇にも (近江国) 国元の 旧友・田中善太郎であった。
(田中善太郎は、弘化2年(1845) 12月29日、滋賀県 神崎郡 御園村 大字 川合寺12番地に出生)
速水久治良と田中善太郎の再会(明治12年)
(その時) 田中(善太郎)は、
打ち続く不幸災難により、財産を整理し (近江国から) 北海道へ移住して 家運の挽回を図る思いであった。(旧友からそのような話を聞かされた) (速水)久治良は、
遠く 未知の北海道に行くより (栃木県) 間々田の地に留まって生活してはどうか、と勧めた。田中(善太郎)は、(思いもかけぬ提案を受け、熟慮を重ねた。その結果、思い切って速水久治良の提案を受け入れることを決意したのだった。)
(それにより、田中善太郎は) (速水)久治良の世話により、
実弟の(田中)太七を『近江屋』の番頭に住み込ませ、
自分は家族を呼び、(栃木県) 間々田に 世帯を持つことになった。田中(善太郎)は (それまで) 何回も職を変え、すべてうまくゆかなかったが、
最後に、(栃木県) 間々田の宿場の西方を流れている 思川のほとりに 水車小屋を営み、ようやく 安定を得るに至った(のであった)。
(都賀の部内教会には 前身が【穀屋】であったものが多いのと 面白い組合せでもある)入信前の(速水)久治良と田中家との関係は、大体 以上のようなものであった。
速水久治良の関東布教(明治23年)
(明治12年に田中善太郎一家が下野国に移住してから) 約10年後、
(速水)久治良は、国元(近江国=滋賀県) にあって、妻・以登の眼病と事業大失敗という事情から 天理教の話を聞くようになった。
(そして) 明治23年、意を決して 関東に移り住み、布教に専念することとなった。明治23年、
かくして(速水)久治良一家は、挙げて布教の地である日光に移住し、苦難の道を歩み始めた(のだった)。
田中善太郎、信仰との出会い(明治23年〜明治24年)
一方、田中善太郎は (その約10年前の明治12年から)
(速水)久治良の世話で (栃木県) 間々田に居を構え、
水車小屋経営により 日毎に事業の安定を得てきていた。(そのような状況下で、田中善太郎は)
(速水)久治良が日光に来たことを聞き、
挨拶かたがた 速水家を訪れた。時に、明治24年3月25日のことである。
(速水家を訪れた) 田中善太郎は、
(かつて下野国移住の世話取りをしてくれた旧友の速水)久治良から 関東布教の話を聞(くこととなった。)(田中善太郎は、速水久治良から関東布教の話を聞)いて、深く感動した(のであった)。
(田中善太郎もまた) 長男・幸次郎 (当時20歳) が脚気 (リウマチ) に悩まされていたところから、
田中(善太郎)は (速水)久治良に入信を約し、(長男・幸次郎の) 病の平癒を願った(のだった)。
田中善太郎長男・田中幸次郎の不思議なたすけ(明治24年)
翌(明治24年) 4月17日、
(田中善太郎の長男) 田中幸次郎は、速水家を訪れ おさづけを取次いで貰った。しかし、(おさづけを取次いでもらったものの) その後も (田中)幸次郎の病状は依然として思わしくなく、
(逆に) 5月になり 病勢は急に悪化(してしまった)。
(そして) ついに(は) 脚気衝心のために危篤状態となり、絶望というところにまでになった。そうした時、
日光に来ていた(速水)久治良が (田中)幸次郎のもとにおもむき、教えを諄々と説き聞かした。(速水久治良の説く教理は絶望していた田中幸次郎の心に深く染み込み)
その効あってか、(田中)幸次郎の胸にも 初めて信仰心が芽生えた。
(すると、驚くべきことに) (田中幸次郎の)難病は 奇蹟的な守護を得た(のだった)。(不思議なたすけを目の当たりにした)(田中)一家は、
いよいよ本格的な信仰の世界に入っ(ていくこととなっ)た。時に、明治24年9月20日であった。
都賀の礎を築いた田中幸次郎、その短い生涯
難病を救われた(田中)幸次郎は、
若年ながらも天理教の教理を悟り、(速水)久治良の仕込みをそのままに受け、
ひたすら若き情熱を 求道と布教の上に、あますことなく 燃やしつづけた。(速水)久治良も、
愛弟子の(田中)幸次郎の仕込みかたがた、(栃木県) 間々田を布教の地と定め、
『近江屋』の姉の家を根拠地にして 布教に専心した。かくして 近郷近在に神名が流され、教えを慕う者が次第に現われて、
若き布教者 (田中)幸次郎の その超人的な信仰は 見事に結実していった。(都賀大教会の礎を築く働きをしたとも言える田中幸次郎であったが)
しかし、(後の都賀大教会の輝かしい発展を見ることなく)
(田中幸次郎は) 布教開始4年、わずか24歳で出直した。
斯道会 第505号の結成(明治25年)
(長男・田中幸次郎の不思議なご守護からこの道に入信した)
(田中)善太郎は、
穀屋から精米業に移った仕事と共に 布教に心を打ち込み、
(田中善太郎が営む)水車小屋に集まる信者の数は 日増しに多くなった。こうした中、田中善太郎を講元として、
明治25年4月「斯道会 第505号」の講社を結ぶまでに至った。
講社の拡大(明治25年〜明治26年頃)
当時、講社結成は盛大をきわめ、次々に(新たな講社が) 結成されていった。
日光街道に沿った (栃木県) 間々田には 遊廓があったが、
そうした家の 2階にまで 一時 神様が祀られたほどで
村全体が信者に加入という 集団加入の様態が窺われる。講社祭りには 各講から参拝人が集まり、
娘たち (赤い袴に揃いの髪を結った) の てをどりで賑わった様子である。
てをどりの稽古は、何時も「近江屋」の裏にある 蔵の2階で行われた。かくする内に、田中善太郎は 明治26年5月26日に
息子の幸次郎は 同年12月12日に
それぞれ おさづけを拝戴。
更に布教に専心した。この勢いに乗って出来たのが、(栃木県) 間々田の村を中心として出来た各地の講社である。
教勢の伸展も目覚ましかった反面、反対攻撃も激しかったが、
そうした中でも熱心な信者の布教は続けられた。一方、甲賀より青年・黄瀬吉三郎が布教応援のため派遣されたが、
彼は不幸にして、明治26年8月7日、過って思川で急死した。
都賀出張所の開設〜地方庁の認可(明治28年〜明治29年)
かくする内にも 教勢は拡大し、
秋田、 北海道へも伝道が展開された。(斯道会) 505号「間々田講社」も、
上級からの指導を受けて 祭典日などは 昼夜2回に分けてつとめる という程の盛大さになった。しかし、前述の如く
(斯道会505号 間々田講社は)
全信者から信望篤き「(田中)幸次郎の出直」という大きな節に直面した。(柱石を失い悲しみに暮れた『間々田講社』であったが)
しかし、これを契機として (一同の信仰心に火がつき) 教会設置の機運が早まった。(そして) 明治28年(1895) 12月21日付をもって、
河原町分教会部内・日光支教会に属する「都賀出張所」開設の許しを得た(のであった)。
初代会長に(は) 甲賀(支教会)より 柏木六左衛門を迎えて、
ただちに 地方庁に設置認可の申請をした。(しかし) 思うようにはいかず、
地方庁の認可を得たのは、1年後の 明治29年11月4日であった。ここに 名実共に 堂々と布教ができるようになった。
教勢の拡大〜神殿建築、田中善太郎2代会長就任(明治29年〜明治32年)
また、
明治29年5月頃より 部内も 次々と出張所の許しを得て、
教勢はますます伸展していった。
教会内容の充実と共に神殿建築の議が起こった。明治30年4月8日、神殿建築の許しを得て段取りを進めていたが、途中模様替えとなり、
明治31年11月21日、更に許しを得て、建築は本格的に進んだ。かくして神殿建築も無事完了し、
明治32年4月7日、柏木六左衛門から、田中善太郎に 会長(を) 変更(=田中善太郎 2代会長就任)。同時に 鎮座祭、開筵式の許しを得て、
(明治32年) 5月10日 鎮座祭、翌11日 開筵式を
河原町初代会長 (深谷源次郎) を迎えて 盛大に執行した。
都賀支教会への昇格〜速水岩吉3代会長の就任(明治34年〜明治38年)
明治34年9月21日には、(都賀)支教会に昇格した。
明治38年4月10日、
田中善太郎(2代会長)から 日光(支教会)の 速水岩吉(3代会長)に、
(都賀支教会) 会長職の変更があった。
甲賀大教会 都賀分教会への昇格〜田中善太郎4代会長再任(明治42年)
その後、天理教が一派独立の公認を得たのに伴い、
明治42年2月3日、
「天理教甲賀大教会 都賀分教会」に昇格し、
再び、田中善太郎が、4代会長として就任した。(当時の教勢は、部内分教会 4ヵ所、支教会 11ヵ所、宣教所 72ヵ所、関東、東北、北海道、樺太、朝鮮 に広がっていた)
田中善太郎4代会長の出直し〜林勝造5代会長の就任(大正4年)
このような順調な発展を辿っては来たものの、
大正4年(1915) 4月22日、田中善太郎が 出直した。このため 同年(大正4年) 10月29日、
林勝造が 5代会長に就任した。
役員の離散、沈滞する教会(大正5年頃〜大正10年頃)
しかし、
(田中善太郎)4代会長出直し後、問題が起こり、
役員は離散しなければならない状況となってしまった。(そして) (都賀分)教会は、火の消えたようになった。
老沼孫四郎6代会長の就任〜都賀分教会の再建(大正11年〜昭和3年頃)
若干の残留の役員が残務整理に取り組み、何とか難局の中を切り抜け、
大正11年1月29日、老沼孫四郎が6代会長に就任した。その後、教会内容も徐々に充実し、教勢も伸展した。
老沼孫四郎6代会長出直し〜老沼宗三郎7代会長の就任(昭和3年〜昭和3年頃)
昭和3年(1928) 4月3日、
老沼孫四郎(6代会長が) 出直した。ぞれによって、
同年(昭和3年) 5月19日、老沼宗三郎が7代会長に就任(した)。この頃から 問題は解決して 全く正常に復し、
昭和7年末頃には (都賀分教会は) 200ヵ所を超える部内教会の設置を見た。
日光中教会 都賀分教会への改称〜部内教会の分離(昭和8年)
日光が甲賀から分離したのに伴い、
昭和8年1月25日、「日光中教会 都賀分教会」と改称。更に、分教会の下には分教会は置かず、という日光の趣旨により、
「中根・江川・栃木・那美岐」の 4分教会とそれに所属する教会が、
当時(の) 本部員・栃木教務支庁長・永尾正信 立会のもとに
日光大教会に所属替えとなった。(それにより) 都賀(分教会) は、部属教会 49ヵ所となった。
昭和8年11月13日のことである。
都賀大教会への昇格(昭和15年)
そして、昭和15年(1940) 3月25日、
(日光中教会 都賀分教会は)
日光より分離して、大教会昇格となった。
(同年(昭和15年) 12月3日、地方庁認可)
教会の整理〜神殿改造他ふしん(昭和15年頃〜昭和18年)
以来、
教会であっても その機能を失った教会を整理し、
その発展と教会内容の充実に努めた。(また) 昭和18年1月28日、神殿改造と教祖殿位置変更の許しを得て、
この実行に 早速とりかかった。
老沼宗三郎7代会長出直し〜老沼なつ8代会長の就任(昭和18年〜昭和3年頃)
同年(昭和18年) 3月27日、7代会長・老沼宗三郎が出直した。
(それにより) 同年(昭和18年) 4月27日、
後任として 老沼なつが 8代会長に就任した。奇しくも、この(8代会長)就任奉告祭とふしん完成の鎮座奉告祭とが 同時に執行された(のだった)。
教祖60年祭〜教祖70年祭(昭和21年〜昭和31年)
以後、昭和21年4月12日、
教祖60年祭と共に 創立50周年記念祭を挙行した。(10年後の) 昭和31年2月20日には、教祖70年祭を執行した。
このとき、部属教会59ヵ所を数えた。
老沼なつ8代代会長辞職、老沼渉9代会長の就任〜昭和中期(昭和32年〜昭和42年頃)
昭和32年10月26日、
8代会長・老沼なつ が辞職した。(そして) 9代会長に 老沼渉 (大正10年6月24日生) が就任。
昭和35年11月15日に、(9代会長就任)奉告祭を執行した。なお、
同年(昭和35年) 6月26日には 神殿 及び 付属建物移動増改築願、
同年(昭和35年) 10月27日には 建築模様替願いを提出して 完工し、
その後、(老沼渉)9代会長の就任となったのである。昭和42年、小山市の市制実施に伴い 所在地の表示が変更、
栃木県小山市 大字 間々田792番地の10となった。
境内地 1,399.70坪、神殿 97.45坪。〔現住所〕〒329-0205 栃木県小山市間々田792−10
〔電話〕 0285-45-0029(『天理教事典』1977年版 P,521〜523)
(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
62回目の今回は、
「都賀大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも都賀大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
都賀の道は 田中善太郎(都賀二代)と 息子・幸次郎から始まった。
明治十二年のこと、滋賀県神崎郡の善太郎は 不況のため 北海道移住を考え、栃木県 間々田を通った。
その地で 近江屋を見つけ、懐かしさから立ち寄ると、旧知の 速水久治良と出会った。
間々田にとどまるよう説得され、思川の畔に 水車小屋を営んだ。布教者と変わった久治良が 日光へ来たことを耳にした善太郎は、久治良を訪ねた。
長男・幸次郎が リューマチにより危篤に陥った時、おたすけを受け、田中家は 本格的信仰に入った。幸次郎は、久治良の説く教えを 干天に慈雨がしみ入るように聞き、神性に近い透明さで 神の思召を伝えるようになった。
信者は日増しに増え、水車小屋の二階で夜更けまで、お手振りの練習に励んだ。
速水の恵もお手振りを教えに来た。
「お手振りで吹き飛ばすような勢いで道が伸びた」と古老は伝えている。日光街道の伝馬宿のあった間々田には遊郭も多く、その二階にも 天理教のお社が祀られた。
講社に加入しなければ立場がなくなる というほどであったという。幸次郎は 二十八年、二十三歳の若さで出直した。
その年、甲賀役員名義で 都賀出張所を設置。
その後、一時沈滞したが、役員の真実で 難局を切り抜けた。大正十一年、老沼孫三郎が 六代会長に就任した。
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,115
都賀大教会は、日光大教会から分かれた大教会ですね。
すなわち、斯道会の流れ汲む大教会。
日光大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

当記事では
『天理教事典』の中の「都賀大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回もまた知らないことばかりでした。
非常に興味深かったのは、
都賀大教会の実質的な創設者である 田中善太郎一家 入信の経緯でした。
田中善太郎先生は、
明治12年頃、生まれ育った近江国(滋賀県)での生活がうまくいかず、北海道への移住を決断された。
何があったか書かれていないので 詳細はわかりませんが、滋賀県から北海道への移住を決意するというのは 余程のこと。
本当に、何もかも捨てて、裸一貫 一からやり直す、
という感じだったのでありましょう。
『天理教事典』の解説文を読む限りでは、
前向きな希望に燃えた移住 という感じではなく、
むしろ 絶望的な心境、逃避的意味合いの移住…
というふうに見えます。
そんな移住の途上、
滋賀県から遠く離れた 栃木県の 間々田まで来た時、
田中善太郎先生は、故郷を思い出させる『近江屋』というお店を見つけ、郷愁に駆られて 思わず立ち寄った。
もしも、田中善太郎先生が、そのお店に立ち寄ることなく素通りしていたら 今の「都賀大教会」はなかったわけで…
誠に 不思議なご縁 という感じがします。
滋賀県の田中善太郎先生が、
北海道へ向かう途中、栃木県で たまたま立ち寄ったお店で 同郷の旧友に出会われたという史実。
確率論的に考えると、
本当に 天文学的な確率の奇跡的な出会いだった と言ってよいのではないでしょうか。
普通の人間思案では、
まぁ 珍しいことがあったもの…
で 終わるところかもしれません。
けれど、田中善太郎先生は、
そのことによって 北海道へ移住する計画を取りやめて 栃木県に定住することになるわけです。
すなわち、この出会いによって、運命が大きく変わったわけです。
そのことの意味合いを思案するというのは、
目に見えない信仰の世界にご縁を頂いた者にとって 無意味なことではないと思います。
スピリチュアル系の話で「この世の中に偶然はない」と よく言われます。
お道でも「成ってくるのが 天の理」と教えて頂きます。
私は、お道(天理教) 的にも、
田中善太郎先生と速水久治良先生の 故郷を遠く離れた 下野国での再会は (根拠はありませんが) 、
決して 偶然の出来事ではなくて、奇しき因縁の為せるわざ、必然だったのではないか、と感じました。
都賀大教会の礎を築いた田中善太郎先生が、
近江国から北海道へ行こうとしている途中の「下野国」で、たまたま立ち寄った店で 同郷の旧友である速水良治良先生に出会うということ。
それ自体が、普通に考えればあり得ないようなこと。
その、あり得ないような出来事によって、田中善太郎先生の運命は大きく切り替わりました。
その「運命転換点」の延長線上に その他多くの方々の『たすかり』があり、
そして そのまた延長線上に「都賀大教会」という大きな信仰共同体が広がっています。
有り得ないような不思議な出会い。
それによって運命を切り替えて頂いた「有り難さ」。
「都賀大教会」の元一日ともいえるこの事実は、
確率的に起こりにくい=【稀有】だという意味でも、
感謝すべき事象で有る=【尊い】という意味でも、
文字通り、【有り難い】史実だ、と私は感じました。
私たちの周りには、
自分の気付かない内に、確率的に考えると起こりにくいことが現実には起きていて、
それが自分を救けてくれているということが、
私は、自分が思っている以上に たくさんあるような気がします。
有るのが難しいこと(有り難いこと)が実際には起きていて、それによって自分が救けて頂いている、ということに気付けた時、
きっと私たちは、心の底から『有り難い』という言葉を口にするのに違いありません。
心の底から『有り難い』という言葉が出てくるような心にならせて頂くためにも、
まずは、遭遇する出来事を、
普通には有るのが難しいことが起きている→『有り難い (ありがたい)』
という心で受けとめることに努めることが大切なのでしょうね。
お道では、それを『たんのう』という言葉で教えて下さっているのだ、と感じました (^^)

都賀大教会の初期歴史を勉強しながら、
最後の方は 都賀大教会から離れて、ちょっと私の抽象的な言葉遊びのようになってしまいました (^^ゞ
いつも、ダラダラとやたらと長い文章になってしまうので、改善せねば、と思ってはいるのですが…
今回も、ただ長い文章になってしまいました。
けれど、簡潔にまとまるよう書き直すだけの気力が残っていません… (~_~;)
このまま公開させて頂きます m(_ _)m

その他にも、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
「有難い」ことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「都賀大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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