天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より

郡山大教会天理教各教会歴史探索第1回 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

前々回(3月9日公開)記事をもって、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本の
「十全の御守護」「八つのほこり」解説を書き写す
自己学習シリーズが終了しました。

一区切りがついて…
さて、次はどういう記事を書こうか、
あれこれ考えました。

なかなか良いアイデアが浮かばずにいた中で、
ふと、
天理教の各大教会の歴史について勉強したらタメになるのではないか、
という考えが頭に浮かんできました。

これは、きっと私だけではなく、
天理教にご縁を頂いた人 皆 同じだと思うのですが、
自分の所属する大教会(直属教会)については知っているけど、
他の大教会のことはよく知らない…

なぜなら、
自分の所属する大教会(直属教会)については、
身近に『教会史』みたいな資料もあるし、
初代はこういう道を歩まれた…みたいな話も
ことあるごとに耳にする(から知っている)

そのような感じで、
どこかの天理教の教会に所属していたら、
不勉強な者であっても
所属している教会の系統の歴史については、
個人差はありつつも それなりに把握している…
そういうものではないでしょうか。

しかし、今は 天理教教祖百四十年祭へ向かう旬。

そのような旬だからこそ、
狭い自分の枠内だけで満足するのではなくて、
これまで自分とはご縁がなかった 天理教の各教会の歴史についても学んで、
お道の大きな【流れ】に対する感性を高めたい…
そのように考えました。

…ということで、
今回から、
天理教 各教会の歴史探索シリーズ
というものを開始したいと思います。

ただ、
天理教 各教会の歴史を調べるといっても、
フットワーク重く 横着者の私には、
本格的な調査というのは難しい。

深いところまで調べる余裕がないし、
それに、
そこまで掘り下げられなくとも
大雑把な部分だけでも知ることができれば
私には 十分勉強になる。

ということで、
新しいシリーズでは
天理教 各大教会の「大雑把な」歴史を知ることを目指すことにしよう…

そのように思い至りまして、
それにふさわしい教材がないかなぁ…と探索。

その結果、
私の身近に『天理教事典』があるのを見つけました。

『天理教事典』をパラパラめくってみると――
各大教会(直属教会)の大雑把な歴史が
簡潔にまとめられているではないですか!

これは、
天理教 各大教会の大まかな歴史を知るには 恰好の教材だ、
と思いました。

というわけで、
新しく始める【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】では、
自分の教会にあった『天理教事典』(1977年版)を活用させてもらいます。

具体的には、
各大教会(直属教会)の大雑把な歴史
『天理教事典』に記載された 各大教会についての説明を
そのまま書き写し、
それによって天理教 各大教会の「大雑把な」歴史への知見を深める、
そういうやり方を取らせてもらいます。

私の教会にあるもの👇(当シリーズ参考資料)

最新版👇

前置きが長くなってしまいました。
急ぎ 本題に入ることと致しましょう。

書写する順番は、
天理教会番号の順番でいきます。

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郡山大教会 (こおりやまだいきょうかい)

郡山大教会写真
この写真は【ヨガナンダスピリチュアル夜話>旅_110602】よりお借りしました

明治19年

明治19年(1886) 陰曆正月、
郡山大教会 初代会長 平野楢蔵は、初めて「おぢば」に帰った。

教祖は、前日、
「明日は このやしきに どんな者を連れて帰るや分からんで」
と仰せられていたという。

初代会長は、
弘化2年(1845)、河内国 恩智村で 森石松、スワの子供として生まれ、
10歳で 両親に死別、
姉しかと共に 親戚で大きくなった。

長じて侠客の群に入り、
命知らずの性分から 頭角を現わし、恩智楢と呼ばれたが、

明治13年(1880)、
大和国 郡山洞泉寺町で貸座敷業を営む 平野富蔵の養子となり、
長女とらと結婚、家業を継いだ。

明治17、18年頃、
神経病を患った時、姉夫婦から 天理教の信心をすすめられた。
姉の夫 清治郎は、
明治9年 失明したところを救けられて 熱心に信仰していた。

漸く外出できた恩智楢が、
河内国 高安村で賭博の最中、突然の発作で倒れた。
姉夫婦の頼みで 教興寺村の講元宅において、
三座の願いづとめを勤めることになった。

最初の拍手と共に、
4時間余り絶息していたのに息を吹き返す というふしぎな救けを受け、
翌朝、早速お礼参拝に「おぢば」へ帰った。

無い命を救けられた御恩に 心からお礼を申し、
今後は 命のある限り 御恩報じをします、と誓った。

そして「おぢば」に10日余り滞在、
親神様の御守護、教祖「ひながた」の道を聞かされ、
前半生を深く「さんげ」 し、
この道こそ 因縁切り換えの道である と悟り、
生涯を「たすけ一条」のためにつとめることを 決心した。

この頃、櫟本警察署に御苦労された教祖を拝し、
愈愈「たすけ一条」の決意を固め、
早速 郡山の町々に 熱心に神名を流し始めた。

明治19年 陰曆5月、
家業を止めて 布教に専心した。

この姿に感じて
郡山の 山瀬文治郎、福地庄松、増田甚七等が
相次いで 信仰し始めた。

この年 陰暦 7月の頃、
初代真柱が 郡山洞泉寺町の講元を訪ねて、
「天竜講」の講名を授けた。

寝食を忘れて「たすけ一条」の上に没頭した初代会長夫婦に導かれて、
この年
澤田重左衛門、植田平一郎、萬田万吉等 の人々を始め、
「たすけ一条」に志す人々が 相次いだ。

明治20年代

明治20年(1887) 陰曆 正月26日の「おつとめ」に、
初代会長は 地方を勤めた。

天竜講の道は この年 早くも、
大和は勿論、
伊賀、山城、北陸、熊本等に 伸びていった。

明治21年(1888) の 教祖1年祭の事件から、
教会本部の設置を 東京で出願することになったが、
初代会長は この時、真柱のお伴をした。

この年 12月11日、
郡山南大工町で、郡山分教会所の設置を願い出て、
皆揃うて 心を治め。所に理を 無けらならん。皆んな 心を揃うてすれば、どんな事も出けるで
と、お許しの「おさしづ」を頂いた。
なお 初代真柱からの認可は 12月21日である。

明治22年(1889) 正月以来、
地均しにかかり、
連日 数十人の「ひのきしん」で賑わった。

9間に11間の神殿と 付属屋を完成、
陰暦 6月3日 本席が、
翌 4日真柱が 列席され、
鎮座祭と奉告祭が 勤められた。

参拝者は 3千余人。
その後、初代会長は 本部の御用に忙しい中、
役員を率いて 部内講社の修理に、
また 新しい布教線の発展を目指して 各地に「よふぼく」を派遣するなど、
積極的に丹精し、
夫人は 教内を治め、寄り来る人々を導き育て、後顧の憂いなからしめたので、
世間の反対、官憲の圧迫の中ながら、
各地に 幾多の部内教会を設立した。

明治22年 11月11日、
島ヶ原支教会が 伊賀国島ヶ原村で
萬田万吉を会長として、設置したのを初めとして、

翌 23年(1890) 北陸支教会が、
24年 中和、山陰、 日和支教会が
次々に 設置された。 

明治25年(1892) 7月、
豊田山で 教祖御墓地の造営が行われたが、
初代会長は ふしん委員として 連日 「ひのきしん」の先頭に立ち、
部内教会からも 多数参加し、石材や白砂なども 寄進した。

この年には、生駒、中背、
翌年には、今国府、
27年には 熊本、東肥
等の教会が 設置されるに至った。 

明治27年(1894) 陰暦 10月27日、
郡山分教会に 教祖殿の普請が完成し、
真柱、本席を迎えて、鎮座祭、奉告祭を勤めた。

 教祖10年祭に当たり、
各分教会の信者詰所が設けられたが、
初代会長は
屋敷の中は、八町四方と成るのやで
のお言葉を信じ、
「おぢば」から 西4町の処に地所を求めて、
信者詰所を普請した。

明治29年(1896) 教祖10年祭の年末には、
東北、北陸、山陰、関東、東海、中国、九州の各地で、
14支教会、105の出張所、96の布教所が設置された。 

明治30年代

明治31年 11月16日、
島ヶ原支教会は 分教会に昇格して、
本部直属の扱いとなった。

明治32年 東京布教を志して、東京に出張していた
初代会長夫人の病気が重くなり、
12月15日、46歳で 出直した。

「おさしづ」 で
皆 女とあれど 十分届いて居る(さ28・10・19)
とのお言葉を頂いた夫人に別れ、
人々は 悲嘆にくれた。

明治33年(1900) 6月28日、
初代会長は 専ら 本部の上に勤めることになり、
増田甚七が 2代会長の任に着いた。 

2代会長は、
郡山分教会の創立以前から 初代会長の片腕となって よく勤め、
25年以来は 商売を止めて 分教会に住込んでいた。 

同じ日(明治33年6月28日)
中和支教会も 分教会に昇格した。 

明治34年 (1901) 7月、
天理教校の普請が始まり、
初代会長は ふしん委員として勤めた。

11月19日 工事現場から出火して 用材を焼失したが、
郡山分教会より新材を調え、
落成式の期日に間に合うことが出来た。 

明治36年
初代会長は 島ヶ原分教会長を拝命し、
また 翌37年には、中和分教会の責任を持って、
両分教会の立て直しの上に 尽力した。

危い所 まさかの時の台という、狙板という (さ37・4・22)
とのお言葉があるように、
初代会長は
道のまな板、道の台という信念をもって、勤めきった。

明治40年代

明治40年(1907) 6月9日、
本席は 本部 神殿建築を急き込みつつ、生涯を終えたが、
この直前 初代会長は、
この普請の完成を念願して、
病中を押して 北陸支教会の部内に巡教していた。

本席出直後 数日たった 6月16日の夜、
郡山詰所で、
郡山、島ヶ原、中和の教会長、信者 1,500名に対して、
本部神殿のふしんにつき 熱誠溢れる お話の取次ぎをしたが、
翌 17日の 明け方 3時、俄かに 病状革まり、
本部々々」の声を最後に 出直した。
享年 63歳であった。

明治41年(1908) 12月30日、
天理教の一派独立に伴い、
天理教郡山大教会 と改称した。

明治43年(1910)、
初代会長夫人の頃から創立されていた 郡山婦人会は、
天理教婦人会 郡山支部となり、
2代会長夫人 增田房江が 支部長をつとめた。

翌 44年 郡山青年会が、
役員 鹿尾治兵衛を会長として 創設された。

大正時代

大正5年(1916) 1月28日、
郡山大教会で 約4千名が参拝して、
教祖30年祭を勤めたが、
翌々日、
大教会の全動産物件が 債権者に差押えられた。

翌年 7月7日、
大教会の財政困難は その極に達し、
遂に 敷地建物まで 競売に付された。

8月8日、
債権者会議が開かれたが、
負債総額は 28万余円であった。

しかし、 この会議で 3年据置き、20年賦償還と決まり、
整理の目標がついた。

翌 7年 7月3日、
大教会の敷地建物は 再び 買い戻された。

翌 8年(1919) 10月24日、
大教会 創立30周年の記念祭を 盛大に勤め、
敷地建物は 教会本部名義となった。 

大正10年(1921) 10月、
教祖40年祭の提唱を受け、
教勢倍加の方針が 打ち出された。

大正10年の末に、
分教会8、支教会26、宣教所 204であったが、
教祖40年祭の年、 15年 (1926) 末には、
分教会8、支教会34、 宣教所445を数えるに至った。

大正15年(1926) 3月8日、
平野規知雄が 3代会長の任についた。

3代会長は、
高安大教会 初代会長 松村吉太郎の 2男として生まれ、
増田 2代会長の娘 なつと結婚、
平野家を継いだ人である。

この年(大正15年) 7月、
移転地として、郡山町北郡山で
約2万坪の土地を 買収した。

昭和時代(戦前)

翌 昭和2年 正月から、
地均し工事に掛かり、移転建築を開始した。

昭和3年 (1928) 3月30日、
2代会長 増田甚七が、
新しい神殿の 賑々しい 立柱式の直後、
俄かに 病気革まって 出直した。
享年 66歳であった。 

昭和5年 10月23日、
神殿、教祖殿、祖霊殿を始め、付属建物の普請が完成、
2代真柱、中山たまへ (2代真柱母堂)を迎えて
鎮座祭、奉告祭を盛大に勤めた。 

この年 10月、
教祖50年祭と 立教百年祭の提唱がなされ、
本部 神殿増築と 教祖殿新築が 発表された。

翌 6年(1931) 4月24日、
郡山大教会として 両年祭に対する 決死奉公隊が結成され、
9千余名が これに参加、
「にをいがけ」「おたすけ」の上に、
親里ふしんの上に全力を傾注する 決意を固めた。

昭和9年(1934) 3代会長は 本部員に任命された。

この年、
郡山詰所の改築を行ない 信者室を増築した。 

昭和11年 1月26日、
教祖50年祭を 空前の賑わいをもって動め、
大教会でも、2月19日に 教祖50年祭を勤めた。
この時 部内教会は 605ヵ所を数えた。

3代会長は
本部のご用に、また大教会の上に、心を尽していたが、
12年 7月、日華事変が始まり、
翌 13年(1938) 5月、召集を受けて 華中方面に赴き、
翌年 12月、従軍中にマラリヤ病となり、
翌 15年 7月 內地帰還となった。

3代会長の留守中は、
3代会長夫人が、代務者として勤めた。 

昭和15年、
協議の結果、部内の 5分教会を 大教会に昇格、
本部直属に お願いをすることとなった。

この年(昭和15年) 7月に 熊本、中央が、
10月に 北陸が、
翌年 6月に 東肥が、
7月に 山陰が
夫々 大教会に昇格した。

大教会の部内教会は 273 ヵ所となった。

戦時体制のため、
昭和18年(1943) 信者詰所を、
翌年 大教会の信徒室を、陸軍病院に貸与したが、
20年(1945) 8月、終戦となって 返還を受けた。

昭和時代(戦後)~昭和45年まで

昭和21年(1946)
平和の裡に 教祖60年祭が勤められ、
教祖「ひながた」の道に復元し、
「たすけ一条」 の実績を挙げるため、
復元の方針が 発表された。

これに応えて、
「よふぽく」の育成に、
また「おぢば」への伏込みに勤めると共に、
部内50ヵ所の 戦災教会、9ヵ所の 海外引揚げ教会の復興に
全力が注がれた。 

昭和25年(1950) 9月26日、
4代会長として、
3代会長の長男 知一が 任に着いた。

4代会長は、
初代会長の命日に当る 大正13年(1924) 6月17日に出生、
早稲田大学を卒業後、本部青年として、また青年会郡山分会委員長を勤め、
御津大教会長 小松駒太郎 2女しづと 結婚した。

翌 26年(1951) 3月23日、
2代真柱を迎えて 就任奉告祭を勤めた。

昭和27年 4月18日、
教祖70年祭が 提唱され、
4代会長は こふき委員会 常任委員に 任命された。

また 青年会本部委員として
中山善衛 会長の手足として、
「青年よふぼく」の成人と 結集の上に尽力し、
昭和29年 (1954) 開始された
おやさとやかたの普請に、
大教会の全力を挙げて 参加した。

昭和34年(1959) 12月23日、
病気静養中の 3代会長が、
63歳で 出直した。

昭和36年 4月18日、
教祖80年祭が提唱され、
10月26日、4代会長は ふしん委員長に 任命された。

2代真柱の思召を体して、
おやさとやかた 西右 第2、3 棟の普請を担当することになったが、
1,000ベッドを収容する病院としての設計の上に、
地元との折衝に、
あるいは ふしん委員会と建築業者との連絡の上に、尽力した。

翌 37年 (1962) 4月、本部員の任命を受けた。

この年 6月
おやさとやかたの建設が何時でも進めることが出来るように、
その敷地に当る郡山詰所を 大教会に移した。

昭和41年 3月22日、
郡山の教祖80年祭を
2代真柱 並びに 3代真柱夫妻の臨席のもとに、
大教会で勤めた。

この年(昭和41年) 9月27日、
生駒、中背が 大教会陞級となった。

またこの日、4代会長は、
おやさとやかた 西左 第3、4棟の ふしん委員長に 任命された。

昭和43年(1968) 4月23日、
真柱が出席され 西左第4棟の 掘方が始まった。

同年 10月24日、
ブラジル国 サンパウロ市で、
天竜ブラジル教会が 設立された。
教祖70年祭後、海外伝道の声に応じて渡伯した「よふぼく」と、
戦前に渡伯していた信者を結集して 設立したものである。

昭和45年(1970) 10月25日、
おやさとやかた 西左第4棟が竣工し、
真柱夫妻を迎えて披露し、
以後、中河と郡山の信者詰所として使っている。

機関誌としては、大正15年以来『天竜』を毎月発行しており、
昭和33年10月には『郡山大教会史その1』を出した。

(『天理教事典』1977年版 P,335~337)

おわりに

郡山大教会写真②

天理教各教会の歴史を調べることを目的とした新シリーズ
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】が始まりました。

シリーズ初回である今回は、
教会番号1番の「郡山大教会」の歴史をなぞりました。

私の手元にある『天理教事典』は、
1977年(=昭和52年)版の古い物なので、
最近の出来事の記述はありません。
それでも、古い出来事は分かるので、
十分勉強になります !(^^)!

「郡山大教会」――
天理教にご縁を頂いた者なら 知らぬ者のないであろう
「平野楢蔵」先生が設立された大教会ですね。

【侠客】の世界から【信仰】の世界へ飛び込まれた「平野楢蔵」先生。

任侠の世界と神様の世界。
それぞれの世界は、
ほぼ真逆の価値観の上に成立しています。

入信、回心という行為には、
必ず「価値観の転換」というものが伴うわけですが、

【利己>利他】の最大化を求める【侠客】の世界から、
【利他>利己】に大きな価値を置く【信仰】の世界への転身を遂げるにあたっては、
常人には想像のつかない
大きなドラマがあったことは 想像に難くありません。

【信仰】という、目に見えない心の世界にご縁を頂いた私たちにとって、
程度の大小こそあれ、
「価値観の転換」というのは、
避けて通れない課題だと言えるのではないでしょうか。

常人では考えつかない程 大きな「価値観の転換」。

様々な困難を乗り越え、
それを成し遂げた「平野楢蔵」先生の設立された教会が
天理教教会番号の1番である ということの意味は
決して小さいものではない、という気がします。

人として生まれたからには、
【真理】につながる「価値観」に立脚した人生を歩みたいものです。

こざかしい能書きを書き足してしまいました… (-_-;)(汗)

いずれにしましても、
これから、
教会番号順に(『天理教事典』の大教会情報の)書写を行っていって、
この自己学習ブログを活用して、大雑把でいいから、
現在の天理教を支えている各大教会の歴史というものを味わっていきたい…
そのように思っています。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

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