天理教 各教会の歴史探索(第112回)【東海大教会】『天理教事典』より

「東海大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号111番「仙臺大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号112番「東海大教会」について勉強します。

  1. 東海大教会(とうかい だいきょうかい)
    1. 加見兵四郎 初代会長の生い立ち
    2. 加見兵四郎、初めてのおぢばがえり(明治5年)
    3. 加見兵四郎の布教はじめ(明治6年~)
    4. 上村吉三郎の来訪、講社の結成(明治18年頃)
    5. 加見兵四郎と長女きみの眼病、教祖おさとし ~ 不思議なご守護(明治18年)
    6. 加見兵四郎の「少々家業さして被下度御願」へのおさしづ(明治19年)
    7. 加見兵四郎、伊勢布教の始まり(明治19年~)
    8. 東海支教会の開設(明治26年)
    9. 教会の移転建築(明治27年)
    10. 城島分教会からの分離問題(明治28年頃~明治33年頃)
    11. 加見兵四郎 初代会長の転居(明治34年)
    12. 東海支教会の教勢拡大(明治30年頃~明治40年頃)
    13. 加見兵四郎 初代会長の辞任、小田伴助2代会長の就任(明治40年)
    14. 東海分教会へ昇格(明治42年)
    15. 加見兵四郎 初代会長の出直し(大正7年)
    16. 教会の借財問題、教会施設喪失 ~ 借家への仮移転(大正8年)
    17. 小田伴助2代会長の辞任、小田久郎3代会長の就任(大正10年)
    18. 小田久郎3代会長時代・教勢の回復 ~ 教会の移転建築(大正10年頃~大正13年)
    19. 小田久郎3代会長出直し、小田正4代会長就任早々の出直し、加見信太郎5代会長の就任(昭和12年~昭和13年)
    20. 東海大教会へ昇格(昭和17年)
    21. 信者詰所の開設(昭和24年)
    22. 復元、教勢の伸展(昭和20年代)
    23. 加見信太郎5代会長の辞任、加見秀信6代会長の就任 ~ 創立70周年記念祭(昭和37年~昭和38年)
    24. 創立80周年記念祭前後(昭和47年~昭和48年)
  2. おわりに
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東海大教会(とうかい だいきょうかい)

東海大教会Googleストリートビューより①
Googleストリートビュー より

加見兵四郎 初代会長の生い立ち

初代会長・加見兵四郎は、
奈良県添上郡 朝倉村大字笠間51番屋敷(で)、
加見宗治郎の長男として、
天保14年(1843) 9月8日に出生した。

母は、たみ と言った。
(加見)兵四郎 6歳の時、父・宗治郎が 日頃 不仲の弟に 家をゆずっ(てしまっ)た。
(一家は) その後、転々として居所を変えた。

(加見兵四郎) 8歳のとき、母・たみ は、
父・宗治郎に愛想をつかし、妹・きく をつれて家を出て、他家へ再嫁した。

(加見兵四郎の父) 宗治郎には、生来 放浪の癖があり、
同じ年(嘉永4年) の末に、子供の (加見)兵四郎を残したまま 行方をくらましてしまった。

相次いで 両親から見放された (加見)兵四郎は、悲しみのあまり 自殺を決意したが、
付近の人に救われ、叔父の家に 引取られる事となった。

(叔父宅に引取られた 兵四郎であったが、そこで 兵四郎を待ち受けていたのは 叔父からの虐待であった。)
叔父の虐待に堪えかねた(加見)兵四郎は、「乞食するよりさかさ」(「人から施しを受けるよりも自分で努力して稼ぐ方が良い」の意) と言って、使用人に対して厳格な「煙草きざみ屋」に奉公する身となった。

加見兵四郎、初めてのおぢばがえり(明治5年)

幼い頃より 逆境に育った故か、
(加見)兵四郎は (格別) 神仏への信心が深かった。

8歳にして 両親に捨てられた寂しさを慰めるために、
近くの 長谷寺の観音像の模型を 泥で造って、
夜は その像と共に 寝たこともあったという。

また、毎月1回、奈良の 二月堂へのお詣りを 欠かさなかった。

(そのような苦労の道中を歩んでいた加見兵四郎であったが)
たまたま、
(兵四郎が住んでいた奈良県添上郡朝倉村) 笠間と (毎月参詣していた二月堂のある) 奈良の間の (山辺郡) 庄屋敷村に、不思議な神様があり、その場所は無い世界・無い人間を 初めてお造り下された所だ と(いう話を) 耳にした。

(信心深い加見兵四郎は、その話を聞いて)
奈良からの帰途、庄屋敷村に立ち寄った。
時に、明治5年夏のことであった。

加見兵四郎の布教はじめ(明治6年~)

越えて 明治6年、
(加見)兵四郎は、(奈良県) 宇陀郡政治村大字守道、奥峯林平の末女・つね を妻に娶った。
程なく つね は妊娠。
初産のこととて心配した (加見)兵四郎は、庄屋敷にお参りし、をびや許しを頂いた。

(これが) 明治6年11月3日(のこと)で、
これより、(加見)兵四郎の 布教が開始された。

その後、(加見兵四郎は) 布教中の 山田伊八郎と 相交わるようになった。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』
34.月日許した

明治六年春、加見兵四郎は 妻つねを娶った。
その後、つねが懐妊した時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、
「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり。」
と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。

「さあ/\ それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえりたら、その一つ分を家内に頂かし、産気ついたら、又その一つ分を頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。
そうしたなら、これまでのように もたれ物要らず、毒いみ要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りでよいのやで。
すこしも心配するやないで。心配したらいかんで。疑うてはならんで。
ここはなあ、人間はじめた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。
月日許したと言うたら、許したのやで。」
と。

上村吉三郎の来訪、講社の結成(明治18年頃)

ある時、上村吉三郎と 音松という人が、
(奈良県添上郡朝倉村) 笠間の (加見)兵四郎を 尋ねて来た。

(その時は) 生憎、(加見)兵四郎は 他へ布教に出ていて 留守中であった。
そこで、(上村吉三郎と 音松は)
「帰宅され次第、(奈良県)宇陀西山の 森本治郎兵衛宅へ 御足労ながら お出まし願い度し。
その上、御相談 願度儀があるので」
と言って 帰っ(て行っ)た。

(加見)兵四郎は帰宅し その次第を 家内つね より聞いたので、早速 その森本宅へ出掛けて行った。
そうしたところ、(上村吉三郎と 音松) 両人の他に 小西定吉も来席しており、その時の相談というのは、
「こうして 各地に講社も出来てきたことであるから、講名をつけて、だんだん 講社を結成せねばならぬ」
ということであった。

そこで 熟議したところ「心勇講とつけたら如何」と 上村(吉三郎)より提案があり、
それはよかろう ということになって 話がまとまった。

その時の講社というのは、
(宇陀) 西山から 6戸、出屋鋪から 6~7戸、(加見)兵四郎の講社 24戸、
合計 36~7戸であった。

これが、心勇講の 出来た初めである。

そして、種々の関係により、上村(吉三郎)が (心勇講の) 講長となり、
(これより だいぶ先の話になるが)
城島分教会 (現在の敷島大教会) が(明治23年に) 設置される際には、上村(吉三郎)が 初代会長となった。

加見兵四郎と長女きみの眼病、教祖おさとし ~ 不思議なご守護(明治18年)

明治18年9月1日より (加見)兵四郎の長女・きみ が眼病を患うようになり、(きみ は) 眼がすっかり閉じてしまって悩んでいた。
加うるに、同年(明治18年) 10月7日より (加見)兵四郎も また同じく 眼の患いとなり、これまた 眼が閉じて見えぬようになっ(てしまっ)た。

(加見兵四郎は) いろいろ さんげもしたが、少しもそのしるしなく ご守護も頂けないので、
(明治18年) 11月1日、眼病についての神意を伺うため、(自分は目が見えなくなってしまっていたので) 妻・つね に申し付け おぢばへ代参させた。

その時の教祖よりのお諭しは、以下の如くであった。
まず「そのなあ、おさえて居るというのは、ためしと手びきにかかりているのやほどに」と仰せになり、
その上で「人ことづけは人ことづけ、人だのみは人だのみやで。人の口一人くぐれば一人、二人くぐれば二人、人の口くぐればくぐる程はなしがくるう。くるうた話したぶにや世界であやまちが出来るで、あやまち出来たぶにや、どうもならん。よって本人が出てくればよい。その上しっかりさとしてやるで」
と仰せになった。

つね が (おぢばから) 帰宅してその話をしたところ、(加見)兵四郎も 成る程と感激し、
(明治18年) 11月3日、(視界不自由な中) 杖を頼りにおぢばへ参り、山本の案内で 神様の前に出た。

そうしたところ (教祖より)「さあ/\」とお言葉があり、
(加見兵四郎は) 2時間にわたって「元初まりのお話」を聞いた。
その時の 神様のお声の大きさは 並大抵なものではなく、建具が ぴりぴりと震動したとのことである。

(そして) そのお言葉が済むや否や、ハッと思うと、眼はいつとなく鮮や見えるようになっていた。
(加見兵四郎が) 喜び勇んで帰宅して見ると、
(なんと) 長女・きみ の眼も 鮮やかに見えるようになっていた。

加見兵四郎の「少々家業さして被下度御願」へのおさしづ(明治19年)

しかし、その後も、(加見)兵四郎の眼は、毎朝 8時頃までは ぼやっとして 遠目は 少しも見えず、8時頃からは また元の通り 鮮やかになる、という状態であった。

翌明治19年正月、(加見兵四郎は) おぢばへ帰り、このことの神意を伺った。
この時も 山本が 取次ぎをして、教祖の御前に参った。
そうしたところ、
「それはなあ、手びきがすんで ためしがすまんのや。
ためしというは、人救けたら わが身救かるという。
わが身 思うてはならん。どうでも 人を救けたい、救かってもらいたい、という 一心に取りなおすなら 身上あざやかやで」
との お諭しを頂いた。

当時、(加見)兵四郎一家は、赤貧 洗うが如き 有様であった。
絶えず 留守勝ちな (加見)兵四郎自身は 何ら 不自由を感じないものの、後に残った 家内子供のことを思えば 気がゆるみ、内緒で 家業を(したりした。
しかし、内緒で家業を)すれば 病気になった。(かと言って) 神様のお言葉通りにすれば 食っていけず、(どうすることが最も思召に添うことになるのか、兵四郎は頭を悩ませた。

思案した結果) これは 内緒にするからいかんのだ、神様にお許しを得てから家業をさせて頂こう、と決意するに至った。
(そして) 明治19年9月10日、
「式上郡笠間村講元、加見兵四郎、少々家業さして被下度御願」とお伺いをした。

その時のおさしづは、
「さあ/\ 尋ねる上/\は、あかき道 白き道 黒き道にさとしおこふ。これで わかろまい。
あかき道は 神の道 一寸わかりかけた事、白き道は せかいなみ、黒き道は わが身のしあん。
世界のものから つけたとくは 世界からは おとさん。わが心で おとさぬよふ、
さあ/\ いばらぐろうも、がけ道も、つるぎの中も といふてあろ。
どうせこうせは いわん。心と心を しやんしてみるがよい」
というものであった。

(このおさしづにより、加見)兵四郎の 心の迷いは 一掃された。
(加見兵四郎は) この後、布教に東奔西走し、
不思議な おたすけが 随所に 現われることとなった。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』
167.人救けたら

加見兵四郎は、明治十八年九月一日、当時十三歳の長女きみが、突然、両眼がほとんど見えなくなり、同年十月七日から、兵四郎も 又 目のお手入れを頂き、目が見えぬようになったので、十一月一日 妻つねに申しつけて おぢばへ代参させた。

教祖は、
「この目はなあ、難しい目ではあらせん。神様は一寸指で押さえているのやで。
そのなあ、おさえているというのは、ためしと手引きにかかりているのや程に。」
と仰せになり、続いて
「人ごと伝ては、人ごと伝て。人頼みは人頼み。
人の口一人くぐれば一人、二人くぐれば二人。人の口くぐるだけ、話が狂う。
狂うた話した分にゃ、世界で過ちが出来るで。過ち出来たぶんにゃ、どうもならん。
よって、本人が出てくるがよい。その上、しっかり諭してやるで。」
とお諭し下された。

つねが 家に戻ってこの話を伝えると、兵四郎は「成る程、その通りや。」と心から感激して、三日朝 笠間から四里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらって、お屋敷へ帰ってきた。

教祖はまず、
「さあ/\」
と仰せあり、それから約二時間にわたって、元始まりのお話をお聞かせ下された。
その時の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がぴりぴりと振動したほどであった。

そのお言葉がすむや否や、ハット思うと、目はいつとはなく何となしに鮮やかとなり、帰宅してみると、長女きみの目も 鮮やかに御守護いただいていた。

しかしその後、兵四郎の目は、毎朝八時頃までと言うものは、ボーッとして遠目は少しも聞かず、どう思案しても御利益ない故に、
翌 明治十九年正月に、又、おぢばへ帰って、お伺い願うと、
「それはなあ、手引きがすんでためしがすまんのやで。
ためしというは、人助けたら我が身助かる、という。
我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで。」
とのお諭しを頂いた。

よって、その後、熱心におたすけに奔走するうちに、自分の身上も、すっきりお助けいただいた。

加見兵四郎、伊勢布教の始まり(明治19年~)

明治19年旧12月28日、(加見)兵四郎は 教祖より、赤衣を拝戴した。

同年(明治19年) 3月18日、
(加見)兵四郎は、伊勢の国の 多気郡多気村へ 招きにより布教に行き、さらに (三重県) 飯南郡波瀬村へ 到った。
これが、(加見)兵四郎(の) 伊勢布教の始まりである。

(加見兵四郎は) その後、布教のため 47回も 居所を変えることを余儀なくされ「生壁 (なまかべ) の兵四郎」という異名を得た(ほどだった)。

(加見)兵四郎は また、明治20年旧10月20日、
45歳の時「おさづけの理」を拝戴した。

それより、伊勢の国・飯南郡波瀬村を初めとして 多気郡・度会郡の 各地へ布教にまわり、講社も数多く出来た。

東海支教会の開設(明治26年)

明治23年3月、
(奈良県磯城郡城島村) 外山に (上村吉三郎を会長として)「城島分教会」が 設置された。

(一方)
(加見)兵四郎 (の方で) は、
明治26年1月28日、
1,411戸という信徒を結成して、
(三重県) 度会郡 滝原村大字阿曽奥里出94番屋敷に「東海支教会」を設置。
(天理教教会本部から) その許しを得た。

教会の移転建築(明治27年)

(開設) 当初(の 東海支教会の) 敷地は 94坪、建坪 22坪であったが、
明治27年10月より (教会施設の) 普請にかかり、翌(明治)28年3月に落成した。

地所も、同村(度会郡滝原村) 大字阿曽1568番地に移転。
(教会の) 敷地 651坪、建坪 197坪9合7勺であった。

城島分教会からの分離問題(明治28年頃~明治33年頃)

明治28年11月、城島分教会長・上村吉三郎出直後、
(城島分教会に) 後任教会長問題が 噴出した。

(そうした問題に加えて) 東海支教会(の) 役員信徒 92名による「城島(分教会) からの分離嘆願書」が、(加見)兵四郎のもとに提出されてきたりして、(東海支教会内部で) 問題が続出。
(加見)兵四郎の心痛(は) 一方ならぬものがあった。

(その後、城島分教会後任) 会長問題(の方) は、おさしづ によって、山田伊八郎が就任することで治まった。
(しかし、城島分教会からの 東海支教会) 分離問題は、(加見)兵四郎が同意せず、(なかなか治まらなかった。)
(そして) 明治33年5月、(加見)兵四郎は、家族共に 住み馴れた(奈良県添上郡朝倉村) 笠間の地を離れ、(奈良県磯城郡城島村) 外山の「城島分教会」へ住み込んだ。

(そうした 様々な事情を抱えた 東海支教会ではあったが、
そのような中でも 教勢は着々と拡大していき) 
明治27年より 同(明治)29年にかけて、三重県下に 部属教会 5ヵ所の設置を見た。

加見兵四郎 初代会長の転居(明治34年)

(後任教会長問題に揺れた 城島分教会であったが)
明治33年6月には、
従来の「城島」を「敷島」と改称する許しを得た。

(そして) 明治34年 6月、
(敷島分教会が) 現在の (奈良県三輪町) 金屋の地に 移転建築したことを受けて、
(加見)兵四郎は、(奈良県磯城郡城島村) 外山を去り、大和・伊勢の信徒によって新築された住居に 居住することとなった。

東海支教会の教勢拡大(明治30年頃~明治40年頃)

(いろいろな節に遭遇しながらも 東海支教会の道は広がり続け)
明治30年より同(明治)40年には、部属教会11ヵ所が設置され、
三重県より 新潟、北海道へと 教勢は伸展していった。

加見兵四郎 初代会長の辞任、小田伴助2代会長の就任(明治40年)

明治40年7月25日、
(加見)兵四郎は、
東海(支教会) の会長を、小田伴助 にゆずり、
自身は 敷島にて 専心、教信徒の仕込みに 日を送ることとなった。

東海分教会へ昇格(明治42年)

明治42年1月29日、
東海(支教会) は、分教会に昇格。
天理教敷島大教会 東海分教会 と改称した。

当時の信徒戸数は、2,880戸であった。
土地、建物は 少し拡張され、土地 772坪、建物 229坪5合 であった。

加見兵四郎 初代会長の出直し(大正7年)

大正7年11月3日、
初代会長・加見兵四郎が、76歳を以て 出直した。

(加見)兵四郎は、晩年
「人はみな 前から頭を下げられるよりも、後から拝まれる人になるよう 心掛けてもらいたい」
「道義・道徳・義理人情は、天保9年10月26日以前の 人の通るべき あたりまえの道。
それより以後は 神一条の道。
混同しないように」
などと、人々に 諭していた。

教会の借財問題、教会施設喪失 ~ 借家への仮移転(大正8年)

この頃より、東海(分教会) の教勢に、一つの節が見えて来た。
(それは何かと言うと) 教会の借財問題であった。

(借財問題解決のために) 頼った人には去られ、地元からの信用は 地に墜ち(てしまっ)た。
(そして) 遂には、神殿・教祖殿を始め、教会の建物という建物は、全部 人手に渡さねばならなくなった。

(教会の) お目標めどうは 2~3の人の手によって奉持され、夜逃げ同様の姿で、(東海分教会は) 住み馴れた (三重県度会郡) 阿曽の地を離れたのであった。

(そして) 大正8年 7月30日、
(三重県) 多気郡相可町の1借家に 仮移転の許しを得、
同年(大正8年) 8月20日、遷座を奉仕した。

小田伴助2代会長の辞任、小田久郎3代会長の就任(大正10年)

大正10年11月28日、
2代会長・小田伴助は、
会長を その長男・久郎にゆずった。

小田久郎3代会長時代・教勢の回復 ~ 教会の移転建築(大正10年頃~大正13年)

3代会長・小田久郎は、
教祖40年祭を目指しての教勢の倍加運動が提唱されたのを機会に、沈滞する東海(分教会) の教勢挽回につとめた。

この時旬に呼応し、(東海)分教会としても、教会の建築にとりかかった。

(大正8年に 夜逃げ同然で移転した東海分教会であったが)
親神の守護と部内一体となった真実により、ようやく 現在の事務所の完成を見ることが出来た。
(そして、その新しい事務所へ) お目標めどう の仮遷座を執行したのは、大正13年4月20日であった。

その後、同(大正)14年 9月8日、神殿も落成し、ここに 滞りなく鎮座祭を執行。
翌(9月)9日、奉告祭を執行した。
境内地 2,954坪、建坪 180坪7合5勺であった。

小田久郎3代会長出直し、小田正4代会長就任早々の出直し、加見信太郎5代会長の就任(昭和12年~昭和13年)

昭和12年4月17日、
3代会長・小田久郎が、54歳をもって出直した。

同年(昭和12年) 8月1日、
久郎の長男・小田正が4代会長に就任。

しかし、(小田正4代会長は) 就任 1ヵ年を経ずして、
昭和13年5月27日、弱冠 26歳で出直した。

(小田正4代会長の出直しを受けて)
同年(昭和13年) 11月27日、
加見信太郎が、5代会長として就任した。

東海大教会へ昇格(昭和17年)

昭和15年 教規が改正され、このため、
昭和17年2月24日、
東海(分教会)は、敷島大教会より分離。
大教会に 陞級の許しを得た。

かくして、
同年(昭和17年) 12月3日、
2代真柱の臨席を得て、大教会陞級奉告祭を 盛大に挙行した。

信者詰所の開設(昭和24年)

昭和24年10月26日、
奈良県山辺郡丹波市町大字三島598番地に、
東海大教会 信徒詰所開設の許しを得た。

復元、教勢の伸展(昭和20年代)

(終戦後執行された) 教祖60年祭における「復元」の提唱は、
(東海大教会の) 教勢の伸展にも 大いに拍車をかけ、
愛知県、福島県その他に 8ヵ所の 部内教会の設立を見た。

また、昭和28年9月、
大教会客殿の建築が落成。
初代会長入信日の11月3日に、2代真柱の臨席を得て 大教会創立60周年記念祭を挙行した。

加見信太郎5代会長の辞任、加見秀信6代会長の就任 ~ 創立70周年記念祭(昭和37年~昭和38年)

昭和37年1月26日、
5代会長・加見信太郎が、老齢の故をもって その職を辞した。

(それを受けて)
同年(昭和37年) 11月26日、後継者・加見秀信が、
許しを得て、東海(大教会)6代会長に就任した。

昭和38年4月5日、
2代真柱の臨席のもとに、東海大教会長就任奉告祭 並びに 創立70周年記念祭を執行した。
当日参集したよふぼくは、3,000名を数えた。

創立80周年記念祭前後(昭和47年~昭和48年)

昭和47年2月20日、
大教会創立80周年の年を機に、
昭和38年以降休刊していた機関誌『とうかい』を、大教会報『とうかい』として復刊した。

翌(昭和)48年 10月30日、
真柱夫妻は、上田民夫・前川正通本部員・山田忠一本部准員を随行に来会。
同日(10月30日) 午後6時30分、真柱祭主のもとに、中山家霊様の鎮座祭を執行(した)。

明けて(昭和48年) 10月31日、
大教会創立80周年 並びに 初代会長 加見兵四郎 入信百年記念祭を執行した。
この日は、小春日和の暖かい日で、約3,000名の参拝者で終日賑わった。
また、このよろこびの時に、長年にわたり懸案とされていた『大教会略史』が刊行された。

三年千日の丹精によって、教祖90年祭をつとめあげ、更に教祖百年祭を目指し(『天理教事典』1977年版出版当時)
東海(大教会) は、世界たすけの親神様の思召を生かしきるべく、一手一つに 益々 精励の歩みを続けている。

【出版物】 『とうかい』(月刊)、『東海の道』(大教会史)

〔現住所〕〒519-2181  三重県多気郡多気町相可1125番地
〔電話〕 0598-38-2015

 (昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,592〜594)

おわりに

東海大教会Googleストリートビューより③
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第112回目の今回は、
「東海大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

東海大教会AppleMapより①
AppleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中にも、東海大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとしてそのまま書写します。

南大和から

奈良県桜井市から忍坂を過ぎ、宇陀へ向かう女寄峠の麓が下尾。
そこを右に折れると 倉橋村出屋敷に出る。

教祖より「南半国道弘め」とお言葉を頂き、明治十四年、大豆越村(現桜井市) 山中こいそは 出屋敷の 山田伊八郎に嫁いだ。
伊八郎は信仰を固く誓い、心勇組の講名を頂いた。
敷島大教会の前身である。

翌年、こいそ の父・山中忠七が 出屋敷を訪ね、産後三年間 足腰の立たぬ 山本与平の妻いさ を扇の伺いによって たすけた。
それを目にした 忍坂の小学校教諭・長田八五良らが 入信した。

女寄峠を登りつめた所が 笠間である。
笠間の 加見兵四郎は 十五年、いさ のことを聞き、山本家を訪ねた。

これより 家業を捨てて 道一条を決意した。

兵四郎の六歳の時、母が 妹きく を、父が 兵四郎を連れて 離婚。
二年後、放浪癖のある父が姿を消し、兵四郎は 天涯孤独となって、厳しい叔父のもとで 人生の悲哀を 嫌というほど 味わった。

明治六年、つね を妻に迎え懐妊した時、妹きく より聞いていた 庄屋敷の神様を訪ね、をびや許しを頂いていた。

宇陀郡の拾生村に 両手の不自由な病人がいて、兵四郎が 神様の話を取り次いだところ、一夜の間にたすかった。
隣家の子供の身上も たすけた。
これがきっかけで、拝んでもらいたいと 病人が来た。
十四年までに 二十四戸の信者ができ、十八年、心勇講に 合体した。

兵四郎が 三重県へ最初に足を踏み入れたのは 十九年のこと。
笠間から 一志郡多気村まで 伊勢本街道 (中街道) を御杖村を越えて行った。
その三日後、魚行商の 山田寅吉の案内で、今度は 高見峠越え (南街道) で 飯南郡波瀬村へ おたすけに出向いた。 

兵四郎は だんだんおたすけが忙しくなるや、一度 笠間の家を出ると 短くて半月、長ければ 半年、三重県の山峡の村々を回り、「生壁の兵四郎」と異名をとった。
なぜなら、たすけられた信者が 自分たちの村に住んで もらいたいと 家を新築する。
生壁が乾く間もなく 別の所から 家を新築して 迎えられたからである。

こうして 東海の道は 飛躍的に開けていった。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,73〜74)

東海大教会は、敷島大教会から分かれた大教会ですね。
敷島大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

東海大教会Googleストリートビューより④
Googleストリートビュー より

当シリーズでは、これまで『天理教事典』1977年版の天理教大教会解説文の書き写し学習を行ってきたわけですが、
今回の「東海大教会」解説文を書き写しながら、
改めて胸に迫ってきたのは、初代会長・加見兵四郎先生の、あまりにも過酷な生い立ちでした。

6歳で父と生き別れ、8歳で母にも去られ、叔父の家での虐待に耐えかねて「乞食するよりさかさ」と奉公に出る…
こうして、文字通り 幼少期から人生の底を這うような道を歩まざるを得なかった 加見兵四郎先生の少年時代の姿を想像すると、読んでいて 本当に胸が締め付けられるような思いがしました。(-_-;)

けれども、その後の歩みをたどると、
その過酷な生い立ちを通ってこられたからこそ、
「人救けたら我が身救かる」という道を、徹底して自らの身一つで体現していかれたのではないか――
そんなふうにも感じさせられました。

泥でこしらえた観音様と一緒に寝るほど幼い頃から神仏を慕い、
やがて 教祖のお言葉により 眼病を鮮やかにご守護頂き、
そこから 伊勢の山村を転々としながら「生壁の兵四郎」と呼ばれるほど布教に奔走していかれた兵四郎先生。

その生涯全体を俯瞰してみると、
幼少期の悲惨な出来事も、今となっては、暗黒の中に苦しむ人々の心に寄り添い、そこに救いの道を示すために、神様があえて通らせられた 一つの「ためし」であったのかもしれない――
もちろん軽々しく断定することなど出来はしませんが、
そんな思いが、私の胸の中に 静かに湧き上がってくるのでありました。

東海大教会AppleMapより③
AppleMapより

また、今回の学習では、東海大教会の母体である東海支教会が、上級・城島分教会(現在の敷島大教会)からの分離問題に揺れた、という史実を初めて知りました。

明治28年11月に 城島分教会 初代会長・上村吉三郎先生が出直された後、後任会長問題が紛糾し、
その渦中で、東海支教会の役員信徒から「城島分教会からの分離嘆願書」が加見兵四郎先生の手元に提出されていた!

そのような『天理教事典』の短い記述の中から垣間見えるのは、
信仰共同体の内部で、理想だけでは割り切れない 現実の人間関係や思惑・葛藤が錯綜していたであろう 当時の空気感でした。

これまで当シリーズの中で、多くの大教会が 似たような事情・問題に遭遇していたという史実に触れてきましたが、
「敷島ー東海」という、今の天理教の根幹を支えると言ってよいような 天理教の代表的大教会においてでさえ、こうした「実に人間臭い歴史」が避けがたく存在していた、という事実を知り、
改めて、どれほど信仰を中心に掲げた共同体であっても、多くの人が集う以上、どこかで世俗的なトラブルはつきまとってくるのだなぁ… と、しみじみ感じさせられたのでありました。

東海大教会Googleストリートビューより⑤
Googleストリートビュー より

さらに、
今回の学習で、私の心に 重くのしかかってきたのは、
東海分教会が 莫大な借金のために教会施設をすべて手放し、夜逃げ同然の姿で借家へと移らざるを得なかった、という歴史でした。

これまでの当シリーズの中でも、
多くの大教会が、ある時期に巨額の負債を抱え、神殿や建物を差し押さえられたり、土地を売り払わざるを得なかったり、といった苦難の時代を乗り越えてきた歴史を抱えているということを 繰り返し目にしてきました。

その度に、
「天理教の教会というのは、筆舌に尽くし難い経済的困窮の歴史を避けて通ることの出来ない構造を抱えた組織なのだろうか」
「教祖のお言葉『貧に落ち切れ』に照らしてみた時、教会にとっての経済的困窮とは、神様から求められる必要不可欠なプロセスなのだろうか」
と、自分の中で同じ問いが反芻され続けてきました。

そして、今回学んだ東海分教会歴史の書写学習においても また、
「夜逃げ同様の姿で移転」という生々しい表現まで添えられた節の記述に 改めて触れて、
その問いが、また新たに 胸の内によみがえってきました。

…とはいえ――
今の時点では、いくら考えても、この疑問に対する明快な答えは見出せそうにありません。
だからこそ、そうした苦難の積み重ねの上に、今の教会の姿がある、ということを忘れないよう意識しながら、
少しでも神意に添った歩みとはどのようなものなのか――
自分なりに考え続けていくしかないのだろうなぁ… と感じています。

東海大教会AppleMapより②
AppleMapより

その他にも、
昭和12年4月に小田久郎3代会長が 54歳で出直し、そのわずか数ヵ月後の 同年8月1日に長男・小田正先生が4代会長に就任しながらも、就任から一年を待たずして昭和13年5月27日、弱冠 26歳で出直され、同年11月27日に加見信太郎先生が5代会長として就任したという、一連の 会長交代の歴史。
――これも、全く知りませんでした。

父の後を継ぎ 26歳で教会を担う決意をして、しかし 就任から1年も経たないうちに出直してしまわれた 小田正先生―― その若い生涯を想像すると、胸が痛みます。
しかし同時に、
そのような「節」の連続の中でも 東海大教会の道が途絶えることなく続いていったという事実もまた、重く深く 心に残ります。

これまで知らなかった多くのことを知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。

加見兵四郎先生の苛烈な幼少期、
城島分教会との関係をめぐる分離問題、
莫大な借財を抱えて教会施設をすべて手放さざるを得なかった節、
さらには、相次ぐ会長出直しをくぐり抜けてきた会長継承の歴史――

どれ一つをとっても、
出来れば避けて通りたいような重い出来事ばかりですが、
実際には、その一つ一つが折り重なって、今日の東海大教会の姿を形づくっているのだと感じます。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも書いているフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「東海大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、
その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

東海大教会Googleストリートビューより②
Googleストリートビュー より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「東海大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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