本当のたすかりとは何か (ある月の祭典講話より)

体調に向かい両手を広げる女性 天理教

某月 私が上級教会でつとめさせて頂いた「祭典講話」の原稿を掲載させて頂きます。

只今は、月次祭を、皆様と共々に心を一つに揃えて結構につとめさせて頂くことができて本当に有難いことでございました。

このたび、上級会長様より祭典講話のご指名を頂きましたので、行き届かない者ではございますが、親の声ということで素直に受けとめ、今の私として出来る範囲で最大限努力し、与えられた勤めを果たさせて頂きたいと思います。

聞き苦しい点が多々あるかと思いますが、何卒おおらかに受けとめて下さいまして、しばらくの間お付き合い下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

皆様もよくご承知の通り、私は、令和元年におやしきで新任教会長としての任命のお許しをいただき、分教会の会長に就任いたしました。早いもので、もうじき2年が経過しようとしています。

教会長としての任命をいただきながらも、教会長らしいことは何一つできず、正直なところ「名前だけ教会長」であることは、周りから指摘されるまでもなく、自分でも十二分に自覚しているところであります。

そのような自分でありますから、残念ながら、祭典講話と言って皆様の前でお話できるようなおたすけ話やご教理話の引き出しが私の中にはありません。

しかし、持ち合わせがないので何もお話出来ませんというのでは、お与え頂いたご用を果たせませんので、そんな今の自分にできるお話を、何もない自分の中から、何とか絞り出してお話させて頂きたいと思います。

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たすけていただいて今がある

今、私が天理教、このお道を、ふらふらさまよいながらも、細々と歩み続けさせて頂いているのは、教会長就任後初めての祭典講話でもお話した通り、「いんねんの自覚」、これが原動力になっています。

というより、これがすべてに近いと言えるかもしれません。

本来なら路頭に迷っていたであろう徳のない魂の者が、人並な生活を送らせて頂けるまでに引き上げて頂けている、その自覚こそが、心の底からやりたくなかった天理教教会長を引き受ける決心につながり、今のこの環境につながっています。

お道に不足心が湧いた時、私が自分に言い聞かせている呪文があります。

それは、「たすけていただいて今がある」という呪文です。

喜べない時、不足心に捕らわれた時には、「たすけていただいて今がある」と自分に言い聞かせ、少しでも不足心を感謝の心に切り替えられるように努力しています。頭で考える通りには行かず、難しい時も多いのですが…

さて、そのような中、このたび上級会長様より祭典講話のご指名を頂いて、どのようなお話をさせて頂いたらよいか思案を巡らせて頂いている時に、「たすけていただいて今がある」と言いながら、「たすけて頂く」とはどういうことだろう、「本当に助かっている姿」というのはどういう姿なのだろう、という疑問が湧いてきたのでした。

お道では「人たすけたら我が身たすかる」と教えられます。では、人が「たすかる」というのは、どういうことなのでしょうか。どういう状態になれば、その人は「たすかった」と言えるのでしょうか。

おそらく、お道の中でそういった探求はしっかりされていて、教理書を探せばいろんなところにそのことについての答えが書かれてあると思います。しかし、このたびは私の中にそれを掘り下げるだけの余裕もなく、また本日のこの場は教理研究発表の場ではありませんから、本日は、私の中での現時点での悟りをお話させて頂くことをお許し頂きたいと思います。

本当のたすかりとは何か

本当のたすかりとは何か。

現時点での私の悟りは、「本当のたすかりとは、自分の日常の思考が天理に添った思考になることではないか」 というものです。

そのように考えるに至った経緯について、以後お話させて頂きたいと思います。

「本当のたすかり」とは何だろう、とあれこれ考えていく中で思い浮かんだのは、メンタリストDaiGoがYouTubeで勧めているのを見て知った、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』という本に書かれていた内容のことでした。

以前、メンタリストDaiGoがYouTubeの中で『ファスト&スロー』という本を絶賛していて、それに刺激され『ファスト&スロー』という本を要約している動画を見たことがありました。このたびあれこれ考えていた時に、私の中に残っていたその際の大雑把な知識が、「本当のたすかり」とは何か、という私の問題意識への一つの答えを示してくれました。

小難しい話になって恐縮ですが、まずは、ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』という本の内容を簡単に紹介させて下さい。

実は、私もまだその原著は途中までしか読んでいなくて、以下の内容はYouTubeやネット上の本要約記事を参考にさせてもらったものなので、きちんとした理解とは言えず、自己流の解釈の部分が多々あると思います。ですので、自己流解釈版『ファスト&スロー』の概略の概略、本当に入口部分だけの内容紹介である、という点をご了承願います。

ダニエル・カーネマンとは、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者で、『ファスト&スロー』という本は、人間の意思決定の研究を解説した本です。

この本では、人間が意思決定するメカニズムが書かれています。

人間の意思決定に影響を及ぼす思考には2種類あって、1つが「Fast」=速い思考。もう1つが「Slow」=遅い思考。 速い思考と遅い思考、ということで『ファスト&スロー』という本の題名がついているわけです。

カーネマンは、速い思考を「システム1」と名付け、遅い思考を「システム2」と名付けました。そして、それが人間の意思決定にどのように影響を及ぼしているかについて解説しています。

システム1(速い思考)は、直感や感情のように自動的に発動するもので、日常生活のおおかたの判断を下すものです。一方、システム2(遅い思考)は、熟慮とでも呼ぶべきもので、意識的に努力しないと起動しないものです。

仰々しい表現ですが、要するに、人間の思考には、直感的・感覚的でせっかちな部分と、論理的・理念的でじっくり型の部分があり、それらはまるで一人の人間の中に独立した2つの人格があるかの如く別々に働くものだ、ということです。

そして、その2つの働きには順序があります。

人間は、外からの刺激を受けた場合、まずそれをシステム1(速い思考)で処理し、それをシステム2(遅い思考)へ送り、その後に自分の意思決定を行う、というものです。

まずはシステム1が、直感的・感覚的、感情的に反応し、その結果、システム2へ送る必要があると判断した場合にはシステム2へ送られ、そこで初めて論理的な思考、いわゆる冷静な反応をすることになる、というわけです。

すなわち、人間の意思決定は、直観的・感覚的、そして感情的なシステム1(速い思考)が主導しているということになります。

平たく言い換えれば、「人間が物事に接した際には、まず直観的・感情的な反応をした後で、必要に応じて論理的で冷静な反応をする」ということで、それは別にカーネマンに指摘されるまでもなく、我々の日常を振り返ってみれば当たり前のように起きていることは誰にでもわかります。となると、仰々しくシステム1とかシステム2とか名付ける意味はどこにあるのか、という疑問が湧いてきます。

ダニエル・カーネマンが人間の意思決定のしくみを分解して説明する意義は、人間の意思決定は、自分が自由に行っているように見えて、実は、多くのバイアス(偏り)によってゆがめられている、ということを説明することにありました。

具体的には、人間は往々にして「システム1」速い思考=直観的な思考に引きずられて多くの判断を行う、それを前提とした「システム2」遅い思考=論理的な思考は、ゆがめられた前提をもとに意思決定を行うことになるので、結果として、多くの思い込みや偏りに基づいた不適切な意思決定がなされてしまう、それは人間の社会生活向上に不利益をもたらしているのではないか、ということを主張しているわけです。

そうした弊害から逃れるための手立てについて、著書の最後の方で少しだけ提唱したりしていますが、それは、本日のお話からはテーマがずれますし、また私もまだそこまで深く原著を読み込めておりませんので、これ以上そのことについて深入りするのは控えます。

「本当のたすかり」と『ファスト&スロー』について

それで、「本当のたすかり」とは何かという問題意識と、以上説明したダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』という本がどうつながるのか、という話になります。

それについて説明する前に、まず、お道で言われるところの人間の心についての考え方をおさらいしておきたいと思います。

お道では、人間は体は神様からお借りして、心は自由に使えるようにそれぞれにお与え下さっている、と教えられています。すなわち、本来、人間の心は自由に使えるものだ、ということです。

しかし、実際はどうでしょうか。こういう心を使いたい、と思っていても、それぞれの出来事、場面に遭遇した際に、その場の状況へのとっさの反応が優先してしまって、つい自分の普段の心がけとは違う心を使ってしまう、というのはよくあることではないでしょうか。

自由に使うことを許された「心」の筈なのに、自由に使えない。お道ではその原因を、癖性分、いんねん等の言葉で説明していますが、このたびあれこれ考える中で、お道の「心」についての考え方と、『ファスト&スロー』で説明しているところのシステム1、システム2の考え方が重なっているように感じられたのでした。

人間は、ある物事に直面した時、まずシステム1(速い思考)でとっさに反応し、その後で、必要に応じシステム2(遅い思考)でそれをじっくり検討して物事を決定していく、というのが『ファスト&スロー』による説明なわけですが、それにお道の教えをミックスしてみると、私の中でとてもしっくり落ち着く考え方に整いました。

直観的で感情的なシステム1(速い思考)は、お道でいうところの「癖性分・いんねん」を基盤としたシステム。そして、論理的で冷静なシステム2(遅い思考)が、お道でいうところの「めいめいに与えられた心の自由」。 心の自由を与えられていながらも、癖性分や因縁に負けて自分の思うような心遣いができない、というお道の考え方は、システム1(速い思考)に引きずられてシステム2(遅い思考)がゆがんでしまう、という『ファスト&スロー』の考え方で説明できる、というわけです。

「心の欲する所に従って天の理に添う」

本当のたすかりとは何だろうという問題意識から出発して、以上の如く、あれこれ思案を重ねたわけですが、その思案の流れは次のように進んでいきました。

いくら身上回復のご守護を頂いても困難な事情が解決するご守護を頂いても、その後、不平不満に包まれた生活を送っているのだとしたら、その人は本当にたすかったとは言えないのではないだろうか。

逆に、たとえ身上回復のご守護が頂けなかったり困難な事情が解決しなかったとしても、その人が本当に喜びいっぱいの心で生活できるようになったとしたら、外観はたすかっていないように見えても、その人の内面は「たすかっている=救済されている」と言えるのではないだろうか。もし、何を見ても何を聞いても「嬉しい」「有難い」という心になることが出来たならば、その人はたすかったと言えるのではないだろうか。

論語に「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」という言葉があります。これは、孔子は70歳になったら自分の心のままに行動しても人道を踏み外す事が無くなった、ということを説明した言葉だそうです。 あれこれ考える中で、「本当のたすかり」というのも、ある意味そのような状態を指すのではないか、という考えが浮かびあがってきたのでした。

『ファスト&スロー』の考え方にお道の教えを混ぜ合わせた形で表現するならば、次のように言えるかもしれません。

「本当のたすかり」とは、日々の暮らしの中で直面する出来事に、直観的・感情的なシステム1(速い思考)が、自然に、喜びや感謝といった陽気ぐらしにつながる明るい心で反応できることではないか。

感情的なシステム1(速い思考)が条件反射的にネガティブに反応してしまった後で、その考えを冷静なシステム2(遅い思考)が「たんのうせねば…」と反省し、その心を切り替えようと努力するのは、ネガティブなまま何の気づきもない思考パターンの人に比べれば神様の御心に近いと言えるかもしれないが、まだまだ完全に心がたすかっているとは言いきれないのではないか。

完全に心が救済された姿というのは、やはり、無意識のふるまいがそのまま陽気ぐらしにつながる反応になっている、すなわち意識したり努力したりせずとも普段の心遣いそのものが陽気ぐらしにつながるものであることではないか。教祖は意識して天の理に基づくお振る舞いをされたわけではなく、普段の自然な行動がそのまま天の理に添ったものであったように…。 そのように思ったのです。

先の論語の言葉を借りるならば「心の欲する所に従って天の理に添う」とでも言えるでしょうか。

私が言いたかったこと

あれこれと理屈っぽく堅苦しい表現をして、お聞きくださっている皆様には、何を言っているのかわからなくなっているかもしれかもしれません。私の説明力が乏しいため皆様に不快な思いをさせてしまっていることをお詫び致します。

結局、私が言いたかったことは何かと申しますならば、

私達人間は、神様から心の自由を与えられていると教えられているけれども、実は100パーセント自由ではない。日々の出来事に、まず感情的な「速い思考」で反応して、その後の冷静な「遅い思考」に偏りが出ることがしばしばある。 本当にたすかったと言えるのは、「速い思考」の時点で、努力せずとも自然と神様の思いに添った心遣いができるようになることではないだろうか。

ということでした。

講話の冒頭の部分で「本当の助かりとは、自分の日常の思考が天理に添った思考になることではないかと思っている」、と述べたのは以上のような意味であります。

「速い思考」の時点で天理に添った思案が出来るようになるためには

「速い思考」の時点で天理に添った思案が出来るならば、努力せずともその人は楽に陽気ぐらしが出来るでしょう。

しかし、「速い思考」は自分の力ではどうすることも出来ない部分が多々あります。とっさに感情的な反応をしてしまって、あとで「あぁあの時、なんであんな反応をしてしまったのだろう」と後悔するというのは世の人の常だと思います。

では、「速い思考」の時点で天理に添った思案、反応ができるようになるためにはどうすれば良いのでしょうか。

私は、その部分こそが神様にお働き頂く部分なのではないか、と思ったりします。お道的な言い方をすれば、癖性分をとって頂く、因縁を変えて頂く、という部分だと言えるかもしれません。

頭ではわかっていても実践できない部分、あるいはついついやってしまう部分、冷静な時にはよくわかっているのに感情的になってしまうとそれがどこかへいってしまうような心遣い、それらを天の理に添ったものへと修正していく道、それが信仰であり、教祖から教えて頂いたこの道なのだと思います。

縁あって天理教という魂の救済を説く一つの宗教に引き寄せられた私たちは、これまで、実に多くの教えを授けられてきました。たすかるための道、方法は、既に示されていて、あとはそれを実行するだけだ、というお話をよく聞かせて頂きます。

つまり、頭ではわかっています。こうした方が良い、こうすればより良く変われる、ということは、知識として、自分達では抱えきれないほど十分与えて頂きました。

しかし、実践は、なかなか頭で思うようにはいきません。少なくても私には出来ていません。逆に、知識が増えすぎて、たすかろうとするための心遣いが苦しみにつながっている場合さえあるのではないか、と思ったりもします。

癖性分に押し流され、因縁に負けがちなのが人間です。そんな弱い人間だからこそ、そのような自分の力だけではどうにもならない部分に、神様の力を頂かなければ変わることが出来ないのだと、私は感じます。

それが、神様の力をいただく、すなわち「他力」であり、きっと私たちは、おつとめやおさづけ等の教祖を通して教えられた信仰儀式を通して神様に向き合い、神様にお縋りすることで、そうしたお働きをいただけるに違いありません。

冷静な「遅い思考」の部分で日頃の自分の心づかいを点検し、そして、感情的な「速い思考」が自身のコントロール下を離れ天の理からずれた働き方をしていることに気付いたならば、少しでもそれが天の理に添った働き方へと改まるよう、神様に向き合い神様にお縋りして、神様のお力「他力」を頂く。それが、「本当のたすかり」へつながる信仰の土台なのではないだろうか、そのようなことを思ったりしています。

そして、「本当のたすかり」をいただくためには、「たすかりたい、たすかりたいでは助からん。人様にたすかって頂きたいという心になれた時、初めてたすけて頂くことができる。人たすけたら我が身たすかる。」 という教祖からお示し頂いた尊い御神言を、今一度自身の胸に刻んで、周りの人にたすかって頂きたいという心を育みつつ、因縁に負け流されてしまわないよう神様にお縋りしながら、これからも歩ませて頂きたいものと思います。

ご清聴ありがとうございました

以上、長々と理屈っぽく堅苦しいお話になってしましましたが、最後までお付き合い下さり、まことにありがとうございました。

これからますます暑くなっていきますが、お互い体調管理には気を付けて、少しでも陽気ぐらしのできるたすかりの道を求めて歩ませて頂きたいものと思います。 

ご清聴ありがとうございました。

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