冨松幹禎先生「いんねんについて」YouTube講話文字起こし(ある月の祭典講話より)

「冨松幹禎先生「いんねんについて」文字起こし」アイキャッチ画像 天理教

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

前回まで、「元の理」について勉強しました。

こちらも見てね!!

「元の理」勉強シリーズがひと段落して、
さて、次は何を書こうか思案…

なかなか良いネタが見つからないので、
とりあえず今回は、
少し前につとめた上級教会での祭典講話、その原稿を、
記事として公開させて頂くこととします。(^_^;)

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ある月の祭典講話・原稿

crescent moonlight reflected in clouds

只今は、〇月月次祭を、会長様を芯に、共々に結構に陽気につとめさせて頂きまして、誠に有難いことでございました。

このたび、会長様より、祭典講話のご指名を頂きましたので、届かぬ者ですが、精一杯つとめさせて頂きたいと存じます。
どうかお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。

本日の祭典講話では、冨松幹禎先生のYouTube動画を文字起こしして、それを私の言葉でお伝えします

先月末に会長様より祭典講話のご指名を頂いたのですが、
さて、何をお話させて頂いたらよいか、随分と頭を悩ませました。

皆様よくご承知の通り、私は、名前だけ教会長というのが実態で、
皆さまの前でお話できるような感動的な体験談の持ち合わせがありません。

また、今、ご参拝下さっている皆さま方は、
私にとっては、ほとんどが信仰的には先輩に当たられる方々ばかりですので、
教理の話をしようとすれば、それは釈迦に説法になってしまいます。

あれこれと頭を悩ませつつ、祭典講話のネタを求めてYouTubeをいろいろ探索しました。
そのようにして、もがく中で、改めて感じたことがあります。

それは、
“YouTubeの中に素晴らしいお道の話がいっぱいあるではないか”
ということです。

私がわけの分からない話をするよりも、
YouTubeのお話を流した方がよっぽど皆さまのためになる、
と心底思いました。

しかし、祭典講話で YouTubeのお話をそのまま流す、
というわけにはまいりません。

あれこれと思いを巡らせる中で一つ閃きました。

それは、
私が聴いて心に刺さったYouTube動画を
私の言葉で改めて皆さまにお伝えするというのはどうだろう、
というアイデアでした。

そもそも、お道の教えというのは
決して個々人のオリジナルなものではなくて、
おやさまに教えて頂いた事を、周囲や後世へと伝えていく、
という性格のものだと思います。

ですから、
自分自身にはオリジナルなものがないからお聴きして深く心に残った話を 改めて伝える、
というやり方も、
あながち、お道の話の王道から大きく外れた手段というわけではなく、
論外なやり方として非難されるものではないのではないか、
と考えました。

ほこりにまみれ 不足心でがんじがらめになった時などには、
大きく人の道を踏み外すことのないよう、
自らの「いんねん」に思いを馳せることを忘れてはならない…
なかなか実践は伴いませんが、
少なくともそのような意識だけは失わないようにしたいと考えています。

というわけで、本日の祭典講話では、
私がYouTubeを探索して心に刺さった動画を、文字起こしして、それを改めて私の言葉でお伝えする、
というやり方を取らせて頂きます。
ご了承ください。

「いんねん」のお話を文字起こしして改めてお伝えしようと思った理由

mountain scenery

さて、では、YouTubeからどんな話をすくい上げればよいか。
パソコンに向かい、検索を始めました。

検索にあたってはキーワードを入力するわけですが、
私がキーワードとして指定したのは「いんねん」という単語でした。

というのも、
教会長就任後にご指名頂き 行った祭典講話の際にもお話しましたけれども、
私に、天理教の教会長を引き受ける決断をさせた最終的要因が、
「いんねんの自覚」
だったからです。

私がこの道を歩む上で常に頭から離れない言葉、
それが「いんねん」という言葉なのです。

 教会長就任後の祭典講話でお話しましたが、
私の信仰の土台は
「たすけて頂いて今がある」
という自覚に他なりません。

私は、癖があって我が強く、
おそらく、本来なら人並みな生活など出来なかったに違いない魂の人間であります。

しかし、そんな私ですが、
今、こうして人並みに日の当たる所で普通に生活できております。

これも、ひとえに、
おやさまから教えて頂いたこの道の教えによってたすけて頂いたからに他ならない、
高慢な魂で落ちこぼれ信者の私ではありますが、
少なくとも、そのような自覚だけはあります。

 さて、そのような次第で、
「いんねん お道」という言葉でYouTubeに検索をかけたわけです。

そして、その結果出て来たのが、
天理教養徳社社長、前櫻井大教会長・冨松幹禎先生による
いんねんについて」という動画でした。

これは、養徳社が運営している「陽気チャンネル」の中の有名な動画ですので、
おそらく皆さまも、既に視られたことがあるのではないか、と思います。

また、お話の内容も、
お道の信仰をしておられる方なら既に聴いたことのあるであろう内容で、
何か新しい発見があるようなお話ではありません。

いわゆる信仰の「基本のキ」ともいうべき初歩的な内容のお話であります。

しかし、逆に、そのような基本的なお話だからこそ、
教祖百四十年祭を間近に控えた今のこの旬に改めて聴くことによって、
心に染み入るものがあるような気がします。
少なくとも私はそうでした。

もう既に視聴済みだったり、
長年、この道を歩み続けておられる皆さま方にとっては、
これまで何度も耳にしたことのある聞き慣れた内容のお話だったりするかもしれません。
しかし、初心忘るべからず、との言葉もあります。

それぞれの信仰の原点を改めて思い起こすためにも、
本日は、冨松幹禎先生の「いんねんについて」というお話を共々に味わい、
「いんねん」という信仰の基本について思いを馳せる時間を共有させて頂きたいと思います。

それでは、冨松先生の「いんねんについて」というお話を、私の言葉でお伝え致します。

冨松 幹禎 先生「いんねんについて」ご講話文字起こし

(YouTube 陽気チャンネル【教理を学ぶ】冨松幹禎本部員「いんねんについて」より)

この動画を新しいタブで視聴したい方はこちらからどうぞ↓
https://www.youtube.com/watch?v=_FjPIFcLMCg

皆さん、お元気ですか。

今日は、いんねんについてお話をいたします。

陽気ぐらしをするためには「いんねんの自覚」が絶対に欠かせない

私たちにとって、陽気ぐらしをするためには、
「いんねんを自覚する」
ということが絶対に欠かせません。

なぜ、陽気ぐらしには「いんねんの自覚」ということが欠かせないんでしょうか。
そもそも「いんねんの自覚」とは、どうすることでしょうか。

私たちの人生は、
陽気ぐらしを目指して 長~い旅をしているようなものです。
この旅で、ここへ行きたい、という目的地は、皆それぞれ、具体的にしっかり持っています。
子供が立派に育つこと、この事業が成功すること、この病気が治ること…などですね。

陽気ぐらしを目指す旅の途中で、
自分は、今、どこにいるのか、どの道の、どの辺りを歩いているのか。
すなわち、現在地がわかるということが、
人生においては「いんねんの自覚」というのです。

たとえ話をします。

大阪の通天閣へ行きたいという人がいたとします。
大阪の街へやってまいりました。
ところが、どの道を言ったら通天閣へ行くのか、わからなくなりました。

そこで、大阪の地図を広げてみますと、あぁ、通天閣はここだとわかります。
ところが、今、自分がどこに居るのかわからなかったら、地図の見ようもありません。
地図は役に立ちません。

そこで、通天閣へ電話します。
“もしもし、通天閣ですか? あの~そこへ行きたいんですけど、どう行ったらいいんですかね?”
“ハイ。では、お客様は、今、どちらにいらっしゃいますか? ”
“さあ~それやがな…。ここ、どこか分からんのじゃあ…”
と言うと、教えようがありません。

人生という旅においても、同じことが言えるのです。

自分の居るところがわからないと、いくら目的地がわかっていても、どの道を行けばいいのかわかりませんし、また、教えてもらいようもありません。

目的地が分かり、自分の現在地がわかると、この道を進めばいい、と明確に分かります。
途中にどんな険しい山があっても、それを超え、また、どんな危険な谷があっても、この道を進むしかない、と確信ができます。

ところが、現在地がわからないと、進む道、方向がわかりませんから、
なぜ自分はこんな苦労をしなくてはいけないのか、なぜこんな苦労を…
もう自分は嫌だ、こんな道は嫌だ
と言って、違う道へ進んでしまい、陽気ぐらしに至ることができません。

「いんねんの理」とは、心通りの守護をされる親神様の「お働き」のこと

ところで、「いんねん」というと、
何か暗く恐ろしい、どうしようもないことのように考えている人がいます。

“天理教は「陽気ぐらし」の教えだから、
そんな「いんねん」「いんねん」って、暗い恐ろしい…そんなこと言うてちゃダメだよ”
という人もいます。

しかし、おやさまがお教え下さった「いんねん」の教えは、そんな暗い恐ろしいものではありません。

「いんねんというは心の道」と仰せられています。
「いんねんの理」とは、
心通りの守護をされる、親神様の「お働き」の事を言うのです。

心の自由を与えた人間を「陽気ぐらし」へ誘うために、
心のお手引き、心のお導き、心のコントロールをして下さる親神様のご守護のことを言うのです。

どのような心遣いにどのような守護をするかを明快にした教理、
それが「いんねんの理」なんです。

「いんねん」の教理は、「元の理」から出てきます。

「いんねん(因縁)」の【因】とは「種」のことです。
「いんねん(因縁)」の【縁】とは「苗代」のことです。

「種」は、何になるかを決めるものです。
大根の種を蒔けば大根、人参の種を蒔けば人参ができる、そういうものです。
「苗代」は、その種がどのように育つか、出来具合を決めるものです。

このことは、心の理、心遣いについても、言えるのです。

「種の心」とは、どういう心を遣ったか、どういう行いをしたか、という直接原因です。
「苗代の心」とは、どのような受け方をしたのか、喜んで受けたのか不足をしたのか、という間接的要因です。

その「種の心」「苗代の心」の通りに姿を現すもの、
それが「いんねん」であります。

「いんねんの自覚」には、「元のいんねん」と「個々のいんねん」の、2つのいんねん自覚が必要

さて、「いんねんの自覚」には、2つの「いんねんの自覚」が必要です。

1つは、「元のいんねん」という、大元の「いんねん」の自覚。
そして、もう1つは「個々のいんねん」「自分のいんねん」の自覚。

個々の人間にとって、
この2つの「いんねん」を自覚することが大事なんです。

1つめの「元のいんねん」とは、
私たちは親神様の可愛い実の子供であり、親神様と私たちは親子だ
という「いんねん」のことであります。

それ故に、
私たち人間は、皆、本質的に「陽気ぐらし」ができるという性質をもった存在である、
という意味での「いんねん」のことを言います。

私たち人間は、罪人でもなく、迷える子羊でもありません。
皆、親神様の可愛いかわいい子供で、
本質的に、陽気ぐらしができるという素晴らしい「いんねん」を持って生まれてきています。

お道で「ようぼく」というのは、
この「元のいんねん」の自覚のできている人のことを言うのだ、と思います。

もう1つ(2つ目)の「個々のいんねん」。
私たちは、生まれ変わり出替わりして、魂は生き通しと教えて頂いています。
生まれ変わり出替わりする道中で 蒔いてきた種、育てて来た苗代通りになってくる姿、
それが「個々のいんねん」「自分のいんねん」であります。

をやこでも ふう/\のなかも きょたいも
みな めへ/\に 心ちがうで
  (おふでさき 五号8 )

と仰せられるように、
夫婦でも、同じ親から生まれた兄妹でも、みんな「いんねん」は違うのです。
ただ、夫婦となる「いんねん」、親子となる…兄弟となる「いんねん」があるばかりなのです。

「いんねんの自覚」の中でも、特に「前生いんねん」の自覚が大切

さて、「いんねんの自覚」、
その中でも、特に「前生のいんねん」を自覚する、
ということが何より大切であります。

おやさまは、おふでさきの中で、

せんしよの いんねんよせて しゆごふする
これハまつだい しかと をさまる
  (おふでさき 一号74 )

と仰せられます。

親神様は、「前生のいんねん」を見定めて、
これとこれとを寄せて夫婦にし、これとこれとを親子にし…兄弟にし…家族にして、
さぁ、今生はここから陽気ぐらしをしなさいよ、
という御守護のなされ方をされます。

だから、「前生のいんねん」の自覚ができてなかったら、
なんでこんな夫…、なんでこんな妻…、なんでこんな親…、なんでこんな子供…
もぅ嫌だ!
となってしまって、陽気ぐらしとは違う方向へ行ってしまうのです。

ですから、「陽気ぐらし」という目的地に到達するためには、
どうしても「前生のいんねん」の自覚が必要不可欠なのであります。

しかし、いくら「前生いんねん」の自覚が大事だと言われても、
誰も前生なんて分かりませんね。
そこで、おやさまは、こう仰せられます。

いんねんと言うて分かるまい。
皆これ世界は鏡、皆人間生れ更わり、出更わりしても、心通りに 皆 身に映してあるから、よく聞き分け。
 (おさしづ 明治二十一年二月十五日 )

もう一度、申します。

いんねんと言うて分かるまい。
皆これ世界は鏡、皆人間生れ更わり、出更わりしても、心通りに 皆 身に映してあるから、よく聞き分け。
 

このお言葉からもわかりますように、
この世界で見えるものは、みんな「鏡」だと仰せられているのです。

こんな夫、こんな嫁、こんな姑、こんな子供…、
ちがうちがう、すべて「鏡」、鏡!。

何が映っている鏡なのか? 
その鏡には自分の前生が映っているんだよ、
そのように仰せられるんです。

また、このようにも仰せられます。

前生のいんねん通り 身に映してある

身というのは、この「身の内」。
こういう体をして、こういう人間として形作られて、こういう病気がある…
これが、前生のいんねん通り、ということ。

また、身内、自分の家族親族の中に「前生のいんねん」が映っている、
それだけじゃない、身近な人間関係、隣近所、学校の友達、仕事の人間関係の中にも「前生のいんねん」が映っている。

そして、
それぞれの身の上、成ってくる姿の中にも「前生のいんねん」が映し出されるから、それを見て しっかり思案しなさい、
このように仰せられているのであります。

昨日・今日・明日に圧縮して「いんねん」を考えてみると分かりやすい

「いんねん」について、あれこれおお話してきました。
しかし、前生・今生・来生と言われても、どうも実感が湧きませんよね。

そこで、前生・今生・来生を、グーッと圧縮して、昨日・今日・明日で考えてみましょう。

例え話をします。

AさんとBさんと2人がいました。
2人とも朝目が覚めただけで、まだ良い心も悪い心も使っていません。

なのに、Aさんの所には、朝から人が来て、
「コラ、起きろ! 昨日貸した1万円返せ!」
と、えらい怒鳴られて、今日の元の与えの1万円を朝から取られてしまいました。

何でか? って言うと、
Aさんは、昨日、親神様から頂いた昨日の元の与えの1万円を好き放題使って、なくなったから、人から1万円借りた。
だから、今日は、1万円返さなければない、
という「いんねん」を持って今日を迎えた。

これは、誰にでもわかる理屈ですね。

一方の、Bさん。
朝、やはり目が覚めた時点では、良い心も悪い心も使っていない。
なのに、朝から人が来て
“ありがとうございます。本当に助かりました。ありがとうございます”
と、大変礼を言うて 1万円返してもらった。

なぜかというと、
昨日、Bさんは、親神様からの元の与えの1万円を困ってる人に貸してあげた。
だから、今日はお礼を言って返してもらえる、
という「いんねん」をもって今日を迎えた。

これも、誰にでもわかる理屈ですね。

でも、今朝だけに限って見たら、こんな理不尽なことはないように見えます。

どちらも、朝、目が覚めたてで、まだ良いことも悪いこともしてないのに、
Aさんは、もう朝から1万円とられて無一文。
一方、Bさんの方は、今日の与えの1万円と 返してもらった1万円で、朝から2万円持った状態で1日が始まる。

今朝だけ見たら、こんな不公平なことはないように見える。
しかし、昨日のことも含めて見たら、これが公平であり、これが助かってる姿なんですね。

Aさんは、朝から1万円取られたから、良かったんです。
これ、取られなかったら、まだ好き放題使って、また借りてまた借りてまた借りて…
となって、借金が重なっていく。
朝から1万円取られたことで、借金のループがストップし助かっている。

このことは、昨日のことがわかるから、そのように悟れるんですね。
これが、「前生いんねんの自覚」ということなんです。

今生、もしも自分にひどい仕打ちをする人がいたら、
その人こそ、自分の前生の悪いんねんを取って下さる恩人なんです。
その人の後ろ姿を拝むような心になることが大切なんです。

その心を、お道では「ならん中のたんのう」と教えて頂いているのです。

そして、「ならん中のたんのう」――そのような血みどろの心の葛藤こそが、
「前生いんねん」が立て替わる心遣いとなるのです。

前生いんねんの切り替え、悪いんねん納消のために必要なのは、悪い種を枯らして、そして 良き種を 蒔き替えること 

さて、では、「前生いんねん」を切り替える、
悪いんねんを納消するには具体的にはどうしたらいいのか、
という話をしたいと思います。

「種の理」から申しますと、
悪い種が蒔いてあると 悪いんねんが出てくるわけであります。

悪い種とは、
「をしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」、
八つのほこりです。
これが悪い種となり、悪いんねんとなります。

一方「苗代の理」から言いますと、
田地が痩せている、肥やしが効いていない、いくら良い種をまいても、十分に育たない。
これが、徳のない姿、徳枯れ(徳が枯れた)姿であります。

私たちは「種の理」から いんねんが良いとか悪いとか言い、
「苗代の理」から 徳があるとかないとか 言っています。

悪いんねんを納消し、徳を積むにはどうしたらいいのか。

悪いんねんは「種の理」から現れる姿ということですから、
これまでに悪い種を蒔いていたならば、早く掘り出して、晒して皆に笑うてもろうたら枯れる…
そのようにして悪い種を枯らして、そして良き種を 蒔き替える ということをすればいい、
ということになります。

おやさまのひながたは、「いんねん」立て替えのひながたでもある 

おやさまは、「月日のやしろ」とお定まり下されてから、
困っている人たちに、次から次から次へと施していかれまして、ついに、貧のどん底に落ち切られました。

その結果、どうなったかと言いますと、
みんなからお礼を言ってもらうどころか、キツネやタヌキが憑いたらしい、気ぃ狂うたそうや、
と皆から笑われ 誹られたんです。

このおひながたは、
物への執着を去り人を助ける心になると自ずから明るさが生まれる
という、陽気ぐらしに欠かせない心になるための ひながたを お示し下さったものであります。

その一方、
一心一家の都合を捨てて、世界の親里ぢばに大転換を図られるために必要な道だったと思案することもできるのであります。

いずれにしましても、
私たち一人ひとりとっては「いんねん」立て替えのひながた、
と思案させていただけるのではないかと、私は思います。

いくら熱心にお道を通っていても、
よくできた人や、感心な人や、と褒めてもらおうと思っていたら、
(無意識の内にでも)褒めてもらうことが目的となってしまったら、
いつまでたっても本当の「いんねん」納消はできません。

周りの人にどう評価されるかということに重きを置いた価値観を乗り越えて、
自分の「いんねん」を自覚し、
おやさまのひながたに思いを馳せ、
「いんねん」立て替えを心に定めたならば、

周りの人にどんなに誤解されても、
どんなに苦労に苦労が続いても、
鏡の如くに映し出された周りのすべての姿を、
これぞ我が蒔いたる種の芽生えたる姿、
これで結構 これが結構や、
と「たんのう」の心で受けとめ、通ることが大事なのであります。

「いんねん」納消、徳積みの基本は「ひのきしん」

さて、では、「いんねん」立て替えのため、
良き種を蒔き替えるには どうしたらいいのでしょうか。

それは、みかぐらうたに答えがあります。

十一下り目二ツ
ふうふそろうて ひのきしん
これがだいゝち ものだねや
 (みかぐらうた 十一下り 二ッ )

夫婦心を合わせてひのきしんをする、日々に親神様のご恩にお礼を申し上げる…
ひのきしんに真心を込めると、良き物種を蒔いたことになって「いんねん」が立て変わってくるのです。

次に、
苗代、田地が痩せて、いくら良い種を蒔いても、うまく育たない、
そのような場合はどうしたいいのでしょうか。

苗代、田地が痩せている場合には、肥を置かなければなりません。

では、肥を置くには、どうしたらいいのでしょうか。
それも、やはり、みかぐらうたに答えがあります。

十一下り目四ッ
よくをわすれて ひのきしん
これがだいゝち こえとなる
 (みかぐらうた 十一下り 四ッ )

と仰せられる。
これもやっぱり、「ひのきしん」なのです。

「いんねん」納消、徳積みの基本は、「ひのきしん」ということであります。

また、別席の台本には、
「つくす理、はこぶ理によって、「いんねん」の理を切って下さるのであります。」
という一節があります。
「つくす理・はこぶ理」を積み重ねる手立て、それも「ひのきしん」なのであります。

いんねん切り替えのひのきしん、その中でも最も親神様がお喜び下さるひのきしんは「おたすけ」

そして、
「いんねん」を切り替えるための「ひのきしん」
――その中でも、最も親神様がお喜び下さる「ひのきしん」は、
「おたすけ」なのであります。

おやさまは、おふでさきの中で

なさけない とのように しやんしたとても
人をたすける 心ないので
 (おふでさき 十二号90 )

これからハ 月日たのみや 一れつわ
心しいかり いれかゑてくれ
 (おふでさき 十二号91 )

と仰せ下さっておられます。

おやさまが「おたすけ」を人々に強く望まれたことの背景には、
親神様がおふでさきの中で “頼む” とまで仰せ下さる「人だすけ」に誠真実を尽くすことが本当の「いんねん」立て替えになるから…
という側面があるのであります。

この「おたすけ」ということについては、またいずれかの機会に、お話しをさせていただきたいと思います。

(YouTube 陽気チャンネル【教理を学ぶ】冨松幹禎本部員「いんねんについて」より)

というところで、動画が終了いたします。

冨松幹禎先生の「いんねんについて」という動画を文字起こしして思うこと

長くなりましたが、以上、
冨松幹禎先生の「いんねんについて」という動画を 文字起こしして、
私の言葉でお伝えさせて頂きました。

このお話のオリジナルは、
「お道 いんねん」という言葉でYouTube検索すれば、すぐ見つかりますので、
もっときちんとお話を聴きたいと感じられましたならば、
ぜひ一度、YouTubeを検索して、冨松先生の言葉で聴いて下さいますようお願い致します。

おそらく、長年、この道を歩んでこられた皆さま方にとっては、
これまで何度も耳にしたことのある聞き慣れたお話だったことでありましょう。

しかし、頭で分かっているということと、それが本当に腹におさまっているということは、
決してイコールではありません。

既に頭で分かっているこの道の教え、基本。
しかし、それは、本当に私たちの腹におさまっているでしょうか。

「蒔いたる種は皆はえる、自分の眼に映るこの世の姿はすべて自分の心を映し出す鏡…」
教祖百四十年祭へ向かう年祭活動中の今こそ、
そういった、おやさまから教えて頂いた教えの基本・土台を、
改めて、腹におさめる営みに注力させて頂きたいものと存じます。

おやさま年祭、その他、様々なことが立て合う大きな変革の旬に巡り合わせて頂いた私たちですから、
そこに込められたご神意を思案しつつ、
改めて、原点を思い返し、
年祭に向けて、今一度、自分の現在地を確認し、
陽気ぐらしという目的地に向かって、心の立て替え、心のふしんに努めさせて頂きたいものと存じます。 

本日は、例によって、理屈っぽい話を長々と語り連ねまして失礼致しました。
最後までお付き合い下さり、心より感謝致します。
ご清聴ありがとうございました。

mountains of brown

以上、少し前につとめた上級教会での祭典講話の原稿を公開させて頂きました。

ではでは、今回はこのへんで。

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