今回は、上級教会で祭典講話をするように、と上級会長さんからご指名がありまして、その原稿を書き上げましたので、それを紹介させて頂きます。
前回記事をもとに書き上げた原稿です。
前回記事と重複する内容ですが、今私が皆さまに伝えたい内容ですので、そのまま投稿させて頂くこととします。
ぜひ最後まで読んでいってください。
只今は、今年納めの12月の月次祭を、皆様と共々に、心を一つに揃えて結構につとめさせて頂くことができて本当に有難いことでございました。
今年は、昨年から続いての新型コロナ感染症によって、多くの行事が中止されたり延期されたりして、また多くの社会活動制限が継続されて、本当に大変な一年でした。
昨年来のコロナ感染症によって社会の変化が大きく進んだと言われますが、昨年・今年というのは、後世の歴史家が見ても、おそらく世界史的に歴史の転換点として特筆される年だったのではないか、と思います。
そのような大変な一年でありましたが、私たち一同は、お蔭様で、コロナ感染症に巻き込まれることなく、大難は小難、小難は無難に結構にお連れ通り頂くことができたのではないでしょうか。
本日もこうして、上級会長様を芯に納めの月次祭を結構につとめさせて頂き、親神様・教祖に今年一年のお礼を申し上げることができて、本当にありがたいことでありました。
このたび、上級会長様より祭典講話のご指名を頂きましたので、届かない者でございますが、私なりに精一杯勤めさせて頂きたいと思います。
私は、口下手で話があちこちに飛んでまとまらない者ですので、紙に書いた物を読ませて頂きます。
書いた文章を読むので、堅苦しい話、分かりにくい話になるかもしれませんが、どうか、新米教会長の一つの経験の場として温かくお見守り下さり、しばらくの間お付き合い下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
本日は松尾太郎先生による「かしもの・かりもの」のお話を紹介します
さて、このたび上級会長様より祭典講話のご指名を頂いて、何をお話させて頂いたらよいか、と頭を絞りました。
皆さまに語りかけるほどに特別な信仰体験もなく、また強い信仰信念をつかむほどまでに成人できていない私ですので、残念ながら信仰的に深い理合いの話をすることが出来ません。
未熟者としての未熟者レベルでのお話しか出来ませんが、しかし、それはそれで皆さまの参考になる部分もあるかもしれないとの思いで取り組ませて頂いております。
で、あれこれと思案をした結果、本日は、最近、私が聴いて感銘を受けたお話をシェア、皆さまにお伝えさせて頂くことと致しました。
本日お伝えさせて頂きたいと思っているお話は、YouTubeで見つけた天理教加古大教会長・松尾太郎先生による『かしもの・かりもの』のお話です。
松尾太郎先生「かしもの・かりもの」のお話を知った経緯について
本題に入る前に、そのお話に巡り合った経緯について説明させて頂きます。
少し前、私が何となくYouTubeを流し見していく中で、天理教加古大教会長・松尾太郎先生の講演動画を発見しました。
特別な意識を持つこともなく何気なくそれを開いて視聴し始めたのですが、聴き進む内にどんどんその話に引き込まれ、松尾先生の言葉が私の心に強く刺さっていきました。
ぜひ皆さまにも、私の伝聞話ではなく、直接、松尾先生ご自身のお話を聴いて頂きたいと思う程です。
素晴らしいお話で感銘を受けましたので、このたび祭典講話のご指名を頂いた機会に、そのお話から受けた感動を皆さまにもおすそ分けしたいと思い、取り上げることにした次第です。
祭典講話として原稿をまとめるにあたっては、松尾先生が書かれた『かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本』という小冊子を取り寄せました。
本日話す内容は、YouTubeのお話内容と共に、その本からも多く引用させて頂いておりますのでご了承願います。
ちなみに、私が最初視聴した加古大教会YouTubeチャンネルの動画は、その後、削除されてしまい、現在は視ることができません。
残念(涙)‼
今日言いたいことは、信仰がマンネリ化した今こそ「かしもの・かりもの」のご教理を見つめ直そうということ
では、ここから今日のお話の本題に入っていきたいと思います。
しかし、私の場合、話が理屈っぽくなりがちで、話題があちこちに飛んでしまって、結局、言いたいことが何なのか分からないまま終わってしまう危険性があります。
なので、今日私が言いたいこと、お伝えしたいことの主旨を、まず最初に簡潔に述べておきたいと思います。
今日、私が述べたいこと、お伝えしたいこと。
それは、『信仰がマンネリ化した今こそ「かしもの・かりもの」のご教理を見つめ直そう』、ということです。
以上が今日私がお伝えしたいメッセージのテーマです。
この後の話で、結局おまえ何が言いたいんだ?ということになったとしても、今日私が言いたかったことの主旨はその言葉に全てが込められています。
なので、そのメッセージだけでも受け止めて頂けたなら幸いです。
今日の話は何のことか分からなかったが、どうやら「かしもの・かりもの」のご教理を見つめ直そうという話だったようだ…、程度にでも皆さまの記憶に残りましたならば、私としては望外の喜びであります。
松尾太郎先生による「かしもの・かりもの」のお話の紹介
さて、このたび私は、松尾太郎先生の「かしもの・かりもの」のご教理の講話をYouTubeで聴いて、深い感銘を受けました。
しかし、考えてみれば、「かしもの・かりもの」のご教理というのは、別にこのたび初めて聞いたお話というわけではないわけです。
というよりも、これまで耳にタコが出来るくらい聞かされて、慣れっこのようになっていた感すらあります。
もはや特別な感慨を持つこともなくなってしまっていた「かしもの・かりもの」の教え。
それが、松尾先生のお話によって、それは「お道」の教えの根幹の一つである、ということを再認識させられたのでした。
親の代から受け継いだこの道で、子どもの頃から事あるごとに「かしもの・かりもの」のお話を耳にしてきました。
しかし、このたび「かしものかりもの」について改めて思いを馳せてみると、長い年月、体感を伴わぬ言葉だけが耳を通り抜けてしまっていた、ということを認めないわけにはいきません。
本来ならばこの道の土台となるそのご教理が、私の中で今や空気のような存在になってしまっているということに、松尾先生のお話で改めて気付かされたのでした。
「かしもの・かりもの」ということを聞かされていながら、自分は、それを本当に腹におさめて日々通っていただろうか、今一度「心だけがわがのもの。わが心以外はすべて借り物。」という、この教えの根幹を腹におさめて歩ませて頂かねばならない、そのような思いに包まれました。
本日は、この道の基本とも言うべき「かしもの・かりもの」のご教理を再認識させて頂く目的も兼ねて、松尾先生がYouTubeでお話下さった「かしもの・かりもの」のお話を、松尾先生の著作の文章を織り交ぜてお伝えさせて頂きます。
基本的な教理のお話ですので、信仰歴の長い皆さま方にとっては物足りない内容かもしれません。
しかし、聞き慣れたご教理を、改めて、初めて聞くかの如く聴くことは決して無駄なことではないと思いますので、お付き合い頂ければ幸いです。
「かしもの・かりもの」ご教理のポイント3つ
前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ってまいります。
松尾先生が語られる「かしもの・かりもの」のご教理とは、以下の3点に集約されます。
- この体は、神様からお借りしているものである。
- 身の周りのもの一切、それぞれの家族、ご主人も奥さんも子供も親も、友達も仕事場の人もご近所の人も、身の周りのもの一切、全部、神様からのかりものである。
- その借り物のすべて、自分の体も、身の周りの人・モノ、ありとあらゆるものは、それぞれの「心通り」に現れてくる。
これが天然自然の理である。
「かしもの・かりもの」ご教理の要点を短くまとめると以上のように言える、と松尾先生は仰られます。
諸井慶一郎先生が書かれた「かしものかりもの」という冊子の中に、次のような記述があるそうです。
「借物は、我が思い通りでなく、神の貸物で、親神様の思い通り。天理の通り。
その天の理が心通り。即ち、心一つに借物である。」
この諸井先生のお言葉の中の「天の理が心通り」という部分がポイントである、と松尾先生は教えて下さいます。
「天の理」とは何か。
「天」とは天然自然の「天」。
つまり、親神様がご支配下さるこの世界全体のことです。
では、「理」とは何か。
ことわり・ルールです。つまり、「天の理が心通り」とは、
松尾太郎・久保一元『かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本』(P,10~11)
天然自然のルールは『この世界は心通りに成ってくる』ように出来ている、ということです。
心とは何か
そこで問題となってくるのが「心」です。
「心」とは何か。「心」を辞書で引くと、「偽りや飾りのない本当の気持ち。本心」と出てきます。
つまり、「嘘偽りのない本心」こそが、その人の「心」なのです。
言い換えれば、「本当は思っているけれど、口にはしないこと」です。主人に対しても、奥さんに対しても、お父さんに対しても、キライな人に対しても、絶対に口にはしないこと。
けれども、その人が奥底で思っていること。認めていること。信じていること。
それが「心」です。だから、私達の身の周りで起こっていることは、人間関係にせよ、仕事のことにせよ、お金のことにせよ、全部それぞれ嘘偽りのない本心にあることを神様が受け取られて、その人にちょうど良い姿で現わされているのです。
松尾太郎・久保一元『かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本』(P,11)
以上のように、松尾先生は教えて下さいます。
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続けて、松尾先生は人生の仕組みについて、次のように教えて下さいます。
では、私達の人生は、どのような仕組みになっているのでしょうか。
私は、私達の人生は映画のようなものだ、と思っています。
皆さんの目の前には、映画が流れているとイメージして下さい。映画には出演者がいます。
主人や奥さん、子どもや親、上司や部下、中には苦手な人もいるかもしれません。
私達の人生は、いろいろな出演者が出てくる映画のようなもの。そこには家や車や職場など、いろいろなセットもついてきます。映画は、何が元に出来ているのでしょうか。それは「脚本」です。
「今回は脚本なしで、俳優たちが勝手に演じました」という映画はありません。
必ず脚本があります。そして、私達の人生における脚本こそが、自分の「心」なのです。
脚本に書いてあることが、すべて現れてくるのです。とするならば、私達の日常生活で起こってくることを変えるにはどうしたらよいのでしょうか。
それは、「心」という脚本に書いてあることを変えればいいのです。
言い換えれば、人には言わないけれど、奥底で信じていること、認めていることを、書き換えていくのです。
誰にでも、気に入らない人、自分にとって都合の悪い人がいます。
しかし、その人に文句を言っても残念ながら状況は変わりません。
なぜなら、「天の理が心通り」になっているからです。映画の内容を変えるには、脚本に書いてあることを変えなければならないのと同じように、目の前の現実を変えようと思えば、本心に書いてあることを書き換えなければいけません。
実際の映画館では、気に入らない内容の映画が流れていてもスクリーンに向かって文句を言う人はいないでありましょう。
それは、文句を言っても映画の内容は変わらないと知っているからです。
だから、どんな面白くない映画でもジッと観ています。しかし、現実の人生の中では、みんな目の前のことにイライラしたり、文句を言ったりします。
なぜなら、この世界のルールを知らないからです。結局、この世界で起きて来ることは、自分の心通りです。
周りの人やモノ、環境のせいではありません。
環境のせいで、その人が悪くなることはありませんし、生まれ育ちのせいで悪くなることもありません。
誰かのせいで仕事がうまくいかなくなることもないし、主人のせいで、もしくは奥さんのせいで、夫婦仲が悪くなることもありません。
すべて、自分の心通りを神様がお受け取り下さって、ちょうど良いように現わされているのです。だから、主人の欠点ばかりを指摘しても、絶対に変わりません。
なぜなら、自分の脚本に書いてあるからです。
「うちの主人役は欠点ばかりで、ろくでもない奴だ。私の気持ちなんてちっともわかってくれない」
と、脚本に太字で書いてある。
だから、主人役の俳優が、その脚本を読んで、その通りに演じてくれるのです。ところが、みんなその仕組みに気付かずにいます。
俳優が演じたら演じたで文句を言って、「なぜ、そんなことをするんだ!」と、批判をするのです。
俳優にすれば、
「あなたが書いた脚本に太字で書いてありますよね。それなのに、それをそのまま演じたら文句を言われるなんてどういうことですか?」
と、なります。職場でもそうです。
仕事ができない部下に対して、注意をして仕事が出来るようになるかと言えば、残念ながらそうはなりません。
相手は絶対に変わらないのです。
仕事でも、家庭でも、夫婦の仲も、全部そうなっていると私は思います。この世界はすべて、自分の脚本通りになっています。
思い通りにならない相手に、文句を言っても変わらない。
松尾太郎・久保一元『かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本』(P,12~17)
自分の心という脚本が変わらない限り、自分の目に映る映画の俳優たちの演技も変わらないからです。
以上のように、松尾先生は人生の仕組みを解説して下っています。
人生の仕組みに気付いて脚本を書き換えるために、心以外すべて「かりもの」であることを知ろう
仕組みは分かりました。
では、その仕組みが自分にとって苦しく辛い場合は、どうすれば変えられるのでしょうか?
それについて、松尾先生は、次のように教えて下さっています。
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とするならば、思い通りにならないことを解決する方法は、相手を変えることではありません。自分の脚本(=心)を変えることです。
例えば、これからサッカーというゲームをするとします。
サッカーにはサッカーのルールがあります。「手を使ってはいけない」とか「相手をつまずかせたり、押したりしてはいけない」というルールを知らなければ、ゲームに参加しても反則ばかりを繰り返してしまいます。
それでは、全く楽しくありません。
やはり、ルールの中で、いかにゲームを楽しむかが大事です。同じように、私たちは、人生というゲームの中を生きています。
だから、生きている限りは、人生のルールを知り、その中で楽しんだ方がいいのです。根本的なルールを知らずに、思うようにならないことで、
「なぜ、こうなるの?」「なぜ、私ばかり嫌な思いをするの?」
と思って、今まできたかもしれません。しかし、「なぜ?」という理はないのです。
すべて、この世界は、それぞれの心通りに成っているのですから。
それがこの世界のルールなのですから。「めいめいの 身の内よりの借り物を 知らずにいては何も分からん」とお筆先にあります通り、
神様は、「身の内よりのかりもの、つまり、体からして親神様からの借り物、そのことが分からなかったら何も分からないのと同じである。」
と教えられます。この「かしもの・かりもの」というのが、この世界のルール、人生のルールなのです。
そして、おさしづの中に、「身の内かりものなら、何か一切かりもの」とあります。
自分のものだと思っている体ですら「かりもの」であるならば、そこから思案を広げれば、「何か一切」すなわち周りのもの一切も「かりもの」である、と悟ることができます。
たとえば家族は、自分の思い通りになるものではありません。陽気ぐらしをするために、神様がいんねんを寄せて、家族として組み合わせて下さったものです。
そういう意味で、昔の先人たちは「家族もかりものなんだよ」と仰いました。私にとって、一番身近なかりものは「家族」です。
私にとって、最も大事にしなければならない「かりもの」が、妻であり母であり、子供たちです。
それまでの私は、そんなことを思ったことがありませんでした。母は母で、妻は妻で、子供は子供で、それぞれに生きていると思っていました。
松尾太郎・久保一元『かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本』(P,18~21)
でも、違いました。神様からのかりものだったのです。
この肝心なことに気付けるようになると、自分自身の具体的な行動が変わってきます。
かりものが心に治まってきたら「大事に接する」ことに努めよう
では、「かしもの・かりもの」が心に治まってきたら、どのように自分自身の行動を変えていけばよいのでしょうか。
それは、「借りているもの」をどのように扱うかを考えてみると、わかります。
例えば、レンタカーを借りたとします。
その時、レンタカーをどのように乗るでしょうか。「今日はレンタカーだから、何となく適当に、雑に運転しよう。少々こすっても大丈夫だ」
という人はいないでしょう。
むしろ、レンタカーだからこそ、大事に乗らなければならない」
と思うものです。このように「借りている」ものは、みんな大事に扱います。
これが、借りているものの扱い方です。私たちの体は言うまでもなく、私達の身の周りにいる人も、みんな神様からの「かりもの」です。
皆さんは、一番身近なかりものと、どのように接しているでしょうか。
体を大切にしているでしょうか。
ご主人のこと、奥さんのこと、子供のこと、親のこと、身の周りの人を大事にできているでしょうか。「かりもの」だと分かったならば、どのように接すればいいか、自ずと分かってくるはずです。
「大事に接する」。
ただ、それだけでいいのです。自分の体は、借りているもの。
家族をはじめ、周りのもの一切も、借りているもの。これが、腹の底から分かるようになると、神様の不思議が分かるようになります。
「神様は、私たちの親なんだ」と、心から思えるようになります。私達には親がいて、すべて親が、それぞれにとってちょうど良いようにして下さっている。
だから、絶対に大丈夫。私は、この本当に大切なことに気付くことができました。
松尾太郎・久保一元『かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本』(P,22~24)
松尾先生は、そのように教えて下さっています。
脚本を持って生まれ替わる
また、松尾先生は、生まれ替わりについてもお話下さっています。
この世界は、身の内をはじめ、周りのもの一切は「かりもの」。
全部、それぞれの心通りに現れています。このことを母と話していると、「この教えは厳しいね」という話になります。
なぜなら、誰のせいにもできないからです。
どこまでいっても、自分の心の問題で、自分の心の汚いところ、一番しんどいものを見なければならないからです。さらに、脚本にどう書いてあるかを知らなければならない。
「違うな」と思ったら、自分で消して、書き換えなければならない。それをしなかったら、世代を超えて、ずっと間違いを繰り返していくからです。
「人間は生まれ替わる」と、教えて頂きます。
人間の体は、いずれはお返しします。
その後、魂は「脚本」を持ったまま、親神様のところへいきます。
そして、また新しい体を借りて、この世に出直してきます。しかし、前生で脚本に書かれたことは、また現れてくるのです。
でも、新しく生まれ替わってきた人は、脚本にどんなことが書かれてあるか知りません。
だから、「なぜ、それが起こってくるのか」が分からない。
でも、前生で脚本に書いてあるのです。ですから、「そうか。今の自分だけを考えれば、なぜこんなことが起こってくるのか分からない。
けれども、もしかしたら前生でそんな脚本を書いていたのかもしれない。
とするならば、これをどう受け止め、どう喜びに切り替えていくかが大事なんだ。」
そのように心におさめ、脚本を書き換えていく。そうすることで、運命が切り替わっていくのです。
松尾太郎・久保一元『かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本』(P,30~31)
以上のように、松尾先生は生まれ替わりについて教えて下さいました。
20万冊以上から選び放題!紙の本のサブスク「タダ本」「かしものかりもの」を多くの人に伝えよう
そして、最後に、このことを多くの人に伝えよう、と伝道の必要性を述べておられます。
あらゆることは、天然自然のルール通りになっています。
これを知り、実践することが大切です。そのルールとは、この世界で起こることは、すべて自分の心通りになっている、ということです。
それが分かると、自分の体はかりもの、さらには、周りのもの一切もかりものだ、と気付くことができ、相手を大切にすることができるようになります。
さらに、周りを大切にしていると、今度は自分が大切にされるようになります。
すると、この世界が有難くて有難くて、この世界をつくって下さった親神様に、どんどん感謝の気持ちが湧いてきます。
天理教の人は、このルールをつかみ、伝えなかったら、勿体ないと思います。
世の中には、このルールを知らずに苦しんでいる人がたくさんいるからです。「なぜ私には、こんなに喜べないことが起きてくるのか」
「なぜ、こんなにしんどい仕事ばかりしなければならないのか」
「なぜ、お金がなく、生活が苦しいのか」
「なぜ、主人(奥さん)はこんな人なのか」いろいろなこと、思いがあります。
でも、「なぜ?」という理はありません。一番大事なことは、親神様が「その人にちょうど良いようにしてくださっている」ということです。そのことを知ることです。
不幸とか悪いことは、この世界で一切起こりません。絶対に大丈夫。
これが、この世界のすごいところです。これからも私は、この素晴らしい教えを世界の人々に伝えていく一翼を担わせていただきたいと思っています。
松尾太郎・久保一元『かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本』(P,32~33)
以上の如く、松尾先生はお話され、締めくくられています。
長々と、松尾先生がお話下さる「かしもの・かりもの」のご教理を紹介させて頂きました。
皆さんいかがだったでしょうか。
冒頭にもお話しましたが、私は、松尾先生のお話を聴いて、この道の土台となる「かしもの・かりもの」のご教理が自分の中で空気のような存在になってしまっていて、日々の生活の中で意識にのぼってくることがなくなってしまっていたなぁ、ということに改めて気付かされました。
尊い「かりもの」の教えを、今一度しっかり肝に銘じたい。そう思いました。
この道は、究極の自己責任
また、松尾先生のお話の中に出てきた、「この教えは厳しいね。なぜなら、誰のせいにもできないから。」というお言葉も印象に残りました。
この道は「究極の自己責任」だ、という言葉を聴いたことがあります。
どんな理不尽なことも納得いかないことも、誰のせいでもない。
全部自分が過去に蒔いた種がはえたもの。
今の自分の目に映るすべてのものは、みな、自分の心が映された鏡。
「みな世界の胸の内 鏡の如くに映るなり」というご神言もあります。
しかし、全ての種が自分の心にあると言われ、今の自分の姿や環境のすべてを自分が引き受ける、というのはとても辛いこと、厳しいことであります。
あいつが悪い。こいつが悪い。あの人のせい。この人のせい。
そうやって周囲に原因をなすりつける方がどれほど気が楽か分かりません。
そんなしんどい思いをするぐらいならお道の教えなんて知らない方がよかった、とさえ思ったりもします。
しかし、松尾先生のお話にありました。
天の理が心通り。
『この世界は心通りに成ってくる』というのがこの世界のルール。
この世界で生きていく限りは、この世界のルールから逃れることはできない。
この世界のルールが「この世界で起こることはすべて自分の心通り」となっている以上、この世界で本当に幸せに生きていきたければ、そのルールに従うしかありません。
辛くとも、厳しくとも、自分に映るすべての姿を、自分の心が映し出された姿として受け入れ、人のせいにせず、自ら引き受けていかなければならないのです。
そして、たとえ自分にとって不愉快であっても不本意であっても、身の周りのものすべてが、自分の心通りに、自分に丁度良いように神様が貸して下さった「かりもの」であることを意識して、それを大事にしていく。
大事にしながら、自分の脚本、心を書き換えていく。
それにより運命を切り替えていく。
それが、教祖に教えていただいたこの道の、大切な歩み方。
このたびの松尾先生のお話を聴かせて頂いて、そのようなことを学ばせて頂くことができました。
「かしもの・かりもの」のご教理を明るい気持ちで受け止めよう
本日は、あれこれと松尾先生の「かしもの・かりもの」のお話を紹介させて頂きましたが、最後に一言申し添えさせて下さい。
松尾先生が説かれる「かしもの・かりもの」のご教理の中には、厳しい言葉も含まれていて、何となく自分の心が追い立てられるような窮屈な内容のお話も含まれていたかもしれません。
しかし、教祖が「かしもの・かりもの」のご教理を私達人間にお示し下さったのは、決して私達人間を責めることが目的ではなかったことを忘れてはならない、と思います。
教祖は、かわいい子供達に、本当にたすかってもらいたい、本当の幸せをつかんでほしい、との親心から教えて下さったと思うのです。
ですから、私達は、教えて頂いた「かしもの・かりもの」のご教理を、自らの足枷の如き負担として受け止めるのではなくて、陽気づくめの世界へ至るための足がかりとして、明るい気持ちで受け止めさせて頂きたいものと思います。
親神様、教祖も、きっとそう望んでおられるのではないか、と私は思います。
以上、長々と理屈っぽく堅苦しいお話になってしましましたが、最後までお付き合い下さり、まことにありがとうございました。
収束に向かうかと思われたコロナ感染症ですが、また新たな変異株が出てきたようで、この先どうなるか不透明な状況が続いております。
しかし、この道に引き寄せて頂いた私達は、「天の理が心通り」と教えて頂いております。
先行き不透明な社会情勢の中がまだまだ続くかもしれません。しかし、この道に引き寄せられたお互いですので、それぞれの周りに映る姿はそれぞれの心通りであるというその御教えに思いを馳せ、かしもの・かりものということを今一度意識し直して、来年こそは、より一層神様の思いに添った歩み方ができるよう、お互いつとめさせて頂きたいものと思います。
ご静聴ありがとうございました。
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