Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
前回まで
shin・秋治先生の「元の理探訪記」動画を【文字起こし】して
「元の理」の勉強を行いました。
shin・秋治先生は
「元の理」を科学的視点から解釈しようとするというお立場で、
それまで私にはそのような視点がなかったので、
とても勉強になりました。
そして、shin・秋治先生の「元の理探訪記」動画の中でたびたび出てきたのが、
「十六年本」では こう書かかれている…
という表現でした。
信仰落第生の私は、「十六年本」についてよく知りません。
「十六年本」ってどんなこと書いてあるのだろう、
と気になりました。
そこで、「元の理」勉強の締めくくりとして、
「十六年本」に関して調べて、
その中の
shin・秋治先生の「元の理探訪記」動画で取り上げられていた部分を書き出しておこう
と思いました。
「元の理探訪記」動画の中で 主に「ふくちゃん」が紹介していた「十六年本」の内容
ってどこに載ってるのかなぁ…
と思いながら、本棚を眺めていたところ、
深谷忠政先生著『教理研究 元の理 改訂新版』という本の
終わりの方に書かれてあるのを見つけました。
そこで、
深谷忠政先生の『教理研究 元の理 改訂新版』に書かれてあった
shin・秋治先生「元の理探訪記」で取り上げられていた「十六年本」の記述、
具体的には、
「親神の十全の守護の理に配して説きわけられた神名、即ち、十柱神の守護の理」詳説
という箇所の文章を、
自分自身の覚え書き的意味で
書写させて頂く事と致しました。
ということで、今回は、
一連の「元の理」自己学習の締めくくりとして、
shin・秋治先生「元の理探訪記」動画【文字起こし】から離れて、
深谷忠政著『教理研究 元の理 改訂新版』という本を元にして
「元の理」を勉強します。
「元の理」勉強シリーズは、一応、今回をもって終了とします。
深谷忠政先生著『元の理』からの学び
それでは、
深谷忠政著『教理研究 元の理 改訂新版』
という本の後ろの方に書かれてある、
shin・秋治先生「元の理探訪記」で取り上げられていた「十六年本」の記述、
すなわち、
「親神の十全の守護の理に配して説きわけられた神名、即ち、十柱神の守護の理」詳説
という箇所の文章を、
自分自身の覚え書き的意味で
次節以降に書き写していきます。
『十六年本』とは
深谷忠政先生『元の理』という本の中の「十六年本参照・十柱神の守護の理」
を書写する前に、
まず、
その参照元である「十六年本」とはどういうものなのか、
「十六年本」というものについて
調べたことを記しておきます。
こふき話の内容は、
2代真柱・中山正善『こふきの研究』(昭和32年)巻末の手記本に詳しいが、
この種の手記本 ないし 写本は、
明治14年より 20年に至る間に書かれたものが 数十種存在し、
製作の年代によって、
14年本とか 16年本とか 呼ばれている。(明治14年以前の写本で こふき話の内容の一部が 誌されているものが存在し、
これらも 現在 こふき話の写本と見做されて「辻10年本」の如き呼称が 用いられる傾向にあるが、
参考文書とみる方が 無難である。)これら写本は 大別して、
和歌体と散文体(一般には説話体といわれる)に分けられ、
14年本と 16年本が その代表格とされるが、
これは 便宜的呼称である。
それぞれの 校訂本を求める作業が 試みられている。こふき話の内容は、
写本を 対照検討すれば 求められるように 考えられ易いが、
それには こふき話そのものの 教理的意義なり、原典との関係なりを 明らかにして、
これに基づいて なされなければならない。「こふき話」を復元して 文書にまとめる研究は、
14年本(『復元』第14号)
および 16年本(『復元』第15号)について
その試みがなされているが、
まだ 定本はない。こふき話と こふき については、
(『天理教事典』~「こふき話の研究」の記述より)
中山正善『こふきの研究』があり、
この中に、こふきは「口記」ではないか
ということが 論じられている。
親神の十全の守護の理に配して説きわけられた神名=【「十柱神」の守護の理】詳説
それでは、
深谷忠政先生の『教理研究 元の理 改訂新版』という本に書かれてある、
shin・秋治先生「元の理探訪記」で取り上げられていた「十六年本」記述
=「親神の十全の守護の理に配して説きわけられた神名、即ち、十柱神の守護の理」、
以上を詳説する箇所の文章を 書写します。
「十柱神」
- くにとこたちのみこと(元の神)
- をもたりのみこと(元の神)
- くにさづちのみこと(道具神)
- 月よみのみこと(道具神)
- くもよみのみこと(道具神)
- かしこねのみこと(道具神)
- たいしよく天のみこと(道具神)
- をふとのべのみこと(道具神)
- いざなぎのみこと(雛形神)
- いざなみのみこと(雛形神)
十六年本に記された「十柱神」の守護の理
くにとこたちのみこと(元の神)
天にては 月様なり。
男神にして、御姿は、頭一つ 尾一筋の 大竜なり。
この世界、国床を見定め給う。
国を見定め給う故、くにみさだめのみこと とも申す。(空間の守護)
人間を宿し込みの時の「つく息」の理をもって、月様と申す。
月様が 先に立ち給う故、日月と言わず、月日という、
また 三十日を 一月という。
人間 身の内にては、眼うるおいの守護の神なり。
即ち、眼に湿いは この神よりの借物、
又 水は この神の守護にて、この世の一の神なり。
仏法にては、釈迦如来と現われ、法を授け給う。
又、先に出て 法を説く理をもって せんじゆ(千手)という。
をもたりのみこと(元の神)
天にては 日様なり。
女神にして、御姿は、頭十二、尾三筋の 大蛇なり。
人間を宿し込み給うた後は、日々に 身が重くなる故、をもたりのみことと申す。
又、日々に理を増す故、日輪様とも申し、
宿し込みの時の「ひく息」の理をもって 日様と申す。
日様の尾に 三つの剣ある故、
この理をもって、悪気なる女を じやけん(蛇剣・邪見)と 今にもいうなり。
又 頭十二ある 一つの頭にて、
一月ずつ 頭かわりて 守護下され、
日々に 十二支の方に 頭を取り巻き、
一刻ずつ 頭代りて お照し下さる。
この理をもって、
一年を 十二月と定め、一日を 十二刻とす。(時間の守護)
人間 身の内にては、温味の守護の神なり。
即ち 温味は この神よりの借物、
又、火は この神の守護にて、この世の 一の神なり。
仏法にては、三尊の弥陀如来 と現われ給う。
又、心の澄んだる理を以て、せいし(勢至)といい、
大きく見える故、かんだい(寛大)ともいう、
かんのん というも 同じ理なり。
くにさづちのみこと(道具神)
天には げんすけ星なり。
女神にして、御姿は亀なり。
亀というものは、皮強く、地附きたるもので、踏ん張り強く、倒けぬもの故、
女の一の道具に仕込み給う。
女の一の道具は、亀の甲の理をもって、おめこという。
おなごというも同じ理なり。
なお、亀は 土色なる故、
この理をもって 亀に くにさづちのみこと と神名を授け給う。
人間 身の内にては、皮つなぎの守護の道具たる神なり。
即ち 、つなぎものは残らず、この神の世話取りなり。
仏法にては、普賢菩薩、達磨大師、又、弁天、結びの神、黄檗は この神の理なり。
月よみのみこと(道具神)
天にては、はぐん星なり。
男神にして、御姿は 鯱なり、また、鯉のこせたるものと 同じこと。
鯱というものは、勢強く 変にしゃくばるもの故、男の一つの道具に 仕込み給う。
男一の道具は、この理をもって せいのこ(勢の子)という。
なお、男というものは、宿し込みの時、上より突く故、
この理をもって、鯱に 月よみのみこと と神名を授け給う。
人間 身の内にては、骨の守護の道具なる神なり。
即ち、骨は この神よりの借物。
この世のよろづつっぱりものは、残らず、この神の御世話取りなり。
仏法にては、八幡菩薩、聖徳太子は、この神の理なり。
くもよみのみこと(道具神)
天にては、朝の明星なり。
女神にして、御姿は うなぎなり。
うなぎというものは、つるつくもので、頭の方へも 尾の方へも 出入りするもの故、
人間の飲み食い出入の道具に使い給い、
この理をもって、鰻に くもよみのみこと と神名を授け給う。
人間 身の内にては、飲み食い出入は、この神の借物。
世界では 水気上げ下げは、この神の 世話取りなり。
仏法にては、文殊菩薩、竜王、神農、薬師如来、又、水神は、この神の理なり。
かしこねのみこと(道具神)
天にては、坤の方に集まる星なり。
男神にして、御姿は 鰈なり。
鰈というものは 身薄く、扇げば 風を起すもの故、
人間の息を吹き分けて、言葉をいわす道具に使い給い、
この理を以て、鰈に かしこねのみこと と神名を授け給う。
人間 身の内にては、息吹き分けは、この神よりの借物。
世界では、風の神にて 如何なる音が出るも、如何な悪しきを吹き払うも、この神の世話取りなり。
仏法にては 大日如来、円光大師(法然上人)は、この神の理なり。
たいしよく天のみこと(道具神)
天にては、艮の方に集まる星なり。
女神にして、御姿は鰒なり。
鰒というものは、食えば よく中るもの故、
人間の出産の時、母胎との縁を切り、
出直しの時、此世との 縁を切る道具、
又、世界では、剪、刃物、その他、よろづ 切るものの道具に使い給う。
このものは、腹の大きくなるものにて、
人間も 腹が張れる程 大食すれば、持命がなくなる故、
この理を以て、鰒に たいしよく天のみこと と神名を授け給う。
この神は、鬼門の神にて、
仏法にては、虚空蔵菩薩、妙見菩薩、鬼子母神、
又、儒来、橋詰(姫)、宇治穴多(県)は、皆、この神の理なり。
をふとのべのみこと(道具神)
天にては、宵の明星なり。
男神にして、御姿は黒蛇なり。
くろぐつな というものは、勢強く引いても切れぬ故、
人間出産の時、子を胎内より引き出す道具、
又、世界では、立毛を地より引き出し、その他 万引出すものの道具に使い給う。
重い物を引き出すには、大綱が要る故、
この理をもって、黒ぐつなに、をふとのべのみこと と神名を授け給う。
今にても くろと(玄人)とは、この理をもっていう。
この神は百姓の神にて、
仏法にては、不動明王、弘法大師、役の行者は、この神の理なり。
いざなぎのみこと(雛形神)
天にては、牽牛という七夕星にて、天の川を隔てて現われ給う。
男神にして、御姿は岐魚なり。
又、人魚ともいう。
このものは、今の人間の顔にて、鱗なく、肌も綺麗なるもの。
心も真直で 正直なるもの故、この理をもって、いざなぎのみこと と神名を授け給い、これを雛形として、人間の種子に使い給うた。
この神は、人間の父にて、
その証拠に、伊勢の内宮、天照皇大神宮は、この神の御理なり。
いざなみのみこと(雛形神)
天にては、織姫という七夕星にて、天の川を隔てて 現われ給う。
女神にして、御姿は巳なり。
又、白蛇ともいう。
このものも、今の人間の顔にて、鱗なく、肌も綺麗なるもの。
心も正直なる故、この理をもって、いざなみのみこと と神名を授け給い、
これを雛形として、人間の苗代に使い給うた。
この神は、人間の母親なる神にて、
その証拠は伊勢の下宮、天照皇大神宮は、この神の理なり。
夫々の神、仏と、十柱神とを対比べていられる守護の理。
即ち、神道見立、仏法見立といわれるものを思案した時、
異教の神、仏と、元の神・実の神と仰せられる親神天理王命との関係が明らかとなり、
親神が、旬刻限の到来をまって、だめの教を説かれた所以を、良く納得することが出来よう。
(以上、深谷忠政著『教理研究 元の理 改訂新版』P,133~141より)
「元の理」により明示されたこと~深谷忠政先生による要約
深谷忠政先生は、
『教理研究 元の理 改訂新版』
という著作の最後の方(「十 結語」の章)で、
「元の理を以て如何なることを明示されているか それを要約すれば以下の如くなるであろう」
と書かれて、
“「元の理」によってどのようなことが明らかにされたか”
ということをまとめて下さっています。
後学のために、書写しておきます。
「元の理」により明示されたこと~深谷忠政著『元の理』より
- 人間の被創造性
- 人生の目的
- 人間のたねの問題
- 教祖魂のいんねんと天理教立教の予約
- 結婚、夫婦、親子の理
- 人間創造に於ける、親神の十全の守護
- 人間創造の時、場所、順序
- 成人の過程
- つとめ人衆十人と、一夫一婦の理
- 場的なにんげんであること
- 旬々の仕込み、異教とだめの教(天理教)との関係
- たすけの理話としての元の理
- 【人間の被創造性】
人間は、親神によってつくられ、生かされている。
人間の生きていることは、親神の存在証明である。
- 【人生の目的】
それは、この世の中で、神人和楽(親子団欒)の陽気ぐらしをすることである。
陽気ぐらしはかんろだい四方正面の理、
即ち、世界中の人間が、親里にかえり、かんろだいを囲んで、四方より拝み合う姿に象徴される。
- 【人間のたねの問題】
人間のたねは、本来平等であり、汚れ亡きものである。
即ち、如何にいんねん深い人でも、良心を持ち、救われる可能性を有する。
- 【教祖魂のいんねんと天理教立教の予約】
このことは、神格と人格との異質性をも意味するであろう。
- 【結婚、夫婦、親子の理】
- 【人間創造に於ける、親神の十全の守護】
特に、元の神と、雛形神、道具神との関係と、それ等の一手一つの創造活動、
即ち、身内かしもの・かりものの理。
- 【人間創造の時、場所、順序】
(時):天保九年十月二十六日より、子数の年限(九億九万九千九百九十九年)以前に宿し込まれた。
(場所):全ての子数が宿しこまれたのは、元のぢばである。
(順序):宿し込み後、いざなみのみことは、その場所に三年三月留まり、やがて七十五日かかり、奈良・初瀬七里の間、その他の大和国中、山城・伊賀・河内、残る日本中と順序を追うて産み下ろされた。
- 【成人の過程】
特に、三度産みおろしと、出直し。
虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ変り。
その後の人間としての成人。
従って現在の人間は、前生のいんねんをにのうて居り、その納消が、お道の者の日々のつとめである。
- 【つとめ人衆十人と、一夫一婦の理】
- 【場的なにんげんであること】
即ち、人間の生活環境(衣食住)は、人間の成人に応じ、親神より不自由なきようにあたえられるものである。
- 【旬々の仕込み、異教とだめの教(天理教)との関係】
- 【たすけの理話としての元の理】
一言にしていえば、
元の理は、教祖が、月日のやしろとなられたいんねんとよふづとめの理を了解させようとされる、たすけの理話である。
(以上、深谷忠政著『教理研究 元の理 改訂新版』P,142~145より)
かんろだいと元の理の関連性について~深谷忠政著『元の理』より
深谷忠政先生は、
『教理研究 元の理 改訂新版』という著作の最後の方(「十 結語」の章)で、
上記の「元の理により明示されたことの要約」の記述に続けて、
「かんろだいと元の理の関連性」
についても記述して下さっています。
こちらも、後学のために書写しておきます。
かんろだいの寸法の数字は、元の理に出ている数字と関連があること、即ち、かんろだいは、元の理を象徴するものであることに注意せねばならぬ
我々が、かんろだいの前に拝をするとき、
元の理がよく納得されていることが大切である。
元の理の理解なくして、かんろだいの前に拝をする時、
それは、ただ御利益を求める、所謂「おがみきとう」ということになるであろう。
元の理を納得した時、
拝をする我々の気持は、単に御利益を求めるということではなく、
現在、かかる姿で生きていることの喜びの感謝、
ということが第一義でなければならぬことに気付くであろう。
信仰の要は、
先ず感謝―捧げる—ということであり、
次には、
自己を反省し、御利益を求めることは最後でなければならない。
(深谷忠政著『教理研究 元の理 改訂新版』P,145~146より)
おわりに
今回は、
一連の「元の理」自己学習の締めくくりとして、
shin・秋治先生「元の理探訪記」動画【文字起こし】から離れて、
深谷忠政著『教理研究 元の理 改訂新版』という本を元にして
「元の理」の勉強を行いました。
前回まで勉強したshin・秋治先生「元の理探訪記」動画では、
~「元の理」の【たすけの理話】としての側面ばかりでなく、
これからは、科学的視点を踏まえた元初まりの話としての側面にも目を向けていくことが必要だ~
ということが強調されていました。
そのお話を聴いて、
素晴らしい、ホントにそうだ!
と深く感じ入るばかりでした。
しかし、このたび深谷忠政先生の『元の理』という本を読んで思ったのは、
私の場合、そもそも、
(shin・秋治先生が言うところの)
これまで強調されてきた「元の理」の【たすけの理話】としての側面
というものを、まだ全然修めてないじゃないか、
ということでした。
そういう問題意識を抱いて、shin・秋治先生の主張
――「元の理」の【たすけの理話】としての側面ばかりに偏らないで、科学的解釈に基づく面にも着目していこう――
という主張を、改めて見直してみますと、
それは、
【たすけの理話】としての「元の理」をしっかり学んだ人へ向けた提言である、
というふうに聞こえなくもありません。
私のように理屈っぽい人間の場合、
shin・秋治先生が主張されるような 科学的視点を踏まえた「元の理」解釈を示されると、
どうしても、そちらの方が上等に思えて、
そちらにばかり飛びついてしまいそうです。
しかし、そうなると今度は、逆に、
shin・秋治先生が
“偏り過ぎると飛躍できない”
と指摘されているところの
「元の理」の【たすけの理話】としての側面、
それがおろそかになってしまう危険性がある、
今回、深谷忠政先生の『元の理』という本を読んで、
そう思うようになりました。
「元の理」の科学的視点を踏まえた側面だけにとどまってしまったら、
それは、逆に、神様が「元の理」を明かされた意図にそぐわない姿のように思います。
なので、
「元の理」を学ぶ上では、
科学的解釈を踏まえた視点と、たすけの理話としての視点、
そのどちらか一方に偏るのでなく、
そのどちらも車の両輪の如くバランスを取りつつ勉強していくことが大切である、
ということを、改めて肝に銘じたいと思います。
特に、私の場合、
前回まで学んだ、
shin・秋治先生による科学的視点を踏まえた「元の理」解釈
それに新鮮味を覚えて、
つい、そちらへ一気に傾斜しかけていました。
なので、
本来なら、それ以前に修めておく必要がありながらこれまで出来ていなかった、
【たすけの理話】としての「元の理」についての学習、
今後は、それについても意識して 努めていく必要がある、
このたび、深谷忠政先生の『元の理』という本を読んで、
そのように思ったのでありました。
『天理教教典』第三章「元の理」全文
「元の理」自己学習を締めくくるにあたって、
最後に、『天理教教典』第三章「元の理」全文を掲げておきたいと思います。
この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄みすました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこと とは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこと とは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにも又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこと との神名を授けられた。
かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみこと の体内に、日様は、いざなみのみこと の体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみこと の胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみこと は、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なる いざなぎのみこと も、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみこと は、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なる いざなみのみこと は、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。
(『天理教教典』第三章 元の理 P,25~29)
さまよい人にとって、「元の理」は難しい… (-_-;)
まだまだ学習の積み重ねが必要です。
(ただ、「元の理」勉強シリーズは今回で終わります… (^^ゞ )
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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