Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号104番「東肥大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号105番「都 大教会」について勉強します。
- 都 大教会(みやこ だいきょうかい)
- 小西政吉 初代会長の経歴
- 小西政吉の夢枕に 白髪・赤衣の老婦人(明治中期)
- 小西政吉、天理教との出会い(明治中期)
- 小西政吉による お話会(信話会)の開催(明治中期)
- 小西政吉、道専務の決断 〜 都 出張所の開設(明治33年)
- 都 支教会へ昇格(明治42年)
- 教会の移転建築 〜 新築落成奉告祭(明治42年)
- 教会内容の充実化進展(明治43年)
- 小西茂吉2代会長の就任、都 分教会へ昇格(大正11年)
- 関東大震災のふし(大正12年)
- 関東大震災のふしを乗り越えての 教祖40年祭活動(大正13年〜大正15年)
- 本郷区への教会移転(昭和3年)
- 小西政吉 初代会長の出直し(昭和5年)
- 高安大教会からの分離(昭和16年)
- 太平洋戦争、空襲による教会施設の焼失 〜 教会の仮移転(昭和20年)
- 特攻隊出撃の小西吉彦、奇跡の生還(昭和20年)
- 戦後復興ふしん(昭和20年末〜昭和22年)
- 小西吉彦の結婚 〜 夫婦での布教(昭和23年〜昭和24年)
- 詰所ふしん(昭和24年〜昭和26年)
- 小西ますゑ2代会長夫人の出直し(昭和26年)
- 昭和20年代後半の動き(昭和27年頃~昭和29年頃)
- 小西茂吉2代会長の辞任、小西吉彦3代会長の就任(昭和29年)
- 練馬区への教会移転(昭和30年〜昭和31年)
- 神殿ふしん(昭和31年〜昭和37年)
- 昭和30年代後半 〜 昭和40年代の動き
- おわりに
都 大教会(みやこ だいきょうかい)

小西政吉 初代会長の経歴
初代会長・小西政吉は、
父・小西幸蔵、母・ふみ の 3男1女の長男として、
東京市 京橋区弓町に出生(した)。安政年間の頃より 因州池田侯に仕えていたが、
明治維新により、通信局上野支局長代理を勤め、
(そこを) 退任後、弁当料理店を経営した。(小西政吉が経営した弁当料理店は) 順調に行くかの様に見えたが、
小西政吉は、 明治27年頃、本人 40歳の頃より
脳・胃・腸・歯・疝気・痔 等 (様々な)病気に悩まされ(るようになった。)
小西政吉の夢枕に 白髪・赤衣の老婦人(明治中期)
(ある夜、
多くの病気を抱え) 日夜 苦悩に明け暮れしていた (小西政吉は) 病床の枕の中で、夢を見た。
(小西政吉は、その夢の中で) 白髪・赤衣の老婦人が (自分を) 指し招く姿をありありと見た(のであった)。しかし、(その当時の小西政吉は) それが どんなことを意味するのか (全く) 判らなかった。
小西政吉、天理教との出会い(明治中期)
そうこうしながらも、(小西政吉の病気は、全く) 治癒の験しも見えず、(むしろ) 病は 次第に重くなるばかりであった。
そのような時、
(不思議な縁で、小西政吉に) 町内の一婦人より天理教の有難さを教わる機会がもたらされた。
(その際、その婦人より) 再三 (信仰を) 奨められ、
(小西政吉は その熱心さに負けて) 遂に (天理教の) 話を聞くようになった。(病気がちだった小西政吉だが、天理教の話を聞くにつれて、
不思議な事に) さしもの病気も次第に快方に向かった。
(いくつもの病気を抱えて苦しんでいた小西政吉は、回復のご守護を頂き) 感謝の念で 一杯となった。
小西政吉による お話会(信話会)の開催(明治中期)
そこで、(小西政吉は)
商売をする一方、家族・雇人・知人を集め、当時「三政」なる店に 天理教高安分教会の布教師である山脇亀吉が寄留していたので、(山脇亀吉に講師をお願いして)『信話会』というお話会を開いて (天理教のお)話を(自ら求めて) 聴くという事を始めた。(小西政吉は、山脇亀吉の教話に熱心に耳を傾ける事を積み重ねていく内)
その話の中で、かつての夢にあらわれた婦人が 教祖 であることを悟った。(かつて夢の中で自分を手招きした白髪・赤衣の老婦人が 教祖である事を悟った小西政吉は、そのことにとても感動すると同時に) 一層 その神恩の深さに喜びを覚えた(のであった)。
小西政吉、道専務の決断 〜 都 出張所の開設(明治33年)
当時の (天理教の) 白熱的信仰(というの)は、商い片手間の布教が全く許されるものではなく、
又、(小西)政吉の信仰として(も) このような状態は 満足出来るものではなかった。(その後) 幾多の紆余曲折があったのであるが、
松村吉太郎・中川よし の先達の薫陶により、
(小西政吉の道専務の)決断の心が決まった。(小西政吉は、ついに) 家を売却し 道専務に入(ることとな)り、
明治33年(1900) 4月7日、
高安分教会・都 出張所を設置した。こうして、
明治33年5月13日に 開講式を挙行。設置の場所は、東京市日本橋区蠣売町3丁目11番地で、
同年(明治33年)12月12日に 鎮座祭を行った。
都 支教会へ昇格(明治42年)
出張所設置の後、布教活動がなされ、
明治41年からは (だんだんと)部内教会も設置され(ていった。そして) 明治42年2月8日には、
(出張所から、都)支教会に昇格(した)。
教会の移転建築 〜 新築落成奉告祭(明治42年)
教勢(の)拡張にともなって、教堂(も) 狭隘となった。
そこで、明治42年6月、(教会の) 移転建築を計画。
(その後、手続きを進め)
東京市深川区西大工町1番地 (262坪) に移転の許しを得た。明治42年9月初旬から (教会の移転建築)工事に着手し (無事完成。)
同年(明治42年)12月13日、新築落成奉告祭を執行(した)。
教会内容の充実化進展(明治43年)
翌年(明治43年) 5月、都こども会が発足。
東京の児童教養に先鞭をつけた。更に、青年会 都支会、婦人会 都委員部を結成して、充実した教会内容を整えつつあった。
小西茂吉2代会長の就任、都 分教会へ昇格(大正11年)
大正11年 8月26日、
(小西政吉)初代会長夫妻は、高安大教会の詰所勤務を命ぜられ(た。それに伴い) 翌 大正12年 8月27日、
小西茂吉が2代会長に就任(した)。(また、それと)同時に、(支教会から 都)分教会に昇格(した)。
関東大震災のふし(大正12年)
(小西茂吉2代会長就任・分教会昇格という二重の) 喜びの中、
その数日を経ずして (大正12年) 9月1日、関東大震災が起こった。(この大震災により) 都 分教会は 一切が灰となった。
(そして) 信者の離散、出直などによって 大きな難局を迎えるに至った。この難局の中、(都一同は) 挫け勝ちな心に(覆われたが)
(上級・高安大教会長) 松村吉太郎からの
「小西 喜べ、節から芽が出るのだ」
との励ましによって (気持ちを切り替え) 奮起した。
関東大震災のふしを乗り越えての 教祖40年祭活動(大正13年〜大正15年)
(関東大震災の) 翌年 大正13年には、(上級) 高安詰所の 3号館建築となり、
加えて 教祖40年祭(大正15年執行) 倍加運動(の上)に (都一同も全身全霊をこめて取り組んだ結果、都の教勢は) 望外の発展をみることが出来た。ここに、
大正4年より大正15年の間の教勢の発展は 新設宣教所数18ヵ所を数え、
その活躍は 目を見張るものがあった。
本郷区への教会移転(昭和3年)
こうした中、昭和3年4月26日、
(都 分教会は) 区画整理のため、本郷区曙町10番地に 移転することになった。
土地262坪を購入し、木造トタン葺、平家建を建築した。この時、3ヵ所の宣教所の設置をみて、直轄23ヵ所となった。
小西政吉 初代会長の出直し(昭和5年)
昭和5年、
初代会長・小西政吉が、77歳で出直した。
高安大教会からの分離(昭和16年)
昭和9年当時の (都 分教会の) 教勢は、
支教会 2ヵ所・宣教所 77ヵ所で、計 80ヵ所となった。昭和16年6月8日、
(昭和15年4月1日施行された 宗教団体法の影響もあり、都 分教会は)
半分を 高安大教会の直轄とし、48ヵ所をもって 高安大教会より分離した。この昭和16年は、(都にとって) 一つの大きな試練の年であった。
太平洋戦争、空襲による教会施設の焼失 〜 教会の仮移転(昭和20年)
当時の社会状勢は、満州事変・日華事変を経て 第2次世界大戦に至り、戦火は日に日に拡大していくような状況であった。
戦禍の拡大と共に本土空襲も苛烈となり、日本全国至る所で米軍による連日の爆撃が行われた。(そして) 昭和20年3月10日、
(都 大教会の) 神殿外一切のものが焼失してしまった。そこで、(都 大教会の) 仮移転をすることとなり、
移転先を 東京都豊島区椎名町3の21の 天理教 都川分教会に定めた。
特攻隊出撃の小西吉彦、奇跡の生還(昭和20年)
後の3代会長である小西吉彦は (その当時) 軍役に召集されており、教会には不在であった。
昭和20年5月29日、
(小西吉彦は) 鹿児島県万世町飛竜荘に泊まり、
万世基地より「沖縄特別攻撃隊 (特攻隊)」として出撃した。
(そして) それと同時に、戸籍より抹消された。
(誰もが、小西吉彦は戦死したと受け止めた。)(都 大教会は) 戦火に焼かれ、戦死の公報、食糧難… と、二重三重の苦しみの中に(沈み込み、8月に終戦した後も、一同は全てが暗闇の中にあるかの如き状況に打ちひしがれていた。
そのような、絶望的な状況の中)、
昭和21年3月29日、
(死んだものと思っていた) 小西吉彦が、
(なんと) 沖縄より浦賀に生還する、という奇蹟が起こった。(生きて帰還した小西吉彦の姿を見た都 一同の驚きは 言葉に尽くせぬものであった。やがて、それは震えるほどの歓喜の声へと変わり、一同を報恩の道へと駆り立てる力となった。
都一同は) こうした無上の喜びの姿を見せられて (絶望の淵から立ち上がった。)
戦後復興ふしん(昭和20年末〜昭和22年)
昭和20年12月8日、
(戦災からの) 復興の槌音高く、復興建築の第一歩が始まった。昭和21年4月1日(には)、文京区曙町10番地の井戸の側に野外宴会場をつくり、防空壕の前にて、盛大に (小西吉彦)生還祝賀会を催した。
喜びは焼野が原にこだまして、春色の「都」の復興が始まった。
昭和21年10月27日、
神殿建築願を出し、最初の建築がなされた。(最初のふしんは)
昭和21年6月25日に着手し、昭和21年8月に復興を完成した。
(それは) ほんの60坪位のものではあったが、
その喜びは (たとえようもない程) 大きかった。こうした復興気運の中、小西吉彦は 修養科に入った。
(都 大教会は)
昭和22年3月20日には 更に増築を行い、
昭和22年6月16日には 鎮座祭を執行。
翌日の 6月17日、2代真柱臨席のもと、復興建築落成奉告祭を、簡素な中にも賑かに挙行した。
小西吉彦の結婚 〜 夫婦での布教(昭和23年〜昭和24年)
昭和23年4月7日、小西吉彦 (=後の3代会長) は、
寺門敏夫 夫妻の仲人で、中川光之助の長女・中川溢実(24歳) と結婚。
(その翌年) 昭和24年1月29日、(小西)吉彦の長男・康友が誕生した。(また) 同年(昭和24年) 4月29日、
初代会長・小西政吉の 20年祭を執行した。昭和24年9月10日、
小西吉彦は 本格的な布教を開始し、(横須賀市)佐島に (単独)布教に出て、
(その後) 引き続き 夫婦にて (横須賀市)長井に 布教に出た。
詰所ふしん(昭和24年〜昭和26年)
こうした活発な布教活動のなか、詰所建築の議がもちあがり、
昭和24年10月より着手した。天理市の丹波市町187番地550坪を、城、及び 石西・足達等の協力により購入。
翌 昭和25年12月28日、第1回上棟式をあげ、建築に着手した。昭和26年1月29日、都詰所開設の許しを得、更に、2月4日、会長住宅 及び 食堂の建築を行った。
小西ますゑ2代会長夫人の出直し(昭和26年)
同年(昭和26年) 3月30日、
2代会長夫人・小西ますゑ が出直した。
昭和20年代後半の動き(昭和27年頃~昭和29年頃)
昭和27年9月1日、
小西茂吉(2代会長)は 文京支部長となった。(また) 同年(昭和27年) 9月13日、
小西吉彦も、東京教区青年会副委員長拝命し、
更に 昭和28年2月3日、
東京教区教養部副部長(を) 拝命(した)。
同(昭和28年) 3月4日(には)、主事を命ぜられた。昭和29年4月2日、
詰所開設のため、2代真柱夫妻(が) 詰所に臨席(した)。
小西茂吉2代会長の辞任、小西吉彦3代会長の就任(昭和29年)
昭和29年10月29日、
小西茂吉2代会長(は)、病気のため辞職願を提出した。
(そして) 同日(10月29日)、
小西吉彦(が) 3代会長に就任した。(2代会長辞職+3代会長就任という大きな節目から) 間もない 昭和29年12月31日、
小西茂吉(2代会長) が出直した。
練馬区への教会移転(昭和30年〜昭和31年)
昭和30年6月6日、(都大教会一同は)
諸井慶五郎より 種々 仕込みを受けた。そして、昭和30年7月26日、
教会の移転を決定。
昭和31年9月27日、遷座祭を執行。
東京都練馬区大泉学園町854の土地を買収して移転した。
神殿ふしん(昭和31年〜昭和37年)
(昭和31年) 10月7日、遷座祭 並びに 鎮座祭の許しを得て、
昭和32年4月21日(に) 板倉、同(昭和32年) 6月6日(に) 諸井、両名の来訪を受けた。
(そして) 時を置いて、
昭和36年2月8日、神殿建築の具体的計画が定まって、(教会ふしんの) 基礎工事に取り掛かった。(ふしんの最中ではあったが) 昭和36年(1961) 9月26日、
創立61周年記念祭 及び 3代会長就任奉告祭を執行(した)。昭和37年8月8日には、神殿上棟式を行った。
(そして) 同年(昭和37年) 9月30日、
2代真柱臨席のもと、鎮座祭を執行した。
昭和30年代後半 〜 昭和40年代の動き
昭和38年5月7日、
(小西政吉) 初代会長 30年祭を執行。昭和42年6月16日、
天理市豊田町94の1に 詰所を移転。昭和45年になって、
鉄骨3階建て付属建物 (1階:炊事場・2階:役員室・3階:会議室) の建築に着工。昭和45年10月7日に、創立70周年(記念祭)、
(続けて) 翌 (10月)8日に、真柱臨席のもと 盛大に (付属建物)落成奉告祭、
以上を執行した。昭和49年2月7日、
『都 新聞』を再刊した。(その後も、
都 大教会の) 伝道線は、
東京を中心として、神奈川・群馬・長野・大阪・千葉・福井・北海道・岩手・宮城・奈良…等 (の広範囲)に及び、
さらに徹底した おたすけ活動(の展開)を期している。〔現住所〕〒178-0061 東京都練馬区大泉学園町6丁目18-26
〔電話〕 03-3924-2633(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,807〜809)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第105回目の今回は、
「都 大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 都 大教会に関する記述が ほんの少しありましたので、自己覚え書きとして書写します。
京橋区弓町の小西政吉 (都 初代) は、
逓信局退任後、弁当料理店を経営。明治二十七年ごろより、脳・胃病などに悩まされ、
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P, 110)
高安系布教者・山脇亀吉の話を聞くうち、
かつて夢に見た 赤衣の婦人は 天理教祖であったことを悟り、政吉は 家を売って 道専務になった。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】105回目の当記事では『天理教事典』の中の「都 大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。
都 大教会は 高安大教会から分かれた大教会ですね。
高安大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
都 大教会は 高安大教会から分かれた大教会なわけですが、
高安大教会から分かれた東京の大教会というと、東本大教会が頭に浮かびます。
なので、今回の書写学習を進める中で、知識不足の私は
東本大教会と 都 大教会は 兄弟教会みたいなものなのかぁ…
同じ高安から分かれた近隣大教会だから 何か関係があるのかなぁ…
等と思いながら 読み進めました。
しかし、『天理教事典』1977年版「都 大教会」の解説文を読む限りでは、
どうやら、創設時、都 大教会と東本大教会に 直接的な関係はなかったようですね。
東本大教会については、以前に勉強して 記事を投稿しております。
その際に学んだこと。それは、
「東本大教会」は、
明治31年10月31日 東本布教所 開設、
明治33年 4月14日 東本出張所に昇格、
明治39年 2月24日 東本支教会に昇格、
明治42年 2月5日 東本分教会に昇格、
ということでした。
今回の勉強でわかったこと、それは、
「都 大教会」は、
明治中期 信話会(お話会) 開催、
明治33年 4月7日 都 出張所 開設、
明治42年 2月8日 都 支教会に昇格、
大正11年 8月26日 都 分教会に昇格、
ということでした。
時系列で並べてみると、
「東本と都」は、ほぼ同時代に 高安の部内として東京で活躍した教会ですが、
設立→拡大していった時期は、東本大教会の方が 都大教会よりも少し早い、ということがわかります。
今回書写した『天理教事典』「都 大教会」解説文の中にも、
「幾多の紆余曲折があったのであるが、松村吉太郎・中川よし の先達の薫陶により、(小西政吉の道専務の)決断の心が決まった。」
とありました。
なので、
東本大教会と都大教会は、たまたま同じ高安の流れを汲んだ人が、別々に東京で布教に励み、それぞれ独自の経緯で誕生した――
そのような状況下で、ひと足さきに教会になった東本が、同じ高安の流れを汲み かつ 同じ教区の同士ということで、都の人々に対して 先輩として指導をすることもあった――
おそらく、そういうことなのだろう と私は理解しました。
『天理教事典』解説文を読む限り「東本」と「都」の間に お道の教会特有の「親と子」という関係もなさそうですし。
以上のことは、
教会史の中において「だから何?」という類の事柄かもしれませんし、
もしかしたら関係者の方々にとっては「何を今さら…」的な内容かもしれません。
しかし、そもそもこのブログは、これまでも そういったことを書いてきたブログで、
また、以上の事柄は、部外者の私にとっては今回の勉強によって新たに知ることの出来た内容でしたので、あえて書いた次第です。 (^^ゞ

今回の勉強で、まず最初に印象に残ったのは、
小西政吉 初代会長が、多くの病気を抱え苦しんでいた入信前に、白髪・赤衣の老婦人に手招きされるという夢を見ていた、という史実でした。
夢を見た当時の小西政吉初代会長は それが何を意味するのかわからなかった、と書いてありましたが、それはまぁ 当然のことだろうと思います。
それが、高安分教会・山脇亀吉先生から教理話を聴く内に、かつて夢にあらわれた婦人は教祖であったのだとを悟られた、とのこと。
おふでさきに
「それゆへに ゆめでなりとも にをいがけ
はやくしやんを してくれるよふ(14-7)」
というお言葉がありますが、
きっと、小西政吉 初代会長は、
夢の中で教祖が手招きする程に、何としてでもこの道に引き寄せたい「深い魂の因縁」をお持ちの先生だったのに違いない…
等と 思ったりしました。

また、今回の勉強を通して 私の中で 特に印象深かったのは、
やはり 何といっても、
「特攻隊員・小西吉彦3代会長、奇跡の生還」の史実でした。
昭和20年終戦直前の東京大空襲によって、都大教会でも教会施設が全て焼失してしまった。
その上、その当時の会長だった小西茂吉2代会長のご子息・小西吉彦先生が、特攻隊として出撃。皆が、小西吉彦先生は戦死したものと受けとめた。
そのような皆が絶望する中、
突如、小西吉彦先生が浦賀に生還された‼︎
その時の 都 大教会一同の驚きと喜びは、いかほどのものだったでありましょう。
「生きていてくれた!」
きっと、皆、喜びで一杯になって、あふれる程の感謝の思いは言葉にならなかったのに違いありません。
小西吉彦先生が都大教会に帰還して一同の皆と再会した場面を想像すると、目頭が熱くなる思いがします。
その後、無事に復員を遂げた小西吉彦先生が、小西政吉 初代会長、小西茂吉2代会長の後を受け継いで3代会長となり、現在の練馬区へ教会を移転し、壮大な神殿ふしんを成し遂げられたのでありました。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「都 大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、
その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくるような気がします。(^^)

その他にも、
大正12年の関東大震災で、都 分教会が 灰燼と化し、
信者の離散・出直などが相次ぎ 一同が打ちひしがれていた時、
上級・高安大教会の松村吉太郎先生から
「小西 喜べ、節から芽が出るのだ」
とのお言葉を頂いて、気持ちを切り替え奮起した、
という話も 印象深かったです。
どれもこれも、知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て とても勉強になりました。
有難いことでした。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「都 大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。





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