天理教 各教会の歴史探索(第19回)【名京大教会】『天理教事典』より

「名京大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

当シリーズ前回は、
教会番号18番「中河大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号19番「名京大教会」について勉強します。

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名京大教会(めいきょう だいきょうかい)

名京大教会GoogleMapより①
GoogleMapより

山名の諸井国三郎初代会長と清麿2代会長(明治6年〜明治27年頃)

名京大教会の道は
山名大教会 初代会長 諸井国三郎に発している。

明治6年(1873)、(諸井)国三郎は
亡妻の忘れがたみの長女 たま を伴って帰郷、
同(明治)10年
絶家となっていた分家 諸井勘次郎の屋敷跡 (静岡県磐田郡広岡村下貫名) に家作して、
後添の妻 その、長男 政一と共に居住し、
同(明治)15年 たま に分家を再興させ、
国三郎家系と 勘次郎家系の 2戸が
同一屋敷に成立した。

やがて 明治21年 山名分教会の設置となり、
(諸井)国三郎が初代会長に就任したが、
同(明治)31年 (諸井)国三郎の本部詰めによって、
たま の女婿 清麿が副会長に就任、
さらに(明治)23年 (諸井)清麿は2代会長となった。

一方 長男の(諸井)政一は
同(明治)27年 本部づとめの上から廃嫡し、
本籍を奈良県に移し、
相続は 4女 ろく に移っていた。

山名の分割、名京大教会の誕生(大正7年~大正12年)

大正7年 (諸井)国三郎 出直、
葬儀に際して 2代会長 (諸井)清麿が喪主として立つと共に、
直系相続人としての上から
ろく の夫 慶五郎も 又 喪主たる事を申出で、
結局 二人の喪主によって営まれた。

その後 数年を経、本部の方針として
「山名大教会の継承者は、その創立者たる本部員 諸井国三郎の直系相続人をもってすべきこと」になり、
ここに (諸井)清麿は2代会長を辞任した。

(諸井)清麿と共に 多年苦楽を頒って来た信者達は
多難な道中を乗り切って、
よく初代の跡を固め、ゆるがぬ基礎を確立し、
移転建築の大業を果たした清麿 及び その家族の上を思い、

山名という大木を二つに分けて、
共に「ちば」につながる
初代、2代の信仰の流れを受ける 二つの大教会とする案を考えた。

そして この案を (諸井)清麿、 慶五郎 両名の諒承を得たので
本部に申し出たところ、
その裁可を得ることができた。

かくて 山名大教会365カ所の部内教会のうち 178カ所の教会をもって
大正12年 11月23日、名古屋市東区田代町西畑53番地、3,750坪の地に
名京大教会として 設置の許しを受けた。

新大教会の初代会長としては
(諸井)清麿の相続者である 諸井忠彦 (大正12・11・23~昭和25・4・25迄在職)
が就任し、
ここに 教内に異例の誕生を遂げたのが
名京大教会である。

神殿・詰所等 諸施設の移転建築(大正13年~大正15年)

新しい敷地に 事務所の建築を開始し、
翌(大正)13年、5間5尺に10間の木造瓦葺2階建 仮神殿の落成を待って、
(大正13年) 4月19日 2代真柱、 山沢 管長職務摂行者等を迎えて 鎮座祭を、
翌(4月)20日 奉告祭、並びに 青婦連合発会式を挙行、
教祖40年祭を目睫にして 活気あふれる教界に乗り出した。

新設の大教会として
前途に横たわる、どうしてもなさねばならぬ仕事として、
教祖40年祭活動、神殿 および 教祖殿の建築、詰所の移転建築
の三つがあり、
総力をあげて これに取組んだ。

まず
年祭活動として提唱された 教勢倍加活動については、
年祭直前の 大正14年末迄に 部内教会250余の新設を数え、
総数432ヵ所の成果を収めて 年祭に臨み、
また 年祭祭場建築のための用材 約4,000本の献納をはじめとする諸活動に
新生大教会の意気を込めて めざましい働きができた。

詰所の移転は
大正15年末に、別所町380番に6,000坪の敷地を購入して、
昭和2年 鍬入れ、同(昭和)5年 4月25日、
3棟の本館の移築をはじめ 3,000人の収容力を擁する全容の完成を見て、
2代真柱を迎え 開所披露を行った。

神殿 及び 教祖殿 その他 付属屋の建築は
昭和8年 3月着工、9年 6月竣工した。

神殿236坪、教祖殿45坪、いずれも 総檜造り本瓦葺、事務所は 鉄筋コンクリート造2階建33坪、その他 客室をはじめ、付属屋の一切が 建ち上がった。

名京の道の広がり(昭和初期~昭和23年頃)

山名時代の明治30年 (諸井)国三郎がはじめて台湾へ道をつけてより、
7ヵ所の名京系の教会の設置をみたが、
更に 昭和2年
アメリカ合衆国へ 天理教の最初として サンフランシスコ教会の設置をみ、
翌 (昭和)3年 4月
初代会長 (諸井)忠彦は 自ら 4名の布教師を伴って太平洋をわたり、
主として 日系1世を対象に
数年間に 10余ヵ所の教会設置をみた。

その後、教勢は一路発展を続け、
部内教会の分布も 前記海外をはじめ、
北海道、東北から九州方面へものびて 殆ど日本全土に及び、
特に 地元愛知県をはじめ 東海、中部地区に その根を張っていった。

昭和12年 益津、
15年 愛知、
16年 小牧、仙臺、
18年 甲府、
38年 静岡、白羽、伊那
の 計8ヵ所の教会が 分離して大教会に昇格している。

昭和20年 2月、太平洋戦争の戦火を受けて 神殿、教祖殿、事務所等を焼失したので、
同(昭和)23年 きびしい戦争直後の物資不足の中から、部内「よふぼく」信者の熱誠を凝結して
総檜造り瓦葺79坪の神殿を復興した。
引き続き 部内教会も 大半が復興した。

歴代会長の足跡(昭和25年~昭和48年頃)

昭和25年 4月25日、(諸井忠彦) 初代会長 病気のため辞任、
諸井清彦 (昭和25/4/25~昭和37/4/20迄在職) が2代会長に就任。

翌 (昭和)26年 5月22日、会長就任奉告祭を執行した。

しかるに 昭和34年(1959) 9月、
伊勢湾台風によって神殿倒壊、
また 初代 (諸井忠彦) 、2代会長 (諸井清彦) も 前後して失う
という事態をのりこえ

3代会長に 諸井孝子 (昭和37/6/26~) が就任し、
鉄骨鉄筋コンクリート造、銅板瓦交葺2階建 211.15坪の現神殿の完成をみ、
昭和37年 10月17日 2代真柱により鎮座、
翌18日 3,000余の帰参者を迎えて 盛大な奉告祭を執行して
今日(編者註:『天理教事典』1977年版出版当時) に至っている。

まさに 4度にわたる神殿建築であり、
一方 詰所も 当初 三島の山名詰所から 別所380番地、
更に 別所170番地へと 移転をしている。

昭和48年 11月3日には、真柱を迎えて
盛大な 創立50周年記念式典を挙行した。

現在 婦人会が 直営福祉施設として
定員135名の 名京保育園 (設立 昭和27年=1952/園長は《諸井孝子》3代会長) がある。

〔現住所〕〒464-0848  愛知県名古屋市 千種区春岡2丁目8−10
〔電話〕052-762-2248 

(昭和50年12月31日調 「天理教統計年鑑」 昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,819~820)

おわりに

名京大教会GoogleMapより②
GoogleMapより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

19回目の今回は、
「名京大教会」の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

名京大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

天理教 各教会の歴史探索シリーズ】19回目の当記事では
『天理教事典』の中の「名京大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回もまた、知らないことばかりでした。

名京大教会は、山名大教会から分かれた大教会ですね。

山名大教会については、2024年4月6日公開の記事で勉強しました。

山名大教会の記事をまとめた頃は、まだこのシリーズを始めたばかりで、
正直何も分かっていないような状態でした。

なので、改めてその記事を読み返してみると、
(私の記述部分の)内容が薄いというか、ホント表面的だなぁ…
と、苦笑させられております。

しかし、その後、当シリーズも回数を重ね、
自分で言うのも何ですが、
いろんな大教会についての勉強を通して
いろいろ知識が蓄積してきたように感じております(^^)

現在の華やかな大教会群の姿しか知らなかった私にとって、
たとえ表面的とはいえ、これまでの歴史の一部を知ることで、
これまでとは、また一味違う見え方がするようになりました。

あぁ、あのような歴史を乗り越えて今があるんだぁ…
みたいな感じで。

それはともかく、
『天理教事典』(1977年版)の「山名大教会」解説の中では、
名京大教会が分離した下りは、以下のようにサラリと記述されているだけでした。

大正7年 4月、
2代真柱の教育委員などとして活躍していた初代会長 諸井国三郎は
78歳で出直した。
…(中略)…
しかし、一方では
山名の 教統継承問題が 起こっていた。

これは、
大正12年 5月に至って
山名大教会を分割し
名京大教会を 新設することで 決着がついた。

11月22日付で
山名大教会 3代会長に
諸井慶五郎(国三郎女婿・ろくの夫)が、
11月23日付で
名京大教会 初代会長に
諸井忠彦(2代会長清麿の養嗣子)
が 就任した。

一方、今回勉強した『天理教事典』(1977年版)「名京大教会」解説には、
以下のように記述されています。

大正7年 (諸井)国三郎 出直、
葬儀に際して2代会長 (諸井)清麿が喪主として立つと共に、
直系相続人としての上から
ろく の夫 慶五郎も 又 喪主たる事を申出で、
結局 二人の喪主によって営まれた。

その後 数年を経、本部の方針として
「山名大教会の継承者は、その創立者たる本部員 諸井国三郎の直系相続人をもってすべきこと」になり、
ここに (諸井)清麿は2代会長を辞任した。

(諸井)清麿と共に 多年苦楽を頒って来た信者達は
多難な道中を乗り切って、
よく初代の跡を固め、ゆるがぬ基礎を確立し、
移転建築の大業を果たした清麿 及び その家族の上を思い、

山名という大木を二つに分けて、
共に「ちば」につながる
初代、2代の信仰の流れを受ける 二つの大教会とする案を考えた。

そしてこの案を(諸井)清麿、 慶五郎 両名の諒承を得たので
本部に申し出たところ、
その裁可を得ることができた。

かくて 山名大教会365カ所の部内教会のうち 178カ所の教会をもって
大正12年11月23日、名古屋市東区田代町西畑53番地、3,750坪の地に
名京大教会として 設置の許しを受けた。

新大教会の初代会長としては
(諸井)清麿の相続者である 諸井忠彦 (大正12・11・23~昭和25・4・25迄在職)
が就任し、
ここに 教内に異例の誕生を遂げたのが
名京大教会である。

山名の勉強をした時には 特に何も感じずに読み過ごしましたが、
今回、名京について勉強するにあたってその部分を改めて読んだことで、
このあたりの歴史背景への「モヤモヤ感」が、抜き難く残ってしまうのでした。

名京と山名が分離するに至った背景は、
きっと山名や名京に所属しておられる方にとっては
周知の歴史なのでありましょう。

そして、そうした経緯を踏まえ、
そこから多くの学びを掴み取った上で、
今の揺るぎなき信仰があるのだと思います。

しかし、そうした史実を全く知らず、
今の、名京大教会、山名大教会の輝かしい面しか知らなかった私には、
(『天理教事典』内の「名京大教会」「山名大教会」の記述しか情報がない関係もあって)
勉強したけれども、頭の中がこんがらがって、
書かれてある史実がスムーズに頭の中に入ってこないのでありました。

そこで、
自分の頭を整理するために、
『天理教事典』「名京大教会」に記述されたその歴史を、
「山名大教会」や山名大教会HP内に書かれた記述を参照にしながら、
箇条書きにしてみます。

  1. 諸井国三郎は、 天保11年(1840)7月20日、
    遠江国(静岡県)山名郡 広岡村下貫名の 組頭の3男として生まれた。

  2. 安政3年、諸井国三郎は、
    16歳で侍奉公を志して江戸に出て、旗本に士官を果たした。

  3. 明治6年、幕府の解体によって、
    諸井国三郎は、亡妻の忘れがたみの 長女たまを伴って 帰郷した。

  4. 明治10年、諸井国三郎は、
    絶家となっていた分家 諸井勘次郎の屋敷跡 (静岡県磐田郡広岡村下貫名)に家を建て、
    先妻の子たま、及び、後妻 その・長男 政一らと共に 生活し始めた。

  5. 明治15年、先妻の子 たま に分家を再興させた。

  6. 明治15年10月、
    手代に連れられてやってきた吉本八十次を通して、
    諸井国三郎は 初めて天理教の教えを聞いた。

  7. 明治16年、
    咽喉を病み 危篤に陥った 3女の甲子が 身上おたすけを頂き、諸井国三郎 入信。
    転輪講(後に遠江真明講)を結成した。

  8. 明治20年、「おさづけの理」を拝戴した諸井国三郎は、家業を捨てて布教に専念するようになった。

  9. 明治21年、国三郎の妻そのは、
    生後10ヵ月の 5女ろくを連れ 初めておぢばがえりをした。

  10. 明治21年4月、天理教会本部が設置となり、
    5月20日には 山名分教会の設置が許され、諸井国三郎が初代会長に就任した。

  11. 明治30年10月には、
    台湾伝道が伸展し台中教会の設置にこぎつけたが、
    明治31年1月、
    諸井国三郎が台中にて病気となり、3月に帰国。
    「おさしづ」により 家族全員 おぢばに住み込むこととなった。

  12. 明治33年1月、
    諸井国三郎は「本部詰め」することになったので、
    先妻の子たま の夫、諸井松太郎(=後に清麿と改名)が、
    山名分教会2代会長に就任した。

  13. 大正7年4月、
    初代会長 諸井国三郎が 78歳で出直した。

  14. 諸井国三郎 葬儀に際して、
    2代会長 諸井清麿が喪主として立つと共に、
    直系相続人としての上から ろくの夫 慶五郎も 又 喪主たる事を申出で、
    二人の喪主によって営まれた。

  15. その後 数年を経、本部の方針として
    「山名大教会の継承者は、その創立者たる本部員 諸井国三郎の直系相続人をもってすべきこと」となり、
    諸井清麿は2代会長を辞任した。

  16. 辞任した諸井清麿を慕う信者達より、
    山名を、
    諸井国三郎直系相続者の系統と、
    清麿2代会長の系統に分割する案が提案された。

  17. この案に対して、
    諸井清麿、 慶五郎 両名の諒承が得られたので、
    本部に申し出たところ、
    その裁可を得ることができた。

  18. 大正12年 11月23日、
    山名大教会 365カ所の部内教会のうち 178カ所の教会をもって、
    山名大教会のある静岡県袋井市からは少し離れた 愛知県名古屋市に、
    名京大教会として 設置の許しを受けた。

箇条書きにすることで、だいぶ頭の中を整理することができました。

諸井国三郎山名初代会長が、明治31年に台湾で身上を頂き、
おさしづにより家族全員おぢばに住み込むこととなったのを受けて、
明治33年1月に初代会長の先妻の子たま の夫である諸井清麿が
山名分教会2代会長に就任した。

それによって、
山名の中に、
「おぢば」に伏せ込む諸井国三郎山名初代会長家族を慕う人々と、
「静岡」の山名大教会を運営する諸井清麿2代会長を慕う人々の
2つのグループが生まれた。

で、それが、
大正7年の諸井国三郎葬儀に際して
“誰が喪主をつとめるか”
という問題によって表面化した…

ということなのかなぁ、と 私は理解しました。

その後、本部から
「山名大教会の継承者は、その創立者たる本部員 諸井国三郎の直系相続人をもってすべきこと」
との裁定が下され、
諸井清麿2代会長が辞任し、
諸井国三郎の後妻その の 5女 ろくの夫である慶五郎が 山名3代会長に就任。

しかし、諸井清麿2代会長を慕う人々の声が高まっていき、
諸井清麿の養嗣子である諸井忠彦を初代会長とし
山名を分割して名京大教会が創設された…
と、そういう流れだったのですね。

以上は、あくまでも、
私が『天理教事典』に記載された内容の整理を通して把握した「自己流理解」です。
もしかしたら、私の勘違いが含まれているかもしれません。

この記事を目にした関係者の方の中に、この記述内容は事実と異なる!
と不快な思いをする方がおられるかもしれませんが、
当ブログは、単純に自己学習目的のものであり、
何らかの主義主張を行うことを意図したものではありませんので、
その点ご了承願います。

これは、いわゆる、どちらが山名の正統か、という対立だと思うのですが、
箇条書きにして整理しながら思ったのは、
どちらの主張にもそれぞれ頷けるものがあり、
それぞれの立場に立ってみると、
どちらかが絶対的に正しいとは言えないということがよく分かる…
ということでした。

諸井国三郎初代会長直系の関係者の立場からすると、
山名大教会は、諸井国三郎初代会長によって創設されたものであり、
その初代とおぢばにおいて共に伏せ込んでいる直系の者がそれを受け継ぐのは当然だ、
と思うでしょうし、

諸井清麿2代会長の関係者の立場からすると、
確かに、山名大教会は諸井国三郎初代会長によって創設されたけれど、
明治33年から初代家族は一家で本部詰めとなり、
その後は、諸井清麿2代会長が山名大教会を守り続けて約20年経過した、
初代会長直系ご家族は本部の御用に励んでおられるのだから、
山名はこのまま2代会長系統の者が守っていくのが当然だ、
と思うでしょうし…

第三者の視点で見ると、
どちらの言い分も「もっとも…」と言えるものだと思えるだけに、
その決着をつけることには非常に難しいものがあったのだろう、
と想像されます。

結局、
「山名大教会の継承者は、その創立者たる本部員 諸井国三郎の直系相続人をもってすべきこと」
とのご本部裁定によって、
諸井慶五郎先生が 山名の3代会長になられるわけですが、

山名初期の歴史を勉強した上で、
20年にわたって静岡の地で山名大教会を守ってきた諸井清麿2代会長関係者の方々の心境を察すると、
そこには さぞかし複雑なものがあっただろうなぁ、
ということが容易に想像されます。

そのような諸々の複雑な背景が少しずつ明確になってくるにつれ、
新たに名称を創設して2つに分けてそれぞれの道を歩む、というのは、
当時の関係者一同を丸く治める上で非常に素晴らしいアイデアだった、
というふうに思えてきます… (^^)

名京大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

今回は、名京大教会が山名大教会から分離するところを重点的に考察しました。

名京大教会と山名大教会、
2つに分かれてそれぞれの道を歩むことになったわけですけれども、
両教会とも、天理教を支える大きな柱の教会として、
今も まばゆい輝きを放っておられるわけです。

興味本位でその成り立ちの部分をほじくり返すことには
意味がないでありましょう。

そうした歴史を知って、
そこに込められた神意を思案し それを如何に今後に生かしていくか、
ということが大切なのだと思います。

野次馬的な視点にとどまってしまうことのないように…
と自戒したいと思います。

それにしても――
各大教会初期の歴史について勉強するたびに感じさせられることですが、
神様の御恩に感謝し報恩の道を求める純粋な人々ばかりであるにもかかわらず、
人と人がたくさん集まってくると、
本当に、様々な「問題」が湧き上がってきますね…

人と人がたくさん関わり合う「教会」というのは、
神様からの『問題集』の塊みたいなものなのかもしれません。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「名京大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】8回目である今回は、『天理教事典』項目 及び その他ネット上で見つけた「敷島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第9回)【日本橋大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】9回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日本橋大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第10回)【高安大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】10回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高安大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第11回)【南海大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】11回目である今回は、『天理教事典』に記載された「南海大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第12回)【芦津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】12回目である今回は、『天理教事典』に記載された「芦津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第13回)【高知大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】13回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高知大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第14回)【北 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】14回目である今回は、『天理教事典』に記載された「北 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第15回)【湖東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】15回目である今回は、『天理教事典』に記載された「湖東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第16回)【甲賀大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】16回目である今回は、『天理教事典』に記載された「甲賀大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第17回)【水口大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】17回目である今回は、『天理教事典』に記載された「水口大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第18回)【中河大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】18回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中河大教会」についての説明を書き写しました。

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