天理教 各教会の歴史探索(第103回)【府内大教会】『天理教事典』より

「府内大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号102番「小牧大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号103番「府内大教会」について勉強します。

  1. 府内大教会(ふない だいきょうかい)
    1. 前川万太郎の 丹波国船井郡 摩気村での布教(明治19年頃)
    2. 樋口幾太郎 初代会長の入信 〜 おさづけの理拝戴(明治20年頃〜明治21年頃)
    3. 樋口幾太郎の単独布教 〜 天地組15番講社の結成(明治22年〜明治23年)
      1. 天地組の拡大
    4. 船井支教会の開設 〜 開筵式(明治25年〜明治26年)
    5. 北 分教会における船井支教会の存在感について
    6. 内務省秘密訓令発令後の教勢沈滞・挽回のための新規事業立ち上げ(明治29年頃)
    7. 新規事業の挫折 〜 教会住込み人の離散(明治30年代)
    8. 小林豊蔵 夫妻の踏ん張り 〜 樋口幾太郎 初代会長の出直し(明治30年代前半〜明治36年)
    9. 樋口覚治2代会長の就任(明治36年)
    10. 樋口覚治2代会長の辞任、小林豊蔵3代会長の就任(明治37年)
      1. 小林豊蔵3代会長の経歴
    11. 教勢回復の地道な努力 〜 船井分教会へ昇格(明治37年頃〜明治42年)
    12.  丹波の人々に惜しまれながらの京都府内 教会移転(明治44年)
    13. 困難を乗り越えての教祖殿ふしん(大正10年)
    14. 船井分教会から 府内分教会へ 改称(大正12年)
    15. 茨木事件、揺れる府内分教会(明治44年〜大正14年頃)
    16. 北 大教会からの分離、本部直属へ(大正14年)
    17. 詰所建設(大正14年)
    18. 宮津分教会 分離独立の経緯(大正13年〜昭和12年)
    19. 3代会長子息・小林敬一の出直し(昭和16年)
    20. 府内大教会へ陞級(昭和16年)
    21. 小林豊蔵3代会長の辞任 〜 出直し(昭和22年〜昭和24年)
    22. 小林一麿4代会長の就任(昭和22年)
      1. 小林一麿4代会長の教会運営
    23. 神殿ふしん 〜 奉告祭(昭和26年〜昭和27年)
  2. おわりに
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府内大教会(ふない だいきょうかい)

府内大教会ストリートビューより②
Googleストリートビュー より

前川万太郎の 丹波国船井郡 摩気村での布教(明治19年頃)

明治19年(1886) 秋頃、
丹波国 船井郡 摩気村、北 徳次郎の家に、
親戚に当たる (京都府)八幡町 橋本の 前川万太郎が訪れた。
(前川万太郎は、後に 淀分教会役員になった人)

前川(万太郎) は、檜笠に団扇太鼓を叩き 白装束の遍路姿であったが 口には「南無天理王命」を唱え、
(北 徳次郎に向かって) 不思議なたすけをして下さる 大和の庄屋敷の神様の話をした。

同時に、(前川万太郎は) 近所の 谷 久右衛門の妻女・ならの が膀胱結石で病の床にあるのを聞き、おたすけに出向いた。
そして、(前川万太郎より 谷ならの に対し) 3日間の教理の取次ぎと 真剣な祈りが捧げられた。

(谷) ならの は、初めて聞く かしもの・かりもの の教理を通して深く悟るところがあり、(また それに呼応するかの如く) 不思議にも (谷ならの の)病は治癒した(のであった)。

樋口幾太郎 初代会長の入信 〜 おさづけの理拝戴(明治20年頃〜明治21年頃)

この村(丹波国 船井郡 摩気村) に、
後に 府内の初代会長となる 樋口幾太郎 が居住していた。

当時、(前川万太郎の布教活動が船井郡摩気村で拡大しつつあるとの噂を耳にした) 樋口(幾太郎) は、
侠気に富む上から、こんな教えが摩気村に広がったら大変であると(考え) 
反対攻撃の先頭に立って、大いに論難に努めた。

(当初は反対攻撃の先頭に立っていた樋口幾太郎な)のであるが、
段々と話を聞く内に、(次第に) その深い教理に(感銘を受けるようになり、天理教への見方を) 考え直すようになった。

(樋口幾太郎は初めて聴く教理に多くの感銘を受けたが、
その中でも)特に「親」ということについて深く反省。
(これまでの自分自身の行いを振り返るにつれ) 今まで自分が親に対してしてきたことの申し訳なさが 増すばかりであった。

(樋口幾太郎は) この償いをなすため、明治21年、初めて おぢばに帰った。
(おぢばがえりした樋口幾太郎は、決意も新たに) 生涯 人だすけのために尽くす心を定めて、おさづけの理(の) 拝戴を願い出た。
しかし、(残念ながら) 一度目は お許しを頂けなかった。

そこで、樋口(幾太郎)は、
「自分も かつて肺を病み 病弱の身でありますから、長い寿命を保つことはできないと思います。しかし、これから 千人の人をたすけさして頂きたいと心に決めております。ですので、(どうか) それまで 命をお貸し下さい」
と、熱意を込めて 改めて願い出た。

(その結果、樋口幾太郎の熱意は届き) 
ついに、おさづけの理を戴くことが出来たのであった。

樋口幾太郎の単独布教 〜 天地組15番講社の結成(明治22年〜明治23年)

(樋口幾太郎は) 帰国すると すぐ、同村(丹波国 船井郡 摩気村) 、大坪和吉の姉・ことめを娶り、家事を妻女に托し、単独布教に出た。
(そして) 3ヵ月目には、10人程の信者を連れて帰った(のだった)。

また、明治22年秋には、(樋口幾太郎は) 
八木理平・片山太兵衛らと連れだって、丹後の岩滝(方面) に布教を行った。

(布教の成果は着々と積み上がり) 信者も次第に増えてきた。
そこで、(一同で) 講社結成の協議をなし、
明治23年、大阪天地組 講長・茨木基敬に願って「天地組15番」の講社を 丹波国 船井郡 摩気村に結講。
講長に 樋口幾太郎、副講長に 北 徳次郎が就任した。

天地組の拡大

かくて、教えは各地に伝えられ、
天地組68番 支第1号 (講元:今西万之助、現:園部分教会)、
天地組68番 支第3号 (講元:森田勇吉、現:須知分教会)、
天地組71番 支第5号 (講元:糸井宗三、現:岩滝分教会)、
更には、後藤栄七を中心として 北海道への伝道も始まり、
早くも 現在の 宮津分教会・村雲分教会・大芋分教会・峰山分教会 などの端緒が開かれた。

船井支教会の開設 〜 開筵式(明治25年〜明治26年)

このように、教勢はにわかに伸展し、信徒も800余戸に達したので、
明治25年8月21日、
丹波国 船井郡 摩気村 大字38番地に、
北 分教会 部内の 天理教船井支教会(を) 設置(すること)を 
初代会長・樋口幾太郎 名義で (天理教教会本部へ) 願出て、許しを受けた。

更に、引きつづき、神殿建築の許しも受け (無事に 神殿も完成した。)

(そして) 明治26年 
陰暦8月30日(陽暦10月9日) 鎮座祭、
翌 9月1日(10月10日) 開筵式、
9月2日 大祭を執行し、
名実共に「船井支教会」の開設をみた。

北 分教会における船井支教会の存在感について

明治20年代の 船井支教会は、
北 分教会部内で 有力な教会として注目されていた。

北 分教会の最初の神殿建築(の際)には、その用材は 船井支教会が一手に引き受け、
丹波国 胡麻村の山林を買い、筏を組んで 大阪に運んだほどである。

明治30年には (船井支教会は) 部内教会 25ヵ所を数えるに至り、
(樋口幾太郎) 初代会長は 北(分教会)の役員の中でも重きをなしていた。

内務省秘密訓令発令後の教勢沈滞・挽回のための新規事業立ち上げ(明治29年頃)

しかるに、
明治29年4月6日、内務省訓令 甲第12号発令されるや、
全教的に教勢沈滞の一路をたどり、
船井支教会(において)も 漸次 衰微の兆がみえてきた。

(樋口幾太郎) 初代会長は これを挽回しようと一策を案じ、裏の空地に 綿ネル織物工場を建てた。(船井支教会として織物事業を立ち上げる事にしたのである。)
そして、(新たに織物工場を稼働させるため) 部内教会長 及び その家族を呼び寄せた。
(そのため、船井支教会は) 一度に 80数名の大世帯となった。

(樋口幾太郎初代会長は、停滞した教勢を何とかして挽回せんものと) 
事業と布教と両面にわたり 経営に当たろうとした(のであった)。

新規事業の挫折 〜 教会住込み人の離散(明治30年代)

しかし、(営利事業と布教活動という異なる分野の経営は) たすけ一条の上からは、決して両立するものでなかった。

(織物事業開始後も) かえって 借財は増える一方であり、
(船井支教会へ) 住込みの人も、(自らの活動)全部が 道の上にも事業の上にも役立つものとはならず、(結果として) 徒食するということになっ(てしまっ)た。

(船井支教会へ住み込んだ) 人々は、そうした(重苦しい環境の)中(に置かれた結果)、
それぞれの郷里に四散し(て行く人が後を絶たない状態となった。)
そして、ついには、
さしも隆盛を極めた船井支教会も、見る影もなく閑古鳥の鳴く有様へと変わり果ててしまった(のだった)。

小林豊蔵 夫妻の踏ん張り 〜 樋口幾太郎 初代会長の出直し(明治30年代前半〜明治36年)

80数名の大世帯が大水の引いた跡のように淋しくなった (船井支)教会の中で、
村雲出張所長であった 小林豊蔵 夫妻のみは、
この窮状の中も、(船井支教会に) 踏み止まった。

(一方、その後の樋口幾太郎 初代会長はどうなったかと言うと) 
事業の失敗と教勢不振からくる極度の経済的気苦労から、ついに 病に臥す身となっ(てしまっ)た。

(そして) 明治36年2月7日、
(樋口幾太郎 初代会長は) 惜しくも、39歳の若さで出直した。

(ただ) この時、
(樋口幾太郎 初代会長が) たすけー条に進むに当たって(定めた)『千人救け』の志は 見事に果たされていた(ということは 明記しておく必要があるであろう)。

樋口覚治2代会長の就任(明治36年)

(樋口幾太郎) 初代会長が出直した時、嗣子・樋口信一 (後の宮津分教会長) は幼少であった。

そのため、初代会長の父・樋口覚治が、
明治36年3月6日、会長事務取扱の許しを戴いて、
(その後) 同年(明治36年) 12月19日、2代会長に就任した。

樋口覚治2代会長の辞任、小林豊蔵3代会長の就任(明治37年)

しかしながら、教会には多額の借財があり、(樋口覚治の) 老齢の身にその整理は余りにも重荷であった。

それに加えて、北海道から参拝にきた信者が天然痘を発病し警察当局からその処置について厳しく責められるなどの事件があ(った)り(もして)、
(樋口覚治2代会長は) 到底 その職に耐えられなくなった。

そこで、ついに
明治37月4月29日、
樋口覚治(2代会長)辞任、3代会長・小林豊蔵 就任の願いを (天理教教会)本部に提出(するに至った。

そう)したところ、
「さあ/\ これより変わる人、これより どうでも何でも一つ心の精神、どうでも精神心一つ 精神の理に許そ、さあ/\ 許し置こう。」
との おさしづを戴いて、3代会長・小林豊蔵が就任した。

小林豊蔵3代会長の経歴

(小林豊蔵) 3代会長は、
明治3年1月1日、
兵庫県多紀郡大芋村字大藤、西本佐兵衛の次男として誕生した。

少年の頃、陸軍大臣を夢みて東京の陸軍教導団に入団して軍事訓練を受けたが、途中で嫌になり帰郷。
その時、父親が 前川万太郎にたすけられたのをみて (豊蔵も)入信した。

(西本豊蔵は) 入信して、すぐおぢばに参拝した。
明治22年6月25日のことであった。
この時はまだ軍服を着、軍刀を吊していたが、おぢば近くに来て (思うところがあり) 大和川に軍刀を投げ捨てて 布教専務の心を定めたという。

(西本豊蔵) 26歳の時、
兵庫県多紀郡村雲村字篠見、小林定助の長女・つま と結婚。
(そこから) 小林の姓を名乗るようになった。

(西本改め 小林)豊蔵は、
明治27年3月15日、村雲出張所を創設し その初代に就任(した)。

また、船井支教会時代には、困難の中、役員として よく(樋口幾太郎) 初代を援け、
(織物)事業(の)失敗後(は)、(樋口幾太郎)初代(が) 病臥する中、一意専心、(船井支教会) 教勢の挽回に心を砕いた。

教勢回復の地道な努力 〜 船井分教会へ昇格(明治37年頃〜明治42年)

(小林豊蔵が)3代会長に就任(した)後も (船井支教会の) 困難は続いた。
しかし、(小林豊蔵3代会長は 困難に負けることなく) これを克服し、教勢の回復に努力を重ねた。

(そうした地道な努力によって船井の教勢は少しずつ回復し) 
明治42年2月8日、
船井支教会は 船井分教会に 昇格の許しを得た。

 丹波の人々に惜しまれながらの京都府内 教会移転(明治44年)

また、(小林豊蔵)3代会長は、
丹波の交通不便を考慮し、教会整理の必要を痛感。

(諸々 調整の結果)
明治44年12月5日、
京都府葛野郡朱雀村大字西ノ京小字伯楽6番地 (現在・京都市中京区西ノ京伯楽町5番地の1) に 教会を移転する運びとなった。

小林(豊蔵)3代会長が、丹波国摩気村の地から、京都に移転するについては、地元の役員信者に悲しみの声があがり、お目標(様)の遷座の時には、泣き叫ぶ声が 丹波の山にこだましたという。

地元の人達にとっては無理のないことながら、
将来の「府内」を思い、(小林豊蔵)3代会長は 断腸の思いで (教会移転を)決行した。

移転後、次の詩を作って、その旗幟を鮮明にした。

乾坤東西相地勢 鉄路縦横南北邇
咬竜永不在池中 回天事業開京師

もって、その気概を察することが出来る(であろう)。

困難を乗り越えての教祖殿ふしん(大正10年)

(丹波国船井郡) 摩気より (京都府葛野郡朱雀村へ教会を) 移転(して)以来、
(小林豊蔵)3代会長の脳裡には、常に、親神様・教祖に 佗び住まいをして頂いていることへの申し訳なさが満ちていた。

(現時点では) 神殿(ふしん)には手が届かなくとも、
せめて、教祖殿(ふしん)を先にしてでも 教祖に安んじて頂きたい、との思いから、
(小林豊蔵3代会長は) 苦しい中、部内教会を督励して (教祖殿のふしんに取り掛かった。

そして) 大正10年(1921)、(無事に 教祖殿の) 落成をみた。

船井分教会から 府内分教会へ 改称(大正12年)

船井支教会・船井分教会は、もともと (丹波国) 船井郡 摩気村に発生した教会であるため その名称を用い(てい)た(わけだ)が、
京都に移転して(から)は、名称不似合であった。

(そのため)「船井」(という名称)を、呼び名は同じでも、その文字を「府内」と改め(ることとした。)
大正12年1月16日、
(天理教教会本部より、船井分教会から「府内分教会」へ) 改称の 許しを受けた。

茨木事件、揺れる府内分教会(明治44年〜大正14年頃)

(上級の) 北 大教会 初代会長・茨木基敬が、
明治44年11月18日より、神がかり状態となった。

(そのような特異な事態に対して) 周囲から 
(茨木基敬は) 本席の後を継ぐ者(に違いない) との見方がはびこ(るようにな)った。

(天理教教会)本部は (これは到底看過できる状況ではないと判断し) 
断乎、これを免職処分に付した。
所謂「茨木事件」である。

府内(分教会)は 北(大教会)の流れを引く(教会である)上から、
(必然的に その事件が与えた衝撃は並々ならぬものとなり) 多数の信者が動揺を覚えた。

(しかし、そのような中でも) 小林(豊蔵)会長は、
いかようなことがあっても 天理教の信仰は ぢばを離れて(は) 成り立たないことを確信し「ぢば中心の信仰」が ぶれることはなかった。

(茨木)事件の後、(上級の) 北 大教会長に(は) 山中彦七が就任したが、
(事件が北大教会部内全体に及ぼした影響はとてつもなく大きいものであり) 
北(大教会)の部内教会は、(深刻な) 混乱状態に陥った。

北 大教会からの分離、本部直属へ(大正14年)

(その後、事態収拾のため、天理教教会)本部の指令により、
(北 部内の) 有力教会は(北 大教会からの)分離を許されることになった。

(天理教教会本部からの指令を受けて) 
(小林豊蔵)3代会長は、部内教会長・役員に(府内の身の振り方を)はかった。
(その)結果 (北 大教会から分離独立する道を選択することで 一同の意見がまとまり、その旨を本部に申告した。)

大正14年9月21日、
府内分教会は、北(大教会)より分離を許され、本部直属(の) 教会となった。

詰所建設(大正14年)

(また、分離と)同時に 
(大正14年)10月6日付の許しをもって、
(府内分教会は)
(奈良県) 丹波市町大字守目堂小字北浦に 信徒詰所を建設し、教祖40年祭を迎えた。

宮津分教会 分離独立の経緯(大正13年〜昭和12年)

初代会長(の) 樋口幾太郎は、
(船井支教会 設立前の) 明治22年、
自ら 丹後国 宮津藤町に布教して、後の 宮津分教会を創設し(てい)た。

宮津(分教会) は、府内(分教会) の部内の中で、最有力の教会であった。

そして、大正13年3月28日、
宮津(分教会)の3代会長に、
府内初代会長・樋口幾太郎の嗣子・樋口信一が就任した。

(小林豊蔵・府内)3代会長は、
(樋口幾太郎)初代(会長) に対しての報恩は
(樋口幾太郎 初代会長の) 嗣子・信一の成人を促すことと、いかに (樋口)信一を遇すかにある、と考えていた。

そこで、小林(豊蔵)3代会長(は、樋口信一を 自身の)長女・愛子と結婚させ、
ひたすら (樋口幾太郎 初代会長 嗣子・信一の) 多幸なことを念じていた。

(そして、小林豊蔵3代会長は) 
村田勇吉が京都教務支庁長に就任したのを機に、
部内教会15ヵ所を有する 宮津(分教会)を、
本部直属教会として 府内より分離したい旨を 相談した。

村田勇吉 (京都)教務支庁長は、その意を諒とし、本部に取次ぎ、その許しを受けた。

(そして) 昭和12年(1937) 9月27日、
宮津分教会は、府内(分教会)より分離して、本部直属となった。

3代会長子息・小林敬一の出直し(昭和16年)

昭和16年1月14日、
府内(分教会)の青年会の活動の上に 常に指導育成に努め、将来を嘱望されていた (小林豊蔵)3代会長(の) 嗣子・小林敬一が、42歳で 惜しくも出直した。

府内大教会へ陞級(昭和16年)

教規の改正により、部内教会50ヵ所以上有する分教会は大教会に陞級を許されることになった。

昭和16年5月21日、(府内分教会は 大教会陞級の) 願書を提出。
同月(5月)27日、大教会陞級の許しを受けた。

小林豊蔵3代会長の辞任 〜 出直し(昭和22年〜昭和24年)

船井支教会長 就任以来 50年の長きにわたって努力を重ねた 小林豊蔵(3代会長)は、
昭和22年4年25日、78歳で現職を退いた。

(そして、孫の) 小林一麿に会長職を譲り、自らは 長年の懸案であった神殿建築に没頭することとなった。

その計画も緒につき、大工小屋も出来、用材も購入され、御紋入瓦まで調達したのであったが、
昭和24年8月7日、(小林)豊蔵(3代会長)は、
(新たな神殿の完成を見ることなく) 80歳で出直した。

小林一麿4代会長の就任(昭和22年)

(小林豊蔵3代会長辞任後の後継会長は)
(小林豊蔵)3代会長(の) 嗣子・小林敬一が 42歳で出直し(てい)たので、
孫の 小林一麿が(4代会長に選任された。)

(そして) 昭和22年4月25日、
(小林一麿が)4代会長に就任した。

小林一麿4代会長の教会運営

(小林豊蔵は)3代会長(就任中)は、
問題多い教会内容を整理統率するために、あえて 独断専行 旺盛な気力と不撓不屈の精神力をもって、波瀾万丈の中を切り抜けた。

(小林一麿)4代会長はこの点に着眼。
(いろいろ思うところもあり、小林豊蔵3代会長とは異なる手法を指向。
独断専行的なやり方を改めて) 実質的な役員制度を確立した。

また、部内教会の諸問題を治め、有名無実の教会 8ヵ所を復興した。

神殿ふしん 〜 奉告祭(昭和26年〜昭和27年)

また、(小林一麿4代会長)は、
(小林豊蔵)3代会長(の) 多年の懸案であった 神殿建築(に)も取り組んだ。
部内一手一つになって神殿建築を進め (ふしんは順調に進行。)

昭和26年3月23日(に) 上棟式を挙行。
翌年(昭和27年) 3月23日、(無事に) その落成をみた。
この時、付帯工事として、客殿も同時に完成した。

昭和27年3月22日、2代真柱を迎えて遷座祭、
翌日 (3月)23日には、創立60周年記念祭・神殿落成・大教会陞級10周年・(4代)会長就任の「奉告祭」を、盛大に執行した。

〔現住所〕〒604-8452  京都府京都市中京区西ノ京伯楽町5−1
〔電話〕 075-463-7408

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,735〜737)

おわりに

府内大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

103回目の今回は、
「府内大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

府内大教会AppleMapより②
Apple Mapより

府内大教会は、北 大教会から分かれた大教会ですね。
北 大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

府内大教会AppleMapより③
Googleストリートビューより

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】103回目の当記事では『天理教事典』の中の「府内大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。

府内大教会は、設立当初は「船井支教会」だったのですね。

明治25年、丹波国「船井郡」で設立されたので、所在地の地名から「船井支教会」という名称で願い出てお許しを戴かれた、と。
それが、明治44年に京都中心部に移転したこともあって、大正12年に、呼び名は同じ「ふない」のまま、漢字を「府内」に改めそして現在に至る…
そういうことだったのですね。

「教会移転」が改名の理由だった、ということ。
知りませんでした。

『天理教事典』「府内大教会」解説文の中に「教会移転」の際のエピソードとして、
「丹波国摩気村の地から、京都に移転するについては、地元の役員信者に悲しみの声があがり、お目標(様)の遷座の時には、泣き叫ぶ声が 丹波の山にこだましたという。」
と書かれてありました。

他の地域では、
周辺住人から疎まれて肩身の狭い思いをしながら存在していた教会が数多くある中、
「船井支教会」は、地元民から「行かないで!」と泣き叫ぶ声が響き渡るほどに地域に愛されていたという史実。

それ程までに地域に根付き、その地域の人に愛される存在になられていたということ、本当に素晴らしいことだと感嘆しました。
ただ、それと同時に、とするならば、
では、なぜ?そこまで愛された地域を捨てて京都中心部に移転せねばならなかったのだろう…という素朴な疑問も湧いてきました。

『天理教事典』「府内大教会」解説文には、そのあたりの経緯として
「(小林豊蔵)3代会長は、丹波の交通不便を考慮し、教会整理の必要を痛感(したので教会を移転することにした)」と、簡単にしか書いていないので詳細はわかりません。

細かい背景事情がわからないのにそのことについて述べるのは不謹慎かもしれませんが、
私の中には、交通の便を考慮して移転するのは良いとしても、今までの船井郡の拠点も残しつつ京都中心部に移転するという方法はなかったのだろうか、 丹波国船井郡には泣き叫ぶ程に慕う人が存在していたのだから… 
等の気持ちが 沸々と湧き上がってきました。

府内大教会ストリートビューより⑥
Googleストリートビューより

あれこれ そんなことを考える中で、
そういえば、以前、当シリーズ第21回「櫻井大教会」の勉強をした際に、
初期の教会設立には地域制約があったと書かれていたなぁ…
と思い出しました。

第21回「櫻井大教会」の勉強で知ったのは、
「大和講」の中で教会設置の動きが出てきた時、
当時は【一町村に一教会しか許さない】という制約があったため、
五条町で新教会設立の『競合』が現れたのを受けて
(他系統に先を越されないようにと)大和講2番組(五條支教会)が大和講1番組(櫻井支教会)に先駆けて教会を設立した、
という史実でした。

「大和講」の場合は、
その後、1番組(櫻井支教会)も教会を設立し、2番組(五條支教会)との間でいろいろありながら、
様々なふしを通して、「大和講」の源流は1番組(櫻井支教会)であり 順序の理に従うことが神意に添う形である と悟り、五條支教会が櫻井支教会の部内となることで事情を治められたわけですが、
そのような感じで、
初期の天理教教会には、現代とは異なる規約や しきたりのようなものが いろいろあったのかもしれませんね。

…と、ここまで書いておきながら、
考えてみれば、一部の熱烈な信者さんのためだけに拠点を分割するというのも、それはそれで、また非現実的なことかもしれないなぁ… という気もしてきました (~_~;)

これ以上、軽々しい思いつきを書き連ねるのは 慎みます  (^^ゞ

府内大教会ストリートビューより⑦
Googleストリートビューより

今回の勉強の中で私が特に印象に残ったのは、
内務省秘密訓令後に教会が極度の経済的困窮状態に陥り、営利事業と信仰活動の二刀流に取り組んだ、という史実でした。

初期天理教の教会における営利事業と信仰活動の二刀流については、これまでの当シリーズの中で何回も出てきました。

その中でも、「繁藤大教会」坂本徳太郎初代会長による「紙漉」製紙事業、
「名古屋大教会」近藤嘉七初代会長による農機具の製造販売業などは、今も印象深く私の記憶に残っています。

坂本徳太郎・繁藤初代会長の紙漉(製紙)事業、
近藤嘉七・名古屋初代会長の農機具製造販売業、
どちらも失敗し その後に莫大な借金が残った、というのが事実でした。

今回の勉強を通して、
樋口幾太郎・府内(当時は船井)初代会長による織物事業もまた、それら同様だったこと、
すなわち、事業はうまくいかず挫折し、その後に 莫大な借金が残って、
隆盛を極めた船井支教会は見る影もなく閑古鳥の鳴く有様へと変わり果ててしまった、
という史実を知りました。

営利事業と信仰活動は両立しないという史実の積み重ね――
これはやはり、営利事業と信仰活動の二刀流は神意に添うものではない、と悟るべきなのか…
正直、未熟な私にはわからないです (>_<)

府内大教会AppleMapより①
Apple Mapより

ただ、その件に関する私の反応は、第85回「繁藤大教会」の「おわりに」の中で書いたものと、今も変わりません。

今の私は、
(これまで天理教大教会の初期歴史を勉強する中で、実に多くの大教会が、その初期に経済的にとてつもない苦難の道中を通り抜けてきた歴史に数多く触れてきたこともあってか)
信仰活動と経済活動を両立させようとしたこのような活動を、人間思案の強い信仰的に未熟な取り組みだったとは思えない、思いたくないという気持ちが強い、というのが正直なところです。(^^)

私個人としては、
信仰という内面に関わる活動に全力で取り組みつつも、同時に、社会生活の現実面も疎かにせず、リアルな経済活動にも目を向け、実際に行動された「繁藤大教会」初期のこの史実に、深い敬意を抱くのであります――

さまよいブログ天理教各教会の歴史探索(第85回)【繁藤大教会】より)

「敬意を抱く」のは良いとして、では、お前はどのようなあり方がベストだと考えのか――
そんな問いが投げかけられそうです。

わかってはいるのですが、
その肝心な問いに対する解答について、今だに自分なりの手がかりがつかめていない
というのが実際であります。
お恥ずかしながら  (^^ゞ

府内大教会ストリートビューより⑧
Googleストリートビューより

また、
船井支教会がそのようにして織物事業に失敗して住込み者のほとんどが離散して閑古鳥が鳴くようになってしまった時に、
後に府内の3代会長となる小林豊蔵先生夫妻のみが残って、どん底時代の樋口幾太郎初代会長を支えた、という話も印象深かったです。

お道の初期、大和神社の節があって皆が離れてしまった中で、
飯降伊蔵先生のみが残ってお屋敷に伏せ込まれたという史実があったと思います。

飯降伊蔵先生は こうした伏せ込みが種となって、後に「本席」となられた訳ですが、
小林豊蔵先生も、このどん底時代の伏せ込みが種があったからこそ、後に府内の3代会長になられ、そして府内支教会を後に大教会にまで発展させる礎を築く事が出来られたのに違いない、と感じました。

皆が次々離れていく中でも踏みとどまるという事。
それはまさしく、周りの空気に影響され流されているのではなくて、本当に自分の足で歩んでいる、ということを意味していると思います。
周りに流された歩みではなく、自分自身の足で歩めるようなしっかりしたものを小林豊蔵先生はつかんでおられたのでありましょう。

私も、そのような、自分の足でしっかり歩めるような確かなものをつかめるように努力していきたい――
小林豊蔵先生の歩みを学んで、改めて、そのような感慨を抱いたのでありました。

府内大教会ストリートビューより④
Googleストリートビュー より

その他にも、
上級の 北 大教会が 茨木事件で大混乱となった際、
小林豊蔵3代会長は、いかようなことがあっても 天理教の信仰は ぢばを離れては成り立たないことを確信し「ぢば中心の信仰」が ぶれることはなかった――という話。

また、
樋口幾太郎 初代会長に対しての報恩は「初代会長子息の成人を促すことといかに 初代会長子息を遇すかにある」と考えた 小林豊蔵3代会長が、
その初代会長子息である樋口信一先生が会長に就任していた府内の有力部内教会「宮津分教会」を、当時の京都教務支庁長・村田友吉先生に相談しながら、府内より分離させ本部直属教会とした――という話など、
どれもこれも、本当に知らない事ばかりでした。

これまで知らなかった多くのことを知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになりますが、
以上のような教会の歴史を知った上で、今の「府内大教会」の雄姿に触れると、
その姿に、より一層の深み・重みが感じられますね。(^^)

府内大教会ストリートビューより⑤
Googleストリートビュー より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「府内大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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