天理教 各教会の歴史探索(第101回)【益津大教会】『天理教事典』より

「益津大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号100番「上之郷大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号101番「益津大教会」について勉強します。

  1. 益津大教会(ましず だいきょうかい)
    1. 小栗市十の 相良警察署提出 届文(明治21年)
    2. 小栗家の入信(明治20年)
    3. 小栗市十の布教(明治20年〜明治21年頃)
    4. 小栗周蔵の布教(明治20年〜明治23年頃)
    5. 益津支教会・白羽支教会、同時開設(明治23年)
    6. 益津の道の広がり
      1. 千葉布教の始め(明治20年頃〜明治21年頃)
      2. 伊豆方面の布教(明治22年頃〜明治25年頃)
      3. 静岡への伝道(明治24年頃〜明治26年頃)
        1. 静岡布教 〜 静岡支教会の設置(明治23年頃〜明治25年)
      4. 山梨布教 〜 甲府支教会の設置(明治24年〜明治26年)
      5. 山名の奥州布教・仙台布教 〜 仙台支教会の設置(明治26年)
      6. 仙台支教会のふし 〜 小栗市十 益津支教会長の仙台支教会長兼務(明治32年〜明治34年)
      7. 加藤歳次郎、仙台支教会の副会長就任〜3代会長就任(明治37年〜明治41年)
    7. 教会の移転建築(明治23年〜明治26年)
    8. 益津 教勢の停滞(明治28年頃〜明治31年頃)
    9. 小栗周蔵 初代会長の退職、小栗市十2代会長の就任(明治34年)
    10. 小栗清三郎3代会長時代
      1. 小栗清三郎の教歴
      2. 小栗市十2代会長の辞任、小栗清三郎の3代会長就任(明治41年)
      3. 小栗市十2代会長の出直し(明治43年)
      4. 山名大教会長の継承問題 〜 益津支教会は名京大教会所属へ(大正7年〜大正12年)
      5. 仙臺分教会の分離、益津は本部直属へ(昭和12年)
      6. 益津大教会へ昇格 〜 奉告祭(昭和16年〜昭和17年)
    11. 小栗源太郎4代会長時代
      1. 興津源太郎の経歴
      2. 小栗源太郎4代会長の就任 〜 奉告祭(昭和18年〜昭和19年)
      3. 小栗清三郎3代会長の退任後 〜 出直し(昭和21年〜昭和26年)
      4. 小栗源太郎4代会長就任後(昭和23年〜昭和51年頃)
    12. 小栗一重5代会長時代
  2. おわりに
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益津大教会(ましず だいきょうかい)

益津大教会ストリートビューより①
Googleストリートビュー より

小栗市十の 相良警察署提出 届文(明治21年)

「益津」の礎を築いた 小栗家の入信の動機を、
後に 小栗市十が 相良警察署に提出した届文によってみると、次の通りである。

「私儀 明治19年11月1日より病気相発し (医者申すに 病名 腹膜炎という、それより11日目に内部ウミたるという) 
益々 重病し (16日目に 医者 背中より針を致し膿を出すなり) 
随って 身体衰え 自ら寝替ること能はず、

加ふるに 19年12月より 身体痛み激しく、
加ふるに 20年1月 (ブーシイを以て 背中針口より腹へ差込み、それより膿を出すことを得たり)
その夜 出たる膿 大凡3貫目以上、その後 少しく穏かなり、

然りと雖も (1日1夜に膿の出ること 歪に8杯、それより末に3杯) 
寝起 叶はず 20年6月頃より 病気 重倍し (背中の針口 及び 左門と2ヵ所へ膿出で) 候間、
医師は 申すに及ばず 祈禱や術が 種々 手を尽くすと雖も、その効なく難渋致し 
家内一同とも 日夜 嘆いて 日を夜に送りたる処、

親戚 (城東郡合戸村 二俣峯吉の妻・なみと申上候) 咄に 当国 山名郡広岡村 諸井国三郎と申す者 天理王命を信心致す由 申候に付、
家内一同 相談致し 親父 周蔵と申す者 直ぐ様 出願致し 依頼仕候、
早速 出張下さる (20年11月15日) ……」

小栗家の入信(明治20年)

小栗周蔵は、
遠州 榛原郡 白羽村 新屋に住み、
鰹節製造業を営むかたわら、農事にも携わっていた。

その一子・市十は、
26歳の時、業病に罹り、明日をも知れぬ身であった。

明治20年(1887) 11月14日、
山名 講元・諸井国三郎が、
(静岡県榛原郡) 白羽村から 5里ばかり離れた 遠州横須賀の野賀村に 講社祭に来ていた。
そこで、(小栗周蔵は、藁をもすがる思いで 難病の息子=) 市十の おたすけを (諸井国三郎に) 依頼したのである。

(依頼を受けた) 講元・諸井国三郎は、一夜 明けて、小栗家に着いた。
(小栗家に到着した諸井国三郎は、小栗家の中に)所狭しと飾られた色々の神仏のお札(や) 軸物を (次々と)剝ぎ取って、(あっけに取られてそれを見つめる周囲の人々にお構いなく、それらを) 庭に投げ捨てた。

その後、神棚からお社を取出し床の間に据えると、神様の話を諄々と説き始めた。
それが済んでから (諸井国三郎は、おもむろに 小栗)市十に おさづけを 取次いだ(のだった)。

(すると) 夕方(になって)、
寝返りさえ出来なかった (あの)病人が、(なんと)起上がって、諸井国三郎(の前)に お礼の挨拶に出(る程のご守護を頂いたのであっ)た。

(難病に苦しんでいた小栗市十が) ウミ(膿) には大毒だというお酒も 1杯飲んだ。
それから 3日目には 風呂にも入った。ウミ(膿) はピタリと止まっていた。

(明日をも知れぬ病気に苦しんでいた小栗市十は、諸井国三郎のおさづけによって、奇蹟的な回復のおたすけを戴いたのであった。)

小栗市十の布教(明治20年〜明治21年頃)

その日から (小栗)市十は(生きながらにして生まれ変わった。)
無い命をたすけられたご恩に報いるため、布教して歩くようになった。

(すると、小栗)市十の行く先々で、不思議が、奇蹟が、数々 起こった。
(あまりの不思議・奇蹟の連続に、その内、小栗)市十は 狐をつかうと評判になった程だった。
(そうした評判は日に日に拡大し、ついに小栗市十は) 相良警察署に拘留され(るに至った。)
その時、(警察の) 訊問に答え 提出したのが、冒頭の文である。

再び (小栗)市十の布教ぶりを届文に見てみよう。
前掲文の続きである。

「・・・・・・新庄村 永井藤平 父・茂平と申す者、
肺炎 是に加ふるに セキリンにて難渋致し、医者申すに及ばず 祈禱や術や手を尽くせども、快気に赴かず候に付、信心の話 承り度 申され候に付、前条の通り 申し伝え候処、御利益を頂き 全治方成り候、

御前崎村 植田喜太郎と申す者、
幼少の時より病身にて 信心の義 承り度く申に付、前条の通 御話申伝え候処、御利益にて 全治候・・・・・・」

この時、(小栗)市十は、3日間拘留の後 (明治21年4月)、
今後 遠州では 布教しない という約束で釈放された。

小栗周蔵の布教(明治20年〜明治23年頃)

(小栗市十の父) 小栗周蔵は、66歳から布教に出た。
頭髪は真白であったが、身体は丈夫であった。

(静岡県榛原郡) 白羽村から 大井川まで 約4里あり、大井川を渡ると 相川村がある。
そこに 大工をしていた中田弥衛門が 足を患って困っていた。
(それが、小栗)周蔵の おたすけで (中田)弥衛門の足は 一夜の間に治った(のだった)。

(そのようにして 小栗)周蔵は (全身全霊を込めて布教に励み)、
(その後、様々な縁があって) そこから 2里ほど離れた (静岡県)豊田村保福島の 興津喜之助宅に 草鞋を脱ぎ、ここに泊まって布教に回(るようにな)った。

(小栗周蔵が興津喜之助宅で布教に励むにつれ) だんだん(と) 人が集まって狭くなってきたので、同村(静岡県豊田村保福島)の 興津源助 (甲府大教会 初代会長)宅に引き移った。

(小栗周蔵は) ここ(=興津源助宅) で、竹田茂吉 (静岡・有渡分教会初代) の足のたたない身上のご守護を戴いた。

(その後) 近くの (静岡県) 藤枝からも依頼があり、(小栗周蔵は) 下伝馬の八百屋・影山清七 (静岡大教会 初代会長)宅に移った。

(静岡県) 藤枝の町は一本町で、町並みが東海道に添って 1里も続いている。
その一番東端を左車と呼び、そこで そば屋をやっていた 大塚新平 (静岡・庵原分教会初代) が病に臥していたところ、(小栗)周蔵のおたすけで身上回復のご守護を戴いた。

益津支教会・白羽支教会、同時開設(明治23年)

(そのようにして次から次へと不思議なご守護が相次ぎ)
次第に信者も増えて、支教会設置の出願をする事となった。

便宜上、大井川を境として、西を白羽、東を益津に分け、
「白羽支教会」は 会長・小栗市十を以て、白羽村の小栗家に、
「益津支教会」は 西益津村郡137番地 (3畝11歩の土地に、建坪48坪) に、会長・小栗周蔵をもって (天理教教会本部へ) 願い出た。

明治23年(1890) 1月13日、
(白羽・益津) 同時に 本部の許しを得た。

益津の道の広がり

千葉布教の始め(明治20年頃〜明治21年頃)

明治20年(1887)頃、
(静岡県) 御前崎の海岸で 潜水夫をしていた千葉県の出身者・坂田半七が、
小栗市十に 潜水病をたすけられた。

この人(坂田半七) が 故郷・上総 勝浦へ布教を志し、
永井藤平 (山名部属・下田分教会 初代会長)と 二人で行くことになった。
明治21年末のことである。 
これが 千葉布教の始めとなる。

このことが元となり、
後年 夷隅分教会 (山名部属) の設置となる。

伊豆方面の布教(明治22年頃〜明治25年頃)

また、伊豆方面への布教は、
明治22年頃 (静岡県榛原郡) 白羽村へ 夫婦親子5人連れの 六部 (巡礼) が来た。

その時、(小栗)市十は 彼等の世話をして、
親子が村を発つ時、医者に見放された病人があったら知らせてくれるように頼んだ。

この巡礼が 8月頃、伊豆の下田に入り、
本町1丁目で足袋屋を営んでいた 牧野浅次郎宅に立ち寄った。
(そして) この家の娘・ふさが 婦人病を長く患って難儀しているのを見て、
六部は 小栗市十のことを話した。

これが発端となって
千葉布教から帰っていた (小栗)市十と 永井藤平が、おたすけに出掛けた。

この頃、牧野(浅次郎) の家に、
明治20年頃から中風に罹り 半身不随で寝たきりの「唐人お吉」こと 斉藤きちが厄介になっていた。
ふさと一緒に お吉もたすけられて、ぼちぼち歩ける様になったが、 
それから間もなく お吉は 渕にはまって死んだ。

この布教には、(小栗)市十は 1〜2週間 参加しただけで帰ったが、
(永井)藤平 一人が留まって 布教活動を続けた。

その後、明治25年6月8日
担任・永井藤平を以て 下田支教会の 設置の許しを得た。

静岡への伝道(明治24年頃〜明治26年頃)

静岡への伝道は、明治24年頃から始まった。

影山清七、釜蓋与右衛門 (益津部属・朝比奈分教会 初代)、 大塚新平の息子・作蔵、萩原郁蔵、山口愛次、竹田吉の息子・良作など、
宇津ノ谷峠を越えて 静岡へ布教に出掛けた。

大塚作蔵、竹田良作は 更に 道をのばして (静岡県) 清水へも布教に出た。
(その頃、竹田)良作は、まだ15・16歳の少年であった。

当時、(駿河国に 清水次郎長が居た。)
侠客で名を馳せた清水次郎長は まだ存命で、喘息に罹って苦しんでいた。
(大塚作蔵と竹田良作の) 二人は、(清水)次郎長のおたすけに掛かった。
(清水)次郎長は、教理を聞き、最後のおたすけの時には 大塚作蔵の手をしっかりと握ったという。
(清水)次郎長は、この年 明治26年6月、74歳で亡くなった。

静岡布教 〜 静岡支教会の設置(明治23年頃〜明治25年)

静岡での 2年余りの布教で、信者結成 500名以上となり、
明治25年7月5日、
静岡市安西1丁目南裏町80番地に 影山清七を初代会長とする 静岡支教会 設置の許しを受けた。

静岡支教会 設置について、山名分教会では、
県庁所在地である静岡市に直轄教会がないのは不便で、不名誉であるから (静岡支教会を山名の)直轄として取扱いいたしたいとの希望があり、
宇津ノ谷峠を境として、信者の新旧を問わず 全部 (益津から)分離して 山名部属とした。

山梨布教 〜 甲府支教会の設置(明治24年〜明治26年)

明治24年(1891)秋、
山梨県南巨摩郡下山村の 益津の信者から 小栗周蔵のところへ、布教師を派遣してくれるよう願ってきた。

(請願を受けた) 益津は、(小栗)周蔵の末女・てる の嫁入先の父親、興津源助を派遣して (山梨での) 布教を開始した。

その後、
塚本文蔵 (益津・八王子分教会 初代会長) 
塚本勝次郎 (益津・安倍川分教会 初代) 
加藤歲次郎 (仙臺大教会3代会長) 
鈴木半五郎、
加藤栄吉…
等が応援して、
その教域は、東山梨、北巨摩、東八代の諸郡から長野県諏訪郡地方にも及び、
更に 
益津から、釜蓋与右衛門、渡辺弥作、平松惣八、松本平太郎 等も加わって、
布教線は目覚ましく伸びた。

ここに、支教会設置の機が熟したが、
前に設置の 静岡支教会と同じく 県庁所在地となるため、
山名としては直轄とする意向であったので、あつれきが生じ 出願の運びに至らず、徒に日時を重ねるばかりであった。

しかし、この儘では解決の道がないので、
協議の結果、分離することとなり、
明治26年(1893) 3月28日、
会長・興津源助を以て 甲府支教会設置の許しを得た。

山名の奥州布教・仙台布教 〜 仙台支教会の設置(明治26年)

山名分教会では、
明治26年(1893) 夏以来、
奥州布教の方針を打ち出していた。

この方針にのっとり、
明治26年4月、
静岡県志太郡大富村の大富出張所で 県外布教の話が出て、
候補地を定め 神様にお願いして 籤を引いたところ、奥州仙台と出た。

そして、布教者を選んだところ、
加藤清作 (加藤歳次郎 養父) と 塚本勝次郎が 当たった。
これが 仙台布教の発端である。

その後、
益津から 鈴木金太郎 (益津・大富分教会 初代会長) 八倉己之助 (益津・島田分教会 初代会長) 等も参加した。

布教師達の寝食を忘れての にをいがけに、
仙台市のみならず 郡部にまで伸び、信者の数、千名にのぼった。

かくて 仙台市東4番丁11に敷地600坪を求め、
明治27年12月3日、
会長・影山与吉を以て、仙臺支教会 設置の許しを得た。

仙台支教会のふし 〜 小栗市十 益津支教会長の仙台支教会長兼務(明治32年〜明治34年)

しかし、(仙臺支教会の) この順調な気運は 何時までも続かなかった。

教勢盛んに伸展した反面、教会内部に 事情が起こり、
この事情は 会長の進退問題にまで発展した。

遂に 影山与吉は 益津へ引揚げ、
明治32年(1899) 11月27日 突然 出直してしまった。
しかも その後、(仙臺支教会)2代会長の選出が遅れ、4年間も会長不在という状態が続いた。

明治34年(1901) 12月9日、
益津支教会長・小栗市十が 現職のまま、仙臺支教会長を兼務する事になった。

加藤歳次郎、仙台支教会の副会長就任〜3代会長就任(明治37年〜明治41年)

しかし、小栗市十は 健康勝れず、
また、事情解決のためにも 副会長を選定することになり、
それには 仙台最初の布教の基礎を築いた関係から、
塚本勝次郎 と 加藤清作の養嗣子・歳次郎の 2人の中から選ぶことになり、
くじ引きした結果、加藤歳次郎が 副会長を勤めることになった。

これが 明治37年(1904) 12月27日のことである。

かくて教勢は 次第に挽回し、
再び 宮城県一帯に広まって、漸く前途に希望が生まれ、
明治41年(1908) 2月26日、
小栗(市十)会長は辞任し、加藤歳次郎が (仙台支教会)3代会長に就任した。

教会の移転建築(明治23年〜明治26年)

(話は遡るが)
明治23年(1890)、
(益津)支教会所の許しを得て以来、順調に教勢を伸展しつつあった益津は、
信者の増加と共に 敷地教堂の狭隘を覚え(るようになってき)た。

それで、他(の場所)に 移転の議が起こった。

丁度この時、(たまたま)
(静岡県) 藤枝町左車区民から150坪の献地と、熱烈なる 教会移転誘致の懇請があり、ここに 移転建築を決定(した)。

(それで、静岡県) 藤枝市市部 8番地 2反8畝13歩に、
85坪の神殿、並びに 50坪の付属屋の建築に着工した。
(工事)期間は 約1年(を費やした)。

鎮座祭は 明治26年10月22日、開筵式は 23日、
未曽有の盛大さを以って 挙行された。

益津 教勢の停滞(明治28年頃〜明治31年頃)

益津の教勢は、
明治28年頃までは、
近郷はもとより 遠く東京府下・神奈川・山梨・埼玉・千葉・茨城・宮城・岩手、各県にまで伸び、各所に 教会が設置された。
(教勢の伸展に伴い、静岡・甲府の両支教会が、益津から分離した。)

(明治28年頃までは) 益津は順調に発展を遂げていったが、
静岡・甲府 両支教会の分離は、
(小栗)周蔵・市十 会長父子の思いに添い 従ってゆく人々を除いては、
役員の中でも 漸次 遠国布教に対する熱意と希望を失ったばかりか、
地方の布教者も気勢があがらず 黙って見ている、
という状態となった。

(小栗周蔵)会長の諭しにも振い立たず、教勢は 一頓挫の有様となった。
加えて、(小栗)周蔵会長は、何分にも老齢であった。

そこで、明治31年(1898) 7月17日、

おぢばの許しを受けて、(小栗周蔵の長男である) 小栗市十が (白羽支教会長をつとめながら、同時に) 副会長として益津の教務を補佐することになった。

小栗周蔵 初代会長の退職、小栗市十2代会長の就任(明治34年)

(小栗周蔵) 初代会長は、
(高齢のため) 明治34年12月 退職。

同年(明治34年) 12月9日、
(小栗)市十が 白羽支教会長を兼任のまま (益津支教会)2代会長に就任した。

(ちなみに) 
初代会長・小栗周蔵は、
明治38年3月21日、82歳をもって出直した。

小栗清三郎3代会長時代

小栗清三郎の教歴

静岡県周智郡森町、成瀬佐平の 3男・清三郎は、
21歳の時、森町の周智分教会に青年勤めをしていた。

その後、山名詰所に移って勤務中、
山名初代・諸井国三郎の命により、台湾布教に従事した。
更に、 山名2代会長・諸井清麿の指図により、清国厦門に足をのばし、そこで 2年間布教(した)。
しかし、(中国布教)その間に、心臓病を得て、帰国(の運びとなった)。

明治37年、(成瀬清三郎は) 
小栗市十の長女・ぶんの婿養子として迎えられた。

(小栗家に婿入りした清三郎は) 直ちに 病弱の (小栗)市十会長を扶けて、
事務取扱として教務を取り、かたわら 布教に専念した。

小栗市十2代会長の辞任、小栗清三郎の3代会長就任(明治41年)

明治41年 8月26日、
2代会長・小栗市十の辞任に伴い、
(小栗清三郎が) その後を襲って (益津支教会の)3代会長に就任した。

小栗市十2代会長の出直し(明治43年)

明治43年1月5日、
2代会長・小栗市十は 50歳で出直した。

山名大教会長の継承問題 〜 益津支教会は名京大教会所属へ(大正7年〜大正12年)

大正7年(1918)、
山名初代・諸井国三郎出直の後、
大正10年から (山名の)会長継承問題が起きた。

それを受けて、(小栗)清三郎 (益津3代)会長は、委員として各方面に奔走した。

大正12年5月、
山名を分轄して 新たに1教会を創立することで (山名大教会長継承問題は) 解決を見るに至った。
益津は、新たなる名京大教会に所属することになった。

(小栗清三郎 益津3代会長は) 名京大教会 創立委員の1名として指命を受け、
一切をなげうって この新大教会の建設にうちこんだ。

この (小栗清三郎) 3代会長の勇姿に、
(益津の) 留守を預かる役員達も、折からの 40年祭の声に勇み、
教勢の倍加、別科生の募集等も着々進められ、
部内教会 77ヵ所を数えるに至った。

仙臺分教会の分離、益津は本部直属へ(昭和12年)

昭和12年(1937)春、
本部員・村田慶蔵の言葉により、
部内・仙臺分教会を 名京(直轄とし、益津から)分離することを条件の一つとして、
(益津分教会は、名京大教会から分離し) 本部直属となることになった。

昭和12年9月3日、本部の許しを受けた。

益津大教会へ昇格 〜 奉告祭(昭和16年〜昭和17年)

更に 昭和16年4月27日、
(益津分教会は) 大教会陞級の許しを得た。

(そして) 翌(昭和)17年10月14日、
2代真柱の臨席を得て、(大教会陞級)奉告祭を 盛大に勤めた。

小栗源太郎4代会長時代

興津源太郎の経歴

3代会長・小栗清三郎に(は) 実子が無かった。
そこで、
甲府分教会2代会長・興津源助 (前名:太郎吉、後に 源助 襲名) の次男・源太郎が 益津初代 (小栗)周蔵の末女・てる の子供である関係から、
(興津)源太郎を養子として (小栗家へ) 迎えることとなった。
大正8年12月26日、入籍した。

大正15年 日本大学 宗教科を卒業した (小栗)源太郎は、
名京大教会 青年を勤め、
昭和2年 6月より 益津の機構改革により、事務取扱として、
(小栗清三郎)3代会長不在中の一切の教務に携わっていた。

小栗源太郎4代会長の就任 〜 奉告祭(昭和18年〜昭和19年)

昭和18年4月20日、
(小栗源太郎が) 会長職を引継いで、(益津大教会)4代会長に就任。

翌(昭和)19年3月15日、
(4代会長)就任奉告祭を執行した。

小栗清三郎3代会長の退任後 〜 出直し(昭和21年〜昭和26年)

会長職に養嗣子の (小栗)源太郎が就任した後、
(小栗)清三郎3代会長は、
昭和21年6月より、
本部神殿おたすけ掛となり、約5年間勤務。

昭和25年 4月17日、本部准員に登用され、
ぢばへの伏せ込みに 身も心も捧げた。

昭和26年8月7日、
(小栗清三郎3代会長は) 73歳を以て 出直した。

小栗源太郎4代会長就任後(昭和23年〜昭和51年頃)

(小栗)源太郎4代会長は、
昭和23年3月、教区長教区長選挙に当選して 静岡教区長に就任、

昭和25年7月退職したが、
再び 昭和37年から 静岡教区長に就任、以来 連続5期 教区長を勤めた。

小栗一重5代会長時代

昭和51年8月26日、
5代会長に 小栗一重が就任の許しを得た。

(昭和51年)11月16日、
真柱の臨席を得て、(5代会長) 就任奉告祭が執行された。

〔現住所〕〒426-0018  静岡県藤枝市本町4丁目7番地53号
〔電話〕 054-641-0475

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,781〜784)

おわりに

益津大教会Google検索より①
Google 画像検索より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

101回目の今回は、
「益津大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

益津大教会AppleMapより②
Apple Map より

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 益津大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

御前崎の北西榛原郡白羽村で 鰹節製造業兼農業を営む 小栗周蔵の長男・市十は、明治十九年、脇腹より膿が流れ出る症状となった。
市十の義母から「天龍様」を信心したら 命だけはたすかると聞いた。

翌年、諸井国三郎が訪ねて来た。
奥座敷に貼ってあった神仏のお札をはぎ取り、お願いづとめにかかった。
その間、有無を言わせぬものがあった。
終わると 市十に「言葉を返しては 理が戻る」と諭し、おさづけを取り次いだ。

翌日、市十は、新庄村の永井藤平の父親の胸の患いを、杖にすがっておたすけに行った。
そのうち 市十が願えば難病人もたすかるようになり、村人は「市十に狐がついた」と噂した。

二十一年、警察の呼び出しを受け、今後遠州で布教しない約束で釈放された市十は、
「何も遠州だけが神様の世界ではない。世界は広い。警察が許さぬなら、他国は愚か、外国の果てまでも」
と、遠国布教に情熱を傾けた。

藤平と駿河から天城山を越え下田に出た。
市十が引き揚げた後、藤平の丹精で 二十四年、下田講社が結ばれた。

二十二年、山名分教会は 地方庁認可を得て 俄然布教熱に燃え、
駿河国の専任布教者として 六十六歳の白髪の周蔵は、背水の陣を敷いて旅立った。

保福島(現 藤枝市) に住む興津喜太郎宅に宿をとって布教。信者ができるに従い、同地の興津源助 (甲府 初代) 宅へ、八百屋 影山清七 (静岡初代) の家へと転じ、さらに西益津村に西益津布教事務所を設置した。

教会設置の機運が熟したが、白羽の地元では布教が許されぬため、白羽だけでの設置に至らず、大井川を境に東を益津、西を白羽に分け、同時設置となった。
こうして二十三年、益津は 周蔵、白羽は 市十と、父子それぞれの教会として 出発する。

二十三年ごろに 道は 静岡の町へ入り、国三郎の
「県都に直属教会がほしいから 山名直属として取り扱いたい」
との意向を受けて、静岡支教会を設置した。

ところで、山名の奥州布教は、伝道史上、特筆すべきことである。

二十五年、白羽系の 二藤藤一郎が東北布教をめざし、福島駅に下車。
藤一郎の連絡を受けて出向いた市十は、広漠たる地に天理教布教の手が一指も染められていないのに驚き、国三郎に東北地方への大々的布教の必要を力説した。

ここに奥州布教が始まるのである。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,89 ~90)

益津大教会は、名京大教会から分かれた大教会ですね。
名京大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

益津大教会AppleMapより②
Yahoo 画像検索より

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】101回目の当記事では『天理教事典』の中の「益津大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。

益津大教会は、白羽大教会と同時に天理教教会本部に教会設置を出願し、同日にお許し頂いたのですね。

『天理教事典』「益津大教会」解説文の中には、益津支教会と白羽支教会の開設について、次のように書いてありました。

便宜上、大井川を境として、西を白羽、東を益津に分け、
「白羽支教会」は 会長・小栗市十を以て、白羽村の小栗家に、
「益津支教会」は 西益津村郡137番地 (3畝11歩の土地に、建坪48坪) に、会長・小栗周蔵をもって (天理教教会本部へ) 願い出た。

明治23年(1890) 1月13日、(白羽・益津) 同時に 本部の許しを得た。

(『天理教事典』1977年版 P,782)

最初に『天理教事典』「益津大教会」解説文を読んだ時点では、
なぜ、大井川を境として、西を白羽・東を益津に分ける必要があったのだろう? という感じで、
益津大教会と白羽大教会の関係が よくわかりませんでした。

取り急ぎ 当シリーズ未登場の『天理教事典』「白羽大教会」解説文も読んでみました。
しかし 最初の内は、
私が静岡方面の地理に疎く頭が悪いせいで、
東西に分けて それぞれ別の教会を設立した理由を なかなか理解できませんでした。

そこで、『道〜天理教伝道史をあるく』の該当箇所も併せて読んでみました。
『道〜天理教伝道史をあるく』には 次のように書いてありました。

「二十二年、山名分教会は地方庁認可を得て俄然布教熱に燃え、
駿河国の専任布教者として六十六歳の白髪の周蔵は、背水の陣を敷いて旅立った。

保福島(現 藤枝市) に住む興津喜太郎宅に宿をとって布教。
信者ができるに従い、同地の興津源助 (甲府初代) 宅へ、八百屋 影山清七 (静岡初代) の家へと転じ、さらに 西益津村に 西益津布教事務所を設置した。

教会設置の機運が熟したが、白羽の地元では布教が許されぬため、
白羽だけでの設置に至らず、
大井川を境に 東を益津、西を白羽に分け、同時設置となった。

こうして二十三年、益津は周蔵、白羽は市十と、父子それぞれの教会として出発する。」

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,90 )

そこまで読んで、やっと何とか理解できました (^^;)

益津大教会ストリートビューより③
Googleストリートビュー より

私が理解した益津大教会と白羽大教会の設立に至る流れを、
若干の想像を交えて 以下に記述してみます。

小栗市十先生は、難病を諸井国三郎先生におたすけ戴き、そのご恩報じで布教に歩くようになった。
そうしたところ、不思議なたすけが続出した。

益津大教会・白羽大教会の礎を築いた小栗父子は、静岡県榛原郡白羽村の住人。
その小栗父子が布教に励んだこともあって、当然、地元の白羽村で信者が次々と増えた。

しかし 白羽村では、警察からの迫害が強くて 布教の継続が難しくなった。

そこで、小栗父子を中心に信仰に引き寄せられた人々は、地元の白羽村を離れて外部へ布教活動を展開。
その結果、主に東方に道が広がった。

その後、信者が増えて教会を設置することになり、
自然な流れとして、道の広がった東方で教会を設立する段取りが進んだ。

しかし、そもそもは小栗市十先生が身上をご守護を戴いたのが信仰の原点であり、
警察からの反対妨害はあるが、元一日を忘れないためにも白羽村の小栗家において教会としてお目標様を戴きたい、そんな思いを捨てきれなかった。

そこで、
大井川を境として東方を「益津」
西方を「白羽」として
同時に 教会設立の申請を行い、お許しを頂いた。

すなわち、
本来なら、信仰の元一日である白羽村で堂々と教会を設立したかったけれども 難しいものがあったので、
元一日の「白羽村」と、
実際に布教の実があがっている大井川東方の「西益津村」、
その2ヶ所で教会を設立することによって、
【理想】と【現実】の両立を実現した――

大井川をはさんで東西に分け それぞれ別の教会を設立した理由は、そういうものだったのではないだろうか…と 私は理解しました。

後半部分は、かなり私の想像が混じっています。
想像が入っているので、とんでもない勘違いをしている可能性が大いにあります。

ですので、
ひょんなご縁でたまたまこの記事に出会った方の中に、
「詳しい事情も知らずに、何を勝手に想像してるんだ!」
と、不快な思いを抱かれる方があるかもしれません。
そのような方には、深くお詫びを申し上げます。m(_ _)m

いつも、当ブログ内で書いているフレーズの繰り返しになりますが、
あくまでも 当ブログ記事は 自己学習目的で書いたものであり、
何らかの主義主張をする意図はありませんので、
その点、ご了承頂ければ幸いです。

益津大教会AppleMapより①
Apple Map より

今回は、『天理教事典』の中の「益津大教会」についての記述を書き写して勉強したわけですが、
解説文の中に、静岡支教会や甲府支教会、仙台支教会など、実に多くの教会の名前が、唐突に出てくるような感じがしました。
(部外者にはそのように見える…  (^^ゞ

関係者の皆様にとっては自明の関係なのだと思いますが、
部外者で基礎知識の乏しい私は、
山名・名京・益津・白羽・静岡・甲府・仙台…等の大教会の関係性をつかむのに、かなり苦労しました (>_<)

『天理教事典』解説文によると、
もともと「益津」部内だった「静岡支教会」や「甲府支教会」は、
山名大教会が県庁所在地に直轄の教会を持ちたいとの希望によって「益津」から分離して大教会直轄になった、とのこと。

また、
山名の奥州布教の果実として 仙台支教会を開設する運びとなった際には、
益津役員の影山与吉先生が初代会長に就任。
しかし、事情が起きて影山与吉先生は「益津」へ引き揚げることとなり、
しばらくの会長不在期間を経て 小栗市十先生が仙台の益津会長を努めながら仙台の2代会長を【兼務】。
その後、小栗市十先生の健康問題もあり、加藤歳次郎先生が仙台支教会の会長になった、とのこと。

『天理教事典』の短い解説文を読んだだけでも、
組織の形や担当者が、その当時 関係した人々の【思惑】によって、実に様々な変化を遂げていったことがわかります。

諸井国三郎先生を祖とする山名の道は、
天理教における大きく太い道であり非常に多くの人々が関わっているだけに、
山名と名京が分離した経緯なども含めて、本当に 複雑に混みいっていて、
実に「人間臭い」側面がある ということを知らされた気がします。

「斯道会」の勉強をした時にも感じましたが、
組織が大きくなればなる程、関わる人が多くなればなる程、より難しい問題が増えてくるんだなぁ… ということを、改めて しみじみと感じたのでありました。(^^)

益津大教会ストリートビューより②
Googleストリートビュー より

その他にも、
益津所属の、大塚作蔵・竹田良作 両先生が、静岡の清水方面へも布教の足を伸ばす中で、
当時、侠客で名を馳せた「清水次郎長」が 喘息に罹って苦しんでいるところのおたすけに掛かって、
そのおたすけの中で、清水次郎長は、教理を聞いて最後のおたすけの時には 大塚作蔵先生の手をしっかりと握った――という話。

また、
山名初代・諸井国三郎先生が出直した後、山名の会長継承問題が起き、山名を分轄して新たに名京大教会を創設することが決まった際、
小栗清三郎 益津3代会長は 名京大教会創立委員の1名として指命を受け、一切をなげうってこの新大教会の建設にうちこみ、新大教会創設を成し遂げる上で重要な役割を果たした――
という話など、どれもこれも知らない事ばかりでした。

これまで知らなかった多くのことを知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。

益津大教会Yahoo検索より②
Yahoo 画像検索より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「益津大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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