天理教 各教会の歴史探索(第104回)【東肥大教会】『天理教事典』より

「東肥大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号103番「府内大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号104番「東肥大教会」について勉強します。

  1. 東肥大教会(とうひ だいきょうかい)
    1. 山内次三郎 初代会長の生い立ち(安政元年〜明治12年)
    2. 山内次三郎の失明 〜 入信(明治19年〜明治21年)
    3. 井村徳次郎、熊本を去る(明治21年)
    4. 盲目の山内次三郎、命がけのおぢばがえり(明治22年)
    5. 集談所の開設(明治22年)
    6. 集談所 移転、教勢の伸展(明治24年〜明治26年)
    7. 筑紫庄平の大阪滞在 〜 山内忠次郎一行おぢばがえり(明治23年)
    8. 山内忠次郎一行、井村徳次郎との面会、天龍講へ(明治23年)
    9. 山内次三郎と忠次郎、おさづけの理拝戴 〜 更なる教勢の拡大(明治25年〜明治26年)
    10. 九州支教会の開設、東肥支教会へ改名(明治27年)
    11. 天理教教会本部においては山内次三郎が会長、地方庁へは山内忠次郎会長名義で届出=東肥支教会の特異体制(明治28年)
    12. 東肥支教会、初の神殿ふしん 〜 奉告祭(明治28年〜明治30年)
    13. 布教活動の活発化、広がる東肥の道(明治28年頃〜明治41年頃)
    14. 東肥分教会へ昇格(明治42年)
    15. 山内忠次郎2代会長の就任(明治42年)
      1. 山内忠次郎2代会長の教歴
    16. 教勢拡大、相次ぐ新設教会(明治43年頃〜昭和初期)
    17. 山内忠次郎2代会長の出直し、山内次三郎3代会長就任(昭和7年)
    18. 山内次三郎会長の身上、乾光造4代会長の就任(昭和10年)
      1. 乾光造4代会長の教歴
    19. 山内次三郎初代会長の出直し(昭和11年)
    20. 郡山大教会からの分離(昭和15年)
    21. 小森寅生5代会長の就任(昭和16年)
    22. 東肥大教会へ昇格(昭和16年)
      1. 小森寅生5代会長の教歴
    23. 太平洋戦争開戦 〜 熊本大空襲による教会の壊滅的被害(昭和16年〜昭和20年)
    24. 戦災復興教会の先鞭、苦難を乗り越えた戦後復興ふしん(昭和20年〜昭和21年)
    25. 初の詰所ふしん(昭和25年〜昭和28年)
    26. 東肥大教会の移転建築大ふしん(昭和31年〜昭和36年)
    27. 小森寅生5代会長の辞任、小森正信6代会長の就任(昭和37年)
      1. 小森正信6代会長の教歴
    28. 小森正信6代会長就任後 〜 教祖90年祭(昭和37年〜昭和51年頃)
  2. おわりに
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東肥大教会(とうひ だいきょうかい)

東肥大教会ストリートビューより①
Googleストリートビュー より

山内次三郎 初代会長の生い立ち(安政元年〜明治12年)

初代会長・山内次三郎は、
安政元年(1854)10月20日、
伊予の国 (現在の 松山市松前町2丁目) において、山内源十郎・ワカの6男として出生。
少年時代から 他の兄弟と共に、父親の手許で 大工の修業をした。

明治10年(1877) に起きた西南の役は、熊本を灰燼にした。
(その)戦火(が) 治まるや、復興普請の噂は 四国松山へも伝わった。

(山内)次三郎は、
兄・源三郎と共に、本妙寺(への) 参詣と仕事の開拓を兼ねて 熊本へいったのが因となり、明治12年春、一家で 熊本に移り住んだ。

山内次三郎の失明 〜 入信(明治19年〜明治21年)

明治19年5月、(山内)次三郎 33歳の時のこと。

(山内次三郎は) 仕事中(に) 急に 両眼の痛みを覚え、そのまま失明に向かってしまった。
(その後) 1年2ヵ月にわたる入院生活も空しく、(山内次三郎は) 不治の宣告を受けて退院した(のだった)。

医薬に見放された (山内)次三郎は、その後 開眼を願って あらゆる信心を尽くしたが、(はかばかしい回復は見られなかった。

そのような中、たすけの手懸りを求めていた山内次三郎の元へ、天理教の教えがもたらされる日が訪れた。)

明治21年初夏、(山内次三郎は、
奇しき縁で) 中島スエに導かれ、熊本市上林町に派遣されていた天龍講 (郡山大教会の前身) の井村徳次郎の集談所に参拝をし(たのである。

山内次三郎は、井村徳次郎から聴かされた) 教理に (深く)感銘。
即座に 入信を決意した。

井村徳次郎、熊本を去る(明治21年)

明治21年9月、
(熊本市上林町で布教していた) 井村徳次郎が、
無届で多くの人々を集め説教を行い 御供や御札を与えた との理由で、
2週間の拘留処分を受けた。

井村(徳次郎) は、(この節を通して) 教導職を得る必要を痛感して、その手続きをするために、(明治21年) この月(9月)、(熊本を発ち) 大和に帰っ(てしまっ)た。

(そして) その後、井村(徳次郎) が 熊本へ(戻ってくることはなく、また)何等の連絡もなかった。

盲目の山内次三郎、命がけのおぢばがえり(明治22年)

(井村徳次郎が熊本を去った後、
山内)次三郎は、教理を説いてくれた井村徳次郎を、また ぢばを慕う心が、日毎に募っ(ていくのだっ)た。

(そのような思いが抑えきれなくなった山内次三郎は)
明治22年旧正月、
盲目の身でありながら、単独で(おぢばへ) 初帰参した。

このおぢばがえりは、盲目の身では 全く命がけのものであった。

しかし、(おぢばがえりの道中) 次々と不思議なご守護を見るに至った。
(このおぢばがえりを通して、山内次三郎は) 
命をかけた精神の中では、必ず 親神の自由自在の働きによって どんな難しい中でも連れて通って頂ける ということを身を以て学んだ。

(山内次三郎にとって) この大きな体験は、やがて 天理教者として布教をする上での、常に 大きな支えとなった。

集談所の開設(明治22年)

(山内次三郎は) おぢばで 高井猶吉の指導を得て、熊本へ帰ってきた後、
明治22年3月、自宅から程近い (熊本市)上林町の 3軒長屋の1軒を借りて、集談所を開設した。

家賃50銭の この貧弱な借家が、
東肥大教会の始まりとしての 記念すべき場所となったのである。

集談所 移転、教勢の伸展(明治24年〜明治26年)

後年 (山内)次三郎が会長になった後に 手足となって働いた 次兄(の)忠次郎・工藤サダ・ 江藤スエ・斉藤順・筑紫庄平・松岡由清・小山藤九郎など、数十人が (明治)24年頃までに相前後して入信(して、集談所に住み込んだ)。

(それにより、熊本市)上林町の集談所が狭隘となったため、
(まず) 明治24年秋 (熊本市)草葉町に、
更に (明治)26年秋(には、熊本市)長安寺町へと、
次々に 広い家を借りて移転した。

この間、僅か 足かけ5年であったが、
教勢は 熊本市を中心に、飽詫郡の各村、玉名郡・鹿本郡・菊池郡・阿蘇郡の村々へと伸びて行った。

筑紫庄平の大阪滞在 〜 山内忠次郎一行おぢばがえり(明治23年)

明治23年6月、その頃 すでに  (集談所において) 信仰していた 筑紫庄平が、ふたなりもやしの商売で一儲けしようと大阪に出た。
(筑紫庄平は) この大阪滞在中(に) 宿の主人から毎晩のように誘われて、中西金次郎の講社に参拝した(のだった)。

(その後) 熊本へ帰った後の 筑紫庄平から
(山内)次三郎は (縁あって、筑紫庄平が大阪滞在中に授かった教理)の話(を聴く機会があった。
山内次三郎は、筑紫庄平の話)を聞くに及んで、(特に) 教えの順序・信者結成の必要を (強く)感じた。

そこで (山内次三郎は) 明治23年10月、
兄・忠次郎ほか 2名を、自分の代理として おぢばに帰参させた。 

山内忠次郎一行、井村徳次郎との面会、天龍講へ(明治23年)

(山内忠次郎ほか 2名の) 一行は、(おぢばがえりした際) 村田長平宅に滞在して、山本利三郎から仕込みを受けた。

この間、井村徳次郎が「天龍講」派遣の布教師であるところから、
平野楢蔵・郡山分教会長に(山内忠次郎ほか 2名がおぢばがえりしていることが) 伝えられた。
(その後、山内)忠次郎たち3名は 井村徳次郎に巡り合うことが出来、(井村徳次郎から) いろいろと仕込みを受けた。

(山内忠次郎たち3名は、井村徳次郎より) 教えの順序、信徒結成の手順に至るまで詳細に教えを受け、郡山分教会の所属として歩むという心も定まった。

山内次三郎と忠次郎、おさづけの理拝戴 〜 更なる教勢の拡大(明治25年〜明治26年)

教祖の改葬祭に参拝した後、明治25年12月21日、
(山内)次三郎と忠次郎は、おさづけの理を拝戴した。

それからは、(山内)次三郎を中心に 一層 真剣な布教を展開し、
明治26年暮には、700戸の 講社加入があった。

九州支教会の開設、東肥支教会へ改名(明治27年)

こうした中で 教会設置の議が起こり、
(一同は)
明治27年 5月23日、熊本市長安寺町1番地において「九州支教会」設置願を出した。

(そして) 同月(5月)23日付で、山内次三郎を担任として許された。
時に、初代会長・山内次三郎は、41歳であった。

この時(は)「九州支教会」という名称にて許された。
しかし (範囲が広過ぎるとの懸念から、地方庁申請時に 平野楢蔵) 郡山分教会長の指示で「東肥支教会」と改名(した)。

天理教教会本部においては山内次三郎が会長、地方庁へは山内忠次郎会長名義で届出=東肥支教会の特異体制(明治28年)

また、会長名義は、(天理教教会)本部では 山内次三郎として登録したが、
盲目であるため、地方庁出願の際の不都合を考慮して、兄・忠次郎名義をもって届出することの許しを受けた。
(そして、明治)28年4月4日、地方庁より認可された。

以来、(天理教教会)本部では 山内次三郎、地方庁では 山内忠次郎 名義という、特異な形態を示すこととなった。

東肥支教会、初の神殿ふしん 〜 奉告祭(明治28年〜明治30年)

(話は遡るが) 明治28年正月、
(山内)次三郎、忠次郎の 両会長が、熱心な信者 9名を連れて上和(した)。

この時、郡山(分教会) 平野(楢蔵) 会長より、教会建築について懇篤な仕込みを受けた。
(平野楢蔵会長から仕込みを受けた) 一同は、それぞれに堅い決意を定め、熊本へ帰った後、早速 話し合い、同年(明治28年) 2月28日(に) おさしづを仰いで、普請に着手した。

(そして) 明治29年秋には、
神殿95坪・教祖殿15坪・その他 付属建物223坪の普請が 大略 完成。
かくて、同年(明治29年) 11月初旬、(熊本市)楠町へ移転完了(した)。

明治30年旧3月18日、
郡山(分教会)より 平野会長夫妻ほか30余名の来賓を迎えて 盛大に鎮座祭、奉告祭を執行した。

布教活動の活発化、広がる東肥の道(明治28年頃〜明治41年頃)

この東肥支教会、最初のふしんは、部内のゆるぎない信仰の基盤となり、各地で活発な布教が展開された。

(東肥の) 教勢は 次第に伸展して、
明治28年 5ヵ所、(明治)30年 6ヵ所、(明治)34年 4ヵ所、(明治)36年、(明治)38年、(明治)39年、(明治)41年に それぞれ1ヵ所の 教会の新設をみるに至った。

東肥分教会へ昇格(明治42年)

明治41年11月(の) 天理教一派独立に伴う教会規定の変更により、
信者戸数 4,700戸以上・教師数 125名を有する「東肥支教会」は、
(明治)42年 2月5日付を以て 分教会に改称 (昇格)した。

山内忠次郎2代会長の就任(明治42年)

なお、(分教会へ改称) 昇格の出願に当たり、
教務上 不便であるからとの理由で、
同年(明治42年) 2月5日、(山内)忠次郎が2代会長に就任した。

しかし、それは名義上だけで、教会の中心は あくまで (山内)次三郎であった。

山内忠次郎2代会長の教歴

2代会長として就任した 山内忠次郎会長は、
(山内)次三郎が入信して間もない頃、

妻のセンが 妊娠中に病気となり 7ヵ月目の胎児が母胎内で死亡してしまうという (悲しい)出来事があり、(それに伴って セン の) 病状が悪化。
(山内)次三郎に たすけを求めた、というのが入信の動機である。

以来、(山内忠次郎は) 次三郎の片腕となって 苦労を共にしてきた。

教勢拡大、相次ぐ新設教会(明治43年頃〜昭和初期)

分教会に改称した頃から、
それまで 秘密訓令による迫害で 苦難の道を通って来た集談所が、徐々に 表へ現われて(きた。)
明治43年 2ヵ所、44年に 4ヵ所… と(いった具合に)、
明治年間に 24ヵ所の部属教会が設置された。

大正期に入っても、次々に新設され、
特に教祖40年祭には 25ヵ所が新設されて、
大正末期には、部属教会は 60を数えるに至った。

また、教祖40年祭後、海外にも伸びて、
北米・南洋パラオ島・中国大陸上海・台湾などでも、次々に 教会の誕生を見た。

山内忠次郎2代会長の出直し、山内次三郎3代会長就任(昭和7年)

昭和7年(1932) 6月29日、
2代会長・山内忠次郎が、84歳で出直した。

この出直によって、
(昭和7年)翌月(の) 7月23日、任命の許しを得て、
(山内次三郎) 初代会長が 再び 3代会長として就任した。

しかし、これは 単なる手続上の問題(と言えるようなもの)で、
東肥(分教会) の内情には 何等の変化もなかった。

(山内次三郎会長は) 時に 79歳の高齢であったが、
(その年齢を感じさせることのない程) 
昭和普請(の上)に、部内の先頭に立って 獅子奮迅の働きをしていた。

山内次三郎会長の身上、乾光造4代会長の就任(昭和10年)

その後、昭和10年3月、
(山内次三郎会長は) 突然 病気となり、床に臥す身となった。

日ならずして、平野規知雄・郡山大教会(3代会)長を始め、(関係者・縁故者が) 続々と熊本を訪れ、(身上回復の祈りを捧げると共に、今後についての) 話し合いを重ねた。
(その)結果、
この際、(東肥分教会の) 後任(会長)を定め、
(山内次三郎 会長には) 余生を楽に送ってもらおう、ということで相談がまとまった。

(そして、話合いの結果、) 東肥の巡教員として東肥の発展に力をつくした 乾伊蔵の養嗣子・乾光造を(東肥分教会の) 後任(とすること)に決定。
(昭和10年) 4月27日、乾光造が4代会長に就任した。

乾光造4代会長の教歴

乾光造は、
大正9年5月、北九州において単独布教を開始。

福岡県直方市知古298番地に 新入宣教所を設置し、
また 郡山大教会役員としてもその務めを果たしていた。

山内次三郎初代会長の出直し(昭和11年)

昭和11年 2月25日、
東肥 生みの親、山内次三郎が (ついに) 出直した。

(奇しくも、その年は 教祖50年祭の年であり、また翌年には 立教百年祭を控えた 天理教にとって大きな節目の旬であった。

そのような旬に、初代会長の出直しという悲しみの節を見せられた東肥分教会であった)が、(一同は この節から 更に奮起した。) 

教祖50年祭、立教百年祭(の両年祭) を経て、
(東肥分教会の) 部属教会は 82ヵ所 (北米教会 7ヵ所を除く) を有するに至り、なおも 伸展の勢いにあった。

郡山大教会からの分離(昭和15年)

(教勢は伸展していたが) 日華事変が勃発し、
時局の影響を受けて (天理教も) 革新教義時代に突入した。

これに基づいて、郡山(大教会)では、
東肥 ほか 4ヵ所の部内に、分離昇格の命を出した。

しかし、(当初) 東肥(分教会)は、分離に反対の立場であった。

(けれども) 昭和15年4月1日施行された 宗教団体法によって、
(東肥分教会の 郡山大教会からの)分離は 避けがたいものとなった。
(そして、東肥分教会は、郡山大教会から分離することとなった。)

小森寅生5代会長の就任(昭和16年)

(そのため) 乾光造4代会長は (東肥分教会長を) 辞職して 郡山(大教会)に引き揚げ(ることとなっ)た。

後任として、小森寅生が推され、
昭和16年5月27日をもって
(小森寅生が)5代会長に任命された。

東肥大教会へ昇格(昭和16年)

更に、(昭和16年) 6月5日、
東肥(分教会)は 大教会に陞級となった。

小森寅生5代会長の教歴

5代会長・小森寅生は、
11歳の時、ふとしたはずみで足を痛め、骨膜炎となって入院。
手術を重ね、また 湯治・祈願祈禱(を繰り返したが、それ)も空しく、
明治43年、15歳の時、(ついに) 医師から 死の宣告を下された。

(一時は死を覚悟した小森寅生であったが) 安西宣教所の小森マキに導かれ (天理教のおたすけを受けた。
その結果、不思議なご守護を戴き、小森寅生は) 一命をとりとめ(た。
小森寅生は、無い命をたすけられた感激から) 入信。
以来、報恩の念から 布教に励み、26歳にして京都宣教所を設置していた。

昭和7年に 初代・山内治三郎会長が京都に巡教した際、
至宝としていた本席より拝領の羽織を与えて (小森寅生の)長年の労をねぎらうと共に、自分亡き後の 東肥の信仰を托したという。

小森(寅生) は、(他の主要な信者役員に比べると) 年齢的にも (また)信仰の期間も 比較的浅かったが、
布教経験や信仰信念(において)は 右に出る者がなく、
郡山部内からも「他に適当な人なし」と推薦されたのだった。

太平洋戦争開戦 〜 熊本大空襲による教会の壊滅的被害(昭和16年〜昭和20年)

(小森寅生が)5代会長に就任して間もない 昭和16年12月8日、
(大日本帝国海軍の真珠湾攻撃により日本が) 第2次世界大戦突入(したこと)により、
(天理教の) 布教活動は (そこから すっかり)停滞し(てしまった。

そこから 太平洋戦争の戦火はどんどん拡大し、昭和19年頃からは 連合国軍による日本本土への空襲が始まった。
空襲による被害は 東肥大教会のある熊本においても例外ではなく、熊本市は米軍の大空襲に見舞われ)、
昭和20年7月1日、遂には (東肥)大教会神殿 並びに 付属建物のほとんどが焼失し(てしまっ)た 。

また、(東肥)部内にも 次々と被災する教会が現われた。
特に、沖縄地区 8ヵ所の教会は 壊滅的被害を受け、(その後) 消息も絶えてしまった。

戦災復興教会の先鞭、苦難を乗り越えた戦後復興ふしん(昭和20年〜昭和21年)

同年(昭和20年) 8月 終戦を迎え、10月に (おぢばへ)帰参した(小森寅生)5代会長は、2代真柱より復興の内命を受けた。

まだ 戦後の混乱と資材不足から(全く)復興の兆しもなく、また 厳しい建築基準が設けられていた中、
(小森寅生5代会長は) 精力的に関係諸官庁と折衝して、
昭和21年3月、
64坪余の神殿 及び 付属建物の仮普請を完成させ、戦災復興教会の先鞭をつとめた。

この普請は、(東肥)部内を 神一条へ導き、
また、
遠近を問わず 部属全教会長が月次祭に参拝して開かれる「教会長会議」は、部内の成人を一手一つに結ぶ、大きな力となった。

初の詰所ふしん(昭和25年〜昭和28年)

教祖60年祭を期に布教活動が活発になり、
修養科生・別席者の急増から 分離以来 配属されていた郡山詰所は 狭隘をきたすようになった。

(そのため) 昭和25年5月2日、
(小森寅生) 5代会長は、本部の指示のもとに 詰所普請を決意。
(そして) 
(奈良県天理市)三島町92番地の1,824坪の敷地を買収。
創立以来、初めての 詰所普請を開始した。

2代真柱の指示に基づき、信者館は 鉄筋コンクリート建とし、
(昭和)28年10月には完成。
(昭和31年に執行される) 教祖70年祭 帰参信者の受け入れ態勢を整えた。

この詰所普請は、当時の(東肥の)教勢としては大普請であり、(小森寅生)5代会長の心労は 並大抵(なもの)でなかった。
しかし、(小森寅生5代会長は)よく部内を勉励し、部内もまた (小森寅生)5代会長の心に添ってつとめた。

東肥大教会の移転建築大ふしん(昭和31年〜昭和36年)

終戦後、熊本市当局における近代的都市計画により、
(東肥大教会は、熊本市)当局より 道路整備のため 大教会移転を迫られた。

(小森寅生)5代会長は、その後 10数年にわたって交渉を続けたが、
昭和31年、遂に 移転を決意。

(移転先について様々な検討や交渉が行われた結果、
最終的に) 移転地を 熊本市北水前寺町186番地(1,414坪3合8勺) に決定。
ここに、東肥創立以来、かつてない大普請が決行されることとなった。

昭和32年7月26日、移転建築の許しを得、
常勤 約50名 並びに 臨時ひのきしん者によって 移転地の整地整備に入り、
(昭和)33年9月1日、普請は 客殿より着工された。

(普請着工後) 延人員 86,450余名のひのきしんの手によって、
着工以来 満3年2ヵ月の月日を経て、
(昭和)36年10月15日、(無事、教会移転建築ふしんが) 完成した。

主要建物の坪数は、
神殿 階上階下:計 638坪3合6勺2、
客殿 階上階下:計 284坪2合7勺、
その他 付属建物と信者館:延648坪、
以上である。

(昭和36年) 10月18日、
2代真柱祭主のもと 鎮座祭が執行され、
翌(10月)19日 奉告祭が、3千余名の喜びに満ちた参拝者の中に、厳かにつとめられた。

この3ヵ年の (教会)移転建築は、
ふしぎふしん・たすけふしんということを 部内教会に如実に教え、
形の上に(おいて)も、信仰の上においても、東肥の基礎を確立した。

小森寅生5代会長の辞任、小森正信6代会長の就任(昭和37年)

(東肥の教会移転ふしんが見事に完成した後)
この神殿建築に全身全霊を傾け尽くした (小森寅生)5代会長は、
疲労がいつまでも残っているかの如く、完成後、急に弱ってしまった。
(そして) 翌年(昭和37年) の1月、(小森寅生5代会長は) 病を理由に (会長職を) 辞職した。

後任は、
(小森寅生)5代会長を助け、ふしん完成の上に尽くした嗣子・正信と決まった。
(そして、昭和)37年1月26日、
(小森正信が)6代会長に就任した。

小森正信6代会長の教歴

6代会長・小森正信は、
2代真柱の助言のもとに、(昭和)23年3月、東北大学文学部宗教学科へ進んだ。
卒業後は大学院に残り、(昭和)27年文部教官に任官し、文学部助手に就任して研究を続けていた。

(昭和)28年11月、2代真柱の特命を受けて ブラジルに留学。
サンパウロ政治社会大学大学院で 満2ヵ年にわたって、海外における伝道の基礎となる諸々の研究と体験を重ねた。

昭和30年12月、その目的もほぼ達成して帰国。
(帰国後は、東肥の) 神殿ふしんの上に、(小森寅生)5代会長の手足となってつとめた。

小森正信6代会長就任後 〜 教祖90年祭(昭和37年〜昭和51年頃)

(小森正信)6代会長は、(会長就任後)
(小森寅生)5代会長の堅めた基盤の 更なる充実を期す上から、
「教会長会議」の内容を充実し、(山内次三郎) 初代(会長)より一貫して流れる 親への孝行を鮮明にして 部内を導いた。

また、ぢばの声を寸刻も置かず実働出来る態勢を作ることに努力し、青年会・婦人会・よのもと会・少年会の組織を確固たるものにすることに努めた。

(小森正信6代会長は) これらの組織を通じて、部内教会長・後継者を成人に導き、布教所長、講元をも直接仕込む機関を設け、
更に、昭和41年4月(には)、これらの核となる布教師の養成を目指して、大教会内に6ヵ月間の布教研修所を開設した。

かくて、
(東肥大教会では) 修養科生・別席者も年々に増大し、詰所も収容難をきたすようになったので、昭和45年10月26日、詰所新館を増設した。

(それにより、おぢばにおける信者詰所は) 一躍、3倍強の収容能力を持つようになり、(東肥大教会は 万全を期して) 教祖90年祭 帰参者を受け入れた。

(東肥大教会は) 
教祖90年祭後も、更に教会内容の充実につとめつつ、
世界たすけの上に たゆみなき歩みを続けている。


〔現住所〕〒862-0950  熊本市中央区水前寺3丁目11番2号
〔電話〕 096-383-2972

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,599〜601)

おわりに

東肥大教会ストリートビューより⑤
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第104回目の今回は、
「東肥大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

東肥大教会AppleMapより①
AppleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 東肥大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

愛媛県出の山内次三郎は、熊本復興普請に来て大工職の仕事に励むうち、両眼とも膿漏症となった。
絶望していた時、案内されて二十一年、井村徳次郎の集談所へ行った。
その後、熊本を去った徳次郎の後を慕い、盲目の次三郎は 船でおぢばへ向かった。

帰郷後の次三郎のおたすけは 鬼神をも泣かす厳しさに満ちていた。
いんねんの自覚による徹底した通り方を実践し、心に浮かぶ教理を説いたが、それが 的確に相手の心を衝いた。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,102 )

『道〜天理教伝道史をあるく』という本の 巻頭カラーページの中にも 東肥大教会・山内次三郎 初代会長に関する記述がありましたので、こちらの方も、自己覚え書きとして書写します。

熊本の山内次三郎(東肥初代) は 盲目のおたすけ人だった。

明治十九年、三十三歳の五月、大工職の仕事に励むうち、両眼とも膿漏症となった。
絶望の淵にいた時、「信仰は うろたえてはならぬ、長い心をもって続けることが肝心です」と諭され、即座に 入信を誓った。

次三郎は 請われるままに おたすけに出向くようになる。

盲目のため、目となり杖となる人が 必要だった。
その人は 幾人も代わって務めたが、いずれもが、次三郎の、目で見ず耳で聞かず、心で見て聞くおたすけと、現前に現れる親神の御守護の不思議を、まざまざと見て、自らの信仰心をたぎらせた。

江藤スエ(九薩初代)、小森寅生(東肥五代) など、東肥の道は 次三郎の杖となった人々 によって、たすけの輪を広げることになる。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,17 )
東肥大教会ストリートビューより④
Googleストリートビューより

その他、ネット検索する中で、
天理図書館 天理教文献室・早田一郎先生による
「天理教伝道史の諸相(18)熊本、長崎、佐賀の天理教」というファイルの中にも、
東肥大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

九州で最も早く天理教が入ったのが熊本であった。
明治 18年のことだから教会制度のない時代である。
大阪の泉田籐吉の世話で 熊本県人・友井常八は 御在世時代の教祖にお目にかかった。

優しい尊顔を拝し 信仰心を固めた。
熊本へ帰った友井は 以前からの知人・堤豊賀に においを掛け、
大阪からは 天龍講(後の郡山大教会)の井村徳次郎が派遣され、本格的な熊本布教を始めた。

その後は 堤と友井が中心となり、明治27年 熊本支教会を設置。
長崎、佐賀、福岡方面への伝道が盛んとなり、現在では 熊本県より3県のほうに教会が多くなった。

熊本県にはもう一つ、東肥大教会がある。
東肥は 堤、友井と共に 井村徳次郎のもとで信仰していた山内治三郎が、別に作った教会である。

山内は 明治19年頃から盲目になり 救いを信仰に求めていたが、
明治21年、井村に出会い入信した。
山内の信仰は 介添えをする人たちをも感化し、次第に 熊本市内をはじめ 県内各所に広まった。
明治27年、教会設置の折には 九州支教会という名称で本部のお許しを頂いたが、大きすぎるとの懸念から、地方庁申請時に東肥とした。
明治29年の内務省訓令は 本教に大きな影響を及ぼしたが、東肥に関しては、官憲が「盲目の天理さん」と親しみを持ち、厳しい取り締まりをしなかったという。
訓令下では珍しいことである。

(中略)

なお、余談だが、
熊本県にある二つの大教会である 熊本と東肥は 同じ郡山系統として始まったが、
その伝道線の伸びた先は 全く別方向であった。
すなわち、熊本大教会は 熊本県より他県に多く、長崎、福岡、佐賀と 北および西方向に多く伸びた。
それに比べ 東肥は、熊本県内と鹿児島、沖縄と南へ伸びている。

同じ根を持つ二つの大教会だが、伸びた方向が全く別であり、結果的に 伝道線を分担した形になった。

(天理図書館天理教文献室・早田一郎「天理教伝道史の諸相(18)熊本、長崎、佐賀の天理教」より)

東肥大教会AppleMapより②
AppleMapより

東肥大教会は 郡山大教会から分かれた大教会ですね。郡山大教会については、当シリーズ第1回で勉強して 記事を投稿しました。

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】104回目の当記事では『天理教事典』の中の「東肥大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。

今回の『天理教事典』「東肥大教会」解説文は、ちょっと長かった…
なので、今回の書写学習は少し時間がかかりました (^^;)
でも、その分、いろいろ勉強になりました。

東肥大教会初代会長の山内次三郎先生は、
33歳の時に失明されたのですね。

何歳だろうと失明するというのは悲しく辛いことだと思うのですが、
30歳を越える成人になってからの失明というのは、
それまでいろんな経験を積んできて、ある程度世の中のことを広く見渡せるようになってきた年齢でしょうから、とりわけキツかったのではないか、と想像致します。

山内次三郎先生は 失明という身上をきっかけとして天理教にご縁を頂かれたわけですが、
『天理教事典』「東肥大教会」解説文を読む限り、失明をご守護頂いたというわけではなかった。
視力の回復はないながらも、井本徳次郎先生から聴いた教理話に深い感銘を受けて信仰の道に足を踏み入れる事を決断されたとのこと。

これまで当シリーズで勉強する中で、身上をご守護頂けたわけではないけれど教理に感銘を受けて入信したというパターンの歴史をいろいろ学んできましたが、
山内次三郎先生も、そのような 入信パターンだったのですね。

これは、山内次三郎先生が高い霊格の魂をお持ちの先生であられたという事を意味している、と私には見えます。

神様は、
この者なら願い通りの姿を見せずとも ちゃんと教えを聞き分けて着いて来てくれると分かっておられたからこそ、手引きした後もそのままの姿にとどめられたのではないだろうか、
という 気がするのです。

山内次三郎先生に教理を説いた 井村徳次郎先生が警察の拘留処分を受けて熊本を去った後、
盲目の身でありながら、おぢば・井村徳次郎先生を慕って単独でおぢばがえりした という史実は、
山内次三郎先生が お道に深いいんねんをお持ちの先生であられた、という事を意味していると思われます。

『天理教事典』「東肥大教会」解説文には
「このおぢばがえりは、盲目の身では 全く命がけのものであった。」
と書いてありましたが、
山内次三郎先生は 文字通り『命がけ』でおぢばがえりをされたのですね。

社会的に 視覚障害者を支援する体制が 多少は整備された現代社会においてでさえ、
盲目の方が単身で熊本から奈良まで移動するのは並大抵な事ではない!
それが、
社会福祉という思想がまだまだ未発達の明治時代に
九州から大和地方まで、単身で移動されたとは (°д°;)

『天理教事典』には「命がけ」と書いてありましたが、
まさしく「たとえ途中で息絶えてもかまわない」という程の強い覚悟がなければ 旅の第一歩を踏み出すことは 難しいでありましょう。

それほどの困難の道へ、山内次三郎初代会長は 盲目ながらも 第一歩を踏み出された。
そして、無事に、単身 おぢばがえりを成し遂げられた。

『天理教事典』に
「この大きな体験は、やがて天理教者として布教をする上での、常に 大きな支えとなった。」
と書いてありましたが、
きっと、山内次三郎初代会長は、この旅を通して、
「命がけ」で取り組めば どんな困難も乗り越えられる、
との確信をつかまれたのに違いありません。

そしてそれが、その後の山内次三郎初代会長の爆発的なおたすけ活動に繋がり、
それが 今の東肥大教会に繋がっている――
そう考えると、山内次三郎初代会長のこの「命がけ」のおぢばがえりこそが、
今の東肥大教会の 揺るぎなき「礎石」であると言ってよいのではないか、と 私は感じました。

東肥大教会ストリートビューより③
Googleストリートビューより

東肥大教会の最初の名称は「九州支教会」だったということ、知りませんでした。

『天理教事典』によると、
範囲が広過ぎるという理由で、平野楢蔵郡山分教会長指示で「東肥支教会」と改名したとのことですが、
きっと 最初は「自分たちは九州全体を基盤にした教会なんだ」という意識で命名したのでありましょう。
志が高くて 頼もしいではありませんか。

また、山内次三郎 初代会長が盲目である事により、
教会認可対策として 教会設立当初の会長名義は、
天理教教会本部では 山内次三郎、地方庁では 山内忠次郎、
という 二頭体制=特異な形態を取っていた、ということ。
これも 全く知りませんでした。

このようなことは 信仰の本質からは離れた史実かもしれませんが、
こうした 教会設立当初の逸話を知ると、関係者の皆様のご苦労や大変さを、より身近に感じる事が出来るような気がします。(^^)

東肥大教会AppleMapより③
AppleMapより

また、今回の勉強の中で、熊本大空襲によって教会施設のほとんどが壊滅的被害を受けた話は、深く印象に残りました。

これまで、当シリーズの中で何回も、太平洋戦争末期の空襲によって教会施設が被災した歴史を学んできました。
そして、今回の「東肥大教会」学習回においても、
熊本大空襲によって 教会が壊滅的な被害を受けられた事を知りました。

今回の記事作成に当たって、グーグルマップやアップルマップで 現在の東肥大教会の神殿を含めた教会施設の写真を見ました。
それを見ると、今の東肥大教会は、まさしくお城のような立派な建物が建ち並んでいました。
その壮大さには ただ圧倒されるばかりでしたが、
それは、熊本大空襲の壊滅的被害を乗り越えて復興した後に、熊本市都市計画を受けて現在地に移転し設立したという、文字通り 東肥大教会一同の 涙と汗の結晶であるということ。
そのことを、今回の勉強を通して 知ることが出来ました。

そうした様々な多くの苦難の歴史を経て、今の東肥大教会の雄大な姿があるという事実。
当シリーズ記事の締めくくりに いつも出してくるフレーズの繰り返しになってしまいますけれども、
以上のような教会の歴史を知った上で、今の「東肥大教会」の雄姿に触れると、その姿に、より一層の深み・重みが感じられてくる気がします。

東肥大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

その他、
今回の記事作成のためにネット検索して出会った早田一郎先生の「天理教伝道史の諸相(18)熊本、長崎、佐賀の天理教」という記事の中の話も 興味深かったです。

早田一郎先生の記事の中の「熊本」に関する部分を、以下、少し抜き出してみます。

九州で最も早く天理教が入ったのが熊本。
大阪の泉田籐吉の世話で、熊本県人・友井常八が、御在世時代の教祖にお目にかかり、友井常八が熊本に帰った後に布教し、堤豊賀ににをいがかかった。
そこから両名を中心に熊本に道が付き始め、その後、天龍講の井村徳次郎が大阪から派遣され、信者が増え、明治27年に 熊本支教会設立。

一方、その井村徳次郎に導かれた山内治三郎が、同じ熊本で布教して、熊本支教会とは別に、同じ明治27年に設立したのが 東肥支教会。

熊本と東肥は、同じ郡山系統として始まったが、その伝道線の伸びた先は全く別方向となった。
すなわち、熊本大教会は、熊本県より他県に多く、長崎・福岡・佐賀…と 北および西方向に多く伸びた。
それに比べ、東肥大教会は、熊本県内と鹿児島・沖縄…と南へ伸びた。

同じ根を持つ二つの大教会だが、伸びた方向が全く別となり、結果的に伝道線を分担した形になった。

… という、早田一郎先生による解説。
へ〜そうなんだ、という感じで、本当に知らない事ばかりでした。

ちなみに、
【熊本大教会】
設立年月日:明治27年5月23日(『天理教教会所在地録』R186年版より)
地方庁認可:明治27年11月19日(『天理教事典』1977年版より)

【東肥大教会】(設立当初は九州支教会)
設立年月日:明治27年5月23日(『天理教教会所在地録』R186年版より)
地方庁認可:明治28年4月4日(『天理教事典』1977年版より)

『天理教教会所在地録』によると、どちらもご本部のお許しは 明治27年5月23日の同日ですが、
地方庁の認可は 熊本大教会の方がだいぶ早かったのですね。

兄弟教会的な「熊本支教会」の地方庁認可は降りたのに
「九州支教会」の地方庁の認可がなかなか降りなかったので、
それで、九州支教会という名称を東肥支教会に変えて、また、担任を、名義だけ山内次三郎から山内忠次郎に変更して再申請した、という事だったのか…
(詳しく調べたわけではないので もしかしたら違うかもしれませんが)
そういうことだったのか、と自分の中で 腑に落ちたのでありました。(^^)

いずれにしても、これまで知らなかった多くのことを知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。

東肥大教会AppleMapより④
AppleMapより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「東肥大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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