Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号97番「名古屋大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号98番「奈良大教会」について勉強します。
- 奈良大教会(なら だいきょうかい)
- 大和国添上郡中之庄村における講社結成の動き(明治16年頃)
- 天元講 第3号の結成(明治17年)
- 天元組の結成(明治17年)
- 教会設置の動き、集談所の開設(明治24年)
- 教会設置会議、産みの苦しみ(明治24年)
- 難産の末、奈良支教会の開設(明治25年)
- 土地問題 再び(明治25年〜明治26年)
- 念願の教会開設 〜 開筵式(明治25年〜明治26年)
- 春野喜市2代会長の就任(明治36年)
- 奈良分教会へ昇格(明治42年)
- 奈良詰所の変遷(明治44年〜昭和6年)
- 教祖殿の建築(大正5年)
- 北出政吉3代会長の就任(大正8年)
- 奈良中教会へ昇格(大正13年)
- 村田勇吉4代会長の就任(昭和4年)
- 北出孝平5代会長の就任(昭和15年)
- 奈良大教会へ昇格(昭和16年)
- 神殿ふしん、客間ふしん(昭和28年〜昭和29年、昭和41年〜昭和42年)
- 北出孝光6代会長の就任(昭和42年)
- 大教会信者会館ふしん(昭和47年〜昭和48年)
- おわりに
奈良大教会(なら だいきょうかい)

大和国添上郡中之庄村における講社結成の動き(明治16年頃)
明治16年 (1883) 5月、
大和国添上郡中之庄村、沖田源太郎の娘・フジ (13歳) が大病となり(苦しんでいたところ)、
高井猶吉 (または直吉) の おたすけによって、3日目に熱も下がって 平癒(するというご守護を頂い)た。明治16年7月28日、
(添上郡 中之庄村の) 沖田家にて、初めて 講社祭を勤めた。
(そこに) 高井(猶吉)より教えを聞いた人々が集まった。(その中で) 講を結ぶ話が出た。
(一同で話合った結果、)
以後、毎月交代で講社祭を勤める、(という)ことに決まった
天元講 第3号の結成(明治17年)
(そのようにして 中之庄村において 毎月交代で講社祭を勤めていた人々は)
明治17年(1884) 5月28日、
「天元(あまもと)講」第3号 を結成した。同年(明治17年) 9月28日、
森川重太郎が (天元講 第3号の) 講元に推された。
天元組の結成(明治17年)
(以上の) 天元講 3号の中之庄 と
4号(の)窪之庄が合併して、
「天元組」が 結成された。明治17年6月、
(天元組は) 教祖の赤衣を拝戴し、(それを) 礼拝の目標 (めどう) とした。
(その目標 (めどう) は、現在、大教会の教祖殿に奉祀されている)
教会設置の動き、集談所の開設(明治24年)
(その後、参拝者の増加に伴って、天元組においても教会を設置しようという機運が盛り上がった。
そこで、一同で話し合い) 教会を 奈良に設置する(という)方針が固まった。(教会を設置するにあたって) まずは、奈良に集談所を置く、(という)ことに決まった。
(それで)
明治24年(1891) 2月1日、
(奈良県) 奈良町 薬師堂町に 集談所を開設した。(集談所開設後は) 熱心な信者が 1日交代で当直して、(そこを拠点として 奈良)市内を布教した。
教会設置会議、産みの苦しみ(明治24年)
明治24年秋、
高井(猶吉)も出席の上で、
高樋集談所において 教会出願の会議を行った。(しかし) 何回か会議をしても、(議論百出して)具体的な事柄がなかなか決まらなかった。
(意見まとまらず、しばらくの間 膠着状態が続いた)が、
北出政吉が 教会設置のための用材一切を寄付すると発言したことにより (事態が動き出した。北出政吉の意を決した申し出を受けて、
そこから) 皆も 各々 建築参加を申込むようになり、(それを機に、一気に教会設置の話が) 具体化していった。(教会設置の話が進む中で、誰が会長になるかということが問題になった。)
この会議の出席者(は) 38名で、この(会議に出席した)人々で (会長選出方法について)合議した。
その結果、投票で会長候補を決める、ということになった。(そして、投票の結果)
(天元講第3号講元の) 森川重太郎が、36票の多数で (会長に) 選ばれた。会長が決まり、建築問題も見込みがついた。
しかし、設置場所(をどこにするかということ) は、容易に決まらなかった。
(設置場所については) 各村の感情も手伝って、互いに譲らなかった(のである)。
(これには) 高井(猶吉)も困った。その主張の場所と理由は、次の通りである。
1、中之庄:天元講 第3号の信仰の始まった所。
2、窪之庄:土地を献納する。
3、高樋:集談所の許しを得ている。
4、蔵之庄:上街道筋で交通に便である。
5、奈良:将来の発展のため。この 5ヵ所が (教会設置は自らの講社の場所にすべしと) 強硬に主張したため、(教会設置場所問題は) 容易に解決しそうになかった。
(またその) 一方(で)、土地購入費の目途も立たず (身動き取れない状態がしばらくの間続いた。)
難産の末、奈良支教会の開設(明治25年)
(教会設置場所が決まらない状態のまま) 日を送っていたところ、
その現状を知った (奈良県) 川ノ上町の 奥田楢蔵 (染物業) から、
(奈良市) 納院町の 土地 1反歩を 寄付する申し出があった。(奥田楢蔵による土地の寄進によって、教会設置にあたって最後の関門となっていた) 土地問題は (無事に) 解決した(と思われた)。
(そこで一同は)
この土地に 4間に8間の神殿を建てることにして、
明治25年(1892) 1月25日、(教会)設置願書を (天理教)教会本部へ 提出した。
(そして)
(明治25年) 2月9日「奈良支教会」設置の許しを得た。
当時、(奈良支教会内には) 20余りの講社があり、
25大字393戸の信者が 確認されている。
土地問題 再び(明治25年〜明治26年)
(土地問題も解決したものと考え、本部より教会設置のお許しも得て、教会設置の動きを進めていたところ)
(奥田楢蔵から)寄付された土地は、当時 担保に入っていたため 登記出来ない状態で(あることが明らかになった。そのため、
奥田楢蔵から寄進された土地に教会を設立するという事で本部の許しを得て段取りを進めていた一同であったが、
その場所で教会開設するという)予定は白紙に戻され、
(改めて) 他に 土地を探すことになった。(その後) 暫くして、
(奈良市) 井上町に 適当な土地があるとの情報が入ってきた。この知らせを耳にして、(奈良支教会) 役員 相談の上、土地建物を検分。
その結果、建物も余り古くはなく、これに神殿さえ建てれば許しが得られると 皆が同意。(それで) 所有者と交渉し、(井上町の土地を) 400円で買入れた(のだった)。
念願の教会開設 〜 開筵式(明治25年〜明治26年)
(奈良市) 井上町に (ようやく、教会設立に必要な) 土地家屋が買収出来たので、
(改めて、天理教教会)本部へ、移転の願いを行った。
(そして) 明治25年(1892) 8月3日、(再び 教会設立の) 許しを得た。翌・明治26年、早速 5月より神殿建築に着手し、同年(明治26年)末 (無事) 完成。
明治27年4月28日、(奈良支教会の) 開筵式を行った。明治26年12月29日、
和爾分教会が分離して、本部直属となった。
春野喜市2代会長の就任(明治36年)
明治36年(1903) 9月18日、
春野喜市が、2代会長に就任(した)。
奈良分教会へ昇格(明治42年)
(明治)42年1月31日、
天理教一派独立にともない、
奈良支教会は、分教会に昇格した。
奈良詰所の変遷(明治44年〜昭和6年)
明治44年10月25日、
帰参信者のために、信者詰所を建築して開設した。その後の (奈良)詰所(の変遷)は (次の通りである。)
大正14年(1925) 3月30日、豊田に土地を買収して、建築とともに旧詰所を移築。
更に、昭和6年(1931) 10月25日、三島に移転建築をなした。
教祖殿の建築(大正5年)
大正5年1月21日、
(奈良)分教会 教祖殿を落成して 奉告祭を執行した。
北出政吉3代会長の就任(大正8年)
大正8年10月30日、
北出政吉が、3代会長に就任(した)。
奈良中教会へ昇格(大正13年)
同(大正)13年 5月25日、
(奈良)分教会は、中教会に昇格した。
村田勇吉4代会長の就任(昭和4年)
昭和4年12月21日、
村田勇吉が、4代会長に就任(した)。
北出孝平5代会長の就任(昭和15年)
昭和15年6月24日、
北出孝平が、5代会長に就任(した)。
奈良大教会へ昇格(昭和16年)
翌(昭和)16年 3月31日、
(奈良)中教会は、大教会に昇格した。
神殿ふしん、客間ふしん(昭和28年〜昭和29年、昭和41年〜昭和42年)
従来の神殿が手狭で老朽化したため、
昭和28年(1953) 8月より神殿建築に着手し、翌(昭和)29年10月 (無事) 完成。
(昭和29年) 11月18日、(神殿)落成奉告祭を執行した。更に、
昭和41年9月より、客殿建築に着手、
(昭和)42年3月23日 (無事) 完成した。
北出孝光6代会長の就任(昭和42年)
同年(昭和42年) 3月26日、
北出孝光が、6代会長に就任した。
大教会信者会館ふしん(昭和47年〜昭和48年)
昭和47年10月には、
(奈良)大教会 参拝者のために 信者会館建築に着手し、
(昭和)48年11月23日 (無事) 完成した。
【府県別 教会分布】
奈良 10・大阪 3・兵庫 1・山口 12・福岡 1・静岡 1・群馬 16・東京 4・岩手 1。
(※書写者註:『天理教事典』1977年版出版当時)
〔出版物〕
『奈良大教会史 (明治篇) 』
『奈良大教会報』(年2回発行)
〔現住所〕〒630-8317 奈良県奈良市井上町19
〔電話〕 0742-22-7123(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,638〜639)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
98回目の今回は、
「奈良大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】98回目の当記事では『天理教事典』の中の「奈良大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
当記事では『天理教事典』の中の「奈良大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も知らないことばかりでした。
奈良大教会は、
奈良県において 高井猶吉先生からおたすけを受けた人々が 続々と講社を結成していき、
それらが合併することによって 生まれた教会なのですね。
当シリーズにおいて、これまで いろいろな大教会の元一日について勉強する中で、
大教会の元一日には 実に いろいろなタイプがあることを 学んできました。
正確にきちんと調べたわけではありませんが、
私の個人的な印象としては、
奈良県内の おぢばに近い大教会では、主に個人的な縁故を通してあちこちで自然発生的に誕生した講社を【統合】して出来た教会が多く、
それとは異なり、
おぢばから離れた 遠方の教会になればなるほど、ある特定の強い個性を持った布教師を中心にして出来た教会、いわゆる 属人性の強い教会が多い、
という感じがします。
この奈良大教会においても、
もしも、これがおぢばから離れた遠方の教会であったならば、
(教会開設運動を中心になって進めたのは高井猶吉先生におたすけ頂いた人々だったと『天理教事典』に書いてありましたから)高井猶吉先生を初代会長に戴いて まとまろう、
すなわち 高井猶吉先生個人を前面に出した教会設置運動…
という動きになるように思われるのですが、
しかし実際には、
(『天理教事典』によると)高井猶吉先生は、終始一貫、教会を設置する際の「後見人」的な立ち位置を貫き通された とのこと。
全教的な教会設立ムーブメントが起こる中で、
高井猶吉先生におたすけ頂いた人々により結ばれた【講】を統合して 教会になろうとするわけですから、
普通に考えると、
その会長には 高井猶吉先生にお願いしたい という人が多かったのではないだろうか、
という気がします。

以下は、『天理教事典』の記述のみを元にした、私の勝手な想像です。
「天元講」第3号→「天元組」から教会を設置していこう という話になった時に、
高井猶吉先生に 会長就任を打診するような動きもあったのではないだろうか。
しかし、高井猶吉先生は、天理教教会本部の御用が非常に多く 身動きが取れない。
また、教会設立の地が おぢばから比較的近い地域であり、
高井猶吉先生お一人に全面的に付いていくというより、教会が出来た後も、教会とほぼ同じくらいの熱量で それぞれ個人的に おぢばにもつながっていこう という感覚も 強かった。
すなわち、
新しく設立する教会に 強力な中心性(カリスマ的なもの)を求める気持ちが (遠方の教会に比べると)そこまで 強くなかった。
以上のような諸々の要因が作用して、
結果として、
「奈良大教会」の元一日が、これまで勉強してきた奈良県内のおぢばに近い他の大教会同様、おぢばから遠方の教会に比べると教会の属人性が弱い外形として後世の私たちの目に映るのではないか。
そんなふうに感じたのでありました。

当シリーズの中で、今回勉強した「奈良大教会」のような 近辺の講社をまとめて生まれたタイプの大教会を、これまで いくつか勉強してきました。
具体的にどの大教会がそうだったかなぁ…と思い返そうとしましたけれども、記憶が曖昧ではっきりしません。
そこで「天理教 講 教会」でネット検索。
すると、
「天理教ORTHODOX」というサイトの中に、以下のような記事が見つかりました。
(天理教ORTHODOX様、コピペさせて頂きます。ご了承ください m(_ _)m)
「講 ー 教会」
天理教における主な講については、以下の通りである。
()書きは 現教会名とする。【慶応3年頃】
「御神前名記帳」に 矢部村講中、七条村講中 が記されている。【明治8年】
天元講 → ただ、河内で 神楽講、大阪で 真心講 という講も つくられていた。【明治10年代】
真栄講(大縣)、神徳講(古市)、真明講(芦津)、明心組(船場)、天地組(北)、天水組(網島)、恵心組(大江)
〘その他〙
平真講、真誠講、一心講、永続講、敬真講、天徳講、天心講、天恵組、
以上が つくられた。【明治11年】
眞明講 …中山秀司を講元とする【明治13年】
伊豆七条村講中 → 誠心講(治道)
続いて、
積善講(平安)、心実講(城法)、心勇講(敷島)、永神講(梅谷)、天明講(八木)、日の本講(旭日)、天龍講(郡山)、治心講(中和)、大和講(櫻井)、明元講(田原)、
以上が つくられた。【明治17年】
深谷源次郎 = 明誠社より 脱会 → 斯道会(河原町)
また、講を基として教会へとなった教会は、以下の例である。【明治21年】
郡山天龍講 郡山 平野楢蔵
遠江国真明組 山名 諸井国三郎【明治22年】
大阪真明組 芦津 井筒梅治郎
大阪明心組 船場 梅谷四郎兵衛
神戸兵庫真明講 兵神 清水与之助
河内国講社 高安 松村吉太郎
近江国斯道会 河原町 深谷源次郎
阿波国信心組 撫養 土佐卯之助
東京真明組 東 上原佐助【明治23年】
斯道会第2号 宇治田原 西野清兵衛
心勇講 敷島 上村吉三郎
柏原集談所 中河 山本利三郎
朝日組 堺 平野辰次郎【その後】
摂津播磨真明組 端田久吉
播磨以西各国天地組 北 茨木基敬
大阪天恵組 大江
正明講 南海 山田作治郎
心実講 城法 前川喜三郎
誠心講 治道 喜多治郎吉これが全てではないが、今の私の知る限りは この程度である。
天理教ORTHODOX > 「講 ー 教会」より
見づらいかもしれないが、少しでも参考になればと思う。
わかりやすい‼︎
天理教ORTHODOX 様、ありがとうございます。m(_ _)m

「奈良大教会」の母体となったのは「天元組」。
『天理教事典』「奈良大教会」解説文によると、
「天元組」は、明治17年に「天元講」第3号と第4号が合併して出来た、
とのこと。
で、その天元組の母胎となった「天元講」は、
上記の 天理教ORTHODOX > 「講 ー 教会」 記事によると、
明治8年に結成された、天理教の中でも最古の【講】とのこと。
奈良大教会の母体となった天元講第3号と第4号が出来たのが 明治17年とのことですから、
明治8年に奈良方面に「天元講」が出来てそのおよそ10年後ぐらいに奈良大教会の母体が出来た、
ということなのですね。
そう考えると、
「奈良大教会」の元一日は、天理教の中でも最古のものの内に含まれる、
と言えそうです (^^)

「奈良大教会」についての勉強を進める内に、
これまで既に取り上げ済みの、城法大教会や 旭日大教会や 治道大教会も
似たような元一日を持っておられる、
ということが思い出されてきました。
城法大教会については、当シリーズ第33回で、
旭日大教会については、当シリーズ第49回で、
治道大教会については、当シリーズ第61回で 勉強しました。
場所的にも近いし、何か繋がりがあるのかなぁ…と思いながら検索してみたりしましたが、よくわかりませんでした。
城法大教会は、
前川喜三郎先生を講長とする「誠心講」を母体とし、
前川喜三郎先生の後を 市川栄吉先生→山本藤四郎先生が受け継ぎ、
それが後に「城法大教会」にまで発展したのでした。
旭日大教会は、
辻忠作先生を講元とする「日元講」を母体とし、
辻忠作先生の後を 岡本善六先生が受けて講元となり、
それが後に「治道大教会」にまで発展したのでした。
治道大教会は、
喜多治郎吉先生を講長とする「誠心講」を母体とし、
喜多治郎吉先生の後を 矢追楢蔵先生が受けて講長となり、
それが後に「治道大教会」にまで発展したのでした。
上記のような おぢばに近い大教会は、
①数多くの講社をまとめて教会になった、
②その母体となった【講】は、ご本部の重鎮的な先生が「長」であった、
③けれども、教会になる時点で それを内部の別の先生に譲られ、そこからは、新たな責任者を中心として独自の発展を遂げた、
という点で 共通しています。
言葉が適切ではないかもしれませんが、
教会設立の元一日の中に、
いわゆる、人間の頭で考えた「寄せ集め」的な側面があったことは否定できない、と感じます。
人がたくさん集まることで、多くの人がその恩恵を受けたことは間違いないと思いますが、
その一方で、きっと、多くの人が集まったことによる様々な摩擦や苦労も多かったことでありましょう。
今回、『天理教事典』「奈良大教会」解説文の書写学習を通して、
教会設立時の混乱の歴史を知り、
改めて、たくさん集まる人をまとめることの難しさを教えられました。
毎回のように「おわりに」の最後の方に書き添える文章の繰り返しになりますけれども、
そのような歴史を知った上で 今の教会の雄姿を見ると、
その姿に、より一層の重みが感じられる気がします。(^^)

今回の『天理教事典』「奈良大教会」解説文、後半は出来事の簡単な羅列のみでした。
2代会長以降にも間違いなく様々なドラマがあるはずですが、
そのことについての記述がないことは、ちょっと残念でした (>_<)
しかし、教会設立のごくごく初期の歴史については、ほんの少しだけですが 知ることことが出来ました。
有難いことでした (^-^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「奈良大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。






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