天理教 各教会の歴史探索(第99回)【西 大教会】『天理教事典』より

「西 大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号98番「奈良大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号99番「西 大教会」について勉強します。

  1. 西 大教会(にし だいきょうかい)
    1. 西 大教会 始まりの種をまいた種市夫婦について
    2. 西 大教会を生んだ 大阪・三軒家村について
    3. 博多市次郎と義弟・藤次郎のおぢばがえり、不思議なたすけ(明治4年)
    4. 「真心組」の結成(明治8年)
    5. 高田邦三郎「真心組」常任講元に就任(明治20年)
      1. 高田邦三郎の経歴
      2. 高田邦三郎に天理教を伝えた河内福蔵について
    6. 上田定七・岡本善兵衛・美野清六の 真心組 離反(明治20年頃〜明治23年頃)
    7. 西 支教会の開設 〜 正式認可(明治23年〜明治25年)
    8. 高田邦三郎 初代会長の淡路島布教(明治23年~明治24年頃)
    9. 最初の教会移転(明治26年)
    10. 度重なる教会移転(明治36年〜明治38年)
    11. 西 分教会へ改称 昇格(明治42年)
    12. 高田邦三郎 初代会長の出直し(明治42年)
    13. 上原美之八2代会長の就任(明治42年)
      1. 上原美之八の経歴
    14. 改めて 教会移転 新築(明治43年)
    15. 上原美之八2代会長の辞任(大正3年)
    16. 中山慶太郎3代会長の就任(大正3年)
    17. 中山慶太郎3代会長時代(大正3年〜昭和6年)
    18. 西 中教会へ昇格(昭和6年)
    19. 南浜 静4代会長時代(昭和6年〜昭和10年)
    20. 和田俊郎5代会長時代(昭和10年〜昭和13年)
    21. 山田福治郎6代会長の就任(昭和13年)
    22. 西 大教会へ昇格(昭和16年)
    23. 太平洋戦争の戦災による教会施設 焼失 〜 戦後復興 神殿ふしん(昭和20年〜昭和25年)
    24. 山田亀太郎7代会長就任 〜 真心組 講名拝戴百年記念祭後、海外布教の展開(昭和36年〜昭和52年頃)
  2. おわりに
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西 大教会(にし だいきょうかい)

西 大教会ストリートビューより③
Googleストリートビュー より

西 大教会 始まりの種をまいた種市夫婦について

西 大教会の始まりは、明治初年まで遡る。

当時、大阪の西はずれ、三軒家村に、
季節毎に農作物を売りに(きたり)、三軒家の名物・西瓜の種を買いにきたりする 安立村 (住吉大社の近く) の「種市」と呼ばれる夫婦 (本名:前田藤助・タツ) が(いた。

この夫婦は)、元治元年(1864) に入信し、商売のかたわら 親神様の話を取次いで歩いていた。

西 大教会を生んだ 大阪・三軒家村について

(大阪の) 三軒家村は、木津川の下流域にあり 肥沃な土地であった。

なので、この土地の人は、農業を営む者が多かった。
また、三軒家の沖は、北前船の船囲い場でもあった。

博多市次郎と義弟・藤次郎のおぢばがえり、不思議なたすけ(明治4年)

明治4年(1871) の春、
博多市次郎が、
女房の弟・藤次郎が耳の病気で困っており 弟のために手をつくしていたところに、「種市」夫婦から、親神様の話を聞いた。
(そこで、博多市次郎は) 早速、大和の庄屋敷村を訪ねた。

ところが、(博多市次郎がその大和の庄屋敷村を訪ねてみると)
驚いたことに、その屋敷は アバラ家であった。

なので、(博多市次郎は) 中に入らず、外で拝んでいると、
「おやさんが 呼んでいます。お入りなさい」と (屋敷内の者から) 招かれた。
(博多市次郎が招きに) 応じて (屋敷内に)入ると、
教祖は「さぁさぁお入り、よくまぁ帰ってきた。遠いところ疲れたであろう」
と ねぎらいの言葉をかけ、懇ろに諭された。

(教祖から直接ねぎらいの言葉をかけられた博多)市次郎は、急いで三軒家村に帰り、耳の不自由な (女房の弟の) 藤次郎を連れ、(再度) 上和した。

すると、不思議にも、
(両名が) おぢばに到着した時、(博多)藤次郎の耳は、元通り聞こえるようになっていた。

(博多市次郎と藤次郎の) 二人は 有難さに手をとりあって喜び、
その上(で 改めて) 教祖から(直接) 話を聞いて、大阪に帰っ(ていったのだっ)た。

「真心組」の結成(明治8年)

(博多市次郎と義弟・藤次郎の) 二人は、
おぢばで(教祖から直接聞いた)有難い話を、熱心に村の人々に話した。

そうこうする内、いつのまにか 村中が信仰するようになり、
(村人が) おぢばにも 度々 帰るようになった。

こうして 人々の心が寄ったのを 教祖は喜ばれ、
(教祖は、その人たちに)「真心組」の講名を与えた。

こうして、(博多)市次郎・藤次郎を中心に【講】が結ばれた。
明治8年 8月15日のことである。

高田邦三郎「真心組」常任講元に就任(明治20年)

この講 (=真心組) は、(結成以来、ずっと三軒家の) 村中で 回り持ちで講元をつとめていた。
しかし、(時代の変遷と共に) 次第に不便を感じ(ることが多くなり)、常任の講元をおくことになった。

(一同で検討した結果) 
明治20年 9月20日、
大阪市西区松島町2丁目に「真心組」の講員で 船具商を営む 高田邦三郎を (常任の)講元と(定める事と)した。

高田邦三郎の経歴

(高田)邦三郎は、
淡路島の郡家村に 上原与兵衛道胤の 2男として出生(した)。

縁あって、大阪市西区 立売堀の 高田安兵衛の船具店に奉公し、
(その後) 安兵衛の3女・多弥の婿養子となった。

(高田邦三郎は) 体軀は堂々としていたが、どちらかといえば 無口の性格であった。

高田(邦三郎) に天理教を伝えたのは、河内福蔵である。

高田邦三郎に天理教を伝えた河内福蔵について

河内福蔵は、
高田邦三郎の持ち船である千石船 (北海道通いの船で北前船と呼んでいた) の船頭であった。
人一倍 体の大きな人であったが、明治10年頃、病気になった。

(河内福蔵が乗った) 千石船が 大阪の木津川尻に帰港した、ある時(のこと)、
(病気を抱えていた 河内福蔵は) 
当時、(大阪府西成郡の) 三軒家にあった 真心組の (その時の) 講元・博多藤次郎から 天理教の話を聞(く機会に巡り合っ)た。

(明治10年頃から病気に苦しんでいた河内福蔵は、博多藤次郎から)
「誠の心さえあれば、親神様は どんな病気も 必ず救けて下さる」
と 諭された。
(その言葉を受けた河内福蔵は) 一心に 親神様を拝み、(これまでの自分自身の人生を振り返り) さんげをした。
(河内福蔵がさんげを重ねる) に及び、重かった病気は (次第に回復してゆき、遂には) 全快した。

(病気をたすけられた) 河内福蔵は、(ご恩に報いることを念じて) 
家族を (大阪西成郡の) 三軒家へ信仰のため移住させ、
(そしてまた) 自らも、天理教の精神をもって 船頭を勤めた。

河内福蔵の入信は、(その後) 自然(と) 高田邦三郎の耳にも入り、
(河内福蔵の入信に触発されて) 高田(邦三郎)も (また) 信仰するようになった(という次第である)。

上田定七・岡本善兵衛・美野清六の 真心組 離反(明治20年頃〜明治23年頃)

ところで、(真心組内部の話になるが)
これまで「真心組」に尽くしてきた 上田定七・岡本善兵衛・美野清六などは、
(講元を、村中で 回り持ちでつとめるというやり方から 常任者を定めるという形に改めるという) 河内(福蔵)、高田(邦三郎)の動きに、(強く) 反対した(のであった)。

(そのため、上田定七・岡本善兵衛・美野清六の 3名は) 
同年(明治20年) 10月17日の 開筵式にも参拝することなく、
それからは、互いに対立するようになった。

(その後) 明治23年に 西支教会(を) 設置する (※この時は未認可) 運びとなった時にも 意見が合わず、
上田(定七)、岡本(善兵衛)、美野(清六)は、
「西 支教会」の部属としてではあるが、
(西 支教会とは) 別に、(大阪府)西区 三軒家上之町に 自分達で集まって【講】を作った。

しかし、これも (後に)
明治30年6月に起こった「水屋敷事件」に巻き込まれて、
上田(定七)、岡本(善兵衛)、美野(清六)らは、天理教を去ることになる。

西 支教会の開設 〜 正式認可(明治23年〜明治25年)

さて (話は戻って)
「真心組」において、時とともに次第に信者が増加し、役員信徒の中から 教会設置の気運が高まってきた(のだった)。

(それで) 相談の結果、明治23年に
未認可ではあったが「西 支教会」を設置した。

(設立当初は未認可のままであったが)
しかし、設置した教会が (いつまでも)未認可では不都合であるから ということで、
明治25年8月20日、
大阪市西区 立売堀北通6丁目14番地の 高田邦三郎宅において、
天理教「西 支教会」の設置を出願(した)。

出願の結果、正式に、許された。
(地方庁認可は、明治25年11月17日である)。

(西 支教会) 初代会長には、
(真心組 講元の) 高田邦三郎が就任した。

高田邦三郎 初代会長の淡路島布教(明治23年~明治24年頃)

(西 支教会 初代会長に就任した) 高田(邦三郎)は、
生地が 淡路島の郡家村であった。

(そういった) 関係(の)上(から)、
(未認可ながら) 西支教会を開設した明治23年(に)、
郷里での布教を志し、(大阪を離れて)
(生地の淡路島・郡家村の) 隣村の、津名郡 山田村へ 単独布教に出た。

(高田邦三郎 初代会長による 淡路) 布教中、精神病の人が救かったのを皮切りに、教勢は (大いに) 伸長。
同年(明治23年)暮には、(淡路の地に) 神殿建築をするまでに至った。

しかし、(何といっても、この時) 高田邦三郎は (大阪の) 西 支教会の責任者であり、
また、自分の家の船具商の関係もあって、
長期にわたって 淡路に留まることが出来なかった。
(そこで) あとを (淡路の)土地の信者に任せて、(高田邦三郎は) 大阪に引き揚げた。

(ちなみに) 
大阪地方における布教活動は、専ら 河内福蔵が 他の役員と共に行っており、
高田邦三郎 (初代会長)は、(どうやら) あまり携わらなかった模様である。

最初の教会移転(明治26年)

その後、
明治26年11月10日に、
(西 支)教会を、大阪市西区 松島町2丁目270番地へ移転した。

この地には、約10年間 居ることになるが、
当時、高田(邦三郎)会長に助力して 教会発展に尽くした人として、
先の 河内福蔵のほか、宇和島・明石 … 等(の名前)が 挙げられる。

度重なる教会移転(明治36年〜明治38年)

明治36年3月22日に(は)、
(大阪市) 西区 北堀江1番34番地に移転することとなり、許しを得た。

しかし、間もなく、
明治38年3月27日、
同じ (大阪市) 西区の 北堀江5丁目6番地に移転した。

西 分教会へ改称 昇格(明治42年)

この頃、教会の信徒も次第に増加し、部内の宣教所も増加して来たので、
明治42年2月10日、
「天理教 西 分教会」と改称 昇格となった。

高田邦三郎 初代会長の出直し(明治42年)

しかし、
(分教会への改称昇格) その喜びも束の間、
明治42年 2月15日に、
初代会長・高田邦三郎は、
盲腸手術の経過が悪く、腸閉塞にて 出直した。

上原美之八2代会長の就任(明治42年)

初代会長・高田邦三郎は 妻・たねとの間に子供がなかったので、
明治42年4月4日、
2代会長には、
(高田)邦三郎の 妹婿・上原美之八が就任した。

上原美之八の経歴

上原美之八は、大阪市西区 立売堀南通5丁目にて、入信以前より 米穀商を営んでいた。
上原家は、高田に劣らない程の富豪であった。
高田邦三郎の入信によって、その親類であるところから 上原美之八も入信したのである。

(上原)美之八の入信は 明治25年頃のことと思われるが、定かではない。

改めて 教会移転 新築(明治43年)

さて、
西 支教会も、分教会への昇格に伴って参拝者が (日に日に)多く(なっていったが) 
教会建物が民家であったため、(次第に) 狭隘と(感じられるように)なった。

(そこで) 明治43年1月12日に、
新築移転の許しを得て
大阪市港区 九条南通1丁目147番地の2に 教会を(移転して) 新築した。

上原美之八2代会長の辞任(大正3年)

(大阪市港区) 九条南通りへ移って間もなく、
教会の運営に 種々の問題が起こった。

(その) 問題解決のため 
(天理教教会)本部より、増野正兵衛・板倉槌三郎の両名が 遣わされた。

(しかし、それでも事態は)治まらず、
遂に、2代会長・上原美之八は、辞任するに及んだ。

中山慶太郎3代会長の就任(大正3年)

2代会長・上原美之八が辞任したため、
初代真柱の命により、(天理教教会)本部より、
中山慶太郎が
大正3年12月12日、
整理を目的に 後任3代会長として就任した。

中山慶太郎3代会長時代(大正3年〜昭和6年)

この時(=中山慶太郎3代会長就任時) の「西 分教会」の部内教会数は、約20ヵ所であった。

しかし、中山慶太郎が 3代会長 在任期間の17年間に
(教会)数が 40ヵ所になるなど 教勢は (大いに)発展し、教会内容も充実していった。

西 中教会へ昇格(昭和6年)

昭和6年、中山慶太郎が、(天理教教会)本部へ帰ることになり、
この時、西 分教会は、中教会に昇格することになった。

同年(昭和6年) 4月15日、
(西 分教会は) 中教会に 昇格の許しを受けた。

南浜 静4代会長時代(昭和6年〜昭和10年)

続いて、(昭和6年) 4月29日、
南浜 静が、4代会長に就任した。

南浜 (静)は、
当時、西 中教会 部属・吉備支教会(の)2代会長であった。

南浜 (静)は (西 中教会長として) 4年間 在任したが、
昭和10年に 吉備支教会が 西 中教会より分離するにあたり、
(西 中教会) 会長職を辞した。

和田俊郎5代会長時代(昭和10年〜昭和13年)

昭和10年3月30日、
当時、西 中教会 部属・三軒家 宣教所長の 和田俊郎が、
(西 中教会の)5代会長に就任した。

和田(俊郎)の家は、代々 薬種問屋を家業としており、
母の代より 熱心な信者であった。

和田(俊郎)は、3年間在任して、
昭和13年8月18日、出直した。

山田福治郎6代会長の就任(昭和13年)

(和田俊郎5代会長の出直しを受けて) 
昭和13年11月9日、
山田福治郎が6代会長に就任した。

西 大教会へ昇格(昭和16年)

さて、
西 中教会も、年を追うごとに教会内容が充実し、
昭和16年3月31日、大教会に昇格した。

この頃、(大阪市) 港区 九条南通1丁目147番地の2が、
大阪市制の改制によって、(大阪市) 西区 九条南通1丁目147番地の2に 変わった。

太平洋戦争の戦災による教会施設 焼失 〜 戦後復興 神殿ふしん(昭和20年〜昭和25年)

昭和20年3月13日夜、
(西 大)教会は、戦災に遭って 焼失してしまった。

終戦後の 昭和23年7月28日、
現在の 大阪市阿倍野区 阪南町1丁目36番16号に移転の許しを得、神殿建築にかかった。
(そして) 昭和25年に (無事) 完成し、
10月1日に 鎮座祭、翌2日 移転建築 落成奉告祭を執行した。

山田亀太郎7代会長就任 〜 真心組 講名拝戴百年記念祭後、海外布教の展開(昭和36年〜昭和52年頃)

昭和36年7月26日付で
山田亀太郎が、7代会長に就任(した)。

翌(昭和)37年3月23日、
(7代会長就任)奉告祭を、設立70周年記念祭と兼ねて執行した。

昭和40年12月7日、
(山田福治郎)6代会長(が) 出直(した)。

昭和51年8月24日、
「真心組」講名拝戴 百年記念祭を執行した。

西 大教会は、海外布教にも力を注ぎ、
殊に 台湾には多くの教友を有し、
昭和52年4月には、タイのバンコク市に布教拠点としてオフイスを設置。
(そのようにして)「陽気ぐらし世界」の実現に(向かって) 励んでいる。

〔現住所〕〒545-0021  大阪市 阿倍野区 阪南町1丁目36番地16号
〔電話〕 06-6622-4938

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,656〜658)

おわりに

西 大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

99回目の今回は、
「西 大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

西 大教会AppleMapより②
AppleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 西 大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

玄関口大阪【三軒家周辺】

慶応元年、
安立村 (現住吉区) の、花の種を売る種市 (前田藤助) 夫婦が教祖を訪ねた時、
「あんたは種を蒔くのやで。あちこち歩いて、天理王の話をして回るのやで」
とお言葉を頂いた。

以来、行商の傍ら 三軒家や阿倍野、船場方面で にをいがけに努めた。

明治四年ごろ、
木津川沿いの三軒家に住む 博多市次郎は、義弟・藤次郎の難聴が悩みの種だった。
そこへ 種市が来て、神様の話を伝えた。

市次郎は、早速 お屋敷へ詣った。
二度目に当人を連れて行くと、耳が聞こえるようになった。
感激した二人は、会う人ごとに 霊救を伝えた。
教祖から、真心組 という講名を頂いた。

十年ごろ、
千石船の船長・河内福蔵は 難病にかかっている時、
藤次郎の「誠の心さえあれば 必ずたすかる」という一言に 心を動かされた。
福蔵より 千石船の船主で 船具商を営む 高田邦三郎へ伝わり、
後に 西大教会となる基盤ができた。

船乗り・土佐卯之助を導いたのも 藤次郎。
撫養の元一日は、三軒家から 始まる。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,70〜71 )
西 大教会ストリートビューより④
Googleストリートビューより

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】99回目の当記事では『天理教事典』の中の「西 大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

当記事では『天理教事典』の中の「西 大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も知らないことばかりでした。

西 大教会の母体は「真心組」で、その真心組を結成する際の中心人物は、博多市次郎先生と義弟・藤次郎先生。
その博多市次郎先生と藤次郎先生に初めてお道の話を伝えたのが「種市」こと前田藤助・タツ 夫妻。
すなわち、西大教会の最初の種を蒔いたのが「種市」夫婦だったのですね。

いろいろ検索していると、「種市」夫婦については、『稿本天理教教祖伝逸話篇』に名前が出ていることがわかりました。

13. 種を蒔くのやで

摂津国安立村に「種市」という屋号で花の種を売って歩く前田藤助・タツという夫婦があった。

二人の間には、次々と子供が出来た。
もう、これぐらいで結構と思っていると、慶応元年、また子供が生まれることになった。
それで、タツは、大和の国に、願うと子供をおろして下さる神様があると聞いて、大和へ来た。
しかし、そこへは行かず、不思議なお導きで、庄屋敷村へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。
すると、教祖は、「あんたは、種市さんや。あんたは、種を蒔くのやで。」と、仰せになった。
タツは、「種を蒔くとは、どうするのですか。」と、尋ねた。
すると、教祖は、「種を蒔くというのは、あちこち歩いて、天理王の話をして廻るのやで。」とお教えになった。
更に、お腹の子供について、「子供はおろしてはならんで。今年生まれる子は、男や。あんたの家の後取りや。」と、仰せられた。

このお言葉が胸にこたえて、タツは、子供をおろすことは思いとどまった。
のみならず、夫の藤助にも話をして、それからは、夫婦ともおぢばにへ帰り、教祖から度々お仕込み頂いた。
子供は、その年6月18日安産させて頂き、藤次郎と名付けた。

こうして、二人は、花の種を売りながら、天理王命の神名を人々の胸に伝えて廻った。

そして、病人があると、二人のうち一人が、おぢばへ帰ってお願いした。
すると、どんな病人でも次々と救かった。

いろいろ検索する中で、天理大学附属天理図書館・天理教文献室、早田 一郎先生の『天理教伝道史の諸相(6)〜大阪の天理教』というファイルを見つけました。

大和川の北岸、紀州街道沿いに安立(現住之江区)という村があり、幕末の慶応期、種市という屋号の種屋夫婦(前田藤助・タツ)が住んでいた。

タツがお腹の子を堕胎しようと霊験あらたかな神様を捜し歩いていると、大和庄屋敷の神様の噂を聞いた。
行ってみると「家の跡取りだから産むよう」諭され 安産したという。
お礼に行くと「種を売り歩くように、神様のご守護の話しをして歩きなさい」と教祖から諭され、商売をしながら 神様の話を説いていた。
この種市から勧められ入信したのが 三軒家(現大正区)の博多市次郎、藤次郎(義)兄弟と本田(現西区)の 井筒梅次郎である。

三軒家は、木津川河口の村で 農業と北前船などに関係する人たちが住んでいた。
明治4年、博多市次郎は 藤次郎の耳が不自由なので困っていたところ 種市から勧められ、藤次郎と共に 教祖の元に帰り ご守護頂いた。
熱心に信仰、布教するうち、三軒家の人たちや北前船の船主、船頭などが入信した。
この三軒家の信仰から 現在の 西大教会へつながっていく。

また、船頭時代にここで入信した 土佐卯之助は 撫養大教会初代会長になる。

本田の 井筒梅次郎は 萬綿商を営む商人だった。
明治12年、娘の身上の患いで悩んでいた時、隣人の紹介で 種市がおたすけに来てくれ 娘は回復した。
それまでの修験道信仰をやめ、天理教信仰者として道を歩むことになる。
井筒は 後に芦津大教会を興す。

 本田はやがて「本田寄所」と呼ばれ、真明組という講名で 遠隔地伝道の拠点になる。
山名大教会、兵神大教会、東大教会、高知大教会は 全て真明組から誕生する教会である。

三軒家、本田に布教した種市は、その後 自ら神様のような振る舞いを始め、やがて 本教から離れることになる(『真明芦津の道』)

西 大教会の母体となる「真心組」設立の中心人物である 博多市次郎先生と義弟・藤次郎先生、あるいは、芦津大教会の 井筒梅次郎 初代会長に、この道を伝えたのが「種市」夫妻。

そして、この種市夫妻を通してお道に出会った 博多市次郎先生と義弟・藤次郎先生の拠点である 大阪・三軒家を通して、撫養大教会の 土佐卯之助 初代会長が この道に出会った――
そういうことだったのですね。

種市夫妻は、
いわゆる、西 大教会、芦津大教会、撫養大教会…といった、今の天理教の中で 一際 大きな存在感を放ち続けている 多くの教会の「元」を創り出す働きをされた方だった。

『逸話篇』の中に、
種市夫妻は、教祖から「あんたは、種市さんや。あんたは、種を蒔くのやで。」とお言葉を掛けて頂いた、と記されていましたが、
「種市」こと 前田藤助・タツ 夫妻は、本当に教祖のお言葉通り、初期・天理教において種まきの役割を担う存在であられたということ、今回の勉強で知ることが出来ました。

そのような 天理教初期の貴重な史実を知った喜びに浸りつつも、
何かにつけて物事をひねくれて受け取りがちな私だからでしょうか、
その一方で、次のような史実もまた 印象に残りました。

それは、
道の初期に それほど大きな役割を果たされた「種市」夫妻が、
後に、自ら 神様のような振る舞いを始め、やがて 本教から離れることになった、
という史実です。

もしかしたら、種市夫妻は、
天理教が どんどん大きくなっていく流れの中で、
「あの、飛ぶ鳥 落とす勢いの教会へは、私が道を付けたんや…」
といった 優越感のようなものが芽生え、
知らず知らずの内に それが肥大化していったのでしょうか。

かつて 自分が道を伝えた人々の栄達を、
無意識の内に まるで自らの功績であるかのように感じるようになっていって
他者の発展を まるで自分の偉大さだと錯覚してしまったのかもしれない、
自分が道を伝えた人々が大きく飛躍する姿を 自分によってもたらされたものだと 錯覚してしまったのかもしれない…

種市夫妻への称賛は、
あくまでも、種市夫妻に導かれて道の上に大きな偉業を成し遂げた人々の陽光を浴びた、いわゆる「月光」のようなものだったにも関わらず、
種市夫妻自身が 自らが太陽であると信じ込んでしまって、それで、自ら 神様のような振る舞いを始め、やがて 本教から離れることになっていったのかもしれない…
あくまでも 勝手な想像に過ぎませんが、私の中に そんな思いが湧き上がってきました。

天理教内に所属する立場の者からの 一方的な視点であることは 重々承知していますが、
この史実を通して、個人的に、何事も「謙虚」ということが大切だなぁ… という感想を 改めて抱いたのでありました。(^^)

西 大教会AppleMapより①
Apple Mapより

西 大教会の母体は「真心組」とのこと。

西 大教会の母体である「真心組」が結成されたのは明治8年とのこと。
前回98回「奈良大教会」の勉強をした際に【講】について少しだけ勉強しましたが、
奈良大教会の母体の「天元講」が結成されたのも明治8年頃とのことで、
「真心組」は、それと並ぶ、本当に お道の初期の初期に出来た【講】であることを知りました。

で、ずっと、「真心組」の講元は、村中 回り持ちで運営していた。
そこから、高田邦三郎先生を 常任の講元に定めたのが 明治20年とのこと。
すなわち、【講】結成、12年後の組織大改革!

十年一昔という言葉もありますが、
12年間も 村中 回り持ちで運営していた講元を 一人に定めるにあたっては、
きっと様々な異論が噴出したであろう、ということが 容易に想像されます。

例えが適切かどうかわかりませんが、
ずっと回り持ちで担当していた「町内会長」を 特定の人物に固定する――
みたいな感じだったのでしょうか。

そのことに不満を覚えた 上田定七・岡本善兵衛・美野清六先生が、
後に「西 支教会」を離反して、「水屋敷事件」に関わり天理教を去っていった、
と『天理教事典』「西 大教会」解説文には書いてありました。

いつの時代でも、長年のしきたりというか 慣習を変更するのは、大変なことなんだなぁ… と感じます。

人間一人の個人が変わることすら容易なことではないわけですから、
ましてや 大勢の人間が集まる「組織」を変えるというのは「並大抵なことではない」ということを 改めて教えられる気がします。

西 大教会ストリートビューより⑤
Googleストリートビューより

その他にも、
高田邦三郎 初代会長は、生地が 淡路島であった関係の上から、西支教会を開設した明治23年に郷里での布教を志した史実、

――高田邦三郎 初代会長が、大阪を離れて生地の淡路島へ単独布教に出て神殿建築をするまでに至ったものの、
自身が大阪の西 支教会の責任者であり、また 自分の家の船具商の関係もあって
長期にわたって淡路に留まることが出来ないため、
そのあとを 淡路の土地の信者に任せて 大阪に引き揚げた――

という話など
どれもこれも知らない事ばかりでした。

いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。

西 大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「西 大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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