Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号96番「肥長大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号97番「名古屋大教会」について勉強します。
- 名古屋大教会(なごや だいきょうかい)
- 近藤嘉七 初代会長の経歴
- 近藤嘉七 初代会長の入信、集談所の開設(明治24年)
- 名古屋出張所の結成(明治28年)
- 越後〜東北布教(明治27年頃〜明治33年頃)
- 名古屋支教会へ昇格、教会移転(明治33年)
- 上級 湖東分教会の分離昇格・神殿 教祖殿ふしんへの伏せ込み(明治35年)
- 名古屋分教会へ昇格(明治42年)
- 内務省秘密訓令発令・東北飢饉による苦境 〜 湖東部内教会の大整理(明治29年頃〜大正12年頃)
- 教会移転 〜 窮地脱却を目指した奮闘(大正4年頃〜大正11年頃)
- 近藤嘉七 初代会長の辞任(大正11年)
- 森井治三郎2代会長の経歴
- 佐治登喜治良の嵯峨講社結成 ~ 森井治三郎のおぢばがえり(明治20年頃~明治22年頃)
- 名古屋分教会2代会長就任までの森井治三郎 信仰歴(明治22年頃~大正12年)
- 森井治三郎2代会長の修理丹精、教祖40年祭活動(大正12年~大正15年)
- 上級・湖東大教会の動き ~ 森井治三郎2代会長の出直し(大正12年~昭和5年)
- 森井次一3代会長の経歴
- 名古屋大教会へ昇格、会長変更願の却下(昭和16年)
- 戦災、戦後復興(昭和20年〜昭和21年頃)
- 教会移転、神殿ふしん(昭和23年頃)
- 社会事業の展開〜教祖70年祭活動(昭和20年代〜昭和31年)
- 負債の表面化、森井次一3代会長の辞任(昭和32年)
- 森井敏晴4代会長による負債問題への対応 〜 神殿ふしん(昭和32年〜昭和34年頃)
- 教祖80年祭前後、積極的な海外展開(昭和36年頃〜昭和44年頃)
- 教祖90年祭活動(昭和47年頃〜昭和51年頃)
- おわりに
名古屋大教会(なごや だいきょうかい)

近藤嘉七 初代会長の経歴
名古屋大教会 初代会長・近藤嘉七は、
元治元年(1864) 4月6日、
新潟県 西蒲原郡 中野小屋村笠木で、
近藤嘉平太の次男として生まれた。(近藤)嘉七は、16〜17歳の頃、
新潟市番内小路で、大工業をしていた姉婿に当たる近藤徳蔵のもとに弟子入りした。その後、(近藤嘉七は) 新潟一帯に流行した 赤痢に罹ってしまった。
呻吟すること数日の中、
当時 新潟で出張所を設けていた鴻田忠三郎のおたすけを受けて一命を取り止めることが出来た。約3年の間 大工業に励んだ (近藤)嘉七は、
程なく福島市に出て、棟梁・三上菜のもとで働いた。
(そして) 明治22年(1889) 頃、
同家(三上家)で知り合った みてと結婚して、名古屋に旅立った。(新潟で生まれ育ち、福島でみてと出会った後) 名古屋に進出した (近藤)嘉七は、
(名古屋では) 多くの仕事を手掛けて 生計を立てた。
近藤嘉七 初代会長の入信、集談所の開設(明治24年)
(名古屋に出た近藤夫妻であったが)
明治24年(1891) 5月頃、
妻・みてが 重病に罹ってしまった。(かつて 新潟の姉婿のもとで 大工修行に励んでいた頃に、鴻田忠三郎から 赤痢の身上をたすけられた経験のある 近藤嘉七は、身近に 天理教の存在があるのを知り、藁をもつかむ思いで そこを訪れた。
そこは) 湖東連合集談所(であり、近藤嘉七は、そこ)の 谷田寅吉より 天理教の(教理を聴いた。
そして、ご守護を頂くために) 信仰を志すように、と (谷田寅吉から) 話をされた。(湖東の 谷田寅吉から教理を聞いた 近藤嘉七は) 深く いんねんを自覚し、直ちに、名古屋市七面横町に「集談所」を開設して、布教伝道に励んだ。
(重病だった妻・みて は、病気の進行が止まる 不思議なご守護を頂いた。)
名古屋出張所の結成(明治28年)
湖東部属の「長浜連合集談所」に、岩田金三郎という 信徒がいた。
(岩田金三郎は)
(近藤)嘉七が(「湖東連合集談所」の谷田寅吉から教理を聞き 感銘を受けて 名古屋に)集談所を開設した前年に、
長浜に行った 尾張の種物商・加藤清九郎に 信仰を伝え(てい)た。(加藤)清九郎は、(岩田金三郎から聞いた) 教理に感銘し、
明治25年2月頃、
郷里の尾張国 中島郡 西島村(の) 山中儀三郎宅に 森井治三郎・大久保紋助を招いて、付近一帯の布教に励んだ。
これが動機となって、明治26年12月22日(には) 金城西出張所が 設置された。(その金城西出張所とは別に) 更に、
(加藤清九郎が 森井治三郎や大久保紋助を招いて 布教の拠点とした) 山中家から、(加藤清九郎の) 名古屋の親戚である 日比野家にも 信仰が伝わった。この (加藤清九郎の親戚である 日比野家の) 日比野辰彦を講元とし、
(近藤)嘉七が 講脇となって、(新たな) 講社を 結成した(のだった)。その後、(諸般の事情から、近藤)嘉七が講元となり、
明治28年(1895) 10月17日、
名古屋市 裏門前町549番地に「名古屋出張所」を開設することとなった。同年(明治28年) 2月17日(には)、地方庁の公認を受けた。
越後〜東北布教(明治27年頃〜明治33年頃)
(近藤)嘉七会長は、明治27年頃から、
出身地の新潟 (及び 東北地方) に 布教の重点を置き、伝道に励んだ。義兄・徳蔵を説得し、更に、実弟の住む米沢へと 迅速に教線を伸ばした。
(明治)28年には、北洋出張所を、
同(明治)29年には、中条出張所、外13ヵ所を、
同(明治)31年には、北南出張所、外11ヵ所を、
同(明治)33年には、北塩出張所、外9ヵ所、
以上を相次いで設置し、
後世に揺るがぬ「名古屋」の基盤を築いた。
名古屋支教会へ昇格、教会移転(明治33年)
(名古屋の道は 飛躍的に伸び広がり)
明治33年12月20日付で、
(名古屋出張所は)「名古屋支教会」に昇格した。(また)
名古屋市 中区前津小林字野田1番地に3,837坪 (12,622平方米) という 広大な境内地を得て、移転した。
上級 湖東分教会の分離昇格・神殿 教祖殿ふしんへの伏せ込み(明治35年)
明治35年(1902)、
(上級の) 湖東分教会が 河原町から分離昇格するに際し、
神殿・教祖殿を建築することとなった。(それを受けて) 名古屋支教会は、用材の寄進に真実の限りを尽くした。
(誠真実 伏せ込みの理をもって)
(近藤)嘉七 初代会長は、
同年(明治35年) 4月3日付で、湖東大教会の 準役員に登用された。
名古屋分教会へ昇格(明治42年)
(明治41年) 天理教の一派独立が公認され、
翌 明治42年 2月5日、
新たな教規の制定により、名古屋支教会は 分教会に昇格となった。
内務省秘密訓令発令・東北飢饉による苦境 〜 湖東部内教会の大整理(明治29年頃〜大正12年頃)
明治29年4月6日、内務省秘密訓令が発令された。
更に、明治35年頃から打続いた 東北地方の飢饉が それに追い打ちをかけ、
新潟、山形等の 多くの部内教会は、次第に、財政的な窮地に追い込まれていった。そうした強い窮状から、(一時は 破竹の勢いを見せた) 教勢も とみに衰えていき、(それは) 名古屋分教会(全体)に、更には、湖東大教会へと 波及し(ていっ)た。
この打開策として、(湖東大教会において) 部内教会の大整理が行われた。
(この部内教会の大整理は) 大正12年(1923) 頃まで続けられ、
その結果、
北洋・中条・栃尾・新発田・南蒲原・北国・津川・若会・浦佐、
以上 10ヵ所は、湖東の直轄となり、
置賜・東置賜・尾花沢・高畑、
以上 4ヵ所は、名古屋の直轄となった。
教会移転 〜 窮地脱却を目指した奮闘(大正4年頃〜大正11年頃)
この難局に対処した(近藤)嘉七会長は、
先ず、財政的に教会の維持運営の縮小を図る見地から、
大正4年(1915) 4月29日、
名古屋市東区千種町字車田2の5に 移転を敢行した。(そして) 部内教会に対しては、教祖のひながたに徹底する指導は勿論のこと、農機具の製造販売などにも当たらせ、窮地の挽回(のため)に、あらゆる策を立てて 糊口を凌いだ。
近藤嘉七 初代会長の辞任(大正11年)
(窮状脱却を目指して全力を注いだ 近藤)嘉七会長であったが、(なかなか事態の改善が進まない状態が続いた。)
(近藤嘉七 会長は) 事態収拾の容易ならざるを見て 責任を痛感し、この上は 上司の指図を仰ぐより他に道がない と決意するに至った。大正11年(1922) 5月26日、
(近藤嘉七 初代会長は)
(名古屋分教会) 会長の職を辞し、湖東大教会役員となって 転住した。(近藤嘉七 初代会長が辞任した後、
大正12年2月25日、森井治三郎が 湖東大教会から派遣され、2代会長に就任した。)
森井治三郎2代会長の経歴
2代会長・森井治三郎は、
元治元年(1864) 1月15日、
滋賀県甲賀郡 水口村 大字新城の 森井勘七・みいの長男として誕生。
気立ての優しい正直者であった。(森井家は) 代々農家ではあったが、
治三郎は、父・勘七の理解から、松尾直善に師事して 一通りの学問を修めた。明治20年(1887) 11月28日、
同郡(甲賀郡) 宮村 大字下馬杉・石橋角兵衛の 3女・はると結婚(した)。
森井治三郎の入信(明治22年)
同(明治)22年 2月上旬のこと、
(森井治三郎は) 弟の寅吉から、(滋賀県) 同郡(甲賀郡) 嶬峨村に珍しい神様のおつとめがあると聞いて (そこを訪れてみた。)
その夜、(嵯峨村を訪れた 森井)兄弟は、代わる代わる 講師から (天理教の) 教理を聞いて 非常に(深い)感銘を受け(た。
その時に受けた深い感銘から、両人は) おぢばがえりを誓って帰宅した。
佐治登喜治良の嵯峨講社結成 ~ 森井治三郎のおぢばがえり(明治20年頃~明治22年頃)
これより先(の)、明治20年(1887) 陰曆正月26日、おぢばで教祖が現身をかくされた頃(のこと)、
(滋賀県) 佐山村大字嵯峨に 佐治登喜治良(という者) がいて、
(その者は) かねてから、大和に不思議な生神様がおられると聞いて、密かに おぢばがえりの機を窺っていた。教祖が御身をかくされた との報を耳にした(佐治)登喜治良は、
(事に至っては) 最早や躊躇すべきでない…と 急ぎおぢばに帰った。
しかし、(その時には) すでに 葬儀も済んだ後であった。(おぢばがえりした 佐治登喜治良は、教祖の葬儀には間に合わなかったものの、改めて) 辻忠作から教理を聞いて さらに この道を歩む) 信念を固めた。
(信仰心を固めた 佐治登喜治良は、滋賀県甲賀郡) 嶬峨に帰り、早々に 嶬峨講社を結成した。
(その後、この嵯峨講社を含めた近辺の講社をまとめた 湖東連合集談所が開設され、それが 湖東大教会へと発展していった。)(前述の通り)
(森井)治三郎は、この 嵯峨講社で 天理教の教えを聞き (深い感銘を受けて)、ただちに おぢばがえりを決行した(のだった)。
名古屋分教会2代会長就任までの森井治三郎 信仰歴(明治22年頃~大正12年)
(教理に感銘を受けておぢばがえりした 森井治三郎は、おぢばから) 帰国後は、逸早く 両親の理解を得て、(愛知県) 新城今郷方面に 布教を始めた。
かくて、(森井治三郎は)
湖東連合集談所を振出しに (着々と成人の歩みを進め、その後には、佐治)登喜治良の補佐役となる程に 周囲の信頼を集めた。
(そして、後の)大正12年2月25日(に) 名古屋分教会の2代会長として赴任するまで、
湖東部内の教勢拡大と その修理丹精に実績を挙げた(のであった)。その中でも、
(明治28年10月12日より明治33年4月26日まで 約5年間つとめた) 筑紫(出張所) の2代会長としての実績、
並びに、
北海道 河東郡 音更村 字クテクウシの開墾事業による 湖東の教勢挽回、
これ等は、特筆すべき功績である。
森井治三郎2代会長の修理丹精、教祖40年祭活動(大正12年~大正15年)
前述の如く
(近藤)嘉七(初代)会長辞任の後を受けて2代会長に就任した (森井)治三郎会長は、
縮小された 名古屋(分教会) 部内の丹精(のため)に、
湖東大教会の理事長たる要職にあって 未曽有の移転建築を抱えながらも、寸暇を惜しんで 教会巡教の旅を続けた。自らに厳しく 他を慈しむ (森井)治三郎会長の人柄によって、
名古屋(分教会) 部内は、教祖40年祭に向けて打ち出された「おやしきの拡張」と「教勢の倍加」の提唱に呼応して(一同が力を合わせ奮闘した。その結果、名古屋分教会も) 次第に活況を呈し(てゆき)、
就任当初 21ヵ所だった教会数は 倍加して 47ヵ所となり、
(見事に) 年祭の御用を果たすことが出来た(のだった)。
上級・湖東大教会の動き ~ 森井治三郎2代会長の出直し(大正12年~昭和5年)
その間、大正12年(1923) には、
(佐治)正隆 (旧名・登喜治良) 湖東(大教会)会長が辞任し、その嗣子・正嗣が (湖東(大教会2代会長に) 就任した。
同(大正)14年5月、(森井)治三郎 (名古屋分教会2代)会長は,、湖東大教会の理事長を拝命(した)。
(また) 昭和3年(1928) 4月には、(佐治)正隆(湖東大教会初代)会長の出直 (という大きな節)に遭遇した。
(そのような慌ただしい中にあっても、森井治三郎2代会長は 道の歩みを緩めることなく)
同(昭和)4年 3月には、役員住宅・信者宿泊所・事務所・炊事場等の工事を終え 仮遷座をするという(程に) 余念のない (濃い) 日々を過ごした。かくの如く、多くの偉業を成し遂げた (森井)治三郎会長は、
昭和5年10月12日、
(名古屋分教会) 在任8年にして 67歳の生涯を終えた。(昭和6年(1931) 3月20日、
森井次一が、名古屋分教会3代会長に就任した。)
森井次一3代会長の経歴
3代会長・森井次一は、
明治23年(1890) 11月12日、
(森井)治三郎の長男として、滋賀県に生まれた。幼少の頃は 湖東(の) 創設時代であり、父と共に、信仰の道をひたすら歩み続けた。
大正元年(1912) 21歳の時、徴兵検査を受け甲種合格となったが 長男に有り勝ちな抽籤逃れとなって 予備役に編入された。
(森井次一は) これを機に、岐阜県大垣在の今福の地で、単独布教を行った。
続いて、大阪天王寺に布教。大正14年1月30日には、
父・(森井)治三郎が身命を賭して開墾した 北海道クテクウシに設置された「鹿追宣教所」の所長に任命された。同年(大正14年) 10月、(佐治)正隆 (湖東大教会) 前会長の奨めにより、宇陽宣教所教人で 東京布教に専念していた 細井イネと結婚し、直ちに大阪布教に着手。
教祖40年祭の旬である大正15年(1926) 3月25日「豊港宣教所」を設置した。昭和5年、父・(森井)治三郎会長の出直に接した。
(それに伴って)
名古屋(分教会) の後任会長をめぐって 種々と論議があったが、これまでの経歴が大きく買われ、
(森井次一が) 最適任として (名古屋分教会後任会長に定まった。)昭和6年(1931) 3月20日、
森井次一が、名古屋分教会3代会長に就任した。
名古屋大教会へ昇格、会長変更願の却下(昭和16年)
昭和15年(1940) 教規の改正から、(名古屋分教会の) 大教会昇格の議が上申されることとなった。
(大教会昇格にあたって、関係者の中で 名古屋の元一日に対する思案が深まった。)(そもそも)2代会長の森井治三郎は、湖東大教会役員として 名古屋分教会の事情整理を担当すべく派遣された会長であり、
(その息子である 森井)次一会長も(また) その後を承け継いだ 同様の湖東大教会役員で(あるという見方も出来た。)(すなわち、森井次一会長は 元々は 名古屋の事情を) 整理(するために派遣された)会長である(とも言える) という理由から、
名古屋が (本部直属の大教会へ) 昇格(する)となれば、(原点に立ち返るという意味でも) 初代・近藤嘉七の後を立てるべきで(ある、とする考え方が浮かび上がってきた。そして、大教会昇格の段取りを進める中で、
近藤嘉七初代会長の)後継者である 近藤政直の取扱いに 焦点が当たるようになった。(森井)次一 (3代)会長は、(思案を重ねた結果、
大教会へ昇格するにあたっては、初代の道を前面に据えるべきとの判断に至り)
近藤政直に会長職を譲り、(自らは) 布教の第一線に立ち帰るべく、(天理教教会本部へ) 辞職願を提出した。(しかし) この運びが (天理教教会)本部に達したところ
「昇格間際の会長変更は 認め難し」との理由により、却下となった。昭和16年3月31日付で、
(名古屋は、湖東から) 分離 (本部直属の大教会へ) 昇格し、
(森井)次一会長が 名古屋大教会長に任命された。その後、近藤政直の戦没が確認されるに及び、近藤家起用の議は薄らいで、
(森井)次一 会長は、
名古屋部内から、名実共に3代会長としての信頼を一身に受けることとなった。
戦災、戦後復興(昭和20年〜昭和21年頃)
昭和20年(1945) 5月17日、
(名古屋大教会は) 焼夷弾の襲撃に遇い、建物の7割を焼失した。しかし、(一同は力を合わせて苦難の中を耐え抜き)
1年後には、仮ぶしんの復興を成し遂げた。
(そして) 創立50周年記念祭を、2代真柱を迎えて盛大につとめた。終戦と同時に教祖60年祭を迎えた (天理教)教団は、復元の提唱に勇み立ち、
(森井)次一(3代)会長は、憩う間もなく部内巡教に奔走した。
教会移転、神殿ふしん(昭和23年頃)
また、(森井次一3代会長は) 手狭な (名古屋市) 車田町から移転を決意し、
(名古屋市) 千種区新池町に境内地7,270坪 (23,991平方米) を買収して(移転。そこに) 神殿を建築した。(そして) 昭和23年(1948) 11月23日、
2代真柱を迎えて 奉告祭を執り行った。
社会事業の展開〜教祖70年祭活動(昭和20年代〜昭和31年)
更に、近隣の布教と教内の子弟育成の上から、社会事業の一つとして「なごや幼稚園」を開設するなど、めまぐるしい程 (活発な)活動を展開した。
(後年、この幼稚園の主治医が縁となって ラオス布教所が開設されるに至った)。しかるに、この積極的な布教活動の反面、戦後の復興に追われて、一部役員の足の運びが遠くなるなど、教祖70年祭の活動に障害となること(も) しばしばであった。
そのような状況の中で、(森井)次一(3代)会長は、確固たる精神を定め、負債を覚悟の上で(積極的な活動を展開し) つつがなく教祖70年祭 (昭和31年執行) を迎えることが出来た(のだった)。
負債の表面化、森井次一3代会長の辞任(昭和32年)
(以上の如く、森井次一3代会長は、確固たる精神を定めて、負債をいとわず 教祖70年祭活動の上に伏せこんだわけだが)
しかし、(教祖70年祭が執行された) その直後には、
(森井次一会長) 覚悟の負債が 現実となって、表面化する事態となった(のだった)。かかる上は、板倉知広世話人の指図を仰ぐより道はない、と衆議一決。
(名古屋大教会) 役員代表 数名が、(板倉知広世話人の元に) 足を運ぶことになった。(板倉知広)世話人の指図により、
昭和32年(1957) 6月26日、(森井)次一 (3代)会長は辞任。
(そして)、その嗣子・(森井)敏晴が4代会長に就任した。
森井敏晴4代会長による負債問題への対応 〜 神殿ふしん(昭和32年〜昭和34年頃)
(森井)敏晴(4代)会長は、多くの負債に対しては、悉く (天理教教会)本部の指示を仰いだ。
(そのような中) 人間思案からするならば 負債に輪をかけたように思える神殿建築の指示(が出た。
森井敏晴4代会長は、それ)を天の声と受け取り、素直に添い切った。(そうした 天の理に添い切ろうとする無私の) 運びの故に、さしもの難局も実に鮮やかに解決し、
昭和34年(1959) 11月24日、
2代真柱を迎えて、待望久しき 神殿建築落成奉告祭を 盛大につとめることが出来た。
教祖80年祭前後、積極的な海外展開(昭和36年頃〜昭和44年頃)
(名古屋大教会) 教祖80年祭活動においては、事情教会の整理と新設教会の増加を計り、所属教会数 79ヵ所の躍進を見た。
併せて、
海外伝道の拠点造りにと、
昭和36年(1961) 12月、伊藤幸売を ブラジルに移民させ、
同(昭和)39年 4月に、安藤節子を メキシコに留学させ、
同(昭和)40年7月には、役員2名を ラオス王国へ視察に送り出した。やがて、これら海外に蒔かれた種は (森井)敏晴(4代)会長自らの 度重なる現地訪問によって、(着々と) 芽生えていった。
昭和45年(1970) 9月11日、ラオス王国の首都ビエンチャンに公認の ラオス布教所が開設され、
同(昭和)48年7月20日には、ブラジルに 名聖布教所が開設された。昭和44年4月以降は、タイ国 及び ラオス王国からの留学生19名を受入れて 天理大学日本語選科に入学させ、卒業後 各種技術を修得させた。
その中(から) 教人に登録されたもの 6名、よふぼくは 8名に達している。(※『天理教事典』1977年版出版当時)
教祖90年祭活動(昭和47年頃〜昭和51年頃)
教祖90年祭に際しては、
布教対策委員会を組織して、布教活動に一手一つの推進を続け、
(昭和51年) 無事 (教祖90)年祭を終えた。現在 (名古屋大教会は)
部内・よふぼく・信者一同が 心を一つに揃えて、世界たすけに邁進している。〔現住所〕〒488-0845 愛知県尾張旭市霞ヶ丘町南292番地
〔電話〕052-798-0111(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,627〜629)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
97回目の今回は、
「名古屋大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中に名古屋大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
新潟生まれの近藤嘉七 (名古屋初代) は、明治二十三年、二十六歳の時、福島でその助大工をしていた大工棟梁の第二夫人・塚原みてと 道ならぬ恋におちた。
みては 色白の新潟美人で、芸者に出ていた時、棟梁に身請けされたもの。
逃避行の末、二人は 名古屋にたどり着いた。ところが、みては 重患になり、鼻は落ち、口はゆがみ、目は失明。梅毒のようであった。
失意の底に呻吟するうち、天理教の布教師 (湖東) がいると聞いた。ワラをもつかむ思いですがると、病の進行は止まった。
話を聞くうちに、嘉七は過去の自分の行いを省み、いんねんの恐ろしさに打ち震えた。
以来、この道に身を投げ出す決心をし、名古屋から三河、岐阜へも 足を伸ばした。
また、郷里で、姉婿の 近藤徳蔵 (北洋初代) にも道を伝えた。嘉七は、二十六年、名古屋市裏門前町の借家に、後の 名古屋大教会の元一日の寄り所を構える。
二十九年に秘密訓令が発令され、その上、三十五年ごろから東北の飢饉が続き、その地に多くの部内教会を抱える名古屋支教会の教勢は壊滅的打撃をうけた。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,92 )
部内大整理が行われ、後任会長として 湖東役員・森井治三郎が任命され、再生した。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】97回目の当記事では『天理教事典』の中の「名古屋大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
名古屋大教会は 湖東大教会から分かれた大教会。
湖東大教会は、河原町大教会から分かれた大教会。
ということで、名古屋大教会は「斯道会」の流れを汲んだ大教会ですね。

名古屋大教会の親教会となる河原町大教会・湖東大教会については、これまで既に勉強して記事を投稿しました。

私は、当シリーズを『天理教事典』1977年版を元にして続けておりますが、
今回の「名古屋大教会」解説文の書き写しでは、最初の時点で、わからないことがいつも以上にたくさんありました。
その最たるものが、近藤嘉七初代会長がなぜ名古屋に行ったのか、という点でした。
『天理教事典』1977年版では、
「約3年の間大工業に励んだ嘉七 は、程なく福島市に出て、棟梁三上菜のもとで働き、 明治22年(1889) 頃同家で知り合ったみてと結婚して 名古屋に旅立った。」
としか書かれてなかったからです。
最初は、近藤嘉七初代会長、福島から名古屋まで えらく遠い所まで出られたんだなぁ…と漠然と読み流しましたが、『道〜天理教伝道史をあるく』を読んで、その理由がわかりました。
『道〜天理教伝道史をあるく』には、次のように書いてありました。
新潟生まれの近藤嘉七 (名古屋初代) は、明治二十三年、二十六歳の時、福島でその助大工をしていた大工棟梁の第二夫人・塚原みてと 道ならぬ恋におちた。
みては 色白の新潟美人で、芸者に出ていた時、棟梁に身請けされたもの。逃避行の末、二人は 名古屋にたどり着いた。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,92 )
単に、気持ちも新たに新天地を求めて…とか、高名な師を慕って…とかいう理由ではなく、
道ならぬ恋に落ちたカップルが逃避行の末に落ち着いた先が名古屋だった、
いわゆる「駆け落ち」だった――
そういうことだったのですね。
で、新たに夫婦関係を結んだ二人が名古屋において心機一転新生活を始めてしばらく後、近藤嘉七初代会長が惚れ込んで駆け落ちまでした みて夫人が、梅毒を発症させ、鼻が削げ落ち 失明してしまった。
文面だけだと 何となく読み流してしまいそうになりますが、
実際の 近藤嘉七 初代会長の立場を リアルにイメージしてみると、
これは、かなりキツい状況であることが 容易に想像されます。
全てを投げ捨て、惚れ込んだ相手と駆け落ちして 新天地に辿り着いた、
さぁこれから 愛する人と新しい人生を切り開いていくんだ!
と思っていた矢先、その愛する人の鼻が削げ落ち、失明してしまった…
もちろん、当事者である みて夫人の苦しみが最大のものであろうことは言うまでもないことですが、
それと同時に、
この時の 近藤嘉七 初代会長の絶望感を思うと、何とも いたたまれない気持ちになります。
そんな 近藤嘉七 初代会長がワラをもつかむ思いで縋ったのが、天理教だった ということ。
『天理教事典』にも『道〜天理教伝道史をあるく』にも 因果関係が明示されていたわけではありませんが、
近藤嘉七 初代会長が 天理教に救いを求めたのは、それは
「かつて自身が 故郷の新潟で 赤痢に罹って生命も危ないところを 鴻田忠三郎先生にたすけて頂いた」という経験――
知り得る史実を時系列に並べると、それが【原点】だった と受けとめるのが自然だと思われます。
もしかしたら、真実は もっと複雑な事情や背景があるのかもしれません。
しかし、私には『天理教事典』と『道〜天理教伝道史をあるく』の たった2冊に書いてあることのみしか材料がないので、それを元にして この記事を書いています。
もしも、この記事を読んで、それは違う!と不快に感じられる方がおられましたら、どうぞご容赦願います。m(_ _)m

少ない材料で根拠が乏しいにも関わらず 勝手に膨らませた想像を書く、という 失礼な振る舞いをしている自覚はありますが、
もう ここまで書いてしまったので、
失礼ついでに、少ない材料を通して私の中に生まれた 近藤嘉七 初代会長「入信の経緯」というものを、もう少しだけ 妄想ストーリーとして 書き連ねることをお許し下さい。
近藤嘉七 初代会長は、駆け落ちまでして惚れ込んだ相方が、鼻が削げ落ち 口は歪み 視力も失うという痛々しい姿になってしまい、失意のどん底に突き落とされた。
そのような時、かつて、故郷で 自らが 赤痢で危ないところをたすけて頂いたことのある 天理教のことを思い出した。
もしかしたら、天理教に縋れば この暗闇から救ってもらえるかもしれない――
ワラをも縋る思いで、天理教の先生を探した。
そのような時に出会ったのが、湖東連合集談所の 谷田寅吉先生だった。
近藤嘉七 初代会長は、湖東連合集談所を訪ねて、谷田寅吉先生に、痛々しい姿となって 苦しんでいる みて夫人を 何とか たすけてほしいと縋った。
湖東の谷田寅吉先生は、必死の思いで救いを求めてきた 近藤嘉七 初代会長に、 いんねんを含めた教理を 懇々と諭された。
この世は 天の理に基づいて成り立っていて、天の理を知り 天の理に従って生きる事こそ 真の幸福の道であること、そして、天の理に添った歩みによって 運命・いんねんを切り替えることが出来る、という 天理教を教理を説いた。
これまで、目に見える出来事に一喜一憂し、いんねん等といった目に見えない世界とは全く縁のなかった近藤嘉七初代会長にとって、
目に見えない世界、天の理が この世を支配している という教えは、全くもって 驚愕的な考え方であり、
絶望感に沈んだ 近藤嘉七 初代会長の心の奥深くまで突き刺さるものだった。
谷田寅吉先生から「天の理が この世を支配しているのだ」という教理を聴いた 近藤嘉七先生は、
自分が愛した人の痛々しい姿、これも、誰が悪いわけじゃない、蒔いたる種は皆はえるという天の理が発現したもの、すなわち自らが蒔いた種がはえた姿だったのだ …そう悟った。
近藤嘉七 初代会長は、自らの いんねんを深く自覚し、
これからは いんねん切り替えの道、通り返しの道を歩むこと、真剣に この道を求めていくことを 決意された。
――ちょっと長くなりましたが、以上、『天理教事典』にも『道〜天理教伝道史をあるく』を元にして、近藤嘉七 初代会長「入信の経緯」の妄想ストーリーを書かせて頂きました。
繰り返しになりますが、
以上は『天理教事典』と『道〜天理教伝道史をあるく』のたった2冊に書いてあることのみを元にした、あくまでも、単なる私の妄想(!) です。
もしも、この記事を読んで、それは違う!と不快に感じられる方がおられましたら、どうぞ ご容赦下さいますよう お願い致します。m(_ _)m

今回の『天理教事典』「名古屋大教会」解説文の書写学習を通して、
名古屋大教会は、名古屋にある大教会なのに、何故 その部内の多くが 新潟や山形などの東北方面にたくさんあるのか、という理由がわかりました。
近藤嘉七 初代会長が 新潟の出身で、奇しき縁で 名古屋に拠点を持つこととなったけれども、
どこまでいっても、心の深いところでは 故郷の新潟などの東北方面と 強く繋がっていたのですね。
名古屋方面で布教に励む一方で、後に 北洋大教会の初代会長となる 姉婿の近藤徳蔵先生など親類縁者の多くが 新潟や山形方面に居られた関係で、北国への布教にも 力を注がれた。
それで、名古屋大教会は、新潟や山形などの東北方面に たくさん部内教会がある ということ。
今回の勉強で、初めて 知ることが出来ました。(^^)

その他にも いろいろ印象に残った史実がありますが、
近藤嘉七 初代会長が 新潟で大工修行していた 青年時代、新潟一帯に流行した赤痢に罹って危ないところを、当時 新潟で出張所を設けていた鴻田忠三郎のおたすけを受けてたすけて頂いたという史実があった ということ。
これは 驚きの史実でした。
新潟大教会については、以前 当シリーズ第94回で勉強して、
その礎を築いた鴻田忠三郎先生は、明治15年3月頃から明治16年1月までの およそ10ヶ月程新潟で布教を行い「(新潟)勧農場の生神様」と崇められた、
ということを知りました。
そのわずかな期間に、近藤嘉七初代会長は 鴻田忠三郎先生と出会っていて、
それで 鴻田忠三郎先生のおたすけで 近藤嘉七先生は 身上(赤痢) のご守護を戴いておられた!
それから およそ10年後に、
近藤嘉七初代会長は 湖東連合集談所を訪ねていき、
それが 後の名古屋大教会へと繋がっていくわけですから、
ある意味、
元一日の深いところで 名古屋大教会と新潟大教会は繋がりがあると言えなくもない…
ということですよね。
この世は、人の知覚を超えた次元で 無数の連鎖を秘めて 相互に作用し合っているのだ、
ということを 改めて 教えられた気がします。

その他、いろいろな史実を知って 勉強になりました。
内務省秘密訓令・東北大飢饉による苦境を打開するため、湖東部内の大整理が行われ、湖東・名古屋・北洋の教会が、大幅な組織改変を行った、という話。
(当時とは 時代背景は異なりますが、世界が大きく変わっている現代においても、大幅な 現代的組織改変が必要ではないのかな、と 思ったりしました (^^) )
また、その難局を打開するため、
近藤嘉七 初代会長は 教会として 農機具の製造販売などにも取組み、
窮地の挽回のためにあらゆる策を立てて 糊口を凌いだが、事態は改善しなかった。
近藤嘉七 会長は 事態収拾の容易ならざるを見て 責任を痛感。
名古屋分教会長の職を辞し、その後、森井治三郎先生が湖東大教会から派遣され 2代会長に就任した、という話。
(これは、これまで 当シリーズの中で 何回か出会ってきた、教会における 信仰活動と経済活動の 対立事例の一つですね。)
名古屋分教会が 大教会に昇格する話が出た時に、
森井次一3代会長が、元一日に立ち返ることを意識して、
大政奉還ではないですけれども、
近藤嘉七 初代会長に繋がりある 近藤家の子息へ会長職を譲るべく 辞職願いを提出した… けれども 天理教教会本部から却下された、という話。
…どれもこれも 知らなかった話ばかりでした。
名古屋大教会、紆余曲折の深い歴史の一端に触れる機会をお与え頂き、感慨深く、とても勉強になりました。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになってしまいますけれども、
以上のような教会の歴史を知った上で、今の「名古屋大教会」の雄姿に触れると、その姿に、より一層の深み・重みが感じられてくるようです。
それと、
名古屋大教会の直接の歴史からは 少し外れますが、
名古屋大教会について勉強する中で、
改めて 湖東大教会の北海道開拓の話に出会い、それも 印象深かったです。
湖東の北海道開拓事業は、当時 湖東役員だった森井治三郎先生が、名古屋2代会長に就任する前に取り組まれた大事業。
湖東として北海道の開拓を行い、それで得た収益を返済に充てた という歴史。
【北海道開拓倶楽部】というサイトの
[鹿追]天理教団体〜この団体の成功は、実に宗教の力にあったというべきであろうという
という記事は、非常に興味深かったです。

その他のことも、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。
いずれにしても、
その他のことも含め、今回もまた、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「名古屋大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。






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