Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号93番「西海大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号94番「新潟大教会」について勉強します。
- 新潟大教会(にいがた だいきょうかい)
- 明治維新後の農業政策、新潟の勧農場について(明治元年頃〜明治13年頃)
- 奈良県 農事通信係の鴻田忠三郎、新潟県 勧農場へ赴任(明治14年)
- 鴻田忠三郎の経歴
- 鴻田忠三郎の娘・りき、眼病治癒のご守護(明治15年)
- 鴻田忠三郎の入信、教祖のお言葉を受け新潟へ(明治15年)
- 新潟での鴻田忠三郎の布教活動(明治15年頃)
- 鴻田忠三郎による斎悟清蔵のおたすけ(明治15年)
- 鴻田忠三郎による新潟布教の広がり(明治15年頃)
- 鴻田忠三郎、おぢばからの要請を受け 新潟から帰和(明治16年)
- 斎悟清蔵とハナによる布教活動の急激な広がり(明治16年〜)
- 池 四郎平 初代会長の入信(明治17年)
- 『道〜天理教伝道史をあるく』に記述された新潟大教会の始まり
- 広がる新潟の道(明治20年頃〜明治24年頃)
- 鴻明講員のおぢば帰り(明治22年)
- 鴻明講の誕生(明治25年)
- 新潟の道の広がり(明治24年頃〜明治26年頃)
- 教勢伸展 〜 新潟支教会の開設(明治27年〜明治28年)
- 苦難の地方庁認可、教勢の停滞(明治28年頃〜明治30年頃)
- 歴代会長略伝
- おわりに
新潟大教会(にいがた だいきょうかい)

明治維新後の農業政策、新潟の勧農場について(明治元年頃〜明治13年頃)
明治維新後の文明開化は、(近代日本に)飛躍的進展をもたらした。
農業王国・新潟においても(それは同様であったが、
ただ、あくまでも) 勧業政策の中心は 鉄道・鉱山・軍事工業などで(あり)、
農業(への勧業)政策は 他(の) 産業程で(は)なかった。(しかし) その後、
新潟県(においては) 樹芸場 (新潟市下所島新田) が設立され、
従来 かえり見られなかった野菜・果実などの栽培法の研究(が進められたり) さらには 水稲の技術改良が進められる等して、
(後回しにされがちだった) 農業政策も、(明治の近代化推進政策の中で 漸次) 改められ(ていっ)た。明治10年(1877)には、
(新潟県においても) 農事試験場が設けられ、
全国より優秀な教師を招き、農業の近代化が進められた。同試験場(農事試験場) は、明治13年1月「勧農場」と改称(され)、
場所も 新潟市出来島新田に移された。
(そして) 教師陣の強化と入学生の大幅増員がはかられ、教科目も 理数一般教養から 農業化学・実際耕作・栽培などに及んだ。
奈良県 農事通信係の鴻田忠三郎、新潟県 勧農場へ赴任(明治14年)
その頃、(奈良県磯城郡川東村 大字檜垣に 鴻田忠三郎という者がいた。
村の村年寄や庄屋などをつとめた) 鴻田忠三郎は、奈良県 農事通信係を命じられ(た。
そして) 明治14年(頃には)「大日本農会」の種芸科農業委員担当を勤めていた。(鴻田忠三郎は) 同年(明治14年) 4月、
大阪府より「新潟県 勧農場」耕作係教師として依頼を受け、(新潟へ) 赴任した。
鴻田忠三郎の経歴
鴻田忠三郎は、
文政11年(1828) 2月22日、
大阪府 南河内郡 埴生村字向野、
高谷利右衛門の 4男として生まれ、幼名を 利吉といった。5歳のとき、奈良県磯城郡川東村 大字檜垣・鴻田長七の養子となり、
32歳にして、神官・守屋筑前の姪・八重子と結婚(した)。3男 誕生の折、(妻) 八重子の死去に遭った。
(その)後に 杉田甚三郎の娘・さき子を後妻に迎え、(さき子との間に) 6人の子供をもうけた。(鴻田忠三郎は) 若くして農事に励み、かたわら 村年寄・庄屋などもつとめた。
(鴻田忠三郎は) 特に(農事に秀でており)
農作物の種子を全国から集めて試作し (それを) 村人に分けるという程であった。
生国・河内から麦種を持ち寄り(改良を重ねて出来上がった麦種は、格別) 収穫(が)多かった。
このため、(その) 麦の名は「河内麦」別名「忠三郎麦」と称せられた。
(そうした実績は 多くの人々から高く評価されており、
鴻田忠三郎は) 県下有数の篤農家と目されていた。明治に入ってからは、村総代や (奈良県磯城郡) 川東村小学校 学務委員を勤め、私財を投じてまで 人々のために尽くし(てい)た。
鴻田忠三郎の娘・りき、眼病治癒のご守護(明治15年)
明治14年末、
(鴻田忠三郎は) 新潟勘農場より年末休暇をもらって、(奈良県磯城郡川東村の実家へ) 帰和した。(鴻田忠三郎が川東村へ帰和してみると)
2〜3年来 眼病に悩んでいた 2女・りきの眼が、いよいよ悪くなっていた。
(なんと、りきの眼は) 医薬の力を以ってしては 失明は時間の問題というまでに進行してしまっ(てい)た(のだった)。翌(明治)15年、
(鴻田忠三郎は)
同村(川東村)・岡田与之助 (後の宮森与三郎) から、(不思議な) 神様の話を聞いた。
(娘が失明してしまうかもしれないという事態の中で深い悲しみに覆われていた鴻田忠三郎は、藁にもすがる思いで)
早速 (岡田与之助に) お願いをして貰った。そうしたところ、
翌朝、(なんと) 娘 (りき) は、手の指や傍らにある品物が うっすら見える様になるというご守護を戴いた(のだった)。(奇蹟的なご守護に感激した 鴻田)忠三郎 夫妻は、
(明治15年) 3月5日、
娘・りきを連れ、お礼参りのため 初めておぢばに帰り (おぢばに) 7日間 滞在した。(おぢば滞在) 3日目、妻・さき子は、子供可愛い上から
「私の片眼差し上げますから、どうぞ 片眼なりとも 娘の眼を治して下さい」
と 親神に願った。
そうしたところ、不思議に(も) その晩より (さき子は) 片眼が失明し、娘・りきの片眼が快癒した。
鴻田忠三郎の入信、教祖のお言葉を受け新潟へ(明治15年)
この不思議なたすけに (鴻田)忠三郎の信仰は深まり (たすけ一条の道を歩む覚悟が定まった。
鴻田忠三郎は) 教祖のもとで働きたいと思い、新潟勧農場に辞職を申し出た。
しかし、(新潟勧農場から辞職の) 許可は出ず、逆に「早々 帰任せよ」と催促される有様であった。身動き取れぬ事態となり弱ってしまった鴻田忠三郎は、今後の身の振り方を教祖に伺った。
(すると) 教祖は
「いても治る。いぬでも治る。汝渡らねば この橋 無駄になる。道の200里も 橋かけてある。その方一人より 渡る者なし」
と 仰せられた。(すなわち)
病人のことなど心配しないで、ちばより 200里(の) 北国 新潟の地に 神名を流すように とのお言葉であった。かくして、
心の定まった (鴻田)忠三郎に、
教祖は、みずから はったい粉・お札などを箱に入れ 背中にかつがせた。かくて、
明治15年3月17日、
新潟の地に「親神天理王命」の神名が流される日を迎え(る事となっ)た(わけである)。
新潟での鴻田忠三郎の布教活動(明治15年頃)
新潟へ帰ってからの (鴻田)忠三郎は、
耕作地に虫がつくとお供えした御神水をまき 鮮やかに御守護頂く姿を見、
(そこから) 布教に出るようになった。当時 流行したコレラが「勧農場」生徒120名の中にも伝染した。
(その際、鴻田忠三郎は) 休暇届が出ると (その者に)神水を授け おつとめをした。
すると 不思議にもたすかるので (鴻田忠三郎は)「勧農場の生神様」と呼ばれ、
勧農関係者を中心に 加速度的に 人々が集まるようになった。後日 (鴻田)忠三郎を自宅に迎えた斎悟清蔵は、(当初、鴻田)忠三郎のことを 池上先生(生神先生) という姓名だと思っていた、というエピソードも伝わっている。
(また) 近郊農家より徳利・竹筒などを持ってお願いに来る人々は 連日 40〜50名を越えたという。
鴻田忠三郎による斎悟清蔵のおたすけ(明治15年)
この年(明治15年) 8月初旬、
白山浦に住む石油採掘業者・斎悟清蔵は、
重い疝気症で苦しんでいたが、治療の効果もあがらず悩んでいた。(斎悟清蔵は) 近所の風呂屋の娘・せきより、
勧農場に 祈禱して頂くと不思議な御利益を下さる神様(が現れたらしい、
と)の話を聞いた。
(そこで、何とか 自分(=斎悟清蔵) の疝気症をたすけてほしい、と) お願いしたところ、早速、(鴻田)忠三郎が駆けつけた。(鴻田忠三郎は)「天理王命」と記された紙を 額の裏に貼付け、それに向かっておつとめをした。
すると 翌朝、不思議にも、さしもの痛みが薄らぎ、頭が持ち上がるようになっていた。
(そして) 3日目に (鴻田)忠三郎が (斎悟家に)来てみると、病人は家人の止めるのも聞かずに石油採取に出掛け(る程 元気になってい)た。
その、あまりにも顕著な御守護には、(おたすけに出向いた 鴻田)忠三郎自身(ですら)も 深く感動した様子であった。
鴻田忠三郎による新潟布教の広がり(明治15年頃)
同年(明治15年) 9月、
天野村・大谷家の依頼で おたすけに出た(鴻田)忠三郎は、留守の間に空巣に入られ(てしまった。
それで、鴻田忠三郎は) 神様と共に「斎悟家」に移り、下宿することになった。(それ)以来、
信濃川対岸の人々が、
「橋銭 往復 2銭あれば どんな難病も救けてもらえる神様が現われた」
と 噂するようになり、遠く (新潟県) 三条・長岡の人々まで (斎悟家に祀られた神様を) 訪れるようになった。
記録では、3日間に 500人の参拝者があったという。その頃、朝市場の商人達の間に、新道に 近頃 化物が出る等と大評判になったが、
(それは 鴻田)忠三郎が 信濃川に飛び込んで 連日 水垢離したこと(によるもの)であった。
斎悟清蔵や塩谷政吉・斎川甚太郎 (いずれも 初期信徒総代) なども (それに)倣ったという。
鴻田忠三郎、おぢばからの要請を受け 新潟から帰和(明治16年)
かくて、(鴻田)忠三郎は 同年(明治15年) 11月10日、
「勧農場」を辞職し、布教専念を決意した(わけだ)が、
(それから) 幾日も経たないうちに、
大和より「至急 帰和せよ」との手紙を受けた。当時、おちばでは、山沢良治郎が病床にあった。
社会的人材の必要性から (鴻田)忠三郎に 帰和することを求めたのである。(鴻田)忠三郎は、(おぢばからの帰還要請を受けて)
翌(明治)16年1月13日、東京経由にて 帰和した。
斎悟清蔵とハナによる布教活動の急激な広がり(明治16年〜)
この時 (=鴻田忠三郎が新潟からおぢばへ戻った時)、
教祖は
「北の国1本の柱、北半国は1本の柱にまかせる」
と 仰せになった。(これ)以後、斎悟清蔵と (その)養女・ハナを中心として、新潟の伝道線は伸展する。
(新潟布教の先駆者である鴻田忠三郎は新潟を離れてしまったが、
鴻田)忠三郎が去った後も (斎悟家に祀られた神様への) 参拝人は絶えることがなかった。(その中でも) 特に、全盲をたすけられたハナは 連日おたすけに奔走。
数多くの御守護を頂(き、それは 更なる参拝人の増加という現象に繋がっ)た。(参拝人の急激な増加は社会現象となり、
ついには) 新潟新聞に「流行神の金儲け」などと報道されるまでの状況に至った。
(事態を重く見た 斎悟ハナは、これ)以後、(斎悟)清蔵共、参拝者を拒絶している。(ちなみに) この当時たすけられた信者は、
碇田房吉・かと・白井こと・吉沢美重・星井こと (… 教会設置の基礎を築いた)
以上のような人たちであった。
池 四郎平 初代会長の入信(明治17年)
(新潟県) 佐渡河崎村に住む 池 四郎平 (新潟大教会 初代会長、嘉永4年2月20日生) は、
兄・慶蔵(の)出直により家督を相続し、(その当時は) 農業の傍ら 回船問屋を経営していた。(池 四郎平は) 佐渡の払い下げ官林を新潟市に売り渡していたが、
白石市長の疑獄事件に会い、金銭の受領のないまま 訴訟沙汰となっ(てしまっ)た。東京の弁護士との連絡に没頭している折、(池 四郎平は) 怪我をして 手足の自由を失なって(しまい)、新潟病院 (後の新潟医大) で治療を受けた。
(しかし) 治療の効果は乏しく、苦しんでいた処、
旅館に宿泊中の人から、斎悟家(に どんな難病も救けてもらえる神様が現われたという話を聞いた。
そこで 池 四郎平は、斎悟家)の縁家に特に頼み、神様にお願い(してもらった。)
すると、痛みが無くなり、(それを) 再三 繰り返すうちに (池 四郎平の病は) 忘れたように全治した。
『道〜天理教伝道史をあるく』に記述された新潟大教会の始まり
『道〜天理教伝道史をあるく』に記述された新潟大教会の始まり
(『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中にも 新潟大教会に関する記述がありますが、そこに書かれてある池 四郎平先生の入信に関する記述内容が『天理教事典』の記述と異っていました。
なので、参考までにここに書き写しておきます。)
新潟の道の始めは、鴻田忠三郎の新潟赴任から語らねばならない。
娘 りきの眼病をたすけられ、明治十五年、お屋敷へ帰参した。滞在中に信仰を固め、勤め先の新潟県勧農場を辞任する決意をした。
しかし 教祖に伺うと、「道の二百里も先に橋かけてある。その方一人より渡る者なし」と仰せになり、新潟に戻った。
農作物に虫がついたので、畑の真ん中で踊りをすると、翌朝は一匹もいなくなった。
勧農場生徒がコレラにかかると、水を口に含み病人の患部へ吹きかけて不思議に御利益が現れた。
疝気に悩む 白山浦の石油採掘業・斎悟清蔵が平癒し、また 四歳から盲目同様になっていた養女 ハナも 二十年ぶりに視力が回復した。
信濃川対岸の人は「桟橋 往復二銭あれば、どんな難病もたすかる神様が現れた」と話し合った。
しかし、お屋敷から帰ってくるよう手紙が来て引き揚げ、信者たちは 斎悟家を芯に信仰を続けた。
十七年、佐渡郡の池四郎平が 新潟へ来ていた時、差し込みに襲われ、斎悟家におたすけを願って導かれた。
二十三年、斎悟家では 清蔵と妻しげが相次いで出直し、養女 ハナ 一人になった。
信者たちの希望で 四郎平とハナは結婚した。
しかし 当時、家督相続人同士の結婚は許されず、戸籍上では 夫婦になれなかった。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,106 )
広がる新潟の道(明治20年頃〜明治24年頃)
明治20年(1887)、
教祖 現身おかくしの報は いち早く新潟にも伝わり、
それまでは 遠いおぢばであったが、
(それ)以後(は) ちば一筋に慕う人々が寄り集うようになった。明けて、明治21年12月31日、
池 四郎平は、斎悟清蔵に、家業をやめて 布教伝道に生きることを誓った。
(それに伴って) 新潟の布教は 本格化された。この後、(斎悟)清蔵は、
養女・ハナの後事を托し、(池) 四郎平に神様のことを任せて、
翌々年(明治23年) 11月14日、出直している。明治24年 3月10日、
池 四郎平は、大島丑之助と共に 最初のおぢば帰りをし、
その折 77戸の講社名簿を持参した。この名簿には、
菅ちか・曽根門之管(4代会長)・塩谷政吉・扇谷平太郎・星井栄治郎・大島くま・藤谷留吉 (初期役員の人々)・吉沢文五郎 (新津支教会 初代会長) …
などの名前がある。
鴻明講員のおぢば帰り(明治22年)
池 四郎平 以前の (鴻明講員による) おぢば 初帰参者は、
白井こと・吉沢美重・田中なか・碇田かと、
以上 4名であった。(一行は) 明治22年(1819) 早春、 新潟を発し、
直江津・長野・木曽を経て 鈴鹿越えから 大和に出る道程 200里(を)、約1ヵ月かけて おぢば帰りした。
鴻明講の誕生(明治25年)
明治25年5月、
新潟大教会前身の「鴻明講」の名称が授けられ、
以後、白熱的な布教の展開がなされた。
新潟の道の広がり(明治24年頃〜明治26年頃)
明治24年6月、
新潟市 西堀通13番町・蒲原浄光寺番僧宅を本拠として、
池 四郎平・ハナの布教は 活発化していった。そのような中、
(新潟県) 新津においては、吉沢文五郎・美重、
(新潟県) 佐渡は、白井こと、
新潟市内、和田さだ、
…等を中心に講社ができ、
明治26年には 信者数 1,100余戸を数えた。
教勢伸展 〜 新潟支教会の開設(明治27年〜明治28年)
(鴻明講の)教勢は (新潟県)新発田、福島県会津、北海道(の方面) にまで伸び、
明治27年10月(には、
鴻明講の) 拠点を 新潟市 学校町通 3番町562番戸、旧・斎悟清藏宅に移した。(そして) 翌(明治)28年、増築普請(が) 完成した後、
(明治28年) 11月13日、「新潟支教会」設置の許しを得た。教 第905号 提出願書の信徒数は、連署にて 101名であった。
『道〜天理教伝道史をあるく』より
二十八年、池 四郎平は 教会設置のため おぢばに帰った。
その時 ハナに
「請願に 二千戸以上必要だ。吉沢ミヘさん (新津 初代夫人) と 新津へ行って信者をつくってくれ」と頼んだ。
二人は 十三日間に 五百二十戸の信者をつくり、名簿を郵送した。
四郎平は「おかめ(女房) たち、よくやったもんだ」と 同行者に語ったという。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,106 )
苦難の地方庁認可、教勢の停滞(明治28年頃〜明治30年頃)
(天理教教会本部から「新潟支教会」設置の許しを得たものの)
しかし、地方庁からの認可は なかなか得られなかった。(地方庁から認可されたのは)
それから 2年5ヵ月を経た、明治30年4月29日であった。その間、
(新潟支教会は、新潟県)北蒲原郡 水原町における 天理教 撲滅運動などに遭遇し(たりして)、社会的圧迫を耐え忍ぶ日々が続いた。(そうした世間の反対攻撃の煽りを受けて、新潟支教会の) 教勢の伸展は、(大いに) 遅れることとなった。
(そのため、新潟支教会に) 部属教会が設置されたのは、明治も 30年以降のことである。
歴代会長略伝
以下、歴代会長(の)略伝を記す(ことによって、新潟大教会の大まかな歴史を概観する)。
池 四郎平 初代会長
初代会長・池 四郎平は、
嘉永4年2月22日、
父・池四郎左衛門、母・きち子の次男として生まれた。
本籍は、新潟県佐渡郡河崎村。大正7年8月11日、出直した。 (享年68歳)
永尾正信 2代会長
2代会長・永尾正信は、
明治14年2月28日生。
本籍は、奈良県山辺郡丹波市町三島443番地。(池 四郎平) 初代会長(の) 出直に伴い、
後任問題が、宮森(与三郎)・鴻田(忠三郎) 本部員立合いのもとに役員会議に付議された。
その結果、(天理教教会)本部より 永尾正信が 任命され(ることとなっ)た。(永尾正信は)
大正7年9月21日、(新潟分教会2代会長に) 就任。
以来、部内教会充実に意を注ぎ、また 信者詰所建築に努力し、完遂した。大正10年6月12日、(永尾正信2代会長は) 本部員となり、
教祖40年祭準備多忙となったため、
大正11年3月5日、(新潟分教会2代会長を) 辞任した。
鴻田利太郎 3代会長
(新潟分教会)3代会長には、鴻田利太郎が就任した。
(鴻田)利太郎は、
明治29年6月11日生まれで、
本籍は、奈良県 山辺郡 丹波市町 大字三島112番地である。(鴻田)利太郎は 新潟大教会に最もいんねんのある 鴻田忠三郎の孫で、
大正11年3月31日、
(新潟分教会3代会長に) 就任した。教祖40年祭(前に提唱された) 教勢倍加(運動) に(は全身全霊込めて) つとめ(あげ)、(教会数) 3倍加を実現し、(新潟分教会の) 部内教会を38ヵ所にするなど 活躍した。
また、教会内容の充実を目指し、規約・規定などを定め「修理・肥」の徹底を図った。
(その中で、新潟)分教会(の) 移転を計画し、土地買収(や教会施設の)建築を進め (無事 教会移転を(も) 成し遂げた。
そして) 昭和5年5月15日、(盛大に) 奉告祭を執行した。昭和7年9月8日、出直した。 (享年37歲)。
曽根門之管 4代会長
4代会長・曽根門之管は、
明治9年4月26日生まれ。
本籍は、新潟県佐渡郡河崎村大字河崎1791番地である。(曽根門之管は)
「鴻明講」当時の明治26年、
盲目のところを たすけられて入信。翌年(明治27年) 春より単独布教をして、
明治42年3月10日、「佐島宣教所」(を設立し 所)長となった。昭和8年4月28日、
(曽根門之管が) 新潟分教会 (4代会)長に就任(した)。【書写者註】
『天理教事典』1977年版の中に その経緯が書かれていないので詳細はわかりませんが、
鴻田利太郎3代会長が 昭和7年9月8日に 37歳の若さで出直されたとのことなので、
それを受けて、
部内教会長である曽根門之管先生が4代会長に就任されたのだと思われます。(曽根門之管は)
翌(昭和)9年1月11日、新潟教務支庁 主事。
昭和17年5月26日には、本部詰員となっている。昭和16年3月30日、(新潟)大教会に昇格。
(曽根門之管は、それ)に伴い、(新潟)大教会長に就任した。(曽根門之管は)
昭和26年6月26日、病気により(新潟大教会長を) 依願辞職した。昭和29年7月26日、出直(した)。 (享年78歲)。
田村弥三郎 5代会長
5代会長・田村弥三郎は、
明治21年7月19日生まれ。
本籍は、新潟県 西頸城郡 西海村大字平牛48番戸である。明治41年10月、病気により兵庫県明石に転地療養中、おぢばを訪ねた。
(そして) 池 四郎平(初代会長) に導かれて 信仰に入った。(田村弥三郎は)
天理教校別科 6期を卒業し、大正元年、新潟市に単独布教(に出た)。大正4年11月30日「礎 宣教所」設置。
その後、東京・北海道布教に従事した。昭和17年5月26日、本部詰員、
昭和21年6月26日、新潟教区長。(昭和)26年6月26日、
(曽根門之管4代会長の辞任を受けて)
(新潟)大教会 (5代会)長に就任した。(昭和)39年より、病気のため (妻の) 田村操を (新潟大教会長) 代務者と定めた。
昭和43年8月3日、出直(した)。 (享年80歳)。
田村操 6代会長
代務者・田村操は、
明治32年9月23日生まれ。
本籍は、北海道札幌郡琴似村である。5代会長 (田村)弥三郎が 北海道布教の折、(田村弥三郎と) 結婚(した)。
大正12年9月25日、教師補命。
昭和24年4月、天理教婦人会 新潟支部長 並びに 教区主事となった。(5代会長・田村弥三郎の体調不良に伴い)
昭和39年9月26日、 (新潟大教会長) 代務者となった。その後、(田村弥三郎)5代会長(の) 出直に伴い、
(田村操は)
昭和43年8月26日
(新潟大教会)6代会長に就任した。
〔出版物〕
『よろこび』新潟大教会史 (昭和5年5月15日)、
『伸びゆく新潟の道』――新潟大教会史 (昭和43年8月 前記再版)、
『低くやさしく』――5代会長 信仰談 (昭和37年4月18日 養徳社)、
機関誌『理の光』 (大正12年10月14日 第1輯、3輯より不明)、
『新潟の大教会月報』
〔現住所〕〒950-2027 新潟県新潟市西区小新大通2丁目1ー41
〔電話〕025-265-0230(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,648〜650)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
94回目の今回は、
「新潟大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】94回目の当記事では『天理教事典』の中の「新潟大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
新潟大教会の礎を築かれたのは、鴻田忠三郎先生。
私は、今回の勉強をするまで新潟大教会の歴史を全く知りませんでしたが、『稿本天理教教祖伝逸話篇』の中に名前が出てくることもあり、その礎を築かれたのが鴻田忠三郎先生だということは存じておりました。
自己覚書として、鴻田忠三郎先生が出てくる『稿本天理教教祖伝逸話篇』の逸話を書写しておきます。
62. これより東
明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から
「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」
と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。
教祖にお目にかかったところ、
「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで。」
と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して 日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。
明治十三年夏には、妻 しゆの腹痛を、その後、次男 耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に 信心をつづけた。
又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、
「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで。」
と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。
こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。
山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。
「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ。」と。
そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。
かくて、山本は、一層熱心ににをいがけおたすけに奔走させて頂くようになった。
「62. これより東」のご逸話は、
鴻田忠三郎先生が主人公の話ではなくて、上之郷の礎を築き後に城法大教会の3代会長となった山本藤四郎先生が主役のお話。
鴻田忠三郎先生はその脇役として登場されています。
しかし、このご逸話を通して、教祖ご在世当時のおやしきにおける鴻田忠三郎先生の存在感みたいなものを感じることが出来る気がします。
95. 道の二百里も
明治十四年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、二、三年前から眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。
家族一同心配しているうちに、年が明けて 明治十五年となった。
年の初めから、この上は、世に名高い 大和国音羽山観世音に願をかけようと、相談していると、その話を聞いた同村の宮森与三郎が、訪ねて来てくれた。
宮森は、既に数年前から入信していたのである。
早速お願いしてもらったところ、翌朝は、手の指や菓子がウッスラと見えるようになった。
そこで、音羽山詣りはやめにして、三月五日に、夫婦とりきの三人連れでおぢばへ帰らせて頂き、七日間滞在させて頂いた。
その三日目に、妻のさきは、
「私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も、片方だけなりとお救け下され。」
と、願をかけたところ、その晩から、さきの片目は次第に見えなくなり、その代わりに、娘のりきの片目は、次第によくなって、すっきりお救け頂いた。
この不思議なたすけに感泣した忠三郎は、ここに初めて、信心の決心を堅めた。
そして、お屋敷で勤めさせて頂きたいとの思いと、新潟は当時歩いて 十六日かかった上から、県へ辞職願を出したところ、許可はなく、「どうしても帰任せよ。」との厳命である。
困り果てた忠三郎が、「如何いたしましょうか。」と、教祖に伺うと、
「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし。」
との仰せであった。
このお言葉に感激した鴻田は、心の底深く にをいがけおたすけを決意して、三月十七日 新潟に向かって勇んで出発した。
こうして、新潟布教の第一歩は踏み出されたのである。
「95. 道の二百里も」のご逸話は、
今回の『天理教事典』「新潟大教会」解説の本文にも出てきている、鴻田忠三郎先生の入信から新潟布教に至るまでの、いわゆる 新潟大教会の元一日につながるお話ですね。
「道の二百里も橋かけてある。その方一人より 渡る者なし。」
鴻田忠三郎先生に掛けられた教祖のお言葉ではありますが、全ての読み手に 重く響いてくる気がします。
144. 天に届く理
教祖は 明治十七年 三月二十四日から四月五日まで 奈良監獄所へ ご苦労下された。
その間 忠三郎は 獄吏から便所掃除を命ぜられた。
忠三郎が掃除を終えて教祖の御前に戻ると 教祖は、
「鴻田はん、こんな所へ連れてきて便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ。」
と お尋ね下されたので、
「何をさせて頂いても 神様の御用向きを勤めさせていただくと思えば、実に 結構でございます。」
と申し上げると、教祖の仰せ下さるには
「そうそう、どんな辛いことや嫌な事でも 結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。
なれども えらい仕事、しんどい仕事をなんぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足不足でしては、天にとどく理は 不足になるのやで。」
と お諭し下された。
そして「144. 天に届く理」のご逸話は、
教祖監獄所へのご苦労の際、教祖が鴻田忠三郎先生に掛けられたお言葉のお話。
このご逸話は、お道にご縁を頂いた人が折に触れて様々な場所で耳にする有名なお話ですね。

そのように、『稿本天理教教祖伝逸話篇』に 度々 名前が出てくる鴻田忠三郎先生。
どのような経歴の先生だったのでしょうか。
ネット検索してみると「れんだいこ」様が年表にまとめて下さっていました。
コピペさせて頂きます。(れんだいこ様、ご了承願います m(_ _)m)
【鴻田忠三郎(こうだ ちゅうざぶろう)】
1828(文政11)年 2. 22日、河内国丹南郡向野村(現・大阪府羽曳野市向野)生まれ。高谷利衛門の四男。
1832 (天保3)年、生家・高谷家より鴻田家(大和国式下郡北檜垣村‐現・奈良県天理市檜垣町)長七の養嗣子となる。
1881(明治14)年、次女・りきの目の患いから初参拝。
1881(明治14)年、大日本農会の種芸科農業委員として新潟県勧農場に勤務。のちに新潟大教会誕生。
1882(明治15)年、御守護給わり入信。以後、赴任地の新潟で布教に励む。
1883(明治16)年、山澤良治郎出直し後、中山眞之亮の後見役となる。
1884(明治17)年、教祖は、3. 24日から 4. 5日まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も10日間入牢拘禁された。
1887(明治20)年、教祖崩御のおつとめで、かぐらをつとめる。
1903(明治36)年、7. 29日、出直し(享年76歳)。
(れんだいこ「鴻田忠三郎先生について」より)
また、れんだいこ様公開の同ページの中に【鴻田忠三郎評伝】として、更なる鴻田忠三郎先生に関しての情報が載っていました。
自己覚書として書写しておきます。(れんだいこ様、ご了承願います m(_ _)m)
【鴻田忠三郎評伝】
鴻田忠三郎先生は、大和磯城郡 桧垣村の人で、
永原の中村直藏 (二宮尊徳翁の弟子、贈從五位 通称・善五郎) という農業の先生について修業、
明治十七〜八年、所謂「坊主こぼち」の流行した頃、珍しい南瓜や綿の種などをもって 全国に勤農講演行脚をされた。
生まれは河内で、鴻田家へ養子に来た人である。
百姓によく丹精し、桧垣の鴻田と言えば、地方の有志や警察上 中流の人達で知らぬ者のない人望があった。
明治十五年、五十五才の時、次女りきの眼病より入信し、
山沢良次郎さんが明治十六年出直したあと、おやしきへ引寄せられた。
その頃、読み書きの出来る人が尠(すくなか)ったので、
それ迠に村役もし 世界でも顔が利いた人で 読み書き講演も出来るので 重宝がられ、
明治廿一年に教会本部が出来てからは 祝詞書きと説教とが その受持のように成っていた。
その時分、説教日が月に二三回あって、説教の際には 狩衣をつけ冠をかむり 笏板もってやったものである。
美鬚をはやした格服のよい茨木基敬さんと (鴻田忠三郎先生と) 二人が交替でつとめられた。
息子の利吉さんの話に
「親父が目をふさいで熱心に説教をしていたが、ふと目を開けると 聴手が一人も居なかったことがあった」とある。
勤農の旅先、新潟で道の種をおろしたのが、今、新潟大教会となっている。
品行方正、先生方の中では一番の早起で、御神饌が先生の受持のようになっていた。
老年になって耳が遠くなり、初試験を、辻忠作先生と二人でやっておられた。
明治三十六年 七月廿九日、七十六才で 出直しされた。
(「鴻田忠三郎先生について」「清水由松傳稿本」120〜121ページより)

鴻田忠三郎先生は、教祖ご在世当時からおやしきに伏せ込み、初期のお道を支えた、文字通り「道の重鎮」であられた事がよくわかります。(^^)
その鴻田忠三郎先生が「その方一人より渡る者なし」との教祖のお言葉を受けて布教に励まれ、そこから付いた道が 今の「新潟大教会」。
天理教 初級者の私は、鴻田忠三郎先生が「新潟大教会」の初代会長だと勝手に思っておりました。
しかし、今回の勉強で、改めて、
鴻田忠三郎先生が実際に新潟で布教された期間というのは、ごくごく短いものだったのだ
という事を知りました。
鴻田忠三郎先生が新潟の勧農場へ赴任したのが、明治14年4月。
娘(りき)様の眼のご守護を頂き、初おぢば帰りしたのが、その翌年・明治15年3月。
そこで 教祖からお言葉を頂き 新潟布教を決意し、その後 新潟に戻って 勧農場の仕事をしながら布教活動に邁進。
その結果、次々と不思議なご守護が現れて参拝者が増大したので、勧農場の仕事を辞めて道専務を決意したのが、同年・明治15年11月。
そうしたところ、おぢばから帰還要請があり、新潟を去っておぢばへ戻ったのが、明治16年1月。
すなわち、『天理教事典』「新潟大教会」解説文によれば、
鴻田忠三郎先生が実際に新潟で布教に励まれた期間というのは、
実質、明治15年3月から明治16年1月まで。
1年間もなかった‼︎ (°д°;)
そんなに短かったとは知りませんでした。
しかしそれは、
それほどの短期間に 後に大教会にまで発展する「道の拠点」の礎を築かれた鴻田忠三郎先生のパワーが如何に凄いものだったか、という事を現わしているとも言えるわけで…
教祖から「その方一人より渡る者なし」とまで言われた 鴻田忠三郎先生の霊格の高さが窺える気がします。

今回の『天理教事典』「新潟大教会」解説文の書き写し学習を通して 私が印象に残ったのは、
鴻田忠三郎先生が、娘様の眼病をおたすけ頂いて道専務を決意しながらも、職場である新潟の勧農場から辞職の許可が出ず、お道と職場の板挟みになったあたりの史実でした。
娘様が不思議なたすけを頂いて、鴻田忠三郎先生は 教祖のもと=おやしきで働きたいと考え、道専務を決断し、職場である「新潟勧農場」へ辞職を申し出られた。
ところが、新潟勧農場から辞職の許可が出なかった。
文字通り、道と世界の板挟み状態となられたわけです。
いかに鴻田忠三郎先生がどこからも必要不可欠な人物とされていたかということがよくわかりますね。
そのような身動き取れない状態となって困ってしまった鴻田忠三郎先生は、どうすべきか教祖にお尋ねした。
そうしたところ、教祖から
「いても治る。いぬでも治る。汝渡らねば この橋 無駄になる。道の二百里も 橋かけてある。その方一人より 渡る者なし」
とのお言葉があった、とのこと。
すなわち、教祖は、病人のことなど心配しないで、ちばより二百里離れた 北国 新潟の地に神名を流すように、との思召を表明された。
後でよく考えたら、これは、
娘のことを心配して大和 (おやしき) に留まる必要はない、家族のことは引き受けるから安心して遠方である新潟の地へ布教に出るように、
という【場所】に関しての神意を伝えられたおさしづなのだ と理解できましたが、
しかし、私は、最初、
このおさしづは「道専務になるか、仕事をしながら信仰するか」という【社会的な立場】に関するおさしづのように受け止めてしまいました。
すなわち、
娘の不思議なご守護を見せられて道専務を決意したところ、職場から辞めることはならぬと制止された。仕事を辞めたいけど辞められない、どうすべきか…
という悩みに対して
「無理に仕事を辞める必要はない、仕事をしながら神名を伝えていきなさい」と教祖が仰せられた、
そのように 私には見えたのでした。
どうなのでしょう… トンチンカンな受け止め方でしょうか…
私は、多少はそのような意味も含まれているのではないかなぁと思ったりもするのですが、一人よがりでしょうか? (^^;)
しかし、まぁ…きっとこれも、
仕事をしながら中途半端に教会の御用をしている自分自身の後ろめたさがなせる技、思い込みなのでしょうね。
人は自分の見たいことを見たいようにしか見ない、と言いますし…
…いずれにしても、
その鴻田忠三郎先生も、
最終的には、大和のおぢばに戻られて、道専務=おやしきの御用に専念された、
というのが歴史の事実です。
「成ってくるのが天の理」というお言葉があるように、
結局は「天の理」通りに成ってくるのだということを肝に銘じて、
目の前の状況に右往左往・一喜一憂しないことが大切なのかもしれませんね。(^^)

その他、
(これは
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) に載っていた話ですが)
池 四郎平 初代会長が 教会設置のため おぢば帰りする際、ハナ先生に
「教会の請願には2千戸以上必要だ。吉沢ミヘさん(新津初代夫人) と新津へ行って信者をつくってくれ」と頼んだところ、
ハナ先生と吉沢ミヘ先生、両先生は、たった13日間に 520戸(!) もの 信者を作り名簿を郵送。
それを見た 池 四郎平 初代会長が『おかめ(女房) たち、よくやったもんだ』と同行者に語った、
という話。
また、
明治28年に 天理教教会本部から新潟支教会設置の許しを得たものの、地方庁からの認可がなかなか得られず、
地方庁から認可されたのは、それから 2年5ヵ月も経った明治30年4月29日にまでずれ込んだ、
という話。
あるいは、
天理教教会本部から新潟支教会設置の許しを得た後も、
新潟県北蒲原郡 水原町における 天理教撲滅運動などに遭遇したりして、激しい社会的圧迫が続き、そうした世間の反対攻撃の煽りを受けて新潟支教会の教勢の伸展は停滞。
そのため 明治も30年以降になって、やっとのことで 新潟支教会に部属教会が設置されるに至った、
という話。
どれもこれも、知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「新潟大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。



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