天理教 各教会の歴史探索(第90回)【阿羽大教会】『天理教事典』より

「阿羽大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号89番「津軽大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号90番「阿羽大教会」について勉強します。

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阿羽大教会(あわ だいきょうかい)

阿羽大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビュー より

浅井政次郎の不思議なたすけ

浅井政次郎は、
徳島県那賀川町北郷の 江ノ島という農漁村で、海女郎という奇病の神経病で悩んでいた。
各所 神社仏閣の祈禱札を寝床の周囲に敷き並べ、また 天井に糸をつるしては張りつけても、神経病は治らず苦しんでいた。

そうしたところ、
浅井政次郎の 甥の嫁の兄である 新井ヨシ の実父・丑蔵が、
既に天理教を信仰していたところから にをいがけ、、、、、に行き、
浅井家の 病の平癒を願った。

(新井丑蔵は、その後、一旦) 村に立ち帰り、原田、山本と3人連れで、太鼓を提げて (再び) おたすけに赴いた。

(その)途中、古津の 津田留蔵宅に立ち寄った。
(津田)留蔵の妻が 浅井(政次郎)と兄妹だったためである。(そして) 津田留蔵も 同行した。

(新井丑蔵は) 浅井家に着くや、一場の説教をなし 
(浅井政次郎のたすかりを願って、一行は)「十二下り・たすけづとめ、、、、、、」を (全身全霊込めて 真剣に) つとめた。

そうしたところ 不思議にも、海女郎は 落ちたように、たちどころに快くなった(のだった)。

浅井政次郎による布教、道の広がり

(この不思議な) 霊救に感激した (浅井)政次郎は、早速 (天理教に)入信。
その後、講元となって 布教に奔走するようになった。

この評判は (周辺地域に またたく間に) 広がって(いき)、
ほどなく たくさんの信者が出来た。

(徳島県那賀郡) 今津浦 大字色ヶ島村の、住友弁五郎・塩田伝次郎、
(徳島県那賀郡) 羽ノ浦 大字中庄の、森本助吉・島上甚七・住友為吉、
(徳島県那賀川町) 江ノ島村の、玉登金五郎、
…等、熱心な家の者が 周旋人となり、
奥村政吉等 6〜70戸の信者が、年を追って 結集され(ていった。)

更に 伝道線は、(徳島県) 黒津地村・坂野村・島尻村(の) 方面に(まで) 伸びていった。

笹田タメの 不思議なたすけ

(徳島県) 那賀郡 羽ノ浦村 大字中庄村(の) 笹田タメは、永年の胃病を患って(いた。)
医薬の限りを尽くしていたが、何の効も見えずに苦しんでいた。

これを聞いた (徳島県那賀川町) 江ノ島村の 講元・浅井政次郎は、笹田家を訪ねた。
(そして) 熱心に (天理教の)教理を取り次ぎ、お願いをした。
しかし、(なかなか) 御守護が見えなかった。

そこで、(浅井政次郎は、徳島県那賀郡) 大潟町に住む 讃岐嘉吉の家に行き、
撫養支教会より来ていた 斉藤久平に、この (笹田タメが永年患っている難治の胃病) おたすけの応援を依頼した。

(撫養支教会より大潟町に来ていた斉藤久平は、浅井政次郎からの依頼を受け、笹田タメの おたすけに取り掛かった。

そして、斉藤久平・浅井政次郎) この二人の 熱心なおたすけによって、(永年にわたって笹田タメを苦しめてきた) 胃病は、(見事に) 不思議な御守護を頂いた(のだった。)

(ご守護を頂いた 笹田)タメは、(心の底から)感激して 天理教に入信した。
(そして、その後は) 熱心なおたすけ人となって つとめた。

笹田磯次郎の入信、布教活動の展開(明治23年頃〜)

(このような不思議な) 霊救に (深い)感銘を受けた (笹田タメの)息子・磯次郎も、(その後) 喜んで 信仰の道に進むようになった。

(母・笹田タメの身上をご守護頂いた) 笹田磯次郎は、
(その後) 講元となって、
明治23年(1890) より、家業も顧みず、熱心に おたすけ、、、、に奔走するようになった。
(笹田礒次郎の おたすけ、、、、により 教えは 次々と広まっていった。)

(そして) 
宮田藤八が 周旋人となり、
(徳島県那賀郡羽ノ浦) 中庄村の、池田庄三郎・児島有・田中駒吉・荒川和衛門・長瀬菊太郎・池田利吉・笹田喜八・湯浅角太郎・近藤半蔵・井筒利吉・池田弥太郎、
(徳島県那賀郡) 坂野村 大字 田村の、加地弁次、
(徳島県勝浦郡) 小松島村 田野村の、住友高三郎、
…等が 入信した。

相次ぐ入信者たち

浅井政次郎の道は、更に 北に伸びて、(徳島県) 那賀郡 東庄村に(まで) 広がり、
(そちらの方面でも) 荒瀬満二を講元として、(新たな)講が 結ばれ(ていっ)た。

(徳島県) 豊津村では、岩井万吉・横田新蔵・柳田実太郎・豊永宇平・豊栖兵二郎・林 茂十郎・岩井政三・森兵吉・粟飯原平吉・福田藤吉・湯浅仁平・田原嘉吉・鳥井米吉・小倉忠次郎・先山八太郎・徳田筆太郎・小松駒吉・高田菊蔵・今井仲蔵・田原喜蔵・田原伊平・豊川近蔵・井本熊太郎・伊槻梅太郎・阿部九平・豊田民八、
(徳島県那賀郡) 立江村の、木南弥藏・林文平・伊丹喜代吉・笠井国三郎・伊丹太郎、
(徳島県那賀郡) 和田津新田村の、四宮恒吉・篠原広蔵、
(徳島県) 勝浦郡 田野村の、浜田順蔵、
(徳島県勝浦郡) 金磯村の、林茂郎、
…等が 追って入信した。

「出張所 開設願」相次ぐ地方庁の不許可、公認へ苦難の道(明治29年〜明治32年)

(信徒が増えていくにつれて) 
(徳島県那賀川町江ノ島村の ) 浅井政次郎 講元と、
(徳島県那賀郡羽ノ浦村の) 笹田磯次郎 講元が、
(全教的に教会設置の機運が高まっている情勢の中、隣接する講社でもあり、
この際) 一つにまとまって、出張所を設立しよう、との気運が高まった。

(そこで、まず) 浅井政次郎を初代所長として、出張所 設置願いを (天理教教会)本部に提出。
明治29年(1896) 5月6日に (天理教教会本部の) 許しを受けることができた。
しかし、同年(明治29年) 7月2日、地方庁の方は (残念ながら) 不許可となった。

(そこで)更に 明治32年(1899) 7月13日、再願し (天理教教会)本部(の)お許し(を受けた)。
(しかし) 同年(明治32年) 9月9日、(再び) 地方庁(は) 不許可(となった)。

(気を取り直して) 同年(明治32年) 10月4日、第3回目(の) 嘆願(を行い、天理教教会)本部(の) お許し(を得た。
けれども) 同年(明治32年) 11月14日、(またもや) 地方庁(は) 不許可となった。

(一同の落胆ぶりは、甚だしいものであった。)

阿羽出張所、待望の地方庁公認(明治33年)

(せっかく 天理教教会本部のお許しを頂いても、ことごとく地方庁から不許可とされ、一同の心は 折れかけた。
しかし、何としても 自分たちの教会を持ちたいとの思い止み難く、気持ちを立て直して、新たに公認申請を得るべく 一同は立ち上がった。

今度は) 笹田磯次郎を 初代所長として (申請することとした。

まず、天理教教会)本部に、(笹田磯次郎を初代所長として) 出張所 開設願を提出。
(天理教教会本部のお許しを得た後、地方庁への申請を行い) これまでの申請同様に 事を運んだ。

そうしたところ、
(なんと) 明治33年(1900) 6月12日、(ついに) 地方庁(からの) 認可(がおりたのだった。) 

ここに(おいて、ようやく、阿羽) 出張所(の) 設置を見(ることとなっ)た。

阿羽出張所 開設後、更なる入信者たち

(阿羽出張所の開設後も、道は 次々と伸び広がり)
野上林平・垂水新蔵・熊山藤三郎・岡田要五郎・杦原某・岡田菊太郎・藤野竹五郎・小原市助・中西弥太郎・家神八太郎・氏本兵吉・倉橋某・奥村長太郎・細川才蔵・小笠原恵三郎・高橋初蔵・上田鶴吉・米沢某・岡本某・船越竹蔵、
…等が 続々と、年を追って入信した。

神殿ふしん、開筵式(明治34年)

(地方庁から認可を受け、出張所としての体裁が整ったこともあり、
阿羽出張所として 新たに神殿を建築しようということになった。

そこで、天理教教会本部に) 神殿建築願を出したところ、
明治34年(1901) 1月14日、(無事) 許しを受けた。

松下孫太郎を棟梁として (神殿の)建築に着手。

明治34年、(見事に) 神殿落成し、
明治34年4月4日、お目標 拝戴、(4月)5日 鎮座祭、(4月)6日 開筵式を執り行った。

(その際には) 地方庁(の) 名士を招待。
夜は 打上げ花火等で賑い、盛大に式をつとめ終えた。

北海道から九州まで、全国に広がる阿羽の道(明治29年頃〜明治35年頃)

笹田磯次郎 (初代)所長は、布教の熱意に燃え、
北は 北海道に 南は 九州に…
と 布教師を派遣することになった。

北海道方面

北海道へは、
岡田要五郎が 開拓移民として 渡道することとなった。

(岡田要五郎は)
明治29年(1896) 1月11日、改式をしていたが、出発の7日前より 毎日 昼夜の別なく(笹田)磯次郎より 教理の要点を集中的に聞き、北海道での布教の用意を怠らなかった。

(そして) 
明治34年4月29日に 石狩国 上川郡 旭川村米飯の 佐坂農場に移住。
そこに 腰を落ち着けることになった。

(岡田)要五郎は、そこで 大勢の子供を養育しながら 昼夜の別なく おたすけ、、、、に奔走した。
その結果、不思議な御守護を頂く者が 日増に増えて、道は伸びていった。

(その後)
北海道で布教中の岡田要五郎の布教の応援として、
会議の結果、藤野竹五郎が 選ばれて出発した。

(そして)
明治36年(1903) 2月24日、
撫養分教会 南阿支教会 阿羽出張所 東旭川布教所として (天理教教会)本部の認可を受けた。

九州方面

九州へは、
氏本兵吉・家神長次郎・伊沢新七 の 3名が 派遣された。

(3名は 懸命に布教に励み) 
明治35年に至って、初めての (阿羽)部内教会(が) 設立された。
熊本県水俣町に(設立された)、一の枝である 肥薩出張所・肥護出張所(が それである)。

(同時期に) 徳島県下で、那賀川出張所・大立出張所の 両出張所(も 設立された)。

以上 4ヵ所 (の教会) は、 
同年(明治35年) 5月4日に、同時に 設立の認可を受けた。

阿羽の目覚ましい教勢拡大(明治後期〜昭和中期)

かくして、(阿羽の) 教勢は 北に南に 広がっていった。

その後、
大正11年(1922) に至る間に 部内数は 段々と増加。

大正12年より 昭和3年の間に 
(教勢倍加運動など) 教会増加 (を推し進めたい)という (天理教教会)本部の方針に従い、部内教会 28ヵ所を (新たに)設置した。

それ以後も、年を追って (新たな)教会(が) 設置され、
(阿羽大教会は)
現在 (『天理教事典』1977年版出版当時) 65ヵ所を数える(までに拡大。
更なる成長を期して、日夜 奮闘を続けている)。

阿羽大教会部内・東旭川布教所一行の 連絡船沈没の節(明治41年)

【※書写者註】

これ以降は、明治41年、青森から室蘭へ向かう連絡船が沈没して、阿羽支教会部内・東旭川布教所の 5名が、不幸にして 亡くなってしまった節についての記述になります。

阿羽大教会の全体の歴史について解説するものとしては、明らかに全体とのバランスを欠く、一つの事故に特化した細かい描写が続きます。

書かれている内容は素晴らしいのですが、ただ、限られたスペースの中で、この出来事に関しての記述割合は 突出しているように感じられます。

すなわち、阿羽大教会初期の歴史を概観したいと考える者にとって これは
「執筆した先生の
個人的思い入れの強い一部事象に特化した 残念な構成だと感じる」
というのが、当記事作成者の正直な感想です。

しかし、あくまで当シリーズは『天理教事典』1977年版の解説文を書き写して勉強するのが目的のものです。
『天理教事典』1977年版の執筆を担当された先生のご意向を尊重して、そのまま書写します。)

明治41年(1908) 1月、
(東旭川出張所の) 鈴江金八は、
藤野ノブ・須見トメ・佐々木勇三郎を引率して、正月早々に 旭川を出発し、上級・阿羽支教会、南阿分教会、撫養大教会を経由して、(天理教教会)本部の 1月大祭に、初めて おやさとに足を踏み入れた。
(おぢばがえりした) 4名の者は、早速 別席を運び、5席の別席を運んだ。

一行は、さらに 徳島県の上級 (阿羽支教会) に引返し、ひのきしんに従事。
(その後) 再び おぢばに帰り、満席の頃には、柳も若芽が春風に揺らぐ 3月中旬となっていた。

(明治41年) 3月16日、(4名は無事) おさづけ(の理)を拝戴することが出来た。
4名の者は、(おさづけの理を拝戴し) 世界中で 自分達程 幸せな者がまたとあろうかと思える程の幸福感に浸った。
(そして) これからは、神様のよふぼくとして 世界だすけの道具衆として生涯を道に捧げて悔いない心がみなぎっていた。

翌日 (明治41年3月17日) は いったん荷物を取りまとめ、あけて (3月)18日、撫養初代会長・土佐卯之助の元へ挨拶にまかり出た。

(土佐卯之助)会長は、
「長々御苦労やったな。でも、今日はあいにくと朝からの大雨じゃ。無理に今日発たんでもええやろ。明日にしなはれ、明日に」
と、引き留めて下さった。
しかし、一行は、もう3ヵ月も (旭川の自宅を) 留守にしていることでもあり、婦人たちや小さい子供も置いたままにしていることから、一日も早く帰ってやりたいと希望した。
それで、詰所の人々に送られて、雨の中 おぢばを後にした。

(明治41年) 3月21日 午後、(一行は) 青森に着いた。
(鈴江)金八は、青森から東旭川へ「アオモリ ゴゴタツ アスツク」と電報を打ち、一行は当時青森ー室蘭の連絡船だった陸奥丸に乗船した。

(そして) あと1時間もすれば室蘭に到着すると思われた頃――
突然、無気味な汽笛が、気でも狂ったように 咆哮し始めた。

船は 異様な大音響と共にガクッと大揺れし、同時に 船腹から滝のように海水がものすごい勢いで踊り込んできた。
(それに伴い) 平穏であった客室が 一瞬にして阿鼻叫の修羅場と化した。
秀吉丸という石炭を満載した貨物船が、陸奥丸の船腹に激突したのである。

(それから) 10数分後、陸奥丸は、乗組員・乗客 317名を乗せたまま、蝦夷法華の海底に沈没した。
(東旭川布教所の) 引率者・鈴江金八 以下 4名のよふぼくも、海のもくずと消え去った。

一方、「アスツク」との電報を受け取った (事故前の 東旭川)布教所。

(明日到着するとの知らせは) 8キロ離れた留守宅へ連絡され、須見嘉太次が、旭川駅まで馬そりで 一行を迎えに行くことになった。
長い間 留守役であった女房、子供達は、(嬉しさのあまり) 父が帰ってくると言って 夜遅くまで騒いだ。

明けて (明治41年3月)22日。
電文から繰ってみると、その日の午後3時頃、室蘭からの列車で旭川へ到着する事になる。
(須見)嘉太次は、早目の昼食を摂り、馬そりを旭川に走らせた。

(須見嘉太次、旭川駅到着。)
乗客達が、様々の荷物を背負い あるいは 両手に提げて、改札口を出てきた。
(須見嘉太次は) 降りてくる人達の中に混じっているはずの (鈴江)金八 以下 4名の姿を追い、目を皿のようにして捜し求めた。
しかし、最後の一人が出てしまうまで見届けたが、誰一人として降りてこない。
あてはずれの空虚感が フッと脳裡をかすめた。

でも、(きっと) 何かの都合で次の列車になった(のだろう)と思い (須見嘉太次は 引き続き) 待合室で待った。

長い3時間だった。
次の列車では 必ず来る―― (須見嘉太次は) 妙な確信を自分自身に言い聞かせ、再び 改札口に立った。
しかし (次の列車でも誰も降りてこず) それもまた徒労に終わった。
(須見嘉太次は) 言い知れぬ不安感に襲われた。

その内に、待合室が 急に騒がしくなった。
何があったのだろうと(須見嘉太次が) 戻ってみると、陸奥丸遭難のビラが貼られ (そこに) 遭難者の氏名が書き連ねられていた。

まさかと見た (須見嘉太次の) 目に、藤野ノブ、須見トメ、鈴江金八、同(鈴江)幸吉、佐々木某 の名前が飛び込んで来た。
(須見嘉太次は) 夢想だにしなかった 重大事態が突発したことを知った。

遭難者の留守宅には、鉄道当局より電報で知らされた。
(東旭川)布教所から、(須見)嘉太次に知らせるべく 飛脚が (旭川)駅に飛んできた。

(知らせを届けた者と須見嘉太次は) 顔を見合わせても 言葉が言葉にならず、
二人は怒ったように黙って、馬そりで (東旭川)布教所に引返した。
(東旭川)布教所には、既に遭難者の家族が詰めかけていた。

これから先、どうすればいいのか。
竹五郎を始め岡田要五郎、岡田佐平ら、荒道開拓者のさすがの強者たちも 虚脱状態であった。
(東旭川布教所一同は) とりあえず、(上級の) 徳島県の阿羽支教会へ、事の由を打電した。

(この頃) 東旭川(布教所) の教線は、新しい生き生きした若芽がドンドン出かけた最中であった。
その新芽が、無惨にも 根こそぎむしり取られたような空白感に誰もが襲われていた。手も足も出ぬ有様だった。

その当時のよふぼくと言えば、一人一人が道を通ることの中に人生最高の意義を見い出し、生涯を道に捧げようという人々ばかりであった。その中の 5名が、一瞬にして消えてしまったのである。

上級・阿羽支教会からは、初代・笹田(磯次郎)会長が、急きょ 飛ぶようにして (徳島から北海道まで) 出張してきた。
そして、(笹田磯次郎 初代会長は、打ちひしがれた東旭川布教所一同に) 3日3晩、越すに越せぬこの難局を (何とか)乗り越えて行こう と諭した。

(けれども) 大いなる期待をかけられていた東旭川の道は、これで終焉を告げる(に違いない) と、誰もがそう考えた。

しかし――
神の思いは不思議である。

(事故当時) 布教所だった東旭川は、(その後) ほどなく(して)、
支教会の請願を成す程に成長した(のである)。

(すなわち) 東旭川の道は、
(これほどの大きな節に遭遇しながらも 途絶えてしまうことはなく、 
むしろ 逆に、ここから) 道北一帯に (さらに) 教勢が伸び、
燎原に火を放ったように (大きく) 道が伸びていったのだった。

阿羽大教会 歴代会長

阿羽大教会・歴代会長は、
初代会長は 笹田磯次郎。
2代会長には 笹田理一が、昭和6年4月28日 (1931) に 就任(した)。
3代会長には 笹田弘が、昭和29年4月21日(1954) に 就任(した)。

阿羽大教会 建築事情

建築事情。

神殿建築 明治34年1月14日願、
木作次第 上棟願 明治35年5月15日 増築願、
明治35年3月9日 敷地拡張 仮神殿拡張願
明治39年9月16日 建物変更願。

昭和45年11月26日 神殿建築願。


〔現住所〕〒779-1101 徳島県阿南市 羽ノ浦町中庄 原婦知 14番地
〔電話〕0884-44-2063

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,31〜33)

おわりに

阿羽大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

90回目の今回は、
「阿羽大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

阿羽大教会AppleMapより
Apple Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 阿羽大教会に関する記述がほんの少しだけありましたので、自己覚え書きとして書写します。

阿羽の道は、
新井丑蔵が 那賀川北郷の江野島で、神経病の 浅井政次郎を たすけたことから始まる。

政次郎は、那賀郡羽ノ浦村の 笹田タメの胃病をたすけ、
その霊救に感じた息子・笹田磯次郎(阿羽初代)が 入信した。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,85 )

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】90回目の当記事では『天理教事典』の中の「阿羽大教会」についての記述を書き写しました。

阿羽大教会は、南阿大教会から分かれた大教会。
南阿大教会は、撫養大教会から分かれた大教会。
撫養大教会ー南阿大教会ー阿羽大教会という流れですね。

これまでに、それぞれの大教会について勉強して記事を投稿してきました。

阿羽大教会Googleストリートビュー④
Googleストリートビューより

前節の最後の方にも書きましたが、
今回の『天理教事典』1977年版「阿羽大教会」解説文は、正直 ちょっと異色でした。

明治41年の 青森から室蘭へ向かう連絡船が沈没して阿羽支教会部内・東旭川布教所の5名が不幸にして亡くなってしまった事件についての記述が、他の説明に比べて 異様に詳細で長い…

もちろん、とてつもなく衝撃的で大きな事件であり、そのような節を乗り越えて大きく成人したことは、阿羽大教会にとって 特筆すべき重要な歴史であることは 間違いないと思います。

しかし、それにしても、
限られたスペースの中で阿羽大教会全体の歴史を記述するという目的を持っているのがこの文章群であるということを考えた時、
この事件に対する記述の細かさと分量は、どう考えてもアンバランス…
そのように 私は感じました。

浅井政次郎先生や笹田磯次郎先生が入信されるあたりの阿羽大教会初期の歴史については 結構細かく書いて下さっていたので、それなりに 知ることが出来ました。

しかし、阿羽出張所が 支教会→分教会→大教会へと昇格していった年代についての記述はなく、
また、笹田理一2代会長、笹田弘3代会長へのバトン受け渡し、あるいは 神殿ふしんなどについては、単純に日時が記述されているのみで、その背景の記述は ありませんでした。

なので、残念ながら、
阿羽出張所が開設して以降の教会の歴史というか雰囲気というか、そういうものを感じることが 難しかったです。

今回書き写した『天理教事典』1977年版「阿羽大教会」解説文では、
明治41年の青森から室蘭へ向かう連絡船沈没事件を、小説の如く非常に詳細に、また、スペースも 阿羽大教会解説文 全体の 4分の1近くを使って 記述して下さっているわけです。

『天理教事典』を通して天理教大教会の初期歴史を知りたいと考えている者としては、
その部分のスペースのいくらかを、もう少し、阿羽出張所が開設して以降の教会の歴史解説に割いて頂けたら 有り難かったなぁ…
というのが正直なところです (´;︵;`)

しかし…
それは、知りたい者が個人的に調べれば良いこと。
私が『天理教事典』の初版という無茶苦茶古い資料を教材にしているのが悪い。
『天理教事典』はどんどん更新したものが出版されていて内容もアップデートされているのだから、そういうのを活用すべき―― ここで、執筆して下さった先生に対する不満を述べるのはお門違い!
以上のようなご指摘が、当然 湧き上がってくるだろうと思います。
誠に その通りでございます… (-_-;)

わかってはいるのですが、
いつも最後に「おわりに」として付け足す感想コーナーに書き出す内容がなかなかまとまらなくて… (^^ゞ
ついつい 溢れ出した愚痴を、ちょっと書かせて頂いた次第です 。

阿羽大教会AppleMapより①
Apple Mapより

とはいえ、
それなりに 今まで知らなかった多くのことを知ることが出来たというのは 間違いありません。

阿羽出張所を設立する際、
浅井政次郎先生を代表として天理教教会本部のお許しを頂き、何回も地方庁に申請を繰り返したがなかなか公認をもらえなかった、
それで、笹田礒次郎先生を代表として 地方庁に申請したところ、やっと公認を受けることができた、という話。

また、阿羽出張所は、拠点は 上級の撫養や南阿と同じ 徳島にありつつも、
笹田礒次郎 初代会長の強い布教熱意もあって、
北は北海道・南は九州という実に広範囲にわたる伝道を展開し、日本列島全体を見渡す視野を有する大教会に成長された、という話。

そして何よりも、
今回の『天理教事典』1977年版「阿羽大教会」解説文の中で最も力を入れて説明して下さっていた、明治41年の 東旭川布教所一行 連絡船沈没事件の話。
遠路遥々 おぢば帰りしておさづけの理を拝戴して、北海道へ帰る途中に連絡船が沈没してしまって、尊い5名の命が失われてしまった。
これで、阿羽部内・東旭川の道は途絶えてしまうに違いない と誰もが思っていたところ、
逆に この事件を契機として、文字通り「節から芽が出る」状況となり、道北一帯に教勢が伸びていった、という話。

どれもこれも知らない事ばかりでした。

これまで知らなかった多くの尊い話を知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

阿羽大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビュー より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「阿羽大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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