Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
本年3月後半から
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】として、
『天理教事典』(1977年初版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写しています。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
当シリーズの意図は、
自分に関りがない天理教各教会の歴史についてはほとんど知らない
という 自分自身の残念な現状を踏まえ、
天理教 教祖百四十年祭へ向かう今の旬に、
それを改善することを目指して、
これまで自分とはご縁がなかった天理教の各教会の歴史というものを
多少なりとも知る、
というところにあります。
そのための教材として、
たまたま自教会にあった『天理教事典』(1977年初版)を活用しています。
何分 古い教材であるため、当然、記述内容も かなり(!) 古いです。
また、とりあえず、無条件に「原文」を書写していますので、
もしかして、たまたまこの記事を目にした、関係者の方々にとっては、
この記述内容はちょっと違うよ (~_~;) …
という部分があるかもしれません。
(というか、きっと かなりあるだろう と思います)
ですが、
当ブログは、自己学習の目的で運営しているもので、
記事作成にあたっては、
何らかの主義主張(!) を行う意図はありません。
すなわち、当シリーズ 全ての記事は、
「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年初版)の記述内容を
淡々と書き写したものに過ぎない
というわけです。
よって、
記事の記述内容の真偽というか正確性というところまでは
全く検証できていない(していない)
ということをお断りしておきたい と思います。
何卒 ご了承願います。
前回は、
教会番号5番「河原町大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号6番「撫養大教会」について勉強したいと思います。
撫養大教会 (むや だいきょうかい)
江戸時代末期〜明治11年頃
初代会長土佐卯之助は、
安政2年(1855)6月15日、
山口県 佐波郡 向島 第62番屋敷にて、
白井滝蔵の次男として 誕生した。卯之助 10歳の時に 父の滝蔵は 出直。
母を助けて 魚屋の稼業に精を出していたが、
13歳の時に 家計を助けるために
北海道通いの大船の 飯炊きボーイとなった。知力、体力ともに 衆に優れていたので 抜擢されて
早くも 17歳で 一人前の船員に用いられた。明治11年、
徳島県 板野郡 撫養町 岡崎村の
土佐新平の 養女 まさの 婿養子となった。
時に、卯之助 24歳、まさ 19歳。婿養子となってからも 卯之助は、
撫養で有名な 山西回漕店の持船、観音丸に乗り、
北海道通いの船員生活を 続けていた。
明治11年〜明治13年頃
この年(明治11年)の秋 11月、
北海道への航海を終えた観音丸は、
大阪の木津川尻に 帰港した。その時、三軒家の船宿で、
心臓脚気を発病して 苦しんだ。
(この病気を救けられたことが、入信の動機となるのである)一旦、撫養に帰り 病軀を癒そうとしたが、病状は悪化するばかり。
遂に 地元の医者から見離されたので、
当時、日本一の名医と云われた 緒方洪庵に診て貰ったら 死んでも本望だ
と思って 上阪した。大阪三軒家の 船宿 内田の 主人夫婦は、
この 変わり果てた姿を見て 驚き、
卯之助に 真心組講元 博多藤次郎から 天理教の話を聞くように
とすすめた。そして 講元、 周旋達の 三日三夜のお願い勤めと 有難い神様の話により
鮮やかに 病気は平癒した。翌 明治12年秋、
真心組 周旋 吉岡貞二郎に伴われ
初めて「おぢば」に参拝して、
お救け頂いたお礼に、 灯籠でも鳥居でも 奉納したい
と申し出たところ、
山沢良助から
「鳥居など何もいらん。救けて頂いた恩を返したければ 人救けをせよ」
と 言われたので、
天理教の真理が 了解出来たとともに、
生涯を 報恩に捧げることを 決意した。明治13年になり、
森田清蔵に教えを乞うなどして 信仰を深め、
春の 北海道航海では、
碇泊地の 塩屋を中心に、
余市や 仁木方面にまで 布教の足を伸ばした。しかし、ここでも 再度 病気になり、
22ヵ条の誓いを立て、ようやく治った。
明治14年頃〜明治15年頃
明治14年春頃には、
すでに 阿波真心講と 講名を唱えており、
16名の人を伴い、おぢばへ 初団参をしている。又、この年の北海道行きで、
乗船していた宝生丸が、奥尻島で遭難するところを救けられたことから、
船乗りを廃業して、
布教に専念する 堅い心定めをした。一家の生計を支えていた 卯之助の布教専従は、
養父母の 猛烈な反対にあい、
土佐家と絶縁という形で、
明治15年春、単身 大阪三軒家に出て、
借屋住まいをし 布教生活を始めた。しかし、おぢば帰りした際、
教祖に 改めて縁を結んで頂いて 撫養に帰り、
養父母達と別居して
駄菓子を売りながら 布教に精を出した。この年(明治15年)、駄菓子屋の外に
布教の一助に と
色々と 煮干、西瓜の思惑買いをしてみたり、
マキハダ製造をも始めてみたが、
悉く 失敗に終わった。
明治16年頃〜明治17年頃
そのなかで 明治16年1月に
おぢばで 蒸風呂の許しを得、
弁財天村 20番屋敷で 営業を始めたのが、
存外、天理教の布教となり、
珍しい「おたすけ」により、信者が増加していった。その反面、
この頃から 警察の迫害が始まり 移転地に窮し、
撫養町斎田の 第2号講元 赤穂多賀蔵の 裏座敷に移り住んだ。教線が伸展するに反し、生活は 益々 窮迫を加えたが、
長女 お初が出直したに次ぎ、
2女 たつの の誕生をみて、
卯之助夫妻の信仰は 固まり、
布教には 一段と 熱が加わっていった。明治17年には、
阿波国一円に、
60余名の講元、周旋に、約1,000戸の信者が出来た。こうなると 当然 警察の干渉、弾圧は厳しくなり、
全県下の信者が一挙に検挙される
という事件も起きた。しかし、こうした中にも、
卯之助のおぢば帰りは、毎月 繰り返された。この年の 秋のおぢば帰りには、
教祖から赤衣を戴き、親心の有難さに感泣した。
今なお、この赤衣は
撫養大教会の 教祖殿に祀っている。当時 警察の干渉 激しいところから、
教会建築の話が出始めたり、天輪教会 設置運動に参加したりしたが、
不首尾に終わってしまった。
明治18年頃〜明治19年頃
明治18年秋になって、
卯之助 只一人を残して、
講元、信者のことごとくが 神道修成派に 加盟した。19年春には、これ等の連中が、
卯之助を 何としても 修成派に引き入れようとして、
天理教の信仰が自由になれば、全員脱退する
という条件を提示したので、
遂に 卯之助も 修成派天理部を設置し、
その部長となり、
修成派の教師にも 補せられることになった。これが 「土佐は謀叛人や 山師や」と、
本部から 誤解されることになった。阿波真心講は 内憂外患と共に、
天理教には珍しい 本部からの忠告をも 受けることになった。しかし、
これによって 卯之助の信仰は、益々錬磨され、
教祖への思幕と信仰は 白熱化していった。
明治20年頃〜明治23年頃
明治20年陰曆正月26日に、
教祖が 御身をお隠しになった時は、
本部の誤解が 未だに解消されていない時であった。従って、
最後のお別れである 教祖の葬列にも 加えて貰えず、
只独り 畦をつたいながら 行列から離れて お供をしていた。教祖 御身お隠し後、
本席 飯降伊蔵が、「おさづけの理」を渡すようになった。卯之助は、拝戴を願い出たが、
一身の精神、一家の事情定めについて「おさしづ」があっただけだった。しかし、この間に、修成派とも絶縁し、
8月28日、6回目に願い出たところ
鮮やかにお許しを頂いた。同年10月には、
阿波真心組から 94名が おぢばに帰り、
そのうち 20名を選んで、
おさづけの理拝戴を 願い出たところ、
全員が揃って 戴くことが出来た。これは、
当時としては 驚異的な出来事であった。明治22年8月26日に
阿波国真心講 総代 麻植房次郎 以下 53名の連署による
撫養支教会 設置願書は、
土佐卯之助を会長として 本部の許しを得、
徳島県 板野郡 撫養町 斎田村 第354番屋敷に
めでたく教会が設置された。同年(明治22年) 10月4日に 撫養支教会の 普請の許しを得、
この普請にも いろいろな紆余曲折はあったが、
11月に落成。
越えて 明治23年5月27日に 開筵式を挙行した。教会設置以来、教線を県外に伸ばして、
香川県をはじめ中国、九州にまで布教師を送った。
明治24年頃〜明治30年頃
明治24年10月30日に 分教会昇格、
11月22日に 昇格奉告祭を執行。
翌25年1月23日には、
汽船を借り切って 昇格御礼 初団参拝が 出発している。又 この年(明治25年)に
名東、南阿、名西、秋月、美拝
と 部属教会が設置されたのをはじめとし、
その後 続々と 部内教会設置をみた。明治26年 3ヵ所、
27年 5ヵ所、
28年 17ヵ所、
29年 19ヵ所、
30年 12ヵ所、
31年 6カ所、
32年 1ヵ所、
33年 1ヵ所、
34年 7カ所、
35年 11カ所
(撫養支教会設置以来 18年間に 98ヵ所)
である。
明治30年代以降〜明治末期
明治31年 4月、
卯之助は 南阿支教会に事情発生したため、
その事務取扱いとなる。明治32年 4月3日 初代会長 長女 土佐タツノが
山田敬誠を 婿養子に迎えたので、
33年 2月27日 撫養分教会長 辞任、
敬誠が 2代会長 拝命。(土佐卯之助)初代は 本部詰となり
明治33年7月5日に 本部員に登用された。翌34年1月12日 2代会長出直につき
卯之助は、撫養分教会 事務取扱いとなる。明治40年 1月 卯之助は
本部の要請により
韓国の農業開発による布教伝道を目的として、
有志を集めて 興農会を組織し、
土佐農場を 開設した。この興農会は 約5万円をもって、
300町歩の田地を買収して 経営に苦心したが、
大正年代に入り 漸く 成功を納めた。明治44年 9月25日、
卯之助は 嗣子 土佐敏一に後を譲り、
本部勤務に終始した。
歴代会長の主な経歴
初代会長
昭和3年 8月6日、
(初代会長 土佐卯之助は)74歳にて 出直した。なお、教会創設に当たっては、
麻植房次郎、岩朝脇次郎、玉垣多伝治、田村才次郎、中津熊蔵、吉成森蔵、天満益右衛門、長町石松、古林藤次郎、浜田藤五郎、赤穗多賀蔵等が
初代会長を援けて 丹精した。明治39年末には、
部内教会は 98カ所に達し
徳島県下はもとより、
香川県、阪神地方、中国、九州、北海道、
遠く海を越えて 韓国釜山にまで
教会設置を見るに至った。
2代会長
2代会長 土佐敬誠は、
明治32年 4月3日 土佐家に入籍。
翌33年 2月27日 撫養分教会 2代会長 拝命。
同年 12月出直 (享年28歲)。
3代会長
3代会長 土佐敏一は、
明治39年 2月17日 タツノと結婚。
44年 9月25日 撫養大教会長 拝命。
(撫養分教会は 42年1月6日に 大教会昇格の許しを得る)。3代会長は、
大正2年頃から青年会活動を盛り上げ、
徳島千秋閣等にて「天理教大講演会」(4月6日)、
「撫養青年会講習会」 (9月20日)
等を開催しており、
同年 9月10日には、
神殿裏地に 青年会堂の建築落成を見た。また 同7年 12月1日に 天理教青年会参事の任命も 受けている。
大正5年 5月10日、
初代会長の病気から 本部員 板倉槌三郎に 教会改築の神意を諭され、
柏原源次郎、岩朝脇次郎 両名が
その推進の中心となった。大正6年 1月、
大教会を 撫養町木津 461 番地に移転決定。
その敷地買収に 専ら 吉成森蔵が当たり、
同月9日には 手付金を入れ、
一部を残して 登記を終了した (敷地5,550坪)。大正9年 3月23日、
大教会 移転建築出願のため
役員、部属教会長代表らと共に、おぢばへ帰っている。同年 5月22日 建築委員と係員を任命。
同年 11月23日、木津坊崎にて 3代会長が祭主となり 地鎮祭を行い、
裏山より 最初の土持ち「ひのきしん」を行った。参加者300名。大正11年 3月17日、会堂、事務所の上棟式があって、
同月22日には 斎田の地における 最後の月次祭を執行。
翌 4月20日 午後8時から 木津の仮神殿への遷座祭が行われ、
10時 渡御にうつり、
11時 木津着、
次いで 鎮座祭が行われたが、
当夜の参集者は 3,500名を数えた。又、翌 4月21日 鎮座奉告祭、
22日 仮神殿での 初の月次祭が つとめられた。
同年 7月21日 神殿起工式。
大正12年 4月21日 神殿上棟式。大正14年(1925) 8月6日 夜10時半より 真柱祭主のもとに 遷座祭が行われ、
翌 7日 午前2時終了。
また、同日 午前9時半から 3代会長が祭主となり 神殿落成鎮座奉告祭が 盛大に執り行われた。
本部直属教会長の臨席 23名、一般参拝者 3,000名に及んだ。この年の4月21日
防府 部属教会 40カ所を 撫養に残し、
名東は 134ヵ所をもって 分離昇格した。大正15年(1926) 1月15日、同月20日、同月25日の 3次に亘る
教祖40年祭には、
撫養からの帰参者 7,800人に及んでいる。韓国 慶尚南道金海郡七山面二洞里における
興農会 土佐農場は、
大正7年頃 完成を見、その後、終戦まで存続した。
4代会長
昭和7年 9月6日 4代会長に 土佐忠敏 就任。
昭和14年 天理教 満州伝道庁長、
同23年 天理教 教庁営繕部長等を歴任。
同31年 1月26日 本部員に 登用される。また 同37年 10月26日 ふしん委員会副委員長 並びに 表統領に任命され、
2期に亘って 職務を全うして、
同43年 11月27日 表統領辞任、
同年 12月1日 常詰、天理教よのもと会委員長、たすけ推進会議委員長、おやさと委員会委員長に指命され、
現在に及んでいる。同48年 7月26日 撫養大教会長を 後継者 土佐敏太郎に譲り 辞任。
同年 1月 任命なった 教祖90年祭ふしん委員として 活躍した。なお、4代会長在任中の 昭和15年 3月10日に 南阿大教会、
同年 4月5日 香川大教会、
同16年 3月26日 防府大教会が
それぞれ 分離昇格している。〔現住所〕 〒772-0004 徳島県 鳴門市 撫養町 木津461番地
〔電話〕088-686-3214(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,816~818 )
おわりに
天理教各教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
6回目の 今回は、
「撫養大教会」の歴史をなぞりました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【初版=1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています。
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
撫養大教会の歴史について探索しようとする際、
まず 私の頭に浮かんでくるのは、
土佐卯之助先生の生涯を描いた『船乗り卯之助』(道友社) という DVDの内容です。
昔、私の教会にも、道の先人シリーズというDVDがあって、
おぢばがえりのバスの中で流れていたのを覚えています。
まぁ、それは余談ですが、
撫養大教会初代の 土佐卯之助先生の 歴史に関するエピソードとして、
私の中で 最も印象に残っているのは、
今回の原文にも記述されているエピソード――
明治18年頃から
迫害を避け 自由に信仰できるように との思いで
「神道修成派」に加盟した行動が 本部の不評を買って、
最後のお別れである 教祖の葬列に参加することを拒まれた…
そのため、
ただひとり 畦をつたいながら 葬儀の行列から離れてお供をした――
というエピソードです。
これは、かなり昔に どこかで読んだエピソードですが、
(どこで読んだのかは覚えていないのですが (◞‸◟) …)
心からお慕いしていた教祖とお別れする場へ出ることを差し止められた 土佐卯之助先生、
その悔しさ、悲しさは、如何ほどであったことか…
詳細をよく知らないにも関わらず、只ひたすら心が痛んだ、
ということを記憶しています。
しかし――
そのような、想像を絶するほどの無念さ、悲しみも、
土佐卯之助先生は たんのう一筋の心で乗り越えられました。
その結果、
阿波真心講=「撫養大教会」の道は 大きく伸び栄え、
今では、お道の大黒柱の教会の一つとして
輝かしい光を放っておられます。
そうした歴史の姿を通して学び取ることができることは何でしょうか。
私は、そのような史実を通して、
たとえ一時的に誤解をされたとしても、
真実誠の心があって それが天の理に添っていたならば、
必ず理解をされ、繫栄する姿を見せて頂くことが出来る
ということを学び取ることが出来るのではないだろうか…
と思ったりしたのでありました。
(浅い学びかもしれませんが…)
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】6回目の今回は、
『天理教事典』の中の
「撫養大教会」についての記述を書き写したわけですけれども、
今回も、また 知らないことばかりでした。
2代会長 土佐敬誠先生は、
28歳で教会長に就任するも、
就任した年に (28歳の若さで!) お出直しされていた、とか、
明治40年頃、
韓国の農業開発による布教伝道を目的として
【興農会】というものを組織し土佐農場を開設、
大正7年頃完成して 終戦まで存続した、とか…
今まで知らなかった多くのことを知ることが出来て、
とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで 今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返る ということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「撫養大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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