Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
教材は、
たまたま自教会にあった 1977年版の『天理教事典』。
今から27年も昔の、
1997年=昭和52年に出版された教材ですから、
記述内容は 昭和50年頃までで止まっています。
そして、
無条件に「原文」を書写していますので、
もしかしたら、
この記事を目にした関係者の方の中に、
この記述内容は事実と異なる!
と 不快な思いをする方が おられるかもしれません。
ですが、
当ブログは、自己学習目的のものであり、
ただ単に「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年版)の記述内容を
淡々と書き写したもの。
ですので、
記事の記述内容の正確性というところまではよく検証できていない ということを
お断りしておきます。
前回は、
教会番号16番「甲賀大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号17番「水口大教会」について勉強します。
水口大教会(みなくち だいきょうかい)
草創期~藤橋光治良初代会長時代
明治19年
水口大教会の源は、
深谷源次郎を総講元として すでに京都を中心に大きく根を伸ばしていた斯道会 (後の河原町大教会) の
第2号講社 西野清兵衛 に発している。滋賀県甲賀郡 南杣村杉谷 (現在 甲南町杉谷)の在に、
寺井清次郎の妻 お松 という、その頃すでに 不惑の年も過ぎた人がいた。(お松は) 田の草取りをしている時、
稲の穂先で眼を突いたのが原因で 失明してしまった。当時、京都府綴喜郡 宇治田原村の一山村である湯屋谷に出稼ぎしていた息子 勇吉は、
この母の不幸を聞き、
早速「生き神様」の風評高い 西野清兵衛の許へ 母を連れて行ったのが、
奇しくも「水口」の始まりとなった。時に 明治19年(1886) 夏の事である。
明治19年頃~明治21年頃
お松は 1週間ばかり滞在して 片方の眼が開くと、
そのまま飛び立つ思いで 杉谷在に帰り、
誰彼かまわずに 神様のお話を取り次いで回った。
地元では 西田宗三郎、
隣村に移って 鵜飼弥蔵、
更に 三大寺村では 田代兵蔵が
信仰に励んだ。三大寺村からは 縁者を伝わって 東内貴村、水口村の郷山と 北に広がり、
他方 南に伸びては 大原中村、神村と渡り、
更に 神保、隠岐、儀峨へと 講社は簇生して行った。
この間、実に 1年足らずの出来事である。当然、斯道会としても 再三 人を派遣して、
布教に、講社の結成に と尽力し、
結果 次の講社が 記録に残されている。南杣村杉谷 第62号 西田宗三郎
北杣村牛飼 第63号 鵜飼弥蒇
北杣村三大寺 第64号 田代兵蔵
大原村中村 第65号 西田助治それより少し後れては、
東内貴村 第75号 今村五平
水口村郷山 第76号 中村六右衛門
大原村神 第82号 中本幾太郎
佐山村神保 第93号 森地石松
佐山村隠岐 第94号 島田杢右衛門
大野村儀峨 第95号 佐治登喜治良
と 続いている。一方、同じく柏木村宇田には
山田太右衛門を講元とする 斯道会 第38号講 (後の甲賀大教会) があり、
すでに明治21年2月には 集談所開設にまで及んでいた。1里足らずの目と鼻の所に現われた 鮮やかな教えの姿に刺激され、
また それが吉祥ともなって、
上記の10講社を連合して、こちらでも集談所を設けては
という事に 話は纏まった。信者戸数は これだけで充分である上に、
当時64号 三大寺講社からは、
駿河地方にも 道が伸びる兆があったからである。(後の嶽東大教会)こうして 明治21年9月中旬、
その頃「おさづけ」を戴いていた只一人の 今村五平を集談所長として、
甲賀郡三大寺村三本柳、藪下進四郎宅で
「十講社 連合集談所」開講式が開かれた。これが 形の上での 水口大教会の始まりである。
明治19年頃~明治24年頃
しかし、寄合世帯の宿命ともいうべき人間的不信問題や、
集談所の移転問題などが絡んで 波瀾が続発し、
折角のまとまりも 次第に 分裂の危機にさらされていった。一方、こうした間にも 各講社は爆発的に膨張して
信者数は激増の一途を辿っており、
このままでは 帰趨にも迷う実情となったので、
第65号周旋 山下菊太郎、93号講脇 藤橋光治良、171号講元 高岡和輔らが
その再編成に乗り出し、各講社を説得して
遂に 水口村柳町196番地に、
再度 集談所開設の運びとなった。この時は 藤橋光治良を信徒総代とし、
明治24年2月11日、深谷徳次郎、上川孫兵衛を迎えて
華々しく開講式が挙行された。さて、役員の選定となり、
任期を3年として 連合長1名、事務会計2名を出すこととして
選挙の結果、
連合長には 藤橋光治良、田代兵蔵が 同点、
山下菊太郎、堤八平が 事務会計に当選した。しかし、
田代兵蔵は 自ら無学の故をもって辞退したので、
藤橋光治良が 第2次連合長に決定した。
藤橋光治良 初代会長について
藤橋光治良は、
安政5年5月18日
滋賀県甲賀郡 佐山村神保、
藤橋長右衛門の長男として生まれた。兄弟は 弟の登喜治良 (後の湖東大教会 初代会長) の2人。
家は 代々農業を営んでいた。平和で豊かな村に成人し、
明治12年、22歳で よしと結婚した。妻 よしの産後の不調、父 長右衛門の死、長女 きくえの死、更に 母 なみのリュウマチの発病と、
1~2年の間に不幸の波が次々と襲ったのが 入信の動機となった。当初は 神保講社の講脇から、一躍 2次連合長に推されたのは、
柳町集談所結成までの行動力、説得力が 人々の認める処となったからで、
その信念、人柄、又 若さが大きく買われたことは いうまでもない。
明治25年頃~明治27年頃
支教会設置への動きは、
母胎の完成と 内容の充足から来る 当然の帰結であった。明治25年11月21日、
教会名は「淡海支教会」とし、
藤橋光治良、山下菊太郎、田代兵蔵、中村六右衛門、高岡和輔、吉村与四郎が連署の上、
河原町分教会へ請願書が提出され、更に 本部へも許しを仰いだ。かくて、その月(11月) の20日には 早速に許しを得たが、
教会名において「淡海」という呼称は 国名に通ずるとのことで
「水口」と改称された。その後、
地方庁出願には 3度願書を提出して、
明治26年12月28日付で認可。
翌年(明治27年) 1月3日 めでたく開設式が執行された。これと並行して強力に審議されてきたのが
教会建築のことである。建築用地については すでに早く、
「柳町集談所」の隣接筋向かいに当たる
水口村大池町3305番地の 古田洋平所有の1反24歩が候補に上がり、
明治25年 1月6日付で 本部の許しを得、
同年(明治25年) 2月22日 藤橋光治良名義で 買収が完了した。開設式の夜、建築の儀は最終的に議決され、
明治27年 2月24日付で本部の許しを得ている。これより先、
まず 事務所の起工式を1月21日、
4月19日に落成、
5月8日には 神殿の工事始めを、
7月に上棟式、
そして(明治27年) 11月1日に 落成式が賑々しく行なわれた。
その他 会長宅を始め 一切の付属舎も完備された。その時の神殿は 間口6間、奥行10間で破風玄関造り、
現在も 会長宅と共にそのまま移築されて、
往時を偲ぶ記念建物として 保存使用されている。
明治27年頃~明治32年頃
こうした華やかさの蔭には、
何れの場合でも見られる 人心の緩みと、
借財の整理問題が押し寄せた。極度の窮迫状態に陥る。
当然 離れてゆく者もあった。しかし逆に、
今こそ 心を合わせて教会を死守せねば
という人々も集まってきた。
家財を手放し、教会の周辺に借家を求めての、
事実上の住込みである。
今に残る住込みの体制は こうして定着した。即ち 次の人たちである。
島本惣七、山下菊太郎、岡崎治右衛門、田代兵蔵、榊原新七 (以上 明治30年)、
佐治善四郎、井上佐市 (以上 明治31年)
高岡和輔、西田宗三郎、西岡惣次郎、今村五平 (以上 明治32年)
明治33年頃~大正元年頃
その頃 上級 河原町分教会では、
深谷会長の 3男 景三 (4歳) の患いから、「おさしづ」を仰いで
部内の 甲賀、湖東、水口 3教会分離の事情が持ち上がっていた。明治33年 3月と7月の再度に亘って 藤橋会長に相談がもたらされたが、
水口としては 時期尚早の故をもって決まらず、
むしろ 和合協力、教会の発展を期すべく、
嶽東出張所の昇格、
河原町の敷地買収並びに移転、
更に 水口の増築などに忙殺されて
一顧する暇もなかった。一方、河原町では 景三の病状依然思わしくなく、
再度仰がれた「おさしづ」から 分離の事情がいよいよ差し迫り、
協議はようやく纏まって、
同年(明治33年) 12月17日付をもって願書提出となり、18日付で許された。因みに 当時の部内教勢を見ると、
分離昇格した明治33年には 教会数53カ所であったが、
翌34年には 19ヵ所新設されて 72ヵ所と急増。更に 明治41年 天理教が一派独立すると、
翌(明治)42年 1月25日付で「天理教水口大教会」となり、
その年 1年で 13ヵ所増加して 101ヵ所、
この間10年で 部内教会数は
概ね 2倍の伸展ぶりを見せている。こうした組織づくりの時期がすぎて、
いよいよ本格的な活動期を迎えようとした矢先、
思いもかけぬ大きな悲しみの節が訪れた。初代会長 藤橋光治良の出直である。
時に 大正元年 8月24日、
突然の脳溢血によるもので、享年55歳の男盛りであった。
板倉槌三郎2代会長時代
大正元年頃~大正12年頃
その頃 嗣子 一春は まだ19歳で
天理中学校に在学中であり、
協議の結果 急遽 本部に会長特派を願い出て、
板倉槌三郎本部員を迎える事となった。板倉2代会長就任は
大正元年(1912) 12月24日である。その就任期間は 10年であった。
この間、(板倉槌三郎2代)会長は 整理と仕込みに力をつくし、
水口が 信念的に揺ぎない底板を入れられた
貴重な一時期である。この 板倉(槌三郎2代)会長の 徳と尽力に触発されて、
その在任10年間に 部内教会は 65ヵ所の新設を見るに至り、
大正12年 3代会長との交代時
(部内教会数) 180ヵ所を数えるまでに成人している。
藤橋一春3代会長時代
大正12年頃~大正13年頃
3代会長 藤橋一春が
その任を譲られたのは 大正12年 1月31日、
その在任30年。まず 詰所の移転を実施。
水口詰所は 明治34年以来、
三島の沢田留吉宅 (現、親里館郵便局) の一部に間借りしていたのが、
(明治) 40年 7月には
現在の天理プールの東側に 1軒買収して移転。更に 大正4年 教祖30年祭を迎える体制整備の上から
布留に移転新築して、
一応 その機能と姿は 整っていた。しかし、
この布留の詰所は 本部境内の中に含まれてあり、
40年祭までには返したいというのが、
板倉(槌三郎)2代会長の信念であった。すでに 早く土地買収を終えてあった 田井庄 (現在地) への移転建築は、
教祖40年祭を目指し、(藤橋一春)3代会長就任を記念した恰好となって強行され、
大正13年 10月に これを完了した。
大正13年頃~昭和7年頃
また、
現在に見る 地上60尺にあまる 神殿の建築は、
この 詰所移転の気運に乗って実現された。この当時 (昭和9年) の部内教勢は、
その数 361カ所を数え、
旧大教会神殿の狭隘と不便は
如何ともしがたい実情であ った。大正15年 4月、
水口町古城山麓西域一帯の地均しに着手、
2年を要して
昭和3年春には、約1万坪の敷地は見事に完成した。早速 同年(昭和3年) 6月、
まず 事務所を完成して 一時 お目標を迎え還し、
同年(昭和3年) 10月には
旧神殿を解体移築して 再度 お目標を奉遷、続いて
神殿、教祖殿、客殿へと 工事は急がれ、
昭和7年 5月10日御遷座、
翌11日には 多数の参拝者の中を、
いとも厳粛 且つ 盛大に奉告祭は執行された。なお、これと同時に
当時に至るまで借家住まいを余儀なくされてきた住み込み役員宅10軒も、
新大教会の四囲に敷地を広げて 新築 或いは 旧家を改良して、
その形が整えられた。
昭和10年頃~昭和26年頃
新神殿の移転完成の慶びは、更に昂められ、
姿を変えて、
当然来たるべき 部内教会の分離昇格
という方向に 固められていった。昭和10年 4月25日、
嶽東は、
部内教会 佐野原を 母体水口に残して 分離昇格、残された佐野原も
その後を追うように、
昭和15年 3月2日に 昇格改称した。当時 嶽東が 142カ所、
佐野原が 144カ所、
母体に残された水口部内は 109カ所であった。正に、(藤橋一春)3代会長時代は
姿形の完備の30年であった。時代は更に 第2次世界大戦へと突入するが、
部内教会が総じて郡部に散在していた実情も相まって、
戦災教会が 8カ所に止まったことは、
不幸中の幸いであったといえよう。終戦と同時に「ぢば」から提唱された「復元」の 声に即応するべく、
水口は その目標を 創立60周年記念祭に集約した。一方、藤橋一春3代会長は
時に 本部員の要職にあって、
そのつとめを全うすべく、会長の任を 嗣子 光春に譲った。時に、昭和26年10月26日であった。
藤橋光春4代会長時代
昭和26年頃~昭和40年頃
藤橋光春4代会長は、
明治大学から軍隊に入り、
終戦による復員後は 天理時報社、真柱室、教校本科を経て、
新婚早々の一時期を 東京に単独布教中であった。さて、
前記の通り(水口)大教会では
復元の実を 創立60周年記念祭に集約し、
その執行を 昭和27年と提唱していた。(藤橋光春) 新会長を迎えて 更に心機一転、
部内教会の整備も完うして
同年(昭和27年) 10月2日、
会長就任奉告祭をも兼ねて(創立60周年記念祭が) 盛大に行われた。華やかな容姿の完成を成し上げた(藤橋一春)3代会長時代の後を受けて、
(藤橋光春)4代会長の 現在 (『天理教事典』1977年版出版当時) に至る時期は、
その内容の充実時代ともいえる。その中に
三度 部内教会分離がなされた。教祖80年祭を目睫にした 昭和39年秋、
小南部部内の教会で お目標紛失という大事が発生した。
教会の存在を問われる事件であった。これが直接の契機となって、
昭和40年 1月26日、小南部72ヵ所が 分離陞級した。かくして、
教会内容の充実と世界だすけに向かって
着々と積極的な活動を展開している。〔現住所〕〒528‐0038 滋賀県甲賀郡水口町新町1丁目1番35号
〔電話〕0748-62-0146(昭和50年12月31日調 『天理教統計年鑑』 昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,800~802)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
17回目の今回は、
「水口大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
水口大教会は、
前々回勉強した湖東大教会、前回勉強した甲賀大教会同様、
「斯道会」の流れを汲んだ大教会ですね。
斯道会=河原町大教会については、
以前勉強して 記事を投稿しました。
前回も書きましたが、
部外者から見ると、
前々回の「湖東」、前回の「甲賀」、今回の「水口」、
教会番号15~17番の大教会は、
河原町分離の三大巨頭というか 三羽ガラスというか…
三兄弟のような存在に見えます。(^^)
近江の 三大教会――
「江州商人の進取性」を基盤とした
狭い所に治まることなく 全国あちこちへ広がっていこうとする「拡大パワー」に満ち満ちた
逞しい大教会ですね。(^^)
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】17回目の当記事では
『天理教事典』の中の「水口大教会」についての記述を書き写したわけですけれども、
今回も、また知らないことばかりでした。
水口大教会は、
近隣で急成長を遂げつつあった
山田太右衛門を講元とする 斯道会 第38号講 (後の甲賀大教会) 、
その姿に刺激され、
その頃 各地で次々と生まれていた講社を束ねるような形で
「十講社 連合集談所」として始まった。
しかし、それが分裂の危機を迎えてしまい、
その際、その中の心ある人々が 各講社を説得して、
「第2次連合」として再編成。
それが、今の「水口大教会」へと発展していった…
という流れなのですね。
面白いなと思ったのは、
「第2次連合」の役員選定を【選挙】にて行った、
という下りです。
しかも、選挙の結果、
連合長には、藤橋光治良・田代兵蔵の両先生が同点となった。
しかし、
田代兵蔵先生が辞退したので 藤橋光治良先生が「第2次連合長」に決定した…
このあたりの流れは、
いかにも「江州商人の進取性」という感じで、
時代を先取りしているようにも見えます。
今は世襲だったり話合いで会長や役員を決めている天理教の教会ですが、
もしかしたら、将来は、
選挙で会長や役員を決める――
なんて時代が来るかもしれません。
そうなったら、
「水口大教会」はその先駆けだ!と言えそうです。
また、
「第2次 講社連合」から【支教会】へ発展移行する際に、
「淡海支教会」という名称で申請したところ、
「淡海」という呼称は国名に通ずるとのことで「水口」と改称された、
という話。
これも、全く知らなかった史実で、
興味深く拝読させて頂きました。
また、
河原町分教会から 甲賀、湖東、水口 3教会が分離する際の経緯も、
印象深い話でした。
3教会分離の話は
深谷河原町会長の3男・景三 (4歳) の患いに対する「おさしづ」から出てきたものだ
ということは、
河原町大教会・湖東大教会・甲賀大教会の勉強をした際に、
既に教えて頂いておりました。
しかし私は、
分離を告げられた側は、きっと
“これからは自分の所帯をもって頑張っていけるんだ!”
的な感じで、
ポジティブというか、てっきり「光栄な話」として受け止められたのだろう…
ぐらいの軽い感覚で捉えておりました。
しかし、今回の『天理教事典』の中に、
「水口としては(河原町からの分離は) 時期尚早の故をもって決まらず、むしろ 和合協力、教会の発展を期すべく、嶽東出張所の昇格、河原町の敷地買収並びに移転、更に水口の増築などに忙殺されて一顧する暇もなかった。」
と記述してあるのを読んで、初めて、
あぁ…当時の水口大教会にとって「分離せよ」という話は、不安いっぱいの提案だったのだ、
ということを知りました。
外から見ると、さぞ光栄なことだっただろう、と見えるような行動でも、
その中にいる当事者にとっては、
外から見ただけでは窺い知れない様々な背景事情、苦悩・苦労というものがあるのだなぁ…
ということを、改めて教えられました。
しかし、
深谷河原町会長の子息・景三の病状依然思わしくなく 再度仰がれた「おさしづ」から
分離の事情がいよいよ差し迫り、
最終的には分離独立となり、
そして、それが今の、天理教を支える大きな柱の一つとしての「水口大教会」につながっているわけです。
「成ってくるのが天の理」という言葉もあります通り、
3教会が分離独立するのは「神意」であり、
きっと当時の人々の苦悩は、生まれる前の陣痛的なものだったのでありましょう――
…その他のことも含め、
今回も、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「水口大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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