天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より

「河原町大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年3月後半から
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】として、
『天理教事典』(1977年初版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写しています。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

なぜ このシリーズを始めようと思ったのか?

それは、
自分の所属する 直属教会の系統の歴史については ある程度 知っているけれども、
自分に関わりがない 天理教各教会の歴史については ほとんど知らない…

なので、
天理教 教祖百四十年祭へ向かう 今の旬に、
これまで自分とはご縁がなかった 天理教の各教会の歴史について 多少なりとも知って、
お道の大きな【流れ】に対する感性を高めたい、
そのように考えたことによります。

前回は、
教会番号4番「船場大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号5番「河原町大教会」について 勉強したいと思います。

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河原町大教会 (かわらまち だいきょうかい)

Google マップより

明治10年〜明治20年頃

京都に 初めて天理教の教えが伝わったのは、
明治10年 (1877)ころと思われる。

大阪河内から 奥六兵衛によって伝わった線と、
飯降勝平(本席の弟) が京都に大工仕事に来て伝えた といわれる線と
二つの流れがある。

河原町の初代会長、深谷源次郎の入信は、
明治14(1811) 9月のことで、
当時 京都では 奥六兵衛が 熱心に布教していた。

その信者の一人、鋳物師の 富川久吉が
近くに住んでいた 深谷源次郎に 天理教の信仰をすすめた。

生来の陽気な、信仰好きから、
源次郎は 観音講か太子講に入るくらいの気持で入信した という
明朗な入信ぶりであった。

「おつとめ」の陽気さと、
火・水・風の 親神様守護の理 という、
今日までにない 珍しく有難い教えに魅了された という。

当時、深谷源次郎は
河原町通三条大黒町に「丹源」という店舗を構え、
みずから 鼎や農工具類を作る 鍛治職であった。

明治15年(1882)春、
仕事中の 源次郎の右眼に 真赤に灼熱した 鉄屑が飛び込んだが、
家人の狼狽を制して、
2階に祀ってある 神様の前に 平伏した。

「ない人間、ない世界を創ったとお聞かせ下さる 親神様、
どうぞ この潰れた眼を 元通り 見えるようにして下さい。
もし 御守護下さるなら、深谷源次郎 生涯 神様のために 身命を捧げます」

と願いつつ、
片手で 傷をおさえながら 片手で「おつとめ」をつとめたところ、
たちまち痛みがとれ、
鉄が 眼から落ちた。

取るものもとりあえず、
「おぢば」に参拝して 教理を聞き
数日後 帰宅した時は、
潰れた右眼は 全く 元通りになっていた。

ここに 深谷源次郎の 盤石の信念は 定まったのである。

奥六兵衛を講元として「明誠社」が結成され
信仰する人は 日に日に増していった。

ところが 親神の あまりにも鮮やかな守護の姿に、
奥六兵衛は、信仰を踏みはずすようになったため
講元排斥の動きが 目立ってきたが、
そのつど、講元は その罪を曲げて
会計を担当する 深谷源次郎にかぶせた。

源次郎は 奥講元を諫めて
真の信仰にもどるよう 諭したが、
講元は かえってこれを憎み
深谷 排斥の運動を進めた。

このため ついに 明治16年(1883)秋、
深谷源次郎は、
安良七兵衛・中西寅次郎・沢田善助ほか 3名と共に
明誠社を脱退し「斯道会」を結成、
その講元に 深谷源次郎が 選ばれた。

明けて 明治17年(1884) 3月上旬、
教祖の「おさしづ」を伺ったところ、
斯道会の種は さあ/\ きよう、
さあ/\ をぼんだ、
さあ/\ これから どれだけ大きなるとも わからん
と 仰せ下され、
斯道会の 果てしない未来を 予言された。

「おぢば」の許しを受けた 斯道会は
「斯道会員心得」を配布、
毎月、月の 4・9 の日 6回 信者の家を 回り持ちで 講社づとめ、
1・3・6・8 の日 12回を「おてふり」稽古日と定めた。

人々の心は、
この「てをどり」に、又「みかぐらうた」に集まり、
信者宅では 手狭を覚えたので、
常楽寺(現・京都市中京区蛸薬師通裏寺町)の本堂を借り受けて、
「おつとめ」場とした。

天理教に対する 官憲僧侶等の迫害干渉の激しかった当時にあって、
何ら 紛糾沙汰も起こらず
明治21年 (1888) 秋まで、
寺院の本堂で 堂々と神名が奉唱されていたことは
特筆すべきことであろう。

明治21年〜明治22年頃

明治21年(1888) 春には、
深谷源次郎は、鍛冶屋仲間で鳴らした 丹源の暖簾を下し、
「救け一条」の道に立った。

また、この年(明治21年)10月
三条大黒町に 借家ながら集談所を設置することとなり、
11月15日 最初の「おつとめ」をつとめた。

以来、
一層 盛り上がってきた 数会設立への願いは、
明治22年(1889) 2月18日の「おさしづ」によって 親神様の許しを得て、
いよいよ実現の運びに至った(初代真柱許しは 3月31日)

地方庁の出願も、
1回の調査却下もなく、
出願2日目の 同年(明治22年) 6月21日認可。

ここに
京都における 最初の天理教会として
「神道天理教会 河原町分教会」の設立をみた。

教会出願の以前から、集談所の手狭さが問題であったが、
地方庁の認可を得ると同時に 移転建築の議が 具体化し、
京都市中京区河原町二条下ルーノ船入町(現・京都市役所北側・島津製作所所在地)
に 地所家屋を買収、
直ちに 神殿建築にとりかかり、
(明治22年) 12月15日には
初代真柱祭主のもとに 開莚式を挙行した。

初代 深谷源次郎入信と 斯道会の伸展について

深谷源次郎は
明治14年(1881)に 入信した。

その同日には、
沢田善助を入信に導いたという。

源次郎の 明朗さ熱心さと、
親神の不思議な御守護に 魅せられた人々は、
続々と 源次郎を 訪ねて来た。

明治17年(1884) 10月1日、
湯屋谷(現・京都府綴喜郡) の 西野清兵衛を講元とする
斯道会 第2号が 生まれた。

以後 講社を号名によって呼ぶようになったが、
この 号名制度は 明治44年(1911) 4月7日まで続き、
第5073号を数えるまでに至った。

斯道会の伝道線は、
商売の流通経路と共に 伸展した。

湯屋谷からは 茶の産地を伝わり、信楽街道を伸びた。
茶職人の 黄瀬駒吉から
甲賀谷(現・滋賀県甲賀郡水口町)の 山田太右衛門に道がついた。

この山田と、
杉谷村の 西田宗三郎・
牛飼村の 鵜飼弥蔵・
三大寺村の 田代兵蔵・
内貴村の 今水吾兵衛は
「甲賀谷の5人男」と呼ばれ、
熱烈な布教を展開した。

後に、水口・甲賀・湖東の 3大教会の誕生をみた。
陽気な「てをどり」に 人々の心は勇み立った。

江州商人の進取性は、
江州全域はいうに及ばず、東海・関東へと伸び、
また 湖東八日市の 堤丑松は 北九州に教えを伝えた。

一方、明治19年(1886)8月、
京都・山城方面の旱魃に際しては、
下鴨村(現・京都市左京区下鴨)村役たちの願い出により、
「おさしづ」〔明治19年(1886)8月22日〕のままに、
雨乞(あまごい)づとめを勤め、
不思議な降雨の守護を見せられたことから、
下鴨村一帯が信者となり、
やがて 大原の 中林寅吉が入信することとなった。

大原から 途中を越えて、
西江州堅田の 旅人宿 吉野家こと 前川又吉に伝わった。
この宿屋から 若狭を経て、山陰道、北陸道に伸び、
さらに 東北地方から北海道へと 伸展して行った。

こうした伝道線は
各地に講社の結成、数会の設立をみ、
やがて 次々と 本部直属の大数会へと 分離陞級した。

斯道会の一つの種から生まれた大教会は
現在(※編者註=『天理教事典』(1997年初版)出版当時)
33カ所を数えるに至っている。
それらを伝道経路から列記すると次のようになる。

『天理教事典』1977年版の 斯道会 系統図👇

『天理教事典』1977年版 P,218 より

(編者註:上記は、『天理教事典』(1977年初版)の記述をそのまま書き写したものです。1997年当時の古い情報であることにご留意下さい。)

海外布教について

教祖40年祭(1926) の 海外布教の提唱により、
海外布教熱は 大いに高められた。

河原町というより 天理教の海外布教面の大部分を
当時の 越乃國分教会の部内の 本島が 一手に引受けていたありさまであった。

本島 (現・香川県丸亀市本島町) の 片山好造の熱願により、
伝道線は
朝鮮半島から 中国・シベリア・蒙古へと伸び、
一方、太平洋を越えて、ハワイ・北米へと 伸展した。

河原町4代会長 深谷徳郎も、
昭和7年から 約3年間、天津・満州の伝道庁長に就任。
大陸伝道の先頭に立ち、
北京の 祟文教会内に 大教会 北支出張所を設けて、
華北伝道の足場とした。

明治22年〜明治35年頃

初代会長 深谷源次郎 (明治22年3月31日~明治33年1月27日)
本部の勤務のため、会長職を辞し、
明治33年(1900) 1月27日
深谷徳次郎が 2代会長に 就任した。

そのころ、部内教会数も 250を越え、
分教会も 何かと 狭小不便となっため、
新築移転の機運が 高まってきた。

一方、
徳次郎の次男 景三の身上伺い(明治33年7月16日)より、
甲賀・湖東・水口の昇格分離の「おさしづ」があり、
「河原町にふさわしいふしんを完成の上で分離」
との相談がまとまり、移転建築に取りかったが、
このふしんに際しての「おぢば」への御供えとして、
第1回 7万円、第2回 2万6千5百円、第3回 1万円を献納した。

本部では、これを
一派独立運動に不可欠の要件となっていた
教校建築資金にあてた という。

かくして、明治33年(1900) 12月、
旧山階宮 別邸であった 現大教会所在地(京都市左京区東丸太町1番地)12,680㎡ を買収、
明治35年(1902) 10月5日、
移転建築落成の奉告祭を執行した。

明治42年頃〜大正時代

その後、天理教一派独立に伴う 教会制度の改正により、
明治42年(1909) 1月18日付をもって「河原町大教会」と改称。 

この年(明治42年) 10月10日、
深谷徳次郎は40歳をもって出直した。

明治42年(1909) 11月12日、
3代会長には、再び 深谷源次郎が 就任した。

その後 京都市の道路拡張工事のため、
丸太町通に面した 1,850㎡が削除され、
付属建物として 2階建事務所を 新築した。

徳次郎 嗣子・徳郎の成人と、源次郎の視力衰弱により、
大正9年(1920) 3月17日付をもって、
4代会長に 深谷徳郎が 就任。
教祖40年祭活動の中に 若い情熱を 漲らせた。

大正14年(1925) 8月、
教会本部のすぐ近くにあった信者詰所を 本部に献納、
田井之庄町の 現詰所所在地に 新築移転した。

海外布教においても、
大陸伝道に燃える「よふぼく」の育成に、
また、(深谷徳郎4代会長) みずからも 満州・天津の伝道庁長として活躍した。

昭和初期〜戦前

越乃國・本島・京城の諸教会は 海外へと伸展、
昭和6年(1931) 5月には
越乃國の 昇格分離をみた。

一方、(深谷徳郎4代会長は)
本部における業績も著しく、本部員として枢機に参画し、
また、
天理外国語学校創立委員・天理高等女学校長・天理図書館主任・教校校長兼本科主任の要職にあって、
更に、
天理時報社の創立発起人と、その活躍は みるべきものがある。

昭和13年(1938)からは、
日華事変の展開に伴う国家の重圧を受ける という難局を、
(深谷徳郎4代会長は)
教庁総務部長として、
教理の一部削除という応法のなかを、教祖の教えの伸展のために努力していたが、
昭和16年(1941) 1月10日、
享年49歳をもって 出直した。

昭和16年(1941) 4月22日、
5代会長・深谷かの(徳郎の妹)就任。

第2次世界大戦の 大きな嵐の中にあって、
(深谷かの 5代会長は)
女性の身でありながら、
西陣・山國の 陞級分離の大事を処理、
戦時の 教会内容の充実につとめた。

終戦後

昭和20年(1945) 9月27日、
6代会長・ 萩原方円 就任。

(萩原方円 6代会長は)
戦争中 海軍に貸与した詰所の復興。
昭和23年(1948) 10月19日『河原町大教会史』並びに『初代会長伝』を編纂刊行し、
「斯道会に帰れ」を合言葉に
部内教会の 一手一つをはかった。 

4代会長 徳郎 養嗣子・善和の成人に伴い、
萩原方円 6代会長辞任。

昭和28年(1953)4月20日、
深谷善和 就任。

(深谷善和 7代会長は)天理教青年会、天理教音楽研究会の運営に参画、
特に 教祖80年祭には、
ふしん委員会副委員長として、
おやさとふしんと「憩の家」の創設につとめた。

また、
海外伝道部アフリカ課長(ヨーロッパ課長・オセアニア課長兼任) として、
コンゴ・ブラザビル教会の設立に貢献した。
現在※編者註=『天理教事典』(1977年初版)出版当時))
本部員、道友社社長等の任にある。

一方、
詰所炊事場信者室、大教会事務所及び信者室の ふしん完成をみたのも、
昭和47年 (1972) 2月である。

「斯道会」は
現在※編者註=『天理教事典』(1977年初版)出版当時)までに
33カ所の大教会と、1カ所の分教会を
本部直属教会として産み出した。
これらを総合すると、全教1⁄5強の教会数となる。

(編者註:上記は、『天理教事典』(1977年初版)の記述をそのまま書き写したものです。1977年当時の古い情報であることにご留意下さい。)

河原町大教会の文化活動について

河原町の文化活動が
天理教に与えた影響は 極めて大きい。

まず、雅楽であるが、
明治22年(1889) 河原町分教会 開筵式には 奏楽した記録をもつ。

以来 雅楽熱はいよいよ高まり、
大正10年(1921)「雅韻会」を結成。
大正12年(1923) 2月から 数年にわたって 本部に出張教授を行った。

文書活動面でも 古い歴史をもつ。

すでに 明治37年(1904) 4月7日『興徳時報」第1号が、教会の機関紙として発刊。
昭和25年(1950) から 昭和29年(1954) には『斯友』、
昭和29年(1954)9月からは「河原町」と改名して、
現在もなお、機関紙としての 重要な役割を果たしている。

また、
昭和6年(1931) 本教教義 及び 史料に関する図書の蒐集と、
河原町大教会の 重要文書記録の保存、
文書布教に資するための 書籍発行を目的とし、
片山俊次・西井道一により「天理教河原町文庫」が創設され、
NDCによる分類法を採用。

現在までに
上川米太郎著『みかぐらうた私解』(昭和7年)
『おたすけ実要』(昭和7、8 年) を始め、
『斯友文庫』全3巻、特全3巻、
『河原町年報』(昭和8 ~11年)
『教典参考』、
西井道一写真集『館の象徴』(昭和49年)
などの図書を出版。

また、蔵書数も
天理部門3,570冊、一般部門13,500冊(内、児童部門1,228冊)、京都部門677冊の多数多面にわたり
一般に公開されている。

一方、
4代会長・深谷徳郎の 時代思潮に対する鋭い識見から、
昭和7年(1932) 9月「河原町映画部」が結成された。

これとても その源は、
明治44年(1911) 西陣青年会の 幻燈布教にある。

そして、
普通写真 または 16mm映画による 各方面の記録
及び 布教の目的をもって 生まれた映画部は、
「躍進天理教」を制作、
映画館を利用しての 公開上映に成功、
内外ともに 大きな反響を呼びおこした。

また、少年会活動の歴史も古い。

明治43年(1910) 部内 平安西支教会において「子供会」が組織され、
信者・未信者にかかわらず、その子弟を集め、
月1回の子供会や 夏休みの林間学校などを開催。

これに端を発して、
「西陣子供会」「梅鉢健児団」「新生会」
その他 各地の教会に 少年会が発足。

河原町大教会においても「つくしクラブ」を結成、
更に これが「河原町楽園」に発展、
道の後継者育成に 貢献した。

これらの文化活動は 共に団結し、
それぞれの部門を担当するかたわら、
映画部・音楽部・少年部が 協力して、
「音楽と映画のタベ」「児童劇」の上演などを 企画、実行 。
現在の 天理教本部の文化活動面に 寄与したことは 少なくない。

〔現住所〕 〒606 京都市左京区丸太町通川端東入東丸太町1番地の1 
〔電話〕  075-761-8121

(昭和50年12月31 日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,217~220 )

おわりに

Googleストリートビューより

天理教各教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

5回目の 今回は、
「河原町大教会」の歴史をなぞりました。

当記事では
『天理教事典』の中の
「河原町大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も、また 知らないことばかりでした。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【初版=1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています。

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

当シリーズにおいては、上記フレーズを毎回付記しているのですが、
今回は、
とても 古い資料を参考にした記事である ということを、
特に 強調する必要がありそうです。

それは何故かと言いますと、
今回の原資料内には
「斯道会」に関して記述された部分があるのですが、
教会数や大教会の系統順序等、現状と異なっている所が
結構あるからです。

当シリーズで書写している原資料の『天理教事典』は 1977年版であり、
今から27年も昔の、1977年=昭和52年時点での 情報であります。

「十年一昔」という言葉もありますし、
当該資料公刊から 30年弱もの 歳月が流れたわけですから、
変わったところが様々ある というのは、まぁ 当然と言えば 当然。
…それよりも、
もっと新しい資料を参考にしろよ、という話ですよね… (>_<)(汗)

しかし、まぁ、1977年当時の情報でも、それはそれで勉強になる…
と 私は思っておりますので(汗)
そのまま 公開させて頂く次第です・・・(^^ゞ

河原町大教会グーグルストリートビューより③
Googleストリートビューより

『天理教事典』(1977年初版)の中には、
次のような記述があります。

「斯道会」は
現在※編者註=『天理教事典』(1977年初版)出版当時)までに
33カ所の大教会と、1カ所の分教会を 本部直属教会として 産み出した。
これらを総合すると、全教1⁄5強の 教会数となる。

天理教の全教会の 1⁄5強(!) の教会数 !!
それにしても、すごい規模!

『天理教事典』1977年版の 斯道会 系統図👇

『天理教事典』1977年版 P,218 より

『天理教事典』1977年版出版当時は上記ですが、
そこから20年経過して、
現在は 以下👇のようになっているみたいです。

『天理教教会所在地録』立教180年版の 河原町 系統図👇 (数字は『天理教教会所在地録』内のページ数こと

『天理教教会所在地』立教180年版(平成29年)系統表より

天理教教会の 太く巨大な幹…という感じですね。

斯道会で検索していると、
以下のような画像が ヒットしました。
(青年会秩父分会様、お借りします m(_ _)m

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」斯道会に繋がる青年会斯道会「大教会系統樹」.jpg より

上記のように「系統樹」として一覧図で示して頂くと、
改めて、その規模の大きさが伝わってきます。

ただ、
人が大勢集まると、それはそれで、
また 色々と 難しいことが出てくる というもの。

『稿本 天理教教祖伝 逸話篇』
148「清らかな所へ」
というお話の中に「斯道会」初期のお話が出てきますが、
それは、
人がたくさん集まってくることに伴って生まれてくる難しさの一端を示していると思います。

『教祖伝逸話篇』148.清らかな所へ

斯道会が発足して、
明誠社へ入っていた人々も、次々と退社して、
斯道会へ入る人が続出して来たので、
明誠社では、深谷源次郎さえ引き戻せば、
後の者はついて来ると考えて、
人を派して説得しようとした。

が、その者が、これから出掛けようとして、
二階から下りようとしてぶっ倒れ、
七転八倒の苦しみをはじめた。

直ちに、医者を呼んで診断してもらうと、
コレラという診立てであった。

そこで、早速医院へ運んだが、
行き着く前に出直してしもうた。

それで、講中の藤田某が、
おぢばへ帰って、教祖に伺うと、

「前生のさんげもせず、
泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、
又、泥水の中へ引き入れようとするから、
神が切り払うた。」

と、お言葉があった。

現在の天理教教会の 1⁄5 近くの教会を生み出した
河原町大教会「斯道会」ですが、
その始まりには、
その母胎となった「明誠社」との間で
大きな人間関係トラブルを抱えていた… という事実。

それは、
多くの人間が集まれば、
活気も出て 良いことがたくさんある反面、
その分、摩擦も増えて 難しいこともたくさん出てくる、
という、
人間社会に現れる 必然のことわりを象徴しているように見えます。

そのような、
人間関係の大いなるもつれからスタートした「斯道会」が、
現在の天理教教会 1⁄5近くの教会を生み出すほどまでに発展した歴史から、
私達は 何を学び取ることが出来るでしょうか。

私の頭には、
天理教にご縁を頂いた者なら 誰もが聞かせて頂く
「けっこう源さん」のお話が 思い浮かびました。

どんな 困難に思える現象であっても、
それを “けっこう” と
「たんのう」して受け取られた 深谷源次郎先生。

事あるごとに聞かせて頂く「たんのう」の教話ですが、
「たんのう」一筋として有名な 深谷源次郎先生の蒔かれた種が、
初動の混乱を乗り越えて 大きな花を咲かせている、
という歴史は、
「たんのう」という信仰実践には
人間関係の難しさを乗り越えて
大きな理の栄えを築き上げるだけの力があるということを示している――

今回の勉強を通して、
改めて、私は そのような感想を抱きました。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで 今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返る ということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「河原町大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

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