天理教 各教会の歴史探索(第93回)【西海大教会】『天理教事典』より

「西海大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号92番「磐城平大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号93番「西海大教会」について勉強します。

  1. 西海大教会(さいかい だいきょうかい)
    1. 近江商人達による北九州地方への伝道、相次ぐ斯道会講社の創設(明治24年頃)
    2. 筑紫地方 斯道会の道あけ、堤丑松や森井治三郎らの布教活動(明治23年頃〜)
      1. 斯道会 第677号 結成(明治25年)
      2. 斯道会 第704号の結成(明治25年)
      3. 斯道会 第737号の結成
      4. 斯道会 第740号の結成
    3. 宗像地方の教勢拡大(明治25年頃〜明治27年頃)
    4. 集談所の開設(明治27年)
    5. 西海出張所の開設(明治27年)
    6. 出張所の移転建築(明治28年)
    7. 西海の道の広がり(明治28年頃〜明治34年頃)
    8. 鍋山孫三郎 初代会長の経歴
      1. 鍋山家、嫡子の相次ぐ夭折
      2. 鍋山孫三郎の入信(明治25年)
    9. 鍋山孫三郎の布教活動 〜 西海出張所初代所長 就任前後(明治25年頃〜明治27年頃)
    10. 教勢の低迷(明治30年頃〜明治38年頃)
    11. 鍋山孫三郎 初代会長の辞任、福原惣太郎2代会長の就任(明治40年頃)
    12. 経済的困窮時代 〜 教勢の回復(明治40年頃)
    13. 西海分教会へ昇格(明治42年)
    14. 福原惣太郎2代会長の辞任(大正8年)
    15. 鍋山藤六3代会長の就任(大正13年)
      1. 鍋山藤六3代会長の経歴
    16. 鍋山藤六3代会長 突然の出直し、福原一正4代会長の就任(大正13年)
      1. 福原一正4代会長の経歴
    17. 福原一正4代会長の辞任、鍋山栄5代会長の就任(昭和5年)
      1. 鍋山栄5代会長の経歴
    18. 西海大教会へ昇格 〜 大教会陞級奉告祭(昭和16年〜昭和18年)
    19. 昭和中期の動き(昭和26年頃〜昭和36年頃)
    20. 鍋山栄5代会長 突然の出直し、鍋山善徳6代会長の就任(昭和40年)
    21. 鍋山善徳6代会長就任前後の動き(昭和40年頃〜昭和49年頃)
  2. おわりに
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西海大教会(さいかい だいきょうかい)

西海大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビュー より

近江商人達による北九州地方への伝道、相次ぐ斯道会講社の創設(明治24年頃)

江州地方の蚊帳売り商人、俗にいう近江商人達により、北九州への伝道が進められ、
明治24年(1891) 5月以降、
筑紫大教会の前身 = 斯道会 第365号・366号・367号 等の講社が設置された。

(そして) 引続き、続々と各地に、斯道会 (現・河原町大教会) の講社が創設された。

筑紫地方 斯道会の道あけ、堤丑松や森井治三郎らの布教活動(明治23年頃〜)

明治23年初夏の頃、
江州・池の尻講社の周旋方・堤丑松や、
嵯峨講社の周旋方・森井治三郎などが、
福岡県鞍手郡 木屋瀬 宿より (福岡県)宗像郡 赤間宿へと 蚊帳売 行商をしつつ、病人を見つけては おたすけする、など布教に従事した。

(そのことにより、筑紫地方における斯道会の道が始まった。)

斯道会 第677号 結成(明治25年)

(福岡県鞍手郡) 木屋瀬の灰屋・松尾徳之助方に 斯道会 第367号の講社が設置されていたが、
同家(松尾家) に(は)、
(福岡県)宗像郡 勝浦村・永島貞六の妻の妹・ハル子
永島治八の娘・カツ女
天野定六の娘・ハルヱなどが、
お手伝いをしていた。

ハル子達は、明治25年2月に (福岡県宗像郡) 勝浦村に帰り、布教活動に奔走した。

僅かの間に、塩浜・松原方面に救けを蒙る者多く、80余人の信者を得て、布教の熱はますます燃え上がった。

この知らせで、(福岡県遠賀郡) 上津役村・能美賢一郎 (筑紫初代) が この地 (福岡県宗像郡 勝浦村) に出張。
ここに、斯道会 第677号 (勝浦) が、永島貞六を講元として 講を結んだ。

斯道会 第704号の結成(明治25年)

小島市太郎・花田菊太郎の両人は、
太宰府に参詣し、連歌屋飛梅講 定宿の 富屋弥平方に宿泊中、幸崎の 梶栗弥吉に逢い、神様の話を聞いた。

そして、(福岡県鞍手郡) 木屋瀬に向かう途中、(福岡県鞍手郡) 長谷の 六反田付近にて、花田八蔵・花田弥平などに逢った。

その人達は、(福岡県鞍手郡) 木屋瀬に参拝を終え、
江州の 端金四郎、大久保紋助の両氏を伴い、腰浦に向かうところであった。

小島(市太郎)・花田(菊太郎)の両人は、
(福岡県鞍手郡) 木屋瀬の 長七木賃宿に泊まり、灰屋に参拝し、
能美賢一郎・福原惣太郎より 懇切に 教理を聴聞した。

(そして) ここ (福岡県鞍手郡木屋瀬の 長七木賃宿) に 3日間滞在し、郷里に帰り、
花田弥平を講元として、斯道会 第704号 (松原) の講を結んだ。

時に、明治25年の春であった。

斯道会 第737号の結成

(福岡県) 宗像郡 河東村 稲元の 滝口松太郎の妻女が、久しく 神経痛を病んでいた。

(滝口松太郎の妻女は) 滝口弥七より (天理教の) 話を聞き、(福岡県鞍手郡) 木屋瀬に参り (おたすけを受けたところ)、不思議なご守護を頂いて たすかった。

(滝口松太郎の真剣な布教活動により)
ここ (福岡県宗像郡 河東村稲元) にも、天理教の教えが広まった。

ここに、
斯道会 第737号 (稲元) が、滝口松太郎を講元として 講を結んだ。

斯道会 第740号の結成

(福岡県) 家像郡 吉武村 大字吉留字 平山の 豪農・鍋山孫三郎は、
嫡子がつぎつぎと夭折し、その悲運を転換せんものと、御大師様を熱心に信仰していたが、たまたま月日の神様として霊験あらたかなる神が、(福岡県鞍手郡) 木屋瀬にあると聞き、早速、木屋瀬に参り、信仰をはじめた。

また、同地区・木野磯吉の母の病気のおたすけに、(福岡県鞍手郡) 木屋瀬より 石橋又十が赴き、不思議なご守護を頂いて たすかった。

同じく、蒋田国太郎、水上米吉など多くが おたすけを蒙り、ここにも教えが広まった。
鍋山孫三郎を講元として 多くの人々が寄り集い、斯道会740号 (平山) の講が結ばれた。

宗像地方の教勢拡大(明治25年頃〜明治27年頃)

その後(も) 不思議なたすけは あちこちに 続々とあらわれ、(福岡県) 宗像(地方) 一帯に 天理教は 広まって行った。

前記(の) 4講社に前後して、
津丸・須多田・渡・舎利蔵・神興・塩浜・冠・竹之山、
などの講社の創立を見た。

さらに、
隣郡(の) 粕屋へ、
ついで、
筑後 三潴郡・豊後 高田・肥後 玉名・肥前 松浦… 等へと
教線は、燎原の火の勢いの如く 八方へ延び広まって行った。

これらが、西海の基を礎く濫觴らんしょうである。

集談所の開設(明治27年)

(福岡県) 宗像(地方) の有力な講社 = 勝浦・松原・稲元・平山、
以上の 4講社の間に教会設置の機運が起こり、
各 講元・講脇・周旋方により、教会設置の談合がもたれた。

(そして)
明治27年1月28日、
稲元講社(の) 講脇・滝口弥七宅に、
滝口松太郎・滝口弥七・滝口尚質・吉田彦十・滝口嘉吉・花田弥平・花田菊太郎・花田八蔵・山脇嘉平・鍋山孫三郎・木野磯吉・蒋田国太郎・水上米吉・中村福平・永島貞六・小島市太郎、
以上の16名が会合し、集談所(の) 設置を決議した。

(そして) 鍋山孫三郎が、
衆望の決するところ 推されて、(西海集談所) 初代所長に就任した。

集談所は、宗像の中心地たる 東郷に設けられた。

福岡県宗像郡 東郷村 大字東郷1025番地が その最初の場所で、
時に、明治27年2月のことであった。

西海出張所の開設(明治27年)

(宗像)郡内(の)講社を糾合し、
(福岡県宗像郡の) 東郷を中心に 布教熱が盛り上がり、おぢばに帰る者が多くなったのは、この頃である。

明治27年2月、
鍋山孫三郎を初代所長として 集談所の設置を見るや、本格的な布教活動が開始された。

(それに伴い) 不思議な御守護は 次々と現われ、入信する者は数知れず 教勢は伸びて行ったが、これと共に 世の反対攻撃も 日増しに強くなった。

しかし、これによく耐えて布教伝道は続けられ、教線は ますます発展の一途をたどった。
ここに(おいて、一同は) 正式に 出張所(の)設置を (天理教教会)本部へ 願い出た。

明治27年12月24日 河原町部内 西海出張所 設置願 (担任・鍋山孫三郎) 
さあ/\ 尋ねる事情々々、事情願通り 許し置こう、さあ/\ 許し置こう。

ここに 磐石の基礎は固まり、西海大教会の第一歩が 力強く踏み出されたのである。

出張所の移転建築(明治28年)

(西海)出張所設置と共に 本格的な布教伝道が始まった。

(西海の) 教勢の進展と共に、借家であった出張所は たちまち狭隘となり、
明治28年6月28日、移転建築の議が図られた。

ついで、おさしづを仰ぎ、(福岡県)宗像郡 東郷村1200番地に 地所を買求め、移転建築をする事になった。

(その後) 10間に6間の神殿建築を完成し、
翌 明治29年 旧9月1日、盛大なる開講祭を執行した。
遠近を問わず集い寄った参拝者は堂に溢れ、未曽有の盛儀の中に祭典を終えた。

西海の道の広がり(明治28年頃〜明治34年頃)

西海出張所 設置の後、教線は破竹の勢をもって伸びて行き、各地に次々と部内出張所が設置されていった。

(福岡県) 宗像より 粕屋地方へと急激に教えが広がり、
明治28年9月29日(には)、
鎮西出張所(現・鎮西大教会) の許しを得た。

一方、
筑後 三潴では、明治29年6月16日、大莞出張所の設置を見た。
また、
豊後に、九豊、
筑前に、北筑・福博・鎮守・入部、
肥前に、松浦、
肥後に、玉名、
以上の各出張所が 時を同じくして願い出、各々 許しを得た。

次いで、
明治30年から31年には、
筑豊・多久・筑陽・天拝・明海・西照、
などの各出張所の設置を見た。

さらに、
明治34年には、
東久留米・津島・六角の 各出張所設置となった。

西海(は) 出張所設置より 7年(の)間に、
部内 20余ヵ所の 教会の設立と発展を遂げていった。

鍋山孫三郎 初代会長の経歴

(西海出張所) 初代会長となった 鍋山孫三郎は、
福岡県宗像郡 平等村の 中野孫右衛門の次男として 弘化4年8月15日 出生。

明治3年11月、縁あって 中野家の親類にあたる 同郡(福岡県宗像郡) 吉武村吉留・鍋山久助の養子となり、久助の一人娘・ナミと 結婚した。
(孫三郎は、鍋山家 養子入り後も) 両親によく仕え、家業に精を出した。

鍋山家、嫡子の相次ぐ夭折

鍋山家は、近郷にも聞こえた 豪農であり 裕福な暮らしであったが、子運に恵まれなかった。
孫三郎は、男女12人の子をなしたが、嫡子が 次々と夭折した。
その悲運を嘆き、御大師様を 熱心に信仰していた。

(鍋山孫三郎は) 
明治10年より 同(明治)21年の間に 5人の子供と 両親を失った。

(そのような) 全く 涙の乾く間もない不運が続いて、
生来 剛毅不屈の (鍋山)孫三郎も その悲嘆(は) やるかたなく、心中 察するに余りあるものがあった。

鍋山孫三郎の入信(明治25年)

明治22、23年の頃、
(西海の) 伝道線は、斯道会の流れをくむ 福岡県鞍手郡 木屋瀬宿より 宗像郡 赤間宿へと伝わり、同郡(宗像郡) 吉武村にも、いち早く伝わって来た。

明治25年5月、
もともと信仰心(の)篤い (鍋山)孫三郎は、
この話を聞き、早速 (福岡県鞍手郡) 木屋瀬に参り、教理を聴聞するに及んだ。

(木屋瀬に参って話を聞いた 鍋山孫三郎は) その深遠なる教理に (深く)感じ(入った。
そして) これこそ真の信仰の道である と心に深く決するところがあり、
(鍋山孫三郎は、天理教に) ただちに入信(したのだった)。

鍋山孫三郎の布教活動 〜 西海出張所初代所長 就任前後(明治25年頃〜明治27年頃)

(鍋山孫三郎は) 以後、一家を挙げて熱心に信仰するようになり、
自宅に神様を祀り 講社の拡張につとめた。
ここに平山講が結ばれ、(鍋山孫三郎が) 講元として 布教に専心することになった(わけである)。

(そして) 明治27年12月24日、
西海出張所の許しを得て、(鍋山孫三郎は その)初代所長に就任した。

(鍋山孫三郎は、その後) 教勢の拡張と ぢばの許しを得て、神殿の移転建築を完成(した)。
時に、(鍋山孫三郎) 初代所長 49歳。入信以来 5年目であった。

教勢の低迷(明治30年頃〜明治38年頃)

明治30年頃には (西海出張所の) 部内教会も10数ヵ所を数えるに至ったが、
この頃に至ると、
前年(明治29年)の 内務省秘密訓令により 天理教に対する圧迫は (更に)加わって、教勢が (大きく)伸び悩んだ。

やがて、明治37~38年の日露戦争後の不況時代に遭遇した。
それに(加えて)、
(西海出張所の) 部内の一部に「安堵事件」に連座するものが現れて、
(西海の) 布教は 一頓挫をきたした。

(また、西海出張所の)内にあっては、教会は多くの住込み人をかかえて、経済状態も詰まり、同時に (西海出張所) 部内教会の疲弊も(また) 甚だしかった。

しかし、この(ような困難な状況の)中にあっても、
(鍋山孫三郎) 初代会長は よく事情を治め、専心 布教伝道に尽力した。

鍋山孫三郎 初代会長の辞任、福原惣太郎2代会長の就任(明治40年頃)

(鍋山孫三郎) 初代会長は、明治40年9月、その職を辞任。
(ちなみに、鍋山孫三郎初代会長は) 大正11年11月2日、76歳で 出直した。

明治40年9月5日、
鍋山孫三郎の辞任に伴い、2代会長に福原惣太郎(が) 就任(した)。

経済的困窮時代 〜 教勢の回復(明治40年頃)

(その頃は) 日露戦争後の不況時代であり、
経済恐慌に見舞われ、全国的に経済的困窮が甚しかった時でもある。

(西海の)教会も 多分に漏れず、布教線は萎縮し、経済的にも困難な時代であった。
(西海出張所) 部内教会の疲弊も甚しく、諸々の事情が続出していた。

この時にあたり、
(福原惣太郎) 会長は、教勢の挽回と事情教会の整理復興に、寝食を忘れ 日夜東奔西走。
よく事情を治め、部内の修理に尽力した。

(その後) 徐々に (西海出張所)部内教会も立ち直り、漸次 教勢も回復してきた。

西海分教会へ昇格(明治42年)

明治41年11月、天理教一派独立にともない、
明治42年3月11日、
(西海)出張所は、分教会に昇格(した)。

福原惣太郎2代会長の辞任(大正8年)

福原惣太郎は、
引続き (西海分教会の)会長に在職していたが、
大正8年5月29日、
(上級の) 筑紫分教会4代会長に就任した。

(それに伴って、福原惣太郎は) 大正13年1月25日、
西海分教会長を 辞任(した)。

鍋山藤六3代会長の就任(大正13年)

(福原惣太郎2代会長が 上級の筑紫分教会の4代会長に就任することとなり 西海分教会長を辞任する事となったことを受けて、鍋谷藤六は) 
大正12年10月、九博(宣教所) 所長を辞任し、西海に帰った。

(そして) 大正13年1月25日、
(鍋山藤六が、西海分教会)3代会長となった。

時に、部内教会は 37ヵ所を数えた。

鍋山藤六3代会長の経歴

3代会長・鍋山藤六は、
福岡県宗像郡 宮田村朝町、梶谷清七の2男として 明治13年2月7日(に)出生(した)。

(梶谷藤六は) 
長じて、鍋山孫三郎の養嗣子となり (鍋山藤六となった。)
(そして) 養父・孫三郎の厳格な教訓と熱烈な信仰に導かれ、信仰信念を固めた。

(梶谷改め 鍋谷藤六は) 
明治34年12月17日、おさづけの理を拝戴(した)。

(鍋谷藤六は) 
同(明治)35年1月25日、教導職試補に補せられ、単身九州の南端・鹿児島に 布教(に出た)。
ついで 福岡の地に宣布の手をつけ、大正6年(1917) 10月、九博宣教所を設立し 所長に就任した。
(その)一方、西海分教会役員に任ぜられ「西海」発展の上にも尽くした。

(そして、西海分教会2代会長・福原惣太郎の 上級・筑紫分教会4代会長就任に伴う西海分教会長辞任という事態を受けて、
大正13年1月25日、鍋山藤六が 西海分教会の3代会長となった、というわけである。)

鍋山藤六3代会長 突然の出直し、福原一正4代会長の就任(大正13年)

しかし、
大正13年4月17日、
(鍋谷藤六3代会長は)
(3代)会長就任奉告祭を前に、
(なんと) 忽焉として出直し(てしまっ)た(のだった)。

享年 43歳であった。

このため、
福原一正が (西海分教会の)4代会長に就任した。

福原一正4代会長の経歴

福原一正は、
明治29年8月25日、
福岡県鞍手郡 直方町字新町・福原惣太郎の長男として出生(した)。
大正4年3月、天理中学校を卒業し、真柱邸玄関に勤務した。

大正13年4月、3代会長・鍋山藤六(の) 出直しにより、
同年(大正13年) 10月28日、
(福原一正が)4代会長に 就任した(のであった)。

福原一正4代会長の辞任、鍋山栄5代会長の就任(昭和5年)

(福原一正・西海4代会長は)
昭和5年(1930) 2月8日、
福原惣太郎 (筑紫4代会長) の出直によって、(西海の)会長を辞任し、
同年(昭和5年) 3月23日、
筑紫分教会5代会長となった。

(福原一正 西海4代会長が 筑紫分教会5代会長に就任することになったのを受けて)
昭和5年3月21日、
鍋山栄が (西海分教会の)5代会長に就任した。

鍋山栄5代会長の経歴

5代会長・鍋山栄は、
明治40年3月15日、鍋山藤六の一人子として、
福岡県宗像郡 東郷町大字東郷1200番地に出生した。

(鍋山栄の出生は) 鍋山家3代の養子のいんねんを断った (鍋山家にとって) 始めての嗣子の誕生であった。

(鍋山栄は) 
大正13年3月、宗像中学を卒業したが、父・藤六会長の出直により、湖東大教会に住み込んだ。
(そして) 引続き 天理外国語学校に入学(した)。
昭和3年3月、(天理外国語学校) 第1回生として 卒業。
昭和4年1月、おさづけ(の理) 拝戴。

(鍋山栄は) 母・ハナの訓育を受けて信仰を深め、
昭和5年3月21日、24歳で (西海分教会の)5代会長に就任した(というわけである)。

西海大教会へ昇格 〜 大教会陞級奉告祭(昭和16年〜昭和18年)

(西海分教会は) この頃、部属教会も漸次増加し、その数 80ヵ所を数えた。

(そして) 昭和16年3月30日、
筑紫大教会より分離陞級し、本部直属教会となった。

昭和18年4月7日、
2代真柱を迎えて、大教会陞級奉告祭を執行した。

昭和中期の動き(昭和26年頃〜昭和36年頃)

昭和26年3月25日、(鍋山栄は) 福岡教区長を拝命。

また、多年の懸案通り、
昭和28年10月、丹波市町別所に1,326坪の土地を購入し、第1期工事として 142坪の詰所を建築(した。)
昭和29年10月の秋季大祭団参より、新詰所に 移転した。

また (その)一方、
福岡県宗像郡 東郷の 大教会神殿が、建築以来 60有余年を経て老朽化したので、
昭和36年1月27日、おぢばの許しを得て、
福岡県粕屋郡古賀町大字久保1852番地13(の地)にて、移転建築に着手した。

鍋山栄5代会長 突然の出直し、鍋山善徳6代会長の就任(昭和40年)

その神殿ふしん完成の直前、
昭和40年9月17日、(鍋山栄)5代会長が 突然に出直した。
時に (鍋山栄) 59歳であった。

当時、部属教会は 94ヵ所であった。

昭和40年10月25日、
6代会長に、5代会長の嗣子・(鍋山)善徳が 就任した。

鍋山善徳6代会長就任前後の動き(昭和40年頃〜昭和49年頃)

(鍋山善徳6代会長 就任時)
かねて 普請中の神殿が完成した。

(それで) 許し通り、
昭和40年11月20日、
2代真柱を迎えて、神殿落成奉告祭 並びに (6代)会長 就任奉告祭を執行した。

神殿ふしん完成の記念と 教祖80年祭への御供えとして、
昭和41年1月6日、
鎮西分教会 (部内教会53ヵ所) が 分離陞級した。

(西海大教会は)
昭和49年迄に 新設教会 8ヵ所を設置し、
さらに、昭和49年4月、第42母屋 (西海詰所) の建築を完成した。

【関連事業】
⚫︎ 社会福祉施設 西海保育園

〔所在地〕福岡県宗像郡宗像町東郷1200番地
〔設立月日〕昭和26年9月20日
〔施設長〕鍋山善徳
〔定員〕70名



〔現住所〕〒811-3113   福岡県古賀市千鳥2丁目23ー1
〔電話〕092-942-3303

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,363〜365)

おわりに

西海大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

93回目の今回は、
「西海大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

西海大教会GoogleMapより
Google Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中にも 西海大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

(福岡県)宗像郡勝浦村の永島貞六の妻の妹ハル子と永島治八の娘カツは、松尾徳之助の家へ家事手伝いに行っていた。
明治二十五年、二人は勝浦村へ帰り、不思議な霊救話を浜辺の人へ伝えた。
一ヵ月ほどの間に、塩浜、松原方面で不思議なおたすけが現れ、八十余人の信仰者ができた。

平山の豪農・鍋山孫三郎は、嫡子が 次々 夭折するという悲運挽回のため お大師信仰をしていた。
しかし 木屋瀬の神様の話を聞くと、その深遠なる教理に たちまち感銘した。
三十七年、宗像郡東郷村に西海出張所が誕生、孫三郎が所長に推された。

さらに 道は南下し、粕屋郡古賀町に伝えられた。
二十七年、古賀町の青年集会所に東郷より布教師が来て、熱烈な口調で神様の教えを説いた。
常岡文吉、啓太郎の子が 常岡一郎 (鎮西五代) である。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,100〜101 )
西海大教会写真④
ホームメイトリサーチ旅探天理教西海大教会 より

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】93回目の当記事では『天理教事典』の中の「西海大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

西海大教会は、筑紫大教会から分かれた大教会。
筑紫大教会は、湖東大教会から分かれた大教会。
湖東大教会は、河原町大教会から分かれた大教会。
ということで、西海大教会は「斯道会」の流れを汲んだ大教会ですね。

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」斯道会に繋がる青年会斯道会「大教会系統樹」.jpg より

河原町大教会、湖東大教会、筑紫大教会については、
以前に それぞれ勉強して記事を投稿しました。

当シリーズ第22回「筑紫大教会」を勉強した際に、
斯道会における九州の道は「堤丑松」という近江の蚊帳売商人の方によって蒔かれた、
ということを知りました。



その際、
「斯道会」九州支社は、
明治24年に最初のタネが蒔かれて それが2~3年の短期間であれよあれよという間に拡大し あっという間に大所帯となったのだ ということを勉強しました。

今回の勉強では、改めてそのこと、

すなわち、その頃の「斯道会」の九州伝道の勢いが如何に凄かったのか、

ということを教えられました。


明治24年頃から27年頃にかけて、
福岡県の鞍手郡や宗像郡、遠賀郡などなど…いわゆる「筑紫地方」に、
本当に 雨後の筍のように 次から次へと新しい講社が誕生している… (°o°)



『天理教事典』「西海大教会」解説文の文字を追うだけでも その広がりの勢いが伝わってくる感じがします。


ですから、

その当時、実際の現場に居合わせた人々にとって「天理教」が広がっていく様は、
おそらく 現代の私達からは想像もつかない程の凄まじさだったのではないか、
そんな気がします。

西海大教会写真②
ホームメイトリサーチ旅探天理教西海大教会 より

当シリーズ第22回で「筑紫大教会」について勉強した際、

斯道会の九州拠点は、
仏教界の猛烈な反対にあったことから、

鞍手郡の14講社・遠賀郡の9講社・企救郡の6講社・宗像郡の7講社を統合して、

明治25年に、木屋瀬町の大地主だった松尾徳之助先生宅に「斯道会・第46号天理教集談所」を設置した事から始まる、

ということを知りました。

その後、

松尾徳之助先生の出直しもあって転居を余儀なくされ、

新たな場所で 能美賢一郎先生を担任として設立されたのが「筑紫出張所」ということでした。
それが 明治26年12月末。

で、
福岡県宗像地方の4つの有力な講社(勝浦・松原・稲元・平山)、
以上4講社を統合して「西海集談所」が設立されたのが、明治27年1月28日。
設立年月日は 非常に近い。

『天理教教会名称録』の教会系統表では「筑紫大教会ー西海大教会」という「上級ー部内」という系列になっていますが、

西海分教会2代会長の福原惣太郎先生が筑紫分教会の4代会長に就任したり、
福原一正西海4代会長が筑紫分教会の5代会長に就任したりしているのを見ても、

筑紫と西海の関係は「上級ー部内」という上下関係というよりも、ほぼ 兄弟教会的な関係に近かったのではないか、
というふうに 外側からは見えます。

ただ、これは、
『天理教事典』「西海大教会」解説文だけを根拠にした 単なる私の個人的な印象です。

内部の先生方への聞き取り調査等の掘り下げは 一切行っておりませんので、実際のところ どうなのかは分かりません。
もしも、とんでもない勘違いであったとしたならば、どうぞご容赦願います m(_ _)m

西海大教会写真③
ホームメイトリサーチ旅探天理教西海大教会 より

今回の勉強の中で私が印象に残ったことの一つに、
鍋山藤六3代会長の、会長就任直後の出直しという史実があります。

西海大教会初代会長の鍋山孫三郎先生の入信の動機は、嫡子が育たないという鍋山家のいんねんを自覚した事によるものでした。


江戸末期から明治初期にかけて、
鍋山家は、近郷に聞こえた豪農であり裕福な暮らしをしておられたとのこと。

経済的には裕福であった。
しかし、嫡子が次々と夭折し、明治10年から21年頃の約10年間には、なんと5人の子供と両親が亡くなられた。

「涙の乾く間もない不運が続いて、生来 剛毅不屈の鍋山孫三郎も その悲嘆やるかたなく、その心中は察するに余りあるものであった。」

『天理教事典』にはそのように書いてありました。


わずか10年の間に 子供5人と両親合わせて合計7人の出直し。

割合として、ほぼ毎年に近い間隔で 葬式を出されたわけです (°д°)

当時の鍋山家の皆様の立場を想像しながらその事態をイメージすると、
何か悪いものにでも取り憑かれているのではないか、
といった絶望的・悲観的な考えに包まれてしまうのも致し方ないのではないか、
という気がします。

そんな状況にあって、鍋山孫三郎先生は、お道の教えに出会われた。

そして、
――蒔いたる種は皆生える、この世には厳然たる天の理があり、天の理を知り天の理に沿って歩む事によって真の救いがもたらされる――
という、お道の教理を聞かれた。

なぜ 立て続けにこんな理不尽な事態に見舞われるのか、
いくら頭で考えても 答えの出ない問いに覆い尽くされていた鍋山孫三郎先生にとって、
きっと お道の教えは 暗闇の中に差し込む 一筋の光のように映ったのではないか、
と 想像致します。


鍋山孫三郎先生は、嫡子が育たない鍋山家のいんねんを自覚された。
そしてそこから、文字通り 精魂込めて いんねん切り替えの道を歩まれました。
その中で、明治25年には 西海出張所の初代会長となられたわけです。

会長就任後は、内務省秘密訓令による弾圧や 日露戦争後の大困窮時代等の苦難の時代も、
明治40年に 福原惣太郎先生に後を託すまでの15年間、
教祖のひながたを心の支えに、西海出張所長として 全身全霊を傾けて つとめ切られたのでした。

それ程の 鍋山孫三郎先生による 伏せ込みの真実の理を思うと、
天理教の信仰的には、
その後に広がる道は ただただ「結構」なものであるはずだ、
いや、むしろ「結構」ばかりの道であってほしい とさえ思います。

この文脈の中に置くのは 見当違いかもしれませんが、
『天理教事典』「西海大教会」解説文を読んで知った 鍋山藤六3代会長 突然の出直しという史実――
それは、
尊くかけがえのない救済の物語として一連の歴史を眺めていた私に対して、
一度 立ち止まり、さらに 思案を深めることを促すスイッチとして作用しました。


福原惣太郎2代会長の後を受けて 西海分教会3代会長に就任した 鍋山藤六先生。

大正13年1月25日に 会長就任のお許しを受けながら、
会長就任奉告祭をつとめる前の 4月17日、突然、出直してしまわれた。

なんと、その間 わずか3ヶ月弱。


『天理教事典』には 史実が淡々と記述されているだけでした。
なので、その当時の関係者皆様が それをどのように受け止められたのか 知るよしもありません。



そのような中、この部分を読んで 私の中に湧き上がってきたのは、
これほどに真実を伏せ込まれた 鍋山孫三郎先生の歩みをもってしてさえ、
いんねんの理というのは、一代ですぐに納消し切れる程 容易なものではない 重いものなのか、
という 身の引き締まるような思いでした。

鍋山藤六先生は、鍋山孫三郎先生の実子ではなく養子であり、
また 出直されたのは 43歳の時とのことですから、
鍋山家の嫡子が育たない という いんねんと一緒にするのは お門違いなのかもしれません。

しかし、
道一筋を心に決めて たすけ一条の道を歩まれていた 鍋山藤六先生にとって、
新たに 西海分教会の会長に就任し これから会長として歩み出そう としている状態というのは、
生まれた子供が これから新たな人生を歩み始めようとしている状態と、構造的には同じような状態と 言えなくもありません。

そんな状態の時に、突然、その前途を絶たれたということ。
これは、
その理不尽さという点において 同じような意味を持つと言える、
と 私には感じられたのです。

今回の「西海大教会」の勉強を通して、
嫡子の相次ぐ夭折という 悲しい現実にさらされ 悲嘆の涙に暮れていた 鍋山孫三郎初代会長が、
お道の教理を通して 自らのいんねんを自覚され、懸命に 運命切り替えの道を歩まれたことを知りました。

そこから 130年以上も経過した 現代の姿しか知らない私は、
今回の「西海大教会」の勉強の前までは、
命懸けの信仰を貫かれた 鍋山孫三郎初代会長の歩みが土台にあるわけでもあり、
無意識の内に、【順調に】ステップアップして 今の「結構」な姿へと辿り着かれたようなイメージを抱いておりました。

しかし、今回の勉強を通して知ったのは、
鍋山孫三郎初代会長が それ程に全身全霊込めて伏せ込んだ理をもってしても、
すぐ次の世代、すなわち 養嗣子の鍋山藤六先生の代では「西海分教会3代会長就任直後に出直す」という、教会長という立場としては「夭折」とも言える姿を見せられていた、
という歴史でした。

『天理教事典』「西海大教会」解説文によると、
鍋山藤六先生以後は、嫡子の鍋山栄先生(5代会長)、鍋山善徳先生(6代会長)… と、その後は嫡子の先生方が後を受け継がれているとのこと。


ですので、私たちは、その後に鍋山孫三郎初代会長の伏せ込まれた理は見事に花開き、いんねんは納消されたことを知ることが出来るわけですが、
この史実 (=鍋山藤六先生の教会長就任直後の出直し) を通して 私は「ローマは一日にして成らず」ではありませんが、
いんねん納消の道というのは、そんな安易な道ではないんだよ、
いんねんというのは、それを自覚して 通り返しの道を歩み 天の理に則った歩みを重ねれば すぐに納消出来るというような甘いものではなく、長い忍耐の道中と時間が必要なものなんだよ、
ということを 教えられたような気がしたのでした。

西海大教会AppleMapより
Apple Mapより

その他にも、
・明治29年の内務省秘密訓令により大きな打撃を受けた、という話。
・日露戦争 (明治37~38年) 後の不況時代、多くの住込み人を抱えながら経済的に大いに苦しむ状況の中で、一部の者が安堵事件に連座したりして 大いに疲弊した、という話。
…等々、知らない話ばかりでした。

そういえば、当シリーズ第22回「筑紫大教会」の勉強をした際、

第1次世界大戰直後(大正7年頃) おとずれた世の不景気のため、天理教全体が経済的に苦しんだが、
筑紫も その例に漏れず 部内教会のことごとくが行き詰まり、
朝倉・西海・千歳・鎮西・渡瀬・大莞・北筑…
といった大きい教会のほとんどが 教会を解散するほかなし、
という程の危機に直した。

こうした中に 会長となった福原惣太郎は、
寝食を忘れて 部内教会の「修理」に奔走した。

さまよいブログ第22回 天理教各教会の歴史探索【筑紫大教会】より」)

このように書かれてあったのを 思い出しました。

毎回のように「おわりに」の最後の方に書き添える文章の繰り返しになりますけれども、
以上のような教会の歴史を知った上で今の雄姿に触れると、
その姿に、より一層の重みが感じられますよね。(^^)

西海大教会写真①
ホームメイトリサーチ旅探天理教西海大教会 より

今回もまた知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「西海大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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