Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号69番「秩父大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号70番「中津大教会」について勉強します。
- 中津大教会( なかつ だいきょうかい)
- 泉田藤吉が 豊前・中津布教に至る経緯(明治23年頃)
- 伏見長吉・三次郎親子の船場分教会参拝の経緯(明治21年〜明治22年)
- 泉田藤吉の中津布教 取り掛かり(明治23年)
- 中津の道あけ(明治24年頃)
- 中津布教所開設願の却下~中津布教事務取扱所の開設(明治24年〜明治26年)
- 布教事務取扱所の移転~中津支教会へ改称(明治28年)
- 広がる中津の道(明治中期~大正時代)
- はだしの講元・泉田藤吉 最期の願い(明治37年)
- 今村熊太郎2代会長の就任~今村弁次郎3代会長の就任(明治39年~大正11年)
- 倍加運動による教勢の拡大~教会移転(大正12年)
- 借財の増加〜大分市支教会の分離独立(大正13年頃〜昭和2年)
- 中津中教会への昇格〜大教会への昇格(昭和10年〜昭和15年)
- 今村正典4代会長の就任(昭和25年)
- 神殿ふしんの心定め〜移転(昭和35年頃〜昭和37年)
- 教祖80年祭活動専念に伴うふしん一時中断〜神殿ふしんの完成(昭和37年〜昭和43年)
- おわりに
中津大教会( なかつ だいきょうかい)

泉田藤吉が 豊前・中津布教に至る経緯(明治23年頃)
豊前 中津の道は、
明治23年(1890)、
大阪で、当時「天恵4番」の講長をし 布教していた 泉田藤吉(が 中津へ布教に赴いたこと)によって、つけられた。泉田(藤吉) は、かつて (その数年前の) 明治19年(1886)に、九州への布教を思い立ったことがあった。
しかし、この時 おさしづを伺ったところ「見合わせよ」とのお言葉があったため、(その時は) 断念した。
(そして、代わりに) 石工の北田某を熊本方面に送って 布教をさせた。(そこから月日が流れ) 明治23年、(泉田藤吉は)
船場分教会に 豊前 中津より布教に来てもらいたいと言って来ている(人がいる)が、
あまりにも遠いので (船場から) 誰も行く人がなく その返事に困っている、
と(いう話を) 聞いた。(その話を聞いた泉田藤吉は)
それこそ、かねてからの思いを達成する良い機会だと(認識。
それで)「その話は わしが引き受けさしてもらおう」と申し出た。(申し出により 豊前中津へ布教師を派遣する話がまとまり、
泉田藤吉は、自身が講元をつとめていた)「天恵 4番講」を 大江の 中西(金次郎) に預け、
中津への布教に出(ることになっ)たのであった。
時に、明治23年11月3日のことである。
伏見長吉・三次郎親子の船場分教会参拝の経緯(明治21年〜明治22年)
(話は遡って)
中津から「布教師を送ってもらいたい」と申し出たのは(誰かと言うと)、
伏見長吉と その長男(の) 三次郎であった。伏見(長吉)は、ランプを手広く売っていた(商人だった)が、
明治21年(は) 長吉が病気勝ちになっていたので、
この年(明治21年)の仕入れには 長男の三次郎を行かせた。
(伏見)三次郎は、その時 19歳だった。(伏見)三次郎は いつもの馬関まで 父に代わって行ったが、
その年(明治21年)は 思わしい品物がなかった。
その時、卸屋の主人が 大阪まで行きなさいと勧めてくれて、
(そして) 卸問屋の 川田音吉という人を 紹介してくれた。
(勧めを受けて)
(伏見)三次郎は、思い切って大阪に出た。
(卸問屋の) 川田(音吉)は、
親切に (大阪に出てきた伏見三次郎の) 世話をしたし、思い通りの品物を揃えてもやった。
その上、懇ろに慰労した。
また、大阪の盛り場を見せようと「千日前にでも行こう」と誘った。ところが、(伏見)三次郎は (千日前のことを) 千日参りと聞き違えて
「是非 その参り所へ連れて行って下さい」と願った。
川田(音吉)は、この人 若いのに信心家だ えらい人だ、と感心した。
丁度 その頃、天理教を信仰し始めていた 川田(音吉)は、
(信心深い 伏見三次郎の素養に感心して)
(伏見)三次郎を 梅谷四郎兵衛の 明心組に案内した。(伏見)三次郎は、
そこ (梅谷四郎兵衛の 明心組) で 神様の話を熱心に聞いて (深く)感激した。
(それで) 『みかぐらうた』1冊をもらって帰り、両親に この話をくわしく聞かせた。(そして、伏見三次郎は)
その翌年(明治22年) には 自分から進んで 船場分教会に参拝し、
(船場分教会の人々に)
「この有難い神様の話を、是非 中津にも伝えて下さい」と、
父からの手紙も差し出して (豊前 中津への布教師派遣を) 頼んだ。
(以上が、豊前 中津へ布教師を派遣してもらいたいと船場分教会にお願いしている人がいる、という話の詳細である。)
泉田藤吉の中津布教 取り掛かり(明治23年)
(伏見長吉・三次郎 父子は)
それから (豊前 中津への布教師派遣を) 再三 頼んでいたようであるが、
(既述の通り) 船場(分教会) からは 行く人が なかなか見つからなかった。(そのような中) このような事情を耳にした 泉田(藤吉) が これを受け、
(大分県) 中津へ 布教に向かうこととなった、というわけである。伏見(長吉)は、(自宅) 2階の1室を提供して、泉田(藤吉) の布教を助けた。
(大阪から大分県中津へ出向いた 泉田藤吉が 真剣に布教活動に励んだ結果)
不思議なたすけが 次々に現れ、難病の人も 即座にたすかった。
(泉田藤吉の布教により) 神様の話に感動した人々は、
大和から生き神様が来ている と (口から口へ) 言い伝えた。そのため、
伏見(長吉)がランプを売るのに困る程 入れ代わり立ち代わり人々が集まって来て、
(それと共に) 信仰をする人も増えていった。
中津の道あけ(明治24年頃)
翌 明治24年の夏、
信者(となった) 大森豊が、この状態を見かねて
(大分県) 金谷町の 自宅離れの 6畳と8畳を空けて 泉田(藤吉) を迎え入れた。
(そこには) 毎日 30人位の人が、たすけを乞い 集まったという。その頃、(大分県) 宇佐町の 宇都宮右源太が、
使用人からこの話を聞いて その様子を見に来た。(宇都宮右源太は) 泉田(藤吉) の話す神様の話に驚き、
その場で 信仰を始めた。
(そして) 宇佐町に帰り、熱心に天理教の話を伝えて 人を集めた。(宇都宮右源太は) 時には泉田(藤吉) にも来てもらって 病人をたすけていったので
たちまち信者が多くなり、
(気がつけば) 中津よりも 賑やかになっていった。伏見(長吉)も ランプ商をやめて布教を始めるようになり、
(また) 他の主だった信者も 次々と 教えを伝えていった。
中津布教所開設願の却下~中津布教事務取扱所の開設(明治24年〜明治26年)
明治24年8月6日、
本部に出た 泉田(藤吉) は 布教所設置の許しを受けようと 願い出た。
しかし、(その時は)
もう一度運びなおすように、との おさしづがあって 許されなかった。また この年(明治24年)、
伏見(長吉)も 西海布教所設置として願い出ようとしたが、
書面が整わず不備 という事で 却下されている。(一方) 明治25年、
(大分県) 宇佐町を中心に勢いを伸ばした宇都宮(右源太) の方でも、
伝道線が増々栄えたこともあり、
宇都宮(右源太) が 泉田(藤吉) に 布教所設置(について)の話を持ちかけた。(自身の布教所設置願のお許しが出なかった 泉田藤吉であったが)
泉田は「よかろう」と、(宇都宮右源太が布教所設置を出願することについて) 同意をしたので、(宇都宮右源太は 本部へ) 出願の運びをした。
そうしたところ、同年(明治25年) 10月27日、
「宇佐布教事務取扱所」として許され、
(宇都宮右源太によって生まれた 宇佐町の信仰共同体は)
本部直属となって 中津を離れた。(後の宇佐大教会)中津の人々は、そのこと(=宇佐布教事務取扱所の開設) に強く刺戟されて、
(自分たちも、早く布教事務所を)設置(しようと)の熱意が高まった。
(そして) 泉田藤吉を担任教師として (改めて) 教会設置を本部に願い出て許しを待ちわびていたところ、
ようやくにして「中津布教事務取扱所」のお許しがあった。時に、明治26年(1893) 1月31日であった。
布教事務取扱所の移転~中津支教会へ改称(明治28年)
(既述の通り)
明治23年、伏見家 2階の1室に始まった中津の道は、
翌年(明治24年) (大分県) 金谷町の大森家(の)離れに移り、(そして明治26年に「中津布教事務取扱所」としてお許しを受けて活動していた。
その後、信徒が増加したこともあり) 明治28年6月には、
(大分県中津市) 殿町1425番地に、1軒を借りて移転した。同年(明治28年) 6月22日、「中津支教会」と改称した。
(この後) ここを中心に教線が展開し、各地に伸びていった。
広がる中津の道(明治中期~大正時代)
明治28年12月、
二豊布教所が 所長・伏見長吉によって 中津町に 設置、
宇野布教所が 所長・鈴木喜市によって 福岡県筑上郡宇野村に設置、
都野布教所が 直入郡都野村に 喜泉建馬により設置、
(以上の如く) 同時に、3ヵ所の布教所が設置された。
二豊布教所
二豊(の)伝道線は、
北九州を目指し、若松に先ず教えが伝わり、そこから主に発展していき、
現在、佐賀県・山口県・長野県にも教会が設置され、32ヵ所を数えている。
宇野布教所
宇野の伝道線は、
更に 鈴木が 福岡県田川郡 後藤寺に教えを伝えるが、
これが後、田川分教会となり、吉田まさが受け継いで、
教えは、北九州から山口県・神奈川県にもいき、更に 韓国へも伝わり、
のちになって 11ヵ所の教会が設置されている。
都野布教所
都野の方は、
大分から熊本にぬける豊肥線一帯に伝わった教えが元であるが、
後「大分市分教会」となり、
大分市(分教会)は、昭和2年(に) 中津より分離して 本部直属となった。
海外布教
明治41年(1908) には 海外布教に出る者が相次いだが、
大塚安馬は、
韓国・仁川に道をつけ、更に 中国の青島・上海にも それぞれ教会を設置した。仁川の道は 京仁分教会となり、
福岡市に引き揚げた部内教会もそれぞれ復興し、
6ヵ所が、大分県・山口県・岡山県などに点在している。
青島・大連・上海は、大分市分教会に所属している。
はだしの講元・泉田藤吉 最期の願い(明治37年)
明治37年2月26日、
(中津)初代会長・泉田藤吉が本席宅へ立ち寄った時、
「一人の孫が出来ますが、その泣き声だけでも聞いて出直したい」
と話した。(それは)
永年 苦労して何千の人をたすけ「はだしの講元」とまで言われ、伝道に尽くした
(泉田藤吉)初代会長の ささやかな希望であった。それに対して、本席・飯降伊蔵からは、
「この道は生きどおしの道や。お前が生まれるのやから、あんたが息引き取らねば出来はせん。孫の顔見て死にたいなどと思いなはんな。安心していたらよい」
とのお話があった。その翌日から (泉田藤吉)初代会長は寝込んでしまい、
同年(明治37年) 4月26日 出直した。(その後) まもなく 孫が生まれた。
泉田徳蔵3代大分市分教会長 その人である。
今村熊太郎2代会長の就任~今村弁次郎3代会長の就任(明治39年~大正11年)
明治39年3月4日、
今村熊太郎が2代会長として就任した。大正11年10月29日、
(今村熊太郎)2代会長の長男・今村弁次郎が、3代会長を継いだ。(今村弁次郎が3代会長を継いだわけだが)
中津(支教会)の人々は、
初代(泉田藤吉)の生まれ代わりとまで聞いている 孫の(泉田)徳蔵を(中津分教会の)会長に推したいと願っていた。
(しかし)その時、(泉田)徳蔵は18歳の青年であったために、まだ時期が早かった。
倍加運動による教勢の拡大~教会移転(大正12年)
その頃の天理教は、
(大正15年に執行される) 教祖40年祭を目前に(控えて) 教勢の倍加運動に 活発に動いていた。中津分教会(において)も、
(教勢倍加運動に呼応した活動に伴って) 教会が次々に増加していき (それまでの教会が手狭となってきたため)
(大分県中津市) 殿町の 郡役所跡を買って、
大正12年7月25日に 移転した。
借財の増加〜大分市支教会の分離独立(大正13年頃〜昭和2年)
(教会移転した翌年の) 大正13年5月2日には、詰所も建築(した)。
そのために (中津分教会の) 借財が重なっていった。(借財の増大などの事情を背景に) 役員の間で意見が揃わなくなってきた。
それに伴って、(中津分教会内に伏在していた) 会長の問題が表面化した。当時、初代会長・泉田藤吉の孫の (泉田)徳蔵は、20歳であった。
彼は おぢばで育てられ、17歳の時に中津(分教会)に来て、(以来) 住み込み青年として勤めていた。(時が過ぎ、今村弁次郎3代会長から次の会長へ引き継ぐこととなったが)
(中津)部内教会の一部には、初代(泉田藤吉) にゆかりある 泉田徳蔵を4代会長に推す声があり、教会内での意見がわかれた(のである)。(結局、中津分教会内部では折り合いがつかず、天理教教会本部に相談することとなった。
その結果) 教会本部の裁定により、
(中津分)教会を分轄して、(泉田藤吉の孫の 泉田徳蔵を会長に推す人々による)「大分市支教会」(を新設することとなった。そして、その大分市支教会)は 本部直属となり、
安東支教会を含む10ヵ所が「大分市支教会」部属として 中津分教会より分離した。
これにより、この一件は落着することとなった。昭和2年(1927) 7月25日のことであった。
中津中教会への昇格〜大教会への昇格(昭和10年〜昭和15年)
(中津分教会は)その後、
昭和10年6月28日、中教会に昇格。更に、昭和15年4月30日には、
中津大教会に昇格した。
今村正典4代会長の就任(昭和25年)
昭和25年10月26日、
今村正典が4代会長に就任した。
今村正典4代会長のシンガポール出張(昭和44年〜昭和47年)
(ちなみに、今村正典4代会長は)
会長就任(しておよそ20年)後に、教会本部海外伝道部より 東南アジア方面の「布教地拠点作り」任務を委ねられ、(かなりの長期間) シンガポールへ出張(していた時期がある)。その期間 (昭和44年6月26日〜同47年10月26日) は、
会長夫人・今村三千代が (会長)代務者としてつとめた。
神殿ふしんの心定め〜移転(昭和35年頃〜昭和37年)
(今村正典が4代会長に就任して10年近く経過した頃の話になるが)
中津(大教会) は、設立以来 70年近い年月の経っても、
この間、一度も ふしんをしていなかった。部内教会(の方)は、その3分の2の教会が それぞれ成人に合わせて神殿建築をすませていた(のだ)が、
(中津)大教会(において)は、
その間 5回にわたって移転などをしたものの、その都度、借家ということもあり、古屋の増改築によって ことをすませてき(てい)た(のであった)。
(しかし、ついに) 昭和35年(1960)には、修理にも手のほどこしようもないほどになってしまった。(泉田藤吉) 初代(会長)を始め 先人の方々は、
口に尽くせない苦労の中、あえて言挙げすることもなく 部内教会67ヵ所の理の栄えを残してくれた。(大教会神殿の老朽化が著しい状況となった時)
その教恩をうけた理の子供達の中から、
「報恩の道は 只一つ。人だすけの精神に精進を求め 教勢を一段と盛り上げて、先祖先輩に応えさせて頂く他にない。初代の頃の心にかえって、たすけぶしんとして 一手一つに『神殿建築』にかかろう」
との声が起こった。(そのような声を受け、中津大教会は)
同年(昭和35年) 6月20日、いよいよ 大教会神殿ふしんの「心定め」を行った。(そして) 同年(昭和35年) 9月には、
早くも、(大分県中津)市内を見渡す 下池永の高台に
2,100坪 (6,942平方米) の敷地を買収することが出来、
ぢばの方向に向けての地取りも出来上がった(のだった)。昭和37年6月21日には、
「仮神殿」の建築がすみ、大教会は移転を行った。
教祖80年祭活動専念に伴うふしん一時中断〜神殿ふしんの完成(昭和37年〜昭和43年)
(神殿ふしんの心定めを行い、昭和37年に 仮神殿を建築し 中津市下池永に移転をした中津大教会であったが、時は、昭和41年に執行される 教祖80年祭を目前にした頃であった。)
(今村正典4代会長は) 「ここは 教祖の80年祭をしっかりつとめよう、親の御用が先だ」と一同を激励し、(中津の神殿)ふしんは 一端 中止することとなった。(神殿ふしんは 中断しつつも)
昭和39年2月、隣接地547坪 (1,707平方米) を買収し、(先を見据えた動きは 着実に積み重ねていっ)た。(そして、昭和41年の教祖80年祭を 無事つとめ終えた後)
昭和41年4月26日、(中津 神殿ふしん) 第2期工事に移り、
(様々なふしを乗り越えて)
昭和43年5月6日、見事にふしん完成し、真柱の臨席を受け 神殿落成奉告祭を執行した。(『天理教事典』1977年版 出版当時の)
(中津大教会)部内教会は、
大分県15、福岡県36、山口県9、熊本・佐賀・岡山・兵庫・京都・岐阜・長野・群馬の各県に1ヵ所、
海外では 韓国の釜山に 1カ所である。〔出版物〕
昭和25年8月25日に青年会中津分会 『天恵』発行 (1号で終わる)。
昭和36年2月、『なかつ月報』発行 (昭和47年6月『天恵わらじ』に題名 変更)。
昭和48年4月1日、中津大教会史料集成部『神殿ふしんと道のあゆみ』発行 (付 大教会略史・年譜)。〔現住所〕〒871-0011 大分県中津市 下池永519番地
〔電話〕 0979-22-1890(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,614〜616)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
70回目の今回は、
「中津大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 中津大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
中津のランプ商・伏見長吉 父子が
大阪の船場大教会に布教師派遣を懇請したが、希望者はなかった。これを耳にした天恵四番 講元・泉田藤吉は、
かねがね九州布教を念願していたので、明治二十三年、中津を訪れた。伏見家のひと間を借り、日中は昼食抜きで布教に回り、夜は人々に道の話を取り次いだ。
中津は城下町で、階級意識がなお町民の中に潜在していたが、大兵で親分肌の藤吉のもとへは、いかなる階層の人も寄り集まり、自然に世話役と布教実働者とができた。その間、大阪から今村千賀子が応援に来た。
元武士の家に育ち、なぎなたを振るう才女である。おたすけは名人であるが、まとめて育てあげるのは得意でなかった藤吉にとって、千賀子は信者をまとめ、悩みを聞いては育てていくという、実の人であった。
こうして中津大教会は育っていく。宇佐町の宇都宮右源太は、代々の酒造業をやめて八面山犬ヶ丘にこもり、弟・徳太郎の経営する天然氷製造の仕事をしていた。
使用人の行動を不審に思い、ある日、後をつけてみた。
右源太は、そこで初めて耳にする藤吉の神様の話に感銘し、即入信した。間もなく徳太郎が瘍で入院、藤吉のおたすけで三日目にたすかった。
徳太郎の家の酒造の中に神様を祀って布教を奔走。
二十五年、中津より先に 宇佐布教所を設置した。宇佐に強く刺激を受けた中津では、布教所設置の機運が高まり、
藤吉を担任に 二十六年 本部の許しを得た。これより 二豊、宇野、都野の布教所が設置され、
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,99)
二豊の伝道線は 福岡県若松へ、宇野は 田川へ延び、都野は 大分市分教会となる。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】70回目の当記事では
『天理教事典』の中の「中津大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回もまた、知らないことばかりでした。
中津大教会は、
かねてより 九州への布教を願っていた泉田藤吉先生と、
九州の豊前・中津地方へ教えが広がることを望んでいた伏見長吉・三次郎父子の願い、
それが合致したところから 始まったのですね。
泉田藤吉先生については、
これまで、当シリーズの
「北大教会」(第14回)、
「御津大教会」(第32回)、
「大江大教会」(第48回)、
それらの中に登場され、お名前を目にしておりました。
北大教会の茨木基敬初代会長、
御津大教会の小松駒吉初代会長、
大江大教会の中西金次郎初代会長、
そうした、後に天理教の大きな柱となる大教会の初代会長を多く導かれたのが「泉田藤吉」先生!
そういったことを、これまでの当シリーズの中で勉強してきました。
そして、調べてわかったこととして、
それにとどまらず、
宇佐大教会の宇都宮右源太初代会長、
網島分教会の寺田半兵衛初代会長、
それらの有名な本部直属教会の初代会長を導いたのも、泉田藤吉先生でした!
そして、何より今回勉強した「中津大教会」は
泉田藤吉先生ご自身が 初代会長‼
そのような次第ですから、
実際に泉田藤吉先生にたすけられ、お道に引き寄せられた方は 一体どれほど居たのでしょうか。
後の教会史に名前が残っている有名な先生だけでも これほど数多くおられるのですから、
無名の方々も含めると数え切れない程だったのではないか、と推察されます。
その、文字通り初期天理教伝道のパイオニアだった泉田藤吉先生が
大阪から九州の中津へ布教に赴かれて設立されたのが「中津大教会」
というわけなのですね。
そのような、本当に「カリスマ伝道者」とも言える泉田藤吉先生ですが、
同時に、
泉田藤吉先生は かなり個性的な先生でもあったということも、
これまでの記事作成の中で学んできました。
「北大教会」の勉強をした際、
『天理教事典』(1977年版)の中に「泉田事件」という項目があることを知って、
かつて記事の中で引用しました。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】第14回「北大教会」の記事の中の該当部分を、以下にコピペします。
天地組 (後の北大教会) は
教会設置当時(=明治25年) は 3,400 余名の信者があった。茨木基敬は 教会設置に当たり、
泉田藤吉を 九州中津に訪ねて 添書をもらっている。当時(=明治25年頃) 泉田は 本部の信用を失墜していた。(太線はブログ主による)
本部では 泉田の添書必要なし としたが、
敢て「理」の親を立てたものだろう。泉田事件
泉田藤吉が、明治15年(1882) 10月20日に大阪で起こした事件。
泉田は当時 天恵四番講元で大阪に住む熱心な布教者であったが、
熱心のあまりに警官を相手に激論をしてしまった。
そのかどで、教祖は奈良警察署の取り調べを受けることとなった (10月27日)。その結果、(明治15年) 10月29日には、教祖はじめ5名の者が警察へ引致され、
教祖は12日間、他の者は10日間の投獄に処せられた。この教祖の拘留の同じ原因となったものに 我孫子事件がある。
(『天理教事典』(1977年版) P,48 )
『天理教事典』(1977年版)「北 大教会」解説文の中には、
「当時(=明治25年頃) 泉田は 本部の信用を失墜していた」
と書かれてありました。
後の「北 大教会」天地組が 教会設置する頃 (明治25年頃)
泉田藤吉先生は 本部の信用を失墜していた⁉
これほど 道の布教伝道の実績を上げていながら「本部の信用を失墜していた」…
それは何故なのか?
気になるところであります。
『天理教事典』の記述からすると、
本部の信用を失墜させた元は 明治15年の「泉田事件」によるもの?
時系列から考えると そのような見解に落ち着くというのが…
まぁ 順当な理解かなぁ という気がします。

話の流れで泉田藤吉先生についての話題が膨らんできましたので、
この機会に、
これまで【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】で勉強してきた泉田藤吉先生が関与した大教会の設立に関わる史実を、
(ネット上で見つけた「れんだいこ」先生の【泉田藤吉の履歴】という記事に記載された内容を入れ込みながら)
『天理教事典』から抜き出して、ザッと簡単に 時系列で並べてみたいと思います。
- 天保11年5月11日 泉田藤吉、泉田富吉の次男として摂津国東成郡大今里村に誕生。
- 泉田藤吉は、4歳にして両親に死別。
大阪府東成郡猪飼野の山本家に預けられて、同家の山本伊平と兄弟のようにして10歳まで育てられた。
その間、子守奉公などに出されたが、腕白なため断られ、月に15回ぐらい奉公先が変わったこともあった。
- 泉田藤吉は、10歳の時、大阪府東成区片江町の清水家の貴子となって成人したが、何かの事情で清水姓を名乗ることができなかった。
元来 文字も書けず、両親の名前も知らず、自分の名前も「熊」より知らなかった藤吉は、大工や左官の手伝いをしたり井戸掘人夫として働き、その後、体格も良く腕力も強かったので西国巡りの強力となった。通称「熊書」と呼ばれた。
- 明治4年2月頃、泉田藤吉は、奈良の二月堂のお水取りに参詣し、その時、人の噂で教祖 (おやさま) を知り、初めて おぢばに参詣。
- 明治10年、泉田藤吉は酒の飲み過ぎから胃癌になり、もう助からないと言われた。
そんな時、天恵組三番の周旋の山本伊平から「貸し物借り物」の話を聞いた。
「貸し物借り物」の教理に感銘を受けている内、身上をすっかりご守護頂き、以来、熱心な布教師となった。
- 泉田藤吉は、猛烈に布教に励み、信徒が増え 天恵組四番の講元となった。
当時は 大阪の空堀に住み、蒸し芋屋を営んだ。
泉田藤吉のおぢば帰りは、商売を終え、夕方 大阪を出て夜中におぢばへ着き、官憲の迫害厳しい中 お屋敷の床下で1~2時間寝て 一言二言のお仕込みを頂き 夜明け前おぢばを立って帰る、というものであった。
商売も、芋を売るのが目的でなく、病人捜し・にをいがけが目的であった。
泉田藤吉の布教は凄まじいものがあり、病人があると ちょっと隣へでも行くようにおぢばへ帰ってお願いし、直ぐ大阪へ戻って病人におさづけを取り次いだ。
- 明治15年6月 泉田藤吉、小松駒吉のコレラおたすけ。
- 明治15年7月 泉田藤吉、小松駒吉を連れておぢばがえり。
- 明治15年10月20日 泉田事件。
- 明治15年11月4日 泉田藤吉、茨木基敬の瀕死の次女おたすけ。
- 明治15年冬 小松駒吉、泉田藤吉と意見を異にし天恵組4番を離脱。
- 明治16年4月22日 小松駒吉を講元とする天恵組5番 (後の御津大教会) 設立。
- 明治16年、寺田半兵衛が、長女たきの産後の患いと長男・城之助の労咳 (結核) おたすけを乞い 泉田藤吉訪問。
その後、2男・卯之助が5才で急死したところから、悟るところあり、寺田半兵衛 入信。
- 明治17年4月20日 茨木基敬、天恵4番より分かれて天地組 (後の北大教会) 設立。
- 明治19年2月 泉田藤吉、中西金次郎の全身痛をおたすけ。
- 明治19年3月 泉田藤吉、中西夫妻を連れておぢばがえり。
- 明治20年春 中西金次郎を講元とする天恵4番講分講・恵心組 (後の大江大教会) 設立。
- 明治23年11月3日 泉田藤吉、大分県中津へ布教に出る事に。
→ 中西金次郎を天恵4番講の講元代理に指名。
(その後、今村斧太郎が天恵4番講を継承する事となり、中西金次郎は恵心組に専念することに ➡ 恵心組は本部直轄に)
- 明治24年頃 宇都宮右源太が、泉田藤吉の話す神様の話に感銘を受け入信。
- 明治24年10月21日 寺田半兵衛を会長として 網島分教会 設立。
- 明治25年10月27日 宇都宮右源太を初代所長とする 宇佐布教事務取扱所 (後の宇佐大教会) 設立。
- 明治26年1月31日 泉田藤吉を初代所長とする 中津布教事務所 (後の中津大教会) 設立。
- 明治37年4月26日 泉田藤吉、おぢばで出直し (享年65歳)。
以上、『天理教事典』(1977年版) を元に、
私が把握した 泉田藤吉先生が関与した本部直属教会の設立に関わる史実を、
(ネット上で見つけた「れんだいこ」先生の【泉田藤吉の履歴】という記事に記載された内容を入れ込みながら)
ザッと簡単に 時系列で並べてみました。
※「れんだいこ」様、【泉田藤吉の履歴】という記事の内容、お借りしました。ご了承ください m(_ _)m
上記の箇条書きは、
『天理教事典』という 一つの資料と、ネット上で見つけた「れんだいこ」先生の【泉田藤吉の履歴】という記事の内容だけを元に作成したものですので、
きっと、抜け落ちていたり、写し間違えているところが 多々あると思います。
しかし、あくまでも、
私が個人的に、泉田藤吉先生の足跡をイメージするため まとめたものですので、
正確さという点については 大目に見て下さい (^^)
しかし、この史実を眺めてみると、
改めて、泉田藤吉先生が天理教伝道のパイオニアだったということがよくわかりますね。
本当に、泉田藤吉先生によって どれだけ多くの人がお道に引き寄せられたことだろう…という気がします。
では、大阪で布教に励み 実績を上げられていた泉田藤吉先生は、
普通に考えれば、そのまま大阪に根を張って更に実績を積み重ねても良さそうなところ、何故、九州方面への布教を熱望されたのでしょうか。
それに関する資料を持ち合わせていないので、私にはその理由はわかりません。
ただ、泉田藤吉先生に関連する一連の史実を時系列で並べる作業を通じて、
私の中で「妄想として」次のようなストーリーが浮かび上がってきました。
泉田藤吉先生は、明治15年に泉田事件を起こしてご本部の信用を失った。
おぢばがえりしても、皆 冷たい。
明治20年に教祖が現身をかくされたこともあって、
泉田藤吉先生は ご本部から物理的にもっと離れた場所で布教してみたいと思うようになられたのではないだろうか。
遠隔地として 九州方面をイメージしていたところ、求めている人があることを知った。
それで、明治23年、九州布教に赴いた――
そんなストーリーが私の頭の中で生まれたのですが…
でも、まぁ、そんな単純な話ではないのでしょうね (~_~)
あくまでも、妄想です (^^ゞ

そんな「カリスマ伝道者」の泉田藤吉先生ですが、
今回、中津大教会についての勉強を通して、私の中で強く印象に残ったのは、
泉田藤吉先生が出直される直前にご本席先生に語られた、最期の願いでした。
それは、
「一人の孫が出来ますが、その泣き声だけでも聞いて出直したい」
というもの。
文字通り、我が身我が家を忘れて、道一筋、布教一筋の人生を歩まれた泉田藤吉先生が、その人生の最期に切望されたのは
「一目 孫の顔を見てから死にたい」
というものでした。
私は、
この泉田藤吉先生の最期の願いというものに「人間の本質」が凝縮されているような感じがしたのでした。
神一条・たすけ一条といった崇高な理念を掲げる高名な先生であっても、
死を目前にした一人の人間という無防備な状態に置かれた時に出てくる願いは、
自分の子供、孫に会いたい…
という 極めて素朴なものであったという史実。
これは、
人間というのは、「親を慕い子どもを愛する」親と子という理屈抜きの深い愛情に基づく繋がりを強く強く求める存在なのだということを示している、
そのように 私には感じられました。
にんけんも こ共 かわいであろをがな
それをふもをて しやんしてくれ (14-34)
という御神言が、改めて身に染みる気がします。

その他にも、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「中津大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
コメント