天理教 各教会の歴史探索(第124回)【宇佐大教会】『天理教事典』より

「宇佐大教会」事典書写アイキャッチ画像.jpg 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号123番「北洋大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号124番「宇佐大教会」について勉強します。

  1. 宇佐大教会(うさ だいきょうかい)
    1. 宇都宮 右源太 初代会長の経歴
    2. 宇都宮 右源太、泉田藤吉との出会い ~ 入信(明治22年)
    3. 泉田藤吉による 宇都宮右源太の弟・徳太郎のおたすけ(明治22年)
    4. 「天恵講 第8番」の結成(明治23年)
    5. 広がる宇佐の道
    6. 宇佐布教事務取扱所の開設(明治25年)
    7. 宇佐支教会へ昇格 ~ 開筵式(明治27年~明治28年)
    8. 水屋敷事件、揺れる宇佐支教会(明治28年)
    9. 激化する反対攻撃(明治28年頃~明治時代末期)
    10. 宇佐支教会へ昇格(明治42年)
    11. 宇都宮 右源太 初代会長の出直し(大正14年)
    12. 宇都宮 勉2代会長の就任 ~ 出直し(大正14年~昭和9年)
    13. 宇都宮マツ3代会長の就任 ~ 出直し(昭和9年~昭和10年)
    14. 桝井孝四郎4代会長の就任(昭和10年)
    15. 桝井孝四郎4代会長の辞任、芝 甚之助5代会長の就任(昭和14年)
    16. 芝 甚之助5代会長の出直し、桝井孝四郎6代会長として再任(昭和21年)
    17. 2代真柱巡教、会長交代+大教会昇格の勧告(昭和26年)
    18. 宇佐大教会へ昇格、宇都宮太郎7代会長の就任(昭和26年)
    19. 教会ふしん ~ 7代会長就任・60周年記念・新築落成の奉告祭(昭和27年)
    20. 宇都宮太郎7代会長の出直し(昭和42年)
    21. 平野義次の宇佐大教会入り ~ 8代会長就任(昭和38年~昭和43年)
    22. 宇都宮義次8代会長を芯として新たな歩み ~ 第31母屋ふしん(昭和43年頃~昭和49年)
  2. おわりに
    1. 泉田藤吉の中津布教 取り掛かり(明治23年)
    2. 中津の道あけ(明治24年頃)
    3. 中津布教所開設願の却下~中津布教事務取扱所の開設(明治24年〜明治26年)
    4. 飯田岩次郎と上田某の出会い(明治30年)
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宇佐大教会(うさ だいきょうかい)

宇佐大教会GoogleMapより
GoogleMapより

宇都宮 右源太 初代会長の経歴

宇佐大教会 初代会長・宇都宮 右源太は、
嘉永3年(1850) 10月11日、
大分県豊前国 宇佐郡宇佐町(にて)
宇都宮 兵衛の長男として生まれた。

家は 代々酒造業を営み、土地の名望家で 父亡き後は 家業に精を出していたが、事業に失敗。
酒造業を 実弟の (宇都宮)徳太郎にゆずり、
家族を引き連れ、豊前の国・中津町郊外(の) 八面山犬ヶ岳の山中にこもり、
(そこで) 九州にて唯一といわれた「天然氷」の製造を始めた。

宇都宮 右源太、泉田藤吉との出会い ~ 入信(明治22年)

この 宇都宮 右源太の使っていた一人に、大山梅太郎 (という若者)がいた。

明治22年 (1889) 10月も半ば過ぎ、
その(大山)梅太郎が、夕方 仕事を終えると 毎夜の如く 山を下り、夜遅く 12時過ぎでなければ帰って来ない。

仕事には何の支障もなく 人一倍働くので、若い者のこととて (宇都宮 右源太は) 別に気にも留めなかったが、
あまり毎夜毎夜の事(なの)で、ふと不審を抱いた (宇都宮)右源太は、(大山)梅太郎に知られぬよう後を付けて行ってみた。
(そうした)ところ、(大山梅太郎は、大分県)中津町の 伏見三次郎の家に入った。
(宇都宮 右源太が) しばらく(その)様子を眺めている内、だんだんと 2~3人ずつ その家へ入って行くので、(これは) 只事ではないと(感じて) なおもしばらく様子を窺(い続けた。
そうこうする)内、10名余り(が) 集まった。

(宇都宮 右源太が、大山梅太郎他10名余りが集まった伏見三次郎宅内をこっそり覗いてみると)
中では、家の床の間に御幣を立て、泉田藤吉が威儀を正して 神様のお話しをしていた。
「それ、この神様と仰せられるは、元ない人間・ない世界をお創め下された『月日両神』の神様。あと八社の神は 人間創造の神として、これを総称して『天理王命』と仰せられる… 」

これを聞いた宇都宮(右源太)は、すきあらば 取り押さえんと(構えつつ) 尚もしばらく聞いている内、
「かしもの・かりものの理」「心一つは我がの理」「いんねん一条の理」
と(いう) 今まで聞いたこともない珍しい話(が始まった。
宇都宮 右源太は 泉田藤吉の口から発せられるそれらの話)に (どんどん引き込まれていった。
そして、宇都宮右源太は) いつの間にか、泉田(藤吉) の前に にじり寄って聞く程になった。

話を聞きに来ていた多くの人も、咳一つせず、(泉田藤吉の語る教話に) 涙を流しながら聞き入っ(てい)た。
話が済んだのは、真夜中だった。

(大山梅太郎の毎夜の夜間外出が 宇都宮右源太が泉田藤吉と出会うきっかけとなったわけだが)
大山梅太郎は、自身にハンセン氏病の姉がいて、たすけて頂けるものなら (その) 姉の病気を治して頂きたい、という一心から 毎夜 泉田(藤吉) の話を聞きに行っていたのであった。

宇都宮(右源太)は、(泉田藤吉から聴いた教理話に すっかり魅了され)
泉田(藤吉) に向かって
「私に、只今から 天理のお道を信仰させて下さい。氷製造もやめます」
と、固く決心の誓いを述べた。

泉田藤吉による 宇都宮右源太の弟・徳太郎のおたすけ(明治22年)

(泉田藤吉の講話に感銘を受け、天理教への入信を決意した 宇都宮右源太は、大山)梅太郎を連れて山に帰り、
その後は、(大山)梅太郎に留守をさせ、自分一人(で)毎夜の如く (泉田藤吉の) 話を聞くようになった。

(そのような折) 当時 (大分県宇佐郡) 宇佐町で家業を継いでいた (弟の 宇都宮)徳太郎が 瘍の病にかかり入院する(ことになった) との電報に接した。
そこで、(宇都宮 右源太は) 泉田(藤吉) のお伴をして、宇佐に帰った。

その時、泉田(藤吉) は「入院せんでもよろしい、瘍は神の用向きがあるのや」と(言って) 早速 風呂を沸かし、泉田(藤吉) 自ら先に入り、(その後) 動けぬ病人を連れて(風呂に)入った。
(泉田藤吉は宇都宮徳太郎を) 抱きかかえて 後首の瘍に口をつけ、ぶよぶよする膿をすっかり吸い取った。
(そして、吸い取った後を) きれいに洗って、病人を元の通りに床に寝かせ おさづけを取次いだ。

(泉田藤吉のおたすけを受けた) 病人は、3日目には全快した。
それより、誰言うともなく「宇佐町に 生神様現わる」と言うようになった。

「天恵講 第8番」の結成(明治23年)

この後、宇都宮(右源太)は、泉田(藤吉) のお伴をして、お礼参りに おぢばに帰った。

越えて、明治23年(1890) 1月の大祭には、
宇都宮(右源太)を初め、役員:植松芳衛門・宮田九郎・五阿弥音次郎・寺井幾蔵・古庄孫三郎など、10数人が おぢばに帰り、
真柱より「天恵講 第8番」の講名を頂いた。

広がる宇佐の道

(新しく結成されることとなった講社では、宇都宮 右源太) 自ら(が) 講長となり、
実弟・徳太郎の家屋敷を献納させ、(徳太郎には) 中津にて 氷屋を営ませた。
そして、酒倉の中に神様を祀り(「天恵講 第8番」講社一同は) 猛烈に 布教に従事した。

そして、泉田(藤吉) を(大分県) 中津には なかなか帰さなかった。
(しかし) 中津からは 矢の様な催促がくるので、遂に 仕方なく 中津に帰ってもらった。

かかる中、宇佐の道は 猛火が原野を焼く様に発展した。

宮田九郎は、盲目の身で、馬にて長州町に、
寺井幾蔵 父子は、西国東郡 臼野三浦方面に、
五阿弥音次郎は、玖珠郡 直入郡方面に、
八田辰造・矢成昌夫・矢成弥太郎 は、福岡県 犀川方面に、
井無田関太郎は、行橋方面に、
渡辺武市は、日出方面に、
古庄孫三郎は、豊前 竜王村方面に、
(各地でそれぞれ布教に励み、その結果) 約2,000戸の講社が結成された。

宇佐布教事務取扱所の開設(明治25年)

明治25年(1892) 10月27日、
大分県宇佐郡 宇佐町に「宇佐布教事務取扱所」の許しを得て、宇都宮(右源太)が 初代所長として就任した。

宇佐支教会へ昇格 ~ 開筵式(明治27年~明治28年)

暫くして「宇佐布教事務取扱所」は、
明治27年(1894) 10月13日付を以って「宇佐支教会」に昇格。
(宇都宮 右源太) 自ら(が) 初代会長となった。

以後、明治28年より 同(明治)33年迄に設置された 出張所 及び 布教所は 26ヵ所に達し、(宇佐の教勢は) 旭日昇天の勢を示すものであった。

明治28年(1895) 3月、おぢばの許しを受けて、同年(明治28年) 10月、宇佐支教会 開筵式を行った。

(開筵式には、天理教教会)本部より、山沢為造・山中彦七・喜多治郎吉 …等の出張を受け、
また、平安(支教会)の会長・飯田岩治郎を初め 橋本清などの出席も得た。
当日の参拝の信者は、実に1,500名で 誠に盛大を極めた。

水屋敷事件、揺れる宇佐支教会(明治28年)

山沢(為造)等 (天理教教会本部の)一行が帰和した後、
飯田(岩治郎)、橋本(清) の両名は、(大分県) 速見郡日出港より 船で帰途についた。

その船中にて、(飯田岩治郎と橋本清、両名の間で 深い話が交わされた。
両名は、天理教教会本部の在り様への疑問についての意見を交わし合う内)
教祖の「水のさづけ」をたてにとり、(天理教教会)本部は火屋敷(で) 安堵村は水屋敷(であり) 将来は 安堵村が本部になる、という見解の一致を見るに至った。
(そして、飯田岩治郎と橋本清の) 両名は、ひそかに将来を約束し(合っ)たのであった。

かかる事のあろうとは 神ならぬ身の 夢にも知らぬ (宇都宮右源太) 宇佐支教会長は、
同年(明治28年) 12月23日、役員を引き連れ、お礼のために おぢばに参拝。

真柱に (開筵式の) お礼を申し上げ、間もなくおぢばを出立せんとする頃、
(突然) 平安(支教会)の信者 4~5名(が、宇佐一行の宿泊先である) 豆腐屋にやって来た。
(そして、平安支教会信者一同が、宇佐の一行に向かって )
「先般の開筵式の際のお世話を謝し、お茶を差し上げたい。ぜひ 安堵村へお立寄り願いたい」
と言った。

しかし、(その時、宇都宮右源太) 会長は 五阿弥(音次郎)を連れ 大阪に出て留守中であった。
それで (その場に居合わせた宇佐一行は 平安支教会信者からの誘いを) 断ったのだが、
(どうしても…と言って) 聞かないので、古庄孫三郎 外数名の役員が、乞われるままに (奈良県平群郡) 安堵村に立ち寄った。

(その結果、案内に応じて安堵村を訪れた古庄孫三郎 外数名の役員は、「ここ安堵村・平安支教会は『水屋敷』であり、こちらこそが本家である」という飯田岩治郎の教説にすっかり感化されてしまった。)

こうして、(宇佐支教会の) 役員4~5名は (飯田岩次郎の説く『水屋敷』の道へ進むこととなり、その者たちは なんと)「水屋敷」の本部員に(まで)なった。

(この後、『水屋敷』の道を選択した 元・宇佐役員一同は、宇都宮 右源太)会長一行におくれて (大分県宇佐に) 帰った。
そして (大分に帰った一同は、宇佐支教会を訪れ)「水屋敷」の事情を (宇都宮右源太)会長 及び 五阿弥(音次郎)に報告。と同時に、(宇佐支)教会をあげて「大道教」に転向する事を、利を以って 勧めてきた。
しかし、(宇都宮右源太)会長 及び 五阿弥(音次郎)は、(その者たちの勧めを) 頑として聞かなかったのみならず、その不当の望みと不心得を (懇々と) 諭した。

しかし、古庄(孫三郎) 等は (宇都宮右源太会長や 五阿弥音次郎らからの説得を) 頑として聞き入れなかった。
(のみならず) 中津を始め 近郷の信者達に、熱心に「水屋敷」につくことを勧める有様で、そのため、各地とも 相当(な) 混乱(の様相を呈)した。
(また) それに、明治29年(1896) 4月に発令された「内務省秘密訓令」も立て合ったため、宇佐(支教会)の教勢は、(大いに) 停滞せざるを得なかった。

(ちなみに、この「水屋敷事件」を受けて、
大和地方においては) 当時、郡山分教会長・平野楢蔵は、平端街道に頑張り、(飯田岩次郎が「水屋敷」と主張する) 安堵村に行く者をここで食い止め、おぢば(の方)に参拝させ(ようとす)るなど 心を遣った。

(一方)「水屋敷」(の方)では 、(それに対抗して) 奈良街道 丹波市に出張し、おぢばに帰る者を強引に「水屋敷」(の方)に連れて行こうとする…
(といった感じで、互いに一歩も譲らず) なかなかの騒ぎであった。

激化する反対攻撃(明治28年頃~明治時代末期)

当時は、全国を通じて (天理教への) 反対攻撃の烈しい時で、
(大分県宇佐郡) 宇佐町内においても、
天理教に参拝する信者の家の子弟が学校に通学するのを差し止め(る、という強烈な対応がなされ)た。

(そのような事態に直面した 宇佐支)教会側(において)は、(そうした過酷な状況に追い詰められたことを受けて)
教会内に学校を設置して職員を雇い、宇佐町に対抗する気配を示した。

これを聞いた神道本局の 宇佐教会大教正・糸永茂昌は、
同町(宇佐町)の人々の不心得を説き、(宇佐支)教会にも相談して(事態を治め)、事なきを得た。

(しかし、天理教に対する反対攻撃は その後も全く収まることなく)
(宇佐町とは)また(別なところで新たな反対活動が展開されるような状況で、
大分県) 直入郡 竹田地区で(は)、
寺院 30ヵ所が発起人となり、警察署長・熊谷警部を先頭に、(大分県直入郡) 竹田町(の) 正覚寺 において 月3回 天理教征伐の演説会を始めた。

しかし、(そのような時に、たまたま) 竹田警察署詰めに転勤してきた高橋部長が、五阿弥(音次郎) が 宇佐にいる時 下宿し、天理教の話を聞いていた人であった。
彼(高橋部長) は、(警察)署長が 信教の自由を束縛するのは違法である、と (竹田警察署長の) 熊谷警部を向こうに回し (堂々と反対意見を述べ) 反対のビラをぎ、演説を中止させた。
そのため、激しかった反対攻撃も(それ以上拡大することはなく) 大事に至らずに治まった。

ただ (反対攻撃は 決して宇佐町や竹田地区のみではなくて) 日出・城原・行橋・西国東 方面でも 反対(攻撃) は 非常に激しいもので、
(それに)加えて、(宇佐支教会内部から 飯田岩次郎の)「大道教」に転じる者も多かった。

また、地元・宇佐では、前述の登校差止めの件に加え、宇佐六郷の修験者が入れ代り来て、力による迫害も行われた。

しかし (そのような激しい苦難の道中にあっても、
宇都宮右源太) 初代会長は、習い覚えた武術に加えて 豊かな学識と教理を駆使して、(迫害者からの攻撃に) 一歩も退かなかった。
このため、このような迫害攻撃の中でも、各所で (天理教の) 信仰は 燃え上がっていった。

宇佐支教会へ昇格(明治42年)

(宇都宮)右源太(初代会長) 在任中の 明治42年(1909) 2月8日、
(宇佐支教会は) 分教会に昇格した。

宇都宮 右源太 初代会長の出直し(大正14年)

かくして、
40年の長い荒道の中、数々の業績を残し、
初代真柱から「天理教に宇都宮あり」と信頼され、
多くの信者からは 巌父の如く 慈父の如く慕われた 宇都宮右源太は、
(多くの人々に) 惜しまれながら、
大正14年(1925) 4月6日、76歳で出直した。

宇都宮 勉2代会長の就任 ~ 出直し(大正14年~昭和9年)

(宇都宮右源太初代会長の出直し後)
大正14年(1925) 4月22日、
宇都宮右源太の2男・勉が
(天理教教会本部の) 許しを得て、2代会長に就任した。

(宇都宮右源太・初代会長の後を受けて、道の御用に励んでいた 宇都宮 勉)2代会長であったが、
(就任十年を目前にして)
昭和9年(1934) 9月25日、
食道癌のため 48歳の若さで出直した。

宇都宮マツ3代会長の就任 ~ 出直し(昭和9年~昭和10年)

(宇都宮 勉)2代会長の出直しに伴い、
2代会長・宇都宮勉の妻・マツが、
昭和9年12月25日付で 3代会長に就任した。

ところが、翌(昭和)10年 7月3日、
(宇都宮)マツ
月次祭をすませて帰る途中、
乗船した汽船みどり丸が 四国(の) 高松沖を航行中(に) 濃霧のため 衝突 沈没するという大事故に遭ってしまった。

(宇都宮マツ3代会長は、なんと、会長就任後一年も経たぬ) 44歳の若さで 出直した。

桝井孝四郎4代会長の就任(昭和10年)

(宇都宮マツ3代会長の出直しを受けて) 
昭和10年(1935) 8月25日、
2代真柱の命により、 桝井孝四郎 本部員が4代会長に任命された。
桝井(孝四郎) は、(4代会長就任後) 部内の整備、信者詰所の建築に尽力した。

桝井孝四郎4代会長の辞任、芝 甚之助5代会長の就任(昭和14年)

(昭和10年に桝井孝四郎が宇佐支教会長に就任して4年足らずの) 昭和14年(1939) 3月31日、
桝井(孝四郎) は、(天理教教会)本部の都合により (4代会長を) 辞任(することとなった)。

かわって、元・治道はるみち 中教会長で、本部准員の 芝 甚之助が、
昭和14年 5月7日、
5代会長に就任した。

芝 甚之助5代会長の出直し、桝井孝四郎6代会長として再任(昭和21年)

(芝 甚之助5代会長は) 
会長就任後、ぢばへの勤めはもとより、自ら陣頭に立って (宇佐) 部内教会(の) 巡回に奔走。
戦中戦後の荒波の中を 部内の整理と 新しい宇佐の教勢の発展の上に 数々の業績を残して、
昭和21年(1946) 5月5日、64歳にて出直した。

昭和21年9月27日、
(芝 甚之助5代会長の出直しを受けて)
本部員・桝井孝四郎が、再び、6代会長に就任した。

(桝井孝四郎6代会長は、宇佐分教会長に再任された後)
打ち続く事情の中、よく部内教会を勇ませ、種々の負債の整理返済を果たし(ていっ)た。

2代真柱巡教、会長交代+大教会昇格の勧告(昭和26年)

昭和26年(1951) 6月、
2代真柱(が) 宇佐分教会(へ) 巡教した時、(2代)真柱より
「(天理教教会)本部が 誠に忙しくなったから、桝井(孝四郎)を (本部へ) 呼び返す。(よって 宇佐は、宇都宮 右源太) 初代会長の長男・太郎を会長に(立てて) 大教会昇格を願い出よ」
との 意向が示された。

宇佐大教会へ昇格、宇都宮太郎7代会長の就任(昭和26年)

それ (=2代真柱の意向) により、昭和26年7月25日、
(宇佐分教会は) 大教会(へ) 陞級となった。

また、昭和26年(1951) 10月26日、
(宇都宮)太郎が、宇佐大教会7代会長に就任した。
時に、(宇都宮)太郎 70歳であった。

教会ふしん ~ 7代会長就任・60周年記念・新築落成の奉告祭(昭和27年)

宇佐は、大教会になっても 元の酒倉を教会としていた。
(大教会への昇格と新会長就任という大きな節目を迎えることとなった一同は、教会のふしんについて相談。)
相談(の結果、新たな教会施設を建築することで) 一決。

(ふしんは順調に進み)
昭和27年(1952) 10月30日、新築工事が完了した。

(そして) 昭和28年5月18日、
宇佐大教会 (7代会)長就任 ならびに 60周年記念 および 新築落成を兼ねて、盛大に (奉告祭を) 執行した。

ここに、(宇佐大教会) 部内教会 39ヵ所は 一つに心を定め、たすけ一条に邁進する事になった。

宇都宮太郎7代会長の出直し(昭和42年)

かかる中、(宇佐大教会一同は) 
勇みに勇み、教祖70年祭、80年祭… と 前進を続けてきたが、
昭和42年(1967) 11月29日、
(宇都宮太郎)7代会長が、86歳にて出直した。

平野義次の宇佐大教会入り ~ 8代会長就任(昭和38年~昭和43年)

7代会長 (宇都宮)太郎は、晩年 健康すぐれず、
(天理教教会)本部の世話取りを受け、
昭和38年3月29日、
堺大教会長・平野義太郎の 2男・平野義次を、(宇佐)大教会長 後継者として大教会に迎えた。

(平野義次は) 
昭和41年(1966) 1月26日に (宇佐)大教会長 代務者として (天理教教会)本部より 許しを受けた。
(そして)
(宇都宮)太郎7代会長(の) 出直しに伴い、
昭和43年 1月27日、8代会長に就任した。

宇都宮義次8代会長を芯として新たな歩み ~ 第31母屋ふしん(昭和43年頃~昭和49年)

宇佐大教会信者詰所ストリートビューより.jpg
宇佐大教会信者詰所・Googleストリートビュー より

(宇佐大教会は)
新会長を芯として、それまで、とかく人間思案に流れ勝ちであった永い間の通り方を一掃して、ぢばに直結する信仰に立ち返り、一大改革を断行した。

昭和46年、教祖90年祭の活動方針が発表されるや、
(宇佐大教会においても)
おやさとふしんの一環として第31母屋の建築にとりかかる事が一決された。

後進の者へのよろこびと勇みの普請として、昭和47年2月より心の準備にかかり、
部内教会一つになって (第31母屋の建築を) 成し遂げた。

(そして) 昭和49年1月8日、
真柱を迎えて、使い初めの儀がなされた。

〔現住所〕〒879-0454   大分県宇佐市法鏡寺855
〔電話〕0978-37-3317

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,71〜73)

おわりに

宇佐大教会ストリートビューより①.jpg
Googleストリートビュー より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第124回目の今回は、
「宇佐大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中に、宇佐大教会を含めた「大分」の伝道に関する記述がありましたので、自己覚え書きとしてそのまま書写します。

大分

中津のランプ商・伏見長吉 父子が 大阪の船場分教会に布教師派遣を懇請したが、希望者はなかった。
これを耳にした天恵四番講元・泉田藤吉は、かねがね九州布教を念願していたので、明治二十三年、中津を訪れた。

伏見家のひと間を借り、日中は 昼食抜きで布教に回り、夜は 人々に道の話を取り次いだ。
中津は 城下町で、階級意識が なお 町民の中に潜在していたが、大兵で親分肌の藤吉のもとへは、いかなる階層の人も寄り集まり、自然に世話役と布教実働者とができた。
その間、大阪から今村千賀子が応援に来た。
元武士の家に育ち、なぎなたを振るう才女である。
おたすけは名人であるが、まとめて育てあげるのは得意でなかった藤吉にとって、千賀子は信者をまとめ、悩みを聞いては育てていくという、実の人であった。

こうして中津大教会の芽は育っていく。

宇佐町の 宇都宮右源太は、代々の酒造業をやめて八面山犬ヶ丘にこもり、弟・徳太郎の経営する 天然水製造の仕事をしていた。
使用人の行動を不審に思い、ある日、後をつけてみた。
右源太は そこで初めて耳にする藤吉の神様の話に感銘し、即 入信した。

間もなく 徳太郎が ようで入院、藤吉のおたすけで 三日目にたすかった。
徳太郎の家の酒蔵の中に神様を祀って 布教に奔走。
二十五年、中津より先に 宇佐布教所を設置した。

宇佐に強く刺激を受けた中津では、布教所設置の機運が高まり、藤吉を担任に 二十六年 本部の許しを得た。
これより、二豊、宇野、都野の布教所が設置され、
二豊の伝道線は 福岡県若松へ、宇野は 田川へ延び、都野は 大分市分教会となる。

大分市分教会は、中津系直入の会長・喜泉建馬が勇退後、藤吉の孫・徳蔵が三代会長になった。
安東分教会は、喜泉に導かれた高部直太郎が、直入の負債返済のため、明治三十八年 満州 (現・中国東北部) へ渡り、苦労の末設置、大分市より分離した。

佐賀関分教会は、明治二十八年ごろ、本部青年・鴻田利吉、諸井政一らが 布教伝道の志やみがたく、本部の許しも得ず 大分県に上陸して 始まった。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,99〜100)

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】124回目の当記事では『天理教事典』の中の「宇佐大教会」についての記述を書き写したわけですが、
「宇佐大教会」の初期歴史に関しては、当シリーズ第70回で勉強した「中津大教会」の初期歴史と重なる部分がかなりありますので、今回は「中津大教会」で勉強したことを思い出しながら書写致しました。

中津大教会は、大阪で「天恵4番」の講長をし布教していた泉田藤吉先生が、伏見長吉・三次郎親子の大分に天理教布教師の派遣を要請してほしいという要請に応えて、明治23年、豊前・中津地方へ布教に赴いたことによって道がついて生まれたのでした。

大分の中津地方に赴いた泉田藤吉先生のおたすけによって次から次へと不思議たすけが現れ、中津地方において「大和から生き神様がやって来た」と評判になった――

そして、「生き神様」とまで崇められた その泉田藤吉先生のところへ、ひょんなことから、今回勉強した宇佐大教会の初代会長となる宇都宮右源太先生が訪れる運びとなりお話を聴いた。
そこで深い感銘を受け、宇都宮右源太先生は即座に入信を決意。
それにより、宇佐の地に道がつくことになった――
そういう流れでしたね。

当シリーズ第70回「中津大教会」の中で、宇佐大教会の母体である「宇佐布教事務取扱所」設立あたりの史実についての記述もありましたので、自己覚書として再掲しておきます。

泉田藤吉の中津布教 取り掛かり(明治23年)

(伏見長吉・三次郎 父子は)
それから (豊前 中津への布教師派遣を) 再三 頼んでいたようであるが、
(既述の通り) 船場(分教会) からは 行く人が なかなか見つからなかった。

(そのような中) このような事情を耳にした 泉田(藤吉) が これを受け、
(大分県) 中津へ 布教に向かうこととなった、というわけである。

伏見(長吉)は、(自宅) 2階の1室を提供して、泉田(藤吉) の布教を助けた。

(大阪から大分県中津へ出向いた 泉田藤吉が 真剣に布教活動に励んだ結果)
不思議なたすけが 次々に現れ、難病の人も 即座にたすかった。

(泉田藤吉の布教により) 神様の話に感動した人々は、
大和から生き神様が来ている と (口から口へ) 言い伝えた。

そのため、
伏見(長吉)がランプを売るのに困る程 入れ代わり立ち代わり人々が集まって来て、
(それと共に) 信仰をする人も増えていった。

中津の道あけ(明治24年頃)

翌 明治24年の夏、
信者(となった) 大森豊が、この状態を見かねて
(大分県) 金谷町の 自宅離れの 6畳と8畳を空けて 泉田(藤吉) を迎え入れた。
(そこには) 毎日 30人位の人が、たすけを乞い 集まったという。

その頃、(大分県) 宇佐町の 宇都宮右源太が、
使用人からこの話を聞いて その様子を見に来た。

(宇都宮右源太は) 泉田(藤吉) の話す神様の話に驚き、
その場で 信仰を始めた。
(そして) 宇佐町に帰り、熱心に天理教の話を伝えて 人を集めた。

(宇都宮右源太は) 時には泉田(藤吉) にも来てもらって 病人をたすけていったので
たちまち信者が多くなり、
(気がつけば) 中津よりも 賑やかになっていった。

伏見(長吉)も ランプ商をやめて布教を始めるようになり、
(また) 他の主だった信者も 次々と 教えを伝えていった。

中津布教所開設願の却下~中津布教事務取扱所の開設(明治24年〜明治26年)

明治24年8月6日、
本部に出た 泉田(藤吉) は 布教所設置の許しを受けようと 願い出た。
しかし、(その時は)
もう一度運びなおすように、との おさしづがあって 許されなかった。

また この年(明治24年)、
伏見(長吉)も 西海布教所設置として願い出ようとしたが、
書面が整わず不備 という事で 却下されている。

(一方) 明治25年、
(大分県) 宇佐町を中心に勢いを伸ばした宇都宮(右源太) の方でも、
伝道線が増々栄えたこともあり、
宇都宮(右源太) が 泉田(藤吉) に 布教所設置(について)の話を持ちかけた。

(自身の布教所設置願のお許しが出なかった 泉田藤吉であったが)
泉田は「よかろう」と、(宇都宮右源太が布教所設置を出願することについて) 同意をしたので、(宇都宮右源太は 本部へ) 出願の運びをした。

そうしたところ、同年(明治25年) 10月27日、
「宇佐布教事務取扱所」として許され、
(宇都宮右源太によって生まれた 宇佐町の信仰共同体は)
本部直属となって 中津を離れた。(後の宇佐大教会)

中津の人々は、そのこと(=宇佐布教事務取扱所の開設) に強く刺戟されて、
(自分たちも、早く布教事務所を)設置(しようと)の熱意が高まった。

(そして) 泉田藤吉を担任教師として (改めて) 教会設置を本部に願い出て許しを待ちわびていたところ、
ようやくにして「中津布教事務取扱所」のお許しがあった。

時に、明治26年(1893) 1月31日であった。

さまよいブログ天理教各教会の歴史探索(第70回)【中津大教会】より)

今回書写した「宇佐大教会」解説文の中では中津大教会との関係性についての記述があまりありませんでしたが、
第70回で書写した「中津大教会」解説文を読むと、両者は 創立時に大きな影響を与え合ったということがよくわかります。

伏見長吉・三次郎父子の求めに応じて豊前・中津へ布教に出た泉田藤吉先生によって次から次へと不思議なたすけが現れ人が集まるようになって、当初、宇佐町の宇都宮右源太先生は その中の一人だったわけですね。

それが、宇都宮右源太先生が宇佐町に帰って自ら天理教の話を伝え、また泉田藤吉先生にも中津から宇佐に出向いてもらっておたすけをしてもらう内に、宇佐の方でも、かなり多くの人が集まるようになった、と。

その後、全国的な教会設置ムーブメントの中で、泉田藤吉先生も、本部に中津布教事務取扱所の開設を願い出たが、すぐにはお許しが出なかった――
そのような状況下で、宇都宮右源太先生が宇佐での布教所設置を願い出たところ、こちらの方はお許しが出た――
それで、宇佐布教事務取扱所の方が先に本部のお許しを受け、その後しばらくして、中津布教事務取扱所がお許しを受けた――
そういう流れだったわけですね。

【中津大教会】=教会番号 70番
・教会設立年月日: 明治26年1月31日(『天理教教会所在地録』より)
・大教会になった日: 昭和15年4月30日(『天理教事典』1977年版より)

【宇佐大教会】=教会番号 124番
・教会設立年月日: 明治25年10月27日(『天理教教会所在地録』より)
・大教会になった日: 昭和26年10月26日(『天理教事典』1977年版より)

【大教会昇格日】は、
・中津大教会=昭和15年
・宇佐大教会=昭和26年
と、中津大教会の方が 11年 早いですが、

【設立年月日】は、
・宇佐大教会=明治25年4月30日
・中津大教会=明治26年1月31日
で 、宇佐大教会の方が 9ヵ月程 早い。

中津大教会と宇佐大教会は『天理教教会所在地録』の教会系統図では 両者の間に特に関係があることになってはいませんが、
今回の書写学習によって、
両者は 距離的にも近いし、また、泉田藤吉先生がどちらの創立にも深く関わっており、
創立時の出願の際にはお互いの存在が大いに影響し合ったという点で、
ある意味、兄弟のような深い関係のある教会なのだということを、改めて 知ることが出来ました。

前回の「北洋大教会」書写学習で北洋大教会と名古屋大教会の関係性を再確認した際にも「おわりに」の中で書きましたが、
この【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】も回数を重ねるにつれて、それまで全くバラバラにしか見えていなかったそれぞれの教会同士のつながりについての知識が、かなり積み重なってきました。

それによって、それぞれの大教会が独立して存在しているのではなく、互いに様々な影響を与え合いながら歩んできたということを 改めて知らされて、とても興味深く感じています。

中津大教会と宇佐大教会位置
Google Mapより

今回の書写学習では、印象深い点が数多くありました。

まず「水屋敷事件」関連の史実が、強く印象に残りました。
今回「水屋敷事件」という言葉が出てきたので、当シリーズ第59回「平安大教会」を読み返してみると、その中に「宇佐支教会」という単語が出ていました。

飯田岩次郎と上田某の出会い(明治30年)

明治30年3月頃、飯田(岩治郎) 会長は、
宇佐支教会の開筵式において、ある教会の役員を勤める 上田 という人物と知り合った。
(飯田岩治郎と上田某は) 時折 飲酒の上、本部の方針や本部役員を痛罵し合い 意気投合した。

つまり、ここで (飯田岩治郎は) 上田 という謀叛の指導者を得たわけである。

さまよいブログ天理教各教会の歴史探索(第59回)【平安大教会】より)

確か、この上田某というのは、当時・麹町支教会の会長か役員かをしておられた上田善兵衛先生だったと思います。

その 麹町の上田善兵衛先生が「水屋敷事件」の主人公である飯田岩次郎先生と出会ったのが「宇佐支教会の開筵式」だったということ。

また、今回の「宇佐大教会」解説文によれば、飯田岩次郎先生が橋本清先生と深く語り合い「水屋敷」構想を固めたのも「宇佐支教会の開筵式」からの帰路だった、ということ。

そう考えると、
結果として、この「宇佐支教会 開筵式」は、初期天理教に大激震を与えた「水屋敷事件」の主要な登場人物の顔合わせの場となったという側面もあるわけで、ある意味「水屋敷事件」起点の場を提供した、と言えなくもないわけです。

たまたま宇佐支教会にご縁を戴いて参拝された方々は ただ純粋に天理の教えを求めて運んでこられた方が多かったと思うのですが、
そういう方々にとっては、
創立早々にして、古庄孫三郎先生他の 役員数名が 飯田岩次郎先生の『水屋敷』の方へ行ってしまって、分裂と対立の渦の中で、どちらを選ぶのか選択を迫られて、さぞかし大変だったことだろう、と 推察いたします。

この件に関する私個人の感想については、当シリーズ第14回「北大教会」、第59回「平安大教会」の「おわりに」でも触れましたが、
「異端問題」について十分に勉強したわけでもなく、関係者のお話を直接伺ったこともない立場で、断片的な情報のみをもとに軽々しく論じるべきではないと考えます。
ですので、この件に関しては「非常に興味深く印象に残った」と述べるにとどめたいと思います。

宇佐大教会ストリートビューより③.jpg
Googleストリートビュー より

またその他にも、
明治29年の内務省秘密訓令発令前後、全国的に天理教への反対攻撃が激しかった時代、大分県宇佐郡宇佐町では、天理教に参拝する信者の子弟が学校への通学を差し止められた、という歴史があったことを『天理教事典』宇佐大教会の解説文で知り、今回の勉強の中でも特に印象深く感じました。

当シリーズを勉強する中で、これまでにも、神社・寺院など他宗教側からの反対運動や、国家による迫害については各地の歴史の中で目にしてきたように思います。
しかし、このように地方自治体が子供たちの通学そのものを差し止める、という形の迫害については、今回初めて知りました。

一方、そのような措置を受けた宇佐支教会側では、教会内に学校を設置し、職員まで雇って宇佐町側に対抗した――『天理教事典』には、そのように記されていました。

なんとも激しい出来事です。
人権意識が広く浸透した現代では、なかなか想像し難い話ですが、当時の天理教に対する社会の空気をうかがわせる史実の一つとして、非常に興味深く、強く印象に残りました。

その他にも、
宇佐支教会は、
宇都宮右源太初代会長が大正14年に出直した後、
その9年後の昭和9年に、宇都宮 勉2代会長が48歳で出直し、
その1年後の昭和10年に、宇都宮マツ3代会長が44歳で出直す…
という具合に、
およそ10年の間に3人続けて会長が出直すという大きな節を経験された、という話も印象深かったです。

初代真柱から「天理教に宇都宮あり」と信頼された 宇都宮右源太・宇佐支教会初代会長が出直し 絶対的中心人物を失って、
今度はそのご子息を新たな芯として新たな歩みを進め、もうじき十年になろうかという時にその2代会長が出直し、
2代会長夫人が3代会長として後を継いだと思ったらその翌年に出直し…、
連続して大きな節を見せられた宇佐支教会の皆様。

しかし、大きな悲しみに押しつぶされそうになりながらも、
その節を通して深く信仰と向き合われ、きっと、一回りも二回りも成人を遂げられたのに違いない、と想像致します。

宇佐大教会ストリートビューより②.jpg
Googleストリートビュー より

今回の書写学習もまた、全く知らない話ばかりでした。
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「宇佐大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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