Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号58番「梅谷大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号59番「平安大教会」について勉強します。
- 平安大教会(へいあん だいきょうかい)
- 江戸時代末期〜明治時代初期、大和国平群郡周辺の天理教信仰者
- 積善講の結成(明治14年)
- 積善講の拡大(明治14年頃〜明治21年頃)
- 平安支教会の誕生(明治21年頃〜明治25年)
- 教会建築〜平安支教会の開筵式(明治26年〜明治29年)
- 飯田岩次郎 初代会長、変節の萌芽(明治29年頃〜明治30年頃)
- 飯田岩次郎と上田某の出会い(明治30年)
- 飯田岩次郎による「水屋敷」宣言(明治30年)
- 飯田岩次郎「水屋敷」宣言後の混乱(明治30年)
- 飯田岩次郎初代会長の懲戒免職、板倉槌三郎2代会長の就任(明治30年)
- 平安支教会 お目標様 ご遷座をめぐる攻防(明治30年12月1日)
- 新しい平安支教会の陣容(明治30年)
- 新生 平安支教会 残留者の苦悩(明治30年〜明治31年頃)
- 教会の敷地買収と神殿ふしん(明治31年)
- 困窮する松尾与蔵一家、新たなる住込み本間政太郎一家(明治32年頃)
- 松尾与蔵の 埼玉・単独布教 出発(明治32年)
- 信者詰所の建設(明治32年〜明治39年)
- 平安分教会への昇格〜松尾与蔵3代会長の就任(明治42年〜明治43年)
- 教祖殿・客殿ふしん(大正7年〜大正11年)
- 松尾信太郎4代会長の就任〜平安中教会への昇格(大正13年〜大正15年)
- 平安大教会への昇格(昭和15年〜昭和16年)
- 松尾道弘5代会長の就任(昭和24年)
- 昭和中期の動き(昭和27年〜昭和51年頃)
- 「平安大教会」解説文の書き写しを終えて
平安大教会(へいあん だいきょうかい)

江戸時代末期〜明治時代初期、大和国平群郡周辺の天理教信仰者
おぢばを中心に四方へ伝わっていった天理教の信仰は、
大和国 平群郡にも いち早く広がった。元治元年(1864) 10月には 若井村の 松尾市兵衛が 妻・はるの身上から入信。
文久2年(1862) 、安堵村・飯田岩治郎が入信。次いで、慶応 2年(1866) には、法隆寺村白石畑・大東重兵衛、
同(慶応) 3年には、竜田村の田中与助が入信し、
非常な布教意欲と共に 教線も伸展していった。明治12年(1879) 正月17日、松尾市兵衛が 45歳で出直した時、次男(の)与蔵は、弱冠19歳の青年であった。
そのため 信者を育てられず、今まで参拝に来ていた人々は 日一日と減って、1年ほどの間にほとんど離散し(てしまった。)
(それで、松尾与蔵が) みずからの病気によって 奮起 再出発を念願した時には、1戸か 2戸の信者しか 残っていなかった。松尾市兵衛の出直に続いて 大東重兵衛、田中与助も出直して、
その子息である 大東長三、田中菊松 が親の遺志を継いで熱心に布教したが、
教勢は 伸びることも縮むこともない 現状維持の形であった。ただひとり 安堵村の飯田岩治郎のみが 旭日昇天の勢いで隆盛を誇っていた。
しかし、真剣な布教により 年を出ずして離散した信者を引き戻した松尾与蔵は、
ほどなく 飯田(岩治郎) と ほとんど変わらぬ教線を広げるようになり、
(また) 田中菊松も 力強い歩みを見せるようになってきた。
積善講の結成(明治14年)
この頃 (明治13〜14年頃)、
漸く 各講社を一括して代表する講名を選定する議が起こった。(それで) 飯田(岩治郎)、松尾(与蔵)、田中(菊松) の3名は、それぞれの立場に立って 各々 結講を出願した。
この出願に対し、おぢばから、
3名とも 同じ平群郡内に在住し 場所も相当接近していることでもあるし、(そのことにより) 信徒の確保に紛争があっては 神様に申し訳ないので、
この際 連合して 講を結んでは という提案が出された。(そのような ご本部からの提案を受けて)
早速、3名が協議し、そして信者(にもその旨を諮り、そ)の賛同(を得られたこと) により、ここに 講 結成の下準備ができた。講名については、種々 論議があったようであるが、「積善講」に落ち着いた。
講元は、最年長者である飯田岩治郎に決定。(そして) 改めて 出願したところ、明治14年1月15日 早速 許しを得た。
積善講の拡大(明治14年頃〜明治21年頃)
「積善講」結成以後の布教活動は、
講元の飯田(岩治郎)、及び、松尾(与蔵)、田中(菊松) の3名を中心に、地方周旋方10数名の協力もあって、以前にも倍する活況を呈し、
教線は 大和国をはじめ 紀州・伊賀方面にまで伸びて行き、
数年を出ずして 講社の数は 7〜800戸にも達する という力強い歩みであった。明治20年正月 教祖が現身を隠された時も (積善講の講員は)
よく教えを心に治めて 動ずることなく苦難を切り抜け、
同(明治)21年 天理教会本部 設置公認、翌(明治)22年 おぢばに移転…
という感激が、益々 布教に拍車を掛けた。(そのような状況下で)
飯田(岩治郎)・松尾(与蔵)・田中(菊松)・大東(長三) の各人をはじめ、功労ある周旋方 数名が、教導職試補となった。
また、(積善講) 講元・飯田岩治郎が、天理教会本部・準役員に採用された。
平安支教会の誕生(明治21年頃〜明治25年)
明治21年11月30日に 天理教会規約が制定されたことで、
「積善講」も一日も早く教会に という声が信者間に生まれ、教会設立の会議がもたれた。教会名については、「積善講」は 平群郡 安堵村に構えているので、
平群郡の「平」の字と 安堵村の「安」の字をとって「平安」とすることに決定。会長・役員・総代などを定めて 教会本部に願い出、
明治25年3月26日付 おさしづで (教会設立の)許しを得た。続いて、地方庁公認を得るため 県庁に 教会設置願を提出。
奈良県知事の認可を得て、ここに「平安支教会」が誕生した。
教会建築〜平安支教会の開筵式(明治26年〜明治29年)
積善講社は、(着々と教勢が拡大し) 多数の教信者を収容するには 余りにも狭く(なり)、新築しなければならなくなった。
そこで、協議の結果、建築願書を (天理教教会)本部に提出した。明治26年2月10日に許しを得て、大いに張切り 工事に着手。
面目を一新する 教会建築を進めていった。明治29年(1896) 4月7日 開筵式の許しを得て、陰暦3月5日夜 鎮座祭、翌6日 開筵式を、多数の来賓参列のもとに 盛大に執行した。
飯田岩次郎 初代会長、変節の萌芽(明治29年頃〜明治30年頃)
(平安支教会が盛大に開筵式を執行してスタートしたが)
しかし、飯田岩治郎 (初代)会長の考え方、悟り方は
教祖の教えを 外れた異常なものであった。それは 日一日と、顕著な姿となって 現れてきた。
当時 飯田(岩治郎) は、教祖殿前に掘られた井戸水を汲んで 親神に捧げ 祈念して「水のさづけ」を取り次いでいたが、
(それは) 実に 不思議なほど 鮮やかな御守護を得ていた。(そのような事実は、飯田岩次郎初代会長の中に) この「水のさづけ」に対する自己満足感と同時に 教信者の全てが自分を敬慕している という慢心を生み、
全ての行動に それが 現われてきた。
それも、本部の方針に対する不平不満として 吐き出されるようになったのである。教内でよくいわれる「安堵事件」または「水屋敷事件」は、こうしたところから始まっていた(のである)。
飯田岩次郎と上田某の出会い(明治30年)
明治30年3月頃、飯田(岩治郎) 会長は、
宇佐分教会の開筵式において、ある教会の役員を勤める 上田 という人物と知り合った。
(飯田岩治郎と上田某は) 時折 飲酒の上、本部の方針や本部役員を痛罵し合い 意気投合した。つまり、ここで (飯田岩治郎は) 上田 という謀叛の指導者を得たわけである。
飯田岩次郎による「水屋敷」宣言(明治30年)
飯田(岩治郎) 会長の「水のさづけ」は、
もともと 井戸の水を 必ず親神・教祖に供え祈念して取り次いでいたのであるが、
(明治30年) 3月 上田某を知り、4月から 彼が足繁く来るようになってからは、
お供えもせず 井戸水を 直接病人に下げ渡すように変化し、
(飯田岩治郎 会長は) おぢば帰りもしなくなった。(明治30年) 9月上旬、飯田(岩治郎) 会長は、
教信者に対する「特別の仕込み」を (9月)15日に執行する旨を伝達した。(明治30年9月)15日当日、
(飯田岩治郎)会長は、威儀を正して「天理教・中山みき様を通して授けられた『水の授け』は 天よりのお指図によれば、天より わが屋敷に授けられたものであることが判明した。
このたび、年限・旬刻限の到来せるにより、天命のまま、この屋敷を『水屋敷』とする。
(天は) 水と火とを打ち分ける、と 仰せである。
(天理教教会)本部は 火の元 庄屋敷で、この屋敷は 水の屋敷。
水は 元の親、それに続いて 火となる。
(すなわち) この屋敷(こそが) 世界 元々始めの屋敷である。
これより、神が守護して 世界を打ち分ける。」という意味合いの言葉を伝えた。
飯田岩次郎「水屋敷」宣言後の混乱(明治30年)
驚いた教信者一同は、ただ黙して答える者もなく、
役員のみ退座して 協議することとなった。論議百出した結果、
役員・松尾与蔵を除いた 全役員は、
飯田(岩治郎) 会長の言葉に服従すべきことを決定した。(その中で) ただ一人の反対者である松尾与蔵は、
「われわれの根本は おぢばである。
従って 事の次第を本部に報告し、もし (本部が) その言葉に従え といわれたならば 飯田会長に服従し真剣に通るが、間違っていたならば(=本部から従えといわれなかったならば) おぢば中心の信仰、信念に基づき、絶対服従する必要はないと思う。」と強調し、
飯田(岩治郎) 会長の前に 自己の信仰と本意を述べ、(そして その場を) 辞去して (直ちに) おぢばに向かって出発した。後に残った役員の中で、
田中菊松、大東長三、田中竹蔵の 3名は、
後刻 再考 相談したのか、松尾与蔵の後を追って おぢばに向かった。そして、おぢばで 本席の「おさしづ」を仰いだ。
すると、「さあ/\尋ねる事情/\ 事情は にんに渡し さづけた理であるほどに/\ 屋敷にさづけた理でない/\ さあ/\ はやく/\理をとき きまりとるがよい/\」
との意の おさしづを得た。
早速 4名の人々は 平安支教会に帰会し、この旨を飯田(岩治郎) 会長に報告した。
すると、(飯田岩治郎)会長は 烈火の如く憤り、
おさしづの書かれた紙を八ッ裂きにして、松尾(与蔵)は 破門の宣告を含めて 叱責された。(飯田岩次郎会長からの破門宣告を受けた) 松尾与蔵は、
自分は あくまでも本部に従って行くことを明言し、一路 若井村の自宅へ帰った。
(それを見た) 大東長三、田中菊松、田中竹蔵の 3名は、(自分たちも) 松尾与蔵と行動を共にすることを誓い、別れた。(中山眞之亮) 初代真柱は 大層心配し、
飯田(岩治郎) 会長を改心させるために、桝井伊三郎・喜多治郎吉 両本部員を(平安支)教会へ派遣した。(平安支教会へ赴いた 桝井伊三郎・喜多治郎吉 両本部員は、飯田岩次郎に向かって懇々と) その心得違いを諭したが、
飯田(岩治郎) 会長は、益々 反抗的な言辞を用いて (それに)応じなかった。(飯田岩治郎の改心は) 不可能だと悟った(桝井伊三郎・喜多治郎吉) 両名は、
(飯田岩次郎の説得を諦め) その足で 若井村の松尾(与蔵)宅へ行った。(そこで) 松尾与蔵の (自分は)本部に従う (という)信念を聞き、
(桝井伊三郎・喜多治郎吉 両名は) 夜半近く 本部に帰った(のだった)。
飯田岩次郎初代会長の懲戒免職、板倉槌三郎2代会長の就任(明治30年)
(その後) 飯田(岩治郎) 会長の異常ぶりは いよいよ本格的となり、
他系統の教信者(まで)も(が) 続々と追随するようになった。(事態は進展し) 明治30年(1897) 11月13日(には)、
(ついに) おさしづを以って 飯田会長の教規に基づく処分が決定され、飯田岩治郎は 懲戒免職とな(るに至)った。(平安支)教会(の)移転も決定。
後任教会長に 板倉槌三郎 本部員が、特命 (明治30年11月29日付) により 就任した。
平安支教会 お目標様 ご遷座をめぐる攻防(明治30年12月1日)
(平安支)教会の移転場所は
奈良県生駒郡 竜田町大字竜田字馬場108番地と選定され、
その他 移転準備が着々と進められていった。(平安支)教会(の)移転、会長(の)変更、という情報を受け取った 飯田岩治郎ほか 信者達は (大変憤り、一同の間では)
「腕ずくでも 親神様は絶対渡さない。板倉(槌三郎)が安堵へ神様を取りに来たら叩き殺してやる!」
という (物騒な)言葉まで 交わされていた。(そしてついに、ご遷座の日がやってきた。)
「お目標」お遷りについては、板倉(槌三郎)新会長を中心に10数名が、安堵村の平安支教会へ向かった。
(それを迎える) 安堵の教会側は、竹槍、鍬などを持ち出し 門前を固めた。板倉(槌三郎)会長は、(敵対心剥き出しの視線が浴びせられる中) 静々と 門内に這入り、神床に上がっていった。
そして、(一触即発の不穏な空気の中) 神座の真下に着座した(板倉槌三郎)会長は、奉持してきた唐櫃より 新しい御幣を取り出した。
(そして、新しい御幣への)「お目標」御遷りを祈念 (明治30年11月25日 おさしづ参照) し、
(それが) 終わるや、再び (新しいお目標様を) 唐櫃に納め、悠々と 神殿より出てきた(のであった)。(儀式は このまま大きな衝突なく終わるかと思われたが)
(遷座されたお目標様を抱えた板倉槌三郎が) 丁度 正面まできた時、突然、竹槍を構えた一人が勢いよく前に出、竹槍を投げ捨てて 板倉(槌三郎)会長に飛びかかってきた。(あわや大惨事という緊迫状況が生起したが、板倉槌三郎はこれに冷静に対応。飛びかかった男は、板倉槌三郎)会長の一撃で 吹き飛ばされ、門の土塀に頭を打ちつけ卒倒してしまった。
(板倉が安堵へ神様を取りに来たら叩き殺してやるとまで息巻いていた飯田岩次郎一同であったが)
板倉(槌三郎)会長の悠然とした威風に(圧倒され) 気遅れしたのか、誰一人として (それに続いて)手出しする者はなかった。(緊迫の場面をくぐり抜けた) 板倉(槌三郎)会長一行は、(その後) 静々と列を正して、移転地(である) 竜田へ 進んでいった。
(お目標様) 移転の式典後、(板倉槌三郎)会長は、傷害罪の任意出頭により竜田派出所に出頭した。
しかし、現場にいた者の証言により、無罪放免となった。
安堵事件 (あんどじけん)
水屋敷事件 とも呼ばれる。
飯田岩治郎が、明治30年(1897) 6月ごろから、奈良県生駒郡安堵村の天理教平安支教会において異説を唱えた事件。
飯田は、幼少の頃に教祖から重病を救けられ、多年信仰を続けて、天理教教会本部准役員、天理教平安支教会長の要職にあった。
ところが、「水のさづけ」を拝戴していて、病たすけの上で救済の働き大であることを楯に、教会本部に対して異説を唱えだした。
この頃は、天理教にとっては秘密訓令の大打撃による傷心消えやらぬときで、その外患に対して まさに憂うべき内部の患いであった。
飯田はここは水屋敷で、教会本部は火屋敷であり、水は火に勝つのであるから、自分の屋敷こそ天理教の本来ある中心の場所である旨を唱えた。
平安支教会の信仰者はもとより、他の教会につながる信仰者までも次第に惑わされるにいたったので、教会本部は「おさしづ」を仰ぎ、協議を重ねた結果、飯田岩治郎を明治30年11月18日付で免職し、平安支教会を他所へ移転することによって、この一件は落着した。
この事件は、この時期に同じく内患としてあらわれた前橋事件と共に、教内に大きな衝撃を与えた。
〔参考文献〕『稿本中山眞之亮伝』
(『天理教事典』1977年版 P,36)
新しい平安支教会の陣容(明治30年)
この事件の結果は、
出張所、布教所の整理、不帰参教師の免職処分、改式者の取消し…等となって現れ、従来の教勢のほとんど全部が、「新平安支教会」から姿を消していった。また、
松尾与蔵、田中菊松、大東長三、田中竹蔵 の 4名を除き、
やがて帰会を懇請し 希望通り許された教師は、
田中仙吉、田中安治郎、森川伊三吉、本間政太郎、滝田弥蔵、松田久治郎、中尾米吉、池田力松、上田善七、西井新治郎、森村千次郎、
以上 11名。
教信者は、全部で30戸余り。他は、全部「水屋敷」追従者となったわけである。
新生 平安支教会 残留者の苦悩(明治30年〜明治31年頃)
(お目標様) 移転(が) 完了した翌 2日、すなわち 明治30年12月2日、
板倉(槌三郎)会長は、残存教師を総動員しての人事配置を行い 陣容(の)立て直しに意を注いだ。しかし、事件突発以来、教内外より受けた 大きなショックは残り、
(それは) 新任 各役員の信仰心を鈍らせた。教会へ運んでくる足数は極端に少くなり、
できれば 費用のあまり掛からぬ 一信者のような立場で行きたい という逃げ腰の役員ばかりが多くなった。その中において、
松尾与蔵、田中竹蔵、大東長三 の3名だけは、
雨の日も風の日も厭わず、各自の家から教会の朝勤めに出かけ、一日中 教会に詰めきり、(板倉槌三郎)会長を補佐した。(松尾与蔵、田中竹蔵、大東長三) この3名の人々が その陰で味わった物心両面における苦労のほどは、並大低のものではなかった(であろうと推察される)。
教会の敷地買収と神殿ふしん(明治31年)
明治31年2月24日、板倉(槌三郎)会長より、
教会の敷地買収 及び 新築の議案が出された。松尾(与蔵)、田中(竹蔵)、大東(長三) の 3名が協議し、
(3名は) 如何なる困難をも (板倉槌三郎)会長の命に添い切る決意をし、
(板倉槌三郎)会長と 3名の 以心伝心の即決により、この議は決した。(そして)
(奈良県) 竜田字馬場2991番地、今村国造の宅地、及び 通路として 城垣内433番地の田畑 宅地 3反余歩の買収(を)予約。(そこを)教会敷地と選定した。
明治31年3月19日、(天理教教会)本部に出願して許しを受け、4月15日(に) 教会の建築に着手した。明治31年6月7日夜、事務所に 仮遷座。
板倉(槌三郎)会長はじめ (松尾与蔵、田中竹蔵、大東長三) 3役員の 寝食を忘れた協力の結果は、
(明治31年)11月初旬、神殿の竣工という姿として 現れた。(明治31年11月)22日、突然、本席ほか 3名の巡教を受け、翌23日、本席と入れ替わりに 真柱・中山眞之亮と 随行の人々が来会し、同夜 鎮座祭。
明けて (11月)24日、板倉(槌三郎)会長(が) 祭主となって、(神殿)落成 開筵式が執行された。
困窮する松尾与蔵一家、新たなる住込み本間政太郎一家(明治32年頃)
(神殿落成) 開筵式を前に平安支教会に住込んだ 松尾与蔵一家は、
教会の困難を正面から受け、明治32〜33年頃は 全く窮乏のどん底にあった。板倉(槌三郎)会長は、松尾与蔵に会計の他 一切の責任を托し、
月一度の月次祭以外は ほとんど本部の上に精励した。結局、松尾家の人々は、
働ける者は働き、おたすけする者は おたすけする、という
「よふぼくとしての勤め」と「生計維持」の両面を持たねばならない状態に立ち至ったのである。勢野布教所 担任・本間政太郎が 住込みとなって教会へきたのは、
松尾家一家が (松尾)与蔵を除き 全員身を粉にして働きぬき、いくらか生活するのに一息つけるようになった頃であった。松尾家 8名、本間家 4名、計 12名が住むには 教会事務所が余りにも狭苦しいということで、本間家の家屋お供えにより、建増しすることになった。
松尾与蔵の 埼玉・単独布教 出発(明治32年)
唯一人 よふぼくとしての勤めに励む 松尾与蔵は、
すべてを 親神、教祖に任せて、おたすけ一条に専念していたが、
単独布教を思い立ち、板倉(槌三郎)会長の同意を得て、
(明治32年) 3月15日 埼玉県 北足立郡 常光村の知人を頼りに 出発した。(松尾与蔵は) 50日間ほどの滞在で 15〜16戸の信者が出来たことで、単独布教への確信を得て、(平安支教会へ)帰会(した)。
(そして、板倉槌三郎)会長に(単独布教に出る旨を)申告。
永住の覚悟を決めて、(明治32年) 8月初め、再度 埼玉に向かって出発した。
信者詰所の建設(明治32年〜明治39年)
明治32年11月1日の おさしづにより、
撫養分教会 事務所の一部を借地して 30余坪の平家建の家を建築し、
板倉(槌三郎)会長の会長宅 兼 出張事務所とした。
(これが) 平安(支教会) が おぢばに設けた 出張事務所の出発であった。明治38年9月21日、平安支教会 出張事務所 移転 及び 建築願は すみやかに許され、現在地に移転建築。
明治39年7月(に) 竣工後、直ちに 平安支教会 信徒詰所と改称。更に 信者詰所となった。
平安分教会への昇格〜松尾与蔵3代会長の就任(明治42年〜明治43年)
明治42年1月20日付けで (平安)分教会へ 昇格改称した。
明治42年12月の月次祭当日、 板倉(槌三郎)会長は 辞任の旨を述べ、後任者に 松尾与蔵を推した。
(松尾)与蔵は、満場一致の賛同を受け、
明治43年2月5日付を以って、3代平安分教会長に就任した。
教祖殿・客殿ふしん(大正7年〜大正11年)
大正7年(1918) 1月、(松尾与蔵) 新会長は、
教祖殿・客殿の建築議案を提案。
(天理教教会)本部へ願い出て、大正10年1月12日付を以って 許しを受けた。早速 これに着工して、翌(大正)11年10月上旬 完工。
(10月)18日 教祖の遷座祭、
翌19日 (教祖殿・客殿竣工) 奉告祭を 盛大に執行した。
松尾信太郎4代会長の就任〜平安中教会への昇格(大正13年〜大正15年)
教祖40年祭の打出し後、(平安分教会は) 部内教会19ヵ所から30ヵ所となり、
(松尾与蔵)3代会長も 高齢であるので、
松尾与蔵(3代)会長の嗣子・信太郎に 会長を変更することとなった。大正13年9月28日に許しを受け、(松尾信太郎 第4代)新会長を迎えた。
そして、大正14年の秋には、
漸く 部属教会 50ヵ所となったので、
(天理教)教会本部へ (中教会昇格の)願いを出した。
大正15年2月3日(に) 昇格の許しを得て、平安分教会を「平安中教会」に改称した。(大正15年) 4月22日、中山たまへ・山沢本部員・随員の人々 臨席のもと、
(平安中教会)昇格奉告祭 並びに (4代会長)就任奉告祭を執行した。
平安大教会への昇格(昭和15年〜昭和16年)
昭和15年(1940) 3月25日、
平安中教会は「(平安)大教会」へと昇格した。その間の部内の増設は10ヵ所で、
翌(昭和)16年4月10日、
真柱臨席のもとに (平安大教会) 昇格奉告祭が執行された。
松尾道弘5代会長の就任(昭和24年)
昭和24年3月、役員会議に
松尾信太郎会長から 嗣子・道弘に 会長(を)変更(する旨)の議案が 提出された。(一同の賛同を得て)
同年(昭和24年) 6月25日、真柱より許しを受け、松尾道弘が 平安大教会5代会長に就任した。
昭和中期の動き(昭和27年〜昭和51年頃)
昭和27年、(平安)詰所の増改築。
同(昭和)28年、(平安)大教会の増改築を完了(した)。
昭和28年12月1日、真柱の臨席のもとに (平安)大教会 増改築に伴う 遷座祭、鎮座祭を執行。
翌(12月)2日、創立60周年と増改築奉告祭 並びに (5代)会長就任奉告祭を 盛大に執行した。昭和30年12月27日には 教祖70年祭を執行し、
その後、教祖80年祭(昭和41年)、90年祭(昭和51年)を無事終えた。幾多の変遷を経て、
一歩一歩 着実な歩みを続けてきた平安(大教会) は、
さらなる成人を目指し、
たすけ一条の上に 一手一つで 精励の歩みを重ねている。
〔現住所〕〒630-0153 奈良県生駒郡斑鳩町龍田南3丁目2−32
〔電話〕 0745-75-2057(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,747〜750)
「平安大教会」解説文の書き写しを終えて

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
59回目の今回は、
「平安大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

平安大教会の初代会長は、飯田岩次郎先生。
「飯田岩次郎」という方は、「水屋敷事件」を起こして天理教教会本部から異端と認定され 袂を分かたれた先生である、ということは、天理教初級者の私でも知っておりました。
「飯田岩次郎」でググると『大道教』がヒットしました。(Wikipedia)
【大道教】
大道教(だいどうきょう)は、天理教の本部準役員であった飯田岩治郎の流れを汲む 新宗教である。
水屋敷事件
奈良県大和国 生駒郡安堵村(現・安堵町)の飯田岩治郎は 1863年(文久3年)、6歳の折に天理教教祖に腹痛を助けられ、信仰の道に入る。
さらに 中山みきから 飯田家の井戸水を用いた病気だすけの特別の力をさづけられる(水のさづけ)。
飯田家は「お水屋敷」として 近隣住民に知られるようになり、「水のさづけ」を取り次ぎ 人々を助けるようになる。
岩治郎が講元となって 積善講が決成され、1892年(明治25年)には 平安支教会に昇格する。
1894年(明治27年)に激しい腹痛に襲われた岩治郎は 初めて神がかりを経験し、1896年(明治29年)には 亡き中山みきの霊が枕元に現れ、神からの「おさしづ」を授かるといった経験をした。
天理教教会本部からの使者に対し、教会改革の天啓を取り次ぐようになり、教会本部本席の飯降伊蔵は 神の「おさしづ」に基づき、1897年(明治30年)に 岩治郎とお水屋敷を破門にした。
平安支教会の教師・信者の大半は 岩治郎のもとに残留し、岩治郎は 教派神道の神道大成教の教師となった。
教団の成立
岩治郎の信者組織は「大道教会」として独立し、神道大成教に属した。
晩年、1907年(明治40年)に 岩治郎は 厳安明弥道広命との神名を受けて、信仰対象として 岩治郎の木像を作らせた。
岩治郎亡き後は、長男の飯田忠雄が 教団を継いだ。
岩治郎の死後 十年毎に行われる教祖年祭にあわせて 教団施設は拡充され、教祖殿、神殿、真柱殿などが建てられた。
終戦後は 神道大成教から独立し、大道教となる。
1926年(大正15年)には 教祖墓地と信者墓地が 斑鳩町に作られ、幼稚園の運営も行なっている。
〔参考文献〕
弓山達也『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』
(Wikipedia「大道教」より)
飯田岩次郎先生は「水屋敷事件」にて 天理教を去った。
そして、飯田岩次郎先生に付いていった人々によって「大道教」が出来たのですね。

飯田岩次郎先生の「水屋敷事件」と並列して語られることの多いのが、茨木基敬先生の「茨木事件」。
「茨木事件」については、「北大教会」書き写しをした際に勉強しました。
「北大教会」記事の中で、私は以下のように書きました。
「北 大教会」について勉強すると――
「北 大教会」の初代は《茨木基敬》という先生ですから、否応なく【茨木事件】に直面します。
【茨木事件】を避けて通ることはできません。そうなると、必然的に「異端問題」と真正面に向き合う必要が出てきます。
「異端問題」に関しては、個人的には、非常に興味がある…というのが正直なところです。
それについて書かれたサイトや資料等があれば、時を忘れて読みふけるほどです。
しかし、私の「異端問題」に関する興味は 完全に野次馬レベルでして、その関心は、まさしく「興味本位」と言えます。
それについて、きちんと文献をあたったこともなく、実際の関係者の話を聞いたこともない。
そんな私が、「異端」に関する話題を、
(クローズドな所で書き連ねるのならともかく)
インターネットという、誰でも見ることのできるオープンな場所にあれこれ書き散らすというのは…ちょっと無責任じゃないか? と思いました。教理を深く心に治めたとは とても言えない私にとって、このようなデリケートな話題は「手に余る」…(^^ゞ
しかし、天理教各大教会の大雑把な歴史は知りたい。
そこで、あれこれ考えた末、
今回の記事は、
変に私の個人的な感想等を入れ込まずに、ただ、『天理教事典』やネット上で見つけた情報を
後々読み返したりすることができることを目的として、資料的な扱いで配置していく、という形でまとめることにしました。もしかしたら、たまたま当記事に遭遇した方で、読む内に 不快な感情が湧き上がる方があるかもしれません。
しかし、毎回 記述の 繰り返しで恐縮ですが、
当ブログは【自己学習】の目的で運営しているものでありまして、
記事作成にあたっては、何らかの主義主張を行う意図はありません。ただ「知る」ということを目的として、見つけてきた情報を 淡々と書き写しているに過ぎないものです。
ですので、いろいろ ご意見をお持ちの方があるとは思いますけれども、
さまよいブログ>「天理教 各教会の歴史探索(第14回)【北 大教会】『天理教事典』 より」
どうか、大らかな心で受けとめて頂きますよう お願い申し上げる次第です。m(__)m
今回の「平安大教会」書写学習回においても、
私自身の中身や状況は その時とほとんど変わりありませんので、
その時同様の対応とさせて頂きたいと思います。(^^)
具体的には、
信仰力の弱い私の個人的な感想等は入れ込まずに、
ネット上で見つけた情報を「資料的な扱い」で配置します。
思案を深めるべく、後々 読み返したりすることが出来ることが目的です。
もっぱら自己満足のため…
というのが実際のところであります (^^ゞ
水屋敷事件 参考記事

「水屋敷事件」に関して ネット検索で発見した参考記事のリンクを、以下に掲載させていただきます。
これらは、個人的な学習 および 備忘録の目的で収集したものです。
記事を執筆された各先生方におかれましては、
事前の承諾なくリンクを掲載することを ご容赦いただければ幸いです。
「信仰黎明期のお助け『御水屋敷人足社略伝』を読むー飯田岩次郎の場合」
(※後日、参考になる記事を発見したら、また当記事に追加したいと思っています。)
関連 おさしづ
明治三十年 十一月十三日
飯田岩次郎 だん/\ 相つのりしに付、處分方に付 願
さあ/\ 尋ねる事情/\、ものというは、放って置いて大事無いものと、害になるものとある。
放って置いて爲になるものなら、放って置いてもよい。
皆んな、よう 聞き分け。
前々 さしづ、一も取らず、二も取らず、この理より だん/\ 運び來たる心という理、深きの無きうちに 直せば直る。
日々 だん/\ 日が經つ程、皆んな 寄り合う心に 理が寄りて來る。
寄る程 眞の理を 失うて了う。
こうしたなら いけんやないかと、何にもならん事して、今まで積んだもの 掘り起して了うようなもの。
二所も三所も 出來るものなら、元のやしきは 要らんもの。
元 分からんから、そういう事 するのや。
數々 世上に理を下ろしたるは、同じ 一つの理。
外に いろ/\ あちらで一寸やってみ、こちらで一寸やってみても、成り立ったものは あろうまい。
盡して 十分 運んで十分、年限經ってこそ いつ/\までの事情、何やら彼やら ほんの一つの答も無く、放って置くから 一寸には行かん。
行かんから これまで放ってある。
最初は 一寸した容物に入れてあるようなもの。
なれど、だん/\ 日が経つ、理が殖えて來れば 仕舞には 容物には 入らんように成る。
成ってから どんならん、出かけてから どんならん。
いかんものは 誰 聞いてもいかん、善きものは、誰が聞いても 善きもの。
あちら分かれ、こちら分かれ、とんと どうもならん。
この事情 聞き分けて、これから先 何か萬事 心得てくれ。
それで 今日の日は、僅かの日を待って、これでと言えば、それより すっきりするがよい。
うか/\したら、どんな事になるやら 分からん。
惡というものは、立ち掛けたら 一時は 立つものや。
放って置いては どうもならん。
世界には 未だ/\ 分かりた者は 僅かしか無い。
早くに取りて了えば、今日の日は 無きもの。
それからそれと 心に欲が付くから、一人出け 二人出け、それが頼りになりて だん/\ 事情と言う。
あちらこちら 何も分からん者、いつまでやっても 行かせん。
今日の日は 一寸片付けて、すっきりして了うがよいで/\。
明治三十年 十一月二十五日
平安支教会を 奈良県生駒郡龍田町大字龍田字馬場百八番屋敷へ 移転 願
(板倉槌三郎を担任教師と定め、松村吉太郎を移転式祭主、平野楢蔵を付き添いとして移転式の願)
さあ/\ 尋ねる事情/\、願通り 速やか許す/\。
さあ/\ これへ遷りて下され と願えば、神は 直ぐに遷る程に/\。
向こうが何ぼ騒いでも、こちらから 必ず 手出しするでない程に/\。
さあ/\ 事情は 願通り許し置こう/\。
明治三十年 十一月二十七日
飯田岩治郎の件に付、北分教会所の事情、会長初め 役員五六名立会の上 先々 心得のため 願
さあ/\ 尋ねる事情/\、いかな事情も 尋ねにゃ 分かろまい/\。
分からんから 事情尋ねる。
尋ねるならば 一つ事情 諭し置こう。
これまで事情 年限 数えてみよ/\。
年限いろ/\の道ありて、もう どうなろうか知らん/\。
その道 連れて通りた道 よう聞き分け。
難儀不自由 苦労艱難の道 連れて通りて、種と言う。
種 無くして 実はのろうまい。
この理から 万事聞き分け。
これまで苦労艱難の種、種から積んで来て、それより どういうものも生えるなれど、中に 心の理によって 生えん種もあろ。
道という、道に 我という理 どうもならん。
我は要らん。
たゞ 仮名な道に 諭し置こう。
分かりよい道に 諭し置こう。
子供でも直ぐに分かる。
皆 道に元がある。
この道分かるなら 皆一つ/\ この事情 聞き分け。
一時 尋ねる事情、人に事情 結んだ。
事情 元々 どういう理になる。元や。
二つも三つも結んだ道やない。
元かい しんから この道 籠りある。
なれど、どうもならん。
仮名な理に 諭したる。
来ん者に 無理に来い とは言わん。
来る者に 無理に来な と言う道やない。
又 無理にどうせいこうせい とは言わん。
来る者に どうせい とは言わん。
無理に言わいでも 仕舞には 成りて来る。
これまで 皆 諭したる。
又、日々 諭したる中にある。
又 諭して居るやろ。
この理 聞き分け。
どちらやろう、こちらやろう、年限 理 数えてみよ。
どちらやろう こちらやろう、こちらや あちらや と心の理が変じるから、心繋ぎが 第一。
すっきり繋いでくれるなら、万事 これより道という。
よく 聞き取ってくれるよう。
北分教会事務所の 東北の方に於て 二間に五間半の 建物 願
さあ/\ 尋ねる事情/\、さあ 集まる 一つ理 心得一つ理、事情 建家 一つの事情の尋ね。
建家一つ 重々 皆 許し置くが、一つ 諭し置くによって、よく聞き分け。
元々 何処に有るか無いか、外に有るか無いか。
この理 聞き分けて 一つ/\ 理を諭し、あちらやこちらや、そも/\ 一つの理 治まり難ない。
これ 改めて 道分かるなら、今一時に道治まる。
万事 一つ 諭そ/\。
よく聞き取って、一つ改めて重々一つの道と言う。
明治三十年 十一月二十九日
平安支教会長を 板倉槌三郎に変更の上、龍田村 元すみやへ 仮りに 移転 願
さあ/\ 尋ねる事情/\、どうも事情によって、長々 どうも事情によって、どうも さあ/\、よう この一つ事情からの さしづをする。
皆んな それ/\ 善いと悪いとの理を 分からにゃなろまい。
分かりてあれば 事情は無い。
分かりてなけねば 道とは言わん。
万事 一つの理も、案ぜる理も無い。
これ 一つ話 掛かり、これ 一寸したら どんな事でも治まる。
分からんから 治まらん事 出来る。
善いと悪いと分かれば、何も言う事 無いもの。
教には 一つの理、一条の理、最初 身上から 一つの理もある。
何か 無しの理もある。
これ よう聞き分け。
今一時 尋ねる処、いかなる事と思わにゃならん。
道というものは、誰も 知らん者はあろまい。
又、無い理は 知ろまい。
ほんの事情、皆んな それ/\ どうでも行こうまい。
どうでもなろうまい。
年々 送りたる理は、これも 諭さにゃならん。
又 一時 尋ねる処、後々 つい/\ 尋ねば、早く 諭さにゃならん。
今一時 尋ねる事情、どうでもこうでも、見るに見られん、聞くに聞かれん道ばかりである。
十分 道計りて 心得まで、十分 道 運んで、それより 明らかな日。
早く/\ 運んで 見せにゃなろまい/\。
担任 板倉槌三郎 御許し 願
それは 何時にても、一つの理 無けにゃなろまい/\。
尋ね事情に 許し置こう/\。
龍田へ移転する事情 願
さあ/\ まあ暫くの処、所 変えにゃなろまい。
どうも 世界から 何とも譬えられん事情である/\。
この事情は どういう処から出る。
皆 心から出るのや。
皆 思事 外れたる。
続いて 刻限 知らしたい。
刻限には 書き取りの事情、どうも あれこれ/\、尋ね尋ねの事情に 刻限 諭さにゃならん。
重々の理、あら/\ 後々 事情、尋ね理に諭するによって、聞き分けてくれにゃならん/\。
同神霊を 其儘 遷すものや、又は 幣を持って行て 御遷り下さるものや 願
さあ/\ 尋ねる処、それは どちらでもよい/\。
所一つ事情さえ 暫く改めたら、道理という理 立って来る/\。
急がにゃならん/\。
明後日 出越す願
さあ/\ どうで 掛け合いの時は、どうかこうか 事情あろ。
道が違うから どうもならん/\。
どんな事 出したて、荒い事は 要らん/\。
平野楢蔵、松村吉太郎、板倉槌三郎 三名 出張 願
さあ 道理から 今日の日、道に 二つは無い。
道の理は 二つ無い。
心は 大きい 持たにゃならん。
あちらも それ/\、こちらも それ/\、どんな事あっても 大きい声 出すのやない/\。
見証しが居る/\。
案じる事 要らん。
道理に適わんから こうなる/\。
道理 曲げる事 いかん。
そこで、心に持って運ぶなら、直ぐと/\。

今回もまた、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと多くのことを知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「平安大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
コメント