天理教 各教会の歴史探索(第120回)【山國大教会】『天理教事典』より

「山國大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号119番「本芝大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号120番「山國大教会」について勉強します。

  1. 山國大教会(やまぐに だいきょうかい)
    1. 京都北部・山国村の筏師たち、天理教との出会い(明治18年)
    2. 明誠組から山国村へ教師派遣、相次ぐ入信者(明治18年頃~明治21年頃)
    3. 明誠組の退講者による斯道会結成 ~ 明誠組は神習教へ(明治16年頃~明治21年)
    4. 山国村講社の斯道会入会=斯道会第114号の開講(明治21年)
    5. 近郷の講社を統合した「説教所」の開設(明治23年)
    6. 丹波支教会の開設、山國支教会へ改称(明治25年)
    7. 初めての神殿ふしん ~ 開筵式(明治26年~明治27年)
    8. 広がる山國の道(明治28年頃~明治30年頃)
    9. 世間からの迫害干渉の増大と内務省秘密訓令に伴う官憲からの弾圧の強化、教勢の停滞(明治29年頃)
    10. 田中豊七 初代会長の身上→辞任 ~ 山本源七2代会長の就任(明治32年~明治34年)
    11. 山本源七2代会長による教勢立て直し(明治35年頃~明治34年)
    12. 山國分教会へ改称(明治41年)
    13. 著しい財政悪化 ~ 一同捨て身の活動による債務の返済(明治末期~大正3年頃)
    14. 山本源七2代会長の辞任、山村覚次郎3代会長の就任(大正3年)
    15. 教祖30年祭へ参拝(大正5年)
    16. 教会移転の検討→決定 ~ ふしん・移転(大正6年~大正8年)
    17. 教祖40年祭へ向けた教勢倍加運動による新設教会数の飛躍的増加(大正10年頃~大正15年頃)
    18. 様々なふしん(昭和4年~昭和10年)
    19. 神美支教会の分離(昭和5年)
    20. 山國大教会へ昇格(昭和19年)
    21. 信者詰所の開設(昭和24年)
    22. 創立60周年記念祭(昭和27年)
    23. 山村覚次郎3代会長の辞任、山村千鶴4代会長の就任 ~ 奉告祭(昭和36年~昭和37年)
    24. 創立80周年記念祭 ~ 教祖90年祭活動(昭和47年頃~昭和51年頃)
  2. おわりに
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山國大教会(やまぐに だいきょうかい)

山國大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビュー より

京都北部・山国村の筏師たち、天理教との出会い(明治18年)

明治18年(1885)の春、
京都府北桑田郡山国村 (現・京北町) では、
例年のように 木肌も新しいいかだが組まれ、
大堰川の清流に乗せて 約40キロの道程を 嵯峨へと下って、
次から次へと 木材搬出が行われていた。

このような時、
西 庄三郎、畠 四十吉 …等が、
夕闇も迫るころ、
亀岡在の保津 (現・京都府 亀岡市保津町) にいかだを着けて 宿屋に落着き、休んでいた。
すると、誰かが「近所に不思議な神があり、奇妙な踊りを舞うらしいから 見に行こう」と言い出した。
(そこで、西 庄三郎、畠 四十吉 等は) 散歩を兼ねて、見物に行った。

実は、(それは、京都府) 南桑田郡 宮前村 (現・亀岡市) の 森 常吉 (明誠組) が、保津の 娘の婚家に来て (天理教の) 祭典をしていたのだった。

初めて聞く「天理王命」の神名と 陽気な手踊りに、彼らは 全く魅了され、話に聞き入った。
「この世は 陽気ぐらしの世界。われらは 等しく神の子であり、神よりの借り物である、お互いは 兄弟姉妹である」
などの話は、(彼らにとって) 今まで耳にしたことのない 実に驚天動地の思いのする説教であった。

(話を聞いた一同は) 何か 心暖まるような喜びを感じ、この喜びを自分達の村へも伝えたいものと思い、
(森 常吉らに、彼らの地元である 京都府北桑田郡) 山国村への布教を願い出た。

明誠組から山国村へ教師派遣、相次ぐ入信者(明治18年頃~明治21年頃)

こうして、同年(明治18年) 4月初旬、
明誠組から 森 常吉や 北条こうが、(京都府北桑田郡) 山国村 字井戸にある 西 庄三郎 宅へ来訪。
そこで、かしもの・かりもの、八つの埃、十柱の神の守護…という教理の話、(また) 教祖のご苦労の道や 不思議なたすけの話などを、諄々と説いた。

この時 集まった者は、
西庄三郎・田中豊七・大宅惣之助・南嘉七・畠四十吉 …等であった。

この時、田中豊七の長男・清三郎 (当時4歳) が 胃腸病に罹っていたため、早速 平癒の祈願をしたところ、ただちに鮮かな守護を見た。
(それにより) 田中家の信仰は 一層深められるとともに、他の者達も 益々 信仰を篤くしたのであった。

その後、明誠組より 松谷喜三郎、北条こう等が 度々来訪し、話を取り次ぐ内に 中野政治郎も来訪。
(そうして) 更に、今井鶴之助・水木四郎左衛門・竹生伍三郎 …等が 相次いで入信した。

(信者が増えるのに伴って) 講社も結成された。
その後、田中(豊七)・西(庄三郎)・大宅(惣之助)・畠(四十吉) …等は、明誠組を通じて 教導職を得るに至った。

(一同は) 一層信仰を深める中に、森常吉夫人・ふじから てをどりも教えられ、夜の更けるのも忘れて 練習に励んだ。

静かな山村に流れる「みかぐらうた」奉唱の声は、周囲の静けさを破り、山にこだまし 人々の耳を傾けさせずにはおかなかった。

教えられた てをどりと共に、教えは人から人へと伝わり、教導職を授けられた 田中豊七等は、近隣近郷へと足を運び、伝道線は (次々と) 拡張されていった。

明誠組の退講者による斯道会結成 ~ 明誠組は神習教へ(明治16年頃~明治21年)

当時、京都には、
奥 六兵衛を講元とする「明誠組」と
深谷源次郎 (河原町大教会 初代会長) を講元とする「斯道会」の 二つの流れがあった。

もともと、明治14年11月に 奥六兵衛を講元として「天倫社 明誠組」という講が結成され、深谷(源次郎)は 会計係として勤めていた。
しかし、(深谷源次郎から見ると) 奥六兵衛の素行が悪くなり、また ある事件が元で、深谷(源次郎)は 明治16年秋「明誠組」を退講。

しかし、信仰は続けたいということから、同じく(明誠組を) 退講した人達と共に 別に講を結ぼう ということになった。
(そして) 天理教教会本部から許しを得て (新たに)「斯道会」 (講元・深谷源次郎) という講が 生まれた(のだった)。

その後、奥 六兵衛の「明誠組」は、
中野政治郎が 神習教・吉川管長子息の脚をおたすけしたことから 神習教に所属することとなり、
明治21年8月25日付で『神習教 天輪王教会所』となった。

山国村講社の斯道会入会=斯道会第114号の開講(明治21年)

このような事情を知った (京都府北桑田郡) 山国村出身の 遠藤音吉 (斯道会 第31号講元) が、
明治21年の秋、田中豊七宅へ行き、その話を伝えた。

(そのような複雑な事情とは無縁で、京都・山国村で 実直に信仰を続けていた田中豊七は)
初めて聞く「明誠組」と「斯道会」との関係、また (自分たちに信仰を伝えてくれた)「明誠組」が天理教から離れたと教えられて、(心底) 驚いた。
(と同時に、この山国村で 素朴に信仰と向き合っている) 信者たちに 教えを誤らせては(ならぬと考え、遠藤音吉)と 種々 協議を重ねた。

遠藤(音吉) は、
(神習教に所属することとなった「明誠組」と袂を分かって 天理教の信仰を続けるため「斯道会」に入会するのならば 京都下鴨の西村喜右衛門に連絡せよ、と言い残して (山国村を発ち) 帰京した。

(遠藤音吉から衝撃の事実を告げられた田中豊七は、山国村の講社の主だった者と 種々) 協議した結果、
(今後は「斯道会」に入会し 天理教の信仰を続けさせてもらおうということで相談がまとまった。
そこで) 田中豊七が 早速 上京し(「斯道会」入会の手続きを進めた。

田中豊七は) 西村喜右衛門、山本源七の紹介により (斯道会を訪れ、入会の意向を伝えた。
その結果、無事内諾を得ることが出来) 斯道会第114号 (後に33号に変更) の講名を受けた。

(山国村へ) 帰村後、田中(豊七)は 講元に推薦され、講社名簿を作製の上、改めて(山国村講社の斯道会入会を) 願い出た。
(そして、正式に認められた。)

同年(明治21年) 12月16日、
「斯道会」より 深谷源次郎・萩原治兵衛・上川孫兵衛、以上 3名が出張し、
周旋方・大宅惣之助宅で【講開き】が、盛大に行われた。

ここに、後の「山國大教会」の発祥をみたのである。

近郷の講社を統合した「説教所」の開設(明治23年)

明治23年8月には、近郷近村に12の講が結ばれた。
これをみた斯道会は、統一の必要を感じ「説教所」開設を促した。

(斯道会からの促しを受け、近郷の講社一同で相談。
その結果、近郷講社を統合して新たな「説教所」を開設するということで相談がまとまった。)
これにより (新たに「説教所」を開設する事となり) 説教所には 大宅惣之助宅が提供され、連合講長として 田中豊七が推された。

丹波支教会の開設、山國支教会へ改称(明治25年)

派出「説教所」開設後、(田中豊七) 講元を中心に 布教活動は一段と活発となった。
教勢は、近郷近村より 福知山・兵庫県氷上郡へと 丹波一円に伸び、
明治24年には 43ヵ所の講が結ばれた。

(教勢の拡大に伴って) 連合講社 取締講長・田中豊七を中心に、教会設置の議が起こった。

(教会設置の) 話は 順調に進み、「丹波支教会」の名称のもとに、
明治25年5月22日、
京都府北桑田郡 山国村字井戸26番戸に、
田中豊七を会長として、(天理教教会本部へ) 支教会設置願書を提出。
(明治25年) 5月24日に 許された。 

ところが、丹後の中郡に丹波村があり 既に「丹波」の名称で 出張所が設置されていたため、急遽「山國支教会」と改称した。

初めての神殿ふしん ~ 開筵式(明治26年~明治27年)

布教線の拡張に伴い 信者は増え、
毎月の祭典には 場外に溢れて参拝する者が 大半を占めるようになった。
(そのような情勢を受けて、山國支教会の中で) 神殿建築の気運が起こってきた。

(新たな神殿の移転建築を実施するということで相談がまとまり)
明治26年5月2日、
(天理教教会本部に) 地所願と建築願を打診し、許しがおりた。
(そこで、山國支教会は) 部内に 神殿建築を打ち出し、協力を求めた。

明けて、(明治)27年6月11日には (正式に)「山國支教会 地所買求御願」と「普請御願」の許しを得て、
(京都府北桑田郡) 山国村 大字井戸小字小塩口83番地に、
山國(支教会) 最初の普請を開始した。

(工事は順調に進行し) 同年(明治27年) 10月中旬に、(無事) 竣工した。

(明治27年) 11月13日、
河原町分教会より深谷源次郎夫妻はじめ役員ら数名の出席を得て、盛大に開筵式を挙行した。
前日より参集した信者は 2千数百名に達した。

広がる山國の道(明治28年頃~明治30年頃)

神殿の新築とともに 布教意欲はさらに昂揚し、
布教線は、宮津・越前・鳥取・九州 福岡・北海道 釧路・広島 …各方面へと伸展した。

また、出張所は、
明治28年 (1895) に 周山、
同(明治)30年には、春日部・前山・天菟・丹都・美和 (後の広谷) …
以上が、それぞれ 設置された。

世間からの迫害干渉の増大と内務省秘密訓令に伴う官憲からの弾圧の強化、教勢の停滞(明治29年頃)

このように信者が増加し、教勢が伸びるに従い、
外部から、特に 改式などにつき 仏教側からの迫害・干渉が 徐々に強められ、厳しくなってきた。

そして 明治29年、
内務省の いわゆる秘密訓令により 官憲の弾圧・干渉が一段と強化されるに及び、世人の反対攻撃も熾烈となって、信者の教会への参拝は 思うに任せぬ状態となった。

支教会設置に当たり任命された役員の中にも 教会(のご用)に従事する者が減り始め、(徐々に) 講社勤めを休止する所も現れてきた。

田中豊七 初代会長の身上→辞任 ~ 山本源七2代会長の就任(明治32年~明治34年)

こうした中、明治32年には、(田中豊七) 初代会長が 手足の不自由を感じる病気となった。
明治33年1月22日、おさしづを仰いだが、病状はかばかしくなく、(田中豊七 初代会長は) 遂に 辞意を表わすに至った。

このため、同年(明治33年)頃から、河原町分教会役員・山本源七が整理・世話係として派遣された。
同年(明治33年) (田中豊七 初代会長) 辞任。

それに伴い、翌(明治)34年3月27日、担任教師変更の許しを得て、
山本(源七) が、2代会長に就任した。

山本源七2代会長による教勢立て直し(明治35年頃~明治34年)

山本(源七2代会長) は、停滞している 山國(支教会) の教勢を立て直すべく 種々心を砕いた。
(山本源七2代会長は、立て直しにあたっては) まず、住込み役員が必要だとを感じ (種々 奔走した結果)、
明治35年より36年にかけて、8戸の住込み役員を得(ることが出来)た。

明治35年には 早くも 教勢回復の兆が見え始め、北海道・釧路や 九州・福岡県に於ても「講」が結成されるようになり、おさづけの理を戴く者は 一挙に 52名を数え(るに至っ)た。

明治37年には、河原町分教会直轄「氷上支教会」が、教勢衰微の故、山國支教会の所属として整理されることとなった。
(明治37年) 3月14日 、氷上支教会は、(天理教教会本部より) 所属変更の許しを得て(山國支教会の所属となった。
そして) 山本(源七) 会長が (氷上支教会の) 会長を兼任し (その)復興に努めた。

山國分教会へ改称(明治41年)

明治41年11月、
天理教の一派独立により 教規が制定された。

山國(支教会)は 部内教会 17ヵ所に達していたため、
(教規制定に伴い) 翌(明治)42年1月21日「山國分教会」と 改称された。

なお、「斯道会」の号名制度は、明治44年4月を以て 廃止された。

著しい財政悪化 ~ 一同捨て身の活動による債務の返済(明治末期~大正3年頃)

明治34年以来、役員(の)住込み等もあって、(山國分教会の) 教勢は (順調に) 回復・伸展していたが、
明治の末期に至ると、
部内教会の整理 及び 布教費や教会教費・信徒教費の滞納による負債がかさんで、非常な財政困難(の状態)となった。

(山本源七2代) 会長ほか 役員一同は、その打開策を協議し、捨身で事態の打開に努めた。
(そうした一同の懸命) の活動によって、漸く 大正3年には、その大半の(債務)返済をみるに至った。

山本源七2代会長の辞任、山村覚次郎3代会長の就任(大正3年)

このように心を砕き、(山國分教会) 教勢の再興に尽力した山本(源七)2代会長であったが、
漸次 高齢となり、また (上級) 河原町大教会の会計係として 教務多用のため、
大正3年7月1日、(山國分教会の会長職を) 辞職(した。)
(そして) 以後は、山國分教会の整理員として勤めることとなった。

(山國分教会) 後任会長として、
山國分教会理事・山村長次郎の長男・山村覚次郎 (当時28歳) が、
(大正3年) 同月(7月)21日、就任(した)。
(そして) 8月22日、(3代会長) 就任奉告祭を挙行した。

教祖30年祭へ参拝(大正5年)

大正5年(1916) に執行された教祖30年祭には、山國(分教会)から 約800名が参拝した。

なお、同(教祖)10年祭には、200余名、
(教祖)20年祭には、約300名が 参拝した。

教会移転の検討→決定 ~ ふしん・移転(大正6年~大正8年)

(京都府北桑田郡) 山国村は、交通の便悪く、地理的に恵まれない位置にあった。
当時、すでに 教勢は、北は 北海道から 南は 九州、また 鳥取方面へと伸びてはいたが、
部内教会の大部分は 京都府下と兵庫県北部にあり、河原町大教会を経て 天理教(教会)本部に 赴くには、相当不便であった。
また、信者の教会への集まりにしても、同様であった。

そのため、(以前より) 教会移転についての話が 度々 出ていたが、
大正6年に至り、(ついに、教会の) 移転に 踏み切ることになった。

たまたま 7里余り離れた 山陰・殿田駅付近に 土地の提供を受け(ることが出来た。
それで) 大正7年5月28日、(天理教教会本部より) 建築の許しを得て、同年(大正7年) 8月24日 上棟式(を行った。

そして) 翌(大正)8年 4月13日に 移転の許しを受け、
(大正8年) 同月(4月)17日、
京都府船井郡日吉町字田原小字西畑29番地に 移転を完了。(4月)24日、鎮座祭を執行した。

教祖40年祭へ向けた教勢倍加運動による新設教会数の飛躍的増加(大正10年頃~大正15年頃)

大正10年1月、(天理教教会本部より) 天理教祖40年祭執行の発表があり、教勢倍加の活動が全教的に展開された。

(その打ち出しに応えて山國分教会も奮闘。)
その結果、山國(分教会)は、大正9年(には) 24ヵ所だった部内教会が、大正15年末には 一躍 52ヵ所の教会数となり、しかも 5ヵ所の支教会昇格をみた。

様々なふしん(昭和4年~昭和10年)

昭和4年には、役員室を改築した。

明けて、同(昭和)5年5月、(上級) 河原町大教会・深谷徳郎4代会長より、教祖殿新築の話があった。
(当時、教祖殿は神殿の裏、客室の2階にあった)

(山國分教会一同は、深谷徳郎・河原町会長の言葉を受けて教祖殿新築に取り掛かることとし)
同年(昭和5年) 7月20日、(天理教)教会本部の許しを得て、昭和6年3月に 教祖殿(の)新築(が) 竣工。
(昭和6年)4月19日に、教祖目標が移された。

信者室も、昭和10年4月9日に改築の許しを受け、(昭和10年) 10月竣工した。

神美支教会の分離(昭和5年)

昭和5年3月21日、
春日部部内「神美支教会」が (山國分教会から) 分離し、部内教会 8ヵ所とともに、河原町大教会の直轄となった。
(それにより) 山國(分教会) の教勢は、一時 43ヵ所となった。

山國大教会へ昇格(昭和19年)

その後、(山國分教会に対して) 再三、大教会昇格の話が出た。
しかし、部内教会に 種々 事情があったため まとまらず、話は 膠着状態となっていた。

(それが) 昭和18年に至り、諸井慶五郎本部員の助言を受けて、
(ついに 大教会昇格を願い出る運びとなった。)

翌(昭和)19年2月14日、(天理教教会本部へ、大教会)陞級 願書を提出。
同月(2月)28日、大教会陞級の許しを得た。

これを契機に、氷上分教会 (11ヵ所) と 但出分教会 (5ヵ所) は、河原町大教会へ所属変更し、山國大教会は、38ヵ所より歩みを始めた。

信者詰所の開設(昭和24年)

昭和24年には、信者詰所設置の声が高まった。
(奈良県)天理市三島町の、旧・社大教会 信者詰所を譲り受け、
同年(昭和24年) 7月25日、開設した。

創立60周年記念祭(昭和27年)

昭和27年、創立60周年を迎えた。

(昭和27年) 5月20日、
2代真柱 臨席のもとに、鎮座祭。

翌(5月)21日、
創立60周年記念祭 並びに 大教会陞級奉告祭を執行した。

山村覚次郎3代会長の辞任、山村千鶴4代会長の就任 ~ 奉告祭(昭和36年~昭和37年)

昭和36年、3代会長・山村覚次郎が、老齢のため辞任。

同年(昭和36年) 7月26日をもって、
山村千鶴が4代会長に就任した。

明けて (昭和)37年5月21日、
真柱臨席のもと、山國大教会4代会長就任奉告祭 並びに 創立70周年記念祭を挙行した。

創立80周年記念祭 ~ 教祖90年祭活動(昭和47年頃~昭和51年頃)

 (山國大教会の) 教勢も徐々に伸び、(昭和中期には) 部内 53ヵ所となり、
昭和47年10月1日には、
真柱臨席のもとに、教会創立80周年記念祭を 賑々しく執行した。

翌(昭和)48年1月には、天理教教祖90年祭の打出しがあり、
山國部内は 一手一つとなり、年祭活動に邁進。

(教祖90年祭を) 勇んでつとめ終え、
(今も) 世界たすけの上に 益々 前進の歩みを続けている。

〔『天理教事典』1977年版 発行当時の住所〕
〒629-03    京都府船井郡 日吉町字田原小字西畑 29番地

書写者注:
〔現住所〕〒612-0848    京都府京都市 伏見区深草大亀谷東寺町65
〔電話〕 075-643-1022

 (昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,846〜848)

おわりに

山國大教会Google画像検索より
Google画像検索より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第120回目の今回は、
「山國大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

山國大教会GoogleMapより①
GoogleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 山國大教会に関する記述が ほんの少しありましたので、自己覚え書きとして書写します。

山國大教会の発祥は、明治十八年春、現・亀岡市保津町で 山国の筏師いかだしが 講社の祭典を拝んだことからである。

北桑田郡山国村(現京北町)では、例年 農閑期にいかだを組み、大堰川を嵯峨へと下り、木材を運ぶ。
西庄三郎と畠四十吉は 保津へ筏をつけた。
保津は 筏師の交替場所である。
二人は宿屋にいると、奇妙な踊りを舞う神さんがあると聞き、見物に出かけた。
明誠社の森常吉が 娘の婚家先に来て 祭典をしていたのである。

二人は 陽気な手踊りに魅せられ、自分たちの村の布教を願い出た。
二十五年、各講社を連合し 田中豊七を会長に 北桑田郡山国村井戸に 山國支教会を設置。
布教線は越前、鳥取、九州、北海道などへと伸展する。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,77〜78)

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】120回目の当記事では『天理教事典』の中の「山國大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

山國大教会は、河原町大教会から分かれた大教会ですね。
すなわち、斯道会の流れを汲む大教会。

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」斯道会に繋がる青年会斯道会「大教会系統樹」.jpg より

河原町大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

山國大教会GoogleMapより②
GoogleMapより

山國大教会の発祥は、明治十八年春、現在の亀岡市保津町で、山国の筏師が講社の祭典を拝んだことによるものだったということ。
知りませんでした。

昔は、農閑期に筏を組んで木材を運ぶ「筏師いかだし」という仕事があったのですね。
その筏師の人々が 宿泊した先で、たまたま 天理教の「てをどり」が行われていて それを見物する機会があった。
それを見た筏師の人々は、その陽気な手踊りに魅せられ、併せて 教理話も聴いて、感動した。
それで、筏師たちは、この教えを 自分たちの村である 京都府北桑田郡山國村へも ぜひ広めてほしいと依頼した。
亀岡市保津町で てをどりをつとめていた「明誠社」の 森 常吉先生たちは、その依頼を受けて、山國村へ布教に行き、そこから どんどん信者が生まれて、次々と「講社」が結成されていった。
それが「山國大教会」の種になった、というわけですね。

「明誠社」の方々が 自ら布教に出かけていったわけではなくて、山國村の筏師の人々の方が 布教を願い出た、というところが興味深かったです。

現在、天理教のおつとめを頻回に目にする私の中に「てをどり」を見て感動する という心の動きは、残念ながら… ありません (~_~;)
それに対し、天理教なるものを全く知らず、生まれて初めて「てをどり」を目にした 当時の筏師の人々にとって、それは 大いに心を動かされるものだった、ということ。

生まれて初めて「てをどり」を目にして感動するかどうかというのは 個人的な感性の問題も大きいと思いますので もちろん 一般化することはできませんが、
それでも、少なくとも、この山國村の筏師の人々は 深く感動し、そこから 多くの人々がこの教えを心の拠り所とするようになり、その後、それは「山國大教会」という大きな塊を誕生させている という史実――

天理教にとって「おつとめ」は何より大切なものだと よくご指導いただきますが、
このような史実は、「おつとめ」のパワーというものが 如何に凄いものであるかということを裏付ける一つの証左だと言えるのではないか… 等と思ったりしました。

あらゆる面に漫然と向き合ってしまっている今の心の在り様から、
生まれて初めて「てをどり」を目にして感動した山國村の筏師の人々のような感受性を 少しでも取り戻せるように、少しでも「心を澄ます毎日を」送らせて頂きたいもの――
そんな思いに包まれたのでありました。

山國大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビューより

山國大教会は「斯道会」の流れを汲む大教会。

これまで当シリーズを続ける中で、数多くの「斯道会」系列の大教会について勉強してきましたが、
今回の書写学習を通して、「山國大教会」の場合は、その元一日の部分において、他の斯道会系列の大教会とは 少し異色であることを知りました。

今まで勉強してきた 他の 斯道会系列の大教会は、
「近江商人の進取性」に乗っかるような形で広まったような印象―― 
言い換えると、斯道会の信仰の広がりは、商いの世界の商流の如き「人の縁」という流通経路を通って伝わっていった印象があるのに対して、
「山國大教会」の場合は、山國村の人々が 自ら教えを求めていったような感じに見えます。

また それに加えて、
「山國大教会」の元一日は「明誠社」を通してスタートし、
当初は、完全な「明誠社」の一員であったこと――
それが、斯道会が 明誠社から分裂したことを受けて、自らの生みの親とも言える 明誠社を抜けて「斯道会」に入会したこと――
そういった経緯からしても、「山國大教会」は、純粋に 斯道会を母体として分かれていった 他の 斯道会系列の大教会とは、若干 毛色が違うと感じました。
(だから どう、ということではありません… 深い考えなく、感じたこと素朴な感想を書き連ねている次第です (^^;)

山國大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビューより

当シリーズ初期「河原町大教会」について勉強した際、明誠社と斯道会の関係性について、少しだけ勉強しました。
その際、『稿本天理教教祖伝逸話篇』の中に、明誠社と斯道会に関わる逸話があることを知り引用しました。
今回も、自己覚書として引用しておきます。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』
141. ふしから芽が切る

明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に、斯道会 講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。

夕刻に京都を出発、奈良へ着いたのは 午前二時頃。
未明 お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖にお目通りして お許しを願った。

すると、
「さあ/\ 尋ね出る、尋ね出る。
さあ/\ よく聞き分けにゃならん。
さあ/\ このぢばとても、四十八年がこの間、膿んだり潰れたり、膿んだりという事は、潰れたりという事は。
又、潰しに来る。
又、ふしあって芽、ふしから芽が切る。
この理を、よう聞き分けてくれ。
だん/\ だん/\ これまで苦労艱難して来た道や。
よう聞き分けよ、という。」 
とのお言葉であった。

未だ、はっきりしたお許しとは言えない。
そこで、深谷と宇野は、
「我々五名の者は、どうなりましても、あくまで 神様のお伴を致しますから、」
と申し上げて、重ねて お許しを願った。

すると、
「さあ/\/\ 真実受け取った、受け取った。
斯道会の種は、さあ さあ今日より さあ/\埋んだ。
さあ/\ これから どれだけ大きなるとも分からん。
さあ/\ 講社の者にも 一度聞かしてやるがよい。
それで聞かねば、神が見ている。
放うとけ、という。」
と、お許し下され、深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実は、親神様にお受け取り頂いたのである。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』
148. 清らかな所へ

斯道会が発足して、明誠社へ入っていた人々も、次々と退社して、斯道会へ入る人が続出して来たので、明誠社では、深谷源次郎さえ引き戻せば、後の者はついて来ると考えて、人を派して 説得しようとした。

が、その者が、これから出掛けようとして、二階から下りようとして ぶっ倒れ、七転八倒の苦しみをはじめた。
直ちに、医者を呼んで 診断してもらうと、コレラという診立てであった。
そこで、早速 医院へ運んだが、行き着く前に 出直してしもうた。

それで、講中の藤田某が、おぢばへ帰って、教祖に伺うと、
「前生のさんげもせず、泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、又、泥水の中へ引き入れようとするから、神が切り払うた。」
と、お言葉があった。

「明誠社」についてネット検索していたら、
Wikipediaに、明誠社から発展した「天輪王明誠教団」について説明したものがあるのを見つけました。
これも、自己覚書としてコピペしておきます。

【天輪王明誠教団】(Wikipediaより)

天輪王明誠教団(てんりんおうめいせいきょうだん)とは、天理教の講であった 明誠社の 初代講元・奥六兵衛が 京都に開いた新宗教である。

概要

1876年、奥は 天理教に入信し、明治10年代初期に 京都で布教にあたった。
天理教史上では 最初期の京都における布教活動であったが、陰陽道にも精通していた六兵衛の活動は神秘的で 施し与えることを旨としていた。

六兵衛を中心に 1881年、天輪王明誠社が結成された。
中野政次郎、深谷源次郎(のちの天理教河原町大教会初代会長)、宇野善助(のちの天理教越乃国大教会初代会長)など 有力信者が在籍していた。
教派神道の神習教に接近を図る 六兵衛の信仰のあり方に反発し、深谷、宇野らは 離脱して「斯道会」を結成する。

神習教の傘下入りと天理教信仰の継続

官憲による取り締まりや社会的な排撃から逃れるため、明誠社は 1888年に 神習教傘下となる。
同時に 天理教とは疎遠となる。
神習教 傘下のもと 教勢をのばし、明治20年代には 関係教会は 20か所にのぼった。

六兵衛は 一貫して 京都府相楽郡において布教活動を行い、中山みきの教えを広める。
1892年に記した『十二段神楽歌』は 天理教の「みかぐらうた」と ほぼ同様の内容であった。

神習教からの独立

宗教団体法が1940年に施行されると、主祭神について神習教と対立するようになる。
京都の教会本部は独立し、宗教結社 明誠本部となった。
東京の教会東本部は 神習教に残留し分裂した。

独立後の教会本部は 若林神風が率い、終戦後の1953年には 川崎市を本部として 宗教法人明誠社を設立し、管長となった。
幾度かの名称変更を経て 現名称となり、横浜市に本部を置く。

信仰上の天理教本部との関係

現在も 教祖を 中山みきとし、「みかぐらうた」を 儀式に用いている。
1933年の 若林神風の参拝以降、奈良県天理市の「ぢば」へも 公然と信者が参拝している。

《参考文献》
弓山達也『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』

(出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』> 「天輪王明誠教団」より)

天輪王明誠教団本部
【天輪王明誠教団 本部】Google Mapより

当シリーズ第5回「河原町大教会」の「おわりに」で、私は次のように書きました。

現在の天理教教会の1⁄5近くの教会を生み出した河原町大教会「斯道会」ですが、
その始まりには、その母胎となった「明誠社」との間で大きな人間関係トラブルを抱えていた … という事実。

それは、
多くの人間が集まれば、活気も出て良いことがたくさんある反面、
その分、摩擦も増えて、難しいこともたくさん出てくる、という、
人間社会に現れる 必然の理を象徴しているように見えます。

さまよいブログ天理教各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】より)

今回「山國大教会」の書写学習を通して、改めて、同様の感想が湧いてきたのでありました (^^)

「山國大教会」も、その元一日の部分で、複雑な人間関係の荒波に大いに翻弄されていた ということを知りました。
そのような荒波を乗り越えて「大教会」にまで発展したのですね。
感慨深いです。

山國大教会GoogleMapより③
GoogleMapより

余談として――

『天理教事典』1977年版の「山國大教会」解説文では、
住所が「京都府船井郡日吉町字田原小字西畑29番地」となっていましたが、
ネットで住所検索した住所は
「京都府京都市伏見区深草大亀谷東寺町65番地」となっていました。

確かこの住所は、
昔の 京都教務支庁 → 山城京都分教会の住所では?
と思って、『天理教事典』1977年版の「山城京都分教会」解説文を見てみました。
すると、1977年時点では
「京都府京都市伏見区深草大亀谷東寺町65番地」は、
やはり、山城京都分教会の住所でした。

すなわち、
この『天理教事典』1977年版が発刊された以降に
「山國大教会」は、京都府船井郡から、京都伏見にある 元・京都教務支庁、山城京都分教会の場所へ移転したわけですね。

私は『天理教事典』1977年版のみでこの記事を書いているので
『天理教事典』1977年版発刊以降に何があったのか 全く知りません。

どのような経緯で「山國大教会」が 山城京都分教会のあった場所へ移転することになったのかなぁ… と、ちょっと気にはなりました。

きちんと調べればわかるとも思いますが、
まぁ、当記事の意図は 各大教会の初期の歴史を知ることですので、
これ以上、更に労力を費やし調査することはせず、今回はこのあたりで締めくくることにします。

山國大教会Googleストリートビュー⑤
Googleストリートビューより

その他、
山國大教会は、最初の教会設置の際「丹波支教会」という名称でお許しを頂いたけれども、既に、丹後の中郡に丹波村があり「丹波」の名称で 出張所が設置されていたため、急遽「山國支教会」と改称した、という話。

また、
大教会昇格の話が 再三出つつも、様々な事情があり なかなか話がまとまらなかったところ、
昭和18年に 諸井慶五郎本部員の助言を受けて、ようやく大教会へ昇格する運びとなった、という話。

どれもこれも、
知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
たとえ断片的とはいえ、多少なりとも教会の歴史を知った上で、今の「山國大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

山國大教会Googleストリートビュー④
Googleストリートビューより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「山國大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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