天理教 各教会の歴史探索(第25回)【麹町大教会】『天理教事典』より

「麹町大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号24番「名東大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号25番「麹町大教会」について勉強します。

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麹町大教会(こうじまち だいきょうかい)

麹町大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

麹町の道の始まり〜天地組2番講の結成(明治25年〜明治27年頃)

明治25年(1892)頃、
兵庫県豊岡市結村(むすぶむら、玄武洞の近く)から
岸本唯之助(通称 可賀美) が東京に出て、
麹町区三番町11番地に居を構えて 布教を始めた。

初めは信者が出来ず 大変困った。
それで 呉服物の行商をしながら 埼玉まで歩き、
(埼玉県) 蕨町の 板倉喜代平が信仰に入った。

この人は 織物製造を業とし 傍ら 淘宮術をやっていたが、
(岸本)可賀美の「さとし」に悟るところあり、
淘宮術を捨てて 天理教に入信した。

忽ち、板倉喜代平を通して、
近在の織物業の仲間や 淘宮術をよくする人達、親しい人々に
天理教の教えが広まった。

(岸本)可賀美は これに力を得て、
再び (麹町区)三番町に戻り 布教に努めた結果、
急速に信者が増えたので、
明治27年(1894) 2月 天地組2番分講を結集、
北分教会 理事 上田善兵衛が 講元、
岸本可賀美が 副講元に就任した。

上田善兵衛は
(その翌年)明治28年 (1895) に上京した。

この時 (岸本)可賀美は 善兵衛の養子となり
上田可賀美と名乗っている。

神道天理教 北分教会 麹町支教会の設置(明治26年頃〜明治30年頃)

明治26年(1893)頃、
東京市 本郷区 東竹町7番地
久保治兵衛の妻 寿々子は、
日枝神社 神主 熊野吉隆 妻てつから
信仰を勧められ 入信した。

その頃から 既に 久保治三郎の妻 信子は
姉・寿々子から 信仰を勧められていたかも知れない。

明治27年(1894) 3月某日、
既に(岸本)可賀美から入信している 淘宮術の友達、友平助七が
たまたま 久保治三郎宅を訪ねたところ、
家中が流感のため 床に臥しているのを見て 信仰を勧めた。

妻 (久保)信子は
早速 姉(寿々子)と共に 岸本可賀美を (天地組)2番分講に尋ねた。

(久保)治三郎も 間もなく(上田善兵衛)講元を訪れ
(岸本)可賀美から聞く話に感じて 入信した。

(久保)治三郎夫妻は 直ちに布教に励んだ。

埼玉県下、蕨町方面の教線は 次々に伸び、
明治29年(1896) 2月2日、
北足立郡 蕨町字蕨358番地に
板倉喜代平を担任として
神道天理教 蕨町出張所が設置された。

この頃
岡田林蔵、その子 千代太郎(穂保作分教会初代)
飯塚幾太郎(蕨町分教会3代)
矢作綱五郎(神根町分教会初代)
また岡田林蔵を介して繋がる成田市の 諸岡長藏(甲賀部属 成田分教会初代)
など 既に 信者千戸以上になったといわれている。

東京の教線も
久保治三郎夫妻を始め、姉夫妻、その子 酒井幸之輔(真澄宣教所初代)らが 熱心に信仰し、
信者は 増加の一途を辿った。

牛込区若松町に住んでいた 金子周之助、高田吉(きち)、
神田の 寺門喜美(錦江大教会初代)らの入信も この頃である。

明治29年(1896)の 麹町支教会 請願書によると
東京を始め、埼玉、千葉、栃木、群馬、長野の各県、
遠くは 広島県にも 信者が分布している事がうかがえる。

同年(明治29年) 7月11日、
東京市麹町区 三番町11番地に、
上田善兵衛を担任として
神道天理教 北分教会 麹町支教会が設置された。

久保治三郎は
明治30年(1897) 4月
因縁を悟って 家も蔵も土地も処分し、
貸金の証文は 一切火に投じて灰として、
質屋をやめ 表通りの店舗から 裏通りの 本郷区湯島6丁目16番地に
(長男の)久保清次郎夫妻と共に住み「信仰一条」に励んだ。

道の停滞〜水屋敷事件・本郷の大火(明治30年〜明治31年)

続いて この年(明治30年)の6月、
水屋敷事件が起こった。

(麹町支教会)会長の上田善兵衛は (上田)可賀美と共に、
事件の主謀者 飯田岩治郎方に走り、
その参謀格として加担した。

たまたま 内務省訓令により、天理教が 特に東京では弾圧された影響もあり、
麴町の教勢は にわかに頓挫した。

(久保)治三郎は 信仰の手がかりもないまま、
質屋を再び興そう と考えていた矢先、
明治31年3月、
本郷 春木町から火を発して、所謂 本郷の大火となり、
久保家は類焼の憂き目に遭った。

一家は 本家の蔵に 一時仮住居した。

この本郷の大火を知った 大阪の上級・北分教会長 茨木基敬は
はるばる上京し 散々さがして
久保治三郎の仮住居を訪れた。

(茨木基敬)分教会長は (久保)治三郎に
この事件に含まれている親神の思いを生かして、
再び元に戻り、
有名無実となった麴町支教会を 復興するよう 要請した。

(久保治三郎は) そう易々とは承諾出来なかったが、
茨木(基敬)会長のねばり強い説得に、
3年間だけ だまされた積もりで信仰をさせて貰います、
と答えたので
(茨木基敬)分教会長は 満足して大阪へ帰った。

久保治三郎、求道の復活(明治31年頃)

(久保)治三郎夫妻は
直ちに 焼け残ったもの等 整理して 70円を工面して、
これをもとに 本郷区 西竹町4番地に
6畳と3畳の家を 月5円の家賃で借り、
明治31年(1898) 8月4日
麴町支教会 移転のゆるしを受けた。

なお (久保)治三郎は 未だ 教導職が無かったので
一時の処
北分教会長 茨木基敬が 麹町支教会長を兼務した。

この時、(久保)治三郎は51歳、妻 信子は45歳である。

(久保)治三郎は 心新たにして、布教に励んだ。
雨が降っても傘がない。腰を端しょれば着衣は破れている。
衣食に事欠くは もとよりの事、
上級に参拝するのに 本家に肌着を借りに行き、嘲笑されたのも この頃の事である。

その頃、
寺門喜美の長男、関根豊松(愛町分教会初代)
(麴町)支教会へ住み込み、
(久保)治三郎夫妻と苦労を共にして 信仰に励んだ。

久保清次郎の回心(明治32年)

(久保)治三郎の長男 清次郎は
煙草製造、卸し、葉煙草の買付け等をしていたが、
明治32年(1899) 11月、
栃木県宇都宮へ行き、葉煙草の買付けをしたが
一夜のうちに大暴落した。

それを知った(久保)清次郎は
自暴自棄となり、持ち前の遊び癖も手伝ってか
飲めやうたえやと 大蕩尽を 2日2晩ぶっ通した。

有り金全部はたいて 床についたのが 12時頃であった。

歓楽つきて哀愁残る思いとか、
妙に 父母の事が思い浮ぶのであった。

ひたむきに信仰に励む父、
しきりに「道専務」をすすめてくれる母、
ふと、
ここらで「道専務」をと心に定めて 両親に喜んで貰おう
と決めた時、いつしか眠りに入ったのであった。

その時刻は、
西竹町で 両親が清次郎のためにかけた
3、7、21日の子の刻(夜12時) の満願の日の時刻にあたっていた という。

それから10日間、
心の葛藤に引きずられていたが、
(明治32年) 11月14日、

「お父さん お母さん、向こう3年間、天理教をやってみます。3年の後は後の事として 3年間 お父さんお母さんの言う通りになります」

と誓って「道専務」を定めた
と記録に残されている。

これから、(久保)清次郎は 言い付け通りに、
水屋敷事件以来 そのままであった
東京府下北豊島郡 徳丸方面に 布教を開始した。

しかし、翌年(明治33年)夏には
これを 他の役員らに委ねて
(久保清次郎は) 大森町の布教に赴く事になった。

(久保清次郎による)徳丸方面の布教伝道は
後、(久保)治三郎会長の命により
菰田栄三郎に引き継がれ 赤塚分教会の土台となる。

麹町の道の広がり(明治30年頃〜明治40年前後)

寺門喜美は
明治30年(1897)秋頃、
久保信子から救けられ 入信したが、
翌年(明治31年)には 大森海岸の
通称 立て看板こと 町田鉄五郎方に
静養のため逗留していた。

寺門喜美の弟、知久徳次郎は
この人の媒酌により
守屋家の3女 りきと結婚し、
大森不入斗(いりやまず) 大畑で
久保治三郎が自ら祀り込んだ神様を目標に、
寺門喜美と 熱心に、この方面の布教に励んでいた。

守屋寸々(大森町3代会長)の長女 与志(大森町4代)
寿美(大光分教会初代夫人)を産んだ後 大患いをした。

明治33年(1900) 5月12日に
寺門喜美が 久保信子を守屋家に初めて案内したところ、
不思議な御守護を頂き
守屋家の入信となった。

翌 6月、
守屋寸々の希望により
久保清次郎が大森町の布教に携わる事になったので、
(久保)治三郎の要請もあり、
この方面の「おたすけ」を久保清次郎に譲り、
寺門喜美は 神田方面の布教に 再び専念する事とした。

これが錦江大教会のはじまりとなる。

大森方面の布教は(久保)清次郎が受け持ち、
後の大森町大教会の創始となる。

明治34年(1901) 10月9日
茨木基敬が 麴町支教会長の兼務を辞任したので、
久保治三郎に担任を変更した。

明治35年(1902)7月19日、
麴町支教会長夫人 (久保)信子が出直した。

未だ苦労の道中とはいえ、
(久保)清次郎は「道専務」を志し、
弟の(久保)多三郎は健康になり、
夫も(麹町)支教会長に就任し、
麹町の道は 明るい発展へのきざしが見えて来た時でもあったので、
(久保)信子夫人の心には
深い安堵と 将来への喜びが根ざしていた と思われる。

この年(明治35年)の6月には、
関根豊松が
(久保)治三郎会長の下を離れて
天地組 第363番支講、通称 5号講元(大森町大教会の前身) に住み込み、
久保清次郎を扶けて 大森方面の布教に勤める事となり、

明治37年(1904) には
飯塚幾太郎が
蕨町出張所を復興したのを始め、

明治38年(1905)には
菰田栄三郎が
錦江より転属して
翌年(1906) 2月より 3年間 蕨町出張所に庶務係として住み込み、
傍ら 本郷と鳩ヶ谷間を往復するうちに 川口町への布教の手がかりが出来、
(それが) やがて 川口町分教会の道のはじまりとなる。

明治39年(1906)には、
高田吉が
牛込区若松町方面に教線を伸ばし、
金子周之助も 日暮里方面に布教を開始し、
上之町分教会の道が始まる。

守屋長蔵も
明治41年(1908) (麹町)支教会に 青年として住み込み、
傍ら下谷方面に布教して
西之町分教会の道を起こす。

岡田千代太郎も
埼玉県北足立郡蕨町下蕨に
穂保分教会のもとを築く。

麹町支教会から麹町大教会へ(明治36年頃〜大正9年頃)

少し話を戻すと、
明治36年 11月17日
本郷区東竹町6番地に 麴町支教会神殿を 本郷6丁目より移転。

明治38年(1905) (久保)治三郎会長は 片岡キンと結婚。

明治42年(1909) 2月23日、
北大教会 麴町分教会と昇格改称し、

大正3年(1914) 7月7日には 神殿増築、
大正7年には 神殿の増築 及び 教祖殿の新築を始め 建坪104坪と
逐次 増築された。

大正7年(1918)には
北大教会に 茨木事件起こり、
部内教会に一部の動揺もあったが、
(久保)治三郎会長は 固い信念で「ぢばの理」に添い切った。

大正9年(1920) 7月19日
東京府北豊島郡 滝野川町大字滝野川西大原708番地に土地を買入れ、
大正11年(1922)1月28日、
建坪336坪の 建築願の許しを受け 建築にかかった。

久保治三郎会長の出直し・清次郎の会長就任(大正12年〜大正13年)

大正12年(1923)、4月7日
久保治三郎会長は 忽焉として 病気のため出直した。

よって 久保清次郎は
大森町支教会長を 関根豊松に譲り、
同年(大正12年) 4月30日を以て
麴町分教会長 就任の許しを受けた。

しかるに
大森町支教会長 関根豊松は
教務上の都合のため、
同年(大正12年) 5月21日 (大森町)支教会長を辞任し、
愛知県知多郡半田町において 単独布教を開始した。

愛町分教会の始まりとなる。

大正12年(1923) 9月1日、
麹町分教会では遷座祭執行の準備中であったが
関東大震災のため
急遽、
親神様、教祖のお目標 及び 祖霊を奉じて
普請中の滝野川に お遷しした。

大正13年(1924)11月12日、
新築落成奉告祭を目前に控えて、
前分教会長夫人 (久保)キンは出直した。

同月(11月)15日 新築落成奉告祭が行われた。

北大教会からの分離・麹町分教会へ(大正14年〜昭和2年頃)

大正14年(1925) 3月3日、
麹町分教会は
北大教会より分離、天理教麴町分教会と改称の許しを受けた。

同日(3月3日)、丹波市田部に 2,229坪の土地を買入れ、詰所建築の許しを受け、
同年(大正14年) 9月25日 第1期工事を完了した。
昭和2年(1927) 3月15日、
久保多三郎(国華)の長男 正徳を
久保清次郎会長の 養子に迎えた。

麹町分教会から麹町中教会へ(昭和4年頃)

昭和4年(1929) 2月3日、
天理教麴町中教会と昇格改称の許し受け、
同年(昭和4年) 4月15日に奉告祭が執行された。

その時 記念出版された 麴町中教会名称録によれば
職員表に、
(会長)久保清次郎、
(理事)久保多三郎、 寺門喜美、飯塚幾太郎、守屋寸々、菰田栄三郎、高田吉、守屋長蔵、金子周之助、
(承事)衣笠与助、永田てう、知久徳次郎、岡田千代太郎、亀石五郎、永田秀次、松井秀次郎、柴田正一。

婦人会 麴町支部 職員表には、
(支部長) 久保つる、
(主事)寺門喜美、 高田吉、守屋寸々、永田てう、飯塚阿幾、久保まさ、知久りき、衣笠たみ、稲葉さわ、金子元、守屋与志、菰田かや、渡辺ため、守屋菊代、岸本よね、岡田やす、松井玉、亀石和歌
の名がある。

名称数表によれば、
中教会 直轄教会別に、
蕨町支教会4、
大森町支教会31、
錦江支教会13、
錦都宣教所4、
上之町宣教所6、
赤塚宣教所4、
国華、穂保作、神根町、西之町、飯田橋、東町、御幸町、川口町、愛町、金之町、南町、中之町 各宣教所 各1、
部属教会総数 74ヵ所
と記録されている。

麹町中教会から麹町大教会へ(昭和8年〜昭和10年頃)

昭和8年(1933) 10月11日、
天理教麴町大教会と昇格改称の許し受け、
昭和10年(1935)  6月30日、その昇格奉告祭が行われた。

昭和10年(1935) 5月23日、錦江分教会が分離した。

久保正徳5代会長の時代(昭和13年〜昭和40年頃)

昭和13年(1938)1月21日、
久保清次郎会長は「おぢば」の詰所にて出直した。

よって 翌2月26日
久保正徳が 5代会長就任の許しを受けた。

久保正徳会長は
この年(昭和13年) 8月1日入営、昭和15年11月除隊となった。

昭和16年(1941) 1月31日、
本部員 梶本宗太郎4女 やす乃と結婚した。

なお、同年(昭和16年) 3月26日付で
大森町分教会が分離した。

(久保正徳会長は) 昭和19年(1944)4月23日 応召、
終戦により 昭和21年(1946) 6月30日復員したが、
その入営、応召中は
両度、久保多三郎が 大教会長 代務者をつとめた。

昭和20年(1945) 3月4日、
戦災のため 大教会付属建物の一部65坪を焼失した。

昭和21年 4月21日に
4代会長夫人(久保)つるが 出直した。

越えて昭和32年(1957) 6月13日、
久保正徳会長夫人(久保)やす乃が 病気のため出直した。

昭和33年11月16日
麴町大教会 創立61周年記念祭が執行された。

昭和34年(1959)4月28日、
久保正徳は 本芝大教会3代会長 白木原保の長女 殖子と結婚した。

久保殖子6代会長の時代(昭和40年〜昭和44年頃)

昭和40年(1965)12月7日、
久保正徳は 病気のため出直した。

よって (久保)殖子夫人を 後継者(6代会長)に推薦、
昭和40年(1965) 12月25日付 許しを得て 就任した。

翌(昭和)41年(1966) 4月10日、
就任奉告祭が行われた。

昭和44年 11月26日付を以て、
旧炊事場、風呂場、蔵等を取毀しの上、
大教会神殿西側に 炊事場(381坪4合8勺) の建築許しを受け、
昭和45年9月1日完成、使い初めが行われた。

出版物は
教会史として『麹町大教会略史』(昭和32年版)
機関紙として
『麴町月報』(昭和4年4月より昭和6年末迄)
『復刊麴町月報』(昭和22年6月より現在迄)がある。

〔現住所〕  〒114-0023 東京都北区滝野川1丁目86番1号 
〔電話〕03-3910-2117

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,322〜325)

おわりに

麴町大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

25回目の今回は、
「麹町大教会」の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

麴町大教会公式HPより
麹町大教会公式HPより

天理教 各教会の歴史探索シリーズ】25回目の当記事では
『天理教事典』の中の「麹町大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

麹町大教会は、北大教会から分かれた大教会ですね。
北大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

北大教会の勉強をした際、東京布教に関して以下のような記述がありました。

北系統で 東京布教の先鞭をつけたのは、
豊岡系の岸本唯之助(後に可賀美と改名) であろう。

明治25、26年頃ではなかろうか。

岸本(唯之助) は 豊岡初代 木岡儀八郎の親戚で、
その妻は 貴族院議員の姪に当たっていたという。
その関係で 東京に出て 布教することになったものと思う。

場所は 麹町区3番町11番地で、
旧幕臣 松平の屋敷跡を借り受けていたものだという。

相当の信者が出来るに及び、
天地組の理事 上田善兵衛が、
この信者の世話を引き受け、天地組2番とし、
自らがその講元となり、岸本(唯之助) を自分の養子とした。

そして 明治29年 7月11日、
上田善兵衛 名義で、麹町支教会を設置している。

明治29年の教祖10年祭には、
麴町の団体は 赤いショールを着て帰参し、随分目立った という話がある。
麴町の信者は、場所がお屋敷町だけに、裕福な人が多かった。

ところが、
(麹町)支教会長の上田善兵衛が、
安堵村の飯田岩治郎の異説の先鋒となり、
教会本部より免職され、
信者千余名といわれた麹町も 四散して、
わずかに 久保治三郎等を残すだけになった。

(『天理教事典』1977年版 P,229)

ウ~ン、何か、いろいろ複雑… (~_~;)

自分の頭を整理するために、
『天理教事典』に書かれた「麹町大教会」の歴史を
箇条書きにしてみます。(敬称略)

  1. 明治25年(1892)頃、
    兵庫県豊岡市結村(むすぶむら、玄武洞の近く) から、
    岸本唯之助(後に可賀美と改名) が 東京に出て、
    麹町区三番町11番地に居を構えて布教を始めた。
    (岸本唯之助は、北大教会部内 豊岡の初代 木岡儀八郎の親戚)

  2. 岸本唯之助(可賀美)のにをいがけにより、
    埼玉県蕨町の 板倉喜代平が信仰に入った。

  3. 板倉喜代平は 織物製造を業とし、傍ら淘宮術をやっていたが、
    岸本可賀美の「さとし」に悟るところあり、
    淘宮術を捨てて 天理教に入信した。

  4. 板倉喜代平を通して、
    近在の織物業の仲間や淘宮術をよくする人達、親しい人々に
    天理教の教えが広まった。

  5. 岸本可賀美はこれに力を得て、
    再び (東京市)麹町区三番町に戻り布教に努めた。
    その結果、急速に信者が増え、
    明治27年(1894) 2月、天地組2番分講が結成された。
    上級・北分教会の理事である上田善兵衛が講元となり、
    岸本可賀美は副講元に就任した。
    (上田善兵衛は明治28年に上京。岸本可賀美は善兵衛の養子となり 上田可賀美となった。)

  6. 明治27年3月、
    東京市本郷区東竹町23番地で質商を営んでいた久保治三郎宅を、
    岸本可賀美の手引きで既に入信していた淘宮術の友達・友平助七がたまたま訪ねた。
    友平助七は、久保家中が流感のため床に臥しているのを見て、天理教の信仰を勧めた。

  7. 妻の久保信子は、早速 姉と共に、上田(岸本)可賀美を、天地組2番分講に訪ねた。
    久保治三郎も間もなく上田善兵衛講元を訪れ、
    上田(岸本)可賀美から聞く話に感じて入信した。
    久保治三郎夫妻は直ちに布教に励んだ。

  8. 信者が増えたため、
    明治29年7月11日、東京市麹町区三番町11番地に、
    上田善兵衛を担任として神道天理教 北分教会 麹町支教会が設置された。

  9. 久保治三郎は、明治30年4月に、
    因縁を悟って 家も蔵も土地も処分し、貸金の証文は一切火に投じて灰として、質屋をやめた。
    そして、表通りの店舗から裏通りの本郷区湯島6丁目16番地に、
    (長男の)久保清次郎夫妻と共に住み「信仰一条」に励んだ。

  10. 明治30年6月、水屋敷事件が起こった。
    上田善兵衛会長は、上田(岸本)可賀美と共に、
    事件の主謀者である飯田岩治郎方に走り、その参謀格として加担した。
    (上田善兵衛会長は麹町支教会長を辞職)
    内務省訓令による弾圧の影響もあり、麴町の教勢はにわかに頓挫した。

  11. 久保治三郎は、信仰の手がかりがなくなったため、質屋を再び興そうと考えた。
    ところが、明治31年3月、本郷春木町から火を発して、所謂本郷の大火となり、
    久保家は類焼の憂き目に遭った。
    一家は、本家の蔵に一時仮住居した。

  12. この本郷の大火を知った大阪の上級、北分教会長 茨木基敬がはるばる上京し、
    久保治三郎の仮住居を訪れた。
    そして、この事件に込められた神意を悟り、再び元に戻って、有名無実となった麴町支教会を復興するよう要請した。

  13. 易々とは承諾出来ない久保治三郎だったが、
    茨木会長のねばり強い説得に、3年間だけだまされた積もりで信仰させて貰います、と答えるに至った。
    北分教会長 茨木基敬は、満足して大阪へ帰った。

  14. 久保治三郎夫妻は、直ちに焼け残ったもの等を整理して金を工面し、
    本郷区西竹町4番地に新たな家を借り、
    明治31年8月4日 麴町支教会移転のゆるしを受け、
    麹町支教会の復興に取り掛かった。

  15. 久保治三郎は教導職が無かったので、
    北分教会長・茨木基敬が 一時的に 麹町支教会長を兼務した。

  16. 心新たに布教に励んだ久保治三郎の努力もあり、
    麹町の道はどんどん広がっていった。

  17. 久保治三郎の長男・清次郎は、
    久保治三郎から譲り受けた煙草の商売に励んでいたが、
    明治32年11月大暴落に合った。
    自暴自棄となり大蕩尽したが、2日2晩ぶっ通しで騒ぎ立てたところで虚しさ一杯となった。
    久保清次郎は、信仰に打ち込む両親に対する哀愁の念でいたたまれなくなり、
    かねてより道専務を願っていた両親の思いに応える肚を固めた。
    それは、奇しくも両親が清次郎のためにかけた 3、7、21日の子の刻(夜12時) の満願の日の時刻であった。

  18. その後も、久保清次郎の心の中では葛藤が続いたが、
    明治32年11月14日には、ついに、
    「お父さん、お母さん、向こう3年間、天理教をやってみます。3年の後は後の事として3年間お父さんお母さんの言う通りになります」
    と誓い、道専務の心を定めるに至った。

  19. 久保清次郎は(久保治三郎の)言い付け通りに、
    水屋敷事件以来そのままであった 東京府下北豊島郡徳丸方面に布教を開始した。

  20. 徳丸方面の布教に励んでいた久保清次郎であったが、
    明治33年夏には、これを他の役員らに委ねて大森町の布教に赴く事になった。徳丸方面の布教は、久保治三郎会長の命により菰田栄三郎に引き継がれ、それが赤塚分教会の土台となった。

  21. その後、麹町の道はどんどん広がっていった。
    明治34年10月9日には、茨木基敬が麴町支教会長の兼務を辞任し、久保治三郎が支教会長となった。

  22. 明治36年11月17日、本郷区東竹町6番地に麴町支教会神殿を本郷6丁目より移転した。

  23. 明治42年 2月23日、北大教会 麴町分教会と昇格改称した。

  24. 大正3年7月7日には神殿増築、大正7年には 神殿の増築及び教祖殿の新築を始め建坪104坪…と逐次増築された。

  25. 大正7年、上級・北大教会に、茨木事件が起こった。
    部内教会に一部動揺もあったが、久保治三郎会長は固い信念で「ぢばの理」に添い切った。

  26. 大正12年4月7日、久保治三郎会長が 病気のため出直した。
    それを受けて、当時、大森支教会長であった久保清次郎は、大森町支教会長を関根豊松に譲り、
    大正12年4月30日に、麴町分教会長就任の許しを受けた。
    (大森町支教会長に就任した関根豊松は、教務上の都合のため、就任1ヶ月足らずの5月21日に大森町支教会長を辞任。愛知県知多郡半田町において単独布教を開始した)

  27. 大正12年9月1日、関東大震災。
    麹町分教会は遷座祭執行の準備中であったが、
    急遽、親神様、教祖のお目標及び祖霊を奉じて 普請中の滝野川にお遷しした。
    本郷区東竹町の旧建築物は全焼した。

  28. 大正13年11月15日、新築落成奉告祭が行われた。

  29. 大正14年3月1日、麹町分教会は 北大教会より分離。
    天理教麴町分教会と改称の許しを受けた。

  30. 昭和4年2月3日、天理教麴町中教会と昇格改称の許し受け、
    昭和4年4月15日に奉告祭が執行された。

  31. 昭和8年10月11日、天理教麴町大教会と昇格改称の許し受け、
    昭和10年 6月30日、昇格奉告祭が行われた。

  32. 昭和13年1月21日、久保清次郎会長が出直し、
    翌2月26日 久保正徳が 5代会長就任の許しを受けた。

  33. 昭和40年12月7日、久保正徳が病気のため出直し、
    久保殖子夫人を後継者(6代会長)に推薦。
    昭和40年12月25日付で許しを得て就任。
    昭和41年4月10日、就任奉告祭が行われた。

…そんな感じでしょうか。

麴町大教会ストリートビューより④
Googleストリートビューより

今回、『天理教事典』を書き写すことで、
麹町大教会の波乱の歴史を 初めて知りました。

麹町支教会の最初の担任(初代会長)となった上田善兵衛先生は、
飯田岩治郎の「水屋敷事件(安堵事件)」に関与して
本教を去られていたのですね。

『天理教事典』1977年版では、
「安堵事件」として解説されています。

安堵事件(あんどじけん)

水屋敷事件とも呼ばれる。

飯田岩次郎が、
明治30年(1897) 6月ごろから、
奈良県生駒郡安堵村の天理教平安支教会において
異説を唱えた事件。

飯田は、幼少の頃に教祖から重病を救けられ、
多年信仰を続けて、
天理教教会本部准役員、天理教平安支教会長の要職にあった。

ところが、「水のさづけ」を拝戴していて、
病たすけの上で救済の働き大であることを楯に、
教会本部に対して 異説を唱え出した。

この頃は、
天理教にとっては 秘密訓令の大打撃による傷心 消えやらぬときで、
その外患に対して まさに憂うべき 内部の患いであった。

飯田は
ここは水屋敷で、教会本部は火屋敷であり、
水は火に勝つのであるから、
自分の屋敷こそ
天理教の本来ある中心の場所である旨を唱えた。

平安支教会の信仰者はもとより、
他の教会につながる信仰者までも次第に惑わされるに至ったので、
教会本部は「おさしづ」を仰ぎ、
協議を重ねた結果、
飯田岩次郎を 明治30年11月18付で免職し、
平安支教会を 他所へ移転することによって、
この一件は落着した。

この事件は、
この時期に同じく内患としてあらわれた前橋事件と共に、
教内に大きな衝撃を与えた。

(『天理教事典』(1977年版) P64~65 )

後に麴町支教会長となられる 久保治三郎先生は、
明治27年に 淘宮術の友人・友平助七氏から勧められて
天地組2番分講(後の麴町支教会)を訪ね、その教えに感銘を受け、
家も蔵も土地も処分し家業である質屋もたたんで
信仰一条に打ち込んでおられた。

なのに、
「水屋敷事件」で、信仰拠点である麹町支教会の
会長・上田善兵衛先生が居なくなり、
信仰の足場がなくなってしまった…

そこで、仕方なく、商売(質屋)の再興を考え始めた。
そのような折も折、
大火事に巻き込まれて 久保家が全焼してしまった。

災難が重なり、
心底打ち込んだ信仰からも 足が遠のきかけていたその時、
なんと、当時の上級・茨木基敬 北分教会長が、
大阪から 遠路はるばる上京してきた。

茨木会長が、ねばり強く説得。
久保治三郎先生は、
3年間だけだまされたつもりで信仰させて貰います と答え、
再び、この道を歩み始められた――

もし、この時の茨木基敬 北分教会長の説得がなければ、
もしかしたら、今の麹町大教会は無かったかもしれない…
と言えなくもないわけで、
そう考えると、不思議な感じがします。

しかし!
そうして 久保治三郎先生を道に繋ぎとめることに尽力した 茨木基敬会長が、
なんと、今度は、大正7年に「茨木事件」を起こして、
この道から離れて行ってしまわれた‼

茨木事件(いばらぎじけん)

大正7年(1918) 1月16日、
本部員 茨木基敬
及び
当時の北大教会長 茨木基忠の 父子二人が
教会本部より 免職された事件。

茨木基敬は
安政2年(1855) 10月3日、
大阪西成郡 北野村
松本佐兵衛 の次男 信次郎(入信後 基敬と改める)
として 出生。

20歳の頃 親戚の 茨木家を継ぎ、
天満滝川町にて 乾物商を営んでいた。

明治15年(1882) 11月、
次女 良久子の患いを
泉田藤吉に救けられて 入信。

明治16年 3月6日、
はじめて「おぢば」に参拝し
教祖にお目にかかった。

この頃より、
天満滝川町の店を閉めて 布教専一となり、
明治17年 4月20日には
天地組を組織して 講長となる。

その後、この講を基として
明治24年 8月4日
北分教会 (明治42年1月20日大教会に昇格) が設立され
初代会長となる。 

明治42年(1909) 当時、
北分教会は 曽根崎新地の真中にあり、
付近の住民から 教会の移転を強く要望され、
間に警察が入って 頼みに来る有様であった。

そこで彼は
移転先を 生野区勝山町と定め、
同年(明治42年) 7月11日までに と日をきって
移転を約束して
さっそく信者たちと 移転の仕事をはじめた。

7月10日には ほとんど移してしまい、
あとは 石燈籠とか敷石の類しか 残っていなかった。

それを運ぶ荷車が 上本町にかかった頃、
北区空心町から火事がおこり、
天満から曽根崎、福島を燃えつくし
海の方まで燃え進んだ。

これを見た信者たちは、
うちの会長は神様だ、
このことがあるのを知って
7月11日と 日限をきったのであろう
と言いあった。

その後の茨木基敬の行動には
常識で考えられないような事件が
相次いで起こった。

いわゆる 茨木事件 そのものの発端は、
明治44年 11月18日の 真夜中よりはじまる
と言われている。

すなわち、
同年(明治44年) 10月に
本部員に任命されたばかりの茨木基敬に 天啓が下る と言われ、
彼は 暗夜に筆をとり 神様のおつげを書き写して
信者たちに 神意を伝えはじめた。

このため、
信者の中には
彼を 神として崇拝する者が出て来るようになり、
次第に「ぢば」の意義をも 無視するようになり出した。

教会本部としても これを放置しておくことができなくなり、
大正6年 1月に 彼を休職処分として
種々説得していたが 聞き入れられず、
逆に 日を追って
信者や所属教会長等も 彼に対する信仰を深めていった。

そこで 教会本部は
翌(大正) 7年 1月16日付をもって
茨木基敬と
北大教会長 茨木基忠の
父子を 免職にしたのである。

この事件は、
本部准員 飯田岩治郎のおこした異説 安堵事件と共に、
教会本部の中枢にいる者の唱えた異説として
当時の天理教内に 大きな衝撃を与えた。

〔参考文献〕高野友治『天理教伝道史Ⅰ』『天理教高安教会史下巻』

(『天理教事典』(1977年版) P64,~65 )

『天理教事典』解説文の中では、
大正7年(1918)には 北大教会に茨木事件起こり、
部内教会に一部の動揺もあったが、
(久保)治三郎会長は 固い信念で「ぢばの理」に添い切った…
と、サラリと書き流してあります。

水屋敷事件が、明治30年(1897)。
茨木事件が、大正7年(1918)。

水屋敷事件から茨木事件まで21年しか経っていない。

もしかしたら、内部には、
水屋敷事件の混乱の記憶が残っていて
茨木事件を迎えた方も おられたかもしれない。

何より、
麹町大教会の本当の意味での礎を築かれたと言える 久保治三郎先生。
その久保先生の気持ちは どのようなものだったのでしょうか…

お道から心が離れかけていた久保治三郎先生を説得して、
この道に繋ぎ留めて下さった 上級会長の茨木基敬先生。

その 茨木先生が、
本部から異端と認定され、
離れていかれることとなったわけです。

久保治三郎先生が道を歩み始めた初期には
「水屋敷事件」にて、信仰拠点である麹町支教会長の上田善兵衛先生が道から離れて行ってしまわれた。
そして、20年の時を隔てて、今度は上級の茨木基敬先生が――

素人考えであることは重々承知しておりますが、
その胸中は、第三者には理解できないほど複雑だったのではないか…
そのように想像致します。

しかし――
そのような大混乱にもかかわらず、
久保治三郎先生は、揺ぎなき信仰で
その大節を 見事に乗り越えられた。

そして その結果、
「麹町大教会」は、
今、天理教内で ひときわ華やかな光を放ち、まぶしく輝いておられる。

波乱万丈と言える「麹町大教会」の歴史から
後に続く私達が学びとれることは、数え切れないほど多い…
そう思います。

それにしても、
今回の自己学習を通して、
これまで全く知らなかった麹町大教会の歴史を
(表面的ではありますが)知ることが出来たことは、
誠に有難いことでありました。

これまで、
麹町大教会と言えば、
天理教の中で異彩を放つ 愛町分教会も含めて、
外部の人間である者には、
ただ華やかで 輝かしい面しか見えていませんでした。

しかし、その華やかな姿に至るまでの歴史、
それは、
決して綺麗ごとばかりではなくて、
本当に、様々な人間模様に彩られた
泥臭い面が無数に含まれていた――

今回、そのことを学習する機会を与えて頂き、
改めて、
現実世界の多面性の一端を見ることが出来たような気がします。
本当に有難いことでありました。

――その他のことも含め、今回も知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「麹町大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】8回目である今回は、『天理教事典』項目 及び その他ネット上で見つけた「敷島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第9回)【日本橋大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】9回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日本橋大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第10回)【高安大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】10回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高安大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第11回)【南海大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】11回目である今回は、『天理教事典』に記載された「南海大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第12回)【芦津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】12回目である今回は、『天理教事典』に記載された「芦津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第13回)【高知大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】13回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高知大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第14回)【北 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】14回目である今回は、『天理教事典』に記載された「北 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第15回)【湖東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】15回目である今回は、『天理教事典』に記載された「湖東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第16回)【甲賀大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】16回目である今回は、『天理教事典』に記載された「甲賀大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第17回)【水口大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】17回目である今回は、『天理教事典』に記載された「水口大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第18回)【中河大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】18回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中河大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第19回)【名京大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】19回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名京大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第20回)【中和大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】20回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中和大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第21回)【櫻井大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】21回目である今回は、『天理教事典』に記載された「櫻井大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第22回)【筑紫大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】22回目である今回は、『天理教事典』に記載された「筑紫大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第23回)【越乃國大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】23回目である今回は、『天理教事典』に記載された「越乃國大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第24回)【名東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】24回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名東大教会」についての説明を書き写しました。

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