【教会長デュアルワーク】教会長のご用と、給与を得るための仕事、どう両立させているのか(私の場合)

【教会長デュアルワーク】教会長のご用と、給与を得るための仕事、どう両立させているのか(私の場合) 天理教

ふらふら彷徨う「さまよい人」です。

さまよい人
さまよい人

今回は、天理教の教会長という役割を授かった者の社会生活に関する、極めて俗的な話を書こうと思います。

ブログに何書こうかなぁ…となかなかネタが思いつかない中。
ふと、小さな末端教会の人は経済面どうしてるのかということを知りたいニーズ、きっとあるんじゃないかなぁ…と思いつきました。

大がかりな調査をすることは出来ませんが、私個人はこうだよということなら書ける。
そう思い至りまして、それで書くことに致しました。

天理教信仰家庭、特に教会関係者にとっては、生活の「経済的」基盤をどう維持していくのかというは、実は大問題。
教会から給与が出るわけではありませんし、霞を食べて生きていくこともできませんし。

私「さまよい人」は、(どこに有るのか分からないような小さな「天理教の分教会」ではありますが、一応そこの)教会長という役割をこなしながら、給与を得るため、生活の「経済的」基盤を維持するために、(お道で世上働きと言われる)賃金労働も同時に行っています。

今回は、その両方をどのように両立させているのかということについて書いていくことにした、というわけです。

今回の記事は、ある末端教会関係者の現状についての、一事例の「情報提供」が目的です。

あまり需要のない内容かもしれません。
しかし、もともとこのブログは、天理教文化圏に関わりながらも私のように迷い多い方を意識して始めました。
なので、そのような方には、一つの事例として多少は興味を持って頂ける部分もあるかもしれないと思い、書いてみることにした次第です。

繰り返しになりますが、あくまでも、「こんなやり方してる男もいるよ」という一つの情報提供記事にすぎません。
こいつ中途半端な生き方してるなぁ…と突き放さず、あぁこんなやり方してる奴もいるんだ…と、軽い気持ちで読んで頂ければ幸いです。

スポンサーリンク

今の私の教会長のご用

祈るシルエット男

私は、令和元年に、父親の後を継いで小さな天理教分教会の教会長に就任しました。

前会長である父親は、今もまだ元気に生活しています。
しかし、80代後半という高齢になって物忘れすることが増え、何やかんやと、加齢に伴うトラブルが目立つようになってきました。
だんだんと周囲に迷惑かけることが増えてきて、これ以上周りの人に迷惑かけることへの心苦しさに耐えかね、(かなり消極的に)長男である自分がその後を引き継いだ、という次第です。

今の私の教会は、毎月の月次祭に参拝して下さる方が、自分の家族以外で2~4人。自分の家族が両親含めて4~5人程度。
なので、毎月だいたい総勢10名程度で月次祭を執り行わせて頂いています。
おつとめの手が揃うことはないので、「事情教会」ということになるでしょうか。

参拝者ごくわずかで神殿参拝場も16畳程度。
本当に小さな教会ですが、それでも「教会長」という役割を引き受けると、規模の大小には関わりなく、あれこれと用事があります。

だいたい毎月決まって行われる用事、教会のご用がどんなものがあるか、簡単に紹介します。

  • 上級の例会 毎月2回
  • 支部の例会 毎月1回
  • 自教会月次祭 毎月1回
  • 上級教会月次祭 毎月1回
  • 信者さん宅の講社祭 毎月5箇所
  • (大教会の神殿当番 3ヶ月に1回)

以上が、毎月(+3ヶ月ごと)行われるご用です。

本当は、以上に加えて、大教会月次祭にも参拝した方が望ましいと言われているのですが、残念ながら私はそこへは出席しておりません。

また、信者さん宅講社祭5箇所の中の2箇所は、ご近所親戚関係の方なので、同日に続けてつとめさせて頂いております。
ですから、実質、講社祭に行く日数としては、毎月4回ということになります。

ということで、私の場合は、全部で、9日(10箇所)(大教会当番月は10日)毎月固定のご用がある、というわけです。

今の私の給与を得るための仕事

man reading magazine photo

では次に、給与を得るための(お道で“世上働き”と言われるところの)労働は、どんな感じで行っているのか、私はどういう具合に一般の仕事をしているのか、ということを紹介します。

今、私は、240床程の精神科単立の病院で、「夜勤専従看護師」として仕事をしています。

過去記事に「なぜそのような仕事をするようになったのか」について記載しているので、どうしてそんな仕事をするようになったのか疑問に思われる方は、そちらを読んで下さい。

私が働いている病院は3交代制で、夜勤が当直制でなく、準夜と深夜に分かれている勤務形態です。

で、私は、夜勤専従と言っても、深夜勤務はせず、今のところ「準夜」専従で働かせてもらっています。

私がお世話になっている病院の準夜勤務の勤務時間は、16時から深夜1時まで。
事前段取り等の関係で、実際に職場入りするのは15時半前後。
勤務を終えて実際に職場を出るのは、その日の忙しさで異なります。
早い時には深夜1時過ぎキッチリ定時に終わることもあるし、バタバタした時には深夜2時頃までに終わらなかったりすることもまれにあります。

「夜勤専従看護師」という働き方に対しては、日本看護協会という業界団体の方から、1ヶ月16回以内の勤務に収めるようにとの通達が出ているそうで、私の勤務も、毎月16回と決まっております。
毎月16回働くことで、パート扱いではなくて正社員として扱って頂けるし、ボーナスも頂くことが出来ます。

そういうわけで、仕事をしている末端の教会長さんは「パート勤務」である場合が多いようなイメージが私の中にはありますが、お蔭様で私の場合は、教会長になってからも「正社員」として働き続けることが出来ています。

前述の如く、教会長としての固定のご用が毎月最低9日(10日)はあるので、もしも私が通常の日勤夜勤フルタイム勤務だったならば、休まないといけない日ばかりになってしまい、仕事を続けることは難しいでしょう。

しかし、夜勤専従ということで(それも準夜専従なので)午前中は仕事の休みを取らなくてもご用が出来ます。

上級の例会は午前中だし、ある講社の方には、前会長の時代は午後に行っていた講社祭を午前中に変えてもらったりもしました。

そうすることで、毎月9個も10個も仕事の休み希望を出さずに仕事が出来ている、というわけです。

ただ、愚痴になりますが、準夜明け翌日午前中がご用の日はちょっとしんどい…(涙)。

私はもともと極めて不愛想で無口な男なのですが、より不愛想になって口数が少なくなります。
そのような時には怒った顔をしている、と周りから指摘されたりします。

まぁ、それはさおき、そのような変則的な働き方を許してもらっているお蔭で、何とか「教会長」と「仕事」を両立することが出来ています。

それにより、経済的に人並な生活を保ちつつ、何とか教会長という役割を両立することができている、というわけです。

「教会長のご用」と「仕事」の両立について思うこと

selective focus photography of You Are Loved book photo

以上ざっと、新米教会長が、「教会長」のご用と給与を得るための仕事を、どのように両立させているのか、私「さまよい人」のケースについて情報提供させて頂きました。

最後におまけ的な感じで、教会長のご用と仕事の両立について、私が思うことを少しばかり書いて締めくくりたいと思います。

天理教の教会長は、経済面は独立採算性(この言葉で良いのかは?)です。

もしかすると、純粋に精神的な面、いわゆるスピリチュアルな面からだけ考えると、お金のような、世俗的でちょっと埃(ほこり)に関わるような部分を気にするのは、信仰的にはその人の成人(成長)を妨げることなのかもしれません。

よく教話で語られるところの、世俗的なことに囚われず神様のご用に専念することによって、その人に本当に必要なものは後から付いてきて、また、俗なる場所にとどまっていたら見えなかった世界が見えるようになる、という話は、頭では理解できます。

しかし、私のように、お道に完全にのめり込むには世間に未練があり、かと言って、お道を完全に打ち捨てるほど嫌いになることも出来ずその素晴らしさにも惹かれている、という中途半端な人間にとっては、俗なる場所から抜け出せない以上、お金の話、経済的な話は避けて通れない関門なのであります。

さまよい人は次のように考えます。

教会長のご用と生活を支えるためのお金を得るための活動(仕事)は、二者択一に考えるものではなくて、「両立」可能なもの。というより「両立」させるべきもの。
むしろ、天理教の教会長も、経済的基盤を安定させるために、積極的に収入を得るための仕事をするべき。

今後、いろいろな出来事に遭遇して考え方が変わるかもしれませんが、現時点ではそのように考えています。

教会活動と収入を得るための活動が合致すれば理想的ですが、今の時点では、教会活動と社会活動の在り方には溝があって難しい。
そうした現状を考えると、その異なる二つの世界を如何にして両立させるかということに精力を注ぐことが、「現時点では」よりベターな選択になるのではないか、そのようなことを思ったりもします。

私「さまよい人」も、当分、給与を得るための仕事をやめることはできないなぁ、と思っています。

以上、「さまよい人」が教会長のご用と給与を得るための仕事をどう両立させているのか、ということについて簡単に情報提供させて頂き、またそこに、少しだけ個人的な意見も添えさせて頂きました。

信仰という心の世界に生活の軸足があるロマンチストに強い憧れを抱きつつも、日常生活の俗なる部分も大切にするリアリストの視点も忘れず生きていきたい、そんなことを考える「さまよい人」なのでありました。

ではでは、今回はこのへんで。

コメント

タイトルとURLをコピーしました