皆さん、こんにちは。
ふらふら彷徨う「さまよい人」です。
「さまよいブログ」へようこそ。
皆さんはプロ野球好きですか?
私は好きです。
コロナ禍で制限が多かったプロ野球も、
今年は、かつてのように賑やかに行われていて、有難いことですね。
テレビからプロ野球のニュースが流れてくるのを視ながら、
普通に野球のニュース視れるってありがたいなー、
という感慨に浸るこの頃。
さて、そうしたプロ野球ニュースを視ていると、
今年は ソフトバンクが快調な様子が目に入ってきます。
そう言えば ソフトバンク、
今年から 天理高校出身の藤本博史氏が 監督だったなー、
とか思いながら、ニュースに触れていました。
そんな時 ふと、
ソフトバンク、オーナーの「孫正義」って、どんな人なんだろう、
という疑問が 私の頭の中に浮かんできたのでした。
漠然と「すごい人」、というのは 知ってるけれど、
どういう人なのかは よく知らない。
一代で これだけの財産を築き、高い社会的地位を 獲得した人なのだから、
きっと、その人生を知ることで 学べることがあるに違いない。ちょっと調べてみよう。
そこから出発しまして、
今回、孫正義という人物について調べて、
それを元に ブログ記事を一つまとめることにしました。
「孫正義」という人の人生を調べるにあたって Googleで検索。
その結果、佐野眞一著『あんぽん~孫正義伝』(小学館)という本が 面白そうに感じました。
ということで、今回の記事は、それを元に まとめることにしました。
また、孫正義の人生について 検索する中で、
中田敦彦YouTube大学の「孫正義」偉人伝 というのも発見。
とても分かりやすくて、何より 非常に面白かったので、
それも 参考にしました。
中田敦彦氏のYouTube講義は、本当に勉強になりますね。
今回の記事は、
佐野眞一著『あんぽん~孫正義伝』、
および、中田敦彦YouTube大学の 偉人伝「孫正義」の動画を 視聴して、
「孫正義」氏の生涯について 勉強したことをまとめたものです。
私のように
道と世界を ふらふら彷徨って 足元の定まらない「さまよい人」にとって、
きっと 役に立つ内容が 含まれていると思います。
ぜひ 最後まで 読んでいってください。
孫正義の 主な経歴
佐野眞一著『あんぽん~孫正義伝』の冒頭、扉の前に 掲載されている経歴年表を元に、
孫正義氏の 主な経歴を紹介します。
- 1955年(昭和30年) 父・孫(安本)三憲と 母・玉子が 結婚。
- 1957年(昭和32年)(0歳) 正義、佐賀県鳥栖駅前の 朝鮮部落で生まれる。
- 1964年(昭和39年)(7歳) 孫一家、北九州市に転居。北九州市立 引野小学校に 通う。
- 1970年(昭和45年)(13歳) 北九州市立 引野中学校に入学。/中1の2学期、教育水準の高い 福岡県早良市に転居し、福岡市立 城南中学校に転校。
- 1973年(昭和48年)(16歳) 久留米大学附設高校に入学。/夏休みに米国に短期留学。/祖母と韓国旅行。/その2ヶ月後、高校を退学する。
- 1974年(昭和49年)(17歳) 渡米、語学学校に入学。
- 1975年(昭和50年)(18歳) ホーリー・ネームズ・カレッジに入学。
- 1977年(昭和52年)(20歳) カリフォルニア大学 バークレー校 経済学部に編入。
- 1978年(昭和53年)(21歳) 自動翻訳機を 共同開発。父・三憲とともに、日本に商品を売り込む。/シャープと2000万円で契約。/留学先で知り合った 病院経営者の娘、大野優美と結婚。
- 1979年(昭和54年)(23歳) 米国でソフトウェア卸会社「ユニソン・ワールド」設立。/インベーダーゲーム機を日本から輸入。
- 1981年(昭和56年)(24歳) 日本での活動を開始。ソフトバンクの前進「日本ソフトバンク」を福岡に設立。/祖母の李元照が死去。
- 1982年(昭和57年)(25歳) 月刊パソコン誌『Oh! PC』を創刊し 出版業界へ参入。
- 1983年(昭和58年)(26歳) 慢性肝炎で 虎ノ門病院に入院、会長職に引く。社長には 日本警備保障副社長の大森康彦が就任。
- 1984年(昭和59年)(27歳) 退院。大森と二頭体制へ。
- 1986年(昭和61年)(29歳) 大森を解任し、社長に復帰。/京セラに 電話回線選択アダプター(LCR)を 売り込む。
- 1990年(平成2年)(33歳) 日本に帰化。/商号を ソフトバンクに変更。
- 1994年(平成6年)(37歳) ソフトバンクの株式を 店頭公開。
- 1995年(平成7年)(38歳) 米マイクロソフトと 合弁でゲームバンクを 設立。/鳥栖駅前の朝鮮部落バラックが 完全撤去。
- 1996年(平成8年)(39歳) 米ヤフーに 筆頭株主として 資本参加する。
「yahoo! JAPAN」を設立。/豪ニューズ・コーポレーションのルパート・マードックと共同で テレビ朝日の 買収を試みるが 失敗。 - 1998年(平成10年)(41歳) ソフトバンクの株式を 東証一部 上場。
- 1999年(平成11年)(42歳) 証券市場「ナスダックジャパン」を創設(2002年に業務停止)。
- 2000年(平成12年)(43歳) 日本債権信用銀行(現・あおぞら銀行)に 資本参加(2003年に売却)。
- 2001年(平成13年)(44歳) ブロードバンド事業に 参入。
- 2004年(平成16年)(47歳) 日本テレコムを買収(3400億円)、固定通信事業に参入。/福岡ダイエーホークスを買収。
- 2005年(平成17年)(48歳) 中国アリババと 中国国内での インターネット事業で提携。
- 2006年(平成18年)(49歳) ボーダフォン日本法人を買収(1兆7500億円)。携帯事業に参入。
- 2008年(平成20年)(51歳) 米アップルの「iPhone3G」を発売。新規加入者が 激増。
- 2010年(平成22年)(53歳) 「ソフトバンク新30年ビジョン」を発表。/後継者育成のため「ソフトバンクアカデミア」を開校。/全国に 光ブロードバンド網を整備する「光の道」構想を提唱。
- 2011年(平成23年)(54歳) 東日本大震災に際して、個人資産100億円の寄付を表明。/自然エネルギー財団を設立。
【佐野眞一著『あんぽん~孫正義伝』より】
また、ウィキペディアには、次のように 記載されていました。
【出生・幼少期】
在日韓国人実業家の二男として 佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に 出生。4人兄弟であった。
いわゆる通名は「安本正義」。なお、孫は自身のTwitterで、自分が日本に帰化していることに言及している。
孫は 佐賀県鳥栖市の 朝鮮人集落で 幼少期を過ごした。
豚や羊と一緒に生活する 非常に貧しく 不衛生な場所であったが、
「今だから言えるが 密造酒も家で作っていた」と佐野眞一のインタビューで述べると共に、
父親の三憲が 密造酒製造販売以外にも 消費者金融、パチンコ業で 大成功し、
長じては パチンコ店数十店舗を所有し、高級車を 何台も保有するほどの 裕福な時期もあったことも 明らかにしている。
北九州市八幡西区相生町に転居後、北九州市立 引野小学校を卒業、北九州市立 引野中学校に入学。
福岡市に転居して 福岡市立城南中学校に転入。【高校・大学時代】
1973年に 久留米大学附設高等学校に入学。
高校時代、友人を介して 知り合った衆議院議員で 元防衛大臣の岩屋毅とは 将来を誓い合った仲である。
高校入学後、家庭教師に薦められた 司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』を愛読し、脱藩に憧れて渡米を決意し、夏休みを利用して 米国カリフォルニア州にて 語学研修のため 4週間の短期留学。
1974年に 久留米大学附設高等学校を中退し、2月に渡米し 米国ホーリー・ネームズ・カレッジ(英語版)の英語学校 (ESL) に入学し、サンフランシスコのセラモンテ高等学校2学年に 編入学。
3年生、4年生へと飛び級し、高校卒業検定試験に合格したため、3週間で退学。
翌1975年に ホーリー・ネームズ・カレッジに 入学した。
1977年、カリフォルニア大学バークレー校 経済学部の3学年に 編入学。
そして 1979年、シャープに 自動翻訳機を売り込んで得た 資金1億円を元手に、
米国で ソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。
インベーダーゲーム機を 日本から輸入し、米国で 販売した。
1980年に カリフォルニア大学バークレー校を 卒業した。【ソフトバンク起業】
1980年、日本に帰国し コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を 博多区雑餉隈で興す。
そして1981年、ユニソン・ワールドと 経営総合研究所の共同出資で 福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立し、代表取締役社長に 就任する。
1983年、慢性肝炎での入院をきっかけに 社長職を退いた。
「お金じゃない、地位や名誉でもない、ばあちゃんがやっていたような、人に喜んでもらえることに貢献できたら幸せだ。どこか 名前も知らない小さな女の子に『ありがとう』と言ってもらえるような、そんな 仕事がしたい」と思い 今に至る。
「おばあちゃんはいつも『人さまのお陰だ』と言っていたことから、人を恨んだりしてはいけない」とも語っている。
1986年に 社長職に復帰。
以降、パソナの南部靖之、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄と共に ベンチャー三銃士と称された。【1990年代】
1990年、日本ソフトバンクを ソフトバンクに 社名変更。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』孫正義より
1994年に ソフトバンクの株式を 店頭公開。
1996年には 米ヤフー社とソフトバンクの合弁で ヤフー(Yahoo! JAPAN)を設立。同社 代表取締役社長に就任。
ウィキペディアには、
ソフトバンク設立 → Yahoo! JAPAN 設立以後の
華々しい経歴についての 記載もありますが、
今回は 生い立ちの部分に 注目したいので、割愛します。
以上、孫正義氏の 経歴について、
あちこちから かき集めたものを 引用し、紹介しました。
佐野眞一『あんぽん~孫正義伝』印象に残った箇所
今回の記事は、
孫正義という人物に 興味が湧いて、
その 生い立ちを知りたいと思ったところから 書き始めました。
孫正義の経歴を知るために、まず ネットで検索しました。
ウィキペディアの内容は、前項に 記載した通り。
それに加えて、当記事冒頭で 記述した通り、
タイトルが面白そうだったので、
佐野眞一著『あんぽん~孫正義伝』という本を 取り寄せて読んでみることにした、
というわけです。
この本は、
孫正義という人の経歴を 淡々と綴るというよりは、
佐野眞一という ジャーナリストが、
孫正義という人物を、極めて 個人的な主観でもって掘り下げる、
という 感じの著作です。
今回の記事を 書くまでよく知らなかったのですが、
佐野眞一という方は、週刊朝日による橋下徹特集記事問題を 起こして 筆を折った方のようで、
癖の強い方 みたいですね。
確かに、この本も 癖が強い感じが しました。
孫正義氏の生涯を 知りたいと思って 取り寄せた、佐野眞一著『あんぽん~孫正義伝』という本でした。
が、この本では、
孫正義氏の生涯についての 記述が 中心ではありますが、
それ以上に、その周辺の親族の方々への取材内容が とても濃密で、
それだけで お腹いっぱいになりました。
特に お父さん(安本三憲氏)へのインタビューも含めた取材は、
おそらく 佐野眞一氏でなければ引き出せなかった 内容に違いなく、
その点において、
この本は 他の 孫正義氏の伝記と 一線を画す 貴重な輝きを 放っているように感じました。
特に、第三章『在日アンダーグラウンド』、第六章『地の底が育てた李家の「血と骨」』の箇所は、
在日朝鮮人の方々の 壮絶な物語が 展開されていて、
その 何ともいえぬ 独特な世界観に、何か 頭がクラクラするような、異様な 感覚に包まれたのでした。
こんな 壮絶な世界を バックグラウンドに持つ 孫正義氏なればこそ、
ここまで 人々の常識を超える発想を持って 社会活動に取り組むことができたのに違いない。
そんな感慨を 覚えました。
今回の記事は、この本の内容を 紹介することが 目的ではないので、
著作について これ以上 深入りはしません。
ただ、
安本正義という通名から
現在 使われている「孫正義」という名前に 変える時の 思いを語っている部分は、
孫正義氏の人となりが知れる 貴重な記述だ と感じました。
なので、まだ この著作を読んだことがない方にも お伝えしたい と思いまして、
以下に 紹介します。
(孫正義)「ソフトバンクを始める前の 一年半、どんな事業をやるか 随分 迷っていたんですが、
その中の一つに、病院経営という選択肢も 実際あったんです」——でも、実際に起業したのは、ユニソン・ワールドという ソフト卸の会社だった。
「ええ、孫という名前で、ユニソン・ワールドを始めました。
そのとき、二つの選択肢が あったわけです。
孫という名前で 会社を興すか、
それとも 元の 安本に もう一回戻って、会社を 興すのか。
僕の親父も 親戚のおじさん、おばさんも 全部 安本の名前で 通していましたからね。
だから、孫の苗字のままで 日本で会社を興すのは、
親戚の中では 僕が 第一号なわけですよ」——孫の苗字のままだと、韓国人だ ということが バレちゃいますからね。
親戚は 孫さんが 安本という日本名を 捨てたことに 反対しませんでしたか。「猛反対でしたよ」
予想した通りの 答えだった。
だが、孫が この帰化問題を ここまで 率直に言うとは 思わなかった。「おじさん、おばさんたちが、それこそ 全員集まって、
『おまえ、それだけはやめろ』と 言うんです。
在日が 日常生活で差別されるケースは だいぶ 減ってきたけど、
就職するとか、金を借りるときには、間違いなく差別されるぞ、
孫の名前では 銀行は 絶対 金を貸さないぞ、
お前が 考えているより、ハードルは 十倍あがるぞ、
なんで お前は わざわざ好んで その難しい道を行くんだって、
猛反対するんです」——それを どう言って 説得したんですか。
「いや、おじさんたちは そう言うけど、
孫という 本名を捨ててまで 金を稼いでどうするんだ、と言いました。
それが たとえ 十倍難しい道であっても、
俺は プライドの方を、人間としてのプライドの方を 優先したいと、言いました。」…(中略)孫という名にこだわった もう一つの理由は、
渡米するときに 心に決めた 自分なりの小さな志のためだった という。「何十万人といる 在日韓国人が、日本で就職や結婚や、それこそ 金を借りるとき 差別を受けている。
でも 在日韓国人であろうが、日本人と同じだけの 正義感があって、能力がある。
それを 自分が事業で成功して、証明しなきゃならない と思ったんです。
これからの 在日の若者に、それを 背中で 示さなきゃいけないのに、
俺が 本名を隠して こそこそやったんじゃ、意味が なくなるじゃないか、
アメリカに行った目的が 達成できないじゃないか。
あとから、あの事業を興したのは、実は 孫でしたと言ったって……」——後出しジャンケンにしかならない。
「そう。だから、俺は どれだけ難しい道だって 堂々と 正面突破したいんだと、言ったわけです。
そうしたら、お前は 青いと」——それは お父さんが言ったんですか。
「いや、親父は 何も言いませんでした。親父は 黙って聞いているだけでした」
孫正義が 国籍問題を 初めて口にしたのは、小学校四年生のときだった。
そのときも 三憲は、反対しなかった。
正義が 孫の名前で ユニソン・ワールドを始める と言ったときも、
それから 十年後の一九九〇年に 正式に 日本に帰化したときも、
三憲だけは 反対しなかった。…(中略)
孫が 一度言い出したら 絶対誰の言うことも聞かないことは みんな知っていた。
しかし、それで 親戚の猛反対が おさまったわけではなかった。「それでも おじさん、おばさんたちは、僕に 言いました。
『おまえが 正面突破したいという、その正義感は 見上げたもんだ。
だが、親戚としては それでは困るんだ。
俺たちは 孫という名前を 隠して仕事しているし、ふだん 日本人として 暮らしているんだ』
ってね」——孫さんも アメリカに渡るまでは 安本って名前で 通してきましたからね。
「ええ、日本人に 同化して 生きてきたわけです。
それが、僕だけが 突然、本名の孫を名乗って、
実は 韓国籍だった ということを 自分の方から明かす。
家の表札にも『孫』って書いちゃう。
つまり、みんな 韓国人だということが バレちゃうわけですよ」——そこを 孫さんは どうやって説得したんですか。
「『いや、僕は 別に 鳥栖で 仕事するんじゃない。
佐野眞一著『あんぽん~孫正義伝』P,162~165
旗揚げは 東京でするから、俺のことは もう忘れてくれ』
って言ったんです」
長い引用になりましたが、
孫正義という人物像が 非常に よく伝わってくる内容だ と思ったので、
原文通り 引用させて頂きました。
大反対する親族に向かって「俺のことはもう忘れてくれ」と言い放ち、初志貫徹する。
カッコイイ!
孫正義氏の人となりを よく表す話だ と思いませんか。
孫正義の 生い立ちを見ての 私の学び
佐野眞一著『あんぽん~孫正義伝』を読んで、
また、中田敦彦YouTube大学の偉人伝「孫正義」も 視聴。
(中田敦彦YouTube大学の 偉人伝「孫正義」は、非常に分かりやすく、とにかく 面白かった)
それにより、表面的ではありますが、
孫正義という人物の、大まかな 経歴の流れを 知ることが出来ました。
わかったことは、
とにかく「孫正義」という人物は ただものじゃない、
私らのような 一般人とは 次元が違う、
ということなのですが、
ただ それだけで終わったのでは 悲しすぎる。
そこで、
別世界の話かもしれないけれど、
私達一般人にも 活かせるような 教訓は ないものか、
という視点で、今一度 孫正義の生い立ちを 見つめ直してみました。
そして、
そこから、「私なりに」浮かび上がらせた【学び】を、
以下に 記述してみたい と思います。
私のような 足元の定まらない「さまよい人」の 役に立つことを願って。
「『恨み』を超越する力」が ハンパない
孫正義氏は、
佐賀県 鳥栖市 本鳥栖町 無番地という 朝鮮人の集落で生まれた、在日三世です。
朝鮮部落で生を受け、
きっと 在日朝鮮人として 多くの差別を 受けてきたでありましょう。
しかし、(内面は うかがい知れないものの)
外側に現れて周囲の人間が 確認することができる言動の中には、
まったく 日本人への恨み意識を 感じさせるものがありません。
お道でも、「うらみ」の心遣いは 八つのほこりの一つと 教えられていますが、
孫正義氏の生涯には、まったく 「恨み」を感じさせるものがないのです。
まさしく、「恨み」を超越している と言っていいのでは ないでしょうか。
孫正義氏の経歴から 学べることの一つとして、私は、
成功する人は 「恨み」の感情を超越している、
ということを 挙げたいと 思うのです。
➡(教訓)
=「恨み」を乗り越えよう
「現状を 当たり前としない力」が ハンパない
中田敦彦YouTube大学の 偉人伝「孫正義」で いろいろ紹介されていた中で、
私が 強く印象に残った話として、
高校時代に(高校生ですよ!)、
日本マクドナルド社長の 藤田田氏に会うために 何回も足を運んだ話、
米カリフォルニア大学の 編入試験を受ける際に 辞書の持込みと 試験時間の延長を 願い出た話、
というのがあります。
そのようなケースや場面では、
まだ 高校生や大学生頃の 青い時代には、
普通は、まぁ無理だろうな、とか、そう決められているならしょうがないか、
と従う人の方が 圧倒的に多いと思うのです。
しかし、孫正義氏は、
そのような場面でも、すんなり従うのではなくて、
“それは おかしいのではないか?”
という意識を持って それと向き合っている。
そして、それに対して、
ただ 不平不満をこぼし 愚痴って終わるのではなくて、
目的を達成できるよう、改善につなげるための行動を とっているのです。
そうした孫正義氏の経歴から、私は、
成功する人は「現状を当たり前として見るのではなく、改善の余地があるのではないか」
という 柔軟な視点を常に忘れずにいる、
ということを 挙げたいと思います。
➡(教訓)
=現状を当たり前とせず、改善の余地があるのではないか、
という新しい目で見てみよう
「交渉力」が ハンパない
前項につながる内容に なりますが、
孫正義氏は、様々な場面で、
“これは無理だろう”、と普通の人なら思われるような相手に対しても、
決して、最初から あきらめて避けて通る、
ということをしていません。
普通に考えれば、まず無理だろう、不可能だ、
と 思われるような状況や 相手であっても、
常に、ダメ元(孫正義氏はそう思っていなかったかもしれません)で 交渉してみよう
と 一歩前へ出ることを しています。
最初から あきらめずに、
とりあえず 交渉してみようとする態度、行動力は、
とにかく凄い。
私のような 引っ込み思案の人間には、
ただただ、うらやましい限りです。
ということで、
次なる 孫正義氏の経歴から学べること。それは、
成功する人は「最初からダメだと決めつけず、とりあえず交渉してみようとする」
です。
➡(教訓)
=最初からダメだと決めつけず、とりあえず交渉してみよう
「俯瞰力」が ハンパない
孫正義氏の人生、経歴を 調べてみて感じたのは、
孫正義氏は、とにかく、常人の想像を はるかに超えるほど視野が広い、
ということでした。
日本の高校を退学して アメリカへ留学した話。
まだ ソフトウェアの価値が 今ほど認知されていない時代に、ソフトウェア卸会社を 起業した話。
既得権益者からの妨害を はねのけて 通信事業に参入し、街頭で 端末を無料で配ったりして、その後、業界内において 堂々たるシェアを確保した話。……
孫正義氏の人生、経歴を調べて、その他 数えきれないほどの武勇伝が あることを知りました。
それらを知って、私は、
孫正義氏の 常識を超えた視野は、
現時点における 横に広がるものだけでなく、
時間的な面、歴史的な縦の面でも、長く 深く 広がっている
と感じました。
目先のことだけしか 見えていなかったら、
今の 孫正義氏の成功は なかったでありましょう。
孫正義氏は、
とにかく、先の先まで 見通す力がスゴイ。
これは、すなわち、
ものごとを「俯瞰的に」見つめる力がハンパない、
ということだと私は思います。
私が、今回、孫正義氏の経歴を調べて 学んだことの最後の項目。それは、
成功する人は「俯瞰する力が大きい」ということです。
➡(教訓)
=自分の持てる最大限の力で、一度俯瞰してみよう
まとめ
私(さまよい人)が 孫正義氏の生い立ち・経歴を調べて感じた【成功に必要】だと思うこと。
- 「恨み」を乗り越えよう
- 現状を当たり前とせず、
改善の余地があるのではないか、
という新しい目で見てみよう
- 最初からダメだと決めつけず、
とりあえず交渉してみよう
- 自分の持てる最大限の力で、
一度俯瞰してみよう
今回は、孫正義という 天才の経歴を調べて、
そこから 学んだことを まとめてみました。
在日朝鮮人という ハンディキャップを もろともせず、
むしろ それをバネにして、大きく 世界に羽ばたいて活躍している「孫正義」氏。
私たちは、
そのような 稀有な存在と 同時代に生を受け、
その活躍を リアルタイムで眺めることのできる幸運を 与えられています。
コロナ禍という 激変する時代。
この先、天才・孫正義氏は どのような活動を 繰り広げていくのでしょうか。
注意深く ウォッチしながら、
そこから 学べることはないか、
今後も、目を凝らしていきたいものだと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
コメント