門井慶喜著『家康、江戸を建てる』の紹介と私の学び

『家康、江戸を建てる』紹介アイキャッチ画像読書ノート

皆さん、こんにちは。
ふらふら彷徨う「さまよい人」です。
「さまよいブログ」へようこそ。

これまで「岡田斗司夫YouTube」から刺激を受けて、何回か記事を書きました。

さまよい人
さまよい人

振り返ると、自分の思っていた以上に
「岡田斗司夫」関連で記事を書いていたことに 
改めて気付く私(苦笑)

しかし…、懲りることなく、
今回も「岡田斗司夫YouTube」から受けた刺激をもとに記事を書きます(笑)

例によって、YouTubeをダラダラ視聴。
その中で、岡田斗司夫が門井慶喜著『家康、江戸を建てる』という本を元にして語る動画に遭遇。

【岡田斗司夫YouTube】【UG】読書特集(2)解説『家康、江戸を建てる』より

面白い!と感じたので、
今回の記事は、それを元にして記事を書いてみることにしました。

動画視聴後、さっそく、門井慶喜著『家康、江戸を建てる』という本を取り寄せて読了。

読んでみると、岡田斗司夫氏がYouTubeの中で言っていたように、
哲学的文学的小説というよりも、ビジネス書的な色合いの濃い作品でした。

ビジネスマンや、社会現象に関心がある人にオススメの本だと思います。
皆さまも、ぜひ一度読んでみてください。

今回の記事は、
門井慶喜著『家康、江戸を建てる』という本の紹介、
プラス、ほんの少し私の感想付き、という内容でお届けします。

天理教文化圏には人が多く集まる環境がありますから、
当然、社会的な側面も持っています。

ですから、
何らかのご縁でこのブログに辿り着かれた迷える天理教人の方々にも、
きっと参考になることがあると思います。

ぜひ最後まで読んでいってください。

門井慶喜『家康、江戸を建てる』の紹介

江戸のイメージ

今回紹介するのは、以下の本です。

『家康、江戸を建てる』

  • 著者 門井 慶喜
  • 出版社 祥伝社
  • 発行日 2016年2月20日
  • 本の長さ 400ページ

アマゾンの書評欄(カスタマーレビュー)の中に、次のような紹介文がありました。

江戸期のインフラを支えた職人たちの、オムニバスストーリー。

能吏たちの裏側に存在した様々な職人たち。
その姿を通して、当時の官僚政治の一端を想像させてくれます。
家康の人物描写に関しては正しいのかどうかは分かりませんが、
一つの読み物として満足のいく1冊でした。

Knox氏のアマゾン・カスタマーレビュー「能吏の影に職人あり」より)

門井慶喜著『家康、江戸を建てる』という本は、
家康が、湿地帯だった江戸を「都市」として作り上げていこうとするお話です。

家康本人ではなく、家康に命を受け活躍した社会インフラ専門家たちを主役にして、
5つの切り口で語られています。

この本を読むと、
今でこそ、日本の中心=世界都市である「東京」も、
もともとは何もない湿地帯であったことを改めて知らされます。

今日の世界都市「東京」というのは、
秀吉によって何もない鄙の地へ追いやられた家康が、
数知れぬ難問をその都度乗り越えて、文字通り、作り上げた作品である、
ということが、この本を読むとよく分かります。

「江戸をつくる」ではなくて「江戸を【建てる】」というタイトルからも、
そのことを訴えようとした筆者の意図がよく伝わってきますよね。

この小説の歴史的な事実関係を判定する力が私にはありません。
が、仮に物語、フィクションだとしても、
これまでの軍記物にはない視点で、豊臣から徳川の世へ移り変わる時代を改めて見つめ直す機会を与えてもらえる、
という点においてだけでも、非常に有意義で、かつ面白い作品だと思います。

具体的な内容は、と言えば… 
江戸の開発が5話に分けて語られる、というもの。

  • 第一話 流れを変える …河川工事(治水)の話。
  • 第二話 金貨を延べる …貨幣の鋳造(金融)の話。
  • 第三話 飲み水を引く …上水(水道)の話。
  • 第四話 石垣を積む  …石垣(築城)の話。
  • 第五話 天守を起こす …漆喰壁の天守と白い街並み(築城+街づくり)の話。

では、それぞれの内容を簡単に紹介していきます。

江戸開発、河川工事(治水)の話

第一話は「流れを変える」という章題で、
「伊奈忠次」という人が、家康に命じられて利根川や荒川の付け替えをする話。

もともと利根川は江戸湾に流れており、
その流れを東に移し、鬼怒川に接続させて、銚子に流れるようにした
伊奈三代(忠次、忠治、忠克)の物語です。

「伊奈忠次」で検索すると、以下の内容がヒットしました。

伊奈忠次

生い立ち

三河国 幡豆郡 小島城(現在の愛知県 西尾市 小島町)主・伊奈忠家の嫡男(忠家の父・忠基の末子との説もあり)に生まれる。
永禄6年(1563年)に 父・忠家が 三河一向一揆に加わるなどして 徳川家康の下を出奔。
天正3年(1575年)の 長篠の戦いに 陣借りをして従軍して 功を立て、漸く 帰参することができた。
家康の嫡男・信康の家臣として 父と共に付けられたものの、信康が 武田氏との内通の罪により自刃させられると 再び出奔し、和泉国・堺に在した。

武将として

天正10年(1582年)に 本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を 本国へと脱出させた伊賀越えに 小栗吉忠らと共に 貢献する。
この功により 再び 帰参が許され、父・忠家の旧領・小島を与えられた。
また、三遠奉行の一人として 検地などの代官であった 吉忠の同心となり、後に 吉忠の跡を継ぐ形で 代官衆の筆頭になる。
以後、駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や、文禄・慶長の役では、大軍を動かすための 小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを 一手に担い、代官としての地位を固めた。

家康が 江戸に移封された後は、関東代官頭として 大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に 家康の関東支配に貢献した。

慶長15年(1610年)、61歳で死去。遺領と代官職は、嫡男・忠政が継いだ。

大正元年(1912年)、正五位を追贈された。

功績

武蔵国 足立郡 小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において1万石を与えられ、関東を中心に 各地で検地、新田開発、河川改修を行った。
利根川や荒川の付け替え普請(利根川東遷、荒川西遷)、知行割、寺社政策など 江戸幕府の財政基盤の確立に寄与し、その業績は計り知れない。
関東各地に残る 備前渠や備前堤 と呼ばれる運河や堤防は、いずれも 忠次の官位「備前守」に由来している。
また、伊奈町 大字小室 字丸山に 伊奈氏屋敷跡がある。

諸国からの水運を計り、治水を行い、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも「神様仏様伊奈様」と 神仏のように敬われていたという。
伊奈町は、忠次が 町名の由来である。
次男・忠治は、茨城県 筑波郡 伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名の由来となっており、親子2代で 地名の由来となっている。

伊奈町音頭は、「ハァ〜 伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出される。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

湿地帯であった江戸を都市にするためには、
利根川や荒川等様々な河川から流れ込んでくる多くの水を何とかしなければなりませんでした。
家康が、そのとてつもなく大きな課題の解決を託したのは、
それまで大きな武功があったわけではない「伊奈忠次」という男。

第一話は、伊奈忠次という家康の家臣が、江戸を泥地から解放するために取り組んだ、
川の流れを変えるという大プロジェクトについての物語です。

第三話も上水道という「水」に関わる話ですが、
町づくりにおいては、「水」をどう制するか、
というのが本当に基礎中の基礎だということを、再認識させられました。

さまよい人
さまよい人

お道でも、

『真実というは 火、水 、風』(M20.01.13)

というお言葉がありますものね。

私は、この本の5話の中で、この話が一番好きで、感動します。
川の流れを変えるって、スゴくないですか?

その大事業は、伊奈忠次の代では完成に至らず、
その息子、忠治に引き継がれて、ようやく完成にこぎつけたとのことです。

江戸開発、貨幣の鋳造(金融)の話

第二話は「金貨を延べる」という章題で、
「橋本(後藤)庄三郎」という人が、家康に命じられて小判の鋳造をする話です。

日本橋の金座・銀座の設立に携わった橋本庄三郎の物語。
橋本庄三郎は、太閤の吹立御用(貨幣鋳造)役の後藤家の使用人でしたが、
家康の目に留まり、後藤家の猶子となります。
紆余曲折を経て、やがては後藤の本家をしのぎ、
徳川家で貨幣鋳造の中心人物となったのでした。

秀吉時代の金貨には大判しかなかったのが、
家康は庄三郎に「小判」の鋳造を命じ、徳川の権威で発行。
それは、銀のように目方を図ることなく通用する貨幣であり、
日本の貨幣経済を変革する画期的なものだったとのことです。

「橋本(後藤)庄三郎」で検索すると、以下の内容がヒットしました。

後藤庄三郎

後藤 庄三郎(ごとう しょうざぶろう)は、近世日本の金座の当主、すなわち 御金改役に与えられた名称である。
初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後 世襲制の家職となった。

元祖庄三郎

文禄2年(1593年)、橋本庄三郎は 徳川家康と接見し、文禄4年(1595年)には 彫金師の後藤徳乗の名代として 江戸に下向した。
出身は、美濃国 加納城主 長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが、疑問視されている。
庄三郎の本姓は、山崎との説もある。
庄三郎が京都の後藤家の職人として従事しているうちに徳乗に才覚を認められ、代理人に抜擢されたとされる。
庄三郎は、徳乗と家康に、後藤庄三郎光次の名、五三桐紋の使用を許された。
京都の後藤家は、室町幕府以来の御用金匠であり、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれた。

当時、判金といえば大判のことであったが、家康は 貨幣としての流通を前提とした 一両小判の鋳造の構想があった。
「武蔵壹兩光次(花押)」と墨書され、桐紋極印の打たれた武蔵墨書小判が現存し、これが庄三郎が江戸に下向した当時鋳造された 関八州通用の領国貨幣であるとされている。

後藤庄三郎光次は、文禄4年に 江戸本町一丁目を拝領し、後藤屋敷を建て、屋敷内に小判の験極印を打つ後藤役所を設けた。
この地は、現在、日本橋本石町の日本銀行本店 所在地にあたる。
また、慶長6年(1601年)には京都、慶長12年(1607年)には 駿府、また 元和7年(1621年)には 佐渡に、後藤役所 出張所を設けて、極印打ちを開始した。
さらに、天領の 金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの顧問として権力を誇った。
しかし、二代 庄三郎広世 以降は、金座支配のみにとどまった。

また、庄三郎光次は、文禄5年3月2日(1596年3月30日)付の 後藤徳乗、後藤四郎兵衛、後藤長乗に提出した証文において、後藤の姓を名乗るのは 光次自身一代限り と宣誓していたが、結果的に反故にされ、徳川家の権威を背景に、京都の後藤宗家も 黙認したとされる。

天領の金山から産出する 公儀の吹金を預り、小判に鋳造する場合の手数料である 分一金は、慶長期初期は 吹高10両につき金目五分であったが、後に 後藤手代の取り分は 吹高1000両につき10両と定められた。

なお、「金座」の名称は、直吹となった 元禄改鋳以降に称されるようになった という説もあるが、延宝2年4月(1674年)の 幕府の触書にも 金座の名称が 登場している。
しかし、京都では 明暦、寛文のころ 小判座と称していた。
小判、一分判、二分判、二朱判、一朱判および 五両判のような金貨には、何れも「光次(花押)」の極印が 打たれている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

通貨を制するものは世界を制す、という言葉を聞いたことがありますが、
この章は、秀吉と家康の「貨幣戦争」の話なのですね。

新しい都市を創りあげていくにあたっては、
治水や区画整理といった土木面も大事ですが、
金融や流通などの 経済面も必須要素だ、ということがよくわかります。

治水や築城などの目に見えるところだけでなく、
なかなか見えにくい 経済面もちゃんと押さえていた家康。
本当に頭が良かったんだな~、と素朴に感動します。(浅い感想…《汗》)

江戸開発、上水(水道)の話

第三話は「飲み水を引く」という章題で、
「大久保藤五郎(忠行)、内田六次郎、春日与右衛門」といった職人たちが、
家康に命じられて 江戸の町に上水を引いてくる話。

江戸の上水、「小石川上水」を整備した大久保籐五郎や、
「神田上水」を普請した 内田六次郎と春日与衛右門らの物語です。

「大久保忠行」で検索すると、以下の内容がヒットしました。

大久保忠行(通称:藤五郎)

大久保 忠行(おおくぼ ただゆき、? – 元和3年7月6日(1617年8月7日))は、戦国時代から江戸時代の武将、治水家。
徳川氏の家臣。宇津忠茂の五男。妻は 遠山氏の娘・伊可。
通称は 藤五郎、主水(もんと)。

生涯

三河国 上和田の武将・宇津忠茂の五男として誕生した。
兄に大久保忠俊・大久保忠員がいる。

三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)に三河国 宝飯郡 赤坂郷で領地300石を与えられる。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆に 三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が 腰に当たって落馬・負傷し、以後、歩行が不自由となる。

これにより 実質、侍としてのいわゆる槍働きができなくなり、戦役を免除され 三河国上和田に住んだ。
何処で覚えたのか定かではないが、忠行は 菓子類の作製ができ、この技術により 家康の陣営に茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる 菓子司となった。
忠行の作った餅は 駿河餅、ないしは 三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は 家康の嗜好に合ったらしく、たびたび 忠行にこれを求めていた。
また、家康は 毒殺を恐れて 普段から献上される餅を食べなかったが、忠行から献上された際には 彼を信頼して食べていた、などの話が残る。
三方ヶ原の戦いの際には 従軍する代わりに、出陣に際し 6種の菓子を家康に献じ、その後 それが家例となった。

主君・家康が 関東への移封にあたり、天正18年(1590年)7月12日に 江戸城下の上水工事の命を受ける。
その後、約3か月で 小石川目白台下の河流を 神田方面に通し、これは 後の 神田上水 の元となったとされている。
また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って 「もんど」ではなく「もんと」と発音するように 命じられた。

元和3年(1617年)7月6日、死去。
墓所は 東京都台東区谷中の瑞輪寺、戒名は 清浄院蓮来日富。
実子は無く、甥の忠元(兄の忠員の子)を養子とした。

主水の子孫は、代々「大久保主水」を名乗り、江戸幕府御用達の菓子司となった。
江戸城内での行事に使用する菓子類の制作時には、歴代の 大久保主水が責任者となり 采配した。
幕末の大久保主水は、徳川宗家の静岡移動にも従い、娘を、旧幕臣の重鎮で 同族の大久保一翁の子息の嫁としている。

大正13年(1924年)2月、贈従五位。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア Wikipedia)』
さまよい人
さまよい人

ライフライン、飲み水の話ですね 

これは、最近NHK『ブラタモリ』という番組で放映された内容と重なっていたので、
とてもよくわかりました。

だからこれは、登場人物も含めて、
門井慶喜氏の創作ではなくしっかりとした「史実」に基づくお話、で間違いありません。

近年の 地震等による被災後の復興支援の報道を見てもわかる通り、
上水道を整備するというのは、都市計画において 最も重要なことの一つだ ということ。
そのことは、素人の私でも分かります。
それを見事にやってのけた人々の話ですから、本当に 感動的です。

歴史の授業は 戦争や権力闘争などの派手な現象の話が 中心ですが、
こういった ライフライン整備などの 地味な部分についても 教えていくべきではないか、
と思ったりします。

江戸開発、石垣(築城)の話

第四話は「石垣を積む」という章題で、
「吾平や喜三太、与一」といった職人たちが、
江戸城を築城するにあたって 必要な石垣を切り出し、積み上げていく話。

石切りの親方である吾平は、
石(あるいは岩)の節理を読み、どこに鑿を打てば石が割れるか を見極める名人。
石積みの親方である喜三太は、
石をどのように積み上げればよいか を見極める名人。
それら職人たちの命がけの働きによって 江戸城の石垣は築かれた、
という物語でした。

「江戸城 石垣」であれこれ検索する中で、以下のような記事を見つけました。

【海を渡って運ばれた江戸城や大坂城の巨石】

徳川幕府の中心地であり 将軍の住まいである江戸城(東京都)は、30近い大名家が動員されて、天下の政庁たる 大城郭へと改修がされました。
石垣造りも 「この場所は細川家、この場所は前田家」といった感じで割り当てられ、石材を切り出して運ぶのも、各大名家の役割とされたのです。
大名らは 将軍さまに良い顔をするため、良質の石材を江戸まで持ってきました。
堅牢で見栄えのよい花崗岩を、遠く摂津(大阪府)や 瀬戸内海から 運んだといいます。

とはいえ、遠方からでは 輸送もたいへん。
江戸城に使われた石材の多くは、伊豆や相模(神奈川県)、または 関東平野周辺の山々から 切り出されたようです。
特に 主だった産出地となったのが 伊豆半島です。
半島東岸にあたる 七ヶ浦、伊東、川奈、稲取などが石切場となり、大名家ごとに丁場が設けられ、競うようにして 石材の切り出しが 行われたといいます。

大坂の陣によって 豊臣家が滅亡した後に 建て直された大阪城も 事情はいっしょで、石垣造りは 諸大名に命じられました。
大阪城の巨石の多くは 花崗岩が使われていますが、近くに花崗岩の産出地は ありません。
諸大名は、生駒山や六甲山、または瀬戸内海の島々から 巨石を運んだのです。
特に 全島が花崗岩でできている 瀬戸内海の小豆島や犬島は、石材の格好の供給地。
今も両島には、切り出したのに運ばれなかった、または 運ばれる途中で放棄された「残念石」を 島内のあちこちで見ることができます。

〔超入門! お城セミナー〕第18回【構造】石垣の巨大な石材はどこから来たの?より
さまよい人
さまよい人

江戸城を支える石垣にも、

多くのドラマが秘められているということですね

この章に登場する、
伊豆の 石切り親方・吾平や、江戸の石積み親方・喜三太 といった職人たちは、
実在の人物なのか、それとも 門井慶喜氏の創作なのか、
は調べてもよく分かりませんでした。

しかし、この本は 学術書ではなく小説です。
著者・門井慶喜氏が表現したかったのは、
家康が『江戸を建てる』にあたっては、
そのような 数多くの無名の職人たちの力が結集されることで ようやく完成したのだ、
ということでありましょう。
その意図は 十分達成できている、と感じます。

江戸開発、漆喰壁の天守と白い街並み(築城+街づくり)の話

最終章である 第五話は「天守を起こす」という章題で、
「中井正清」という大工頭が、家康に命じられて 江戸城天守閣を作りあげる話です。

ただこの章は、これまでの章とちょっと毛色が違います。

家康から、天守閣を「総白塗り」にして作り上げるように、
との 前代未聞の命令を受けた 大工頭の中井正清と、
そもそも天守閣は必要ないのではないか と主張する二代将軍秀忠。
全く異なる立場の二人の男が、“すべてを白くせよ” という 家康の命令の意図をはかりかね、
戸惑いつつ、それぞれの立場で その意味を探求。
プロジェクトの進行と共に 家康の思いが明らかになっていく。
この章は、そのような物語として 表現されています。

築城という外形だけでなく、街づくりの思想をもテーマにした話なのでした。

「中井正清」で検索すると、以下の内容がヒットしました。

中井正清

中井 正清(なかい まさきよ、永禄8年(1565年) – 元和5年1月21日(1619年3月7日))は、江戸時代初期の大工頭。
大和国出身。中井正吉の子。通称は 藤右衛門。
天正17年(1589年)以前から 徳川家康に仕え、のちに 従四位下を賜る。
寺社の建築管理に加え、小堀遠州の知己を得て 茶道を修め 茶室を建てた。

経歴

初代の京都大工頭であり、官位は 従五位下・大和守、のちに 従四位下。
畿内・近江6ヵ国の大工等を支配し、1,000石を知行した。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康に作事方として仕え 二条城建設に活躍した。
家康の命により、江戸城、知恩院、駿府城の天守、江戸の町割り、増上寺、二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など、徳川家関係の 重要な建築を担当した。
名古屋城では 土木工事に大名20名が集められ、建築を担当した 作事奉行9名の一員として 大工棟梁を務めている。
大坂の陣の直前に、家康の密命により 大坂城の絵図を作成したという逸話がある。

天正17年(1589年)、徳川家康より 200石の知行を得る。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで 家康の供を務めて 陣羽織を拝領するとともに 500石の加増を受けた。
慶長11年(1606年)従五位下 大和守に任官。
慶長14年(1609年)1,000石に加増され、慶長18年頃(1613年)には従四位下に昇進した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江戸城を白くせよ、と家康が命じたという話は史実に基づくものなのか、
仮に本当にそうだったとして、
それは、著者のいうように世の中を白くしていきたいという思想から発想されたものなのか、
ということについては、残念ながら調べきれませんでした。

しかし、
今の世界都市「東京」は、ただ外形面を整えただけで完成したわけではない、
家康が『江戸を建てる』にあたって、
そこに住む人々の内面的な部分まで意識し、
それを整えることによってやっと建ちあがったものだ、
という著者・門井慶喜氏のメッセージは、多くの人に十分届いていると思います。

さまよい人
さまよい人

外側を整えただけじゃ不十分、

内側も整えないと! 

 ということですかね

以上、長くなってしまいましたが、門井慶喜著『家康、江戸を建てる』という本の内容紹介でした。

門井慶喜『家康、江戸を建てる』を読んでの学び

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今回の記事は、門井慶喜著『家康、江戸を建てる』という本の紹介がメインですが、
個人ブログで著書の内容紹介だけ、というのも寂しいので、
この本を読んで私が学んだことについても、ほんの少しだけ付け加えさせてください。

この本を読んで私が学んだこと。
それは、今、華やかに見えるものも、最初から華やかだったわけではない、
ということでした。

今、私たちは、東京と言えば大都会で華やかな街、というイメージを持っていますが、
その東京も、最初から今のような華やかな街だったわけではない、
ということを再認識させられました。

そして、その華やかさというのは、決して偶然生まれたというわけではない、
家康という類まれなる一人の天才の設計によって、
何もないところから生まれたものである、
ということも、改めて教えられました。

また、そうした東京の華やかさが、
一時的なものとして消えてしまうことなく、今日もそれを保ち続けられているのは、
その天才、家康のしっかりした土台、設計図に基づいて築かれたものであるから、
ということを忘れてはならない、と感じたのでした。

長期繁栄をもたらす設計図を書いたのは将軍・家康、すなわちトップかもしれません。
しかし、それを実行し実現することができたのは、
名もなき専門分野の人たちの地道な尽力によるものだったということ。
そういった構造は、日頃から頭でわかっているつもりではありますが、
物語・ストーリーとして味わうことで、改めて、深く腑に落ちる感じがしました。

人間は、どうしても、
華やかで目立つものばかりに目を奪われがちです。
しかし、地味で目立たない多くの影の力が寄り集まって、初めてものごとは成就するのだ、
ということ。
むしろそちらの方がその成否への影響が大きい場合もある、ということを、
物語を通して再確認することができました。

お道でも、影、陰のつとめの大切さを教えられますが、
改めて、世界は多くの人の影の力に支えられて出来ている、ということを肝に銘じたいと思いました。

さまよい人
さまよい人

そう言えば、昔、缶コーヒーのCMで

 「世界は誰かの仕事でできている」 

というキャッチコピーがありましたね 

まとめ

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  • 今、華やかに見えるもの、繁栄しているものも、
    最初から華やかで繁栄していたわけではない。

  • 華やかさ、繁栄というのは、偶然生まれるものではない。
    将来を見据えたきちんとした「設計」に基づく普請から生まれる。

  • 華やかさ、繁栄が一時的なものとして消えてしまうことなく保ち続けられるのは、
    しっかりした土台、設計図に基づいて築かれたものであるからである
    ということを忘れてはならない。

  • 優れた設計図をトップが書けたとしても、
    それを実行し本当に実現することができるのは、
    名もなき専門分野の人たちの地道な尽力によるものだ、
    ということを忘れてはならない。

  • 人間は、どうしても、華やかで目立つものばかりに目を奪われがちだが、
    地味で目立たない多くの影の力が寄り集まって、初めてものごとは成就する。
    むしろそちらの方がその成否への影響が大きい場合もある。

  • 世界は、多くの人の影の力に支えられて出来ている。

今回は、門井慶喜著『家康、江戸を建てる』という本を紹介して、
少しばかり思うことも書かせていただきました。

本の紹介と言いながら、
ダラダラした下手な「読書感想文」のようになってしまいました (-_-;)
「まとめ」の部分も、
ありきたりな気付きをことさら大袈裟に繰り返しているだけだし…(汗)

もっと簡潔にまとめられないのか、という声が聞こえてきそうです。
(ダラダラ書きは私の悪いクセ、という自覚あり)
今後、精進します…(大汗)

ではでは、今回はこのへんで。

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