天理教 各教会の歴史探索(第107回)【南 大教会】『天理教事典』より

「南 大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号106番「西成大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号107番「南 大教会」について勉強します。

  1. 南 大教会(みなみ だいきょうかい)
    1. 初代会長、松永好松
    2. 松永好松の入信(明治10年)
    3. 松永好松の布教活動(明治10年代〜明治20年代)
    4. 松永好松の乗本丑松おたすけ(明治23年)
    5. 桃谷集談所の開設(明治24年)
    6. 松永好松の丹波布教 〜 集談所の開設(明治24年〜明治25年)
    7. 南 出張所の開設(明治26年)
    8. 経済的どん底時代の始まり(明治25年頃〜明治30年頃)
    9. 松永好松 初代会長の九州布教 〜 集談所の開設(明治28年)
    10. 松永好松 初代会長の大阪帰還、関西での布教活動活発化(明治28年頃)
    11. 南 支教会へ昇格 〜 部内教会の開設(明治29年〜明治30年)
    12. 東京布教、布教師の派遣 〜 布教所の開設(明治29年〜明治31年)
    13. 教祖殿の新築(明治32年)
    14. 北陸布教、布教師の派遣(明治33年)
    15. 再び経済的困窮の中 韓国布教 〜 一時中断からの松永好松会長自らの韓国布教(明治35年頃〜明治41年頃)
    16. 南 分教会へ昇格(明治42年)
    17. 松永好松 初代会長の出直し 〜 松永市太郎2代会長の就任(明治45年)
    18. 教祖40年祭活動(大正10年〜大正15年頃)
    19. 教会の移転建築(昭和2年〜昭和4年)
    20. 松永アイ3代会長の辞任 〜 松永義道4代会長の就任(昭和15年〜昭和16年)
      1. 松永義道4代会長の経歴
    21. 南 大教会へ昇格(昭和17年)
    22. 戦中・戦後(明治18年頃〜明治20年頃)
    23. 信者詰所ふしん(昭和24年〜明治25年)
    24. 昭和中期の動き
  2. おわりに
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南 大教会(みなみ だいきょうかい)

南大教会写真①
ホームメイトリサーチ旅探天理教南大教会 より

初代会長、松永好松

初代会長・松永好松は、
大阪府中河内郡曙川村 大字刑部の 松永武市の長男として、
万延元年(1860) 7月13日に生まれた。

松永家は 代々 農を業として、中流の生活を営んでいた。

(松永好松の父 ) 武市は、
妻・トキとの間に 3男1女を儲け、
農業の傍ら 河内木綿等を商いつつ 暮らしていた。

松永好松の入信(明治10年)

西南の役のあった明治10年、(松永)好松 18歳の春、
同村(大阪府中河内郡 曙川村) の親友・山田長造が、重い病気を病んで苦しんでいた。

(ある時、松永好松は) その病床を見舞った。
そうしたところ、
(丁度)その時、既に天理教の信仰を始めていた山田(長造)が、
森田清蔵という人から 天理教の教理を懇々と聞かされているところであった。

(たまたま) 来合わせた (松永)好松は、(親友が真剣に話を聞いている中に割って入るのもはばかられ、) かたわらで (森田清蔵の話を聞くともなく) 聞いていた。

(話を聞き続ける内、松永好松は) 森田(清蔵) の唇を衝いてほとばしり出る深遠なる教理に、(強く魂を揺り動かされる程の)感動を覚えた。
(深い感動に包まれた松永好松は、なんと) その場で入信を決意した(のだった)。

松永好松の布教活動(明治10年代〜明治20年代)

こうして (松永)好松は、
自ら入信を決意すると共に 家族の者にも教えの尊さと有難さを力説し、一家挙げての信仰を熱心に勧め (家族一同を 信仰の道に)導いた。

(また、松永好松は) その後、布教を進めるかたわら、
天理教会設置運動に参加したり、雨乞い勤めをつとめたり 破仏演説会に熱弁をふるったりし(て、教勢拡大のために力を尽くし)た。

松永好松の乗本丑松おたすけ(明治23年)

(大阪府) 北河内郡古宮村 (後の茨田町) の笠木家は、
当主の 和助の妻・カジと 松永家が姻戚関係にあり、
また、(笠木家の)家族の者が 不思議なたすけに浴していたので、早くから 熱心な信者であった。

この (笠木)和助の女婿・乗本丑松は、
大阪市南区 谷町筋空堀通りで 履物商を営んでいた。

明治23年2月初旬、(乗本)丑松が急病に罹り、重体となった。
(それで、笠木)和助より懇請があり、
(明治23年) 同月(2月)10日、(松永)好松が 初めて乗本家を訪れた。

(松永好松は 乗本丑松に) 種々の教理を伝え、神様に願った。
そうしたところ、さしもの重患も、不思議な守護を得て 快癒した。

桃谷集談所の開設(明治24年)

これによって、
(松永好松は) 大阪市内への布教進出の足場を得ることになった。

(松永好松が) その乗本家に通っている内に、漸次 信仰する人々が集まるようになっていった。
(信仰者は 日に日に増加していき) 
明治24年7月には、(大阪市)南区 北桃谷町へ「桃谷集談所」を開設するに至った。

松永好松の丹波布教 〜 集談所の開設(明治24年〜明治25年)

同年(明治24年)秋、
(松永)好松は、信者の高向梅吉の家で、椋葉(むくのは) と 木賊(とくさ) の行商に来ていた (京都府) 丹波赤熊の 日下部寅次郎に出会った。

(松永好松は) 早速、(日下部寅次郎に) 教えを説き伝えた。
(そうした)ところ、(日下部)寅次郎は 非常に感激し、もし 丹波方面へ布教にやってくるなら、宿は 日下部宅でお世話をする(という)ことを申し出た。

(日下部寅次郎の申し出を受けて、
松永)好松は、(明治24年の) 年末も押し迫った 12月23日、雪深い丹波路へ 布教に出発した。

当時の様子は (松永)好松の手記に 詳しく述べられているが、
(明治24年末に丹波布教に出て) 翌年(明治25年) 4月には、早くも集談所を開設するに至っている。
この集談所は、後に 丹陽分教会となる。

南 出張所の開設(明治26年)

(松永)好松の布教は 年と共に各方面に広がっていき、熱心な信仰者も段々と増えていった。
(それに伴って) 周旋方の中から 教導職を得て布教に従事する者も現れ(るようになり)、教勢も 次第に拡張されてきた。
(そうした流れの中で) 教会設置の話が 持ち上がってきた。

(教会設置の動きが進んでいく中で) 
まず、適当な土地建物を求めることになった。

(土地建物を探した結果)
大阪市南区 谷町筋6丁目12番地、
山岨幸次郎 所有の土地 81坪9合8勺、建物平家建 3棟を、
総費1,008円をもって買受け(る運びとなり)、
明治26年 2月15日に 登記を完了(した)。

次いで、(明治26年) 3月23日付で、
松永好松を会長として「南 出張所」設置の許しを教会本部から得た。
(地方庁認可:明治26年 6月9日)。

引き続き、(明治26年) 8月18日から家屋改造工事に着手。
大略の竣工をみて、同年(明治26年) 11月22日、
高安大教会 初代会長 (松村吉太郎) を迎えて 鎮座祭が、翌23日には 開筵奉告祭が 執行された。

これを機に、中川弥吉・金田松次郎が (南 出張所に) 住み込むこととなった。

経済的どん底時代の始まり(明治25年頃〜明治30年頃)

(南 出張所開設に至る動きの中で)
(松永)好松 (初代)会長は、
明治25年3月25日に 桃谷集談所を引き払って、谷町筋の新屋敷に転居し、布教並びに出張所改築の準備に没頭していた。

そして、同(明治25年) 6月25日、
(大阪府中河内郡曙川村) 刑部の 田畑を始め家屋敷を全部売却して、一家揃って 大阪市へ転居した。

こうして、(松永好松 初代会長は) いよいよ布教に専心することとなった。

しかし、土地建物の購入・改修工事・開筵奉告祭等が相続いて、出費が多額となり、(そのような情勢の中で) 信仰者たちはと言えば、年限も信仰も浅く、従って、教会の維持経費(の確保)も困難(な状況)となった。

(南 出張所開設後の早い段階から) 経済的どん底時代が始まった。

(南 出張所 一同は) 粥をすすり、手内職をし、厳寒に 火の無い時期もあった。
しかし (そのような中でも、松永)好松会長の励ましで、(一同は) 勇んで歩んだのだった。

松永好松 初代会長の九州布教 〜 集談所の開設(明治28年)

このように、南 出張所は 窮迫その極に達したが、
(松永)好松は、このどん底の苦境の中で、神意はどこにあるのか 思いを巡らせた。
(思案した結果) 進んで 今一層の難におもむく歩みこそ、神意を達成させて頂くことの出来る道であると確信。
九州布教を決心した。

(松永好松 初代会長は、南出張所) 留守中の教務を役員に委ねて、
明治28年3月17日、中川弥吉・小橋力造を伴い 大阪を出発。
同月(3月)20日 午前2時、博多に上陸し、九州布教の第一歩を印した。

九州では、上陸して 早々に 
福岡県御笠郡二日市の 安川吉平宅で その妻子のおたすけをしたことで道がつき始めた。
(そこから、次々と) 不思議なたすけが続いて、信仰する者も増えてきた。

しかし、土地の人の反対や警察の圧迫干渉が甚だしく、
(松永好松 会長一行は) 安川家にも民家にも 宿をとる事ができなかった。
一時は 天拝山の岩窟に野宿して、断食や水行をしながら 熱心に布教を続けた。

その誠心が通じてか、
遂に (九州布教開始) 30日目には、再び 安川家に止宿できるようになった。

(松永)好松と中川(弥吉) は、この守護に力を得て、なお一層 活発な布教活動を起こした。
(そうして) 教勢は次第に広がり、(福岡県) 那珂郡・朝倉郡へも伸びていった。
そして、(福岡県) 那珂郡安徳村(の) 広田徳右衛門宅と 安川吉平宅に 集談所が開設されるに至った。

この 安川(吉平) 宅に置かれた集談所が、後に 築中分教会となる。

松永好松 初代会長の大阪帰還、関西での布教活動活発化(明治28年頃)

(九州の道も着々と広がっていたが) 松永好松は 教会の用務のため、大阪へ戻ることとなり、
明治28年7月21日、(九州から南出張所へ) 帰った。 
(そして) 翌月 8月13日、岡本永之助を 九州に派遣した。

(松永)好松の帰阪と共に、大阪方面の信仰者たちは 一斉に勇み立ち、心を一つに結んで 布教活動を展開した。

当時、既に 松浦駒太郎 (大阪市上本町3丁目) や、咲摩巳之助 (西成郡歌島村) が集談所を設けて、白熱的布教に従事していた。

また、同年(明治28年) 10月30日、(京都府) 丹波赤熊において 丹陽出張所が 設置された。 

南 支教会へ昇格 〜 部内教会の開設(明治29年〜明治30年)

こうした教勢の拡張によって、(南 出張所は) 支教会に昇格する運びとなり、
明治29年3月18日、(天理教教会)本部の許しを得た。

さらに、同年(明治29年) 7月8日には、九州において 築中出張所が、
翌 (明治)30年 4月29日には、大阪・歌島村において 歌島出張所が 設置されている。

東京布教、布教師の派遣 〜 布教所の開設(明治29年〜明治31年)

その後、(松永)好松は、東京布教を進めようと決意。

明治29年4月から、金指夫妻・中川夫妻・松永菊松 (好松会長の弟) を 順次派遣。

いろいろな事があったが、
明治31年 3月21日、金指専助が (東京市) 浅草区小島町において 東浅草布教所を設置。
同年(明治31年) 10月1日には、中川よしが (東京市) 本所区外出町において 東本布教所を設置するに至っている。

教祖殿の新築(明治32年)

この頃、南 支教会で 教祖殿新築の議が起こり、隣接地 29坪8合7勺の土地を求めて着工。
明治32年3月に竣工し、23日に奉告祭を執行した。

北陸布教、布教師の派遣(明治33年)

(松永)好松会長は、
更に、北陸方面への布教を思い立ち、長男・吉之助 及び 笠本清次郎を派遣(した)。

明治33年9月23日、
(松永吉之助と笠本清次郎は) 敦賀・金沢への布教に旅立った。

(滋賀県) 長浜では、山川兼吉宅を集談所として布教を進めた。

再び経済的困窮の中 韓国布教 〜 一時中断からの松永好松会長自らの韓国布教(明治35年頃〜明治41年頃)

一方、(南)支教会では 再び 経済的に窮乏し、
明治35年春(には)、危く 教堂その他物件一切が 人手に渡る破目に陥りそうになった程である。

(しかし) その(ような)中でも (南 支教会一同の) 布教熱はさめることなく、
長男・(松永)吉之助は 韓国布教に派遣された。
(しかし) この時は、(松永)吉之助の健康勝れず、惜しくも 帰阪している。

その後、日露戦争のために (韓国布教は) 一時 沙汰止みとなっていたが、
日韓併合が進められた 明治40年10月、
戦雲もおさまったので、(松永)好松会長は 単身 韓国に渡った。

(松永好松 会長は) 直ちに 京城に出て、南大門通りの森本房松宅に宿を取り、ここを足場として布教に乗り出した。
言語風俗習慣の異る土地で、約半年の間、布教の辛酸をつぶさに嘗めたのであったが、漸く 道の前途に見透しがついたという事で、帰国の途についた。

(松永好松 会長は、韓国布教から帰国の) 途中、
九州の 筑中出張所に寄って、役員・脇山又三郎に 韓国布教の後事を托した。

(松永好松 会長から 後事を托された) 脇山(又三郎)の努力により、後に、京畿分教会が 設置された。

南 分教会へ昇格(明治42年)

明治42年1月25日、
支教会から 南 分教会に昇格(した)。

松永好松 初代会長の出直し 〜 松永市太郎2代会長の就任(明治45年)

明治45年2月11日、
(松永)好松 (初代)会長が、53歳の生涯を終えた。

そのため、同年(明治45年) 4月6日、
松永市太郎が 2代会長に就任した。

(松永)市太郎は、
これより先(の) 明治42年10月5日(に) 大阪市天王寺の 金菱吉松の長女・アイを妻に迎え、布教の第一線に立ち、既に 河浜宣教所の設置担任者として活動を続けていた。

教祖40年祭活動(大正10年〜大正15年頃)

大正10年1月27日、
(天理教)教会本部から教祖40年祭 (大正15年) への活動内容が発表され、
(南 分教会においても 年祭活動に真摯に取り組み) 
信仰者は心を一つに結んで、
教勢倍加運動に、高安詰所の移転に、さらには 南 分教会 宿舎の建築の上に、懸命に尽力した。

この 教祖40年祭前後に設置された教会は、実に 22ヵ所に及んでいる。

教会の移転建築(昭和2年〜昭和4年)

こうして教勢が伸びるにつれ、従来の建物では狭隘を感じるようになった。
また、永年修理もしないで用いてきたため 非常に痛んでいたので、改築の議が起こった。

昭和2年末から会議が重ねられたが、昭和4年に至って移転建築の話がまとまり、
種々 苦心の上、同年(昭和4年) 3月13日、阿倍野区昭和町 (現所在地) に 697坪の土地を求めることができた。

同年(昭和4年) 4月24日に 地鎮祭を執行して着工。
(ふしんは) 信徒総代の中から 用材を納める者、建築を請負う者が出て 無事に進められ、まず 炊事場並びに役員用住宅が8月に竣工。

(昭和4年) 9月12日、(大阪市南区) 谷町の教会で 最後の月次祭を奉仕して、同夜、昭和町に遷座した。
翌(昭和)5年 11月末には 神殿及び本館が竣工。
(昭和5年) 12月4日夜、高安大教会長・松村義孝を迎えて鎮座祭が、翌5日には落成奉告祭が、盛大に執行された。

この建築は、当初の予定では、昭和6年3月に完了することになっていたが、
昭和5年9月26日、教祖50年祭、立教100年祭への活動が発表されたため、予定を変更して 急いだのである。

その後、教師信者たちは 心を一つに結んで、一にも二にも 年祭へと進んだ。
教勢は伸び、新設教会 4ヵ所が (新たに) 誕生した。

松永アイ3代会長の辞任 〜 松永義道4代会長の就任(昭和15年〜昭和16年)

昭和15年11月、
少しく健康を害していた (松永)アイ会長を見舞った (松村吉太郎) 高安初代会長は、
この病に教えられる神意を伝え、(南 分教会の) 会長変更を指示した。

役員一同も この指示を快く受け、準備を整えて、
昭和16年3月16日、
嗣子・義道が、4代会長に就任した。

松永義道4代会長の経歴

(松永)義道は、
大正4年11月18日 誕生。
昭和12年 3月、早稲田大学文学部を卒え、同(昭和12年) 8月、天理教校別科を卒業。
同年(昭和12年)末から 昭和15年 6月まで 現役兵として入隊。
(兵役満了)以後は、(南 分)教会にあって 布教に従事。
(南 分教会4代)会長就任後 間もなく、(昭和)16年4月5日、松村義孝の次女・しめのと結婚した。

南 大教会へ昇格(昭和17年)

昭和16年5月、高安大教会から 分離陞級の件について指示があり、早速 準備を進めた。
(そして) 同年(昭和16年) 6月12日、(天理教)教会本部の許しを得て、南 大教会となった。

翌(昭和)17年12月5日、
2代真柱を迎えて、陞級 及び (4代)会長就任の奉告祭を執行(した)。

戦中・戦後(明治18年頃〜明治20年頃)

当時、太平洋戦争が だんだん苛烈になっていて、
教勢の発展は中断され、部内教会や信者の大多数が 焼け出された。

昭和20年 8月に終戦となり、翌 (昭和)21年 1月、教祖60年祭が執行されたが、
(南 大教会では、終戦前後の混乱の中も 一同奮起して) この前後に 新設教会 11ヵ所が生まれた。

信者詰所ふしん(昭和24年〜明治25年)

戦後 布教活動が進められる中に 独自の信者詰所が必要となり、土地を求めていたところ、
昭和24年春、高安大教会から (奈良県)天理市大字川原城526番地 (600坪) の土地を譲り受け(ることが出来)た。

さらに、
高安詰所内にある 木造瓦葺 2階建 2棟 (286坪余) の建物も譲り受けて移築し、
昭和25年3月下旬、完成。
(昭和25年) 11月30日、2代真柱を迎えて詰所開設祝いを行った。

昭和中期の動き

昭和28年は、(南 大教会) 創立60周年にあたり、
(昭和28年) 12月5日、真柱を迎えて記念祭を執行。
教祖70年祭 (昭和31年) への躍進を誓い合った。

昭和32年8月26日、
神殿増築の議がまとまり、(天理教教会)本部の許しを得て着工した。

昭和40年、
翌年に教祖80年祭を迎えるにあたって 詰所の改築 及び 付属建物(の)一部移動が決まり、12月25日に許しを得て (工事に)着手。(無事 完成した)。

昭和48年3月21日、
(南 大教会) 創立80周年記念祭を執行した。

かくして、
(南 大教会の) 世界だすけへの体制は 着々と整い、一手一つの活動を展開している。

〔現住所〕〒545-0011  大阪市阿倍野区昭和町4丁目7番14号
〔電話〕 06-6622-0220

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,804〜806)

おわりに

南大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第107回目の今回は、
「大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

南大教会AppleMapより①
Apple Mapより

前回 西成大教会について勉強した記事の中で『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中の 西成大教会の礎となった「山田長造」先生に関する記述を書き写しました。
その「山田長造」先生は、南 大教会 初代会長の 松永好松先生入信のきっかけを作られた先生でもあられます。
なので、前回の繰り返しになりますが、今回も 自己覚え書きとして書写します。

刑部村の山田長造は、五年間梅毒を患い病床にいて、明治十年ごろ、綿を買い集めに来た商人から庄屋敷の話を聞いた。
矢も盾もたまらず弟を同行し、松葉杖にすがってお屋敷に向かった。
南柏原へ来て杖一本は要らなくなり、竜田へ来た時、あと一本も要らなくなった。
教祖のお言葉を頂いて御守護頂き、帰りは信貴山越えで伊勢音頭を歌いながら帰ったという。

前出の 森田清蔵 (教祖から『道のしるべ石や』と言われた人) が (山田)長造の病床に行った時、傍らで話を聞いて入信したのが、刑部村の友人・松永好松 (十八歳・南 初代)である。

松田音次郎は、風呂屋で (山田)長造のみかぐらうたを聞いて感銘した。
敬神組という講名を頂く。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,70 )

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】107回目の当記事では『天理教事典』の中の「南 大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。

南 大教会は、前々回勉強した都大教会、前回勉強した西成大教会同様、高安大教会から分かれた大教会ですね。
高安大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

南大教会AppleMapより②
Apple Mapより

当シリーズ前々回(第105回)が「都 大教会」、前回(第106回)が「西成大教会」、そして今回(第107回)は「南 大教会」。

前回(第106回)「西成大教会」の「おわりに」の所でも書きましたが、
「南 大教会」は【教会番号105〜107】 → (105番) 都 ー (106番) 西成 ー (107番) 南、
という「高安大教会」から分離した「教会番号連続3兄弟」グループ3番目の大教会 (^^)

ということで、今回は「高安大教会」連続分離教会シリーズ3回目なわけですが、
今回の勉強を通して、
南 大教会は、その始まりの部分に山田長造先生が関わっているという点において、前回勉強した西成大教会と非常に近い教会なのだ、ということを知りました。

『天理教教会所在地録』によると、
教会設立年月日は
・西成大教会 明治25・9・19
・南 大教会 明治26・3・23
西成大教会の方が約半年早い。

『天理教事典』1977年版によると、
本部直属になったのは
・西成大教会 昭和16年6月12日
・南 大教会 昭和16年6月12日
と、同日。

西成大教会は、教祖に直接お目通りして身上をご守護戴いた山田長造先生が小山弥三七先生ににをいがけしたところから始まり、
南 大教会は、山田長造先生の友人であった松永好松先生が、病床にあった山田長造先生を見舞った時、おたすけに来ていた森田清蔵先生が語る教理話に感銘を受けたところから始まるとのこと。

どちらも、その始まりの部分に山田長造先生が関わっている。
外形上は 兄弟教会みたいに見えますね。

南大教会写真②
ホームメイトリサーチ旅探天理教南大教会 より

西成大教会について勉強した際、
西成大教会は、
山田長造先生に にをいがけ、、、、、された人々が 講社を結成しようとした際、
地域的なつながりで 茨木基敬先生の「天地組」(摂津地方) に加入する方向で調整を進めていたところ、同郷(河内地方) の松田音次郎先生から「それは筋合いが違う、(中河内郡)刑部の『敬神組』として信仰するのが本筋だ」と諭され、それで、摂津地方の信徒が集まる講社だったけれども河内地方の「敬神組」に加わった――
その後、河内地方の講社をまとめて「高安大教会」を創設する時に 敬神組はそれに加わったので、西成大教会は 高安大教会の部内になった――
ということを学びました。

では、南 大教会はどうだったのか。

今回勉強した『天理教事典』「南 大教会」解説文の中には、「南大教会」が高安大教会の部内になった経緯について書かれていないので、確かなことはわかりません。

しかし、おそらく、南 大教会が高安の部内となるに至った背景には、
松永好松 初代会長が 山田長造先生の友人であられた という要因が影響しているのではないか、と 想像致します。

南大教会GoogleMapより①
Google Mapより

ちょっと自分自身の頭を整理するために、史実を時系列に箇条書きにして見ます。

  • 明治17年4月20日 茨城基敬が「天地組」(北大教会の母体)結成
  • 明治21年頃 山田長造が教えを伝えた小山弥三七により「川口講社」(西成大教会の母体)結成 →天地組への加入を検討していた「川口講社」は 松田音次郎に諭され「敬神組」に加入
  • 明治22年3月3日 河内地方近在の講社を統合して高安分教会創設
  • 明治24年7月 松永好松が「桃谷集談所」(南大教会の母体)開設
  • 明治25年9月19日 山田長造が教えを伝えた小山弥三七を所長として「西成出張所」(西成大教会の前身)開設
  • 明治26年3月23日 松永好松を所長として「南出張所」(南大教会の前身)開設

こうやって時系列に並べてみると、
西成大教会の方が、南大教会よりも ほんの少しずつ先行して、信仰共同体 組織化の動きが形になっている事がわかります。

『天理教事典』「南 大教会」解説文の最初の方で、南大教会の初代会長である松永好松先生は、山田長造先生の親友だったと書いてありました。
なので、松永好松先生が入信し布教に励むにつれ信徒が増え、それを組織化しようとするにあたっては、当然、信仰においては先輩に当たる 山田長造先生にアドバイスを求めたでありましょう。

南大教会が高安の部内となるに至った背景には、
松永好松 初代会長が山田長造先生の友人であられた という要因が影響しているのではないか、と 私が想像する所以であります (^^)

南大教会写真③
ホームメイトリサーチ旅探天理教南大教会 より

それにしても、今回『天理教事典』「南 大教会」解説文書写学習をして 強く感じたのは、
松永好松 初代会長の「拡大エネルギーがすごい」ということでした。

松永好松 初代会長が残した史実をたどると、そこには、
大阪から始まって、丹波、九州、東京、北陸、韓国…
東西南北、四方八方に向かって布教に励まれた足跡が残っています。

そのような足跡を ただ文字でたどるだけでも、松永好松 初代会長の、凄まじい「拡大パワー」に圧倒される思いが致します (°д°)

その中でも、明治28年頃、経済的困窮が極まって 南 出張所一同が どん底状態に陥った時、
松永好松 初代会長は、
そこから逃れようと足掻くのではなくて、進んで 今一層の困難におもむく歩みこそ 神意を達成させて頂くことの出来る道であると確信し、九州布教を決心した、
という話は 印象深かったです。

困難に直面すると すぐ逃げ道を探す私のような人間にとって、
「困難に直面した時にこそ、むしろ より一層の困難を求めて歩むべき時だ」
と信じて、遠方布教=九州布教に出発する道を選択された 松永好松先生のような存在は、
ただただ眩しく、遥かに仰ぎ見る存在であります。

そのような 松永好松 初代会長の足跡は、
苦しく困った時こそ、むしろ より一層の困難を求めて歩むべし、
一見 無謀のようでも、それこそが より早く困難を克服することにつながる道である、
という教訓を 常に逃げ腰の私に 突きつけてきます。

頭ではわかっても それを 実践に繋げるのは なかなか簡単ではなさそうですが… (^^;)

南大教会GoogleMapより②
Google Mapより

『天理教事典』によると、
以上のような 明治28年頃の経済的困窮を乗り越えた数年後の 明治35年頃にも、
再び 経済的に窮乏し、危うく 教会施設一切が 人手に渡りそうなった、とのこと。

そのような状況下でも 布教熱は冷めず、
松永好松先生は、ご子息である 松永吉之助先生を韓国布教に送り出され、
その後、日露戦争もあり 韓国布教は一時中断してしまっていたのを、戦雲が納まったのを見て、今度は 松永好松先生自らが 再び韓国布教に出られた――
以上のように『天理教事典』には 書いてありました。

松永好松 初代会長のパワフルさには、言葉がありません。

それほどのエネルギーは、一体 どこから湧いてきたのでしょうか…
どうすれば そこまでエネルギッシュに生きていけるのか、教えを乞いたいばかりです (^^)

南大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

今回の『天理教事典』「南 大教会」解説文書写学習でも知らないことだらけだったわけですが、
その他にも、
明治45年に 松永好松 初代会長が出直された後を受けて 松永市太郎2代会長が 27歳で就任。
しかし、大正6年 32歳の若さで出直されてしまい、松永アイ様が 若い身空に幼い遺児を抱えた婦人の身ながら3代会長就任し、悲しみを乗り越え、日夜真剣に布教に教務の上に没頭精進した、ということ。
これも、全く知らない話でした。

その他のことも、どれもこれも 知らない話ばかりでした。
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「南 大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の 深みと重みが感じられてくる気がします。

南大教会写真④
ホームメイトリサーチ旅探天理教南大教会 より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「南 大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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