Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号22番「筑紫大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号23番「越乃國大教会」について勉強します。
越乃國大教会(こしのくに だいきょうかい)
越乃國の始まり 宇野善助の入信 (明治14年〜明治17年)
越乃國大教会の道は、
明治14年(1881) 11月1日、
のちの河原町大教会初代会長 深谷源次郎に手引きを受けた 宇野善助(ぜんすけ)が、
西京天輪王 明誠社にて、
その講元 奥六兵衛より「元初まりのお話」を聞き 入信した時から始まる。その後 (宇野)善助は
明治15年11月「おぢば」に帰り、
教祖より「ここは喜ぶ所や、3代目は清水やで」とのお言葉を賜わった。
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』181頁)
『天理教教祖伝逸話篇』102. ここは喜ぶ所
明治15年秋なかば、宇野善助は、
妻と子供と信者親子と7人連れで、おぢばへ帰らせて頂いた。
妻 美紗が 産後の患いで、もう命がないというところを救けて頂いた、お礼詣りである。夜明けの4時に家を出て、歩いたり、巨掠池では船に乗ったり、次には人力車に乗ったり、歩いたりして、夜の8時頃おぢばへ着いた。
翌日、山本利三郎の世話取りで、一同、教祖にお目通りした。一同の感激は、譬えるにものもない程であったが、
殊に、長らくの病み患いを救けて頂いた美紗の喜びは一入で、
嬉しさの余り、すすり泣きが止まらなかった。すると、教祖は、「何故、泣くのや。」と、仰せになった。
美紗は、尚も泣きじゃくりながら、
「生き神様にお目にかかれまして、有難うて有難うて、嬉し涙がこぼれました。」
と申し上げた。すると、教祖は、
「おぢばは、泣く所やないで。ここは喜ぶ所や。」
と、仰せられた。次に、教祖は、善助に向かって、
「三代目は清水やで」とお言葉を下された。善助は、「有難うございます。」とお礼申し上げたが、
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』181頁)
過分のお言葉に身の置き所もない程恐縮した。
そして 心の奥底深く、
「有難いことや。末永うお道のために働かせて頂こう。」
と、堅く決心したのである。
また、明治17年 4月6日には、月日の御盃を、
明治19年 5月14日には赤衣を頂戴した。
斯道会から北陸の道(明治17年〜明治23年頃)
明治17年 3月、
政府の取締まりを逃れんとした講元 奥六兵衛は、
当時公認されていた 神習教 の庇護を受けようとした事情より、
(宇野)善助は、深谷源次郎と共に 明誠社を退講し、
同道して「おぢば」にかえり、斯道会結成の許しを得た。
『天理教教祖伝逸話篇』141. ふしから芽が切る
明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に、
斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に京都を出発、奈良へ着いたのは午前二時頃。
未明お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖にお目通りしてお許しを願った。すると、
「さあ/\尋ね出る、尋ね出る。さあ/\よく聞き分けにゃならん。
さあ/\このぢばとても、四十八年がこの間、膿んだり潰れたり、膿んだりという事は、潰れたりという事は。
又、潰しに来る。
又、ふしあって芽、ふしから芽が切る。
この理を、よう聞き分けてくれ。
だん/\だん/\これまで苦労艱難して来た道や。
よう聞き分けよ、という。」
とのお言葉であった。未だ、はっきりしたお許しとは言えない。
そこで、深谷と宇野は、
「我々五名の者は、どうなりましても、あくまで神様のお伴を致しますから、」
と申し上げて、重ねてお許しを願った。すると、
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』234~236頁)
「さあ/\/\真実受け取った、受け取った。
斯道会の種は、さあさあ今日よりさあ/\埋んだ。
さあ/\これからどれだけ大きなるとも分からん。
さあ/\講社の者にも一度聞かしてやるがよい。
それで聞かねば、神が見ている。
放うとけ、という。」
と、お許し下され、
深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実は、
親神様にお受け取り頂いたのである。
(宇野)善助は
この頃
出生地である 滋賀県野洲町を始め
琵琶湖南岸一帯を布教して歩き、
数々の講社が結成された。(宇野)善助から終始諭しを受け、布教していた
斯道会 第51号 講元 前川又吉に救けられた 山口喜之助は、
親神の不思議な御守護に感激して入信し、
同行の長谷長四郎と共に、
その後「おぢば」に参拝した。明治21年 4月、
長谷長四郎を講元として
山口(喜之助)、長谷(長四郎)等の郷里
福井県敦賀郡 愛発村 杉箸において
斯道会 第120号講社が結成された。当時
漢方医として村民の信望を集めていた 杉本又兵衛は、
この話を聞いて、
明治21年 5月下旬、
単身「おぢば」に帰り、斯道会へも参拝して、
守護のありがたさを心に治めて入信し、
明治22年 3月、
長谷(長四郎)から講元を譲り受け
熱烈な信仰を続けた。この地方の知識階級の一人であったので、
この 杉本(又兵衛)の入信と布教は
初期における 越乃國の道の発展に 大きな働きをなした。この(福井県敦賀郡) 愛発村は
当時 京都、大阪、名古屋等から北陸地方への街道の要であったので、
旅人達の往来繁く、御守護の姿が次々と伝えられ、
後年、越乃國大教会となる礎を築いた役員達が入信し、
競って北へと 布教線をのばし
各地に講社を結成していった。一方、
元 小浜藩士で 敦賀町の奉行であった 高橋直秀は、
明治23年春、
敦賀町大内滝本院 修験場で、
数人の者が「てをどり」をしているのを見て 不思議に思い、
この教えは 大和国山辺郡庄屋敷にある と聞いた。その後、
杉本(又兵衛)の布教が町で噂に上がるにつれ
考えるところあって、
明治23年 4月以後
再三「おぢば」に参拝して 教理に感激し、
同年(明治23年) 5月24日
直接「おぢば」で 平講社に加入したという。その帰途 斯道会に参拝した後、
敦賀町にて熱心に布教し、
斯道会198号 講元となった。
北国連合事務所の開設、天理教会講社集談所の認可(明治23年)
(宇野)善助は この頃、
度々 敦賀に赴いて信者の育成につとめ、
明治23年6月には
連合講社から集談所に発展させるよう勧めたが、
当時の講元達は、「(福井県敦賀郡) 愛発村の様な草深い処では 先の楽しみが少ない。
敦賀町へ出て、高橋直秀を長として頂きたい。」
と希望したので、連合講社はそのままにして
別に 新しくその上に立って講社全般の統制を行う事とし、
明治23年7月1日
敦賀町川崎第120番地に
北国連合事務所を開いた (連合長:高橋直秀)。更に 同年(明治23年) 11月7日、
同所(敦賀町川崎第120番地) にて
所長 宇野善助、副長 高橋直秀で
天理教会講社集談所を設置し、
敦賀警察署長より承認されている。開筵式当日は、
参拝者多教であったため
2階にあった神殿参拝場の框が折れて、
参拝者の大勢が1階に落ちたが
大難に至らなかった。
天理教会 越乃國支教会所の設置(明治24年〜明治25年)
むずかしい地方庁の認可を得て、
講社も続々と結成されて行ったので、
いよいよここに 支教会設置の許しを
明治24年8月13日付「おさしづ」によって得た。翌(明治24年8月)14日付、教甲第851号、
担任教師を 宇野善助とし、
敦賀町川崎第152番地に
神道直轄 天理教会 越乃國支教会所設置の許しを受けた。移転の話が出て、
将来を見越して
敦賀町大金33番地の広い所へ
翌年(明治25年) 9月19日 移転の許しを得た。明治25年 11月22日には、
石川県鹿島郡に 能登出張所(現 鹿島大教会) を開設した。
高橋直秀2代会長(明治26年〜明治42年)
明治26年 3月25日、
2代会長の許しを得た 高橋直秀は
内容充実に尽力し、
明治30年6月26日 神殿建築の許しを受けてふしんにかかり、
(明治)31年 5月1日、
その奉告祭が 盛大に執行された。明治31年末迄には
部内教会が相次いで設置され 14ヵ所に及んでいる。信仰の道は 四国へ伸び、
明治35年 11月30日には
本島布教所 (現 本島大教会) が、
初代所長 高橋直秀 (当時 越乃國支教会長) にて 設置の許しを得た。高橋直秀は、
更に布教線の拡大につとめ
韓国における 天理教初の布教公認を受け、
明治41年11月23日、
京城宣教所(現京城大教会) が設置された。明治42年1月31日
越乃國分教会に昇格した。
宇野又三郎3代会長(明治42年〜昭和8年)
明治42年 12月20日
2代会長 高橋直秀 出直しにより、
後任教会長選定に種々事情があったが、
初代真柱の命により、
宇野又三郎が 3代会長の許しを得た。その後 布教線は益々拡大され、
北陸、四国、韓国を始め、
当時の満州国 及び 北米、ハワイ、カリフォルニア州にも
教会が次々と設置されていった。大正9年 6月13日
境内地手狭で 祭典執行等に支障をきたすようになったので、
敦賀市三島17号33番地の1 (現在地) へ 移転改築の許しを得、
同(大正)10年 10月21日
盛大に奉告祭が執行された。昭和6年(1931) 5月8日、教甲第178号にて
河原町大教会より本部直属の中教会に分離昇格の許しを得、
奈良県山辺郡 丹波市町 大字豊田155番地に
越乃國詰所を開設した。
宇野ふじ4代会長(昭和9年〜昭和16年)
昭和8年 10月11日
大教会に昇格の許しを得たが、翌年(昭和9年) 2月21日、
その奉告祭前に
3代会長 宇野又三郎が出直したので、同(昭和)9年 4月29日、
宇野ふじが4代会長の許しを受け、
同年(昭和9年) 10月20日、
越乃國大教会昇格 並びに 会長就任奉告祭が執行された。この頃は 部内教会設置が相次ぎ、
同日に10カ所に余る許しを受けた事もあり、
部内教会330ヵ所という発展の守護を見た。昭和15年 1月29日、本島、京城 両分教会が、
更に 翌年(昭和16年) 7月には、鹿島分教会が
本部直属大教会に 分離陞級した。
宇野晴義5代会長(昭和16年〜昭和44年)
本島、京城、鹿島の 3教会分離の事情により、
昭和16年 2月11日、
宇野晴義が5代会長の許しを得た。当時 宇野晴義は 上海伝道庁長であったため、
理事 高橋昌三が 代務者を 昭和21年まで勤めた。昭和21年 4月末、
宇野晴義、その家族は 太平洋戦争終結により
中華民国上海市より引揚げ、
在籍者一同と共に 国内布教に励んだ。(宇野晴義)大教会長は、
「ぢば」に伏込みつつ
福井教区長等の重責を果たしながら
部内信者の育成、布教伝道に丹精した。昭和27年
教会境内地に 白梅学園 蕾舎(乳児院) を開設し、
後年 晴喜館(養護施設) を併設して
社会福祉法人の認可を得、地域社会との繋りを深めている。昭和36年 4月18日、
宇野晴義は、天理教教会本部 本部員に登用された。昭和41年 4月 宇野晴義 入院に付
同年(昭和41年) 6月26日
宇野和晴が代務者をつとめた (同43年まで)。同年(昭和41年) 7月3日、
婦人会 越乃國支部総会の当日、
参加者多数のため、信者室2階框が折れて
そこに居合わせた100名余の信者が転落する
という事故となった。ここに 信者室改築の議が練られ、
北信者室 及び、越乃國大教会として
初めての 鉄筋コンクリート造りによる 3階建 西信者室が完成した。
宇野和晴6代会長(昭和44年〜)
昭和31年 4月18日
本部青年に登用されていた宇野和晴は、
昭和44年 3月26日 6代会長の許しを得た。同(昭和)34年より行われていた 大教会祭儀奉仕員制度を確立。
同(昭和)44年より 毎年春秋に 祭儀奉仕員講習会を開催し、
教義の研鑽、「おつとめ」の手振り、鳴物の習熟につとめている。創立80周年を記念して、
神殿ふしんを打出し、
それに付随して正門位置変更、
付属建物として役員宅、南信者室、大浴場が完成した。昭和48年 11月3日
神殿ふしんの真最中に
前会長(5代会長) 宇野晴義は出直したが、
会長始め 役員部内教会長一同は、
親神の思召を感じつつ、
益々勇んで ふしんに丹精し、昭和49年 11月2日
神殿建築落成奉告祭が
真柱臨席の下に 4千人の「よふぼく」の参拝の中
盛大に執行された。〔事業〕:
社会福祉法人 白梅学園 蕾舎(乳児院)
晴喜館(養護施設) 昭和26年設立 現在に至る〔出版物〕:
『おさしづ』(昭和13年4月26日)。
『親心子心』 (昭和13年4月26日)。
『初代の道』(昭和26年11月 11日)。
『おぢば春秋』』(昭和30年10月26日)。
『越乃國年譜表』(昭和30年12月23日)。
『高橋直秀諸記』 (昭和34年5月24日)。
『北陸震災展望』(昭和24年4月20日)。
『天理教資料研究』(昭和48年4月23日)。
『涛々颯々』(昭和50 年11月3日)。〔現住所〕〒914 福井県敦賀市三島町2丁目4番34 号
〔電話〕0770-22-0719(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,342〜343)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
23回目の今回は、
「越乃國大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】23回目の当記事では
『天理教事典』の中の「越乃國大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
越乃國大教会は、河原町大教会から分かれた大教会ですね。
河原町大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
自分の頭を整理するために、
『天理教事典』に書かれた「越乃國大教会」の歴史を
箇条書きにしてみます。(敬称略)
- 明治14年、宇野善助が、
深谷源次郎に手引きを受けて
明誠社の奥六兵衛講元より「元初まりのお話」を聞き、
感銘を受け入信した。 - 明治17年、明誠社の奥六兵衛講元が、迫害を逃れるために当時公認されていた神習教の庇護を受けようとする態度を見て、
宇野善助は、深谷源次郎と共に明誠社を退講し、
斯道会結成の許しを得た。 - 斯道会結成後、宇野善助は、
出生地である滋賀県野洲町を始め 琵琶湖南岸一帯を布教して歩き、
数々の講社が結成された。 - 宇野善助→前川又吉→山口喜之助→長谷長四郎と、
次々に教えが広まっていった。 - 明治21年、長谷長四郎を講元として、
山口喜之助・長谷長四郎等の郷里の「福井県敦賀郡方面」に
斯道会の講社が結成されるに至った。 - 漢方医として村民の信望を集めていた 杉本又兵衛が入信し、
長谷長四郎から講元を譲り受け 信仰を始めたことで、
敦賀方面の道が大きく伸びた。 - 明治23年には、杉本又兵衛の影響もあり、
元小浜藩士で敦賀町奉行だった高橋直秀も、
敦賀町にて熱心に布教した。 - 明治23年6月、頻回に敦賀に赴き 信者育成につとめていた宇野善助が、
敦賀の人々に講社を集談所に発展させるよう勧めたが、
「愛発村の様な草深い処では先の楽しみが少ないので 敦賀町へ出たい」
と希望したので、敦町川崎第120番地に
高橋直秀を長として、講社全般の統制を行う上位組織として、
「北国連合事務所」 (連合長:高橋直秀) を開いた。 - 明治23年11月7日、北国連合事務所と同じ場所に、
所長 宇野善助、副長 高橋直秀で「天理教会講社集談所」を設置し、
敦賀警察署長より承認された。 - 明治24年8月13日付おさしづにてお許しを得て、
翌8月14日、担任教師を宇野善助として、
敦賀町川崎第152番地に
神道直轄天理教会「越乃國支教会所」設置の許しを受けた。 - 明治26年3月25日、
高橋直秀が2代会長の許しを得た。 - 明治42年1月31日、
越乃國支教会が「越乃國分教会」に昇格した。 - 明治42年12月20日、
高橋直秀2代会長出直しにより、
宇野又三郎が3代会長の許しを得た。 - 昭和8年10月11日、
越乃國分教会が「越乃國大教会」に昇格の許しを得た。 - 昭和9年2月21日、宇野又三郎3代会長が出直したので、
昭和9年4月29日、宇野ふじが4代会長の許しを受けた。 - 昭和16年2月11日、
本島、京城、鹿島の3教会分離の事情により、
宇野晴義が5代会長の許しを得た。 - 昭和44年3月26日、
宇野和晴が6代会長の許しを得た。
箇条書きにすることで、大まかな流れがつかめました。
斯道会創始者の一人である宇野善助先生から、北陸方面へも道が広がって、
あちこち「講」が出来た。
↓
道全体の組織化の流れもあって、
宇野善助先生の先導で、敦賀方面の「講」の統合が進められた。
↓
そして、明治23年11月7日、敦賀町に、
所長 宇野善助、副長 高橋直秀として「天理教会講社集談所」が設置された。
↓
それが発展して、明治24年には「越乃國支教会所」となった。
↓
そして、その2年後(明治26年)には、現地の高橋直秀先生が2代会長となり、
その後、「越乃國」の道がどんどん発展していき、海外へも道が伸びていった。
…そんな感じでしょうか。
燎原の火の如く全国へ広まった「斯道会」の【北陸】部門――
というわけですね。
そして、「越乃國大教会」から、
韓国、当時の満州国 及び 北米、ハワイ、カリフォルニア州など、
海外へも飛躍した。
まさしく、
狭い所に治まることなく 全国あちこちへ広がっていこうとする拡大パワーに満ち満ちた「斯道会」の流れを汲んだ集団――
という感じがします。
『天理教事典』を書き写しながら興味深く感じたのは、
「越乃國大教会」は、
時を隔てて、
「2階が落ちる」という大事故を 二度も経験しておられる、
ということです。
1回目が、明治23年11月7日の「天理教会講社集談所」開筵式(神殿参拝場)。
2回目が、昭和41年7月3日の婦人会越乃國支部総会(信者室)。
18年間の時を挟んでいますが、
2回にわたって、
参加者多数のため2階の框が折れて参拝者の大勢が1階に落ちるという大事故があった、というのは、
他ではあまり聞いたことのない事例だと思います。
明治23年の「天理教会講社集談所」開筵式の際は【神殿】の2階、
昭和41年の婦人会総会の際は【信者室】の2階――
それぞれ場所は異なりますが、
それにしても、大勢の人が集まる場で、
2階が抜けるような大事故が一度ならず2度までも起こるというのは、尋常なことではない、
と言えるのではないでしょうか。
『天理教事典』によれば どちらも大きな被害はなかったようなので、
深刻に考える必要はないのかもしれません。
しかし、
こうして『天理教事典』の限られたスペースの解説文の中にも取り上げられているくらいですから、
事故に直面した当時の「越乃國大教会」関係者の方々にとっても、
きっと大きなインパクトのある出来事であったにちがいない、
と私は思います。
あくまで私の想像に過ぎませんが、
特に、
2回目の「2階が抜けて大勢の人が1階へ落ちる」という節に遭遇した際には、
「そういえば18年前にもこんなことがあった…」
と、関係者の皆様は、あれこれ様々に思案を巡らせたのではないでしょうか。
しかし、そのような大きな節が、
①明治23年「天理教会講社集談所開筵式」時の節
➡翌年「越乃國支教会」設置、その翌年(明治25年)敦賀町の広い場所への移転。
②昭和41年「婦人会総会」時の節
➡北信者室 及び 鉄筋コンクリート造りによる 3階建 西信者室建設。
という、その後の大きく発展した姿につながっています。
そうした歴史は、そのような大事故に遭遇された方々が、
信仰的思案によって、そうした節を
大きな成人の歩みにつなげられたことを示している、
と感じます。
きっと、越乃國大教会の皆様方は、
そのような大きな節を通して
「節から芽が出る」
というご神言を 深く体感されたに違いありません。
…以上は、あくまで、私個人の 想像的感想ですが… (^^;)
――その他のことも含め、今回も知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
ということで――
今回は「越乃國大教会」初期の歴史の勉強でした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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