天理教 各教会の歴史探索(第126回)【泉 大教会】『天理教事典』より

「泉 大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号125番「岡山大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号126番「泉 大教会」について勉強します。

  1. 泉 大教会( だいきょうかい)
    1. 山本多三郎の経歴
    2. 山本多三郎の入信 ~ 大阪・堺での布教(明治初期)
    3. 真実講の結成(明治14年頃)
    4. 平井恒七 初代会長の経歴(嘉永元年~明治13年頃)
    5. 激しい反対攻撃を跳ねのけて布教活動 ~ 「神世講」の結成(明治14年)
    6. 堺 支教会の開設(明治23年)
    7. 元・神世講信徒、堺 支教会からの離脱 ~ 泉 支教会の設立(明治23年頃~明治25年)
    8. 相次ぐ事情、平井恒七 初代会長の辞任(明治28年)
    9. 小倉芳治郎2代会長の就任 ~ 就任後(明治28年~明治30年頃)
    10. 堺市市之町へ教会移転 ~ 堺市甲斐町へ教会移転(明治28年~明治31年)
    11. 高井猶吉3代会長の就任(明治31年)
      1. 高井猶吉3代会長就任の背景
    12. 鴻田利吉による泉 支教会の保持活動(明治30年代)
    13. 泉部内・向井出張所の地へ移転のお許し(明治31年)
    14. 泉 支教会の 地方庁認可取り消し(明治30年)
    15. 泉北郡への教会移転(明治31年)
    16. 茶谷佐平4代会長の経歴
    17. 茶谷佐平4代会長の就任(明治41年)
    18. 泉 支教会、待望の地方庁認可 ~ 教祖30年祭活動(明治41年~大正5年頃)
    19. 茶谷佐平4代会長家族の相次ぐ出直し(大正2年~大正6年)
    20. 茶谷佐平4代会長の出直し(大正9年)
    21. 三浦泰次5代会長の就任(大正9年)
      1. 三浦泰次5代会長の経歴
    22. 教祖40年祭活動(大正9年頃~大正15年頃)
    23. 泉 分教会へ昇格(大正15年)
    24. 堺市大浜南町へ教会移転(昭和2年頃)
    25. 三浦泰次5代会長時代(大正中期~昭和17年)
    26. 茶谷幸一6代会長の就任(昭和17年)
      1. 茶谷幸一6代会長の経歴
      2. 茶谷幸一、6代会長就任までの経緯
    27. 茶谷幸一6代会長の軍役招集 ~ 帰還(昭和19年~昭和20年)
    28. 教祖60年祭活動、教勢拡大 ~ 境内地の拡張(昭和21年~昭和26年頃)
    29. 泉 大教会へ昇格(昭和27年)
    30. 詰所全焼のふし ~ 神殿屋根葺替落成奉告祭(昭和35年~昭和36年)
    31. 教祖80年祭 ~ 創立80周年記念祭(昭和41年~昭和47年)
  2. おわりに
    1. 堺 支教会の設立(明治21年頃~明治25年)
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泉 大教会( だいきょうかい)

泉大教会ストリートビューより①
Googleストリートビュー より

山本多三郎の経歴

(大阪府) 堺への最初の布教者は、山本多三郎であった。

(山本)多三郎は、
河内国老原村(の) 羽田家に生まれ(た。
長じて)後、堺市 神明町東1丁山の口通り、通称「鍛冶源」山本家の養子となった。

(山本多三郎は) 鍛冶の経験が無いので 米屋を開業していたが、
3人(目)の子供が出来た時、妻が病死したので、長男を養家に残して実家へ帰った。

山本多三郎の入信 ~ 大阪・堺での布教(明治初期)

ところが、その後、(山本多三郎は) 病を得て、(それは) 医者の手離れとなった(程だった。

そのような中) ある天理教の人から 神様の話を聞き、(そこから縁ができて) 山沢良助・山本左右衛門等の おたすけを受け(るに至った。
その結果、山本多三郎の) 病は (見事に) 全快し(た。

結構なご守護を戴いた多三郎は 大いに感激し)、これを契機として入信した。

(入信後の山本多三郎は) しばしば おぢばに帰参。
(同郷の) 高井猶吉とも心易くなって、益々 熱心になり、遂に(は) 布教を決意するに至った。

真実講の結成(明治14年頃)

(山本多三郎は)
長年、(大阪府) 堺市に在住したのを幸い(として)、「鍛冶源」の親類になる (堺市) 宿屋町東一丁(の) 中井常吉に信仰を伝え、二人で熱心に布教し(た。
その結果、着々と) 信徒が増えてきた。

そこで、(堺市) 綾之町西六間筋に「真実講」を設け (明治14年頃) 、親神を奉斎するに至った。

山本多三郎によって教えを聞かされた者が多くいる中で、
平井恒七・平野辰次郎 (「朝日組」講元・堺大教会 初代会長) の信仰は、特に熱心であった。

平井恒七 初代会長の経歴(嘉永元年~明治13年頃)

後に 泉 大教会の初代会長となる 平井恒七は、
嘉永元年(1848) 3月10日、
大和五条町 字須惠、平井友二郎の長男に生まれ(た。

平井恒七は) 12歳の頃、(大阪の) 堺市にやって来た。
長じて「火箸鍛冶」を本業としていたが、明治13年頃(に) 山本多三郎に 胃腸病を救けられ(た。
(そこからは) 親神の御恵みに報いんものと、直ちに おぢばに帰参し、初めて 教祖にお目にかかった。

(平井恒七は、教祖から直々に) お言葉を頂き、その尊い姿に深く感じ入った。
(その感動から、平井恒七は) たすけられた御恩返しの心を定め、家業の傍ら 布教に従事するようになった。

激しい反対攻撃を跳ねのけて布教活動 ~ 「神世講」の結成(明治14年)

しかし、(大阪府) 堺市は、豊臣・徳川時代からの古い土地で、
元祿時代には (お寺が) 400ヵ寺もあり 寺地町の町名も残っている程、仏教の盛んな閉鎖的な土地であった(。
その)ため、天理教に対する反対攻撃も また 甚だしかった。

しかし (平井恒七は、そのような中でも) 積極的に布教したので、各所に 信仰は広がっていった。
そして、明治14年(1881) には、平井恒七を講元として「神世講」が結成された。

堺 支教会の開設(明治23年)

明治22~23年頃、(堺の地に)「堺 支教会」(を)設置(する)計画(が持ち上がった。

それは、平井恒七 講元の)「神世講」と(平野辰次郎 講元の)「朝日組」と合併し(て 新たに「堺 支教会」を設立しよう という計画であった。
山本多三郎の布教によって出来た道に縁ある人々によって) その計画(の実行) が進められた。

( 堺 支教会の設立にあたっては、当初、神世講の平井恒七が会長格で諸準備が進められていた。ところが、この準備中に、天理教教会本部から前川菊太郎が出張して来て、本部の意向が伝えられ、
本部の意向と 一同の協議とによって、堺 支教会長には、朝日組の平野辰次郎が就任することとなった。
そして、明治23年、無事、平野辰次郎を初代会長として「堺 支教会」開設に至った。) ( は、第31回「堺 大教会」記事より)

元・神世講信徒、堺 支教会からの離脱 ~ 泉 支教会の設立(明治23年頃~明治25年)

(明治23年に平野辰次郎を初代会長として「堺 支教会」が開設されたわけだ)が、
(神世講と朝日組) 両講の意見が一致しない(ところがあった)ため、
(堺 支教会設立後、一部の元・神世講信徒と、元・朝日組信徒が) 分裂(する)という結果を生んだ。

平井恒七は、直ちに 元の「神世講」の信徒を集めて (堺 支教会から分離して)「光道講」を起こし、自ら講元となって 布教に従事(した)。

(そして) 明治25年(1892) 2月4日、
遂に、堺市並松町128番屋敷に、
仁田利衛門、土師兼松、藤原利三郎、久野徳松 (が) 総代となって、
天理教「泉 支教会所」設置の許しを得(るに至っ)た。

相次ぐ事情、平井恒七 初代会長の辞任(明治28年)

こうして (立派に「泉 支教会」が開設されたのだが、
一同が) 益々 布教に励む中で、
担任変更、移転、名称取消、会長の病気、借財等…のふしを次々と見せられ(ることとなっ)た。

(平井恒七) 初代会長は、(相次ぐ)事情のため、やむなく、
明治28年2月26日をもって、辞任した。
(辞任後は、役員として 5代会長時代まで勤めた)。

小倉芳治郎2代会長の就任 ~ 就任後(明治28年~明治30年頃)

明治28年(1895) 3月7日、
小倉芳治郎が、2代会長に就任(した)。

しかし、役員一同の心が合わず、教勢不振が続いた。

(この頃の 泉支教会において特筆すべきことと言えば)
明治30年頃に、茶谷佐平 (後の4代会長) が、商売のことから入信した(ということ)ぐらいであった。

堺市市之町へ教会移転 ~ 堺市甲斐町へ教会移転(明治28年~明治31年)

こうした不振の中で、明治28年4月、
(泉 支教会は) 堺市市之町西5丁31番地へ移転(した)。

同年(明治28年) 6月13日、
(小倉芳治郎2代会長は) 都合により、担任辞職を願い出たが 許可されなかった。

明治31年、
(泉 支教会は) 再び 堺市甲斐町西3丁14番地へ移転した。

高井猶吉3代会長の就任(明治31年)

同年(明治31年) 5月4日、
(諸事情から) 高井猶吉が、3代会長に就任(した)。

高井猶吉3代会長就任の背景

(平井恒七) 初代会長辞職の頃から (小倉芳治郎)2代会長(に及ぶ) 時代は、
会長と役員、また 役員同志が 心合わず、部内の出張所とも うまくゆかず、教会はさびれる一方であった。

そこで、(天理教教会)本部へ依頼して 後任会長として高井猶吉を迎えた、というわけである。

鴻田利吉による泉 支教会の保持活動(明治30年代)

その当時、鴻田利吉が (高井猶吉3代)会長の補佐役で、泉へ来ていた。
高井猶吉は (天理教教会)本部の教務で多忙を極めていたため (教会を)留守(にすることが多く、
そうした)中(を)、鴻田利吉が、
信者の参らぬ教会(を拠点として) 布教に廻り(つつ)、日々の神饌物もこと欠く様な苦労の中、(泉 支教会を守り) 通った(のだった)。

泉部内・向井出張所の地へ移転のお許し(明治31年)

その頃、(そのような中でも、泉)部内の「向井出張所」だけは、(新たな)普請をするような勢いがあった。

そこで、泉 及び 向井出張所の 役員一同(で) 相談。
その結果、
向井出張所を (大阪府) 泉北郡 踞尾村へ移転し、
泉 支教会を 向井出張所の場所へ移転(する、という)話がまとまった。

(その移転について、天理教教会)本部へ出願した結果、
明治31年(1898) 5月25日付にて許された。

泉 支教会の 地方庁認可取り消し(明治30年)

(話が、教会移転お許しが出た時より少し遡るが、
その教会移転のお許しが出る前年) 
内務省秘密訓令 (明治29年4月6日発令) により、
(泉 支教会は) 明治30年(1897) 6月に (地方庁の) 教会(認可) 取消しとなった。
(また) 部内(の) 向井出張所・墨江出張所も、共に 取消しとなった。

(そして、地方庁認可が取り消されずに) 残ったのは、神石・百舌鳥の 2ヵ所(のみ)となった。

(そのような激しい迫害攻撃によって) 教師信徒等の離散する者が (次々と) 増え(ていく事を受けて)、熱心な信徒達には 一時 他の教会へ参拝してもら(ったりした。
かくの如き状況で)、泉(支教会) の将来は、誠に 暗澹たるものであった。

泉北郡への教会移転(明治31年)

(そして) 明治31年5月25日、
(泉 支教会は、地方庁の認可を取り消された状態のまま)
大阪府 泉北郡向井村大字中筋1007番地に、移転(した)。

(ちなみに、認可が取り消されず) 残っていた 2ヵ所 (神石・百舌鳥) も、(その後) 明治40年になって、(認可) 取消しとなった。

茶谷佐平4代会長の経歴

のちに4代会長となる茶谷佐平は、
安政3年(1856) 12月26日、
(大阪府) 堺市 少林寺町東3丁、煙草・茶・そうめん商の長男として 誕生(した)。
茶谷家は、代々、佐平を名乗る 大和の茶問屋であったが、親の代で失敗して (大阪の) 堺へ来た。

(茶谷)佐平は、長じて、煙草・氷屋など営んでいたが、
生来 篤信家で、明治30年頃、商売が思わしくいかない所から、ある時、信貴山に籠って行をした。

21日の満願の日に夢を見て、(夢の中で)「東の神様を信仰せよ」とのお告げがあった。
そこで、(茶谷佐平は)
東ならば『お伊勢さん』に違いないと思い、早速 仕度を整えて、伊勢へ向かった。

(伊勢へ向かう)途中、(たまたま) その当時、泉部内・墨江出張所に所属していた 嶋井鶴松 と道連れになった。
(茶谷佐平から 信貴山で行をした満願日の夢の中で『東の神様を信仰せよ』とお告げを受けて伊勢に向かっているのだ、と聞かされた 嶋井鶴松は)
「東の神様なら 庄屋敷の神様も東や」
と(話をし、ぜひ庄屋敷の神様の所へ行くよう、熱心に勧めた。

嶋井鶴松) の (強い) 勧めによって、
茶谷佐平は、
(まるで見えざる磁石に引き寄せられる如く 抗いがたき縁の力に導かれて、 
嶋井鶴松と) 一緒に (大和国) 庄屋敷村の土を踏んだのだった。

(不思議な導きによる初めてのおぢばがえりをきっかけとして)
その後、(茶谷佐平は) 嶋井(鶴松と)の関係で、泉(支教会) へ参る様になった。

(その頃の) 泉(支教会) は、(前述の通り) 苦労の最中であった。
しかし (そのような中でも、茶谷佐平は) 自ら進んで 熱心に信仰する様になり、
氷屋の家業のかたわら 布教も進め、また (泉 支)教会へは日参した。

(そのような 茶谷佐平の実直な信仰姿勢は) 次第に、高井(猶吉3代)会長より見込まれる様になり、
(茶谷佐平は、泉 支教会の) 役員に任ぜられた。
(そして) 後に、(高井猶吉3代)会長の勧めによって、(茶谷佐平は) 家業を(人に)譲って、(泉 支)教会に住み込むようになった。

(茶谷佐平が 泉 支)教会に住み込んで半年後(の) 明治37年8月17日、
妻・さだが 48歳で出直した。

高井(猶吉3代)会長も鴻田利吉も 多用のため (ほとんど) 教会にはおらず、
(泉 支)教会は寂しい有様(のまま)であったが、
その(ような)中でも、(茶谷)佐平は、勇んで 教会の御用をつとめた。

天理中学校に在学していた (茶谷佐平の)長男・幸多良が、
窮状のため退学せざるを得なかったのは、この頃のことである。

茶谷佐平4代会長の就任(明治41年)

かかる中、
明治41年(1908) 2月13日付をもって、
茶谷佐平が4代会長に就任した。

泉 支教会、待望の地方庁認可 ~ 教祖30年祭活動(明治41年~大正5年頃)

(茶谷佐平は、4代会長)就任後は、益々 人だすけの上に また (認可)取消し教会の整理の上に 奔走(した)。
(そして) 同年(明治41年) 11月24日付で、待望の地方庁認可となった。

(泉 支教会は) その喜びをもって、(天理教教会)本部で進められていた 教祖30年祭活動に臨み、
泉詰所の建築や 教会 4ヵ所設立の姿を見た。

茶谷佐平4代会長家族の相次ぐ出直し(大正2年~大正6年)

(ようやくにして地方庁の認可を得て、順調に教勢発展の姿が見られるようになった 泉 支教会であったが)
しかし (その) 一方で、
大正2年(1913) 7月に (茶谷佐平4代)会長の 子息・重貞が、
(その4年後の) 同(大正)6年 1月に 後継者・幸多良が、
翌月(2月) に 幸多良の長女が出直し、
(会長家族が相次いで出直すという、衝撃的な姿を見せられた。

このような連続した大きな節は) 信者一同に、(実に) 大きな影響を与えた。

茶谷佐平4代会長の出直し(大正9年)

さらに (それに続いて)、
(茶谷佐平4代会長が) 大正8年頃より健康すぐれなくなり、
翌(大正)9年 2月21日、
苦労多き 65年の生涯を了えた(のだった)。

三浦泰次5代会長の就任(大正9年)

後任5代会長には、
三浦泰次が、
大正9年(1920) 5月8日、
(天理教教会本部の) 許しを受け、就任した。

三浦泰次5代会長の経歴

三浦泰次は、
明治8年6月20日、大和五条の宮田利吉の次男として誕生。
長じて 堺市熊野町東3丁39番地の三浦清吉の養子となった。

(茶谷佐平)4代会長の出直しを受けて、
(茶谷佐平4代)会長の孫・幸一 (後の6代会長) が (その時点ではまだ) 幼少であったため、(三浦泰次が) 推されて (5代)会長職に就いた(のだった)。

教祖40年祭活動(大正9年頃~大正15年頃)

新しい(三浦泰次5代)会長のもと、(泉) 信者は 心を一つにして、来たる教祖40年祭(大正15年) への活動に邁進し(た。)
大正13年5月28日に 詰所(の) 増設を成した。

また、教会移転建築の議が起こり、大正14年9月24日付で許しを得た。

泉 分教会へ昇格(大正15年)

大正15年(1926) 1月19日付で、
泉 支教会は 分教会に昇格した。

堺市大浜南町へ教会移転(昭和2年頃)

昭和2年には、2月に (三浦泰次5代)会長夫人の急逝もあったが、
秋から、堺市大浜南町73番地への移転建築にかかった。

部内教会も未だ少なく、経費も集まりかねる一方(で)、(三浦泰次5代)会長が病床についたりもしたが、
(泉 分教会一同は) 初志貫徹に勇んで邁進。
(その結果、見事に) 500余坪の土地買収と 仮神殿 及び 事務所 その他の建築が成った。

三浦泰次5代会長時代(大正中期~昭和17年)

その後、(三浦泰次5代)会長は健康勝れず、長男・清太郎が代理として負債整理に、また 教祖50年祭活動にあたった。

(三浦)清太郎は、三浦家が (天理教教会)本部に専務することになった後、台湾伝道庁長として赴任したり、本部准員として活躍した。

(三浦泰次)5代会長の 22年間の(会長職) 在任中、
大正9年に 三泉宣教所、
同(大正)11年に 泉津宣教所、
同(大正)12年 上住吉宣教所、
同(大正)15年に 泉祖宣教所、
昭和11年に 神鷺宣教所、
同(昭和)12年に 伽羅橋宣教所、
以上 計6ヵ所が 設置された。

三浦(泰次5代)会長は、
昭和17年に (4代会長の孫・茶谷幸一に) 会長職を譲った。

(そして)
同(昭和)26年 10月16日、
享年 76歳で 出直した。

茶谷幸一6代会長の就任(昭和17年)

昭和17年(1942) 3月2日、
(茶谷佐平)4代会長の孫・茶谷幸一が、6代会長に就任した。

茶谷幸一6代会長の経歴

(茶谷)幸一は、大正3年6月11日に生まれた。
2歳にして父を、6歳にして祖父を失い、母の信仰の中に育った。

天理中学校・天理教校別科を卒業し、昭和9年2月から (泉 支)教会に帰り、10月からは 踞尾宣教所に住み込んで、布教活動に…教会普請に…、と 奔走した。

茶谷幸一、6代会長就任までの経緯

昭和16年、(天理教教会)本部より 特別巡教があり、
(その際に) 病床の身である(三浦泰次5代)会長に代わって 茶谷幸一が就任するように、と指示された。

しかし、突然のことで、(茶谷)幸一が まだ若いこともあって、(泉 分)教会内で 協議が重ねられた。
しかし、(なかなか) 意見がまとまらず、どちらかと言えば、三浦(泰次5代)会長の子・清太郎がしばらく任に当たることを望む声(の方)が強かった。

(そこから、一同は 真摯に協議を重ねた。
その結果) 信仰者の集まりとして、ご本部の声に従うこと(こそ 神意に叶う選択であろうという結論)に至った。
(それで、本部の意向通り、茶谷佐平4代会長の孫である 茶谷幸一を6代会長とすることで相談がまとまった。

そして) 昭和17年3月2日、
(茶谷)幸一が、20代の若さで6代会長に就任した。

同年(昭和17年) 12月1日、
2代真柱を迎えて (6代)会長就任奉告祭が執行された。
(2代)真柱の激励の言葉に 信者一同 感涙にむせび、新しい出発を喜んだ。

茶谷幸一6代会長の軍役招集 ~ 帰還(昭和19年~昭和20年)

しかし、(茶谷幸一6代会長) 就任当時は 教勢振わず、月々の祭典も非常に寂しい姿で 若い会長は いろいろ悩んだ。
そこで (茶谷幸一6代会長は) 心中に「四つの目標」を作り、布教活動に邁進した。

(新たな目標を掲げ奮闘していた茶谷幸一であった)が、
(太平洋戦争の) 戦局 窮まり、昭和19年6月1日、(ついに)軍隊へ召集された。

その時、(茶谷幸一6代会長は)『応召祝』さえも お供えと借金返済に充て、(そして) 教会を役員に依頼して出発したのだった。
(茶谷幸一6代)会長(の) 留守中(は)、母が代務者としてつとめ、負債も 丸1年で返済した。

昭和20年10月、
(茶谷幸一6代)会長は、無事、復員(を果たした)。

教祖60年祭活動、教勢拡大 ~ 境内地の拡張(昭和21年~昭和26年頃)

昭和21年(1946) の教祖60年祭には、(天理教教会本部からの)「復元」提唱に応えて、(泉 分教会でも) 布教活動を さらに進展させ(た。
その結果)
昭和21年に 神大仙・黒土町、
(昭和)22年に 泉久・泉澄・百東・泉清・泉世・賑町、
以上の 計 8分教会が設置された。

昭和25年になると、(茶谷幸一6代)会長は、
(会長)就任時に心中で決めた目標の一つである「大教会陞級」への活動を提唱し、
まず、境内地拡張を実現した。

翌年(昭和26年) の拡張によって、(泉 分教会の境内地は) 1,000余坪となり、
(また) 部内教会も、次々と設置された。

泉 大教会へ昇格(昭和27年)

昭和27年(1952) は 創立60周年を迎える年であり、その喜びを集めて 活動を進めた。

そうしたところ、(なんと) 21ヵ所(も)の教会が 新設され、
(昭和27年) 10月27日付で「大教会陞級」の許しを得(るに至っ)た。

(昭和27年) 12月1日には、
2代真柱を迎え、大教会陞級 及び 神殿落成の奉告祭、併せて 創立60周年記念祭を執行した。

その後(は)、
教祖70年祭(昭和31年) に向かって 活動を進めた。

詰所全焼のふし ~ 神殿屋根葺替落成奉告祭(昭和35年~昭和36年)

昭和35年、
天理市の泉詰所が 全焼(するという 大きな節に遭遇)した。

(詰所が全焼するという大節を見せられた) 一同(は) 深くさんげし、(茶谷幸一6代)会長と共に、(見せられた節を生き節にすべく) 勇んで復興につとめた。

また、(丁度その頃) それより前から進めていた 大教会の屋根修理が終わったので、
昭和36年3月22日に、2代真柱夫妻を迎えて 神殿屋根葺替落成奉告祭を執行した。

教祖80年祭 ~ 創立80周年記念祭(昭和41年~昭和47年)

昭和41年(1966) の教祖80年祭には、
毎日 観光バスを出して おぢばに参拝し(た。)

また、(昭和41年) 4月には、
(天理教教会)本部より (当時の)たすけ委員長・中山善衞夫妻を迎えて、(泉)大教会の教祖80年祭を執行した。

昭和47年12月2日に、
(3代)真柱夫妻を迎え、創立80周年記念祭を執行(した)。
記念に「明心館」(信者会館) が建築された。

〔現住所〕〒590-0976    大阪府堺市堺区大浜南町2丁2番26号
〔電話〕072-232-6111

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,46〜48)

おわりに

泉大教会ストリートビューより⑤
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第126回目の今回は、
「泉 大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

泉大教会GoogleMapより①
GoogleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 泉大教会に関する記述がはんの少しだけありましたので、自己覚え書きとして書写します。

河内老原生まれの 山本多三郎は、
堺神明町の養子先から帰り、老原で重病になって、道の話を聞いた。

堺綾之町に 真実講を結び、この講社の 平野辰次郎と 平井恒七が、後年、それぞれ 堺、泉大教会の基礎を築いた。

辰次郎は 商取引の関係で 徳島県日和佐へも 道を伝えた。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,73)

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】126回目の当記事では『天理教事典』の中の「泉 大教会」についての記述を書き写したわけですが、
「泉 大教会」の初期歴史に関しては、当シリーズ第31回で勉強した「堺 大教会」の初期歴史と重なる部分がかなりありますので、今回は「堺 大教会」で勉強したことを思い出しながら書写致しました。

第31回「堺 大教会」で勉強したこと――
堺大教会、泉大教会ともに、通称「鍛治源」の山本多三郎先生による堺布教で結成された「真実講」が母体。
その「真実講」の中でも、特に熱心だったのが、平野辰次郎先生と平井恒七先生で、
平野辰次郎先生は「朝日組」という講社を結成し、平井恒七先生は「神世講」いう講社を、それぞれ結成された――
そして、明治21年に天理教教会本部が設立された後、全国各地で発生した「教会設置ムーブメント」に乗るような形で、大阪の堺でも、平野辰次郎先生の「朝日組」と平井恒七先生の「神世講」を合併し「堺 支教会」を設立することとなった――
そして、種々調整の結果、明治23年に平野辰次郎先生を初代会長と定めて「堺 支教会」のお許しを頂いた――
「堺 大教会」の元一日は、確か そういう流れだったと思います。

で、今回勉強した「泉 大教会」――
それは、
「堺 支教会」が開設後、元「神世講」の一部の人々と元「朝日組」の人々との間で意見の相違が生じたりして、
それで、元「神世講」の一部の人々が「堺 支教会」を抜けて 新たに「光道講」を結成し、それが発展して明治25年に「泉 支教会」としてお許しを頂いた――
「泉 支教会」の元一日はそういう流れだった、ということですね。

今回書写した『天理教事典』「泉 大教会」解説文には、泉支教会が堺支教会から分離するような形で生まれた経緯が書いてありませんでしたが、
当シリーズ第31回「堺 大教会」の方には書いてありました。

当シリーズ第31回「堺 大教会」で解説文を書写した当時の記憶がかすかに残っていたお蔭で、そのあたりの経緯を踏まえながら、今回の「泉 大教会」内容を把握することが出来ました。

自己覚書として、当シリーズ第31回「堺 大教会」の中の、堺支教会から分離するような形で泉支教会が設立に至った所以について書かれた部分を再掲しておきます。

堺 支教会の設立(明治21年頃~明治25年)

明治21年 天理教会本部の設立がなされ、
各地で教会設置出願がなされ出すと、
堺に於ても 教会を設立する機運がみなぎった。

(そして)
当時あった 朝日組と神世組が 合併し
「堺 支教会」を設立する相談が成った。

(それを受けて) 両組の役員等が奔走。
綾之町大道に かなり大きな家を求めた。
(それは) 土地280坪付で 240円であった。

当時、(平野)辰次郎は
日和佐へ行き、
日和佐の教勢を固めるべく 殆ど詰め切りで あった。

従って、
堺では、神世組の 平井恒七が 会長格で
諸準備が進められていた。

ところが この準備中に、
本部から 前川菊太郎が出張して来て、その意向が伝えられた。

(そして)
本部の意向と 一同の協議とによって、
堺 支教会長には、
(平野)辰次郎が 就任することに決まった。
(平野)辰次郎は、
日和佐の後任を 寺島に定め、堺へ帰って来た。

かくして、
明治23年 5月1日 いよいよ (堺 支教会設立を) 本部へ出願、
明治23年 5月2日 「おさしづ」によって 許しを受けた。
 (そして 堺 支教会として)
先の建物に(加えて) 更に 3間に3間の神殿を建築した。

かくして
明治25年 4月1日、
初代真柱を始め、前川菊太郎、永尾猶治郎、高井猶吉、増野正兵衛らの臨席のもとに、
(堺 支教会) 遷座祭 及び 開筵式が 厳粛に執行された。

なお 当時の教勢は
ほとんど 全堺と、
北は 住吉安立町、
東は 五ヶ荘、住道、油上などにまで及び
この祭典には
市内はもとより 近郷の信徒が雲集し、盛大を極めた。

さまよいブログ天理教各教会の歴史探索(第31回)「堺 大教会」より)

以上の、第31回「堺 大教会」書写文に書いてある文章を読むと、堺支教会から分かれて泉支教会が生まれた大雑把な経緯がわかります。

全国的な教会設立ムーブメントに乗って「堺でも教会を設立しよう」となって、その当時、堺地方にあった2つの大きな講社「朝日組」と「神世講」を合併して「堺 支教会」を設立することになった――
ただ、その当時「朝日組」の平野辰次郎講長は、阿波の日和佐で布教に励んでおり、堺は留守がちだった。
それで「神世講」の平井恒七講長を中心として教会設立に向けて邁進した――
そうしたところ、その準備途中に本部から前川菊太郎先生が出張してきて、新たに設立する「堺 支教会」の会長は「朝日組」の平野辰次郎にすべし、との本部の意向が伝えられた――
それで、「堺 支教会」は平野辰次郎先生が初代会長となり、明治23年に無事開設された――

今回の「泉 大教会」解説文のみではそのあたりの経緯がよくわからなかったと思いますが、以前に「堺 大教会」解説文を読んでいたので大雑把な流れをつかむことが出来た、というわけです。

当シリーズも回数を重ねるにつれて、点と点がつながって線となり、それぞれの大教会が決して孤立した存在ではなく、互いに影響し合いながら歴史を紡いできたのだということが、以前よりもずっと鮮明に見えてくるようになった気がします (^^)

泉大教会ストリートビューより③
Googleストリートビューより

おぼろげに流れ(事実関係)がわかると、気になるのはその理由――

「堺 支教会」解説文の方には、
全国的な教会設立ムーブメントに乗って、堺でも「朝日組」と「神世講」を合併して教会を設立しようとなった際、当初、
「朝日組」の平野辰次郎講長は阿波の日和佐で布教に励んでいて不在がちだったから、もう一方の「神世講」の平井恒七講長を会長として教会を設立しようとした――
と書いてありました。

私は、『天理教事典』1977年版のみを資料としてこの記事を書いているので、ごく一面的な部分しか見えていないことは重々承知しています。
ただ、この記述を読む限りでは、平野辰次郎先生は阿波の日和佐で布教に励んでおられたとのことですし、当時の堺において平井恒七先生を中心に教会設立の準備が進められていたという流れも、極めて自然なもののように感じられます。

そのような中で、本部から前川菊太郎先生が出張し、「堺支教会」の会長は平野辰次郎先生に、との意向が示された――
『天理教事典』にはその経緯が簡潔に記されているだけですので、背景事情まではわかりません。しかし、ご本部がわざわざそのような判断を下した以上、そこには当時の私たちにはうかがい知れない様々な事情があったのでしょう。

一方で、この出来事を平井恒七先生や元「神世講」の方々の立場から眺めてみると、複雑な思いを抱かれたとしても不思議ではないようにも感じます。
そして実際、その後の経緯をたどると、平井恒七先生は「泉支教会」の初代会長となり、結果として堺と泉、それぞれの道が開かれていくことになります。

もちろん、その間にどのような人間模様があったのかは私にはわかりませんし、後世の者が限られた資料だけをもとにあれこれ推測するのは慎むべきでしょう。

ただ、こうして歴史を追っていると、一つの出来事が次の出来事を生み、そこで生じた別れや出会いがまた新たな道を開いていく――そんな歴史の不思議さを感じます。

「成ってくるのが天の理」とのお言葉がありますが、平野辰次郎先生が堺支教会の初代会長となったことも、平井恒七先生が泉支教会の初代会長となったことも、きっと、その時々において成ってきた「一つの理」の現れた姿だったのでありましょう。

当時の事情を詳しく知ることはできませんし、限られた資料だけをもとに軽々しく推測することも慎むべきだと思います。

けれども、堺支教会から泉支教会へと続く流れを眺めていると、人の思惑を超えたところで道が開かれ、歴史が紡がれていく不思議さを、改めて感じるのでした。

泉大教会GoogleMapより②
GoogleMapより

また、今回の書写学習の中で、
茶谷佐平4代会長の初おぢばがえり経緯というものが、非常に印象に残りました。

茶谷佐平先生は、
明治30年頃、商売が思わしくいかないこともあって信貴山に籠って行をしたところ、21日の満願の日「東の神様を信仰せよ」との夢を見た。
そこで、東ならば『お伊勢さん』に違いないと思って伊勢へ向かった。
その途中、たまたま天理教を信仰していた嶋井鶴松先生と道連れになり、その嶋井鶴松から「東の神様なら 庄屋敷の神様も東や」と教えられ、初めておぢばがえりをされた――
『天理教事典』にはそのように書いてありました。

①信貴山の「山籠もり行」満願日に「東の神様を信仰せよ」との夢を見る。
②信貴山の東方ならば「伊勢神宮」だろうと思ってそちらの方へ向かう。
③移動中に、たまたま天理教を信仰している先生と出会う。
④その先生から「東なら庄屋敷村も東や」と告げられる。
⑤その先生に案内されて、初めてのおぢばがえりをされる。

①~⑤まで偶然と考えるには、あまりにも出来すぎている !! (゚ロ゚)
…というか、こうして史実を並べて眺めて見ると、まさしく神様からのお手引きとしか考えられない、という気がします。

「夢」が関わる史実に触れて、
茶谷佐平先生の見た「夢」とはちょっと種類が違いますが、
当シリーズ第105回「都 大教会」を勉強した際に出てきた小西政吉・都初代会長の「夢」がからんだエピソードを思い出しました。

第105回「都 大教会」で知った「夢」がからんだエピソードとは、
都大教会の小西政吉初代会長は、多くの病気を抱え苦しんでいた入信前に白髪・赤衣の老婦人に手招きされるという夢を見ていて、夢を見た当時の小西政吉初代会長は それが何を意味するのかわからなかったけれども、天理教の話を聴くようになって、夢の中で自分を手招きした白髪・赤衣の老婦人が教祖である事を悟った、というものでした。

おふでさきに
「それゆへに ゆめでなりとも にをいがけ
はやくしやんを してくれるよふ(14-7)」

というお言葉がありますが、
親神様は、小西政吉先生や茶谷佐平先生等のような、何としてもこの道に引き寄せたい深い魂の因縁の持ち主に対しては、「夢」を通してでも、深いメッセージを送っておられるのだということを、改めて教えられたのでありました。

泉大教会ストリートビューより④
Googleストリートビューより

その他にも、
泉 大教会は、平井恒七初代会長、小倉芳治郎2代会長が事情により短期間で退職した後、
明治31年から明治41年にわたる10年間、ご本部の高井猶吉先生が3代会長をつとめられていた、という話。

また、
内務省秘密訓令によって地方庁の認可を取消され、しばらくの間、無認可のまま活動しなければならない期間があって非常に苦労をした、という話。

また、
大正2年から6年頃の短い期間に、茶谷佐平4代会長のご家族が相次いで出直すという節を見せられて、そして茶谷佐平先生ご自身も、その一連の親族出直しの3年後の大正9年に出直されていた、ということ、
そのような大きな節に遭遇しながらも、泉 大教会一丸となって節を乗り越え、茶谷佐平先生の孫である茶谷幸一先生が6代会長に就任した後に 大教会への昇格を果たした、という話。

どれもこれも、知らない話ばかりでした。
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
たとえ断片的とはいえ、多少なりとも教会の歴史を知った上で、今の「泉 大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

泉大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「泉 大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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