Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号21番「櫻井大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号22番「筑紫大教会」について勉強します。
筑紫大教会(ちくし だいきょうかい)
筑紫大教会のはじまり
「さあ/\ろっくの地にする。
皆々揃うたか/\。よう聞き分け。
これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、
神が扉開いて出たから、
子供可愛い故、
をやの命を 二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。
しっかり見て居よ。
今までとこれから先と しっかり見て居よ」
(さ20・2・18)とのお言葉の通り、
明治20年(1887 )陰曆正月26日 教祖が現身を隠されてより、
天理教は 燎原に火を放つが如くに素晴しい勢で、八方に伸び広がり、
遠く九州へも伝道された。
この中に 筑紫大教会も創まった。江州の蚊帳売商人 堤丑松は
滋賀県愛知郡 角井村池ノ尻、
斯道会217号 池の尻講の周旋方であり、
万延元年(1860)生まれ、
家は農業であったが 農業は家族にまかせ、
自分は もっぱら蚊帳の行商に
遠く 広島から北九州までも出かけていたという。この堤丑松が
明治11年(1878)の頃より、
毎年春になると
遥々 近江の国から 沢山の蚊帳を携え、九州に下り
直方を中心に 筑豊一円、
南は 久留米の田舎まで行商し、
かたわら、病人を見つけては「おさづけ」を取次ぎ
不思議な守護を次々みた。こうして蒔かれた布教の真実の種が
明治24年頃より、あちらこちらに芽を吹き
次々と 講が結ばれていった。
堤丑松による九州布教(明治24年)
明治24年 4月上旬
堤丑松は 例によって、
福岡県直方町の岩田屋旅館に止宿し、
蚊帳の行商をはじめ、
病人を捜しては 布教をしていた。この直方新町に、
福原惣太郎(後の4代会長) の夫人である ふみの実家 井上家があり、
父親である井上次右衛門は、風呂屋を営んでいた。(井上)次右衛門には、
ふみのほかに 長男 久吉と 次男 林太郎があった。この(井上)林太郎は、
明治24年 4月上旬、腸チフスに罹り、
今にも命を焼きつくすか と思われる程の高熱が続いた。(井上)次右衛門はじめ 家族の心配はひとかたでなく、
八方に手をつくしたが 病勢は悪化するばかりであった。この時、
岩田屋旅館の女主人、お滝より
近江から来ていた蚊帳売りの 堤(丑松)が
不思議に病人を救けている という話を聞いて、
井上(次右衛門)も
堤(丑松)に「おたすけ」を願った。堤(丑松)は
(井上)林太郎少年の身体におさづけを取次ぎ、
それが終ると 水を含んで 病児に吹きかけた。(井上)次右衛門が 気をはらはらさせながら、
「大熱のある子供に水を吹っかけたりして、それでいいですかな」
といえば
「なあに 大丈夫です」
と 堤(丑松)は平気である。そして、
「さあ、これから すぐに風呂に入れなさい」
といって、
腸チフスで高熱の (井上)林太郎少年を、
ただちに風呂 に入れたのである。家の者は そんな無茶なことをして大丈夫か
と案じていたが、
やがて一同の前へ 風呂からあがってきた (井上)林太郎少年は
童顔あかるく 紅さして、
けろりと病気を忘れたようであった。
熱もすっきり下がっていた。これには 家族も親戚も みな驚き、
堤丑松を囲んで 神様の話を聞くことになった。
この(井上)林太郎少年の不思議なたすけから
井上久吉、福原惣太郎夫妻、福原直吉が 信仰を始めた。また 井上久吉の従弟に
直方町外町に 柴田平次がおり、信仰を始め、
その(柴田)平次の同業者の 柴田作平が
猛烈な疝気にかかり、苦しんでいたのを、
井上(久吉)に おたすけを願い、
これも 一度のお願いで、不思議に救かり
(直方町)外町でも
藤井貞平、野中只十、 柴田万造、和田亀吉、中島平二郎、松下幸右衛門、柴田利造、柴田かね、花房総右衛門
といった人々が 熱心に布教をした。明治24年 5月
井上久吉、柴田利造、藤井貞平、和田亀吉、花房総右衛門
の 5名が
河原町の教会を経て「おぢば」に参拝した。
そして 信徒加入名簿を出した。ここに はじめて
斯道会 第365号、第366号の 2つの講社の結成をみた。第365号は 講元 井上久吉、講脇 福原惣太郎が、
第366号は 講元 中島徳八、講脇 藤井貞平が
それぞれその任についた。明治24年 5月頃には
(福岡県) 直方町から 1里ほど、遠賀川の川下の
(福岡県鞍手郡)木屋瀬町に この信仰が伝わった。同町(木屋瀬町)の名望家 松尾卯造が
不治といわれた皮膚病を 堤丑松にたすけられて入信し、
つづいて 松尾テルの眼病のたすけから、
その兄 松尾徳之助らが信仰し、
同年(明治24年) 6月には 松尾一家が相揃って本部に参拝した。同年(明治24年) 10月に
(福岡県遠賀郡)上津役村の 能美賢一郎らと 再度 本部参拝をなし、
その折 河原町より 斯道会講社の結成を許された。木屋瀬講社では
松尾徳之助を先頭に
石橋又十、北崎喜三郎、松尾卯吉 母堂たちが
当時 熱心に信仰した。同年(明治24年) 9月には
木屋瀬の東北1里ほどの上津役村の
能美賢一郎が (当時27歳) 眼病のところ、
木屋瀬の 瓜生辰平夫人の話をきき、
松尾徳之助を訪ねて、
ここに滞在して 話を聞いて 入信した。そして 翌10月には
松尾(徳之助)、能美(賢一郎)、瓜生(辰平)、北崎(喜三郎)が
打揃って「おちば」へ参拝した。なお このころには、
木屋瀬町と遠賀川を へだてた
対岸の植木町、香月村、古月村などの村々にも 信者が出来ていた。直方、木屋瀬町の3講社につづいて 9講社が結成されていた。
斯道会 第531号、 講元 香月角之助、講脇 友原五郎。
第532号、講元 和田与太郎、講脇 幸田荘四郎。
第533号、講元 能美源太郎、講脇 能美鎌吉。
第534号、講元 能美賢一郎、講脇 大和才吉。
第535号、講元 村田猛、講脇 敷田岡平。
第536号、講元 原田長次郎、講脇 原田大吉。
第537号、講元 秋吉源吉、講脇 吉田徳三郎。
第538号、講元 梶栗弥吉、講脇 添田輝平。
第539号、――
がそれである。これらの講社は
明治25年 2月の日付となっているので、
一括願い出たものと考えられる。この中で 能美源太郎と能美賢一郎とは 遠い親戚、
梶栗弥吉は 能美賢一郎の妻の兄に当たる。古月村の隣が 宗像郡になる。
能美賢一郎夫人 フサノは、
当時 婦人病で 宗像郡赤間町の吉永病院に入院しており、
夫の眼病の御守護を聞いて入信し、
フサノの兄 梶栗弥吉も
その話をきいて入信したものである。
筑紫の道の広がり(明治25年頃)
宗像郡周辺
明治25年正月、
梶栗弥吉は 太宰府参詣に出かけ、
同町 富屋旅館に泊った。そこで
宗像郡 塩浜村松原の 花田菊太郎、小島市太郎の両名に会い、
この二人に 自分が助かった木屋瀬の神様の話を伝えた。また 同年(明治25年) 2月
勝浦村の大島定六の妻の姉、ハル子は
木屋瀬の 松尾徳之助の家で働いていたが、
帰宅して布教したところ、
僅か1ヵ月ばかりの間に 80名あまりの信者を得た。この知らせに 2月下旬、
能美賢一郎が出張して布教したので 教えは益々広まり、
花田八藤、大島定六、端野四郎などが入信して
塩浜講社を結成した。これより 宗像郡の伝道線は展開し
糟屋郡、筑紫郡、博多、糸島郡へと伸びていく。
直方市周辺
(福岡県)直方市の東の 頓野村内ヶ磯に
吉川洗という人があった。中風で苦しんでいたのを、
堤丑松が行って おさづけを取次いだところ、
1回で 手足の自由がかない、2回で足が立った。その後、(明治25年) 12月28日、
堤丑松、福原惣太郎、柴田万造、松下幸右衛門、松尾徳之助らの篤信家が、
寒風の中を 跣足でおたすけに向い、
熱心なお願いにより、膝関節の屈折も 自由になった。(福岡県)直方市の西に
宮田村 磯光というところがある。そこへ (明治)24年 8月から
松尾徳之助が 布教に出かけ、
同地(宮田村 磯光)の
渡辺万太郎の長男 繁、相場磯次郎らが重病のところをたすけて、
信者は 日とともに 数を増して行った。中には
無報酬でたすけて行く松尾(徳之助)らの行為を薄気味悪く思い、
いつかは重荷を負わされるのではないかと心配して
信仰をやめるものもあった。しかし
同村(宮田村磯光)の下川伝十が
櫨の木より落ちて大怪我をしたところを 直方からの信者に救けられてよりは、
この地方の信仰は盛んとなり、
磯光はもちろん、
その西の 長井鶴又、飯塚市の西の 伊岐須、明星寺の諸村に 講社が結成された。すなわち、斯道会名簿の千号までの中にある
鞍手、嘉穂 両郡内にある講社名がそれで、第 676号、講元 下川伝十、講脇 渡辺万太郎。
第701号、 ――
第738号、講元 仙田倉吉、講脇 古賀弥三郎。
第741号、講元 音丸儀四郎、守田孫六、講脇 福永伊平。
第742号、講元 篠原喜右衛門、講脇 許斐兼次郎。
第983号、講元 安永甚三郎、講脇 有吉良平。
第984号、講元 宇野徳次郎、講脇 花野用七が それである。
遠賀郡周辺
遠賀郡上津役村 小嶺に
能美源太郎を講元とする 小嶺講社があり、
ここの信者に 柳勘七がいた。柳(勘七)の 妻の兄弟が
八幡村 字河内の 中村孫三郎に教えを伝え、
また そのころ
豊前の国 企救郡 西谷村 田代の
山本辰太郎に教えが伝わり、
順次信者が出来て 田代講社が生まれた。ここの信仰は 更に進んで
同村(西谷村)大字長行に、中谷村 合馬に、同村 山東に、西谷村徳力に
それぞれに篤信家を出し、それぞれの講を結成した。明治25年 1月のことで、
これが 現在の 豊国分教会の源となっている。明治25年 11月か12月のころ、
遠賀郡 畑講社の 渡辺源太郎の親戚に
(福岡県遠賀郡)芦屋町在住の 梶原市兵衛がいた。それで 渡辺(源太郎)は 梶原(市兵衛)に教えを伝え、
更に進んで 山鹿方面に布教した。これから 明治26年の春にかけて、
漸次 教勢の伸展を見たので、
能美源太郎は これを応援することとなり、
同郡(遠賀郡)黒山、尾崎方面にも布教して 信者を得るに至った。かくて (福岡県遠賀郡)芦屋では
梶原市兵衛、中西半七、同 (中西)浅吉らが 熱心に布教し、
次々に 講社を結成した。殊に 中西浅吉は
佐賀県下に布教を試み、
唐津、入野地方に信者を得た。かくて 明治28年、玄洋布教所の設置を見た。
しかし 渡辺源太郎は、
発展とともに 信仰は 逆にいずんだので
能美源太郎が 指導の地位に立った。
朝倉郡周辺
明治25年(1892)春、
朝倉郡 三奈木村川原の 鍛冶職 伊右衛門が
松尾徳之助を訪ね、
神経患者のおたすけを請い、
松尾徳之助、大和才吉が 請われるままに出張し、
熱誠祈願の結果、病気はなおり
板屋講社を同地に設立、
また 同郡(朝倉郡)立石村に 古賀講社を設置して帰った。これが 朝倉大教会の起源である。
(福岡県)三井郡 立石村の 浜田元吉が
村の茶店で 一旅人から
「木屋瀬に 月日の神様が現われた。一度参拝して 水を吹きかければ どんな難病も助かる」
と聞いて、
奇異に感じつつも 深く心に刻んで 家に帰る。病に苦しむ人があれば
徳利に榊を立てて、遥かに 木屋瀬の天を仰ぎ
「月日の神様、木屋瀬の神様」
と念じ 水を吹きかけて
不思議に難病がなおった。
こうして出来た信者が 数百人に及んだ。ここに 千歳分教会の芽が生えた。
かくして 筑紫の教勢は、
堤丑松によって (福岡県)直方にはじまり、
木屋瀬、上津役へと伸び、
やがては 福岡県下全般へと伸び広がり、
講社は 雨後の筍のように ぞくぞく生まれた。
斯道会 第46号部内 天理教集談所設置(明治25年)
その頃
仏教の猛烈な反対にあったことから
鞍手郡の14講社、
遠賀郡の 9講社、
企救郡の 6講社、
宗像郡の 7講社
を総連合して 集談所設置の議が起こった。その所在地については、
直方町説、上津役説と 各自それぞれの意見が出たが、
結局
大地主で名望家でもある(福岡県鞍手郡)木屋瀬町719番地の
松尾徳之助宅に 神様を祀ることにきまった。ここに
「斯道会 第46号部内 天理教集談所」
の看板を 公然とかかげたのである。
時に 明治25年(1892) 5月のことであった。
筑紫と湖東大教会のつながり
筑紫と湖東大教会とのつながりは
明治24年10月、
松尾(徳之助)、能美(源太郎)、瓜生(辰平)らが
おちばに帰って
土地の中山重吉が経営する旅宿に泊まった。そこで 佐治登喜治良 (湖東大教会初代会長) に会った。
そして 佐治(登喜治良)より
諄々と 天理教の信仰の話を聞き、成程と感じ入り、
帰省して 佐治(登喜治良)が頼むべき人物であることを伝えた。これが 湖東と結ばれて 湖東の部内となった経緯である。
筑紫出張所の設置(明治25年~明治28年)
明治25年 8月に至り、
松尾(徳之助)方では 狭隘を感じるようになったので、
(福岡県鞍手郡)木屋瀬町 新町の
小波源七宅を借りうけて、
ここに集談所を移転した。ところが
当時の中心者と目された松尾徳之助は
明治25年 9月頃より健康を害し、
翌(明治)26年 4月7日に出直した。
時に 18歳の まだうら若い青年であった。その頃から 松尾家の家族も親戚も 信仰から離れ、
木屋瀬の町の多数の人が天理教を罵倒し、
ために
一時は 集談所の「つとめ」も 苦しい状況にあった。しかし 各地の信者は 漸次増加し、
小波(源七)の借家も狭くなったので、
松尾(家)所有の家屋を借り受けて 移転し、明治26年(1893) 12月23日
福岡県鞍手郡 木屋瀬町 大字木屋瀬894番地に
能美賢一郎を担任教師として
筑紫出張所設置の願書を作製し、
河原町分教会を経由して本部に願い出たところ、
12月26日「教丙 第390号 書面願之趣 聞届候事」との許しを得た。なお これまでに願い出た講社の教は 40ヵ所であった。
そして 翌(明治)27年 3月16日 地方庁の認可を得た。なお 翌 明治28年 9月25日
(福岡県鞍手郡) 木屋瀬784番地に
1反7 畝19歩の地所を買求め、
そこに 10間に6間の神殿と、8.5間に5.5間の事務所、
ならびに 井戸2ヵ所、便所2ヵ所に 四方石塀門造りの
普請を願い出、
その許しを受けて 工を起した。
能美賢一郎 初代会長~森井治三郎2代会長(明治26年~明治33年)
明治26年 能美賢一郎は
初代会長に推されたのであるが、
明治28年10月
病気のため会長を辞して、河原町の詰所に滞在し、
本部の普請工事の「ひのきしん」や、
上級 湖東に住み込んで、
「伏せ込み」の生活を 10数年間続けた。この間
上級 湖東より 役員 森井治三郎が
(明治)28年 10月12日より (明治)33年 4月26日まで
約5年間
2代会長としてつとめた。
能美信義3代会長(明治33年~大正8年)
明治33年 4月26日、
2代会長 森井治三郎の辞任により、
(能美)賢一郎の実弟 能美信義が3代会長となり、
ただちに「おさしづ」により 上津役村の家を売払って
教会に専従となる。また その年 (明治33年) 11月18日には
「おさしづ」により
福原惣太郎が 直方町より 一家を挙げて教会に住み込んだ。なお
この年 (明治33年)の12月20日付にて
筑紫は 支教会に昇格した。明治35年 3月10日に
役員 藤井貞平が 直方外町より(筑紫)支教会に移り住み、
以下 大和、渡辺、下川、立花、柳、和田、井田などが
一家をあげて 教会に移り住んだ。明治42年(1909) 2月9日
筑紫は 分教会に昇格した。
その当時 部内教会数は 42ヵ所あった。
福原惣太郎4代会長(大正8年~昭和5年)
大正8年(1919)
能美信義(3代会長)は
上級 湖東大教会に住み込み、役員となって、
筑紫分教会長を辞任し、
一家を 同(湖東)大教会に移すことになったので、
(大正8年) 5月29日
福原惣太郎が 4代会長に就任した。第1次世界大戰直後、おとずれた世の不景気のため、
天理教全体が経済的に苦しんだが、
筑紫も その例に漏れず
部内教会のことごとくが行き詰まり、
朝倉、西海、千歳、鎮西、渡瀬、大莞、北筑
といった大きい教会のほとんどが教会を解散するほかなし、
という程の危機に直面した。こうした中に会長となった福原惣太郎は
寝食を忘れて 部内教会の「修理」に奔走した。福原(惣太郎会長) の「仕込み」は
聞く人が眠って誰も聞く者がなくとも、
夜通しで続けられた。その熱と力とに
皆の者が 心より打たれたということである。大正10年(1921)より11年にかけて 客間を新築、
(大正)12年 7月
その落成奉告祭は
中山たまへ(初代真柱夫入) ならびに 当時 大阪高等学校在学中の2代真柱が臨席して、
盛大につとめた。大正12年 1月18日、
教会長、教師の「成人」と 部属教会 各個の連絡連繋を主旨として、
筑紫会 を創立し、
年に2回の部内教会の定期的教会巡回を実施することになり、また 同(大正)14年 3月1日
筑紫会 機関誌『つくし』を創刊するなど、
福原惣太郎(4代)会長に指導された筑紫は
史上に異彩を放つ 教勢の発展を遂げた。福原(惣太郎)が(4代会長) 就任の期間中に新設された教会の数は
実に、127ヵ所を数えた。こうして
福原惣太郎は 大きな功績を残したが、
昭和5年(1930) 2月8日 齢63歳で出直した。
福原一正5代会長(昭和5年~昭和28年)
5代会長に
(福原)惣太郎の長男 一正が
同年(昭和5年) 2月23日 就任した。昭和6年 1月11日
湖東大教会より分離し、中教会に昇格。ただちに
奈良県山辺郡丹波市町 川原城の旅館
清華楼の土地建物を買収して
詰所を開設した。越えて 昭和8年 7月25日
丹波市町大字田部120番地の敷地 壱千坪を買収し、
同年(昭和8年) 春より 土持ち工事にかかり、
それより3年間を要して、
同地に 3階建の詰所を建築した。なお
同年(昭和8年) 10月11日
筑紫は 中教会から大教会へと昇格し、
翌(昭和) 9年 5月11日 奉告祭を執行した。更に
昭和15年(1940) 2月26日
部内教会である朝倉は 大教会として分離。昭和16年1月12日、
西海も 大数会となり分離した。また
現在の神殿を 昭和17年 8月1日改築願出、
(昭和)19年 5月18日、
当時「いざひのきしん隊」の隊長として福岡県大牟田市三井炭坑寮に滞在中の
2代真柱の臨席を得て 鎮座祭、
翌(昭和19年5月)19日
奉告祭を 賑やかに執行した。こうした教勢の発展に尽した (福原一正)5代会長は
病身のため、
昭和28年 10月 会長職を辞任した。
福原和太郎6代会長(昭和28年~)
かわって
長男 (福原)和太郎が
昭和28年(1953) 10月27日
6代会長に就任した。(福原)和太郎は
就任早々、教会創立60周年記念祭をはじめ、
昭和32年には 教会に隣接する土地建物を買い求めるなど、
教会敷地の拡張につとめた。(筑紫大教会は) 教祖70年祭、80年祭、90年祭と
成人の旬といわれる年祭毎に 教勢の発展を、
世界だすけに向かって 着実な歩みを進めた。〔出版物〕『筑紫』月刊、昭和30年10月創刊
〔現住所〕福岡県直方市頓野3090
〔電話〕0949-24-2200(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,499〜502)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
22回目の今回は、
「筑紫大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】22回目の当記事では
『天理教事典』の中の「筑紫大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
筑紫大教会は、湖東大教会から分かれた大教会ですね。
湖東大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
「筑紫大教会」でネット検索すると、
筑紫大教会直営のサイトが見つかりました。
その中に、筑紫大教会の歴史も紹介して下さっています。
筑紫大教会の歴史を年表にまとめて下さっていて、とても分かりやすいです。
自己覚え書きとしてコピペさせて頂きます
(筑紫大教会サイト運営者様、ご了承願います m(__)m
- 【明治24】近江の布教師堤丑松による霊救に接し、福原惣太郎等入信。
直方に信者の講が出来る。
井上久吉、藤井貞平等5名が河原町を経て初めておぢばへ参拝。
河原町に信徒名簿提出。
松尾徳之助入信、6月におぢば参拝。
斯道会 信徒名簿に 第365号(直方新町講)、第366号(直方外町講)、第367号(木屋瀬講)の3つの講番が 初めて登録される。
能美賢一郎入信。 - 【明治25】講社が、鞍手、遠賀、宗像、企救の4郡に結成され、斯道会に登録される。
- 【明治26】講社を総連合し 筑紫連合集談所を設置す。
鞍手郡木屋瀬村大字木屋瀬894番地に 筑紫出張所を設立。
初代所長、能美賢一郎。 - 【明治28】木屋瀬784番地の地所1反7畝19歩を購入。
神殿建築のお願。
2代所長に森井治三郎就任。 - 【明治29】神殿落成鎮座祭執行。
- 【明治33】3代所長に能美信義就任。
筑紫出張所より支教会へ昇格、部内34ヵ所。 - 【明治34】福原惣太郎一家が教会へ住み込む。
続いて7家族が住込む。 - 【明治40】木屋瀬町の大火発生、町の大半を焼失。
神殿・事務所が奇蹟的に残り話題となる。 - 【明治42】筑紫支教会より分教会へ昇格、部属42ヵ所。
- 【明治44】朝鮮布教が実り、教会が出来始める。
- 【大正5】北海道十勝のクテクウシ(現鹿追町) の原野の開拓に 38戸70余名が参加。
- 【大正8】筑紫分教会4代会長に福原惣太郎就任。
- 【大正15】教祖40年祭。倍加運動の提唱に応え3倍加を達成。
116ヵ所を新設し176ヵ所となる。 - 【昭和5】5代会長に福原一正就任。
- 【昭和6】湖東大教会より分離し中教会へ昇格、153ヵ所。
丹波市町田部120番地に3千坪余の詰所用地購入(昭和10年4月27日筑紫詰所開所式)。 - 【昭和8】筑紫中教会より大教会へ昇格、212ヵ所。
- 【昭和15】朝倉分教会(62ヵ所)を分離昇格。
- 【昭和16】西海分教会(83ヵ所)を分離昇格。
- 【昭和19】木屋瀬神殿落成鎮座祭。
- 【昭和28】6代会長に福原和太郎就任。
- 【昭和36】隣接の酒造場の土地、建物を買収。
信者詰所・食堂・駐車場を増築のお願。 - 【昭和60】7代会長に福原正郎就任。
- 【平成2】直方市頓野3090番地に一万坪程を購入。
- 【平成7】信者棟が落成、移転を行う。
- 【平成11】神殿落成鎮座祭執行。
(天理教筑紫大教会HP>筑紫大教会の歴史 より)
年表にまとめて下さっているので、とても分かりやすいです。
ありがたい…(^^)
筑紫大教会の最初のタネは
「堤丑松」という近江の蚊帳売商人の方によって蒔かれたのですね。
明治24年に最初のタネが蒔かれて、
それが、2~3年の短期間であれよあれよという間に拡大、
あっという間に大所帯となられた。
「燎原の火」という言葉がありますが、
『天理教事典』「筑紫大教会」の解説や 筑紫大教会HPの年表などを読むと、
まさしく その言葉にふさわしいような状態だったことが分かります。
今風の言葉で言うと
「時代の風」が吹いていた…
と言えるのかもしれません。
それにしても、
「堤丑松」という方のおたすけは、凄まじいですね。
身上者の体におさづけを取次ぎ、
それが終ると 水を含んで吹きかける!
その後、すぐに
「さあ、これからすぐに風呂に入れなさい」
ですと‼
今では考えられませんが、
昔のお道のおたすけ話には、こういった武勇伝がたくさんあったと、
話には聞いたことがあります。
現代の価値観に染まってしまった私達にとっては、
何となく 眉唾もの的に受けとめてしまいがち…
しかし、そのような激しいやり方にもかかわらず、
その後に鮮やかなご守護、奇蹟を見せて頂いて、
実際にそこから大きな道が付いていっている という厳然たる事実は、
動かしようもなく存在しているわけです。
(そして、今生、天理教にご縁を頂いた者は その末裔なわけです)
つまりそれは、
そこには間違いなく何らかの不思議で神秘的なパワーが作用していたということを現している、
と言ってよいでありましょう。
「筑紫大教会」は、九州で最初の大教会。
私は『天理教事典』でしか勉強していないので浅い知識しかなく、
もしかしたら間違っているかもしれませんが、
その「筑紫大教会」の最初のタネを蒔いたのは「堤丑松」という方のようですから、
九州にお道のタネを蒔いたのは、
「堤丑松」ということですね。
その「堤丑松」という方のおたすけは、
おさづけを取り次いだ後、その人に向かって水を吹きかけ!
その後、すぐに風呂へ入らせる‼
という激しいスタイル !!(゚Д゚)!!
九州における熱い伝道スタイルは、
この「堤丑松」という方による激しいエネルギーの影響を受けたものなのかもしれない…
などと思ったりもします (^^;)
『天理教事典』「筑紫大教会」解説の中の、
第1次大戦後の記述が心に残りました。
第1次世界大戰直後、おとずれた世の不景気のため、
天理教全体が経済的に苦しんだが、
筑紫も その例に漏れず
部内教会のことごとくが行き詰まり、
朝倉、西海、千歳、鎮西、渡瀬、大莞、北筑
といった大きい教会のほとんどが
教会を解散するほかなし、
という程の危機に直面した。こうした中に会長となった福原惣太郎は
寝食を忘れて 部内教会の「修理」に奔走した。福原(惣太郎会長) の「仕込み」は
聞く人が眠って誰も聞く者がなくとも、
夜通しで続けられた。その熱と力とに
皆の者が 心より打たれたということである。
昭和20年の太平洋戦争終戦後の困窮の物語は
これまでの勉強でもたびたび拝読してきましたが、
筑紫大教会では
第1次世界大戰直後にも 激しい困窮状態となられたのですね。
短い記述だけでは具体的な内容までは分かりませんが、
「大きい教会のほとんどが教会を解散するほかなし、という程の危機に直面した」
と書かれてありますから、
余程のことだったのだと思います。
しかし、その困窮も、
福原惣太郎会長の熱と力に皆が打たれて、乗り越えた。
昨今のお道も、衰退が叫ばれて久しい状況であります。
しかし、冷静に現状を見つめてみると、
大きい教会のほとんどが教会を解散するほかなし…
という程ではありません。
筑紫大教会のそういった歴史からは、
解散するほかないと思うほど困窮しても
“大丈夫!!”
熱と力をこめて取り組めば乗り越えられる!
という教訓を学びとることが出来るかもしれません――
分をわきまえずに書き過ぎてしまいました… (^^;)
(でも、消しません… 書き直す力が残っていない (-_-;) )
ということで――
今回は「筑紫大教会」初期の歴史の勉強でした。
今回も、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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