Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号30番「島ヶ原大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号31番「堺 大教会」について勉強します。
- 堺 大教会(さかい だいきょうかい)
- おわりに
堺 大教会(さかい だいきょうかい)
堺の道明け(明治初年頃)
明治の初年、泉州堺 神明町東1丁山の口筋に
通称 鍛治源 こと 山本多三郎 という人がいた。この人は 河内国老原村の人で
旧姓を 羽田(別名 坂本) といい
堺の山本家の一女に 養子として迎えられていたのであるが、
3人の子供ができた時、妻が病死したので
長男だけを養家に残し、(山本多三郎は) 実家へ帰った。が、まもなく病気となり、
それも 医者に見離される程であった。そんな時に
ある天理教の人に 神様の話を聞き、信仰の道に入った。当時「おぢば」より 山沢良助が「おたすけ」に出向いて
じゅんじゅんと教理を説き、まもなく鮮やかに回復した。(山本多三郎は)
それからは、事ある毎におぢばへ運ぶ様になり、
同郷の高井猶吉とも心安くなり、
また、その信仰はいよいよ熱を加え
遂に 布教に立つ決心を固めるようになった。まず、長年 堺に在ったのを幸いに、
鍛冶源の親類で 宿屋町 中井常七に話をして、
この両名が協力して 熱心に布教。信徒が増えてきたので、
綾之町西六間筋に 真実講 を設け、
親神を奉祀するに至った。この人々により 天理教の話を聞かされた者は、
平野辰次郎、平井恒七、栗田竹松 等で
相継いで 信仰の道に入った。前記の諸氏のうち
平野辰次郎 及び 平井恒七(後の 神世組 講元、泉大教会初代)
の両名の信仰は 特に熱心で
堺の 道の基盤は この二人によって作られたといえる。
平野辰次郎 初代会長の入信(明治7年頃~明治12年)
(堺 大教会) 初代会長・平野辰次郎は
安政3年(1856) 10月10日
泉州堺・平野彌平、妻 ウノの
4人兄妹の長男として生まれた。14、15歳頃より 宿屋町浜の薪炭問屋へつとめ、
忠実に勤務して その信用厚く、
後、番頭となってからも 長年つとめた。明治7年(1874) 18歳の頃から、
健康がどことなく勝れず 次第に病弱となり
食事は 専ら 麩を常食とする程だった。(平野辰次郎は)
店につとめながらも 医薬の限りを尽くしたが、
その効も見えず、
親兄弟、知人のすすめるままに いろいろと信心した。その熱心さの余り、
若年にもかかわらず、
当時 荒行で有名な 能勢妙見に 百日参籠の願をかけ、
一心に題目を唱え 滝に打たれての荒行を続けた。その熱心さは、
親を始め 周囲の人々を感嘆させたという。しかし、
そのような熱心な信心にもかかわらず、
その効は いささかも現れず、
止むなく 堺へ帰り、
その後も 養生を続けながら つとめていた。その頃、
前記の 山本多三郎の「にをいがけ」をうけ
初めて 天理教の話を聞く機会に恵まれた。(平野辰次郎は)
神様の話を聞いた その日から、
不思議にも 常食にしていた麩をすぐに止めて
一時に 鰯を30匹も食べられる程になった。時に、明治12年
(平野)辰次郎 24歳の頃であった。(平野辰次郎は)
6年にも亘った長い病をたすけて頂いた喜びと感激を持って
初めて「おぢば」へ帰り、
当時「おやしき」にあった蒸風呂に入り、お話を聞いて帰った。(そして)
早速 家に神様をお祀りし
「にをいがけ」と「おたすけ」に励むようになった。
こうして、徐々に 信徒が出来てきた。ある日、教祖にお目通りした時
教祖が「堺の 平野辰次郎というのは お前かえ」とお言葉をかけて下さった。
そして、親しくお手を出されて
「私の手を握って見なされ」
と仰せられるので、(平野)辰次郎は 恐れ入ってその手を握ると
「それだけの力かえ、もっと力を入れて見なされ」
と仰られた。
そこで(平野辰次郎は) 力一杯握ったが、
(教祖は)それにも勝る強い力で 辰次郎の手を握り返されたので、
(辰次郎は) その力の偉大さに驚いた という。更に 教祖は
「歳は幾つか、ようついて来たなあ。
先は永いで、どんなことがあっても 愛想つかさず信心なされ。先は結構やで。」
と 有難いお言葉を頂いた上に
「りきもつ」を掌に下されたという。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』 68.先は永いで
堺の 平野辰次郎は、
明治七年、十九才の頃から 病弱となり、
六年間、麩を常食として 暮らしていた。
ところが、
明治十二年、二十四才の時、
山本多三郎から にをいがかかり、
神様のお話を聞かして頂いたその日から、麩の常食をやめて、
一時に 鰯を三十匹も食べられる、
という不思議な御守護を頂いた。
その喜びに おぢばへ帰り、
蒸風呂にも入れて頂き、取次からお話を聞かせて頂き、
家にかえってからは、早速、神様を祀らせて頂いて、
熱心に にをいがけ・おたすけに励むようになった。
こうして、度々おぢばへ帰らせて頂いているうちに、
ある日、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖が、
「堺の平野辰次郎というのは、おまえかえ。」
と、仰せになって、自分の手を差し出して、
「私の手を握ってみなされ。」
と、仰せになるので、恐る恐る御手を握ると、
「それだけの力かえ。もっと力を入れてみなされ。」
と、仰せになった。
それで、力一杯握ったが、
教祖が、それ以上の力で握り返されるので、
全く恐れ入って、教祖の偉大さをしみじみと感銘した。
その時、教祖は、
「年はいくつか。ようついて来たなあ。先は永いで。
どんな事があっても、愛想つかさず信心しなされ。先は結構やで。」
と、お言葉を下された。
平野辰次郎 初代会長の布教(明治12年頃~明治20年頃)
教祖にお目通り頂いて以来、
(平野辰次郎の) その信仰は益々熱心の度を加え、
明治14年 入信2年目、
辰次郎 わずか26歳にして
教祖から 朝日組 講元の許しを受けた。それ以来、
熱心な布教と不思議な「おたすけ」は随所に現れ、
教えは四方に伸び、
遠く 阿波の日和佐にまで 伝わっていった。(平野)辰次郎は その後の「おぢば」帰りの折、
教祖から
「身にさわりがついたら 用があるで、帰っておいで」
と仰せられていた。
そのような中、身上のさわりを頂いたため、
仰せに従い「おぢば」へ帰ったところ、
「次にさわりがついたならば 天の理を渡す」
と 仰せられた。
そして、2度目のさわりの時に「おさづけ」を戴いた。明治20年 旧正月26日の早朝、
(平野)辰次郎は 激しい腹痛に襲われた。何の知らせかと、早速起きて 仕度を整えて東へ急ぐと、
腹痛はぴたりと治まり、
「おやしき」に着いて門を入った時、中で 拍手の音がしていた。
丁度 午後2時頃
教祖が現身をお隠しになった時であった。
平野辰次郎 初代会長、白熱の布教(明治中期)
当時の 他宗教の 天理教に対する反対攻撃は非常に激しく、
特に 堺は、
寺町と称する地名がある程に 仏教の古刹が多く、
天理教の様に 新しい教理を説き出すと
新来者として その理非を問わず 排撃された。その様な空気の中にあって
(平野)辰次郎は 強靭な信仰を持って 終始貫き通した。ある時は
天理教を屈服せしめて一歩も中へ入れまいと
諸方の村の有力者、弁舌家、 神官、僧侶達が待ちかまえている中へ
敢然として飛び込んで行って 説伏し
「諸君、明日から大手をふって当村へ来ますぞ」
と 大気焰を吐き、
並び居る者を 瞠若たらしめたことも 幾度か知れない。この様に
命がけともいうべき (平野)辰次郎の 白熱的な布教によって、
さしもの固い殻に包まれたような 堺にも
天理教は目覚ましく広がり、
(平野)辰次郎によって救われ、その徳を慕って集まる者が
次々と 出来てきた。(平野)辰次郎は
入信前からの商取引の関係で 阿波の日和佐へ赴いていたが、
明治17、18年頃に
たまたま その地で 寺島実三郎(日和佐分教会2代会長) に匂いがかかり、
道がついてからは 頻繁に日和佐へ足を運んで 教線を伸ばし、
信者を増やしていった。
堺 支教会の設立(明治21年頃~明治25年)
明治21年 天理教会本部の設立がなされ、
各地で教会設置出願がなされ出すと、
堺に於ても 教会を設立する機運がみなぎった。(そして)
当時あった 朝日組と神世組が 合併し
「堺 支教会」を設立する相談が成った。(それを受けて) 両組の役員等が奔走。
綾之町大道に かなり大きな家を求めた。
(それは) 土地280坪付で 240円であった。当時、(平野)辰次郎は
日和佐へ行き、
日和佐の教勢を固めるべく 殆ど詰め切りで あった。従って、
堺では、神世組の 平井恒七が 会長格で
諸準備が進められていた。ところが この準備中に、
本部から 前川菊太郎が出張して来て、その意向が伝えられた。(そして)
本部の意向と 一同の協議とによって、
堺 支教会長には、
(平野)辰次郎が 就任することに決まった。
(平野)辰次郎は、
日和佐の後任を 寺島に定め、堺へ帰って来た。かくして、
明治23年 5月1日 いよいよ (堺 支教会設立を) 本部へ出願、
明治23年 5月2日 「おさしづ」によって 許しを受けた。
(そして 堺 支教会として)
先の建物に(加えて) 更に 3間に3間の神殿を建築した。かくして
明治25年 4月1日、
初代真柱を始め、前川菊太郎、永尾猶治郎、高井猶吉、増野正兵衛らの臨席のもとに、
(堺 支教会) 遷座祭 及び 開筵式が 厳粛に執行された。なお 当時の教勢は
ほとんど 全堺と、
北は 住吉安立町、
東は 五ヶ荘、住道、油上などにまで及び
この祭典には
市内はもとより 近郷の信徒が雲集し、盛大を極めた。
堺の道の広がり(明治26年頃~明治34年頃)
(堺 支)教会設置以後、明治26、27年頃には、
後の2代会長・南野好松を始め
「天理教専務」の精神を定める人々が相次いで入信した。(堺の道の) 伝道線は 広島、下関から 北九州へと伸び、
(平野辰次郎) 初代会長が
明治34年3月30日 40歳を以て、
「たすけ一条」の熱烈な生涯を終えるまでに
12ヵ所の 教会設置の実を結んだ。(明治34年 3月30日、
平野辰次郎 初代会長、40歳を以て出直し)
南野好松の入信(明治23年)
2代会長・南野好松は
明治5年 2月20日
堺の 南野浅吉の長男として生まれた。父は
ある事情のため 数年間 家を不在にしていた。(南野好松は)
長男として、母クニと共に
4人の弟妹を養育する責任を負って 苦労した。明治23年、19歳の時、
五ヶ荘村の集談所へ参拝してから、
生来 厚い信心の持主であった所から、
家の「因縁」と 天理教の教理を深く心に悟って
明治25年
堺支教会 開筵奉告祭が行われた後に
早くも
生涯を「神一条の道」に捧げる精神を定めていた。
南野好松の布教(明治23年~明治27年頃)
そして、
紡績会社に勤務して 家計を助けつつ
教会へ絶えず通い
(平野辰次郎) 初代会長から仕込みをうけ、
南野好松は 近郷へ「おたすけ」にも回っていた。止むに止まれぬ信仰心にあふれる (南野)好松は
23歳の若年を以て 単身布教に出る決意をし、
(平野辰次郎) 初代会長の許しを得て
広島県 加茂郡三津町で働いている 泉谷久吉を頼って
海路 三津町へ向ったのは
明治27年 11月16日の事であった。当時から真宗の金城湯池と言われ、
また 安芸門徒の名で知られる 広島の地での (南野)好松の布教は、
筆舌に尽せぬ 艱難苦労であった。その中を「たすけ一条」の信念で 猛烈な反対の中を通り切り
三津町、三津口、吉名、風早等の漁村で
次々と 救けがあがった。
更なる 堺の道の広がり(明治27年頃~明治30年代)
(南野)好松の 広島布教と相前後して
北浦市松が
泉南郡 及び 紀州方面へ布教を始め、
袋谷ミネが
単身、女の身を以て 下関へ 天理教伝道の種子をおろし、
それ等の真実は
数年間に相次いで
大阪府内、広島、下関、北九州に 教会設置の実を結んだ。
南野好松2代会長就任、平野姓へ(明治34年~明治40年)
明治34年
(平野辰次郎) 初代会長の出直によって、
本部から整理員として、高井猶吉が 約3年間 堺の世話をしたが、
後任教会長を定めるべく 紆余曲折の結果、
広島布教中の (南野)好松を2代会長に就任させる事に決定し、
明治37年 4月21日 本部の許しを受けた。(南野好松)2代会長には 苦労が次々と起ったが、
その中を「誠真実一条」で進み、
明治40年 8月に
(好松は) 平野姓を継承した。
平野好松2代会長時代(明治37年~大正15年)
(南野好松)2代会長就任当時は、
教会内部の事情や 経済的困難等が累積していたが、
2代会長の「誠真実」の前には それ等の諸問題も 次第に氷解した。(南野あらため平野好松)2代会長によって
堺の道は 輝かしい「往還」の道あけとなった。
神殿普請のふし(明治44年~明治45年)
明治42年1月8日
(堺 支教会は) 分教会へ引直しとなる。明治44年に至って 神殿の本建築にかかることとなり、
現在の 堺市 北庄野1丁目19番地に
1,500 坪の敷地を購入して
翌年(明治45年) 早々より 移転新築にとりかかった。大工棟梁と共に材木が 日和佐から寄進され、
部内教会長 及び 信徒一同の 連日の「ひのきしん」によって、
勇んで普請にかかり、めでたく上棟式を終えた。(ところが)
ものの一夜の強風で、(それが)倒壊してしまった。このことによって、(平野好松)2代会長は、
「ぢば」に理が立たず (これを) 自らの不徳と「さんげ」して
本部に理を立てる決意を新たに、
再上棟し、懸命の努力を以て(取り組んだ。)(その結果)
その年(明治45年) の11月には(神殿は) 竣工し、
翌12月に 落成奉告祭が挙げられた。
教祖殿普請と大阪教務支庁普請(大正6年~大正7年)
大正6年には 教祖殿が竣工し、
大正7年 (平野好松)2代会長は
大阪教務支庁主事拝命中 庁舎の移転新築工事について
松村支庁長より 普請委員を命じられ、
小松駒吉と共に 丹精こめて その大任を果たした。
教勢拡大(大正10年頃~大正15年)
大正10年
教祖40年祭の打ち出しと共に
時旬の理に添って 続々と 教会が新設された。大正11年 4月24日 創立30周年記念祭執行。
同(大正)12年 11月28日
(平野好松)2代会長は 本部准員を拝命した。同(大正)15年 1月には 教祖40年祭が執行され、
この折、
堺においても 教勢は著しく伸展し、54ヵ所の教会新設を見た。大正15年 10月29日
3代会長に平野義太郎が就任し、
(平野好松)2代会長は 本部専従となった。
平野義太郎3代会長時代(大正15年~昭和39年)
平野義太郎は、
明治32年 3月28日
南野好松・コトの長男として 広島県下に出生。堺の錦小学校を終え 天理中学校に進み、その卒業の時に
(平野好松)2代会長より、
実の親子としての縁を切られ、改めて、理の親子として結ばれた。単独布教師と共に東京に出、苦学の末 早稲田大学を卒業、
直ちに教会に入り、
大正15年10月29日、
28歳で 会長に就任したのである。
広がる教勢(昭和初期)
昭和2年(1927)、客殿及び講堂、役員室、事務室 建築、
同年(昭和2年) 10月30日 「堺中教会」と改称。同(昭和)3年 1月26日
(平野好松)2代会長は 天津伝道庁長拝命、
続いて 満州伝道庁長をも拝命。これを兼任し、
その 4年間の在華中の丹精が実り、
天津誠華分教会の設置をみた。
放火の節を乗り越え、新たな神殿の普請(昭和8年)
昭和8年 9月25日
突如として 放火魔のために
神殿 及び 教祖殿、炊事場等の建物が
一瞬の間に烏有に帰した。しかし、この事件に屈する事なく、
会長を芯として、全部内は更に奮起して
焼跡の片づけも終わらぬ中に、
早くも その月(9月)から 仮神殿の建築にかかり、
(昭和8年) 10月22日には 前教堂大の建物を竣工し、
本部員 梶本宗太郎祭主のもとに 遷座祭を執行した。,(昭和8年) 同月(10月)23日
(平野好松)2代会長は 本部員を拝命した。
平野好松2代会長の出直し(昭和14年)
(平野好松)2代会長は、
昭和14年 10月24日 秋季大祭々典後、
役員 及び 全教会長に対して 懇々と「ちば一条」の理を仕込み、
月明けて 11月4日、
「ぢば」において出直した。
戦前(昭和12年頃~昭和16年頃)
この間、(平野)義太郎は、
昭和12年 12月 天理小学校長拝命、
同(昭和)14年 北海道教務支庁長を拝命している。昭和15年 1月23日、
堺は、大教会に昇格した。また、(平野)義太郎は
(昭和)16年 京都教務支庁長を拝命している。
太平洋戦争前後(昭和16年頃~昭和22年頃)
昭和16年 12月、日本は 太平洋戦争に突入、
同(昭和)20年 4月、(平野義太郎3代)会長が 応召された。また、
爆撃により、(堺)大教会は 旧事務所と平家一棟を残し、全焼した。昭和20年 8月15日、ついに終戦となった。
(平野義太郎3代)会長は この日を北朝鮮の地で迎え、
その後ソ連に抑留された。昭和21年1月26日、
教祖60年祭が「おぢば」にて執行され、
同年(昭和21年) 4月16日、
(堺)大教会においても 教祖60年祭を執り行なった。祭典後、大教会復興普請の計画を打出し、
部内巡教が開始された。戦火の打撃を蒙った部内教会長も
自らの教会を省みる暇もなく大教会普請に涙ぐましい真実を捧げ、
打ち出しの翌年(昭和22年) には
神殿、付属建物 約120坪の建物が完成した。かくて 昭和22年11月14日、
真柱の臨席のもとに鎮座祭、翌15日には 落成奉告祭を行った。その完成の喜びの未だ消えぬ 同月(11月)28日
(平野義太郎)大教会長が 突然無事帰還して、
部内一同は
久々に 芯を迎える喜びと感激に包まれたのである。
戦後復興(昭和25年頃~昭和39年)
昭和25年 4月18日 教祖御誕生祭の佳日、
(平野義太郎3代)会長は 本部員を拝命した。昭和30年 12月25日 教祖70年祭式典の願書を出す。
この時 部属教会 89ヵ所。昭和33年 11月8日 神殿建築のため 遷座祭の願いをし、
昭和38年 5月26日 建築模様替願をした。また同(昭和)38年 8月26日 詰所建物移動及び改造願を提出した。
同(昭和)38年 10月6日 鎮座祭、翌7日 奉告祭を執行した。
平野義一4代会長の就任(昭和39年~昭和45年頃)
昭和39年 2月26日、
(平野義太郎)3代会長辞任により
平野義一(昭和6年1月11日生)が 4代会長に就任。その奉告祭が
同(昭和)39年 11月8日に執り行なわれ、
あわせて創立74周年記念祭を行なった。昭和44年 9月26日、
付属建物増築 並びに 移動 及び 塀改築願 が提出され、
本部の許しを得て 直ちに着工、
昭和45年 4月15日に竣工した。昭和45年 4月22日、
建築模様替の願が提出され、許されると 直ぐに着工、
鉄骨造洋瓦葺客室 及び 教職舎、
1階 102.54坪、2階 99.82坪 の建築が、落成した。〔現住所〕〒591-0024 大阪府堺市堺区向陵中町3丁目1番1号
〔電話〕072-252-2301(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,368〜371 )
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
31回目の今回は、
「堺 大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】31回目の当記事では
『天理教事典』の中の「堺 大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
自分の頭を整理するために、
『天理教事典』に書かれた「堺 大教会」の歴史を
箇条書きにしてみます。(敬称略)
【堺 大教会の歴史】
- 明治初期、河内老原生まれの山本多三郎が、
妻の病死に伴い、泉州堺 神明町の養子先から 実家(河内老原村)へ帰ったが、
重病になった。
そんな中、天理教の話を聞いて感銘を受け入信。
おぢばから 山沢良助がおたすけに出向き、
鮮やかにご守護を頂いた。 - その後、山本多三郎は、
事ある毎におぢばへ運ぶ様になり、
同郷の 高井猶吉と親しくなった。 - 山本多三郎は、河内の生まれではあったが、
堺へ養子に出ていたこともあって、
泉州 堺方面で布教を展開。
堺の綾之町で「真実講」を結成した。 - 山本多三郎が開いた「真実講」に、
平野辰次郎や 平井恒七らが 参拝するようになり、
後年、それぞれ 堺、泉大教会の基礎を築いた。 - 平野辰次郎は、14、15歳頃より
宿屋町浜の薪炭問屋へつとめ、
忠実に勤務し信用厚く、番頭となる程だったが、
明治7年 18歳の頃から、
健康がどことなく勝れず 次第に病弱となり、
食事は 専ら 麩を常食とする程だった。 - 平野辰次郎は、店につとめながら医薬の限りを尽くし、
様々な信心にも熱心に取り組んだ。
しかし、回復の兆しは見えず、
堺で 養生を続けながら 店の勤めを続けていた。 - そんな中、明治12年 平野辰次郎 24歳の時、
山本多三郎のにをいがけを受け、
初めて 天理教の話を聞いた。
平野辰次郎は 神様の話を聞いたその日から、
不思議にも
常食にしていた麩をすぐに止めて一時に鰯を30匹も食べられる程に 回復した。 - 6年にも亘った長い病をたすけて頂いた喜びと感激から、
平野辰次郎は 初めておぢば帰りし、
その後、自宅に神様をお祀りし、布教に励むようになった。
おぢばがえりする中で、教祖へのお目通りもかない
「先は永いで。どんな事があっても愛想つかさず信心しなされ。先は結構やで。」
とのお言葉も頂いた。
日に日に 平野辰次郎の信仰は 白熱の度を加え、
明治14年 入信2年目、辰次郎 わずか26歳にして
教祖から「朝日組」講元の許しを受けた。 - 平野辰次郎の熱心な布教と 不思議なおたすけは随所に現れ、
教えは四方に伸びた。
明治17、18年頃には、入信前からの商取引の関係で赴いていた
徳島県の日和佐方面で、
寺島実三郎(日和佐分教会2代会長) に匂いがかかり、
遠く 阿波の日和佐にまで 教えが伝わっていった。 - 明治21年 天理教会本部の設立に伴い、
各地で 教会設置出願がなされ出し、
堺に於ても 教会を設立する機運がみなぎった。
そして、
当時、堺にあった平野辰次郎の「朝日組」と平井恒七の「神世組」を合併して
「堺 支教会」を設立する
ということで相談がまとまった。 - 明治22、23年頃「堺支教会」設置する計画が進められたものの、
「朝日組」と「神世組」両講の意見が一致しないため 分裂。
平井恒七は、
元の「神世講」の信徒を集めて「光道講」を起こした(後の泉大教会)。 - 当時、平野辰次郎は
日和佐の教勢を固めるべく殆ど(日和佐に)詰め切りで、
堺では「神世組」の平井恒七が会長格で諸準備が進められていた。
しかし、本部の仲裁もあり、
堺 支教会長には、平野辰次郎が就任することに決まった。
平野辰次郎は、日和佐の後任を寺島に定め、堺へ帰って来た。 - 明治23年 5月1日、堺 支教会設立を本部へ出願し、
翌5月2日明治25年 4月1日、
堺 支教会の遷座祭 及び 開筵式が執行された。 - 明治23年頃、19歳の南野好松が、家庭の事情から堺系列の五ヶ荘村の集談所へ参拝。家の因縁と天理教の教理を深く心に悟り入信。明治25年の堺支教会開筵奉告祭が行われた後には、生涯を神一条の道に捧げる精神を定めた。
- 堺 支教会設置以後、
明治26、27年頃には 道専務の精神を定める人々が相次いで入信。
堺の道の伝道線は 広島、下関から 北九州へと伸び、
平野辰次郎 初代会長が出直すまでに 12ヵ所の教会が設置された。 - 明治27年 11月16日、23歳となった南野好松は、
平野辰次郎 初代会長の許しを得て、
広島県加茂郡三津町へ単独布教に出た。
安芸門徒の名で知られる広島の地で
南野好松の布教は筆舌に尽せぬ 艱難苦労であった。
しかし、南野好は、松猛烈な反対の中を たすけ一条の信念で通り切り、
三津町、三津口、吉名、風早等の漁村で
次々と おたすけが繰り広げられた。 - 南野好松の 広島布教と相前後して、
北浦市松が 泉南郡 及び 紀州方面。
袋谷ミネが、単身女の身を以て下関。
それぞれに布教を展開し、それ等の真実は数年間に相次いで、
大阪府内、広島、下関、北九州に 教会設置の実を結んだ。 - 明治34年 3月30日、平野辰次郎 初代会長が、40歳を以て出直した。
- 平野辰次郎 初代会長の出直しによって 会長空席となったため、
本部から高井猶吉が派遣され、約3年間、堺の世話取りを行った。 - 紆余曲折の結果、
広島布教中の南野好松を2代会長に就任させる事に決定し、
明治37年 4月21日 本部の許しを受けた。
南野好松は、明治40年8月に平野姓を継承し、平野好松となった。 - 平野好松2代会長就任当時は、
教会内部の事情や 経済的困難等が累積していたが、
2代会長の誠真実により、それ等の諸問題も次第に氷解していった。 - 明治42年1月8日、支教会から 堺分教会へ。
- 明治44年に至って 神殿の本建築にかかることとなり、
堺市 北庄野1丁目19番地に1,500 坪の敷地を購入し、翌明治45年より 移転新築に着手。
上棟式まで進んだところで、一夜の強風で、なんと それが倒壊してしまった。 - 普請中の神殿が倒壊する姿を受けて、平野好松2代会長は、
これを自らの不徳とさんげし、本部に理を立てる決意を新たに再建に着手。
再上棟にこぎつけ、その後も、懸命の努力を以て取り組んだ。
その結果、同年(明治45年)11月、神殿竣工。翌12月に 落成奉告祭を執行した。 - 大正6年、堺分教会 教祖殿 竣工。
- 大正末期には、続々と教会が新設され教勢拡大。
大正15年の教祖40年祭の際には、54ヵ所の教会が新設された。 - 大正15年 10月29日、平野義太郎が3代会長に就任。
(平野好松2代会長は本部専従に) - 昭和2年 10月30日、分教会→「堺中教会」へ。
- 昭和8年 9月25日、神殿 及び 教祖殿、炊事場等の建物が放火され 焼失。
しかし、この事件に屈する事なく、会長を芯として全部内が奮起。
焼跡の片づけも終らぬ中に、早くも その月(9月)から 仮神殿の建築にかかり、
昭和8年10月22日には 前教堂大の建物を竣工。遷座祭を執行し、見事に復興した。 - 昭和14年 11月4日、平野好松2代会長が出直した。
- 昭和15年 1月23日、堺中教会から、堺大教会へ昇格。
- 昭和20年 4月 平野義太郎3代会長が太平洋戦争へ応召。
太平洋戦争の空襲により、旧事務所と平家一棟を残し、大教会は全焼した。 - 戦火の打撃を蒙った部内教会長らは
自らの教会を省みる暇もなく大教会普請に涙ぐましい真実を捧げ、
昭和22年、神殿、付属建物 約120坪の建物が完成。
昭和22年11月14日、鎮座祭、翌15日、落成奉告祭を執行。 - 昭和22年11月28日、平野義太郎3代会長が、ソ連抑留から無帰還。
- 昭和39年 2月26日、
平野義太郎3代会長辞任により、平野義一4代会長就任。
当記事では
『天理教事典』の中の「堺 大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。
「堺支教会」を設置する際、
「朝日組」と「神世組」を合併したあたりの経緯がよく分からなかったので、
『天理教事典』1977年版の「泉大教会」の解説も 読んでみました。
その中には、次のように書かれてありました。
明治22、23年頃
堺支教会設置を計画、
神世講と朝日組と合併し その計画を試みたが、
両講の意見が一致しないため
分裂という結果に終わった。平井恒七は
(『天理教事典』1977年版 P,47 より)
直ちに 元の神世講の信徒を集めて 光道講を起こし、
自ら講元となって布教に従事し、
遂に 堺市並街町128番屋敷に、
仁田利衛門、土師兼松、藤原利三郎、久野徳松 総代となって、
明治25年(1892) 2月4日、
天理教 泉支教会設置の許しを得た。
平野辰次郎 初代会長が、
堺支教会 設立当時、なぜ 日和佐にかかり切りだったのか 分からなかったので、
『天理教事典』1977年版の「日和佐分教会」の解説も 読んでみました。
明治23年(1890)
堺において 教会設置の機運が訪れ、
朝日組は、同じく堺にあった神世組と合併し、堺支教会 設置の運びとなり、
平野辰次郎は 会長に推され、
同年(明治23年) 5月2日付をもって 本部の許しを得た。しかし、地方庁が不認可となって、
再々の出願も 功を奏さず、
辰次郎は やむなく 日和佐での教会設置を図り、
日和佐支教会長として、堺と日和佐を かけもちで 教務に奔走した。(日和佐支)教会設置後も、ますます信者は増加し、
自ずと新築の議が起こり 着手したが、
本部の許しを得ていなかったため 普請は順調に進まず、
失敗に終わった。次に「おさしづ」を仰いで 再び普請にかかったところ、
工事は 何の支障もなく進み、完成し、
明治25年(1892) 11月6日、
日和佐支教会の開筵式が、盛大裡に挙行された。かくするうち、
(『天理教事典』1977年版 P,712~713 より)
堺(支教会)も 地方庁の認可を得、
平野辰次郎は 堺専務となり、
(日和佐)2代会長には、副会長であった 西川(寺島)実三郎が、
同年(明治25年) 12月12日付をもって 就任した。
『天理教事典』は 各教会ごとに 違う先生が執筆されているからでしょう、
いろいろと相違点がありますね。
しかし、当ブログは 正確性はあまり重視しておりませんので、
細かい部分の掘り下げは行いません。
教会が誕生した頃の、何となくの雰囲気を感じられれば、
それで良しとしたい と思います。
それにしても、
堺大教会は、3回も(!) 神殿を失う節に遭遇しておられたのですね… (*_*)
1回目が 明治42年。
平野好松2代会長時代。
上棟式まで進んでいたのが、一夜の強風で 倒壊してしまわれた。
2回目が 昭和8年。
平野義太郎3代会長時代。
放火によって、これも 一夜の間に 焼失してしまわれた。
そして、3回目が 昭和20年。
これも 平野義太郎3代会長時代(平野義太郎3代会長は兵役招集され従軍中)。
空襲により、これまた 焼失してしまわれた。
教会の拠り所とも言える神殿を失ってしまう
という 大きなを「ふし」 を、
3度も‼ 経験しておられる… (´゚д゚`)
しかし、堺大教会は、
その都度、
その大節を見事に乗り越え、
そのたびごとに 大きく成長してこられた。
そのような苦難の歴史を乗り越えてきた、という歴史を知って
今の 壮大な堺大教会の神殿を拝見させて頂くと、
感慨深さ ひとしおです。
先人先生方の伏せ込みの上に 今の結構さがある、
という道の教えを、改めて 感じさせられる気がします。
その他のことも含め、
今回もまた、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「堺 大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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