Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
当シリーズ前回は、
教会番号17番「水口大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号18番「中河大教会」について勉強します。
中河大教会(ちゅうか だいきょうかい)
中河大教会のはじまり(明治6年頃〜明治22年頃)
中河大教会 初代会長は、山本利三郎であり、
2代会長は 板倉槌三郎である。山本利三郎は 柏原村の出で、
明治6年(1873) 夏、24歳の時入信し、
以来 神恩報謝の一念に燃え 河内一円に布教した。一方、恩智村の板倉(槌三郎)は、
明治9年 17歳の時 入信した。以後、親族家族反対の中、忍んで 布教に奔走した。
元来、河内の土地は「おぢば」に近い関係上、
天理教の伝播は早く、各村々で それぞれ信者が講を結んでいた。河内に天理教の種子がおろされた明治初年から、
すでに10数年の歳月が流れた頃には、
信者の数も続々増加し、講社の数も著しくふえた。明治21年(1888) 教会本部が設置されるや、
河内の各講社もこれを統括する「参り場所」を設けようとの気運が高まり、
明治22年には教会設置の動議が起こり、
教会の所在地を
恩智か教興寺か、または老原か
いずれにすべきか と神意を伺っている。ところが神様は、どこにせよ とも仰せられない。
いろいろ協議の結果、
山本の希望もあって、一同の者が教興寺村で 高安分教会を設置することにして、
各講元信者は 皆その名簿に連署した。かくして高安分教会が設置出願されたのではあるが、
何と言っても 系統的に異なる各講社の集まりであるため、
なにかにつけて、しっくりしないようなことが生じてきた。すなわち
「我々は 最初 山本利三郎様によって救けられ 導かれたのだ。
ぜひ 山本様を中心とし、山本様を親として立てねばならぬ」
との声が起こってきた。かくて だんだん問題が生じてきたので、
本部より 高井猶吉、平野楢蔵が仲裁に入り、
いろいろ折衝した結果、
高安側と恩智側とに分けることとなった。そして 同年秋、すなわち明治22年(1889) 10月、
山本利三郎の郷里 柏原村に、
柏原集談所を設けて 一団となり布教伝道することとなった。これが 中河大教会の始まりである。
中河分教会の認可(明治23年頃〜明治25年頃)
かくて 山本利三郎を中心として、
柏原集談所を設けた各講社の人達は 白熱の信仰をもって布教活動に邁進し、
翌明治23年(1890) 3月17日
柏原村の山本宅に、
山本利三郎を会長として、柏原分教会 設置をみた。ただちに大阪府庁へ出願したところ、
不幸にして却下になった。けれども 一同 あえて悲観せず、
なんでもどうでもの精神で 再願の前後策を講じ、
同年(明治23年) 12月1日 柏原分教会の名義を 志紀分教会と改称し、
府庁へ再願したところ またもや却下となった。翌 明治24年 1月に 3度目 府庁へ出願したが、
これまた不認可となった。信仰に燃える当時の各講社の人達の失望落胆は
相当なものであった。かくて 明治24年も 秋となった。
再三の願書却下にも屈せず
各講社の人達の白熱の信仰と、やむにやまれぬ初志貫徹の熱望は、
折しも 病に臥していた板倉槌三郎を会長に立てて、
再び 教会設置 公認申請の議へと ことを運んだ。そして 協議の結果、
板倉は恩智の人であるため、場所も恩智村に移転することにし、
また 名称も
恩智は 河内の真ん中であるところから「中河」としては
と満場一致で決議され、明治24年(1891) 12月18日、
場所は恩智、
会長は神様のお許しの 山本利三郎、
地方庁出願についての担任は 板倉槌三郎、
名称は 中河分教会
と改めて許しを得て、
翌 明治25年 1月9日 大阪府庁へ出願したところ、
同月(1月) 23日付で 大阪府知事より認可された。思えば 明治22年 10月、柏原に集談所を設けてより 2年2ヵ月を要し、
出願回数 4回に及んでいる。かくて 中河分教会は、ここに発足したのである。
中河分教会内の分裂(明治25年前後)
教会設置の認可を得た中河分教会は、
ただちに建築に着手し、
明治25年(1892) 11月27日より 3日間にわたり、
盛大な 鎮座開筵奉告祭を行った。祭典はめでたくすんだのであるが、
その後 教会内に2派が生じてきた。それは
山本(利三郎) に付随する信徒と、
板倉(槌三郎)を信頼する信徒とが、
互いに 感情の円満を欠いてきたためである。「一手一つ」が神の望み との言葉に反した結果、
中河は
実にその後 惨澹たる状態に急変した。参拝者など 遂に皆無となり、
教会維持も立たず 日毎に淋しく困窮して、
遂には 表門を閉じ、
借金のため 1升の米を買うにも不自由を感じるようになり、
門前の小川で枯柴や薬くずを掻き上げて、翌朝の粥を炊く
という有様となった。丁度その頃、
初代真柱が 関西線での車中で、
「なんと恩智の天理教も、去年ふしんをしたけれど、今度マッチの製造小屋になるそうやないか」
との話を聞き、
これは捨ておけない と
帰和後 ただちに協議の上、
前川菊太郎を中河へ派遣した。そして 山本(利三郎) 、板倉(槌三郎)の両名を
共に本部に引揚げ、本部専従とした。
前川菊太郎3代会長時代(明治26年頃〜明治30年頃)
明治26年 5月2日、
前川(菊太郎)が 3代会長となって
中河を預り治めることとなった。かくて分裂衰退に傾いた中河も、
前川(菊太郎)会長によって、生気復活し、
一致団結の緒についた。すなわち、中河部内の各講社講元は 蹶然として起ちあがり、
教会設置の出願も見られるようになった。
現在の中河直属教会の主なるものは、
殆ど その頃に設立されたものが多い。越えて 翌 明治28年(1895)7月、
檜皮葺教祖殿と客室を増築、
翌(明治)29年 3月
信者一同歓喜の裡に 落成の盛典を挙げ、
前川(菊太郎)会長 祭主のもとに 教祖10年祭を執り行った。実に この頃は 一同勇み切り、
中河は 一つの節を越し、
芽が出た喜びの旬であった。明治29年(1896) の春、
中河が喜びに満ちている時、
突如 内務大臣より全国警察署に対し、
天理教取締りの訓令が発せられた。それは 実に 峻烈を極めたものであった。
この訓令と相前後して、
同年(明治29年) 末、
前川(菊太郎)会長は 本部役員の辞意を表し (明治32年2月辞職)、
郷里三味田に引退した。またしても ここに
一つの「節」(ふし)に遭遇したのである。
桝井伊三郎 会長事務取扱者 設置時代(明治30年前後)
心の柱と頼む 前川(菊太郎)会長を失ったため、
役員教師の中には 信仰の動揺から、
教会長を辞し、さらには 信仰を離れる者が続出し、
中河は ここに再び 苦境に陥らねばならぬ情勢となった。そこで 教会本部では会議が開かれ、
明治30年(1897) 12月2日
整理員として、桝井伊三郎、喜多治郎吉、増野正兵衛の3名を派遣、
部内一般を「修理」することとし、
桝井(伊三郎)を 中河分教会長事務取扱 として任命した。この結果、
前川(菊太郎)会長の引退や、秘密訓令の事情で
不安と動揺を感じていた者も 全く安堵し、
勇んで 信仰を続ける者が増加し、
部内一般に 本部の修理が浸透した。かくて 一般の落着と整理がついたので、
その頃 中河分教会副会長であり 石川分教会長の 田中松二郎を、
中河分教会4代会長に定めることとし、
ここに 事情は全てかたずき 整理員は 本部へ帰った。
田中松二郎4代会長時代(明治31年〜大正15年頃)
田中松二郎の入信は、
明治16年(1883) 夫人 みつ子の 胃病からである。入信した (田中)松二郎は
明治23年 3月、柏原分教会 設置出願の際には、
すでに信徒総代として 奔走連署していた。また 中河の会計係として尽力し、
交通不便の千早村と恩智村との10余里を 常に往復したのである。そして、明治31年(1898) 12月7日、
(田中松二郎は)中河分教会4代会長の許しをえた。田中松二郎会長の円満な人格と、天与の徳望とにより、
創設当初より紆余曲折、波瀾万丈の節の多かった中河分教会も、
ここに安穏に治まり、教勢は日をおって隆盛となり、
就任当時31ヵ所の教会数が、
28年後の教祖40年祭当時には 192カ所に達するようになった。明治39年(1906) 教祖20年祭頃、
中河は 教会数51カ所であった。1年を経て 天理教の一派独立許可となったので、
教規の定めるところにより、中河教会と改称された。これにともない 部内教会も
古い教会名称を復活するもの、部属教会の昇格改称するもの、新設するものなど漸次増加し、
教勢は進展してきた。同(明治)43年には 婦人会中河支部を結成し、
(明治)44年には 奥座敷を建築した。いまや 部属教会80余ヵ所、教師640名、授訓者2,300 余名となり、
教会として内容、外観の整備も出来てきたので、
時の大阪教務支庁長 井筒五三郎の勧めにより、
大正5年(1916) 1月22日、大教会昇格の許しを得、
同年(大正15年) 4月21日 昇格奉告祭を執行した。(大正15年) 翌(4月)22日には、
中河の教祖30年祭を執行している。大正10年 10月、教祖40年祭執行の諭達が発せられ、
教内挙げて 画期的な活動を展開した。これより先 大正8年 5月、
清水巳之助が 中国青島に 大青教会を設置した。
これは 中河では初めての海外教会である。また、翌 大正9年 4月21日、
田中善永を分会長として、青年会中河分会が発足している。教祖40年祭 境内拡張整備のため、
従来の詰所敷地を本部へ献納し、
詰所を 田部5番地へ移転した。詰所移転工事中の頃より、
全教に 教勢倍加の空気が膨湃として湧き起こり、
別科生、教会数共に 急激な増加を示した。大正15年(1926) 教祖40年祭を奉仕し、
(田中)松二郎会長夫妻の金婚式もめでたく終了した後、
(田中松二郎)会長は
後継者 善永に 大教会長変更の意向を洩らした。
田中善永5代会長時代(昭和2年〜昭和15年)
役員一同も異議なく、種々万端 手続きを経て、
昭和2年(1927) 7月25日許しを得て (田中)善永は5代会長に就任し、
同(昭和2年) 10月21日 就任奉告祭を挙行した。ところが その年(昭和2年)の幕、
図らずも (田中) 松二郎4代会長は 71歳で出直した。その後、(田中)善永会長の 在職13年間を顧みると、
両親の出直、教祖50年祭、立教百年祭のため、再び中河詰所の移転、大教会移転候補地2町歩買収などがあり、昭和15年 1月には
部内教会の神川が分離して 大教会となった。(田中)善永(5代)会長は
福岡、大分、佐賀、長崎、奈良の教務支庁長を歴任するなど 教務多端となったので
昭和15年 田中善右衛門に会長を譲った。その後 (田中)善永(5代)会長は
昭和17年 4月 本部員に登用されて、一層本部につとめ
昭和28年2月28日、75歳で出直した。
田中善右衛門6代会長時代(昭和15年〜昭和22年)
昭和15年 8月30日
田中善右衛門は6代会長に就任した。翌(昭和)16年 8月6日
此花分教会が分離して 大教会に陞級した。この頃は、第2次世界大戦で、詰所は海軍予科練に接収されたので、
中紀詰所に移転合併した。(中河)大教会も 一室を 疎開してきた聾啞学校に提供、
(田中善右衛門)大教会長も 海軍へ招集されることとなった。当時 中河では、
戦災教会のうち全焼28ヵ所、死者4名、強制疎開8ヵ所、海外引揚教会2ヵ所、布教所の戦災6ヵ所であった。終戦となり、昭和21年 2月21日、
(中河)大教会においては、
すべて「復元」の諭達に基づいて 教祖60年祭を盛大につとめ、
戦後の布教活動に精進した。(田中善右衛門 6代)会長は、
同年(昭和21年) 9月 海外引揚者の母子家族を援護すべく、
大教会信徒室に 母子寮を設置し、福祉事業を始めた。
これが 今日の 母木(おものぎ)保育園の前身である。(田中)善右衛門会長は、
天性快活磊落、常に率直に語り、部内教会の先々に至るまでも心を配り、
気軽に 一人 予告なしに端々の教会を訪問、部内教会の実情を知り、
教信者に敬慕された。しかるに、同(昭和)22年 5月、
図らずも病気となり、
12月16日 齢40歳で出直した。前途有為の若き会長を失った中河にとって、
これは 一大痛恨事であった。
田中けい7代会長時代(昭和23年〜昭和46年)
昭和23年 3月27日、
(6代)会長夫人 田中けいが 大教会7代会長に就任し、
翌(昭和)24年 5月4日
2代真柱を迎えて、創立60周年記念祭と就任奉告祭を 併せて執行した。(田中善右衛門) 6代会長は
かねて 社会事業の中河母子寮の完成を念願していたので、
60周年記念として
寮を新築充実して「社会福祉法人 天理母木寮」の看板を掲げた。昭和26年(1951) 7月21日、
多年の懸案であった 大教会神殿建築の話し合いがまとまり、
一同歓喜の裡に 心定めをなし、工期を 2ヵ年と定めた。翌(昭和)27年 4月19日 建築の許し、
及び 月次祭21日を23日に変更の許しを得た。5月より地ならし工事を始め、1ヵ年半を要し
翌(昭和)28年秋完成、
10月21日 2代真柱を迎えて 落成奉告祭を いとも盛大歓喜のうちに執り行った。そして この感激をもって、
ただちに 教祖70年祭活動に躍進したのである。丁度その頃、
世話人 小松駒太郎から「おちば」への「伏せ込み」の教示を受け、
教祖70年祭を目指し、部内一丸となってつとめ、
昭和31年 2月23日 中河の教祖70年祭をも 無事つとめ終えた。2代真柱は、年祭を契機として「陽気ぐらしの門出」を教示、
この親の声に添うべく1,000名別席団参を発表し、
教義講習会、用木蹶起大会を開催して、
部内「よふぽく」の心を寄せ合うことを進めた。昭和35年 3月22日、
「布教所の増加、別席人修養科生をぢばに送る」
という2大目標を掲げて、
創立70周年記念祭をつとめた。
ちなみに 参拝者7,000余名、バス47台を連ね、
神殿 及び神苑は 立錐の余地もなかった。昭和36年春季大祭に教祖80年祭が発表され、
4月に 諭達第2号をもって 海外布教が打ち出された。中河では
7月23日、海外布教促進委員会が設置され、
11月2日 雪本益次がアメリカ布教のため、
単身 ブラジル丸にて神戸を出帆した。雪本は
1ヵ年 伝道庁に勤める傍ら 布教に専念し、
昭和38年 10月19日 フレスノで布教所開設、
翌(昭和)39年 4月26日 セントラル・フレスノ教会を設立した。ここに 中河として 戦後初の海外教会が誕生したのである。
昭和40年 秋季大祭を期し、
たすけ委員長(当時真柱)から 初席者3万人の教示を受け、
中河も
10月の初席者は1,330名を数え 11月末で 布教所も324ヵ所とな った。明けて 昭和41年(1966)、教祖80年祭を迎え、
中河部内全般が 陽気に年祭をつとめ、
2月24日 大教会でも、教祖80年祭をつとめた。昭和42年 6月18日、
「おやさとやかた」西左4棟に 中河・郡山が入るように
との2代真柱の言葉があり、
これを受けて 昭和42年秋 布教所長決起大会。(昭和)43年 5月、
5,000名団参で 6,000余が別席場を埋め、
また、昭和45年 3月23日、
創立80周年記念祭に 参拝者6,360余名の多きを数え、西左4棟の工事完成の10月を目標に、
部内信者の真実を結集すべく
8月に 部内教会一斉特別巡教を実施した。昭和43年 4月に真柱によってくわ入れされた西左4棟は、
その後 工事が進み、
昭和45年10月25日
真柱夫妻を迎えて 詰所開きを執り行った。(田中)けい(7代)会長は 就任後、23年目を迎え、
その間 大教会の神殿建築を成し、
その直後 引き続いて教祖70年祭、
また 教祖80年祭、おやさとやかた西左4棟完成などの上に
大教会長としての責任をとどこおりなく果たして、
昭和46年の秋の大祭を期して、
後継者に 会長職を譲った。
田中善太郎8代会長時代(昭和46年〜昭和49年頃)
昭和46年 10月27日、
田中善太郎は8代会長の任命を受けた。翌(昭和)47年 1月22日、
喜びのうちに8代会長就任奉告祭を盛大に執り行った。
(1月)23日の春季大祭と合わせて 5,500余の教信者が、
この慶びに集い 祝賀に湧いた。若き会長を迎え、部内「一手一つ」に勇躍、
教祖90年祭に向かって真実を捧げるべく、
中河は 新しい時代の第一歩を踏み出した。教祖90年祭の発表と諭達第2号をもって 年祭活動への心構えを示されるや
今こそ親の声に添い「さあ、これからや」を合言葉として、
「おぢば」への信仰に 一丸となって立ち上がるべく、
先ず「教会長躍進の集い」を開催、教会長自らの覚悟を促した。また、別席団参、三千万軒にをいがけ活動と、
年祭活動第一歩を 力強く踏み出した。昭和49年 1月に 教会長奮起の集い、
3月より8回にわたって 各地域ごと7会場で よふぼく研修会を催し、
全よふぼくの 年祭へ向かっての総決起を促した。この成果をもって、教祖90年祭を無事つとめ終え、
新たに 世界救けを目指して奮起することを誓った。教会所在地を府県別に分けると、
奈良1、京都1、大阪157、兵庫12、和歌山2、愛知15、岐阜11、徳島1、愛媛8、東京6、埼玉1、群馬1、神奈川1、富山1、岡山3、広島28、鳥取3、山口1、大分2、福岡3、宮崎2、北海道2、福島2、アメリカ1、(昭和48年末)
である。また、社会福祉法人 中河厚生会経営の 母木保育園は、
田中善右衛門6代会長が
昭和21年 海外引揚者の母子家族を援護すべく母子寮を設置したことに始まり、時移り、時代の要請に応えるべく、
昭和43年 3月24日 保育園として再発足し、
0歳から小学入学までの男女児約百人を保育し、
地域社会において 母子家庭保護養育の上に貢献している。去る 昭和48年 5月3日、
優良民間社会福祉施設として、御下賜金をうけ、
今後の社会福祉事業の上に 奨励の言葉を頂いた。〔出版物〕
『天理教中河大教会史』(昭和28年10月21日発行)
『中河』(日報。昭和28年7月23日創刊)〔現住所〕〒581‐0883 大阪府八尾市恩智中町2丁目94番地
〔電話〕072-62-0146(昭和50年12月31日調 『天理教統計年鑑』 昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,510~513 )
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
18回目の今回は、
「中河大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】18回目の当記事では
『天理教事典』の中の「中河大教会」についての記述を書き写したわけですが、
特に今回は、知らないことのオンパレード(!)でした。
現在の天理教を支える大きな支柱の一つである中河大教会に
こんな歴史があったとは…
現在の立派な姿しか知らない部外者にとって、
今回初めて知った 初期 中河大教会の紆余曲折の歴史は、
正直、衝撃的でした。
自分の頭を整理するために、
『天理教事典』「中河大教会」の記述を
ちょっと箇条書きにしてみます。
- 明治21年(1888) 教会本部が設置されたのを受けて、
河内にも「参り場所」を設けようとの気運が高まった。 - 河内地方の講社一同が協議した結果、
教興寺村に「高安分教会」が設置されることになった。 - 「高安分教会」に組み入れられた講社の中の
山本利三郎に導かれた一部の人々の間から、
山本利三郎を親として立てねばならない(立てたい)との声が大きくなり、
軋轢が生じるようになってきた。 - 本部の 高井猶吉・平野楢蔵が仲裁に入った結果、
明治22年、山本利三郎の郷里 柏原村に
山本利三郎を会長とした柏原集談所(柏原分教会)を設置し、
山本利三郎を慕う人々が「高安分教会」から分離することとなった。 - 「柏原分教会」として行政府へ出願したが、
なかなか認可を受けられない状態が続いた。 - 何度出願しても認可してもらえないため、打開策を一同で協議。
板倉槌三郎を会長に立てて、教会の場所も恩智に移し、
恩智は河内の中心だからということで 名称も「中河」(河内の中心)と名称を変えて出願してみては?
と協議がまとまった。 - 本部からもお許しが出たため、
場所は 恩智、
会長は 神様のお許しの 山本利三郎、
地方庁出願についての担任は 板倉槌三郎、
名称は「中河分教会」として、
明治25年 1月9日 大阪府庁へ出願。
その結果、
同月(1月) 23日付で ようやく大阪府知事より認可された。 - 行政府の認可を受けるため苦肉の策として、
会長は 神様のお許しの山本利三郎、
地方庁出願にあたっての担任は 板倉槌三郎、
という 変則的な手法を用いた影響もあり、
「中河分教会」認可後、
教会内は「山本利三郎派」と「板倉槌三郎派」2派に分裂し 不協和音が拡大。
参拝者も激減し
“恩智の天理教がマッチ製造小屋として売却されるらしい”
との噂話が立ち上がるほどにまでになった。 - たまたまその噂話を耳にした初代真柱の指示で、
「中河分教会」創設の立役者たる 山本利三郎・板倉槌三郎 両先生は本部引き上げとなり、
代わりに 前川菊太郎が、その立て直しの命を帯びて送り込まれた。 - 「中河分教会」は、前川菊太郎の丹精により 分裂は回避され 復活を遂げた。
しかし、その前川菊太郎が、
明治30年頃出された 内務省の「秘密訓令」に対する 本部の対応に納得がいかず
辞職してしまった(「前橋事件」)
- 前川菊太郎3代会長を失ったため、
役員教師の中には 信仰の動揺から、教会長を辞したり信仰を離れたりする者が続出し、
再び 苦境に陥った。 - 前川3代会長辞職を受けて、
本部から 桝井伊三郎、喜多治郎吉、増野正兵衛の3名が 整理員として派遣された。
桝井伊三郎が 事務取扱者として任命され 教会内を取りまとめることで、
だんだんと 混乱は収まっていった。 - その後、落ち着きを取り戻し 混乱に整理がついたので、
その頃 中河分教会副会長であり 石川分教会長であった田中松二郎が「中河分教会」4代会長に定まることとなった。
これにより事情は全て片付き、 整理員は 本部へ戻っていった。
『天理教事典』「中河大教会」の記述によれば、
以上のような経歴を辿った、というわけですね…
ウ~ン、知りませんでした。
あの立派な中河大教会に、こんな複雑な歴史があったとは…
中河大教会関係者の皆様や、教会史に明るい方にとっては周知の事実なのでありましょう。
そして、そうした経緯を踏まえ、
そこから多くの学びを引き出した上で、
今の揺るぎなき信仰があるのだと思います。
しかし、そうした史実を全く知らず、中河大教会の輝かしい面しか知らなかった私にとって、
今回の『天理教事典』「中河大教会」の記述は、本当に衝撃的でした。
特に、「中河分教会」設置後に生じた
山本利三郎派と板倉槌三郎派の2派の分裂・対立、
それを収めるためご本部から派遣された前川菊太郎先生が
前橋事件にて辞職されていた、
という史実には、とても驚かされました。
前川菊太郎先生? 前川家? おやさまのご実家じゃないか…
一体何があった?
「前川菊太郎」で検索をかけてみると「前橋事件」がヒットしました。
1977年版『天理教事典』の中に、「前橋事件」についての記述がありました。
前橋事件
秘密訓令直後、安堵事件と相前後して、教会本部内に起きた事件。
前川菊太郎、橋本清の両本部理事が相次いで辞職する という一件。
前 は 前川(菊太郎)を指し、橋 は 橋本(清)を指す。前川(菊太郎)は、教祖の血縁者で、
初代真柱と共に、教祖が早くから心にかけて育てられ、
真柱に対して 控柱とも称されたほど、
天理教には 欠くことのできない人であった。橋本(清)は、教員の前歴を持ち、
その才能をかわれて 要職にたずさわっていた。秘密訓令という大打撃に 心を腐らせた橋本(清)は、
教会本部に対して、不満の色を示していたが、
ついに、明治29年 9月14日、
教職 及び 本部理事の 辞表を提出するに及んだ。教会本部では、心をかえるよう、再三再四 説いたが、効はなく、
事態は 悪化の一途をたどった。やむなく神意を伺った結果、
12月4日、橋本(清)に 依願解免の辞令を送ることになった。橋本(清)に誘われ 共鳴した前川(菊太郎)も、
明治29年12月4日に 辞表を提出するに及んだ。教会本部としては 失ってはならない人物である。
役員会議を開き 協議を重ねる一方、
如何にしても思いとどまるよう 努力を重ねた。
しかし、辞意は動かなかった。明治31年2月27日、「おさしづ」を伺った結果、
やむなく 辞職を認めることとなった。明治29年4月から続いた外患と内患の大嵐は、
この事件を最後に 治まることになったのである。〔参考文献〕橋本武『おさしづを拝す』
(『天理教事典』1977年版 P,780 )
「前橋事件」という単語でネット検索すると、
以前、北大教会について勉強した際に出会ったモリジロウ氏「note」の中の
関連記事(激動の明治30年頃 前橋事件と水屋敷事件について)がヒットしました。
モリジロウ様、今回もまた勉強になりました。
リンク貼らせて頂きます。ご了承下さいませ m(_ _)m
天理教大教会の初期歴史の勉強をするようになって
毎回感じさせられていることですけれども、
人が大勢集まると、本当に、多くの難しいことが出てくるのですね…
当然と言えば当然と言えることかもしれませんが、
そのことを、今回も、改めて感じさせられました。
…知ったかぶりでもっともらしいことを書き連ねてしまいました。
どこからか
「興味本位で昔の出来事をほじくり返してどうする!」
との お叱りの声が聞こえてきそうです。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉もあります。
野次馬根性の探索にとどまってしまうことのないよう、
「歴史」に潜んだ“意味”を探る姿勢を忘れないようにせねば…
と思います。
勉強することで知った「歴史」の中から どのような教訓が引き出せるのか、
しっかり思案し続けたいと考えます。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「中河大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
コメント