Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号130番「白羽大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号131番「伊那大教会」について勉強します。
- 伊那大教会(いな だいきょうかい)
- 菅間新六 初代会長の経歴
- 布教者・松本弥平の 萱間家 家業手伝い(明治21年)
- 萱間新六の孫娘・富江の不思議なたすけ(明治21年)
- 再び 富江の不思議なたすけ 〜 萱間新六 信仰の決意(明治22年)
- 講社の結成、萱間新六の 講元就任(明治23年)
- 信徒の増加 〜 萱間新六 布教専務へ(明治23年頃〜明治25年)
- 伊那支教会の設立(明治26年)
- 神殿ふしん(明治27年~明治29年)
- 伊那支教会、突然の地方庁認可 取消(明治29年)
- 警察による教会の強制閉鎖(明治29年)
- 地方庁認可を求めて――度重なる申請と却下(明治30年~明治32年)
- 激しい経済的困窮・度重なる災難、苦難の時代(明治34年頃)
- 地方庁認可を求めて もがく日々――度重なる申請と却下(明治35年頃~明治45年頃)
- 駒場警察署員 石田弥十郎から初代真柱あてに届いた手紙(明治42年)
- 諸井国三郎、依田 長野県知事へ直談判 ~ 待望の地方庁認可(大正2年~大正3年)
- 教会の移転建築(大正2年~大正7年)
- 萱間新六 初代会長の辞任、萱間保恵2代会長の就任(大正8年)
- 会長辞任後の萱間新六 ~ 出直し(大正8年~大正9年)
- 山名大教会から名京大教会が分離、伊那は名京部属へ(大正12年)
- 萱間保恵2代会長の出直し、寺井次平3代会長の就任(大正14年)
- 寺井次平3代会長の出直し、中平安吉4代会長の就任(昭和3年)
- 中平安吉4代会長の活躍 〜 出直し(昭和3年頃〜昭和11年)
- 萱間義治郎5代会長の就任(昭和11年)
- 戦中、戦後(昭和16年頃~昭和20年前後)
- 創立60周年記念祭 ~ 3度目の2代真柱お入り込み(昭和28年〜昭和34年)
- 伊勢湾台風により名京大教会神殿倒壊 ~ 復興ふしんへの伏せ込み(昭和34年~昭和37年)
- 名京大教会から分離して本部直属へ ~ 大教会昇格(昭和37年~昭和39年)
- 詰所の変遷(昭和41年頃~昭和43年)
- 萱間義治郎5代会長の出直し(昭和11年)
- 萱間道雄6代会長の就任(昭和44年)
- 創立80周年記念祭へ向けた活動 ~ 教祖90年祭活動(昭和44年頃〜昭和50年頃)
- おわりに
伊那大教会(いな だいきょうかい)

伊那大教会は、
萱間(かやま) 新六の 信仰に始まる。
菅間新六 初代会長の経歴
新六は、
天保11年(1840) 12月25日、
長野県下伊那郡 大島村 (現松川町) に、
代々 庄屋を勤めてきた家柄の、北原弥七郎 の次男として生まれ(た。)母は 富衛といい、幼名を 滝三郎といった。
幼少より 学を好み、特に 漢学に秀でていた。
文久3年春 2月、24歳の時、
(長野県) 同郡(下伊那郡) 別府村(現在・上郷町)の「萱間家」の養子となった。「萱間家」は、代々交互に「新右衛門」と「新六」の名前を襲名しており、(滝三郎は) その新六を継いだ。
(それにより、北原滝三郎は 萱間新六となった。)
この家 (萱間家) は、(長野県下伊那郡) 別府村をはじめ 隣村にも土地を有し、
農業を営みながら 地方の取締りに任じられ、名字帯刀を許された庄屋・戸長などの立場にあった。
(萱間)新六は、
萱間新右衛門の長女・以可と結婚して、3人の女子をもうけた。
明治6年、(長野県下伊那郡) 別府村 戸長となり、
続いて (明治)14年 村長となって、(明治)18年 3月 辞職した(。
戸長から村長となり10年以上つとめた後に辞職したわけだ)が、
その後も 種々と村政(の上)に尽力した。
布教者・松本弥平の 萱間家 家業手伝い(明治21年)
明治21年(1888) 5月上旬、
もともと養蚕飼育の盛んなこの地方は (この時期) 春蚕の最盛期で、
この萱間家も 大変忙しい頃であった。そのような頃、遠州敷知郡白脇村 福塚という所の 松本弥平(という者)が (萱間家を) 訪ねて来た。
彼(松本弥平)は、
綿布販売、養蚕修業、及び 天理さんという神様の教えを広めること、
という三つの目的で 伊那の地を訪れた(のだった。
そして、萱間家にたどり着き) 是非 この家の手伝人として置いてもらいたいとの旨を述べたので、(萱間新六は) 余儀なく応じて 寄宿させた。萱間家の人々は、
この松本(弥平)が 朝夕「天理王命」と称えては礼拝している姿を、
不思議な男として、
陰日向なくせっせと働く姿と共に 眺めていた。
萱間新六の孫娘・富江の不思議なたすけ(明治21年)
その頃、(萱間)新六の孫娘・富江が、猛烈な腹痛を起こし(た。
そして) お抱え医師・門司の手当も効なく、病状は益々激しく(なり、ついに) 絶望状態に陥った。この時、初めて、
不思議な男・松本弥平から、天理王命の神名が唱えられ (富江に)おさづけが取次がれ(た。す)ると、病状は嘘のように消え去った。これ (=富江が激しい腹部症状をおたすけ頂いたこと) が、萱間家入信の動機となった。
再び 富江の不思議なたすけ 〜 萱間新六 信仰の決意(明治22年)
翌(明治)22年4月下旬、
同じく 遠州貫名の 渡辺三郎次が、養蚕見習として (萱間家へ) 寄宿するようになった。(その後) 富江が、再び 病気になった(。
その)時、渡辺(三郎次) が おさづけを取次ぐと、(またもや) 病気は 忽然として快癒した。こうした事が何回か続き、不思議な神の働きを目の当たりにして、
(萱間)新六は、(ついに) 信仰の念を固めた。その後、
松本(弥平)・渡辺(三郎次)の両名が 交互に 萱間家を訪れて 教理を伝え(るようになった。)(萱間)新六は それを (深く)心に納め、(ついには) 布教を始めるに至った(のであった)。
講社の結成、萱間新六の 講元就任(明治23年)
明治23年(1890) 7月、
山名分教会から 講名を授けられ、(萱間)新六が その講元となった。
信徒の増加 〜 萱間新六 布教専務へ(明治23年頃〜明治25年)
(長野県下伊那郡一帯は) もともと仏教の盛んな所であったが、
当地の名門であった 萱間家の入信と布教によって、
講社に名を連ねる者は、日毎に多くなった。(萱間新六は) やがて 明治25年4月24日には、おぢばでおさづけの理を拝戴。
(それと共に) 村の役職から一切身を引いて、布教専務となった。
伊那支教会の設立(明治26年)
明治26年(1893) 9月、
(萱間)新六は、5名の者とともに 山名分教会に参拝の後、おぢばへ帰った。(そして) 9月20日付で、(天理教教会本部より)
長野県下伊那郡 上郷村甲391番地、萱間新六の家に
「伊那支教会」設立の許しを得た。
同年(明治26年) 12月14日付で、地方庁の認可も得た。
神殿ふしん(明治27年~明治29年)
(伊那支教会の) 教勢は、燎原の火の如く広がり、(萱間家の) 住宅神殿では 狭隘を覚えるようになった。
(そのような状況を受けて) 明治27年に、神殿建築の相談がまとまった。(そして、そこから神殿ふしんが始まった。
まず) 建築用材として清内路の山林を買い求め、(その)一方(で)、木材・土台石などの分担献納も始まった。
(また) ひのきしんによる地馴らし・材木曳きなども (盛大に)行われるようになり、
萱間家を中心とする(長野県下伊那郡) 別府(村)の一角は、毎日 数十人の人々の活気で賑わった。
翌(明治)28年には、ほとんど木彫り・組立ての準備が整い、
山名分教会の指示により、(天理教教会)本部へ (神殿ふしんの) 許しを (天理教教会本部へ) 願い出た。
(その結果)
明治29年 3月18日付で、普請 (教会 8間に8間・事務所 8間に4間・会長室 8間に4間) の許しを得(た。
その後) 工事は 順調に進捗し、この年(明治29年) 9月上旬には (無事に) 落成した。
伊那支教会、突然の地方庁認可 取消(明治29年)
(神殿その他教会施設は無事に完成したのである)が、
青天の霹靂の如く、突如、(明治29年) 9月9日付をもって、
「詮議の次第 之有 自今 該指令 取消」の達しによって
伊那支教会(の) 地方庁認可が 取消され(てしまっ)た。
(萱間新六)会長はじめ 信者一同の悲歎は、筆舌に尽くせぬ程であった。
警察による教会の強制閉鎖(明治29年)
しかし、その後 (地方庁から) 何等の音沙汰もなく、
(その事もあって、伊那支教会は、
明治29年)10月12日 遷座祭、13日 建築落成奉告祭を
(地方庁認可が取り消された状態のまま) 盛大に執行した。しかし、この祭典は、
既に 内務省秘密訓令 (明治29年4月6日) が発せられていた後でもあり、
(また) 取消の指令を受けていたにもかかわらず盛大に執行したが故にか、
直ちに (警察が) 弾圧への動きを強め(ることとなった。)
(明治29年) 10月21日朝、
飯田警察署から 警官4名がやって来て、遂に (教会の) 門を閉鎖。
神殿正面の入口は 大戸を閉めて 内部からつかえ棒で固く閉ざし、表は 板戸を十字に交わして釘づけにして、信者の出入りを禁じた。
地方庁認可を求めて――度重なる申請と却下(明治30年~明治32年)
こうした事情の中で、信仰から離れていく者もいた。
(しかし、萱間)新六をはじめ 多くの信者は さらに信仰を固め、(地方庁の認可を受けるべく再申請の手続きを勧めた。)
明治30年7月9日付で (天理教教会)本部から 地方庁へ再願の件を許され (再願手続きを行っ)たが、
地方庁から(は) 直ちに却下され(た。
一同は大いに落胆したが、気を取り直し、次は) 神道管長・稲葉正邦の添書を貰い、(明治30年) 8月27日(に) 再提出した。
しかし、(この時もまた) そのまま差戻された。さらに、明治32年3月5日付で 再び 認可の手続きを地方庁にとり、その足で (萱間)新六は急遽おぢばに帰参。
(明治32年) 3月13日に (天理教教会本部の) 許しを得て帰郷したが、再び、4月5日付で (地方庁から) 却下を言い渡された。
激しい経済的困窮・度重なる災難、苦難の時代(明治34年頃)
この頃から (伊那支)教会の財政が (極端に) 苦しくなっていった。
認可願いの費用や 多くの教会住み込み家族の生活のために、
萱間家の田地を売ったり、頼母子講を作ったり(も)した。
明治34年12月には、318円の借金のために 仮差し押さえ命令が出され(るに至った。)
(この頃は、伊那支教会のどん底時代ともいえるような苦難の時代で)
天理教に反感を抱く者に (菅間)新六会長が襲われ、危うく死に至りそうなことがあったり、
天竜川を下って おぢば帰りをしようとした信者が 事故で溺死し(たりして)、
さらに悪評をかったのも、この年(明治34年) である。
地方庁認可を求めて もがく日々――度重なる申請と却下(明治35年頃~明治45年頃)
明治35年7月、
飯田警察の指令により (伊那支教会の) 神殿装飾一切(が) 取払われ、(また) 信者の参拝が禁止された。
(そのような警察からの反対攻撃が激しい状態であった)が、
(萱間)新六 会長は、(心倒すことなく) 各村の主な信者の家を回り歩いて、祭典をし説教をして 布教を続けた。明治36年11月10日、
教会名を信濃国の枕言葉から「美篤刈 (みすずかる) 支教会」と (変更)して (天理教教会)本部の許しを得、(改めて) 地方庁へ願い出た。
しかし、(この時もまた) 翌(明治)37年3月25日付をもって、却下された。明治41年(1908) 秋、天理教は一派独立を許された。
翌(明治)42年に、教会長を山名大教会役員・永井藤平として (地方庁へ) 願い出(た。
しかし、この時もまた)却下され(た。
(その3年後の)
同(明治)45年(に、改めて 地方庁へ認可を)願い出(たが、これ)に対しても、認可はおりなかった。
駒場警察署員 石田弥十郎から初代真柱あてに届いた手紙(明治42年)
(明治29年に地方庁の認可を取り消されて以降、却下されても却下されても、あきらめることなく再申請を繰り返し続けた伊那支教会だった。)
そのような長期にわたる苦節の日々を耐え忍んでいたところ)
明治42年、
時の 駒場警察署員・石田弥十郎が、
伊那支教会に所属する (長野県下伊那郡) 会地村駒場の 周施方・井原春吉一家が
天理教布教師であるというので「村八分」にされ、困窮しているのを (見るに)見かねて、
初代真柱・中山新治郎宛に (困窮状態を知らせ、何とか対策を講じることを要請する)手紙を出した。
(時の駒場警察署員・石田弥十郎から伊那支教会所属の井原一家が村八分にされて困窮しているというという手紙を受け取った 初代)真柱は、
石田(弥十郎) に、丁寧な返書 (信南分教会 保存) を送った。
それと共に、
この状況を 山名初代会長・諸井(国三郎)にも通達した。
諸井国三郎、依田 長野県知事へ直談判 ~ 待望の地方庁認可(大正2年~大正3年)
大正2年3月半ば、
(初代真柱から伊那支教会所属の信徒が大いに困窮している旨を知らされた) 諸井(国三郎)は、
意を決して、自ら (長野県) 伊那を訪れ(た。
そして) 井原・北原 両役員とともに長野市に赴き、2泊3日かけて、依田 (長野)県知事等に直談判した。
その結果、
(これまでは) 仏教会・医師会から天理教を取消すようにとの陳情書が出ていて、代々の知事の申し送りとして (天理教会からの公認申請を)却下していた(、という)ことが判明(した)。(そして) この席で、(大正2年) 5月10日を (地方庁の)認可日とすることが約束され、
18年間 閉鎖されていた門戸が、(ついに) 開かれることになった。
(萱間)新六会長は、(苦節18年、永年の苦難を乗り越え ようやく地方庁の認可を得ることが出来た喜びに打ち震え、感涙にむせんだ。
そして) 認可後、直ちに、山名大教会・(天理教教会)本部 (おぢば) へ お礼参拝に出発した。
教会の移転建築(大正2年~大正7年)
(待望の地方庁認可を受けた伊那支)教会は、活気を取り戻し、
その年(大正2年) 3月24日には、理事長・理事・承事の役にあたる12名の役員が決められ(た。)
また、(それと同時に) 教会移転建築の動きも始まった。
この普請は、(萱間)会長家の問題もあって 以前より協議されていたが、
大正2年に 役員・岩崎が 土地を献納したことによって、具体化し(た。)
山名大教会の視察も受け(て)、大正4年(1915) 10月29日付で (天理教教会)本部の許しを得た。
移転地は、(長野県)下伊那郡 上郷村黒田 234番地 (現在地) で、宅地面積 1,303坪9合5勺、建坪 153坪7合である。
(教会の移転建築は) 多くの信者のひのきしんによって進展し、大正5年3月25日に 上棟式。
その後、苦難の道も歩んだが、
大正7年10月12日に 遷座祭、13日に 落成奉告祭が、約千名の信者の参拝の中で (盛大に) 執行された。
萱間新六 初代会長の辞任、萱間保恵2代会長の就任(大正8年)
この(教会)移転を期として 初代会長・萱間新六は辞職し、
大正8年(1919) 1月31日付をもって、(萱間)新六の娘・保恵が2代会長に就任した。
(萱間)保恵は、17歳の時、同郡(下伊那郡) 三種村伊豆木の 林宗一を迎え、富江をもうけた。
しかし、宗一は、24歳にして出直し(てしまった。)
以後、(保恵は) 終生 独身で過ごした。
会長辞任後の萱間新六 ~ 出直し(大正8年~大正9年)
なお、(萱間)新六(初代会長) は、同年(大正8年) 6月8日付(で)、山名大教会役員に登用された。
(そして) 翌(大正)9年 2月6日、82歳で出直した。
山名大教会から名京大教会が分離、伊那は名京部属へ(大正12年)
大正12年、
山名大教会から名京大教会が分離し、伊那(支教会)は 名京部属となった。
当時の伊那支教会の教勢は、教会 8・布教所 12であった。(名京の山名からの)分離は、
教祖40年祭 (大正15年) を前にして、(伊那の) 年祭活動に拍車をかけた。
萱間保恵2代会長の出直し、寺井次平3代会長の就任(大正14年)
(萱間)保恵(2代)会長は、忙しく教務に駆け巡っていたが、
病に倒れ、大正14年4月6日、出直(した)。(萱間)保恵(2代)会長の子・富江は、夫の木九郎と旧屋敷におり、
教会後継者として、富江の2女・芳子を貰いうけ、名京大教会に託して教育を受けさせていた。
しかし、(芳子は) まだ若年だったため、名京の役員・寺井次平が3代会長に就任(することになった)。
大正14年(1925) 4月22日に、(天理教教会)本部の許しを得た。
寺井次平3代会長の出直し、中平安吉4代会長の就任(昭和3年)
新しい会長を迎えて教祖40年祭 (大正15年) も無事に終え、伊那の信仰は大いに意気揚がるかに見えたが、
寺井次平(3代会長) が、就任3年足らずの 昭和3年3月20日(に)、出直し(てしまっ)た。そこで、再び、役員一同協議の結果、
当時、八束穗宣教所長であり、伊那の筆頭役員(であった) 中平安吉を4代会長に推薦。
昭和3年(1928)7月11日、(天理教教会)本部の許しを受けた。
この年(昭和3年)には、部内教会数35ヵ所になっていた。
中平安吉4代会長の活躍 〜 出直し(昭和3年頃〜昭和11年)
(中平安吉)4代会長は、
部内教会の巡回や、上級・名京大教会の仕事の上に休まる暇もなく勤め、
また、(長野)教区代表主事ともなって勤めた。(中平安吉4代会長は)
後年、おぢばの名京詰所主任を(も)つとめていたが、病を得て 職を離れて帰郷。昭和11年6月、会長職を辞し、
同年(昭和11年) 8月15日、74歳で出直した。
萱間義治郎5代会長の就任(昭和11年)
昭和11年(1936) 7月30日付で、
萱間義治郎が 5代会長に就任(した)。
(萱間)義治郎は、
昭和5年に 東北布教の先端を切ったと言われる 名京大教会役員・二藤藤一郎 の次男で、
(名京)大教会長の勧めや 役員一同の懇望により、(萱間)保恵2代会長の養女・芳子と養子縁組み整い、結婚した(のだった)。(中平安吉4代会長の後を受けて萱間義治郎が5代会長に就任する事となったわけだが)
既にこの頃(には)、布教と部内教会の巡回に携わっていた。
(中平安吉)4代会長の辞任に伴って、昭和11年に5代会長に就任(したのだった)。
戦中、戦後(昭和16年頃~昭和20年前後)
その後、第2次世界大戦が起こり、名京大教会は爆撃にあい、神殿 及び 教祖殿は灰燼に帰した。
それまでに名京(大教会)は 五つの大教会をうみだし、伊那(分教会)は (名京の) 中軸として活躍していたが、
(昭和)20年6月には、5代会長・(萱間)義治郎も軍役に召集された。(軍隊招集後、2ヶ月で終戦。)
同年(昭和20年) 8月30日、
無事に復員した (萱間義治郎5代)会長は、早速 (天理教教会)本部に参拝し、(復員後は) 名京(大教会)の 復興建築に尽力した。また、同年(昭和20年) 11月に (伊那分教会に) 2代真柱を迎え「復元」の活動を推進した。
創立60周年記念祭 ~ 3度目の2代真柱お入り込み(昭和28年〜昭和34年)
昭和28年5月8日、再び 真柱を迎えて 創立60周年記念祭を執行。
教祖70年祭 (昭和31年) への意気を新たにした。昭和34年2月18日、三度目の真柱お入り込みがあり、(そこから更に) 布教活動に努力することを誓いあった。
伊勢湾台風により名京大教会神殿倒壊 ~ 復興ふしんへの伏せ込み(昭和34年~昭和37年)
同年(昭和34年) 9月26日、
世にいう伊勢湾台風によって、名京大教会の神殿が倒壊(してしまう、という大きな節を見せられた)。
(上級教会の大節を見せられた) 伊那(分教会)は、再び、名京大教会の普請に尽力した。
しかし、その完成前には、県道改修工事のため、教会の前の道路が境内地を真直に縦断しなければならない、という情勢となった。
道に面した教会の石垣は、大自然石の積石であり、石や技術の面から考えて重要文化財にとの話も出ていた程であった。
(名京大教会の復興ふしんには大きな困難が予想された) けれども、
一大決意の下、境内地の建物一切を 土地続きの上段に移動配置。
神殿も おぢばの方角に向きを整え(る等して、困難なふしんを無事やり遂げ)
教会として(の)面目を一新し、現在に至っている。昭和37年10月18日、
名京大教会の 新神殿落成奉告祭が執行された。
名京大教会から分離して本部直属へ ~ 大教会昇格(昭和37年~昭和39年)
(昭和37年10月18日に名京大教会の新神殿落成奉告祭が執行されたわけだ)が、
それに伴って、
伊那(分教会)は、名京(大教会)から分離することとなった。
(そして、その翌年の) 昭和38年 7月26日、
伊那は、分教会のまま、という異例の(形で) 分離をした。
そして、(その)奉告祭は 翌年(昭和39年) 3月5日と決められた。
(そのような決定を受けて) 何とか その時までに (伊那を) 大教会 (部内50ヵ所) にしよう、という運動が始まった。(伊那一同は奮起し) 昭和39年(1964) 2月26日までに (見事に) 12ヵ所の教会が設立されて(部内教会数50ヵ所に到達し)、伊那大教会(へ)の陞級が 認可された。
昭和39年3月5日、春日和の日、
2代真柱はじめ多くの来賓を迎え、
所属変更奉告祭に併せて、陞級奉告祭を執行した。
詰所の変遷(昭和41年頃~昭和43年)
(萱間義治郎)5代会長は、大教会としての体制を整え、内容充実に努力を払った。
(伊那)詰所も、(大教会昇格当初は) 名京詰所の一部を借りての出発であったが、
名京詰所が 山の辺小学校敷地に転用される事になったため、(それを機に詰所も独立する事となり)
伊那(詰所)は、昭和41年11月10日から昭和42年4月6日までの間、本部施設 第1母屋を借用した。
続いて、昭和42年4月6日から翌年秋まで、(天理市)別所町で、伊那・静岡・白羽 の3詰所が1棟に同居した。
しかし、手狭となり、昭和43年5月、(天理市)川原城町の 天理警察署跡へ内部の改造をして 移転した。
萱間義治郎5代会長の出直し(昭和11年)
(萱間義治郎)5代会長は、
同年(昭和43年) 病床に臥し、11月18日、齢63歳で出直した。
顧みれば、(萱間義治郎5代会長の) その生涯は、(実に幅広い活動に彩られたものであった。)
昭和26年3月26日から同(昭和)43年6月26日までの16年間を長野教区長としてつとめ(た。)
更に、大教会境内地に、村で最初の保育園 (天理教高松保育園) を昭和27年9月21日に創設し、園長として終生努力を重ねた。
一方、教外においても、長野県宗教連盟の役員として、特に病を得て退くまでの 2期は、会長としてその責を果たし(つつ)、東京オリンピック推進準備委員を務めるなど、幅広い活動をなした。
萱間道雄6代会長の就任(昭和44年)
昭和44年(1969) 1月27日、
(萱間義治郎)5代会長の嫡男・萱間道雄が、6代会長に就任(した)。
同年(昭和44年) 5月8日、
真柱を迎えて 就任奉告祭を執行し、さらに前進させて頂くことを、一同 心に誓い合った。
創立80周年記念祭へ向けた活動 ~ 教祖90年祭活動(昭和44年頃〜昭和50年頃)
(萱間道雄6代会長は) 教会創立80周年を迎えることにあたり、
まず心構えを正すことに留意して、(天理教)教会本部から中山表総領を迎えて成人講座を開催。昭和48年5月8日、
真柱夫妻を迎えて、創立80周年記念祭を執行した。真柱から80年の道にふさわしい成人の歩みを進めるよう諭され、
一同は、教祖90年祭への門出の旬を心に治め、新たな躍進を誓った。教祖90年祭を迎えるにあたっては、特に、教会内容の充実が提唱された。
伊那(大教会) 部内では、(この頃) 古くからの2〜3の教会と大教会陞級の時の 新設教会の幾つかが不振教会であったが、
この提唱に応じて努力する中に、担任変更・名称変更・移転などが進められ、整理復興が成し遂げられた。(伊那)大教会では、青年会活動も熱心に進められ、
教祖80年祭 (昭和41年) の3年前から、機関誌『基樹』を創刊し、今日まで続刊されている。また、(伊那)大教会経営の保育園も、(萱間道雄)6代会長就任と共に 2代園長となり、
教会創立80周年の記念事業 並びに 保育園創立20周年の記念として、
大教会御供米用の田地にしていた正面隣接地に、園舎を移転新築した。
さらに、
昭和46年10月から、年2回ずつ、教内から講師を迎えて、園児の保護者を対象に母親講座を開くなど、天理教の独自性を生かした運営に、保護者や地域社会からの評価が高まり、
昭和50年5月には、(長野県下伊那郡) 上郷町から 社会福祉功労施設として表彰を受けた。〔現住所〕〒395-0004 長野県飯田市上郷黒田234番地
〔電話〕0265-22-2115(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,59〜61)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第131回目の今回は、
「伊那大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 伊那大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
長野
南アルプスを東方に望む下伊那郡上郷村は、養蚕の地である。
明治二十一年、春蚕で猫の手も借りたいころ、 静岡県日脇村の松本弥平が、養蚕見習いのため 萱間家を訪れた。
萱間新六の孫娘・富江が、突然 激しい腹痛に襲われ、医者もさじを投げた時、弥平が祈念した。
たらいに水をくみ、お日様を水に映して神名を唱えた。
水に患部を浸したのであろうか。
腹痛は 嘘のように治まった。
こんなことが再三続き、新六が入信した。山名真明組部内の講社となって、二十六年、伊那支教会を設置、地方庁の認可も得た。
二十九年秋、村の一画に城郭のような神殿が建った。
ところが、同年春に発せられていた秘密訓令で、認可取り消しの達しを受けた。
これより、警察の手によって教会が閉鎖。
長い忍苦の時代を迎える。当時、愛知や静岡へ出るには 天竜川を舟で下るのが便利だった。
三十四年のある日、天竜峡の急湍を過ぎた途端に舟が転覆、三人が溺死した。
死者の中に信者がいた。
世論は沸騰、「天びん棒の川流れ」と揶揄され、道から離れていく者がますます増えた。大正二年、十八年間の閉鎖の扉が開かれた。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,108)
伊那は、現在、上郷町黒田に当時の神殿を移築している。
同じ『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の 巻頭カラーページの中に、
内務省秘密訓令 発令前後の苦難時代の記事があり、その中に、伊那大教会に関する記述がありました。
一読して 非常に感動し、ぜひ このブログ記事内で紹介したいと思いましたので、それも 自己覚え書きとして書写します。
最終節は、伊那大教会とは別系統の 島根分教会に関する記述になっていますが、
当時の様子を 窺い知ることの出来る 非常に貴重な内容だと感じましたので、すべて まるごと書写します。
迫害下の極限ものがたり
長野県 下伊那郡 上郷村に、明治二十九年九月、八間四方の神殿が建った。
過ぐる二十六年に 地方庁の認可を得た 伊那支教会の 意気上がる象徴でもあった。ところが、青天の霹靂の事態が生じた。
二十九年四月に 天理教を取り締まるために発せられた秘密訓令によって、認可取り消しの処分を受けたのである。会長 萱間新六は、信者の勇む姿を思うがあまり、処分の指令にもかかわらず、落成奉告祭を執行した。
これが 弾圧の動機を早める結果となった。十月二十一日朝、飯田警察署から 四人の警官が踏み込んできた。
教会の門を閉鎖、神殿正面入り口は 戸板を十字に交わして釘付けにし、信者の出入りを禁じた。新六は 村々の主な信者の家を回り、地区の信者を集めて おつとめをした。
会地村駒場の 井原春吉、伊賀良村の 熊谷保造ら 多くの講元、周旋は 固い信念のもと、さらに布教に歩いた。
ところが・・・・・・。駒場の井原家は、村人から 厳しい村八分を受けたのである。
村の付き合いは断られるは、家人は買い物はできないは、春吉の孫娘などは学校にも行けなかった。見るに見かねた村の巡査・石田弥十郎は、真柱に手紙を出した。
初代真柱は 丁寧な返書をしたためる一方、所属の山名へ 処置方を申し伝えた。
明治四十三年のことであった。
山名の諸井国三郎は 意を決して 自ら 伊那を訪れ、長野県知事に折衝した。県の認可が下りたのは 大正二年のこと。
ここに、十八年目にして 閉ざされていた神殿の門戸が開かれた。
伊那につながる信者の喜びはいかばかりだったか。*******************
秘密訓令の被害は、島根(分教会)も 変わりなかった。
明治三十五年、社会風俗 及び 治安上妨害ありとして 認可取り消し。
門標を外し、神前には幕を垂らし、家人の礼拝すら ままならぬありさまとなった。指令書により、住み込み家族十戸、三十八人は いよいよ退去せねばならなくなった。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,10〜11)
死なばもろともと固く誓い合い、教会内で寝食を共にしていた者同志が 離れ離れになる。
異郷の空で 狂奔する布教者の留守家族を追い出さねばならぬにしても、彼らに与うる一物もなし。
寄る辺なき老人、婦女子たちに、明日、何を頼りに生きていけというのか。
屠所に引かれる小羊のように、足元も おぼつかない。
見送る者、見送られる者、互いに交わす言葉もなく、あるのは ただ涙、涙だった と伝えられている。

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】131回目の当記事では『天理教事典』の中の「伊那大教会」についての記述を書き写して 勉強しました。
「伊那大教会」は、前回勉強した「白羽大教会」同様「名京大教会」から分かれた大教会。
当シリーズ前々回(第129回) が「静岡大教会」、前回(第130回)が「白羽大教会」、そして今回(第131回)は「伊那大教会」。
いずれも「名京大教会」から分離した大教会。
前回(第130回)「白羽大教会」の「おわりに」の所でも書きましたが、
「伊那大教会」は【教会番号129〜131】 → (129番) 静岡 ― (130番) 白羽 ― (131番) 伊那、
という「名京大教会」から分離した「教会番号連続 3兄弟」グループ 3番目の大教会です (^^)
でもって、このグループ先頭 (129番) 静岡 の前の (128番)は「城山大教会」――
名京から分かれたわけでは ありませんが、城山は 山名から分かれた大教会で、
名京は 山名から分かれたわけですから、
城山も 広い意味では グループの一員。
すなわち、教会番号順128〜131まで、
「城山―静岡―白羽―伊那」と、
山名の流れを汲んだ大教会の教会番号が 4つも連続しているのですね。
先程、【教会番号129〜131】 → (129番) 静岡 ― (130番) 白羽 ― (131番) 伊那、
以上を「名京大教会」から分離した「教会番号連続 3兄弟」グループと表現しましたが、
「城山大教会」も含めると、
【教会番号128〜131】 → (128番) 城山 ― (129番) 静岡 ― (130番) 白羽 ― (131番) 伊那、
という、「山名大教会」から分離した「教会番号連続 4兄弟」グループ、とも言えるわけです。
ということで、今回は
「名京大教会」連続分離教会シリーズ 3回目、
「山名大教会」連続分離教会シリーズ 4回目、
ということになります (^^)


前回(第130回)「白羽大教会」の「おわりに」の所で、この「山名大教会」から分離した「教会番号連続 4兄弟」グループの 設立年月日と大教会昇格日を調べて記述しました。
それを再掲します。
(設立年月日は『天理教教会所在地録』、大教会昇格日は『天理教事典』1977年版から拾いました。)
| 設立年月日 | 本部直属日 | 大教会昇格 | |
| 城山大教会 | 明治26年9月9日 | (大教会昇格日) | 昭和36年11月26日 |
| 静岡大教会 | 明治25年6月8日 | (大教会昇格日) | 昭和38年1月26日 |
| 白羽大教会 | 明治23年1月13日 | (大教会昇格日) | 昭和38年7月26日 |
| 伊那大教会 | 明治26年9月20日 | 昭和38年7月26日 | 昭和39年2月26日 |
前回記事は「白羽大教会」について勉強する回でしたので、これを最初に掲載した前回(第130回) の「おわりに」の中では触れませんでしたが、
これをまとめた際に、
伊那大教会だけ「分教会」のまま 先に本部直属になって その後で大教会へ昇格したのだ、
ということを知りました。
今回の「伊那大教会」書写本文には サラリと史実が記述してあるだけで その理由が書かれていないので、あくまで想像になりますが、
伊那大教会だけ「分教会」のまま 先に本部直属になって その後で大教会へ昇格した という特異な流れを辿ったわけは、
前回(第130回) の「おわりに」の中でも書いた通り、
昭和34年に伊勢湾台風があって名京大教会の神殿が倒壊、昭和37年に神殿復興が完成――、
伊勢湾台風による神殿倒壊という大きな節を経験した名京大教会が、この節を生き節へと転じる歩みとして、昭和38年に部内教会の分離独立を積極的に推進した――
そのような背景によるものなのではないか、と 想像致します。
伊那は、
白羽分教会が 大教会に昇格するのと全く【同日】の 昭和38年7月26日に、
分教会のままながら 本部直属に変更となった――
これは、部内50ヵ所以上という規定は満たしていないけれど、
とにかく「分離独立」最優先で動いた結果、ということなのだと思われます。
親教会であった名京大教会は、節を通して、
何よりも、大きな部内教会を分離独立させることを優先しよう、という考えに至ったのでありましょう。
それで、まだ大教会昇格の規定は満たしていないけれども、いずれ大教会に昇格することを前提として、
「伊那分教会」も、兄弟教会である「白羽分教会」が大教会に昇格するのと同じ日に、本部直属として名京大教会から分離独立させたということなのではないか、と 私は受け止めました。
(あくまでも 私の想像です… (^^ゞ)
それにしても、改めて、
昭和34年の 伊勢湾台風による 名京大教会の神殿倒壊が、当時の関係者の皆様に どれほど大きな影響を与えた出来事であったか、思い知らされます。

その他、今回の書写文の中で、特に印象に残ったことについて 触れておきたいと思います。
一つは、
元村長という経歴を持っていた伊那支教会 初代会長・萱間新六先生が、布教一筋の道に入られた、という事実です。
萱間家は 代々 庄屋を務めてきた家柄で、
新六先生ご自身も、
明治6年に 戸長、明治14年には 村長に就任し、
明治18年まで、実に10年以上にわたって村政を担ってこられた。
そして 明治25年、
おぢばで おさづけの理を拝戴すると同時に、村の役職から 一切身を引き、布教専務となられたとのこと。
当時、村長という立場は、地域社会において 絶大な信用と 責任を背負う地位です。
元とはいえ、かつてそのような社会的に高い地位にあられた方が、
当時 まだ世間から異端視されがちであった 天理教の布教一筋の道に進まれる決断が どれほどのものであったか、想像するだけで身が引き締まる思いがします。
しかも、当時は、天理教そのものが、警察や地方庁から厳しい取締りの対象とされていた時代でした。
そうした逆風の中、
地域の名士とも言うべき 元村長が、一切の社会的地位を投げ打って 布教一筋の道に飛び込んだ、という出来事は、周囲の村人達にとって、決して 小さな驚きではなかったはずです。
「あの萱間先生が…」という戸惑いや動揺、あるいは 冷ややかな目線も、少なからずあったのではないか と推測いたします。
しかし、そのような周囲の目にも屈することなく、
萱間新六先生は 信仰の道を貫かれました。
この決断がなければ、その後の伊那の歴史そのものが、また違ったものになっていたであろうこと(そもそも伊那大教会が生まれていなかったかもしれない)、
そう考えると、感慨深いです。

もう一つ、
というより、今回の「伊那大教会」の歴史の中で、最大のハイライトだと私が感じたのは、
明治29年から大正2年までの、実に 18年間にわたる、地方庁認可を求めての苦闘の物語です。
書写本文だけでも十分に苦難の様子は伝わってきますが、
「おわりに」冒頭でご紹介した『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) の中の「迫害下の極限ものがたり」という一節には、伊那支教会が味わった弾圧の様子が、より生々しく 描かれていました。
明治29年、待望の神殿が落成したその直後に、長野県当局から、なんと「認可取消し」の通達が届いた!
萱間新六 初代会長は、信者達の勇む姿を思うあまり、指令を知りつつも、その後何も言ってこないし… というところで、当初の予定通り 落成奉告祭を執行します。
しかし、それがかえって 弾圧を早める結果となってしまいました。
飯田警察署から踏み込んできた4人の警官によって、神殿の入口は 戸板を十字に釘付けにされ、信者の出入りが固く禁じられたのでした。
それでもなお、萱間新六 初代会長は 挫けることなく、村々を回っては信者を集め、おつとめを続けられたといいます。
しかし、その代償は 決して軽いものではありませんでした。
会地村駒場の 井原春吉先生宅は、村中から 厳しい村八分の扱いを受け、日用品の買い物すらままならず、
幼い孫娘は 学校へ通うことすら叶わなかった、
という記述には、胸が締め付けられる思いがしました。
そのような、目を覆いたくなるような苦境を、
しかし、見て見ぬふりをしなかった人物がいました――
地元の巡査・石田弥十郎氏です。
本来ならば取締る側の立場にありながら、
井原家の困窮ぶりを見るに見かねて、初代真柱に窮状を訴える手紙を出したとのこと。
この一通の手紙が、初代真柱から山名大教会・諸井国三郎先生へと伝わり、
それが 諸井国三郎先生が 自ら長野を訪れて県知事に直談判する という行動へとつながっていきました。
そして大正2年、
ついに18年ぶりに、閉ざされていた神殿の門が開かれることに‼
「18年」という年月の重みを、改めて 思わずにはいられません。
信仰を貫くというその一点のために、
村八分を受け、経済的に困窮し、時には命の危険にすらさらされながら、それでも 心折れることなく信仰を守り抜いた、当時の 伊那支教会の皆様。
その忍耐強さ、その信念の強さに、
私は、書写しながら、心の底から 深く感動いたしました。
今、私達が何不自由なく教会で手を合わせることが出来るのも、
こうした先人達の、想像を絶する苦節の上に成り立っているのだ ということ――
決して忘れてはならない。
改めて そのような思いに包まれました。
また、同じ『道〜天理教伝道史をあるく』掲載文の中には、
伊那同様に、秘密訓令によって、山名系統ではありませんが 島根分教会もまた、住み込みの家族が離散を余儀なくされるという、痛ましい体験をしたことも 記されていました。
伊那だけでなく、当時、教内の各地で、同じような涙が流されていたのだと思うと、
改めて、明治という時代における 信仰の道の厳しさを思い知らされます。

そしてもう一つ、心を動かされたのが、
上級・名京大教会が経験した、二度にわたる「神殿損壊」という 大きな節についてです。
第2次世界大戦末期、上級の名京大教会は、空襲に見舞われ、神殿・教祖殿ともに灰燼に帰しました。
復員後の萱間義治郎5代会長が いち早く本部参拝を果たし、名京大教会の復興建築に尽力された、という書写文の記述からも、
当時の焼け野原からの再出発が どれほど大きな困難であったか、想像に難くありません。
ようやく その復興も一段落し、昭和28年には 創立60周年記念祭を、昭和31年には 教祖70年祭を、昭和34年には 自教会に三度目の真柱お入り込みを迎えるなど、自教会が着実に復興を進めると同時に、名京グループ全体が着実に歩みを進めていた、まさに その矢先――
昭和34年 9月26日、
伊勢湾台風が襲来し、名京大教会の神殿が 再び倒壊してしまう という事態に…‼
空襲で全てを焼き尽くされ、その痛手から ようやく 立ち直りかけたところに、今度は 自然災害によって、再び 神殿が失われた ――ということ。
この二重の試練の重さは、いかばかりであったろうかと、思いを馳せずにはいられません。
しかも、復興工事の途上では、県道改修工事によって境内地を道路が縦断するという事態まで重なり、大自然石の石垣を惜しみつつも、境内地全体を上段に移動配置するという、大工事を強いられることとなったとのこと。
そのような、上級・名京大教会の二度にわたる大節に対し、
伊那分教会は、いずれの時も、全力でその普請に尽力したと、書写本文には記されていました。
自らが幾多の苦難を経験してきた「伊那」であればこそ 上級の苦しみを まさしく我が事として受け止め、力を尽くしたのかもしれない… 等と思ったりしました。
そして、その伏せ込みの直後、
伊那自身もまた、名京大教会からの分離、そして大教会への昇格という、大きな節目を迎えることとなったわけですから、
伊勢湾台風を巡る一連の節は、文字通り、「名京―伊那」の歴史の大転換点だったのだと、部外者ながら、改めて しみじみと感じさせて頂いたことでした。
どれもこれも、知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出てくるフレーズの繰り返しになりますが、このような教会の歴史を知った上で、今の「伊那大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「伊那大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。





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