天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より

兵神大教会天理教各教会歴史探索第2回 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

天理教 教祖百四十年祭へ向かう旬に、
お道の大きな【流れ】に対する感性を高めることを目指して、
これまで自分とはご縁がなかった 天理教の各教会の歴史についても学びたい、
そのような思いで、
前回から開始した
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

このシリーズは、
自分の教会にあった『天理教事典』(1977年初版)を活用し、
その『天理教事典』に掲載された各大教会(直属教会)の大雑把な歴史を
そのまま書き写し、
それによって天理教大教会の歴史への知見を深めようとするものです。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

書写する順番は、
天理教会番号の順番で行う予定でおります。

初回である前回は、
教会番号1番の「郡山大教会」の説明を書き写しました。

第2回目の今回は、
教会番号2番の「兵神大教会」です。

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兵神大教会 (へいしん だいきょうかい)

天理教兵神大教会ストリートビュースクショ
Googleストリートビューより

明治14~17年頃

明治14年(1881)陰暦 3月、
神戸の 兵庫今出在家町に住む 魚谷やすが、
娘の眼病を救けられて 信仰をはじめた。

これが、兵庫県に天理の教えが伝わった最初であり、
兵神大教会の 道のはじまりである。

同年 陰暦 6月には、
大阪真明組の指導のもとに 兵庫真明組(上田藤吉講元)が結成されたが、
まもなく衰退し、
ついで 翌年
真明講社 兵庫1号(端田久吉 講元)と、
神明講社 第2組(赤松平四郎 講元)が、
あいついで結成され、
教線は 急速に広がりはじめた。

しかし、神明講社 第2組も、
真明講社 兵庫1号に合流され、
その後、
天理王命 真明講から、兵庫 第2真明講と改め、
更には、
明治19年に 兵神 真明講と改称した。

その間、
教勢は 兵庫県 中央部から南部一帯に広がり、
真明の名をもつ講が つぎつぎと 結成されていった。

後に 兵神分教会の初代会長となった 清水与え助は、
天保13年(1842)、滋賀県 安曇川町に生まれ、
京都、大阪、神戸で 商人として育ち、
神戸三宮で 空瓶問屋をしていた 明治16年、
兄の病気が救かるように と信仰をはじめた。

1カ月後には、単身「おぢば」に参り、
教祖にお目にかかり 感激して
信仰一条に 生きる覚悟を定めた。

あけて 17年春ごろからは、
「おちば」や 東京の地で、
天理教会 設立公認運動に尽力し、
明治21年、
東京で 天理教会本部設置が認可されるや、
同本部詰で 会計掛 兼 庶務係に任じられ、
天理教会本部 初期の運営の上に活躍した。

明治20年代

明治22年 1月14日、兵神分教会 新設置の許しを得たが、
それまでの講元 端田久吉が 事情のため 会長就任を辞退し、
翌月 9日、あらためて「おさしづ」を仰いで、
清水与之助が 初代会長に決定した。

ついで、同 2月15日、
教会を 神戸市生田区 下山手通 6丁目38番地におくことの許しを得て 建築に着手し、
同 3月13日、
兵庫県知事の認可もあって、
ここに
兵庫県下 最初の天理教会が 発足した。

そして その開筵式は、
同年(明治22年)6月3・4日に 執行された。

それより 1週間前には、飯降伊蔵 本席が来会し、
兵神は 海外への かけはしとなるよう
との言葉を頂いた。

今日、
この言葉を実現することが、兵神の使命であるとして、
種々の活動を 推進している。

明治27年12月、
現在の 天理市三島町に 詰所用地を買収し、
同 29年2月、兵神分教会 事務所が 開設された。

これは 天理における 最初の信者詰所である。

その後、この詰所は、
大正4年(1915)布留町に、
同 13年 田井庄町 に移転し、
その都度 規模も大きくなり 現在におよんでいる。

明治30~40年代

更には、
明治31年5月、兵神分教会は、
神戸市生田区 下山手通 7丁目21番地に 土地を求めて
移転建築の許しを得て、
神殿建築を 完成した。

明治32年3月、初代会長は、
教会本部の教務に専念するため、
冨田伝次郎を 副会長に選任して、
会長の教務一切を任せて 天理に居を移し、
明治34年 5月13日出直すまでの 2年間は、
専心 教会本部にあって、
とりわけ 一派独立準動に 尽力した。

その間、
明治33年 1月には、
冨田副会長が、兵神分教会 2代会長に就任した。

冨田伝次郎(天保11年生)は、
兵庫県三木市の 藤村家に生まれ、
神戸の 冨田家に入婿。

家業のコンニャク屋に従事していたが
明治15年 長男の胃病を救けられて 信仰をはじめ、
真明講社 兵庫1号結講の折は、
その講頭の一人に 名をつらね、
神戸海岸通り地域に 顕著な 布教の足跡をのこしている。

その流れをひいて、
清水与之助や 増野正兵衛(嘉永2年生まれ、後の本部員)など、
兵神初期の 主だった人々が 信仰をはじめている。

一方、
三木の実家を根幹に 播州方面に 布数線は広まり、
幾多の教会の 基礎ができている。

かくて(冨田伝次郎は)
兵神分教会設置の時は、理事 兼 会計の重責を負い、
明治24年から 7年間は、三木支教会の事情治めに、
その 2代会長として出向き、
続いて
(冨田伝次郎は)前述の如く 兵神分教会長となり、
明治41年 天理教の一派独立により、
兵神大教会に改称となり 大教会長となった。

それと相前後して、
兵神にも、また、部内教会にも 事情がつぎつぎとおこり、
苦難の一時期がつづいたが、
(冨田伝次郎は)その打開努力 半ばにして 病にたおれた。

明治43年(1910)10月、
冨田会長 出直より 約1ヵ月を経て、
清水由松が
3代会長に 就任することとなった。

清水由松は 明治5年(1872)、
山沢家(現、天理市新泉町)に生まれ、
7歳の春に 伯父につれられて 教祖にお目にかかっている。

(清水由松は)
青年時代は 旭日支教会の部属教会で 布教活動に従事したのち、
明治34年 清水与之助の 養女みつと結婚し、
2ヵ月程で 養父と死別、
清水家の家督をつぎ、
天理教会本部 詰所 及び 飯降伊蔵 本席のもとに 仕えた。

大正時代 他

(清水由松が)大教会長 在任中には、
情者諸所の 2度の移転と、
大正11年(1922)から 約 6年をかけて、
神戸市須磨区 前池町 4丁目1番地に、
大数会の 移転建築の完工をみると共に、

大正14年 節東大教会、
昭和15年 社大教会を、
更には
昭和18年 神崎大教会を
それぞれ 分離陞級させるなど、
大きな 教勢の進展を示している。

昭和時代(戦前)

しかし 一方では、
昭和4年 7月26日、
大教会長後継者の 清水芳雄(明治35年生まれ)が、
海外布教伝道の 使命感に燃えて赴いた
南洋パラオ本島で 殉教した。

この遺志は 今に受け継がれ、
「芳洋」との名が生まれ、
大教会機関誌をはじめ、各種の会名に使われて、
兵神若人の 心のよりどころとなっている。

第2次世界大戦の戦火が神戸におよんだ
昭和20年(1945)3月、
1万㎥あまりの大教会境内は、
一夜にして 焼野原と化した。

戦後の混乱の中を、
翌21年7月に 復興仮建築に着手して
同年末 仮神殿は 落成した。

これを機に
(清水由松)3代会長は その職を辞し、
嗣子 清水国雄が、
兵神大教会 4代会長に 就任した。

昭和時代(戦後)

清水国雄は 大正11年
現在の天理市布留町で
兵神大教会(清水由松)3代会長の 次男として生まれ、
天理の地で育ち、
大学半ばにして 第2次世界大戦に従軍、
昭和21年 1月 復員し、
同年 4月 結婚、
5月には 母親と 死別
という めまぐるしい動きの中で、

翌 昭和22年8月26日、
兵神大教会長 就任の許しを得た。

ここに、
新生日本と共に、
兵神大教会も、
若い大教会長のもとに 新たな歩みを展開していった。

わけても、昭和27年8月、
神戸市 須磨区 桜木町 3丁目2番1号の 現在地への移転建築の許しを得て、
同 29年12月20・21日、
大和屋根風 平家建の新神殿の竣工をみ、
移転鎮座、奉告祭が執行されたことは、
兵神の道に 大きな変革をもたらしたものであった。

この移転地は、
名勝 須磨の海と山にいだかれた 丘陵の地で、
1万7千㎥ 有余の 境内地を得た。

まさに 親神の かぎりなき御守護と、
2代真柱の あたたかき親心に いだかれてこそ 実現出来たことであった。

その屋敷内に 既設の洋館を活用して、
昭和30年 芳洋図書館を 開設した。

これは、
地方公共図書館として
神戸では 市立図書館についで 2番目に誕生した 公共文化施設であり、
地域社会に貢献、
とりわけ 近在の学生に こよなき勉学の場を 提供している。

一方、戦後の 海外への布教は、
昭和34年(清水国雄)大教会長が、
インドネシアはじめ 東南アジア諸国を
親善訪問したのを皮切りに 再開された。

すなわち、
同年 12月、大教会から 建林成幸、敏夫妻が ブラジルに渡り、
翌35年 2月、
松岡豊治郎役員が 南北アメリカの 巡教の旅に出て、
南米に点在する 教信者の結束を 呼びかけて、
同年 7月には ブラジル芳洋布教所を 設立した。

昭和30~40年代

昭和36年5月、
(清水国雄)大教会長が 天理教 海外伝道部 アジア課長に 就任して、
全教的立場で 海外布教伝道に 尽力することになり、

ついで、同年 7月26日には、
南米パラグアイ国に、天理教初の教会として
パラグアイ芳洋教会(田村貢会長)設立の認可を得て、
広大なアルトパラナ移住地の原野に 教旗をひるがえしている。

昭和41年6月26日には、
ブラジル芳洋教会(建林成幸会長)が、
布教所より昇格して誕生し、
2年後には、
サンパウロ・コンゴニアス空港に 程近い要衝に
神殿を 建築した。

その後、
昭和49年 実施された 教祖90年祭 地方講習会には、
ブラジル芳洋教会、
パラグアイ芳洋教会
及び
ノルデステ芳洋布教所 (ブラジル)
の3カ所が
会場として活用された。

更には、
昭和40年 大教会長 次男・国治が ハワイへ、
翌年には 大教会長 後継者・与ーが ブラジルへ
それぞれ 留学し、

又、昭和42年、
松岡国雄 役員が 天理教 ハワイ伝道庁長に、
清水国弘 役員が コンゴ・ブラザビル教会長(本部直属教会)に任命され、
海外布教伝道の 第一線に勇躍して
各々の任期を つとめおえるなど、
兵神につながる 海外への道は、
前途に 洋々たるものを 感じさせている。

他方、大教会では、付属建物として、
6階建 鉄筋コンクリート造りの 天理教信者修行所を
昭和43年に完成させ、
教内はじめ 地域社会の研修場所として寄与し、
教会付属建物の 新しい一形態を示した。

同年(昭和42年)
兵神の流れを継ぐ 飾東大教会から 網干大教会が、
翌年(昭和43年)には
社大教会から 宇仁大教会が
それぞれ分離陞級し、

更には、
昭和48年 夕張大教会が、
北海道 2番目の大教会として 分離陞級した。

昭和49年
天理市の信者詰所に、
4階建の 修養科生専用の建物(天理教第41母屋)を竣工し、
これまた 詰所、母屋建築の新しい方向を示唆している。

この間、清水国雄会長は、
昭和37年 天理教 教会本部 本部員に登用され、
主に 海外布教伝道 及び おやさとやかた建築の仕事に 尽力してきた。

わけても
昭和41年 竣工した 天理よろづ相談所「憩の家」の建築には、
その「ふしん」副委員長をつとめている。

そして、昭和41年からは、
宗教法人 天理教 責任役員と 天理教 教庁 常詰の任につき、
同 43年には、
天理教 国内 布教伝道部長として、
加えて 47年からは、
天理教 よのもと会 委員長をも 兼務、
文字通り 天理教信者の 布教伝道活動の 第一線に立ち、
その他 数々の要職をかねて、
全天理教的立場での 推進力となっている。

かくて 兵神大教会は、
昭和41年 教祖80年祭を つとめおえた直後に、
兵神大教会 創立80年 記念 5大方針を 発表した。

即ち、
(1)信仰の確立、
(2)世界救けの拠点 確保、
(3)「よろづたすけ」の推進、
(4)「未代の理」の継承、
(5)親里建設に 全世界の真実を 結集、

との指針をかかげて 以来、
昭和61年(1986)に やがて迎える 教祖100年祭を目標として、
不断の精進を つづけているのである。

教線は、
兵庫県中南部(神戸、播州方面)に部属教会の大半があり、
その他、
北海道、青森、東京、神奈川、埼玉、千葉、愛知、大阪、京都、奈良、岡山、広島、山口、香川、福岡、宮崎に分布し、
海外では、
ブラジル(教会1、布教所1)、パラグアイ(数会1、布教所2)、アルゼンチン(布教所1)、シンガポール(布教所1)、台湾(布教所1)、及び アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア地域に「よふぼく」が在住している。

(昭和49年10月31日現在)

(現住所)〒654 神戸市須盤区桜木町3丁目2番1号
(電話)078‐731‐0203

(『天理教事典』1977年版 P,750~752)

おわりに

天理教兵神大教会写真②

天理教各教会の歴史を調べることを目的とした新シリーズ
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

シリーズ2回目の今回は、
教会番号2番の「兵神大教会」の歴史をなぞりました。

前回も書きましたが、
当シリーズの参考教材は
『天理教事典』の【初版=1977年版】で、とても古いものです。

なので、記載内容も1970年代以前まで。
かなり昔の歴史にとどまっています。

すなわち、最近の歴史は含まれていません。

しかし、それでも、
私が知りたいのは大教会の初期の歴史。
なので、それで十分、私のニーズは満たされます (^^♪

兵神大教会というと、清水与之助先生のイメージが強いのですが、
最初の最初は、
魚谷やす という女性が
眼病を御守護頂いたところから始まったのですね。
知りませんでした。

また、
兵神大教会は 海外布教に力を入れておられるイメージがありますが、
その原点は、
明治22年 6月3・4日に執行された開筵式の 1週間前に【飯降伊蔵】ご本席様から頂いた
兵神は海外へのかけはしとなるよう
とのお言葉にあったのですね。

そして、
兵神において多用される「芳洋」という名称、
それは、
海外布教伝道先である南洋パラオ本島にて志半ばで殉教された
「清水芳雄先生」(清水由松3代会長ご子息)
の遺志を受け継ぐ意図で生まれたのですね。

以上のようなことがらは、
勉強しなければ、ずっと知らないままだったでありましょう。

ですから、
このたび 勉強することによって知ることが出来て、
とても有り難いことでした。

どんな組織でもそうだと思いますが、
折に触れて、その成り立ち 元一日を振り返るということが、
その組織の存在意義を見失わないためにも、
非常に重要である
ということを、
改めて感じました (^_-)-☆

ということで――
今回は「兵神大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

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