Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号128番「城山大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号129番「静岡大教会」について勉強します。
- 静岡大教会(しずおか だいきょうかい)
- 諸井国三郎 山名初代会長の願望――県都・静岡市への教会設立
- 静岡大教会の原点――「益津支教会」の設立
- 静岡への伝道(明治24年頃〜明治26年頃)
- 静岡布教 〜 静岡支教会の設置(明治23年頃〜明治25年)
- 影山清七 初代会長の経歴
- 影山清七初代会長を中心とした静岡布教(明治23年)
- 講社事務所の開設(明治24年)
- 静岡支教会の開設(明治25年)
- 広がる静岡の道
- 教会移転(明治26年)
- 布教活動の活発な時代(明治26年頃〜明治34年頃)
- その後の教勢
- 諸井国三郎 山名初代会長と 松浦幸蔵
- 諸井国三郎 山名初代会長による静岡支教会の後継者定め(明治38年)
- 懇請を受け再興へ——松浦幸蔵の決意(明治38年〜明治39年)
- 平出団次郎名義で2代会長(明治39年)
- 松浦幸蔵3代会長の就任(明治40年)
- 静岡分教会へ昇格(明治42年)
- 松浦幸蔵3代会長時代
- 山名の教統継承問題 〜 名京大教会創設・静岡は名京所属へ(大正10年〜大正12年)
- 松浦幸蔵3代会長夫妻、上級・名京大教会住込みへ(昭和9年)
- 2代真柱の巡教(昭和11年)
- 松浦幸蔵3代会長の辞任 〜 出直し(昭和12年〜昭和13年)
- 松浦幸雄4代会長の就任(昭和12年)
- 空襲による教会施設の喪失 〜 復興ふしん(昭和20年〜昭和21年)
- 我が身を忘れた親への伏せ込み 〜 教勢の拡大(昭和20年頃〜昭和31年頃)
- 昭和初期、神殿ふしん打ち出しから頓挫に至った経緯(昭和2年〜昭和4年)
- 頓挫を乗り越え、教会創立60有余年にして初の神殿ふしん(昭和33年)
- 上級・名京大教会の神殿倒壊、再建へ伏せ込み(昭和34年~昭和37年)
- 静岡大教会へ昇格(昭和38年)
- 松浦幸雄4代会長の辞任 〜 出直し(昭和41年〜昭和42年)
- 松浦教幸5代会長の就任(昭和41年)
- 教会創立80周年記念祭(昭和47年)
- おわりに
静岡大教会(しずおか だいきょうかい)

諸井国三郎 山名初代会長の願望――県都・静岡市への教会設立
静岡大教会の教会史を辿る時、
まず、山名大教会初代会長・諸井国三郎の存在を抜きに語ることはできない。(明治22年に静岡県の山名郡で山名分教会を開設し布教に励んでいた) 諸井(国三郎)の胸中には、実に数多くの 大きな(構想と)抱負が描かれていた。
その中の一つ(が)、布教当初より心にかけていた、重要(な)布教(の)拠点(として) 県都の静岡市(に教会を設立する、というもの)であった。
(当時は 天理教の)布教に関して (強い) 政府(から)の圧迫干渉があったため、教会(を)設置(する)に当たって(も)、地方庁の「許可指令」は (なかなか) 容易に得られなかった。
(そうした時代背景を考慮すると)「(静岡)県下の隅々にまで伝道の道をつけるには、まず、(その)中枢たる静岡市に(拠点を築かなければならない)」との (諸井国三郎の) 想いは、(至極) 当然なものであった。
静岡大教会の原点――「益津支教会」の設立
(そのような状況の中) その悲願実現への足掛かりは、意外にも早く築かれることとなった。
明治23年(1890) 1月、
静岡市より西へ20粁、東海道宇津の谷峠を越えて藤枝の町に、
(静岡布教の土台となる) 益津支教会が設置されたのだった。(「益津支教会」は、
静岡県榛原郡白羽村の 小栗市十が、重篤な腹膜炎を 諸井国三郎のおたすけによって見事に ご守護頂いたところから始まり、その後、白羽・静岡・甲府・仙台 等の 数多くの大教会が分かれていく拠点となった、
山名部内の有力教会である。)
※1977年版『天理教事典』「静岡大教会」解説文の中では、
益津支教会が設置されたという記述の後、唐突に、影山清七初代会長の経歴について記述されています。
しかし、それだと、益津支教会がどのように静岡布教を展開したのかという流れがよくわかりませんので、当シリーズ第101回「益津大教会」の中にあった「静岡への伝道」部分をコピペします。
静岡への伝道(明治24年頃〜明治26年頃)
(益津支教会の) 静岡への伝道は、明治24年頃から始まった。
影山清七、釜蓋与右衛門 (益津部属・朝比奈分教会 初代)、 大塚新平の息子・作蔵、萩原郁蔵、山口愛次、竹田吉の息子・良作など、
宇津ノ谷峠を越えて 静岡へ布教に出掛けた。大塚作蔵、竹田良作は 更に 道をのばして (静岡県) 清水へも布教に出た。
(その頃、竹田)良作は、まだ15・16歳の少年であった。当時、(駿河国に 清水次郎長が居た。)
侠客で名を馳せた清水次郎長は まだ存命で、喘息に罹って苦しんでいた。
(大塚作蔵と竹田良作の) 二人は、(清水)次郎長のおたすけに掛かった。
(清水)次郎長は、教理を聞き、最後のおたすけの時には 大塚作蔵の手をしっかりと握ったという。(清水)次郎長は、この年 明治26年6月、74歳で亡くなった。
静岡布教 〜 静岡支教会の設置(明治23年頃〜明治25年)
(益津支教会による) 静岡での 2年余りの布教で、信者結成 500名以上となり、
明治25年7月5日、
静岡市安西1丁目南裏町80番地に 影山清七を初代会長とする 静岡支教会 設置の許しを受けた。静岡支教会 設置について、
(さまよいブログ > 天理教各教会の歴史探索(第101回)【益津大教会】より)
山名分教会では、
県庁所在地である静岡市に直轄教会がないのは不便で、不名誉であるから 直轄として取扱いいたしたいとの希望があり、
宇津ノ谷峠を境として、信者の新旧を問わず (益津支教会から) 全部分離して、山名部属とした。
影山清七 初代会長の経歴
静岡大教会の初代会長は、影山清七で(ある。
影山清七は) 農家の長男として生まれたが、若い頃より 藤枝の町に出て「八百清」の屋号の下に八百屋家業に精を出し、相当の資産を築いた。既に50歳を数えていたが、明治23年に入信し、益津支教会の重要な役員となった。
影山清七初代会長を中心とした静岡布教(明治23年)
同(明治)23年3月、
(影山清七 初代会長は) 近藤三郎兵衛を伴い、静岡市伝馬町の伊筒屋という旅宿に投宿。
その翌日から、次々と知り合い等を尋ねて布教を開始した。
それが、(静岡支教会の) そもそものはじまりである。その後、この人達を追って、
大塚作蔵・山口愛吉・大塚作次郎・加藤歳次郎・影山与吉・竹田茂吉・その子(の) 良作、
以上の面々も、相次いで布教線に加わった。
講社事務所の開設(明治24年)
これらの布教師等は、更に同志を得て、
布教開始以来 1年4カ月にして、
(静岡)市内 安西1丁目南裏80番地の、良知寅松 宅に「講社事務所」を置く運びとなった。
明治24年7月のことである。
静岡支教会の開設(明治25年)
(影山清七を中心に静岡の地で「講社事務所」が開設された後も一同は布教に励み、教勢はますます拡大。
その結果、講社事務所開設の年を) 越えて 明治25年、6月8日付で、山名分教会直轄教会として「静岡支教会所」設置の許しを得た。
広がる静岡の道
教線は、四方へのびて行った。
まず、大塚作蔵を主軸とする教線は、東海道を東へ 清水・由比・蒲原 … と進み、
更に、富士川を遡って 山梨県の南巨摩郡まで広がり、講社が結成された。静岡市の 南海岸地帯は、竹田茂吉が、主に これに当たった。
そして、これと反対に、
(静岡)市の 北西部、安倍川の支流である 藁科川を遡った村々に(も道が広がった。)また、宇津の谷峠のあたりは、益津時代から教えが伝わっていたが、
教会設置に当たっては、
(諸井国三郎) 山名初代会長の計らいで、静岡(支教会) に所属することとなった。
教会移転(明治26年)
(静岡支)教会 設立後、1年余りして、
信者の増加に伴い、従来の土地建物では 狭隘となったため、(教会を移転することとなった。)(そして、様々な過程を経て) 現在の (静岡)市内 鷹匠町3丁目131番地 (後に地番改正により、30番地) の、
かつては 武家屋敷であったと伝えられる 敷地 773.36坪 及び 3棟の建物(を) 共に買い求め、
明治26年11月17日、支教会を移転した。
布教活動の活発な時代(明治26年頃〜明治34年頃)
かくして、(影山清七) 初代会長在任中に、次の 7ヵ所の部内教会が誕生した。
明治26年に、庵原・有渡・蒲原、
明治28年に、駿府・藁科、
明治33年に、巨摩・安倍、
(以上の教会が設立された)。その後、内務省の秘密訓令があって、一時 やや教勢の停頓した時もあったが、
明治34年の1月から、
役員:大塚作蔵・竹田茂吉・海野愛吉 … 等、部内の担任者や 直轄教師等の多くが (静岡)支教会に住み込み、窮乏の中にも 布教の喜びに燃えつつ、教勢復活に努力した。その結果、(静岡支教会は) 再び 生気を取り戻し、その年(明治34年)、4間に6間の礼拝場を新築する程になった。
そしてこの頃が、静岡(支教会) の初期時代の中でも 統制のとれた布教活動の活発な時代であった。
その後の教勢
(活発な布教活動が展開されていたのであるが、それは、いつまでも続かなかった。)
(静岡支教会から) 遠く 東京から栃木方面へも数名の布教師が赴い(て布教活動に励ん)だのであるが、
この後、教勢の沈滞と共に、次第に、その布教線も消滅していった。
後には、わずかに東京に 1ヵ所の教会が残るのみと(いう状態と)なった。その後、種々の事情により、(静岡支教会の) 教勢は 衰微の一途をたどっていった。
諸井国三郎 山名初代会長と 松浦幸蔵
影山(清七) 初代会長には、実子がなかった。
(そのため、上級) 山名(分教会) の 諸井(国三郎) は、当初より、静岡(支教会) の後継者の人選に 意を用いていた。諸井国三郎が目をかけていたのは、静岡県小笠郡曽我村字篠場の、農業・松浦友吉の 3男・幸蔵であった。
松浦幸蔵の経歴
(松浦幸蔵は)
明治31年、ふとした病気から 山名分教会の住み込みの青年となり、
翌(明治)32年、おぢばの詰所勤務。
続いて、諸井(国三郎) の膝下で、天理教校 第1回生として入学。
(明治)36年春、同校(天理教校) を卒業した。この年(明治36年)、(松浦)幸蔵は 徴兵で甲種合格となったが、入隊に当たり、眼疾により兵役免除となって、帰静した。
その当時、山名分教会は、移転に続き 神殿建築の最中で、
また、(社会的には) 日露の鎬を削る戦い (日露戦争) の中にあって、
(松浦幸蔵にとって) 内外共に (多事)多端な青春時代であった。
諸井国三郎 山名初代会長による静岡支教会の後継者定め(明治38年)
明治38年1月7日、
山名初代会長(諸井国三郎) は、役員・平出団次郎と共に (松浦)幸蔵を連れて 自ら静岡(支教会)に赴き、 (松浦幸蔵を) 影山(清七)会長の後継者と定めた。しかし、若き (松浦)幸蔵は、影山の姓を名乗る事は 潔しとしなかったようである。
いろいろな事情の錯綜する中で、(松浦幸蔵が) 一時、郷里(の 静岡県小笠郡) 曽我村の実家に 帰省するような事もあった。
かかる中で、心身共に老境に達した (影山清七) 初代会長は、
考えるところあってか、自ら 静岡の地を去り、郷里(の) 藤枝に帰った。
(そして、これ)以降、(ついに) 再起することなく (この)世を去った。しかし、(影山清七が) 初代として道の上に尽くしたその足跡は、静岡の道の歴史の中に、今なお 深く刻まれている。
懇請を受け再興へ——松浦幸蔵の決意(明治38年〜明治39年)
こうした混迷する事態の中で、(静岡)支教会の役員は、鳩首協議を重ね、役員の代表が (静岡県小笠郡) 曽我村に足を運び、(松浦)幸蔵に、静岡の道を指導してくれるよう懇請した。
(静岡役員からの強い懇請を受けた結果、
松浦)幸蔵は、再び、荒れ果てた (静岡)支教会の再興(の上)に全力を注ぐことを決意した。そして、その翌年(明治39年)、
山名の役員:木村林蔵の娘・とみ と結婚した。
平出団次郎名義で2代会長(明治39年)
(静岡)支教会の担任変更は、事情の渦中にあって 猶予出来なかったため、
同年(明治39年) 11月11日付で、
便宜上、山名(分教会) 役員・平出団次郎の名義をもって2代会長の許しを得た。ただ、平出(団次郎) は、(その時点で) 清国廈門教会長であり、
静岡(支教会)には、ついぞ来(ることが)なかった。
松浦幸蔵3代会長の就任(明治40年)
(無担任状態を回避するため取り急ぎ平出団次郎名義で2代会長の許しを得た その 4ヶ月後)
明治40年(1907) 3月6日、
(松浦)幸蔵が3代会長として許しを得た。(それにより、松浦幸蔵は)
名実共に (静岡支教会) 担任の職に就任した。
静岡分教会へ昇格(明治42年)
明治42年2月24日には、
教規改正により、(静岡)支教会は 分教会に昇格した。
松浦幸蔵3代会長時代
(松浦幸蔵3代会長は、分教会昇格後も) 益々、部内の内容充実に心血を注いだ。
以来 30年——
(松浦)幸蔵 (3代)会長の一代は、決して 絢爛たる道ではなかった。
それは、事実上2代目の道であり、かつ、黙々とした 修理丹精の一代であった。大正5年から (大正)7年にわたって、
一時 売却された元の屋敷の 3分の2を買い戻すことが出来た。
山名の教統継承問題 〜 名京大教会創設・静岡は名京所属へ(大正10年〜大正12年)
やがて、大正10年、
(上級の) 山名大教会(に) 教統継承問題が起こり、
同(大正)12年、(山名大教会を分割して) 名京大教会が創設された。名京大教会の創設に伴って、静岡分教会は 名京大教会に所属することとなった。
松浦幸蔵3代会長夫妻、上級・名京大教会住込みへ(昭和9年)
名京創設・教祖40年祭 … と 相次ぐ大事の中で (松浦幸蔵3代会長は) よく部内を一つにまとめて邁進したが、
(名京)大教会の神殿建築を境に(して)、
昭和9年、(松浦幸蔵3代会長は)
(静岡)分教会の教務一切を、嫡男・幸雄に託した。(そして、これ以後は) 妻・とみ と共に、上級・名京大教会へ住み込んだ。
2代真柱の巡教(昭和11年)
昭和11年11月18日、
2代真柱が、東海3県 巡教の折、静岡分教会に 立寄った。
松浦幸蔵3代会長の辞任 〜 出直し(昭和12年〜昭和13年)
教祖50年祭を無事につとめ終えて、(松浦幸蔵3代会長は)
昭和12年5月15日、
会長職を (嫡男の松浦)幸雄に譲った。(その後、松浦幸蔵3代会長は) 心身共に (名京)大教会に勤め切っ(てい)たが、
翌(昭和)13年1月7日、
にわかに病となり、齢56歳をもって、その生涯を終えた。(松浦)幸蔵(3代)会長の在職期間中に設立された教会数は、
大正6年 1、
同(大正)11年 1、
同(大正)13年 3、
同(大正)14年 5、
昭和10年 1、
同(昭和)12年 1、
計 12ヵ所である。以上で、静岡(分教教会)は、教会設立以来(初めて)、20ヵ所の部内教会を数えるに至った。
松浦幸雄4代会長の就任(昭和12年)
昭和12年5月15日、
松浦幸雄が、4代会長に就任した。
松浦幸雄4代会長の経歴
4代会長(の) 松浦幸雄は、
明治42年5月7日の誕生である。静岡中学から天理外国語学校を卒業。
昭和9年、弱冠26歳で、分教会の教務一切を背負った。この年(昭和9年) 12月、本愛大教会の長女・光栄と結婚。
(昭和)12年5月15日、4代会長に就任。
4代会長就任後 程なく、名京大教会の役員、あるいは教区主事等を歴任。
折しも 戦時体制の下、数度にわたって「炭坑ひのきしん隊」の隊長として出動した。
空襲による教会施設の喪失 〜 復興ふしん(昭和20年〜昭和21年)
昭和20年6月19日夜からの大空襲により、
(静岡分教会の) 神殿 及び 教職舎が、灰燼に帰した。この数年にわたる大戦では、(静岡分教会においても) 多くの若き信者を失った。
しかし、終戦によって (従軍していた青年たちが) 逐次 復員。
(松浦)幸雄(4代)会長は、特に「青年よふぼく」の育成の上に 終始 心を砕いた。(また) 着のみ着のままの焼土の中から、雄々しく 教勢復興に立ち上がった。
明けて (昭和)21年春から、とりあえず、復興普請に取りかかり、
(昭和21年) 7月19日には、真柱を迎え、
ささやかな仮の神殿ではあるが 親神にお鎮まり頂き、奉告祭を勤める事が出来た。
我が身を忘れた親への伏せ込み 〜 教勢の拡大(昭和20年頃〜昭和31年頃)
しかし、一方、(上級の) 名京大教会もまた、この戦争で、神殿・教祖殿・事務所等、戦禍を受け全焼していた。
そこで、(松浦幸雄)4代会長は、自教会を顧みる暇もなく、部内一つになって (名京)大教会(の) 復興普請(の上)に 全力を注いだ。
(我が身を忘れた親への伏せ込みは速やかに天に届き)
にわかに (静岡)部内の足並が揃って活発となった。
(また) 続々と 信者も増加した。教会、布教所の新設は、年毎にその数を増し、
教祖70年祭までに 部内教会 50ヵ所を数えるに至った。(教祖70年祭) この年祭を 実に陽気に勤めて、(静岡分)教会の歴史を (華々しく) 飾ることが出来た。
(松浦幸雄が4代)会長(に)就任(して)以来、設立した教会数は、
昭和22年 1、
(昭和)23年 4、
(昭和)24年 2、
(昭和)25年 1、
(昭和)26年 1、
(昭和)27年 6、
(昭和)28年 6、
(昭和)29年 9、
(昭和)30年 1、
計 31ヵ所である。
昭和初期、神殿ふしん打ち出しから頓挫に至った経緯(昭和2年〜昭和4年)
(話はかなりさかのぼるが、
静岡分教会は) 創立以来、60年の春秋を数えたが、一度も本格的な神殿普請が出来(てい)なかった。
教会復興に 長い間心血を捧げてきた (松浦)幸蔵3代会長が 夢にも忘れる事が出来なかったのが、(その) 神殿普請であった。かつて、
教祖40年祭をつとめ了えた 昭和2年正月(には)、部内に図り 向こう 5ヵ年計画で普請を打ち出し、(昭和2)年末には、用材等を購入(するところまで進んでいた)。
そして、昭和4年9月、(天理教教会)本部に (神殿ふしんを)出願。ところが、境内地の一部に 財団法人未登記の部分があったため、残念ながら (それは) 受理されず、(そのふしんは) 一頓挫した(のだった)。
(そうこうする内に、上級) 名京大教会の神殿建築 並びに 名京詰所移転(が始まり、また) 教祖50年祭活動へ(伏せ込む旬が訪れた。
加えて) 打続く経済不況の中で、自教会のふしんどころではなくなった。その結果、静岡分教会は) 一切を親に伏せ込んで、(自教会の) 神殿普請の喜びは さらに将来に託すこととなったのであった。
(神殿ふしんに関しては、かつて 昭和初期に そのような経緯があったのである。)
頓挫を乗り越え、教会創立60有余年にして初の神殿ふしん(昭和33年)
(松浦幸雄)4代会長初め、役員・信者は、
先代 (松浦幸蔵3代会長) の (静岡分教会の神殿ふしんという) 悲願(の) 達成を肝に銘じつつも、厳しい時代を迎えて、
気がつけば (初神殿ふしんの挫折から) 20数年の歳月が流れ(てい)た。(そんな折)
昭和30年秋、たまたま来会した梶本宗太郎本部員から
「静岡は、年限の割には成人していない。何時までも分教会でいる事は、道遅れも甚だしい。今一歩、たすけ一条に精進して、(大教会へ) 陞級させて頂けるよう(頑張ってほしい)」
との お諭しを受けた。このお諭しを受けたことから、(静岡分教会の中で) 急速に、(眠っていた) 神殿ふしんの動きが展開され(るようになった。
そして、静岡一同は、ついに神殿ふしんを実行することを決意した。)明けて、教祖70年祭を勤め了えた 昭和31年5月26日、
あざやかに神殿建築の許しを得て、(静岡)部内は 勇みに勇んで普請に伏せ込んだ。(そして) 昭和33年秋、(無事に) 竣工。
同年(昭和33年) 11月17日、
部属教会としては異例といわれる、真柱を迎えての鎮座祭が勤められ、
翌(11月)18日、奉告祭を執行した。間口 7間・奥行 19間・鉄筋コンクリート造り(の) 神殿 231.5坪の建築は、
教会創立以来 60有余年にして (実に多くの人の思いを乗せて) 完成されたものである。
上級・名京大教会の神殿倒壊、再建へ伏せ込み(昭和34年~昭和37年)
この神殿落成の喜びは、この後、陞級(の動き)へとつながっていった。
昭和34年1月、当時の表統領・諸井慶五郎が (静岡分教会へ) ふと立寄った際に、偶然 巡教中の名京初代会長・諸井忠彦(と鉢合わせた。
その場で、諸井慶五郎表統領は、諸井忠彦 名京会長)に
「静岡は (名京から)分離して、(大教会に)陞級させてはどうか」と話をした。ところが、それから間もなく(のこと。)
名京・諸井(忠彦)会長は、北米巡教に赴き、9月末帰国。
(その)数日後、(なんと) 伊勢湾台風によって (名京)大教会(の) 神殿が倒壊してしまった。この大節を受けて、(静岡)部内教会は、名京(大教会) 神殿建築の上に 三度目の働きを誓って、懸命の伏せ込みを開始した。
片手に (自分たちの) 静岡(分教会) 普請の借財を抱え、片手に (名京)大教会への伏せ込みという、険しい 九十九折の道中であった。
こうした中にも、(昭和)36年2月には、内統領・中山為信が来会して、部内を懇に励まし、
「しっかり勤め しっかり尽くせ。そして、明るい陞級の御守護を頂くよう」
と、仕込んだ。昭和37年10月、(名京)大教会の神殿は 見事 落成した。
静岡大教会へ昇格(昭和38年)
その喜びの中に、(諸井忠彦) 名京初代会長より (静岡一同に向かって)「陞級を願い出よ」と言葉があり、
(静岡分教会は)
同年(昭和37年) 11月23日、(大教会)陞級願書を (天理教教会本部へ) 提出。
昭和38年1月26日、大教会陞級の許しを得た。更に、(昭和38年) 3月18日には、たすけ委員長 (3代真柱) の巡教があり、
(昭和38年) 10月19日には、
晴れて、2代真柱の臨席のもとに 大教会陞級奉告祭を執行した。顧みれば、教会創立以来、重畳たる 70年の歴史が刻まれていた。
松浦幸雄4代会長の辞任 〜 出直し(昭和41年〜昭和42年)
大教会陞級(に向けての一連の活動)は、(丁度) 教祖80年祭活動の旬に入っていた。
(教祖80年祭に向かっての)三年千日、
(松浦幸雄4代会長は) 喜びと もどかしさの錯綜する中、ぢば(一筋)につとめたが、
この頃より、自身の身体に、次第に (抜け難い) 疲労を覚えるようになった。(そのような状態となるに及んだ 松浦幸雄4代会長は)
「わが一代の御用も、終わりに近づいた」と悟り、
会長職を 次の世代に譲ることを決意した。部内教会にも (その旨) 相談、(了承をとりつけた。
そして) 昭和41年5月26日、
幾多の曲折の中をも踏み越えて 在職30年、
(松浦幸雄4代会長は、ついに 静岡大教会長の) 職を退いた。(その後) 秋の深まりと共に病状は重く(なり)、
(昭和)42年1月23日、
(松浦幸雄4代会長は) 58歳を以って 出直した。
松浦教幸5代会長の就任(昭和41年)
昭和41年5月26日、
松浦教幸が、5代会長に就任した。
松浦教幸5代会長の経歴
5代会長・(松浦)教幸は、
昭和12年3月26日の出生である。戦前戦後の厳しい環境の中で、幼少期を過ごし、
高校・大学を経て、
昭和34年3月25日、おさづけの理拝戴。修養科を了えて、
昭和38年5月30日、伊那大教会長 息女・由美子と結婚した。青年会・静岡分会委員長として教祖80年祭をつとめ、
(昭和)41年、4代会長辞任に伴い、
同年(昭和41年) 5月26日、
(5代)会長として (天理教教会)本部の許しを得た(のだった)。
教会創立80周年記念祭(昭和47年)
昭和47年9月19日、
真柱を迎え、教会創立80周年記念祭を執行した。そして、そこから (静岡大教会一同は、松浦教幸5代会長を中心として)
教会内容の (より)一層の充実と、おたすけ活動を進めている。
〔現住所〕〒420-0839 静岡県静岡市葵区鷹匠3丁目17番19号
〔電話〕054-245-5009(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,400〜402)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第129回目の今回は、
「静岡大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも、山名の流れを汲んだ静岡近辺の大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
「二十二年、山名分教会は地方庁認可を得て俄然布教熱に燃え、
駿河国の専任布教者として六十六歳の白髪の周蔵は、背水の陣を敷いて旅立った。保福島(現 藤枝市) に住む興津喜太郎宅に宿をとって布教。
信者ができるに従い、同地の興津源助 (甲府初代) 宅へ、八百屋 影山清七 (静岡初代) の家へと転じ、さらに 西益津村に 西益津布教事務所を設置した。教会設置の機運が熟したが、白羽の地元では布教が許されぬため、
白羽だけでの設置に至らず、
大井川を境に 東を益津、西を白羽に分け、同時設置となった。こうして二十三年、益津は周蔵、白羽は市十と、父子それぞれの教会として出発する。」
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,90 )
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】129回目の当記事では『天理教事典』の中の「静岡大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
『天理教教会所在地録』によると、
静岡大教会は、名京大教会から分かれた大教会となっています。

しかし(第101回「益津大教会」と第111回「仙臺大教会」の勉強をした時に知りましたが)
組織の系統表としてはそうだが、実際には、静岡大教会は益津大教会から分かれた大教会と言える、ということを今回の勉強で改めて再確認しました。
益津大教会は 名京大教会から分かれた大教会。
そして、名京大教会は、山名大教会から分かれた大教会。
ということで、静岡大教会は「山名」の流れを汲んだ大教会ですね。
山名大教会、名京大教会、益津大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。
第111回「仙臺大教会」の勉強をした時にも書いたことですが、
山名の流れを汲む大教会の歴史は 名京の分離等の複雑な経緯があったりして部外者にはわかりにくいところがあります。
しかし、今回の「静岡大教会」解説文書写学習においては、
以前、第101回「益津大教会」や 第111回「仙臺大教会」)で勉強して知識の土台があった分、事実関係把握の混乱は少なかったです (^^)

今回の書写学習で、まず興味深く感じたのは、
「静岡支教会」が設立されることになった経緯でした。
山名分教会の諸井国三郎初代会長が、静岡の県都に 山名分教会直轄の拠点を持ちたいという思いを持っていたことが「静岡支教会」設立の大きな動機になった――
というあたりのことが、いかにも人間臭い感じがして、興味深かったのです。
「県都に直轄拠点を」という、信仰的情熱と組織的戦略が入り混じったような動機。
信仰という世界でも、人が集まって組織を作ると、こういう「地勢」を意識した動きが出てくるのだと思うと、「へぇ~」という感じで(全く深い意味はなく素朴に)不思議な感覚に包まれました。
もちろん、それが間違いだとか不純だとか言いたいわけでは全くありません。
組織を守り拡げようとする者が、拠点の戦略的重要性を考えるのは、むしろ自然なことでありましょう。
けれども、教会設立が 諸井国三郎初代会長の願望から出発したというあたりの経緯は、
教会というのは本当に「人間的な現象」なのなのだということを改めて教えてくれるような感じがして、深く印象に残った次第であります (^-^)
(これは、単なる 素朴な『感想』の表出であって、だからどうこう… という意見を述べる意図は全くありません。その点、どうぞ ご留意願います m(_ _)m )

そして、次に強く印象に残り、そして何やら胸がざわついたのは、影山清七初代会長のことでした。
影山清七先生は、そのような「県都に山名直轄拠点を」という諸井国三郎会長の思いを受けて設立された静岡支教会の初代会長に就任した方ですが、実子がなかったため、
静岡の後継者として、諸井国三郎・山名初代会長により、山名で伏せ込んでいた松浦幸蔵先生が後継者と定められた、とのこと。
その後、心身共に老境に達した影山清七先生は、考えるところあってか、自ら静岡の地を去り、郷里の藤枝に帰り、これ以降、ついに再起することなく この世を去った――
『天理教事典』にはそのように書かれていました。
あれこれ詮索するのは不謹慎かもしれない とわかってはいます。
しかし、しばしば 信仰に対して後ろ向きになりがちな自分は、
自信満々に信仰を語る人々よりも、人知れず信仰を離れたり、静かに舞台の袖へと退いていった人々の方に、ついつい 目が向いてしまうのです。
影山清七先生は、どのような思いで静岡を去られたのだろう――
「考えるところあってか」という『天理教事典』のその控えめな一文が、何故か強く心に残りました。
その後、影山清七先生は、ついに再起することなくこの世を去った、と『天理教事典』には書かれてありました。
後継者は上から決められた。自分の役割は終わった――
一連の経過の中で、きっと ご本人のみぞ知る 様々な思いがあったに違いありません。
私はそこに、信仰に向き合い続けることの、ある種の「孤独さ」というものを感じずにはおれませんでした。
「信仰落第生」を自認する身には、影山清七先生の晩年は、どこか人ごとではない感じがしてしまった次第であります。(^^ゞ

最後に、今回の書写学習を通して感じたことを もう一つ。
大正12年に
山名大教会と名京大教会が分裂した際、
「静岡支教会」は 名京大教会の方に所属することになったわけですけれども、
その、山名大分裂の際、
山名部内の各教会は、どのようにして「山名か名京か」を決めたのだろう、
という 素朴な疑問が 私の中に湧いてきました。
上から「おまえはこちら」と決められたのか、
それとも 各教会の意向が反映されたのか――
詳しいことは 全くわかりません。
しかし、仮に意向を問われたとして、
その時、末端の信者の方々は どんな気持ちだったのだろう、とも思いました。
「どちらの大教会に所属するかなんてどうでも良い、そんなことより ただ日々の信仰を積み重ねたい」
という人も、きっとたくさんいたのではないか、と想像致します。
そのような人たちが、組織の上層部の人間関係や思惑によって「あなたはこちら」と振り分けられる――
「教会」というのは人間の集まりである以上、きっと、これはどんな宗教にもある、ある種の宿命のようなものなのに違いありません。
ただ、
素朴に信仰と向き合いたい者であっても、
教会を通して信仰を続けていくにあたっては、
その信仰と現実社会をつなぐ場である「教会」が
自分たちの与り知らぬところで決まった組織上の事情に翻弄されるということからは逃れられない――ということ。
「山名―名京―益津―静岡」という関係性の確認を通して、今回 改めて そのことを思わされました。
また、そのことは、
そうした翻弄の嵐の中でも 信仰の軸を手放さずに歩んでこられた先人先生方の強さというか 篤さみたいなものを、改めて、しみじみと感じさせられる機会ともなったのでありました (^^)
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出てくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「静岡大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、
その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。
今回もまた、知らないことばかりでしたが、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「静岡大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。







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