天理教 各教会の歴史探索(第36回)【本島大教会】『天理教事典』より

「本島大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号35番「東愛大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号36番「本島大教会」について勉強します。

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本島大教会(ほんじま だいきょうかい)

本島大教会写真①
FOURSQUARE天理教本島大教会 より

本島の道明け(明治29年~明治30年頃)

天理教 越乃國支教会の布教師・佐藤栄佐が、
小間物を行商しながら、香川県仲多度郡 本島村で布教を開始したのは、
明治29年(1896) 1月である。

それから数年するうちに、入信する人は増えて、
遂には
4つの斯道会の講元が結成された。

大熊松次郎(京城大教会初代会長) の妻 こま は、
指物大工の夫について神戸在住する中で 胸を病み、
遠縁の知人に勧められて、近所の天理教会に参拝するようになった。

(参拝を重ねて)
教えを深く信じると共に、病気を救けられた。

その後、
神戸を引揚げて、故郷の本島に帰っている時、
行商と布教をしながら戸別訪問をしている 佐藤栄佐に巡り会い、
(大熊)こまの信仰は復活した。
明治30年のことである。

大熊こまは 
佐藤栄佐のために、近所の家を借り、そこを集談所とした。

(大熊)こまには、兄・元三郎、弟・幸太郎 と 好造 の兄弟があった。
長男は若死にしたので、幸太郎が 長尾家を継ぎ、
好造は、
青年の頃、本島泊浦の 片山家のひとり娘 ハル の養子となって、家を立てた。

片山好造の入信(明治35年)

片山好造は、
15歳の頃から 父・竹次郎の仕込みで 大工職を覚え、
やがて 建築土木 請負師として世に出た。

明治35年1月、(片山)好造が34歳の時、
兄弟は 請負業に失敗。
郷里の知人を頼って 韓国・ソウルに渡り、
ここで再起しようと相談がまとまり、

まず 長尾幸太郎と大久保荒吉が 韓国に渡った。
明治35年 4月6日、
頼まれていた仕事で出発が遅れていた(片山)好造の出発が
1週間後に迫った時のこと。

(片山好造は) 仕事の帰り道で猛烈な寒気に襲われ、
家に帰るなり 床についてしまった。

それが始まりで (片山)好造は病みついてしまい、
遂には、
医者からさじを投げられる程にまでなってしまった。

(片山)好造は、
これまで、(姉の大熊)こまからも話を聞かされ、佐藤栄佐を知ってはいたが、
いっこうに耳を貸さずにいた。

しかし、姉・(大熊)こまの 真実なすすめもあり、
(佐藤)栄佐の おたすけ を乞うことになった。

(明治35年) 6月24日 陰曆5月19日夜、
(無い命をおたすけ頂くため、決死の覚悟で)
(片山)好造は、おぢばがえりを誓った。

(そして)
(佐藤)栄佐、(大熊)こま の3人と
(6月)25日に、おぢば に参拝し、別席を運んだ。

その夜、
(佐藤)栄佐は、家族宛に遺書を記し、
(片山)好造のために祈願した。
(この遺書は、本島大教会の歴史を綴る宝ものとして、現在も保存されている)

(そのおぢばがえりで、片山好造は奇跡的なご守護を得、快癒することができた)

本島布教所の設置(明治35年)

(身上をたすけられた)
(片山)好造が おぢばから(本島へ) 帰ってからは、
(片山好造の) 生活環境は一変した。

(片山好造は 懸命に布教に励むようになったが)
周囲20キロほどの島に 寺院仏閣が10数ヵ所もあるところでの布教には、
反対と攻撃が続いた。

明治35年11月30日、そういう状態の中で、
香川県 仲多度郡 本島村 字甲生浦 第18番戸に、
神道天理教会「本島布教所」の設置が許された。

片山好造は
佐藤栄佐の真心によって、不思議な救けを得たので、
入信の日も浅く 先輩の忠告を受けながらも
信者間をかけまわり、心身を尽くしきって、
(佐藤)栄佐を担任(所長)としての 布教所設置を目ざした。

しかし、
(佐藤)栄佐の 一身上の事情のために、
(佐藤)栄佐の恩師の 高橋直秀が 担任(所長)になった。 

高橋(直秀)は (その時 既に) 越乃國支教会長であったから、
本島布教所長を兼務したことになる。

その年(明治35年) の暮から
片山好造は、布教所公認申請の手続きを始めた。

が、明治29年の秘密訓令は、
寒村にも すでに浸透し始めていた。

村民の猛反対にあって、地方庁から請願は却下され、
そのため、信者間にも問題が続出し、
本島布教所の前途は明るくなかった。

海外布教の道明け(明治36年頃)

その頃、
仕事が成功していた(片山)好造の兄・長尾幸太郎は、
(片山)好造が 天理教に入信して 養家にも不義理をしていることを知り、
弟を佐藤栄佐から引き離して、信仰をやめさせようと、
“早くソウルに渡航せよ” としきりに急いてきていた。

その手紙を受けた(片山)好造は、
(佐藤)栄佐や 姉(大熊こま) と対策を練った。
「このことは、海外に道開きせよという神の思召にちがいない」
と 一同 話し合い、
その結論によって (明治36年) 5月には、
(片山)好造は 大熊松次郎と養子の忠次郎たちと
玄海灘を越えた。

姉の (大熊)こまは、2ヵ月遅れて ソウルに到着した。
この事柄が、本島が海外に進展する始まりとなった。

丸天風呂の開業(明治37年頃)

それから半年たらずで 日露戦争 (明治37年2月~明治38年9月) が勃発したが、
長尾幸太郎は 軍の工事を請負い、
ソウルから平壌へ移り 事業は発展した。

(片山)好造も 兄(長尾幸太郎)の仕事を助けた。
が、仕事をすれば体にさわるので、
姉・(大熊)こまと 布教に励むのであった。

また、当時 ソウルに風呂屋がなかったので、
公衆のためと、布教のために、
(片山)好造は 風呂屋を思いつき 兄(長尾幸太郎) に相談した。

健康のためにも家族の生活のためにもなるので、
(長尾)幸太郎は 土地を買い、小さいが風呂屋を建て、
丸亀からは薬草を取りよせ、「丸天風呂」を開業した。

(大熊)こまは、番台に座って布教した。

京城の初期に入信した人は、みな この薬湯を利用しており、
当時の収益金を 布教費に充当した。

片山好造の帰国、本島布教所の立て直し→認可(明治37年頃~明治38年)

ソウルでは 次第に教勢が伸びていた(のだ)が、
本島布教所では 
佐藤栄佐を排斥し、(その)布教は 支離滅裂の状態になって(しまって)いた。

そのことを心配した(大熊)こまは、
(片山)好造を本島に帰して 本島布教所の立て直しを図ることとした。

(片山)好造は、紛糾する本島に帰り、
身にふりかかる困難を乗り越え、
布教所公認をとることに奔走した。

(その結果)
本島布教所が地方庁から認可されたのは、
明治38年 11月18日であった。

佐藤栄佐は、その5ヵ月前に 39歳で 故郷で出直し(てい)た。

本島布教所の神殿ふしん(明治39年~明治40年)

本島布教所の神殿ふしんの議が起きたのは、
教祖20年祭が執行された 明治39年の春であった。

当時、ソウルでは 大熊こまを中心にして教勢が着実に伸びていたが、
教導職を持つ人もなく、手続きもわからなかった。

(そのため)
布教所設置よりも 本島布教所の内容充実のために ふしんが急務(である)
と、衆議が一決した。

(ふしんは着実に進んで)
起工式は、その年(明治39年) 12月5日、
遷座祭は (その翌年の) 明治40年 6月25日(陰暦5月15日) に執行した。

「お目標」の拝戴は、布教所設置以来 5年目のことであった。

敷地は 1反5畝14歩。
建物は 間口5間、奥行9間、45坪の神殿の他に 別棟に教祖殿があり、
木造瓦葺平家建である。

京城宣教所の設置~本島布教所から支教会への昇格(明治41年~明治42年)

京城宣教所は 
大熊松次郎を担任として、
明治41年 11月23日に設置された。

翌年(明治42年)、
教規改正により 本島布教所は 支教会に昇格した。

それとともに、片山好造が会長に就任。
名実共に「本島」を指導することになった。

大熊こまの出直し(明治42年)

しかし、明治42年6月、
「京城」の信仰の中心である 大熊こまが出直した。

京城は、(大熊こまが出直したまま) 放置しておくと、
崩壊する恐れがあった。

 (片山)好造は、
姉・(大熊)こまの大恩を思い、ただちにソウルに赴いた。

(そして調整の結果)
義兄・大熊松次郎に代わって、
(片山好造が) 自ら「京城」の教えの上に 指導的な役目を果たすことになった。

本島支教会と京城宣教所は、片山好造を芯として発展した。

本島の道の広がり(明治43年頃~大正2年頃)

明治43年には、岡山県琴浦に琴浦宣教所を設立したのを始めとして、
(明治)45年には 京城、水原、太田、大邱 
と、朝鮮内にも教勢が広がった。

大正2年、
「京城」の教線は 朝鮮半島から満州に伸び、
奉天、遼陽、大連にも 次々に布教師が送られた。

そして、第1次世界大戦を機に、 
中国大陸の 青島、済南、天津…と、布教線戦は更に伸び、
ロシア領のウラジオストクに(まで)も、布教師が派遣された。

片山好造は、 生前中、
よく「ブンマワシ布教」と言っていた。

(その意味は)
「本島」や「京城」を中心として円を画き、
その円周上に点々と布教師や教会を置き、
巡教がたやすくよく出来るように地取りをして、次々にその地を訪ねる、
という布教方法のことである。

(布教の結果)
教勢は 広く遠く伸びたので、
(片山好造は) 盆も正月もない巡教を(こまめに)行った。

また、(布教師を)送り出したまま置き去りにしないよう、
(片山好造) 自らが 現地に赴いて調査をしたり、
何らかの関係をつくるために あらゆる努力をした。

本島の躍進→支教会から本島分教会へ(大正時代)

大正3年暮、初代真柱が出直。
翌年(大正4年) 6月には、松村吉太郎が 突然 奈良監獄に拘禁され、
教祖30年祭を半年後に控えて、
全教内が動揺し 教勢は沈滞していた。
この状況を心配した片山好造は、
大正7年 別科21期に、婦人40名と男11名の生徒を送り出した。

(天理教にとって これは)画期的なことであり、
この件が直接の原因ともなって、別科生が急増した。

大正中期のロシア革命期に
片山好造は、
シベリア鉄道を利用しての欧州布教の構想を持つようになった。

(そうした壮大な構想に基づき)
大正8年夏、
ハルピンからチタへ、婦人を布教に出発させた。

(また) 同時期、
布教師の教養知識を深め 教理の研究を進めるために、
前の天理中学校校長・広池千九郎を 本島に招請し、
講習会をしばしば開催もした。

大正10年、教会数は日本国内14、朝鮮18、満州13、中国2。

大正14年4月18日、本島支教会は 分教会 に昇格した。

そのときの教会数は 
国内36、朝鮮26、 満州18、中国3となっている。

アメリカ布教(大正15年頃~昭和6年頃)

教祖40年祭が執行された年(大正15年) の夏、
部内教会の婦人布教師で 神戸の旅館で勤めていた者が、
ふとした巡り合わせから
北米シアトル郊外に農場を持つ人と
布教を条件として結婚し、
アメリカへ渡っていった。

それより先に、
(もともと) 横浜で布教していた婦人の 義弟夫婦が
病気から “布教の土台となる” という心定めをして
ポートランドに移住していた。

(その夫婦が)
教祖40年祭参拝中に 子供が足を痛めたのをたすけられ(るというご守護を頂い)て、
「その布教師を引き受ける」と 片山好造に約束した(のだった)。

この二つのことから アメリカ布教が 急速に具体化し、
昭和2年(1927) の夏には 
2人が 布教師のビザで 太平洋を渡り、北米ポートランドへ出発した。

西に伸びた教線は 東にも伸ばす
という 片山好造の10年の思いが実現した(のであった)。

それからの 5年間に 
カナダ、 アメリカ、ハワイへ布教師として派遣された人は 23名で、
教会設置は 13ヵ所である。

この海外布教と並行して 片山好造は、
船員を布教師に仕立てて 七つの大洋を航海させ、
船内に神さまを祀らせ、船中の布教やら寄港地での布教を始めさせ、
これを「船舶布教」と名づけた。

昭和6年 5月、 
(上級の) 越乃國分教会が
河原町大教会から分離昇格して 中教会になった。

本部ふしんへの伏せ込み(昭和8年頃~昭和12年頃)

教祖50年祭を迎えるにあたって、
本部において、神殿、教祖殿 御用場のふしんが 打ち出された。

(その際)
長尾幸太郎は 建築委員助手に任命され、
ふしんに参画することになった。

このことがきっかけとなり
「建築に必要な石材は いっさい、本島が受け持て」
という内意が 片山好造に伝えられた。

昭和8年 4月1日、
本島分教会は、
石材切り出し現場を視察する2代真柱を、初めて教会に迎えた。

この献石は 通算4年にわたって行われ、
終わりの頃には、
かんろだい礎石を献納することができた。

本島大教会への昇格(昭和12年頃~昭和15年)

昭和12年 7月、
中国大陸の蘆溝橋で事件が勃発した頃の (本島の) 教勢は、
国内81、朝鮮65、満州39、中国6、アメリカ26、南洋1
の教会があった。

この直後から 時局は、革新の名のもとに推移し、
宗教行政にもそれが波及した。

昭和15年 1月23日、
「本島」と「京城」は、越乃國大教会から分離昇格し、
それぞれ 大教会になった。

その時の (本島の) 所属教会は、
大教会を含めて 国内は71、満州1、中国2、アメリカ26、南洋1
の 計100ヵ所であった。

片山好造2代会長の出直、片山俊次3代会長の就任(昭和17年)

片山好造が 40年の伝道の生涯を本島で閉じたのは 
昭和17年 6月27日、74歳であった。

その時、長男の 片山俊次は、
本島大教会3代会長に就任して 半年が経過していた。

教会の移転建築(昭和34年~昭和36年)

片山好造 (初代)会長の20年祭と
教会創立60周年を記念しての「教会移転新築」が
(片山俊次)3代会長によって発表されたのは、
昭和34年 1月22日であった。

(そこから)
ただちに 1万3千坪の敷地買収が始まり、
同年(昭和34年) 6月26日には、
本部から
香川県丸亀市 本島町泊 字甲松ヶ浦268番地
への移転のお許しを受けた。

建物は、
鉄骨鉄筋コンクリート造 銅板葺平屋建 半地下室 神殿1棟、
建坪 361坪9合6勺7、
半地下室 397坪9合9勺4である。

昭和36年 4月26日には、
客殿と付属建物の増築のお許しを 本部から受けた。

足掛け3年の歳月を費やして ふしんは完成した。

教祖90年祭活動(昭和40年代末期~昭和50年頃)

また、教祖90年祭(昭和51年) を目指して、
第46母屋として 信者詰所の建築にかかり、
第1期工事として、
天理市指柳町に鉄筋コンクリート造り瓦 葺き入母屋造り地下1階地上4階建て、

5,913.78平方米を完成し、
昭和50年 6月24日には (3代)真柱が視察した。

昭和50年 12月末日の教会の分布は
日本国内153、カナダ1、ブラジル1、アメリカ合衆国32 (内ハワイ13)、
となっている。

〔現住所〕〒763-0023   香川県丸亀市本島町字泊268番地
〔電話〕0877-27-3321

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,772〜774)

おわりに

本島大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

36回目の今回は、
「本島大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

本島大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

天理教 各教会の歴史探索シリーズ】36回目の当記事では
『天理教事典』の中の「本島大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

本島大教会は、越乃國大教会から分かれた大教会ですね。
越乃國大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」斯道会に繋がる青年会斯道会「大教会系統樹」.jpg より

当記事では
『天理教事典』の中の「本島大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。

私は、『天理教事典』1977年版という古い資料のみを通して、
天理教大教会の初期の頃がどんな感じだったのか、知ろうとしています。

軽い気持ちで始めたこの【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】も、
いつの間にか30数回を重ねるに至りました。
が、その中で、
『天理教事典』1977年版の解説文だけではよく分からない部分に、
たびたび ぶつかってきました。

それは、
教材が古い資料であるということ、
そして、
解説文を寄稿された先生方が、
皆、当然知っているだろうと考えられた部分は、大幅に省略して書いておられること、
そういった要因によるものだろう、と思われます。

不明な部分は、自分の身の周りにある天理教関係の本などを当たってみたりもしますが、
それでも はっきりしない部分が 多々あります。

今回の、『天理教事典』1977年版の「本島大教会」解説文でも、
分からない部分がたくさんありました。

まず、
片山好造先生が入信されたあたりの経緯がよく分かりませんでした。

医者から匙を投げられる程の大病を患って、
姉・大熊こまの 真実なすすめで 佐藤栄佐の おたすけ を乞い、
佐藤栄佐・大熊こま と共に おぢばがえりし 別席を運んだ…
としか書かれていなかったからです。

おぢばがえりしてご守護頂いたことが入信につながったのかなぁ…等と思いながら、
軽い気持ちでネットを検索していたら、
本島大教会直営サイトが見つかりました。

そこを訪問し、中をのぞいてみると、
片山好造先生入信の経緯が、
非常に詳しく小説風に、わかりやすく書かれてあるではありませんか‼

天理教本島大教会年譜表 立教187年版(2024)

心から感動しました…(T_T)
『天理教事典』1977年版「本島大教会」解説文の不明点が一気に吹っ飛びました。

リンクを貼り付けておけばいいことかもしれませんが、
感動を繰り返し味あわせて頂きたいので、
私自身の読み返し用に、原文をコピペさせて頂きます。
本島大教会サイト運営者様、ご了承下さい m(__)m

【片山好造 入信のお話】(明治35年)

明治35年、好造が韓国へ渡ろうと決心した裏には、事業に失敗を重ねて、四国にも本島にも居れなくなった事情があった。

「俺は韓国へ行って、働いて働いて、働き死にして来よう」
そう決心し 4月6日、好造は韓国へ渡ることになった。

出発前のある日、姉のこまが訪ねて来て、
「好造、お前すまんけど、韓国へ発つ前に、甲生浦の集談所の襖の戸を修繕してやってちょうだい」
と頼みに来た。

佐藤栄佐の集談所は甲生浦の徳玉神社の西側、こまの家の近くにあった。
この頃姉のこまは 佐藤栄佐の熱心な信者になっていたのだった。

好造が集談所へ行ってみると、佐藤栄佐が一人座っていた。
あいさつも簡単に、建具の修繕を済ませ、帰ろうとしたとき、栄佐が呼び止めた。

「片山さん、一寸お待ちなさい。あなたは今度 韓国へ行かれるそうですな。
韓国へ行くなら天理教の信仰に入っていきなさい」
「私は信仰は嫌いです。」
好造は なるべく栄佐の言葉に関わらないように、身体をかわした。

「しかしな、片山さん。
あなたは今、自分の力で何でもやり抜こうと考えておられる。
神の力というものがあることを知らない。
それでは つまずきますぞ」

好造は、何をこの騙り屋、自分の力を頼らんで 誰の力を頼めというのだ。
持ち前の負けず嫌いの気持ちが むらむらと湧き起こったが、乞食風情の天理教には なるべく関わらないように、さっさと集談所を出た。

このあと、好造の身体に突然の病が迫った。

好造は 村境の石橋の所まで帰ってくると、にわかに全身にぞっと寒気を覚え、目の前が真っ暗になって倒れてしまった。
医者が駆けつけて診てくれたが、なかなかの重態である。

そして 何日経っても少しも良くならない。
身動きも出来ない有様で、憐れ 病床に呻吟する身となった。

「あの布教師は、本当に私を救ってくれるのかも知れない…」
「佐藤先生を呼んで来て下さい」
好造は 佐藤栄佐に来てもらうように頼んだ。
それは 明治35年 4月16日のことだった。

片山好造から迎えの使いを受け取った佐藤栄佐は、いよいよ時の来たことを神様に感謝した。
お道の伝道も この日を境に変わる。
そして 自分の命を延ばして頂いた 約束の奉公ができる と思った。

集談所を出ると、栄佐は渚に着物を脱いで海に飛び込み、身を清め、それから山王山の峠を越えて 片山好造の家に向かった。
栄佐は 好造に初めておさづけを取り次ぎ、教理を説いた。

「それならば、これから毎月一日、神様の御用を勤めさせて頂きます」
と 好造は言った。
栄佐は何も言わなかった。

その時は 病気は少しは良くなったのだが、しばらくすると また悪くなった。
栄佐が呼ばれて、おさづけを取り次いだ。

好造は 今度は ひと月のうち三日間 と言った。
病気はその時はよくなったが、また悪くなった。
再び 栄佐が呼ばれた。

「先生、それでは ひと月のうち十日間は 神様の御用のため、十日間は事業のため、十日間は家族の生活費のために勤めさせて頂きます」
好造の気持ちとしては、これが精一杯だった。
黙って聞いていた栄佐は、この時 はっきり言った。

「片山さん、一日とか、三日とか、十日とか言わないで、全部が全部神様に捧げなさい。
神様の思惑はそこにあるのですよ。
全身全霊を捧げて神様に仕えるところに、あなたの生きる道があるのです」

これを聞いた好造は、痩せほうけた身体をむっくり布団の上に起こし、
「先生、それは余りにもひどい言葉じゃないですか。
天道 人を殺さず と言います。
それは神様の心ではないと思います。
神様にこの身体を捧げたら、誰が家族を養ってくれますか。
先生は 私を利用しようというのですか」
と、食ってかかるように怒った。

栄佐には、その気持ちは 分かりすぎるほど分かっていた。

この人の思うように、家族・親兄弟のために事業をやったら、この人は喜ぶであろう。
しかし、それではこの人の身が立たない。
自己中心の思案を根こそぎ取り払って、神様中心の心にしてやらねば、この人のたすかる道はないのだ。
しかし、好造の心中を考えると、人情として、好造が怒るのも無理がない と思うのだった。

「そうですか。あなたもよく考えてみて下さい」
栄佐は そう言い残して帰った。

好造の病気は その後、急に悪化し、急性脳神経衰弱に変じ、全身に激しい痙攣が起こり、高熱が下がらなくなった。
医者よ薬よ といろいろ手を尽くすのだが、少しもその効なく、次第に衰弱するばかりで、まったく危険な状態になった。

「たすかるのでしょうか」
心配のあまり医者に訊ねるのは 父の竹次郎だった。

医者は しばらくは無言であったが
「もうこうなっては、薬の反応もありません。
なすすべがありません」
と答えた。

好造のおたすけにかかってから、栄佐の深夜の水行が続けられた。
そして ある夜更け、栄佐は忽然と悟るのだった。

それは、一切の都合を捨てたとき、人間は神の思召を悟ることができる ということだ。
それからの栄佐は 迷わなくなった。

自分は 一切を棄てる。
自分の生命はもちろん、家族の生命を棄てる。
そして、片山好造にも 一切を棄てさせる。

栄佐は言った。
「片山さん、その身体 神様に捧げる決心がつきましたか」

好造は 他人の言葉に動かされる男ではない。
心の底から成程 と感ぜざる限り 動く男ではなかった。

「嫌です」
栄佐との問答は 生死の境にあって なおも続けられた。

その頃、好造危篤の知らせは、高松にいた姉のこまの所へも 飛んで来た。
好造の枕元に駆けつけると、昔に変わる姿を見つめては 涙が止まらなかった。
医者は匙を投げ、今の頼みは 神様だけだ。

こまは 佐藤栄佐にお願いした。
栄佐は
「本人の心が変わるまで 如何ともしがたい」
と言う。

好造は 栄佐の言葉には死んでも従わん と頑張り続けた。
こまは どうしてよいか分からなかった。

そのうちに花も散り、野も山も新緑に包まれた 五月の半ば頃になった。

好造の病状は 一進一退を繰り返す間に 次第に悪くなっていった。
こまは、日に何度も集談所へ駆けつけては 神様に祈った。

ある夜、父の竹次郎が こまに向かって言った。
「おこま、好造も 医者に見離されてこんな姿になっては 全快施す手段ももはやないだろうが、親としては それでもたすけてやりたい。
信仰でたすかる道があるなら、例え 屋敷に草が生えても構わんから たすけてやってくれ。
わしの生涯の願いじゃ」
と、こまに 涙ながらに頼むのだった。

5月19日の 夜12時頃、好造の病状は いよいよ絶望の状態に陥った。
佐藤栄佐が呼ばれた。
しかし 栄佐は
「心が定まらんうちは おさづけは取り次がん」
と言って帰った。

父の竹次郎は泣く。
その真ん中に立って、こまは 立っても座ってもおれなくなった。
こまが 栄佐が帰った後を追うように、甲生浦の集談所へ駆けつけた。
今は 頼むのは佐藤栄佐だけだった。

ところが 集談所に栄佐はいない。
「佐藤先生」
こまは 栄佐を探した。

すると 闇夜の海の中から 悲痛な声が聞こえてきた。

「私の命はもちろん、妻子の命も差し上げます。
何卒 片山好造の一命をおたすけ下さいませ」
それは 佐藤栄佐だった。

「佐藤先生、おねがいです。
どうぞ もう一遍 おさづけを取り次いでやって下さいませ」

こまは、栄佐を連れて片山好造の家へ帰り、そして 好造の枕元に座ると、破鐘のような大きい声で好造を怒鳴りつけた。

「好造、お前のような奴は死んでしまえ。
人の誠真実の分からぬような奴は人間じゃない。犬畜生です。
佐藤先生が お前をたすけんために 自分の命に代えて神様にお願いしておられるのが分からんか。
先生は、今も甲生浦へ行ってみれば、海に入って自分の一命はもちろん、家族の命も差し上げますから、片山好造の命をたすけてやって下さいと、神様にお願いしておられた。
お前には 人の誠真実が分からんか」

そう言って、こまは 顔を畳に伏しつけて、声を上げて泣いた。

その時、好造は 初めて栄佐の真実を知ったのだった。

「姉さん、済まんかった。わしが悪かった。
今日から神一条になります。
姉さんや、佐藤先生の言われることを、神様の声と思うて 絶対に従わせてもらいます」

それを聞いた栄佐は、まさに 一命を供えてのおさづけを取り次いだ。
そしてすぐ、海に入って水行を行い、さらにお願いづとめをつとめた。

それまで ほとんど正気を失うほどの痙攣がたびたびあった好造の症状は、その夜が明けるとともになくなり、初めて熱も下がった。

「おこまさん、好造さんは おたすけいただいた。
この道 どこまで伸びるか分からんで。」
と、栄佐はほっとした気持ちで こまに言うのだった。

自分が成程と思わない限り、他人の言葉に動く好造ではない。
しかし 自分が一旦 成程と思った以上、誰が何と言おうともやり抜くのが 好造の性格であった。

朝、好造は姉に向かって言った。
「姉さん、私をこれからおぢばに連れて行って下さい。
私は この際 おぢばに参拝して、新しい片山好造になってきたい。
また 今日までの懺悔もして来たい。
途中で万一のことがあっても 少しも怨みに思いません」

「好造、よく出来た。
これからは 共に 神様の御用勤めをさして頂こうで」

早速 栄佐と相談の上、三人で大和を目指して出発することにした。

しかし 苦痛は去ったといっても、長らく病褥に苦しんでいた彼の身体は、外の風に当たるのさえ 気遣われるような身上である。
たとえ 本人の希望でも、海山遠く隔てた大和へ旅立つことは誰も賛成しない。

この話を聞いた親族らは びっくりして駆けつけた。

父の竹次郎は、
「好造、お前はその身体で大和へ行くそうだが、そんな突飛なことは止めてくれ。
世間がどう思うか。
途中 万一のことがあったらどうするか」
と言った。

それを聞いてこまは、
「お父さん、あなたは今頃 何をおっしゃるか。
先に なんと申されましたか。
どうか たすかる道があるならたすけてやってくれと、涙を流して頼んだではありませんか。
好造がわずか一夜のうちに、こんなご守護を頂いた。
私も 大切な命をかけております。
何といわれても 連れて行きます」
と、彼女も 一旦決心したことは動かさなかった。

側で聞いていた物部の伯父が
「おこま、お前のいうことは、そりゃ迷信というもんじゃ。
神様は参拝したからたすける、参拝せんからたすけんというもんじゃない。
途中で死んだらどうする」
という。

その他 寄り集まった者は、
「おこまさんは鬼のような人だ。神様に呆けたらあんなもんかも知れん」
と言い合った。

しかしこまは屈しなかった。
「伯父さんの言葉ですが、もし好造の身体に変わったことがあったら、私も一緒に死んでお詫びいたします。
決して好造の亡骸だけを持って帰るようなことは致しません。
しかし 皆さんのいわれることに従うて、好造がこの家でなくなるようなことがあったら、皆さまはどうされますか。
好造は医者に見離された身体です。
それに 本人が行くと言うているではありませんか」
と、信ずる道に向かっては一歩も曲げなかった。
家族親族も その勢いに押されて、不承不承で見送るのだった。

片山家の直ぐ裏は塩田で、塩田の横に掘があり、潮が満ちると船が出入りできる。
好造の身体は 赤毛布に包まれ小船に乗せられた。
知り合いの船頭が櫓を漕いでくれた。

村人は 好造の姿を見て
「片山さんもついに天理教に呆けてしまいよった。
あれで生きて帰れたら炒り豆に花がさくで」
と言い合った。
栄佐とこまは すでに死を覚悟していた。

海上は 近頃になく穏やかで、夕日が瀬戸のしまなみを包み、海上は紅を流したように輝いていた。
下津井に船が着いたときは、日もとっぷり暮れていた。
ごみごみした裏道を抜けて、好造は笹屋旅館に連れられた。

船から上げられた好造は、さすがに疲労を感じ、旅館に着いた時は息も絶え絶えの状態だった。
暗いランプの下に好造は寝かされ、肩で息を続けていた。
かねて覚悟はしていたものの、こまは 夕飯がのどを通らなかった。

栄佐は「決して案じてはなりませんよ」と言い、片肌を脱いで自分の腹に結んでいた赤衣のお守りを外し、好造に与えた。
当時の人の信仰では、お守りを身体から離すということは、死の覚悟を意味していました。

「先生、それではあなたはどうなります」
と 好造が自分の身体の危険を忘れて訊ねた。

栄佐は静かに答えた。
「私の命は すでにあなたにあげたものです。
私はただ あなたに生き長らえてもらいたい。
この道を伸ばしてくれるのは あなたより外にありません」

そして栄佐は、おさづけを取り次いだ。
若い好造の血潮は 感激に燃えた。
この人のためには生命はいらぬ と思った。
おさづけが済むと、不思議に好造の身体は快くなっていった。

本島を発って 3日目の 5月22日、三人は まず 敦賀の 越乃國支教会へ参拝に行った。
その日は支教会の月次祭の日で、沢山の人が集まって賑やかだった。

参拝後、栄佐は 片山好造を 別席に運ばせる相談を 教会の役員にした。
当時の教会の決まりでは、まず入信して 3年6ヶ月間、信仰を続けて、一度以上おぢばに参拝してからでないと運べないことになっていた。

その時 栄佐は、
「三年六ヶ月経っても十年経っても、神様に総てを捧げきれぬようでは何もならん。
片山好造は 身上を神様に捧げています。」
と説得し、ついに 特別の取り扱いを頂けることになった。

つづいて 京都の河原町分教会に参拝し、別席を運ばせて頂くべく、おぢばに帰らせて頂いた。

好造は 初めて本部の神殿に額づいて、神一条の心定めが いよいよ堅固になるのを感じるのだった。

好造は このおぢばの神殿に座っていると、幼い頃亡くした母親の 懐かしい甘い乳房を吸って、安らかに抱かれているような気持ちになった。

御存命の教祖が
「好造さん、よう帰って来た」
と 愛撫してくれるように感ぜられた。

信心する者の敬虔な祈りの姿、暗い静かな夜、どこからともなく聞こえて来るみかぐらうたの声、夜も明けぬうちから参拝する者の姿、黙々と神を念じつつ掃除している人たちは、近づけば「おはようございます」とあいさつしてくれる。
好造は来て良かった と心の底から思った。

このような雰囲気の中に、好造は 別席を三席運んだ。
身体はずいぶん良くなり、みかぐらうたを稽古しながら、6月4日に 本島に帰った。

家族や村の者は、帰ってきた好造の元気な姿に 腰が抜けるほど驚くのだった。

天理教本島大教会本島大教会年譜内「片山好造入信のお話」より

とにかく感動しました…
片山好造先生の入信に至る、佐藤栄佐先生、大熊こま先生も含めた壮絶な人生ドラマを知ることができ、ただただ感動しました。
人生ドラマが感動的なのは言うまでもありませんが、
また、まとめて下さった文章が素晴らしい… 

この文章に出会えたというだけでも、
「本島大教会」の勉強をして有難いことであった…と思います。

本島大教会写真②
FOURSQUARE天理教本島大教会 より

ただ、
その感動に水を差すように感じになるので 書かない方がよいことなのかもしれませんが、
「佐藤栄佐」先生のその後の動向が、少し気になります。

というのは、『天理教事典』1977年版の解説文の中に、以下のような記述があったからです。

ソウルでは次第に教勢が伸びていたが、
本島布教所では 佐藤栄佐を排斥して、布教は支離滅裂の状態になっていたので、
そのことを心配したこまは、
好造を本島に帰して 本島布教所の立て直しを図った。

(『天理教事典』1977年版 P,773)

「本島布教所では 佐藤栄佐を排斥して…」(゚д゚)!

サラリと書かれてあるので、つい読み流してしまいそうになりますが、
「排斥」!?
エ? どういうこと?
佐藤栄佐先生は、片山好造先生の命の恩人ではないですか!
そもそも、本島において最初に種を蒔かれたとも言えるのが、佐藤栄佐先生ではないのですか!?
と思ったりしてしまいました。

『天理教事典』に解説文を寄稿された先生も、細かいところまでは書いておられませんし、
本島大教会のサイトを見ても、そのような細かいところまでは書いておられませんので、
私には、その背景がわかりません。

…しかし――
そんなこと、あえて知る必要のないことだと叱られそうです。
多少の人間関係のゴタゴタはどこにでもあることでしょうし、
そのことで、佐藤栄佐先生の誠真実の史実の価値が損われることは一切ないわけですし…

こういうふうに、物事をちょっと斜めから見てしまうのは 私の悪いクセですね (^^ゞ
わかってはいるのですが…(-_-;)

「本島大教会」と言えば、片山好造先生が有名で、部外者の私でも知っていましたが、
その片山好造先生を導いた「佐藤栄佐」先生の存在は、全く知りませんでした。

そのような、私たちの知らないところで誠真実を残していかれた先人先生方というのは、
きっと、これまでのお道の中にはたくさんおられたのでありましょう。

そうした先生方のお蔭で 今の私たちの結構な姿がある――
ついつい 誰もが知るような華々しさに目を奪われがちだけれども、
そのような 一部の人にしか知られていない ひっそりと誠真実を残していかれた先人先生に対しても、
思いを馳せ、感謝を捧げるようにしていきたい…
「佐藤栄佐」先生の記述から思案がふくらんで、そのようなことを思ったりするのでありました。

本島大教会写真③
FOURSQUARE天理教本島大教会 より

『天理教事典』解説文は、
その他のことも含めて、知らないことばかりでした。

片山好造初代会長の「ブンマワシ布教」や「船舶布教」などのアイディア、
非常に興味深く拝読させて頂きました。

片山好造先生は、
実業家として 天賦の才を持っておられたように、私には見えます。
事業に専念されていたとしても、
きっと、後世に名を残す大実業家になっておられたに違いありません。

今回もまた、
書き写しを通して いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「本島大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】8回目である今回は、『天理教事典』項目 及び その他ネット上で見つけた「敷島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第9回)【日本橋大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】9回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日本橋大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第10回)【高安大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】10回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高安大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第11回)【南海大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】11回目である今回は、『天理教事典』に記載された「南海大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第12回)【芦津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】12回目である今回は、『天理教事典』に記載された「芦津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第13回)【高知大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】13回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高知大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第14回)【北 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】14回目である今回は、『天理教事典』に記載された「北 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第15回)【湖東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】15回目である今回は、『天理教事典』に記載された「湖東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第16回)【甲賀大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】16回目である今回は、『天理教事典』に記載された「甲賀大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第17回)【水口大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】17回目である今回は、『天理教事典』に記載された「水口大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第18回)【中河大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】18回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中河大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第19回)【名京大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】19回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名京大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第20回)【中和大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】20回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中和大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第21回)【櫻井大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】21回目である今回は、『天理教事典』に記載された「櫻井大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第22回)【筑紫大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】22回目である今回は、『天理教事典』に記載された「筑紫大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第23回)【越乃國大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】23回目である今回は、『天理教事典』に記載された「越乃國大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第24回)【名東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】24回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第25回)【麹町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】25回目である今回は、『天理教事典』に記載された「麹町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第26回)【日光大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】26回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日光大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第27回)【飾東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】27回目である今回は、『天理教事典』に記載された「飾東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第28回)【東本大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】28回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東本大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第29回)【嶽東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】29回目である今回は、『天理教事典』に記載された「嶽東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第30回)【島ヶ原大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】30回目である今回は、『天理教事典』に記載された「島ヶ原大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第31回)【堺 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】31回目である今回は、『天理教事典』に記載された「堺 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第32回)【御津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】32回目である今回は、『天理教事典』に記載された「御津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第33回)【城法大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】33回目である今回は、『天理教事典』に記載された「城法大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第34回)【生野大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】34回目である今回は、『天理教事典』に記載された「生野大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第35回)【東愛大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】35回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東愛大教会」についての説明を書き写しました。

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