Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号129番「静岡大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号130番「白羽大教会」について勉強します。
- 白羽大教会(しろは だいきょうかい)
- 小栗市十 初代会長の身上(明治19年)
- 小栗周蔵、諸井国三郎の元へ訪問 ~ 小栗市十のおたすけ(明治19年~明治20年頃)
- 小栗市十の身上に現れた不思議なご守護 ~ 小栗市十の布教開始(明治20年)
- 白羽村から近隣へ教えの広がり ~ 小栗家を講元とする講の結成(明治21年頃)
- 警察からの反対攻撃(明治21年)
- 遠地布教の始まり(明治22年頃~)
- 白羽支教会の開設(明治23年)
- 白羽の道の広がり(明治23年頃~明治24年頃)
- 海外伝道から東方伝道への方針転換(明治25年~明治26年頃)
- 小栗市十から諸井国三郎山名会長へ東北布教展開の提言(明治26年)
- 小栗市十の奥州布教取締役就任 ~ 東北布教の展開(明治26年~明治27年頃)
- 福島支教会の開設 ~ 相次ぐ教会設置(明治27年頃~)
- 東北三陸大地震 大津波(明治29年)
- 鈴木作蔵2代会長の就任 ~ 小栗市十3代会長復帰(明治25年~明治28年)
- 神殿・教祖殿ふしん 〜 盛大な開筵式(明治27年〜明治34年)
- 白羽分教会へ改称(明治42年)
- 小栗市十 初代会長の出直し(明治43年)
- 小栗ほの4代会長の就任(明治43年)
- 北海道の部内教会設立(大正3年)
- 山名大教会所属から名京大教会所属に(大正12年)
- 教祖40年祭活動(大正13年頃~大正15年)
- 上級・本部、大事業への伏せ込み(昭和初期)
- 小栗ほの4代会長の辞任(昭和11年)
- 小栗 光の5代会長就任(昭和11年)
- 教会の移転建築(昭和24年)
- 小栗 光5代会長の辞任(昭和26年)
- 小栗 節の6代会長就任(昭和26年)
- 神殿ふしん(昭和26年~昭和27年)
- 新神殿落成後 ~ 上級 名京大教会の伊勢湾台風後神殿ふしん(昭和27年頃~昭和37年)
- 白羽大教会へ昇格 ~ 大教会陞級奉告祭(昭和38年~昭和39年)
- 教祖80年祭活動(昭和39年頃~昭和41年)
- 詰所移転 ~ 創立80周年記念祭(昭和41年頃~昭和45年)
- 小栗 節6代会長の海外巡教(昭和47年)
- おわりに
白羽大教会(しろは だいきょうかい)

白羽大教会の信仰は、
明治19年(1886)10月、山名大教会より伝えられた。
小栗市十 初代会長の身上(明治19年)
白羽大教会 初代会長・小栗市十は、
静岡県榛原郡 白羽村新谷37番地、鰹節製造業、小栗周蔵の長男として生まれ(た。)
(小栗市十は) 9歳の春、小鳥取りをして(いて) 木から落ちたが、それが原因してか、
26歳の時、横腹に孔が空き、直腸周炎と診断された。
(その後) 痛みと衰弱が加わり(病状が進行し)、看護の方法もない程にまで悪化した。
(様々な) 諸方医術を尽くしたが 回復の兆しなく、(ついには) 寝返りもできない重態となった。
小栗周蔵、諸井国三郎の元へ訪問 ~ 小栗市十のおたすけ(明治19年~明治20年頃)
(小栗市十が重態に陥ったのを見て) 父・(小栗)周蔵は 思案に暮れ(た。
そんな中で) 近親の見舞客の話から (その頃、評判となっていた天理教のことを知った。
小栗周蔵は、何とか息子のたすかりの手掛かりを得ようと)、近くの(天理教の)講社の 祭日に参拝した。
その時、(参拝した講社で) 遠州袋井在貫名の「遠江真明組」の講元(の) 諸井国三郎を教えられ(た。
そこで、小栗周蔵は、 何とか息子・小栗市十をたすけてもらいたい一心で 諸井国三郎を訪ねて) 病気(の治癒を) 願った。
(そして、天理教へ) 入信(する) 手続も行った。(すると、不思議なたすけが現れて) その後 (小栗市十は、何とか) 歩行出来る(ところ)まで回復した。
しかし、翌 明治20年(1887) に 教祖の悲報が伝わり、(それにより、小栗家の) 信仰心も薄らいで(しまった。
また、それと同時に) 病状も一進一退となった。
小栗市十の身上に現れた不思議なご守護 ~ 小栗市十の布教開始(明治20年)
やがて秋になると、(小栗市十は) 再び 重態となった。
父・(小栗)周蔵は、(明治20年) 9月9日、
再び 諸井(国三郎)宅を訪ねて、小栗家へ(の)出張を願い出た。
講元・諸井国三郎が (要請を受けて) 小栗家に出張したのは、
同年(明治20年) 11月15日であった。
諸井(国三郎)が (小栗家へ)出張(して)祈願(したの)は、(わずか) 1泊であった。
しかし、寝返りもできなかった(小栗)市十が、(諸井国三郎のおさづけを受けた後) 不思議にも 起き上がれる(程になった。
それで) 夕食時 (小栗市十が) 諸井(国三郎)の前に お礼に出ると、諸井(国三郎) より盃を渡された。
父・(小栗)周蔵は、(酒は) 膿症に大毒と、酒を辞退(させようと)したが、(小栗)市十は「神の恵み」と素直に戴き、(その後) 床に就いた。
翌朝、諸井(国三郎) は帰って行ったが、
(寝返りさえ出来なかった小栗市十が 起上がって諸井国三郎の前にお礼の挨拶に出ることが出来る程にまでなるという姿をお見せ頂いた) 一同は、(その有難さとかけがえなさに深く感動しつつ)
(諸井国三郎から)聞かされた教理の談じ合いに一両日を過ごし (教理を胸に治め)た。(そして小栗市十は、身上をおたすけ頂いた感激から、布教に出ることを決意した。)
やがて 3日後、(小栗)市十は、入浴中、
横腹の穴より膿の出る身体を傷口を押さえていたが、
「風呂は神の懐、伝道に出るのに身を浄めたい」
と(の思いに包まれ) 突然 手を放し、合掌した。
(しかし、身体に異常は起こらず、小栗市十は、改めて不思議な神の働きを実感することとなった。)(自らの体を通して神の働きを深く実感した小栗)市十は、
未だ全快を待たずして、そのまま伝道に出発した。
白羽村から近隣へ教えの広がり ~ 小栗家を講元とする講の結成(明治21年頃)
(小栗)市十の信念とその奇蹟的な布教の姿は、一挙に (静岡県榛原郡) 白羽村から隣村に及び、たちまち教えは伝わった。
(それと共に、小栗)市十と共に 布教を志す人々が現れてきた。
(小栗)市十は、翌 明治21年2月11日、
諸井夫人一行と (天理教教会)本部に初めて参拝した。(初めておぢばがえりした小栗市十は 改めて深い感激に包まれ、
この上は、自分一人でなく、家族一同で布教に従事させて頂きたいとの思いに包まれた。
そこで) 家族一同の 布教従事(の意思)を確めるため、一旦帰郷(。
そして) 再び (明治21年) 3月に、家族一同の (布教従事の) 決心を携えて、同志の 植田喜太郎を伴い (おぢばへ)参拝(したのだった)。(その後、明治21年) 8月には、永井藤平が、
続いて 10月には、父・(小栗)周蔵が、
娘 てる・孫 ぶんを連れ、坂田半七・川田兵次郎も同道(して)、
それぞれ 布教を決意して (天理教教会)本部に参拝した。
(そのようにして、小栗市十の奇蹟的なたすかりから相次ぎ新たな布教者が生まれ、静岡県榛原郡の白羽村周辺に凄まじい勢いで天理教の教えが広まった。)
(そして) 小栗家を講元として、(新たな講が結ばれた。)
当時、遠江真明組講元・諸井国三郎により定められた講中の人々は、(残された資料によると)
講元:小栗周蔵・小栗市十、
副講元:増田源吉、
周旋:永井勝平・永井万四郎・永井藤平・永井茂平・植田喜太郎・加藤左衛門・八木伊蔵・坂田半七・福代作十・赤堀春吉・博林寅松・川田兵次郎、
とあり、初期の伝道の陣容がうかがわれる。
警察からの反対攻撃(明治21年)
信者(参拝者) が多くなるのに伴って、小栗家(の講社)では、毎月19日を「寄日」と定めて (おつとめを) つとめた。
その後、諸井(国三郎)の指示を仰ぎ「寄日」を18日に改め、賑やかにつとめていた(。
そうした)ところ、
(驚異的な教勢の拡大に危機感を覚える人々が現れるようになり、そうした声は警察を動かすまでに至った。
小栗市十は) 御前崎 駐在所より、突然「成立事情書」の提出を請求され、
相良警察署より「以後 信心差し止め」を言い渡された(。
突然の通告に戸惑いつつ、指示された) 書類を(作成し、相良警察署へ) 持参したところ、
講元・小栗市十は相良警察署へ出頭(せよ、との出頭)命令が下された。
(相良警察署へ出頭した小栗市十は) 署長より「天理王命の信心は不当信心・・・もしそれをやめないと言うのなら、こちら側にも(相応の)考えがある」と、3日間拘留され(た。
小栗市十は、3日間拘留の後) 届書を提出、
(今後 遠州では 布教しないという約束で、ようやく) 帰宅を許された。
遠地布教の始まり(明治22年頃~)
(そのような 厳しい) 警察の監視は、遠地布教の因となった。
同(明治)22年1月、
(千葉県) 上総勝浦町へ、周旋:坂田半七・永井藤平 両名を先発させ (その後、小栗)市十 自らも布教に参加。
(その後) 講社(を) 結成(した)。(→山名大教会部属:夷隅分教会)
また、同(明治)22年夏には、
(静岡県) 伊豆下田町へ、永井藤平・永井茂平、両名を伴って伝道に進出(した)。(→山名部属:下田分教会)
また、同(明治)22年5月末には、
小栗周蔵が、駿河国に伝道に出発。(→益津大教会)
また、翌年(明治23年) には、
(小栗)市十自ら(が、愛知県)豊橋に布教。豊橋分教会 初代会長の入信をみた。
白羽支教会の開設(明治23年)
(遠地布教が盛んになる) 一方、(小栗家の地元である 静岡県榛原郡) 白羽村近傍においては、
相良警察署からの「遠州での布教は許さん」との厳命により、小栗講元宅での寄会は ますます厳しい監視を受け(てい)た。
しかし、(そのような中でも) 根気強く (小栗家地元の白羽村近辺における) 布教は続けられ、
明治23年(1890) 1月13日、
(静岡県榛原郡) 白羽村(の) 小栗講元宅に、
小栗市十を会長とする「白羽支教会」が、
(父・小栗周蔵を初代会長とする「益津支教会」と同時に)
(天理教)教会本部より設置の許し(第16号) を受けた。
白羽の道の広がり(明治23年頃~明治24年頃)
(白羽支)教会(の) 設置は 伝道に対する弾圧の緩和ともなって、
その後、(天理教に)入信する者(が) 多く現れるようになった。
東は、相良町・榛原町・吉田町、
北は、金谷町・川根町、
西は、小笠郡一带にかけて、活発に伝道がなされた。
(その他)
前記 講中のものに加えて、
相良町における、高塚佐太夫・増田常蔵・二藤友吉・二藤甚五郎・増田万次郎・二藤藤一郎、
吉田町における、大石倉吉・大石格蔵、
金谷町における、塚本吾作、
川根町における、諸田新五郎、
小笠郡下における、徳本新七・福代市太郎、
…等、続々と伝道を決意(する者が現れた)。
(これらの者たちは)
地元伝道に活躍し、あるいは 後日、関東・東北・北海道の伝道の先駆者ともなって (白羽の道は次々と伸び広がり)、近隣町村に、後年、10ヵ所の教会設置を見るに至った。
なお、城東郡講社 (現・城東分教会) は、同(明治)24年、山名部属に改められた。
海外伝道から東方伝道への方針転換(明治25年~明治26年頃)
明治25年(1892) 末、
小栗市十 初代会長は、海外伝道を志し、
二藤藤一郎を (まず) 九州へ(赴かせ)、
更に 韓国・中国へと渡らせるため、旅費を与えて出発させた。(そうしたところ)
途中、山名分教会より「教祖 (御存命の頃)、諸井(国三郎)会長に(対し) 東方伝道のお指図があった」との言葉が伝えられた。
(小栗市十 初代会長は、そうした教祖から頂いたお言葉を思案し) 西行を (一旦)中止(し)、(二藤藤一郎を呼び戻した。
そして) 翌(明治)26年 7月、
二藤(藤一郎)を、東北から北海道 (その後)外国… を目指して、(東方へ) あらためて出発させた。
小栗市十から諸井国三郎山名会長へ東北布教展開の提言(明治26年)
(小栗市十 初代会長は) まず、福島市視察の報告を受けたが、
(その際、東北地方は)「前人未踏の開拓地」(と)の報告を受けた。(そのような報告を受けた) 小栗(市十)会長(は) 自ら (明治26年) 8月に 福島に赴いた。
(そしてそこで) 伝道を開始すると共に、山名分教会長・諸井(国三郎)宛に、大々的な東北布教を要請した。ここから、山名大教会(の) 東北布教が 開始されることとなった。
小栗市十の奥州布教取締役就任 ~ 東北布教の展開(明治26年~明治27年頃)
小栗(市十・白羽)会長は、諸井(国三郎・山名)会長より「奥州布教取締」の命を受け、福島に事務所を設置した。
(その後) 二藤(藤一郎)に加えて、
(明治26年) 9月には、増田万次郎・大石倉吉、
(明治26年) 11月には、川田兵次郎が、福島へ向かった。
同年(明治26年) 12月には、高塚佐太夫が 会津若松へ、続いて、福代市太郎・大石格蔵が 喜多方へ、
翌(明治)27年に至り、塚本吾作、
…等、続々と 東北布教に参加した。
福島支教会の開設 ~ 相次ぐ教会設置(明治27年頃~)
(東北地方に向かった) 伝道者と地元信者の活躍により、
同(明治)27年12月には、
小栗市十を初代会長として、福島支教会が設置されるに至った。
また、翌年(明治28年) には、地元の 渡辺福松をはじめ 多くの信者の協力にて、神殿建築をみるに至った。
(福島県) 会津若松市・喜多方市にも 教会が設置されたのに続き、
伝道開始より わずか 8年間における 教会設置は、
福島県・宮城県下で、今日 (=『天理教事典』1977年版出版当時) 所属するもの 14ヵ所を数えた。また 奥州の伝道線は、その後、石山忠吉により、北は 樺太に(まで伸びた。
そして) 南は、野村等により 鹿児島 (名京部属・薩島分教会) に(まで) 伸びた。
(それらは) 後日、教会設置に至っている。
東北三陸大地震 大津波(明治29年)
小栗市十 (初代会長)が (山名の)「奥州布教取締」在任中(の) 明治29年(1896) 10月6日、
東北三陸大地震 大津波に直面した。(その際、小栗市十は) 自ら被害地を視察(し)、
山名分教会代表として 県庁を訪れて義捐金を贈り 難民救助に活躍した、(という) 記録が残っている。
鈴木作蔵2代会長の就任 ~ 小栗市十3代会長復帰(明治25年~明治28年)
(話は遡るが)
明治25年、小栗市十(初代会長が) 一旦辞職し、
同年(明治25年) 8月3日付で 2代会長に鈴木作蔵が就任。(その3年後の) 明治28年7月20日、
(小栗)市十が、3代会長として再びその任についた。
神殿・教祖殿ふしん 〜 盛大な開筵式(明治27年〜明治34年)
(上級・山名の)東北布教開始後 間もない 明治27年11月より、
(白羽支教会は)
神殿 (建坪69坪余) 教祖殿(建坪12坪) 及 客室・付属屋の建築に着手(した)。同(明治)28年11月30日、神殿(の) 上棟式(を) 執行。
続いて、教祖殿も上棟して、小栗家の屋敷は、教会敷地として新しい建物が立ち並んだ。(そして) 同(明治)34年(1901) 3月23日、
(上級) 山名大教会・諸井清麿会長により、鎮座祭、
翌(3月)24日、開筵式が挙行された。(開筵式の様子は) 布教当初の弾圧の激しさに比べ(ると、隔世の感であった。)
当日の来賓は、郡長以下(警察)署長等 50余名を数え、
遠近から集まった信者は神殿にあふれ、御神酒に泥酔し道に横たわる村民が一里四方に散在した、と記録されている。
白羽分教会へ改称(明治42年)
明治42年(1909)3月1日、
白羽支教会は、分教会に改称(の) 許しを受け(た。)
小栗市十 初代会長の出直し(明治43年)
翌明治43年1月5日、
小栗市十・初代会長が、50歳で出直した。(小栗)市十(初代会長)は、
41歳の夏、横腹の痛みから入信し、山名大教会に住み込み勤務。
山名大教会理事としての重責を果たしつつ、また、益津大教会の2代会長、仙臺大教会の2代会長をも勤めた。静岡県内はもとより、遠く、東は 関東・東北・北海道に道を伝え、西は 愛知県に自ら伝道し、更に 鹿児島まで 教線を伸ばした。
(その至誠の歩みは終生変わることなく)「誠の小栗」と言い継がれている。
小栗ほの4代会長の就任(明治43年)
明治43年(1910) 4月19日、
(小栗市十 初代・3代会長の出直しを受けて)
小栗ほの (初代会長夫人) が4代会長に就任した。
北海道の部内教会設立(大正3年)
北海道に伸びた (白羽の)教線は、小栗 光の 渡道により、
大正3年(1914)、教会設置を見た。
山名大教会所属から名京大教会所属に(大正12年)
大正12年、白羽分教会は、
山名大教会所属から、名京大教会所属に 変更となった。
教祖40年祭活動(大正13年頃~大正15年)
(大正15年の) 教祖40年祭をひかえ(た旬においては)、
(白羽)部内に 教勢倍加(運動)の意気(が) 漲り、(白羽一同) 懸命の働き(を行った。
その結果、白羽部内に) 遂に 17ヵ所の (新たな) 教会設置をみて、(一同は、勇み心をもって教祖40)年祭を迎えた。
上級・本部、大事業への伏せ込み(昭和初期)
その後、昭和に入り、
名京大教会の(山名大教会からの)分離後の整備… (天理教教会)本部の普請… (など巨大な計画が 次々と実行に移された。)
(白羽分教会の) 部内教会は (そうした巨大プロジェクトに全力で伏せ込み) その完成の喜びを受けた。
小栗ほの4代会長の辞任(昭和11年)
昭和11年(1936) 10月、
(小栗ほの)4代会長が辞職した。
小栗ほの(4代会長)は、
(小栗市十) 初代会長(の)入信当初より、(誠心誠意) 病気の看護(に尽力した。)
会長夫人となって(から)は、留守の多い (小栗市十)会長の補佐を引き受け、
なおも 女性として4代会長の重責を果たし、
(そして、昭和11年10月、会長職を辞した。)
(小栗ほの)4代会長は、
同(昭和)14年(1939) 3月16日、
75歳で出直した。
小栗 光の5代会長就任(昭和11年)
昭和11年10月7日、
小栗 光が、5代会長に就任した。小栗 光は、
(小栗市十) 初代会長の意志を継ぎ、海外伝道を志して 5年間アメリカ伝道に従事。
天理教アメリカ伝道監督としても任を果たして、帰国(した)。
(小栗市十 初代会長の思いを受け継いで海外布教に励んだ) 小栗 光が、
(小栗ほの4代会長の後を受けて)5代会長に就任した(のだった)。
教会の移転建築(昭和24年)
(5代会長に就任した小栗) 光は、
戦中戦後と混乱の中、(白羽の) 内外事情(の)整理に (懸命に)つとめた。
昭和24年、白羽分教会創立60周年を迎えるに当たって、
参拝場(の) 修理を急ぐ話から、移転建築の議が定まった。
諸方(に) 移転候補地を求めたところ、
東海道沿い、静岡県島田市6477番地の1に、
敷地 (1,059坪)と、
客室・付属建物:木造平家建 4棟 (114坪、外29坪5合)・木造2階建 2棟 (47坪7合5勺)、土蔵 2階建 1棟 (16坪5合)、
以上を得ることが出来た。翌(昭和)25年 3月に、(教会の) 移転(を)完了。
同(昭和25年3月)7日、移転奉告祭が執行された。
(白羽)部内教会(の)信者は、遠方に(数多く)居る関係から、
また (天理教教会)本部参拝の上からも、多くの信者の念願がかなえられたのだった。
小栗 光5代会長の辞任(昭和26年)
部内教会信者の喜びと新たな雰囲気漲る中、
(小栗 光)5代会長は、神殿建築の本部願い出を期して、辞職した。
小栗 光5代会長、辞任後の歩み
(小栗 光5代会長の) 後進に道を開きたいとの思いは、
(白羽分教会長の) 辞職後も、常に 神殿建築の完成と部内の復興を督励(する姿として現れた)。(小栗 光5代会長は) 率先重荷を背負って歩む中、とりわけ名京大教会理事の重責も果たし(つつ)、
実に、東京布教からアメリカ伝道・台湾での活躍 … 等々、名京大教会 海外教会設置の祖ともいうべき功績を残し(た。
そうした実績は、ひいては) 白羽分教会伸展の礎と(も)なった。
(小栗)光 (5代会長)は、
同(昭和)33年 11月20日、73歳で 生涯を終えた。
小栗 節の6代会長就任(昭和26年)
神殿建築の本部願い出と同日の 昭和26年1月26日、
小栗 節が、6代会長に就任した。
神殿ふしん(昭和26年~昭和27年)
(小栗 節6代会長は) 就任早々、創立60周年を迎える(にあたって) 2つの方針「神殿建築と 教勢発展」を打ち出して、部内を督励(した。)
1ヵ年を要して、新神殿 (建坪73坪6合) 神饌所 及び 事務所 (建坪7坪) の落成を見た。
(そして) 翌(昭和)27年 2月3日夜 遷座祭、翌 4日、落成奉告祭が行われた。
新神殿落成後 ~ 上級 名京大教会の伊勢湾台風後神殿ふしん(昭和27年頃~昭和37年)
(白羽一同は、新神殿)落成後、更に 教勢の伸展に努力。
6ヵ所の教会設立を見て、創立60周年(記念祭)は、初期の方針を達成の上、執行され(た。
そして、白羽分教会は) 部内教会49ヵ所をもって (盛大に、昭和31年の) 教祖70年祭を迎えた。(昭和41年に) 教祖80年祭を迎えるにつき (そこを一つの目標に定めて) 実動に励む (白羽)部内教会は、
昭和37年10月、名京大教会の伊勢湾台風後の神殿建築の落成の喜びにわいた。
白羽大教会へ昇格 ~ 大教会陞級奉告祭(昭和38年~昭和39年)
昭和38年7月26日、
白羽分教会は、大教会に陞級して (天理教教会)本部直属となった。その後、信者詰所の独立等、整備は進められた。
この時、永年、名京大教会に住み込み、故・小栗光 前会長をたすけてきた小栗つな子夫人が、白羽大教会に戻っ(てき)た。
(小栗 節)6代会長は「初代先輩の霊と共に(大教会)陞級奉告祭をつとめたい」との思いを披瀝して諸準備を進め、
翌(昭和)39年(1964) 3月3日、
真柱・たすけ委員長 (3代真柱)・本部員・ほか来賓多数を迎え、
遠近の信者あふれる中、(大教会)陞級奉告祭を 盛大に執行した。
教祖80年祭活動(昭和39年頃~昭和41年)
大教会になってはじめて迎える教祖80年祭の年祭活動(の上)に (白羽の)部内教会信者は精励。
(そして、昭和41年) 教祖80年祭を迎えたのである。
詰所移転 ~ 創立80周年記念祭(昭和41年頃~昭和45年)
教祖80年祭後、信者詰所の移転が行われた。
天理市別所150番地に敷地と建物を求め、
同(昭和)44年に 建物の修復に加えて第14母屋の建築を行った。
更に、翌(昭和)45年には、大教会教職舎の建築が続いて行われ(た。)
あわせて、(白羽)部内教会においても、神殿建築(や) 教職舎の普請(や)修復が 各所で行われ(た。
内外の(形の)整理の一応の完成を見て、
(白羽)大教会は、昭和45年(1970) 11月20日、創立80周年記念祭を執行した。
(創立80周年)記念祭は、真柱はじめ多数の来賓を迎え、盛況裡に終わった。(創立80周年記念祭を盛況裡につとめ終えた)後、
(白羽大教会は、勇み心そのままに) 引き続き、
同(昭和)47年、信者詰所 教養室の改築、
翌(昭和)48年には、大教会境内地を新たに492坪 買い入れ、境内地が 1,651.6坪 (5,457.9 ㎡²) に拡張され(た。
このようにして、白羽は) 大教会としての内外の形態を整えるに至った。
小栗 節6代会長の海外巡教(昭和47年)
この間、昭和47年(1972) 3月、
(小栗 節)6代会長は、
(小栗市十)初代会長の遺志と(小栗 光)5代会長の足跡を引き継いで、
役員を伴い ブラジル・アメリカに渡り、海外布教所 並びに 教友を励ました。
(白羽大教会においては) その後の海外伝道要員の育成を促進するとともに、遠く海外からの信者のおぢばがえりも相次いでいる。国内伝道と併せて、(海外)伝道者の育成 及び 教会内容(の)充実を目指し、精励している。〔現住所〕〒427-0054 静岡県島田市高砂町6477番地の1
〔電話〕0547-35-4653(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,430〜433)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第130回目の今回は、
「白羽大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも、山名の流れを汲んだ静岡近辺の大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
「二十二年、山名分教会は地方庁認可を得て俄然布教熱に燃え、
駿河国の専任布教者として六十六歳の白髪の周蔵は、背水の陣を敷いて旅立った。保福島(現 藤枝市) に住む興津喜太郎宅に宿をとって布教。
信者ができるに従い、同地の興津源助 (甲府初代) 宅へ、八百屋 影山清七 (静岡初代) の家へと転じ、さらに 西益津村に 西益津布教事務所を設置した。教会設置の機運が熟したが、白羽の地元では布教が許されぬため、
白羽だけでの設置に至らず、
大井川を境に 東を益津、西を白羽に分け、同時設置となった。こうして二十三年、益津は周蔵、白羽は市十と、父子それぞれの教会として出発する。」
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,90 )
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】130回目の当記事では『天理教事典』の中の「白羽大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
「白羽大教会」は、前回勉強した「静岡大教会」同様「名京大教会」から分かれた大教会ですね。
そして、第101回「益津大教会」を勉強して知ったのは、
「白羽大教会」と「益津大教会」は、設立年月日が同日の、文字通りの兄弟教会ということ。
益津大教会は 名京大教会から分かれた大教会。
そして、名京大教会は、山名大教会から分かれた大教会。
ということで、白羽大教会は「山名」の流れを汲んだ大教会ですね。
山名大教会、名京大教会、益津大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

前回(第129回) 静岡大教会を勉強したばかりということもあって、
「山名―名京―益津」という大きな教会の複雑な関係性が、だいぶ頭に入ってきました (^^)


前回に続いて 2回連続で、名京から分離した大教会の勉強になります。
そして、次回(第131回) 予定の「伊那大教会」も、名京大教会から分かれた大教会です。
これまで当シリーズを継続する中で、
「教会番号連続3兄弟」的グループの存在がいくつかあることを学んできました。
【教会番号 15〜17】 → 河原町大教会から分離した (15番) 湖東 ― (16番) 甲賀 ― (17番) 水口
【教会番号 37〜39】 → 東大教会から分離した (37番) 牛込― (38番) 深川 ― (39番) 浅草
【教会番号 64〜66】 → 撫養大教会から分離した (64番) 周東 ― (65番) 南阿 ― (66番) 香川
【教会番号 105〜107】 → 高安大教会から分離した (105番) 都 ― (106番) 西成 ― (107番) 南
【教会番号117〜119】 → 東本大教会から分離した (117番) 本保― (118番) 本愛 ― (119番) 本芝
今回の勉強を通して、
以上 5グループに加えて、教会番号順 129〜131、
すなわち (129番) 静岡 ― (130番) 白羽 ― (131番) 伊那、
それも「名京大教会」から分離した「教会番号連続 3兄弟」グループである、ということを知りました。
そして 今回の「教会番号連続 3兄弟」グループの場合は、
(129番) 静岡 の前の (128番)が「城山大教会」――
名京から分かれたわけではありませんが「城山」は 山名から分かれた大教会で、名京は山名から分かれたわけですから「城山」も広い意味ではグループの一員。
すなわち、教会番号順 128〜131まで、
「城山―静岡―白羽―伊那」と、
山名の流れを汲んだ大教会の教会番号が、4つも 連続しているわけです。
教会番号が近いということは、本部直属になった日が近いということかと思って、ザッと調べてみました。
(設立年月日は『天理教教会所在地録』、大教会昇格日は『天理教事典』1977年版から拾いました)
| 設立年月日 | 本部直属日 | 大教会昇格 | |
| 城山大教会 | 明治26年9月9日 | (大教会昇格日) | 昭和36年11月26日 |
| 静岡大教会 | 明治25年6月8日 | (大教会昇格日) | 昭和38年1月26日 |
| 白羽大教会 | 明治23年1月13日 | (大教会昇格日) | 昭和38年7月26日 |
| 伊那大教会 | 明治26年9月20日 | 昭和38年7月26日 | 昭和39年2月26日 |
※ちなみに
| 設立年月日 | 本部直属日 | 大教会昇格 | |
| 益津大教会 | 明治23年1月13日 | 昭和12年9月3日 | 昭和16年4月27日 |
山名から分かれた城山は、大教会昇格した日(本部直属になった日)が昭和36年ですが、
静岡・白羽・伊那が 名京から分かれたのは、いずれも昭和38年。
『天理教事典』の記述からこのあたり (昭和38年頃) の歴史を掘り下げてみると、
昭和34年に 伊勢湾台風があって 名京大教会の神殿が倒壊。昭和37年に神殿復興が完成した、
という史実に行き当たります。
昭和38年という同じ年に 3つもの大教会が 分離独立しているという事実――
関係者の方々にとっては、それは 決して偶然ではなくて、きっと、必然的な流れに基づいた 自明の経過なのだろうと思います。
しかし、外側からこの事実関係の外形だけを眺める 部外者の目には、
伊勢湾台風による神殿倒壊という大きな節を経験した 名京大教会が、
この節を生き節へと転じる歩みとして 部内教会の分離独立を積極的に推進した――
というふうに 映ります。
複数の大教会の歴史を眺めることで、
一つの大教会の歴史だけだとなかなか見えない部分が見えてくる感じがしますね。
勉強になります。
当シリーズも回を重ねるにつれ、一つ一つの教会史という「点」が少しずつつながって「線」となり、さらにその線と線が結び付いて「面」となっていく――
最近は、そんな実感が、以前にも増して強くなってきました (^^)

今回勉強した「白羽大教会」は、
第101回で勉強した「益津大教会」と全く同日に設立された教会で、
文字通り兄弟教会、というより【双子教会】という感じですね。
お父様であられる小栗周蔵先生が「益津大教会」初代会長で。
重病を奇蹟的なご守護でおたすけ頂いた小栗市十先生が「白羽大教会」初代会長。
どちらも 小栗市十先生が身上をご守護を戴いたのが信仰の原点で、
本来なら、信仰の元一日である白羽村で堂々と教会を設立したかったけれども、警察からの反対妨害が強く地元では難しかったので、実際に布教の実があがっている大井川東方の西益津村で「益津支教会」を設立し、
白羽村の小栗家においても「白羽支教会」を設立した、
そして、同時に 天理教教会本部に申請し、同じ日にお許しを戴いたーー
確か そういう流れだったと思います。
ですので、毎回「おわりに」で、感想みたいなものを書いていますが、
今回勉強した「白羽大教会」の「おわりに」は、
第101回「益津大教会」の「おわりに」が、そのまま ここにハマる と言って差し支えありません。
内容をコピペしようかとも思ったのですが、
いくらなんでも それは長過ぎるので やめました (^^ゞ
もしも、たまたま この記事を目にして、ここまで読んで下さった方がおられたならば、
ぜひ、当シリーズ第101回「益津大教会」の「おわりに」もお読みいただければ 幸いです。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】第101回「益津大教会」おわりに

その他、印象に残ったこととして、
明治29年、東北大地震による大津波に直面した際には、小栗市十初代会長が自ら被災地を視察し、山名分教会代表として 県庁を訪れて義捐金を贈り難民救助に活躍した、
――という話。
また、
小栗市十初代会長は、当初海外布教を志していたが、諸井国三郎初代会長が教祖から直々に「諸井さん。東の方はあんたに任す」とのお言葉を頂いたことを重く受け止め、それで海外伝道の熱意を東北伝道に振り替えて布教に励んだ、
その後、小栗光5代会長の代になって、小栗市十初代会長の意志を継ぎ、小栗光5代会長が海外伝道を志してアメリカ伝道に従事し、その結果、小栗 光5代会長は、名京大教会理事の重責を果たしつつアメリカ伝道・台湾伝道で活躍し 名京大教会海外教会設置の祖ともいうべき功績を残した、
――という話。
どれもこれも、知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て とても勉強になりました。
有難いことでした。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出てくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「白羽大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「白羽大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。






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