Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号127番「東中央大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号128番「城山大教会」について勉強します。
- 城山大教会(きやま だいきょうかい)
- 村田熊三郎 初代会長の経歴
- 村田家の入信(明治21年)
- 地元で名高い村田家の入信が与えた周辺地域への影響(明治21年頃〜明治22年頃)
- 村田熊三郎 初代会長、入信後の動向(明治22年頃)
- 笠原事務所の開設(明治22年)
- 諸井国三郎・山名会長のおさとし、村田定吉の道一条布教の決断
- 教会設立の動き(明治26年頃)
- 城山支教会の設立(明治26年)
- 教会内容の整備(明治27年頃)
- 上級・山名の号令を受け東北布教へ(明治27年頃)
- 東北地方に次々広がる城山の道(明治27年頃~明治29年頃)
- 青森と信州上田方面の熱烈布教活動について(明治20年代後半)
- 城山支教会のふしん(明治32年〜明治33年)
- 村田熊三郎 初代会長家族の上級・山名住み込み
- 上級・山名の移転建築ふしんへの伏せ込み(明治34年頃~)
- 東北大飢饉を乗り越え完成した上級・山名の神殿ふしん ~ 本席・真柱一行の入り込み(明治35年頃~明治37年)
- 村田熊三郎 初代会長の再婚(明治40年)
- 城山分教会に昇格(明治42年)
- 教祖40年祭活動、教勢倍加運動(大正10年頃〜大正15年頃)
- 大教会づとめに専念する村田熊三郎・きん初代会長夫妻(大正12年頃)
- 村田貞一2代会長の就任(昭和2年)
- 教祖50年祭・立教100年祭に向かっての年祭活動(昭和6年頃~昭和10年頃)
- 村田熊三郎 初代会長の出直し(昭和11年)
- 村田きん初代会長夫人の出直し(昭和17年)
- 教規改正に従い部内全て「分教会」へ改称(昭和15年~昭和17年)
- 村田貞一2代会長の出直し(昭和19年)
- 村田てる3代会長の就任(昭和19年)
- 戦後復興(昭和20年頃〜)
- 村田てる3代会長の身上 〜 村田浩之の代務者就任(昭和25年〜明治28年)
- 村田てる3代会長の出直し(昭和33年)
- 村田浩之4代会長の就任(昭和30年)
- 城山分教会、山名大教会から分離の決定(昭和36年)
- 城山大教会へ昇格(昭和36年)
- 城山詰所ふしん 〜 教祖90年祭(昭和49年~昭和51年)
- おわりに
城山大教会(きやま だいきょうかい)

村田熊三郎 初代会長の経歴
初代会長・村田 (旧姓:中田) 熊三郎は、
元治元年(1864) 9月12日、
遠江国豊田郡 友永村 (現・静岡県袋井市友永) で、
農家・中田鉄蔵(の) 次男として生まれた。
明治12年、小学校卒業(し) 浜松中学に入った。
(明治)17年 2月、静岡師範学校 2年に編入。
(中田熊三郎は) その間、
矢部暉・奥村孚、両師に漢籍を学んだ。
(明治)18年7月、中等師範学校を了えて、(静岡県)周智郡(の) 飯田小学校を振り出しに 訓導として教壇に立った。
(中田熊三郎は、教諭であると同時に) また一面、キリスト教の熱心な研究家でもあった。(中田熊三郎の)師範時代の無二の学友・村田忠三郎は、
(静岡県)城東郡 山崎村 (現・袋井市山崎) の名望家・村田定吉の一人息子であったが、
学生時代より病弱で、卒業後 病床に臥し、23歳(の若さ)で 世を去った。
その村田忠三郎が、(今わの際に)
「我亡き後は、一人の妹・せいに 良き養子を迎えてくれ。幸い 友人の 中田熊三郎は 次男で、温厚篤実 申し分なきになれば…」との遺言を残した。
村田忠三郎の(その) 言葉は 強く家人の胸を打ち、早速 中田家に懇願。
(縁談整い、中田熊三郎が村田家へ) 入婿したのは、明治20年(1887) のことであった。
村田家の入信(明治21年)
養父・(村田)定吉は、(静岡県城東郡) 山崎村の 戸長を勤め、(中田改め 村田)熊三郎も、山崎小学校の初代校長をつとめる事となった。
(それまで) 代々 男子に恵まれなかった村田家は、
(一人息子の村田忠三郎を失い) 一時は 悲嘆のどん底に落ちたが、
(忠三郎の遺言通り 無事に熊三郎を婿養子に迎えることが出来て) 春が訪れた如く平和な時を迎えた。
ことに、翌年(明治21年) 1月(の) 長男・貞一の出生は、(村田家にとって、例えようもないほどの) 大きな喜びであった。ところが、(待望の男児は) 生まれながら 病弱(な体質)であった。
(その) 幼児 (貞一) が、(なんと) その夏、脳膜炎に罹って(しまった。
そして) 医薬の効もなく、医師3名 立会ったが、(皆)「助かる見込みなし」と見離した。
(その)当時、(静岡県)山名郡広岡村下貫名の「遠江真明組」講元・諸井国三郎 (山名大教会 初代会長) が、草鞋ばきで 近隣56ヵ町村を布教していた。
(そして) この村 (静岡県城東郡山崎村) でも、(既に) 柏木(山崎村の中)の 松本政治郎・三沢(同じ山崎村内)の 松浦源次郎など 10数名の信者があった。
隣家の 松本(政治郎)・荻原銀次郎・松浦源次郎などの人々は、
村田家のこの心配事を知って、熱心に (山名郡広岡村下貫名の「遠江真明組」諸井国三郎におたすけを希うよう) 勧めた。
(ようやく授かった男児が危篤状態となり絶望していた)村田家の人々は、(藁にもすがる思いで) ついに、(山名郡)下貫名の「天理王命様」にお縋りすることとなった。
(村田家一同は、諸井国三郎から) はじめての 珍しい話を聞(き、貞一はおさづけの取り次ぎを受け)た。
(深い感動を覚えた) 家内一同(は、何とかおたすけ頂きたいと願い)、心を揃えて(の) 信心を誓った。
そうしたところ、(3人の医者から見離された男児・貞一が) 次第に快方に向かい、(そして、なんと) 10月頃に(は) 全快のご守護を頂いた。
(奇蹟的なご守護を目の当たりにした村田家一同は 深い感激に包まれ、この道に入信する心を定めた。)
時に、(村田家一同が) 入信(の心を定めたの)は、明治21年(1888) 11月19日のことであった。
地元で名高い村田家の入信が与えた周辺地域への影響(明治21年頃〜明治22年頃)
当時、(天理教を) 信仰する者は、周囲(から)の嘲笑、親戚の反対(が尋常でなかった。
時には) 警察の駐在所へ 一人一人呼びつけ(られ)て、信仰を差止める(たりすることさえあるような) 状態であった。
ところが、(地域の) 名望家である 村田家の入信によって、一般の(人々の) 嘲笑は薄らぎ、巡査(からの呼び出し)も音を潜め(るようになった。
また、村田家が天理教への入信を決意した際には)、親戚なども 誰一人 異議を唱えなかった。というのも、
(村田熊三郎の) 養祖父・清五郎 (当時79歳) は、品行端正・厳格な中にも温情に富む篤行の人であり、資産もあり、近郷近在の尊敬と信望の的であった。
その人が 自ら進んで入信したのであるから、(この地域の人々の天理教に対する悪印象は大きく緩和され、それに伴って) 天理教も順調に伸び、(一足先に入信していた) 村の信者達も、(大いに)喜んだ。
(村田)熊三郎 初め (天理教を) 信仰する人々は、信仰を確固たるものにする上から、
後に、集団 (15戸) で「復古改祭」(改式) を断行するまでに至った。
村田熊三郎 初代会長、入信後の動向(明治22年頃)
(入信後、村田)熊三郎は、日曜日ごとに (静岡県山名郡広岡村下)貫名の (遠江真明組) 講元に通い、(諸井国三郎より) 話を聞いた。
(村田熊三郎が) おぢばへ初めてお礼参拝したのは 明治22年(1889) 1月10日で、
その日、本席から おさづけの理を拝戴した。
続いて、(明治22年) 1月15日、教導職試補、
(そして) 同日(1月15日)、権訓導を拝命した。(この頃、村田熊三郎の他に) おさづけの理を戴いた人は、
荻原銀次郎・加藤源吉・鈴木文平・村田定吉・名倉千代蔵・村田吉蔵・松浦源治郎、…等 10数名、
教導職を得た人は、
荻原(銀次郎)・加藤(源吉)・藤田(重次郎)・松浦(源治郎)、…等(の)外、数名に及んだ。同年(明治22年) 4月、天理教山名分教会が設置され、その開筵式当日、(村田)熊三郎は 分教会庶務を、養父・(村田)定吉は 会計を任命された。
そのため、父子ともに (山名)分教会との往復が頻繁になったが、(しかし まだ) 村役・学校から(完全に)手を退けないものがあった。
笠原事務所の開設(明治22年)
(村田)熊三郎は 養蚕もやっていたので、その建物や母屋を改造して 参拝所にした。
(そして、その参拝所に)「天理教笠原事務所」の看板を下げて、職務の傍ら布教にあたり、(また) 村の信者等も 農事の傍ら 布教に当たるという状態であった。
諸井国三郎・山名会長のおさとし、村田定吉の道一条布教の決断
(村田熊三郎は、母屋を改造して参拝所を設け「天理教笠原事務所」の看板を下げて、熱心に信仰に励んだ。)
ところが、(瀕死の病をおたすけ頂いた) 貞一は、4歳になっても歩行が出来ず、家人の心配の種であった。(そのような状況下の) ある日、(山名)分教会の会長 (諸井国三郎・山名初代) より (村田一家に対して)、
「それは、家内の者が 家業を捨てて 布教に出る覚悟がない為である。
(村田)定吉は、駿河国藤枝へ布教に出るように…」
との言葉があった。
(諸井国三郎・山名初代からのそのような言葉を受けて、
村田家一同は) 早速、家内一同で相談。
その結果、(村田)定吉は、(人間思案を捨て) 役場の吏籍を辞し、(諸井国三郎の言葉通り) 布教に出る決心を(固めるに至り、そ)して、(実際に布教に) 出発した。(すると、村田定吉が布教に出発した)その夕刻、(村田)熊三郎が学校から帰宅すると、(なんと ずっと歩けずにいた) 幼児(貞一) が、一人で飛び歩いていた(のだった)。
実に鮮やかなご守護を得て、(村田家) 家族の信仰は、益々 強固なものとなった。
教会設立の動き(明治26年頃)
(明治21年) 山名分教会設立後、各方面で教会設立の声が高くなった。
しかし、世間の非難、官憲の圧迫は (非常に) 厳しく、(入信しながらも) 信仰に一頓挫を来たす者もあった。
(村田)熊三郎は、この立派な教えに無理解(なこと)から悪評の立つ事を残念に思い、(無理解から生じる悪評を払拭するための) 機を(持つことを) 念じていたが、
(明治)26年(に至って)、ようやく教壇を辞し、教会設立の運びに移る事となった。
(その頃)
南遠州の教線は、真明講講元・諸井国三郎の命を受けた (静岡県) 野賀村の 名倉千代蔵、(静岡県) 豊浜村の 加藤孫吉 等によって進められていた。
しかし、名倉(千代蔵)は 家人の反対が強く、また 加藤(孫吉) は官憲の圧迫(が)厳しく、(教会の担任となることが難しかった。
そこで) 両人 (名倉千代蔵と加藤孫吉) 始め、(静岡県城東郡) 山崎村の周旋方ほか 一同協議の結果、
学識信仰も厚い 村田熊三郎を担任とし、名倉(千代蔵)・加藤(孫吉)は部内とする(という)ことで 衆議(が) 一決(した)。
(そこから 一同は、そのような議決のもとに 教会)設立の運びにかかった。
城山支教会の設立(明治26年)
「城山」という名称は、
(静岡県) 笠原村が、城東郡と山名郡の境界にあるところから定められたものである。
明治26年(1893) 9月9日、おぢばの許しを得た。
地方庁認可は、同年(明治26年) 10月24日。
教会内容の整備(明治27年頃)
翌(明治)27年(1894) 4月、
(諸井国三郎) 山名初代会長より、藤田重次郎初め 4名の理事を、
(明治27年) 5月には、
村田吉蔵初め 7名の庶務、伊藤兼吉初め 3名が会計の任命を受け、
教会の内容も整っていった。
上級・山名の号令を受け東北布教へ(明治27年頃)
(諸井国三郎) 山名初代会長は、年とともに各地に教線を伸ばし、(明治)26年には「心ある者は 東北に向かえ」と激励し(てい)た。
次のような話に、その(当時の)様子が窺われる。
「当時、(山名)分教会に、各教会から青年布教師が集まり、大きな日本地図を掲げて「地割」(布教地の割あて) なるものをやった。
その気運は 誠にさかんで、熱気がこもり「何県何町は 誰々」と決まると、大太鼓を連打して喜び合い、また 激励されて布教に巣立って行った。
私は小さい頃だったが、その賑やかな事は 今でもよく覚えている」
(故・諸井甲子談)。城山(支教会) の (村田熊三郎) 初代会長は、
この (諸井国三郎 山名会長の) 言葉に添い、
明治27年(1894)、
名倉(千代蔵)・加藤(孫吉) の両名を、盛岡に派遣した。
東北地方に次々広がる城山の道(明治27年頃~明治29年頃)
当時、山名部内の 二俣の初代会長、塩崎の縁者・寺田金太郎が 盛岡に在住することに手蔓を得て、
(名倉千代蔵・加藤孫吉の) 両名は、ここを基盤として布教を開始し、岩手県の伝道の土台となった。
加藤孫吉を担任として 盛岡出張所が設けられたのは、同年(明治27年) 10月である。(一方) 名倉千代蔵 (の方) は、
寺田金太郎の妻・まきの実家が 青森県小湊にあったので、それを手蔓として同地に赴き、小湊布教を開始した。
明治27年(1894) 11月(のこと)で、これが 青森県への伝道の第一歩となった。翌(明治)28年(1895) には、青森県小湊をはじめ、弘前・五所川原・八戸 に道が広がり、
小湊・弘前・五所川原、以上の3出張所と 八戸布教所、以上 4ヵ所の(新設教会) 設立を見(た。
そして、翌(明治)29年(1896) には、野辺地布教所を許された。
この(ような)短日間に (急激に道が) 伸びた陰に(は)、
この時代に早くも入信した 高橋市太郎 (盛岡)・岩崎権三郎 (弘前)・田中佐助 (五所川原)・関佐吉 (小湊、後日 浪岡と改称移転)・寺田金太郎 (野辺地)、
以上の者等の、文字通り 捨身の布教があった(ことは、特筆すべき事実であろう)。(村田熊三郎) 初代会長は、(東北地方の) 教会設立のために、役員:荻原(銀次郎)・藤田(重次郎)・名倉(千代蔵)・広岡弥吉 (=八戸) … 等を (東北地方に) 派遣し(てい)たが、
基礎の固めがつくと、共々に (静岡県笠原村の) 城山(支教会)へ引き揚げた。
青森と信州上田方面の熱烈布教活動について(明治20年代後半)
ここに特記せねばならぬのは、太田丹五郎である。
太田(丹五郎)は、(青森県) 小湊の人で、(明治27年) 名倉千代蔵が小湊布教に赴き 間もなく(の) 翌年(明治28年) 1月に入信した。
太田(丹五郎)は、難病のハンセン氏病を たすけられた。
不思議なたすけに浴した彼は、感激の余り、報恩の思いに燃え、熱火の如き「にをいがけ・おたすけ」に、昼夜の別なく励んだ。
(青森県) 小湊はいうまでもなく、弘前・五所川原の 伝道の土台となったと言っても過言ではない。
これより先(の 明治)26年(1893) 春 (には)、
藤田(重次郎)、荻原(銀次郎)の両人が、
(長野県) 信州上田に赴き、甲府出身の 岡本彦太郎を担任として、上田出張所を設けた。
(かくのごとく、城山の道は、静岡の地にとどまらず、日本全国広範囲に広がっていった。)
明治20年代に設置された (城山部内の)名称は、出張所 5、布教所 3であった。
城山支教会のふしん(明治32年〜明治33年)
(城山支教会は、開設以来)
村田家の建物を改造して、参拝所・客室等にあてていたが、
遠隔地からの教信徒の参拝が増加するばかりで、いよいよ狭隘となった。(そこで) 隣接の宅地 及び 山林3反弱を買収し、神殿、教祖殿外 付属建物 (ふしんに取り掛かることとし、そ)の願いに (天理教教会本部に) 上がった(。
時に) 明治32年(1899) 12月12日 (のこと) であった。
(ふしん願いに対して) 鮮やかなお許しを戴いて、
翌年(明治33年) 1月、起工(した)。
同年(明治33年) 10月、竣工。(明治33年) 12月2日(に)、
諸井清麿・山名2代会長を迎えて、厳かに鎮座祭を執行。
翌(12月)3日、開筵式を執行した。養父・(村田)定吉は、(残念ながら) この喜びを見ずに 出直した。
村田熊三郎 初代会長家族の上級・山名住み込み
(話は少し遡るが)
この (城山支教会の) ふしんに着工する前、
(村田熊三郎) 初代会長夫妻 初め 家族一同は、
長男の病気についてのおさしづにより (上級) 山名分教会へ住み込みとなり、上級への勤めに徹し(てい)た。
上級・山名の移転建築ふしんへの伏せ込み(明治34年頃~)
この頃、すでに山名(分教会) は、(静岡県山名郡広岡村下)貫名から 袋井駅西 (現在の場所) へ移転建築の機運が熟し、(諸井国三郎) 山名初代会長の構想は 着々と進められ(ていた。)
明治34年(1901) 以後、数年におよぶ (上級・山名の教会移転ふしんの) 大業に、
城山(支教会) の (村田熊三郎) 初代会長も、
(山名)役員の一員として、文字通り、粉骨砕身 努力した。(村田熊三郎 初代会長は) 晩年 (このことについて)
「報恩の万分の一にもあたらない 儂の 微衷であった」
と 述懐している。(【書写者註】微衷 (びちゅう) … 自分の本心や真心をへりくだっていう言葉。「わずかな(微)まごころ(衷)」という意味合いを持ち、目上の人に対して自分の気持ちや願いを伝える際に用いられる。 )
東北大飢饉を乗り越え完成した上級・山名の神殿ふしん ~ 本席・真柱一行の入り込み(明治35年頃~明治37年)
(上級・山名分教会の) ふしんも半ばの頃、
東北一帯を大飢饉が襲った。(書写者註:明治35年と明治38年)(この大飢饉は) 日露の戦い (日露戦争:明治37年~明治38年) にも増して、城山(支教会) の責任者としての(村田熊三郎)初代会長に(とって)、大きな打撃であった。
しかし、明治37年11月に 神殿が竣工し、21日の教祖御遷座の折(には)、本席一行が (おぢばより山名へ)来会。
また、親神様御遷座のため、初代真柱一行も(来会し)、(11月)26日に 一泊(した)。
このことは、(村田熊三郎) 初代会長にとって、大いなる感激であった。
その座敷は、今なお使用している。初代会長夫人・せいは、
この慶事を目にする事なく、同年(明治37年) 7月2日、31歳で出直した。(書写者註:山名分教会の移転建築ふしんは、明治39年6月に教祖殿が落成し、
続いて 客室なども完成して、明治39年にすべて移転完了した。)
村田熊三郎 初代会長の再婚(明治40年)
(明治)39年春以来 2ヵ年半、(村田熊三郎 初代会長は)
山名直轄の 城東支教会長も兼務し(ていた。)
(諸井国三郎)山名初代(会長)は、(妻を亡くして) 内外 多事多端の (村田熊三郎の)実状を慮り、内助者を探していた。そうした折、(諸井国三郎 山名初代会長は)
夫・喜十郎を失い遺児二人を抱えて布教していた 周智部内の 鈴木きん(41歳) (の存在を知った。
村田熊三郎の後添えに相応しいと考え) 声をかけたが、(鈴木きん) 本人は 再婚を望まなかった。しかし、山名の(諸井国三郎)初代会長(から)の、
「再婚ではない。おたすけに行くのだ。山家で 1軒2軒のおたすけに歩くのと、数多い教会をたすけるのと、どちらが大きい。これが分らんか」
との言葉で (村田熊三郎の城山支教会へ嫁ぐことを) 決意。
きんは、(村田)熊三郎の妻となった。
時に、明治40年(1907) 4月であった。
(村田)熊三郎は、(再婚後は、城山支)教会(内部のこと)は、(きん) 夫人と住込み役員家族に一任した。
城山分教会に昇格(明治42年)
(明治)42年(1909)
(上級の) 山名(分教会)が、大教会に昇格(した)。(それに合わせて) 城山(支教会) は分教会に(昇格。)
(城山) 部内も、4支教会 16宣教所 となった。同年(明治42年) 2月、
(村田熊三郎は、山名)大教会理事を拝命(した)。
教祖40年祭活動、教勢倍加運動(大正10年頃〜大正15年頃)
大正10年(1921) 1月、
(天理教教会本部より) 教祖40年祭 (=大正15年執行) 発表と同時に、教勢倍加の(打ち出しがあった。天理教教会本部からのそうした)声を受け、(城山一同も奮起。
その結果) 新設の教会は、36ヵ所となった。ただ、この間、
(大正12年) 山名から名京が分離し、
磐田・花輪の 2ヵ所は、(城山から分離し) 名京部属となった。
磐田の名称は遺し、(静岡県) 磐田郡上浅羽村に 移転再興した。
大教会づとめに専念する村田熊三郎・きん初代会長夫妻(大正12年頃)
山名(大教会)は、(大正12年 名京が分離する前に) 既に、諸井慶五郎3代会長時代となっていた。
(諸井慶五郎・山名)大教会長は、本部員、教学部の重鎮として勤めていたため、
(村田熊三郎・きん) 初代会長夫妻は、(山名)大教会づとめに専念した。
村田貞一2代会長の就任(昭和2年)
昭和2年(1927) 5月4日、
村田熊三郎の長男・村田貞一が、城山分教会2代会長に就任した。
村田貞一2代会長の経歴
2代会長・村田貞一は、
(村田熊三郎) 初代会長の只一人の男子で、城山の台となった人である。幼少より蒲柳の質であった。
別科を卒業し、かねてより入籍していた 鈴木亨の妹・てる と結婚し、4男1女を授かった。
しかし、長男・次男は 夭折した。大正8年(1919)、大教会青年会 山名分会主事。
大正15年(1926)、大教会承事、教義部員 並びに 祭事部員を勤めた。
(そして) 昭和2年(1927) 5月4日、
城山分教会2代会長に就任した。
教祖50年祭・立教100年祭に向かっての年祭活動(昭和6年頃~昭和10年頃)
昭和6年(1931) 1月(から) 教祖50年祭準備に入り、
(村田貞一2代会長は)
(上級) 山名大教会より 教祖50年祭・立教100年祭(の) 準備委員に任ぜられた。
(年祭準備委員に任じられてからは) 御本部神殿の瓦御供(の上)に、懸命につとめた。昭和8年8月、(2代会長)夫人・てる の病気の時、(村田熊三郎)前会長の 心定めによりご守護頂き、弘前支教会長に就任 (昭和8年12月3日)。
弘前(支教会)は、2代会長・岩崎ゑなが出直し その後継者・岩崎寿男が未成年だったため、上級の奥様をと懇願していたのだった。
昭和9年(1934) より昭和10年(1935) に新設された教会は、
東京 2ヵ所・青森 3ヵ所で、部内(教会数は) 61ヵ所となった。
昭和9年(1934)には、
(2代会長夫人) てる の病気から、(山名)大教会長の言葉に添い、
弘前支教会長を辞任し、部内 14ヵ所を 山名にお供えして、教祖50年祭を迎えた。
昭和10年 8月であった。
この年(昭和10年) 10月、(村田貞一)2代会長は、(山名)大教会 承事を拝命した。
村田熊三郎 初代会長の出直し(昭和11年)
(村田熊三郎) 初代会長は、
教祖50年祭に(向かって)は、今生最後のご奉公と(の決意をもち) 70を越えた老躯に鞭打って、欣然と (天理教教会)本部の詰員の奉仕を、(体の)続く限り (誠心誠意)つとめ(きっ)た。(そして、無事に教祖50年祭をつとめ終え)
昭和11年(1936) 7月、73歳の生涯を閉じた。
村田きん初代会長夫人の出直し(昭和17年)
また、(村田熊三郎 初代会長の) 良き内助者であった きん夫人は、
夫をなくしてからは (より精力的に、おたすけ活動につとめた。)
悠々と心行くまで おたすけに励む事を無上の楽しみとし「一日生涯」と書いた赤ダスキを掛けて、
袋井の町を、1軒1軒 毎日の如く にをいがけに歩き、(それは) 出直す前日まで続いた(のだった)。(諸井国三郎・山名初代会長から「再婚ではない、おたすけに行くのだ」と諭され おたすけ精神で城山に嫁ぎ、その生涯をおたすけ活動の上に捧げ尽くした村田きんは、
城山一同から) 親奥様と慕われつつ、昭和17年(1942) 9月25日、77歳で出直した。
教規改正に従い部内全て「分教会」へ改称(昭和15年~昭和17年)
昭和15年(1940)、
宗教団体法の施行により (天理教の教規も改正された。)教規改正に従い、(城山分教会においても) 部内全部「分教会」と改称。
(昭和)17年(1942) 3月までに、手続きを終えた。
村田貞一2代会長の出直し(昭和19年)
内外共に 多難な 第2次世界大戦の最中、
(村田貞一)2代会長が、
昭和19年(1944) 7月、57歳で 出直した。(村田)貞一(2代)会長は、神様への奉仕には誠に厳格で、青年達の範となった。
村田てる3代会長の就任(昭和19年)
(2代会長)夫人・村田てる は、
(昭和11年・村田熊三郎初代会長出直し、昭和17年・村田きん初代会長夫人出直し、昭和19年・村田貞一2代会長出直し …と)
僅か10年の間に 3人の身内を失った。(村田)てる(2代会長)夫人は、未亡人となったが、
戦争のどん底であった 昭和19年(1944) 8月26日に、3代会長に就任した。
戦後復興(昭和20年頃〜)
(世界中を大混乱に陥れた第2次世界大戦も、昭和20年にようやく終戦となったが)
戦時中には、(城山部内も) 東京で 2ヵ所、青森で 5ヵ所、戦災を受けた。
(終戦翌年の昭和21年に執行された) 教祖60年祭と共に、天理教は「復元」の活動が (押し)進められ、(再び) 信仰に生気が蘇ってきた。
(城山分教会においても、部内の) 7ヵ所の戦災教会が再建され、(さらに) 3か所の教会が新設されるというかたちで、復興の姿が具体的に現れた。(村田)てる(3代)会長は、
女性の身ながら、戦中戦後の混乱の中を、たすけ一条(の精神で 求道)に励んだ。
村田てる3代会長の身上 〜 村田浩之の代務者就任(昭和25年〜明治28年)
(身を粉にして 戦後復興に励んでいた 村田てる3代会長であったが)
かかる激務の中で、
昭和25年7月、おぢばがえりの車中において、脳溢血で倒れた。
(一同の真摯な祈りにより) 奇蹟的に一命を取り止めたものの、(村田てる3代会長は、この後) 半身不随となった。(村田てる)3代会長が病床の身となり 職務不能となったため、
昭和28年3月、
嗣子・浩之を代務者とし、(それを) 役員が補佐することとなった。
(そして、昭和)28年11月には、創立60周年記念祭を盛大につとめた。
村田てる3代会長の出直し(昭和33年)
(村田てる3代会長は、脳卒中発症後も) 不自由な身上にも拘らず 片手でおたすけの手紙を書き、健康者にも劣らぬつとめを果たし続けた。
(そして)
昭和33年(1958) 5月10日、62歳で出直した。
村田浩之4代会長の就任(昭和30年)
(村田てる3代会長の脳卒中発症により) 代務者に就任していた 村田浩之は、
昭和30年10月28日、
(正式に)4代会長に就任した。
村田浩之4代会長の経歴
(村田)浩之(4代)会長は、
天理中学 並びに 天理外語ドイツ語学科 (昭和26年)、修養科を卒えて、大教会の青年勤めに入った。
(昭和25年の) 母 (村田てる3代会長) の病気を通して 教会活動に専念(するようになり、
昭和28年には 城山分教会長代務者に就任)した。昭和29年10月、山名部属・埼玉分教会よふぼく(の) 福島政吉の長女・たま を妻と迎えた。
(そして、昭和30年10月28日、正式に4代会長に就任。)
(城山一同は) この若き会長を芯に、部内一丸となって おたすけに励んだ。
城山分教会、山名大教会から分離の決定(昭和36年)
昭和36年(1961)、(上級) 山名の諸井慶徳4代会長が病気となった。
(この節を通した、諸井慶徳 山名)大教会長の心定めにより、城山(分教会は、山名から) 分離する事となった。奇しくも、この時、(村田)浩之 (城山分教)会長も、病床の身であったが、
この命を受けると、(不思議なことに) 鮮やかに (身上が) 快癒した。
城山大教会へ昇格(昭和36年)
昭和36年(1961) 11月26日、
大教会陞級の許しを得た。
城山詰所ふしん 〜 教祖90年祭(昭和49年~昭和51年)
昭和49年(1974) 1月28日、
第25母屋として、城山詰所を完成し(た。)昭和51年、教祖90年祭も無事つとめ終え、
部内一同、世界たすけに励んでいる。〔現住所〕〒437-1311 静岡県袋井市山崎5163番地
〔電話〕0538-23-2111(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,235〜237)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第128回目の今回は、
「城山大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも ほんの少しだけ城山大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
山崎村柏木(現袋井市)の 村田熊三郎 (城山初代) は、
明治二十一年、一人息子・貞一が 生後間もなく脳膜炎で医者に見放された時、隣家の勧めで 下貫名の神様におすがりすることを誓った。父・定吉は 戸長を、熊三郎は 小学校長を務めたが、貞一が四歳になっても歩けず、二人とも 職を辞して布教に出た。
教会設置の運びとなり、城東郡と山名郡の境にある 笠原村に設置、「城山」とした。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,89)
昭和十一年、会長・熊三郎の出直し後、妻・きんは 七十一歳から「一日生涯」の赤襷をかけ、袋井市内を 毎日のごとく にをいがけに歩いた。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】128回目の当記事では『天理教事典』の中の「城山大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
城山大教会は、山名大教会から分かれた大教会ですね。
山名大教会については、以前 勉強して記事を投稿してきました。

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】128回目の当記事では『天理教事典』の中の「城山大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。
城山大教会は、上級・山名大教会と同じ静岡県の大教会ですが、
その部内教会は 東北の教会が多いというイメージがあります。
今回の書写学習で改めてわかったのは、
東北の部内教会が多いのは、明治26年に上級の諸井国三郎山名初代会長が打ち出した「東北大布教」に一同が全力で応えた結果だ、ということでした。
山名の「東北大布教」に関しては、当シリーズ第92回「磐城平大教会」の中で勉強しました。
その、第92回「磐城平大教会」の勉強をした際に知ったのは、
山名大教会における東北布教は、
それまで各教会が個々に行ってきた布教伝道と違って、
諸井国三郎・山名初代会長が、教祖から「諸井さん。東の方はあんたに任す」とのお言葉を頂いたことを受けて、山名の全部内が一丸となって取り組んだ計画的な布教だった、ということでした。
諸井国三郎・山名初代会長が 教祖から直々に「諸井さん。東の方はあんたに任す」とのお言葉を頂いて、それで、本拠地である静岡から離れた東北地方に道を付けられたのだ、ということを、その時学びました。
山名全体で、教祖からのお言葉に何とか応えようとする流れの中で、城山大教会も その一員として、東北地方で一所懸命布教した結果、
その後に、その伏せ込みが実り、今 大きな花を咲かせている、というわけですね。
静岡で生まれた大教会でありながら、部内教会の多くが東北地方に集中している――今の姿だけを見れば、不便で非合理的に映る部分があるかもしれません。
しかし、その元一日や歩みを知り、なぜそうなったのかが分かると、「あぁ、そういうことだったのか……」と、すとんと腑に落ちる気がします。
元一日を知ること、歴史を辿ることの大切さを、改めてしみじみと感じます (^^)

城山大教会の初代会長となった村田熊三郎先生は、地域の小学校の校長先生をつとめておられ、その村田熊三郎初代会長の養父である村田定吉先生は、地域(山崎村)の戸長をつとめておられた――『天理教事典』には、そのように書いてありました。
城山大教会初代の村田家は、いわゆる「地域の名家」だったのですね。
『天理教事典』には、次のように書いてありました。
当時、(天理教を) 信仰する者は、周囲(から)の嘲笑、親戚の反対(が尋常でなかった。
時には) 警察の駐在所へ 一人一人呼びつけ(られ)て、信仰を差止める(たりすることさえあるような) 状態であった。
ところが、(地域の) 名望家である 村田家の入信によって、一般の(人々の) 嘲笑は薄らぎ、巡査(からの呼び出し)も音を潜め(るようになった。
また、村田家が天理教への入信を決意した際には)、親戚なども 誰一人 異議を唱えなかった。というのも、
(村田熊三郎の) 養祖父・清五郎 (当時79歳) は、品行端正・厳格な中にも温情に富む篤行の人であり、資産もあり、近郷近在の尊敬と信望の的であった。
その人が 自ら進んで入信したのであるから、(この地域の人々の天理教に対する悪印象は大きく緩和され、それに伴って) 天理教も順調に伸び、(一足先に入信していた) 村の信者達も、(大いに)喜んだ。
この部分を読むと、地域の名家である「村田家」が天理教に入信したという事実が この周辺地域に与えたインパクトが如何に大きかったか、窺える気がします。
この部分の書写をしながら、
以前、第109回で勉強した鹿島大教会の清水小太郎初代会長を思い出しました。
鹿島大教会初代会長の清水小太郎先生は、当時「羽坂の清水」と呼ばれて近郷近在にその名を知らぬ者なしといわれ、改進党という政党の領袖として重きをなす程の名士であられた。
その地域の名士だった清水小太郎先生が、敦賀から布教に来ていた松永鶴吉先生を通して天理教を知り入信。その結果、能登周辺地域の人々が、続々と入信した――
当シリーズ第109回「鹿島大教会」で、そのことを知ったのでした。
いまゝでハ 高い山やと ゆうたとて
よふほくみへた 事ハなけれど(3—140)
このさきハ 高山にても たん/\と
よふぼくみだす もよふするぞや(3—141)
歴史を通して、私たちは、以上のような『おふでさき』のご神言が具現化した事実を知ることが出来るわけです。
有難いことです。

その他にも、今回の書写学習の中で印象に残ったこととして、
村田定吉先生が道専務になることを決断し 布教に出るに至った経緯、というものがあります。
後に2代会長となる村田貞一先生が幼少期に脳膜炎をおたすけ頂いたことが村田家の入信の元一日でしたが、その村田貞一先生が、4歳になっても歩行が出来ず家人の心配の種であったところ、上級・山名の諸井国三郎会長より、
「それは、家内の者が 家業を捨てて 布教に出る覚悟がない為である。
定吉は、駿河国藤枝へ布教に出るように」とのお言葉があった――
諸井国三郎山名会長からのそのような言葉を受けて、村田定吉先生は、人間思案を捨てて、役場の吏籍を辞し、布教に出る決心を固められた――
そして、実際に布教に出発したところ、その日の夕刻には、ずっと歩けずにいた村田貞一先生が一人で飛び歩く程になる、という実に鮮やかなご守護を頂いた――
『天理教事典』に、そのように書いてありました。
山崎村の戸長までつとめた村田定吉先生が、その職を投げ捨てて布教に出られたということ。
その決断に踏み切るには、おそらく、並々ならぬ覚悟を要したことと 想像致します。
これまでの当シリーズ書写学習を通して、お道の先人先生方は、皆様、多かれ少なかれそのような大決心をして道を歩まれ、それにより多くの人々がたすけられ、そして今日があるのだ、ということを学んできました。
お道に ご縁を戴いている者は、そのような先人先生方の、並々ならぬ 覚悟を乗り越えた歴史の流れの上に 今の結構さがある ということ――
そのことを忘れないようにしなければ、と 今回の学習を通して、改めて 思ったのでありました。

また、村田熊三郎 初代会長が 再婚に至る経緯も、印象深かったです。
村田熊三郎 初代会長は、31歳の若さで せい奥様が 出直された後、上級と自教会 それに身の回りのことを 独りでこなさなければならない状態となり、てんてこ舞いだった――
そのような状況を見るに見かねた 諸井国三郎 山名会長が、周智部内の 鈴木きん先生に後添えに入るよう声をかけた――
きん先生は、最初 望まなかったが、諸井国三郎会長から、
「再婚ではない。おたすけに行くのだ」と諭され、城山支教会へ嫁ぐことを決意し、村田熊三郎先生の妻となった――
『天理教事典』に、そのように書いてありました。
現代社会では なかなかな受け入れられにくい 価値観かもしれません。
しかし、昔の教話には このような話が 割とたくさんあったような気がしますし、この史実は、いかにも「天理教的」だと 私には感じられました。
こうした考え方について言及する力が 私にはありませんが、
しかし、きん先生の 決断により、城山大教会にご縁のある 多く方々が救われ、後の 結構な姿をご守護頂いている という事実は大きい と思います。
その、村田熊三郎初代会長の良き内助者であった きん奥様は、
夫の出直し後、七十一歳から「一日生涯」と書いた 赤タスキを掛けて、袋井市内を 1軒1軒 毎日のごとく にをいがけに歩き、それは 出直す前日まで続いた、と『天理教事典』に書いてありました。
実に 感慨深いエピソードで、深い感動に包まれました。

その他にも、
村田てる2代会長夫人が、
① 昭和11年・村田熊三郎 初代会長出直し
② 昭和17年・村田きん 初代会長夫人出直し
③ 昭和19年・村田貞一 2代会長出直し
と、わずか10年の間に 3人の身内を失い、加えて 戦争のどん底だった 昭和19年に3代会長に就任し、女性の身ながら、戦中戦後の混乱の中を、3代会長として たすけ一条の精神で求道に励み、見事に復興を果たした――という話。
また、
昭和36年、上級・山名の諸井慶徳4代会長が病気となった際、この節を通した 諸井慶徳 山名大教会長の心定めにより、城山分教会は 山名から分離する事となったが、
奇しくも、この時 病床の身であった 村田浩之 城山分教会4代会長も、
この命を受けると、不思議なことに、鮮やかに身上が快癒した――という話。
どれもこれも、知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て とても勉強になりました。
有難いことでした。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「城山大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「城山大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。






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