Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号132番「小南部大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番133号番「雨龍大教会」について勉強します。
- 雨龍大教会(うりゅう だいきょうかい)
- 西垣定喜 初代会長の入信 ~ 不思議なたすけ(明治22年)
- 西垣定喜の生い立ち(安政5年~)
- 十津川大水害(明治22年)
- 北海道への渡道 ~ 新十津川村への入植(明治22年~明治23年)
- 「徳富の神さん」~ 病人訪問の日々(明治23年頃)
- 中島国蔵との出会い ~ 布教師派遣の願い出(明治24年~明治25年)
- 大社教一色の村での布教 ~ 布教師の早期帰任(明治25年)
- 「寄所」設立、不許可にて西垣私邸として始動(明治25年)
- おぢば初参拝 ~ 「新十津川布教事務取扱所」の設立(明治25年~明治26年)
- 地方庁認可を求めての苦難(明治27年~明治31年)
- 南海・山田敬誠のおさとし→ いんねんの自覚 ~ 待望の地方庁認可+雨龍出張所へ改称(明治31年~明治32年)
- 教会の移転新築 ~ 部内出張所の設立(明治32年~明治33年)
- 腸チブスの発生と試練(明治36年)
- 教会管理者制度の改正 ~ 教会の自然消滅(明治36年)
- 苦難の中の再起 ~ 教祖20年祭活動(明治36年頃~明治38年)
- 本席出直し ~ 支教会への昇格(明治40年~明治42年)
- 部内教会の設立 ~ 市街地への移転(明治42年~明治44年)
- 大凶作と借財の増大(大正2年頃)
- 借財完済の喜び(大正8年~9年)
- 西垣洋一の2代会長就任 ~ 分教会への昇格(大正11年~大正13年)
- 教祖40年祭頃(大正14年~大正15年)
- 教会内容の充実期 ~ 停滞の兆し(昭和初期)
- 教線の海外進出 ~ 初代会長夫妻の出直し(昭和6年~昭和8年)
- 教祖50年祭 ~ 戦時下の困難(昭和11年~昭和17年)
- 西垣洋一2代会長の出直し ~ 西垣春一の3代会長就任(昭和17年~昭和18年)
- 終戦 ~ 復元の提唱(昭和20年~昭和21年)
- 創立50周年記念祭 ~ 神殿ふしん(昭和22年~昭和35年)
- 大教会への陞級 ~ 奉告祭(昭和39年~昭和40年)
- 教祖80年祭 ~ 教祖90年祭(昭和41年頃~昭和51年頃)
- おわりに
雨龍大教会(うりゅう だいきょうかい)

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の、巻頭カラーページの冒頭、見開き2ページに「雨龍大教会」の誕生について書かれています。
非常に感動的な内容ですので、今回は、『天理教事典』書写文の前に、『道〜天理教伝道史をあるく』の文章を書写し、置いておきます。
北国に花を咲かせた決死行
さながら天が裂け地が割れんばかりの狂爛怒濤が山野を襲った。
時は明治二十二年の八月。
奈良県吉野郡一帯の豪雨の惨禍である。
十津川郷六カ村の死者百六十八人。
まさに生き地獄の様相を呈した。
同年十月、被災家屋二千四百三戸のうちの六百戸、二千六百余人が未知の国・北海道めざし、十津川をあとにした。
険しい山道を越えながら人はみな、再び見ることのないだろう故郷の村々を 何度も振り返り振り返り、歩を進めた。
その中に 西垣定喜・なみ夫妻もいた。
なみは臨月だった。
風雨の強い十月二十七日に発った一行は 堺から汽車を乗り継いで神戸へ、神戸港から日本海を経て小樽に着いたのは 十一月六日だった。
その航海中、なみは 男児を産み落とした。
寒風突いて奥地へ無蓋車で運ばれ、さらに雪と泥にまみれて歩くこと 五十キロ余、決死行に等しかった。
移住直後の十二月までに 三十九人、翌年七月までに 九十六人が病死した。
長旅と 北国の冬の厳しさと 原始的耐乏生活が、いかに過酷だったかが 想像できる。
入植地は「新十津川村」と名付けられ、定喜も 原野に斧をふるった。
ある日、なみに 忘れ得ぬ胸中を打ち明けた。
故郷を発つ前、母の五年来の血の道と 自らの三十年来の宿痾を、布教師・井野弥一郎のたった一度のおさづけでたすけられた感激が 脈々と波打っていたのだ。
夫がたすけられたことは 自分がたすけられたも同じこと、自分も御恩報じをと、なみは 素直にうなずいた。
二人三脚のおたすけ行が 開始される。
昼、開墾に汗し、夜、おたすけに運ぶ。
昼、おたすけに通えば、夜、たき火の明かりで大地を耕す。
おたすけといっても 定喜は、おぢばも知らず、もちろん おさづけも頂いていない。
病人に、自分がたすけられた喜びを熱心に伝え、弥一郎に書いてもらった「十全の守護」と「八つのほこり」の巻物を読んで聞かせ、あとは 神名を唱えて患部を何度もさすった。
その行動は人の目にとまり、移民誓約書に反すると、役場吏員や村人から厳しく叱責を受けた。
しかし 定喜の御恩報じは やむところを知らず、あちこちで不思議な御守護があがった。
北海道 最初の教会「雨龍」のドラマは こうして始まったのである。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,6〜7 )
西垣定喜 初代会長の入信 ~ 不思議なたすけ(明治22年)
明治22年(1887) 8月8日、
西垣定喜(32歳) が生業の杣仕事より帰宅したところ、5年来血の道を患っていた母が、珍しく元気なので (どうしたのか) 尋ねると
「天理王さんに助けてもろうた。お前もお願いしたらどうや」
との事(であった)。
(西垣定喜は) 翌朝を待ち兼ねて、当時十津川村で布教に歩いていた日元講の 井野弥一郎を滞在先に訪ね、
「私は幼少の頃より身体の具合が悪く苦しんでいます。何とかおたすけ頂きたい」
とお願いした(。
そうした)ところ、天理王命の御守護について聞かされ、4柱目の「つきよみのみこと」まで聞いた時、2歳で患い始めた胸の塊がグウーと鳴り下がってすっきりとなった。
その喜びは天に昇る心地であった。「お礼はいらんと言われましたが、どのようにしたらよろしいですか」(と西垣定喜が尋ねると)
「自分がたすけてもらって有難いと思うなら、これからしっかり人をたすけなさい。それが神様への何よりの御恩報じである」と言って、(井野弥一郎は) 「十柱の神様の御守護の理と八つの埃」を巻紙に書いて渡した。
西垣定喜の生い立ち(安政5年~)
西垣定喜は、
安政5年(1858)、奈良県吉野郡 十津川村樫原に生まれた。士族とはいっても 十津川郷士の事とて、代々 わずかな土地で 農業と杣仕事に出て 生計を立てていた。
加えて 両親も弱く、自分(西垣定喜) も 幼少より病気がちで、近隣の人々からは「病の巣・薬の袋」と噂される程であっただけに、親神の珍しい守護は 再生の思いであった。
十津川大水害(明治22年)
(西垣) 定喜は (井野弥一郎におたすけ頂いて) その後、ぬぐわれた様に身体も良くなったので、(明治22年) 8月16日より 杣仕事に出ていた(。
そうした)ところ、18日より風雨が激しく(なり)、遂に、21日になって 山が崩れ、川は塞がれて 溢れだし、家も畑も 一瞬のうちに流され、あるいは 埋まり、死者は 168名という大災害をうけた。(十津川大水害)被害者は 数多くの援助をうけ、復旧に力を尽くしたが、生活は安定せず、一家の立つ目安もつかなかった。
(そうした悲惨な状況にあって、西垣)定喜は、村有力者達が計画した 北海道移住(に参加すること)を決意。
家督を弟に譲って、渡道の準備に取り掛かった。
北海道への渡道 ~ 新十津川村への入植(明治22年~明治23年)
明治22年11月、(西垣定喜は 臨月の妻・なみと共に) 神戸を出帆。
同月(11月)6日、小樽に上陸、北海道への第一歩を印した。明けて (明治)23年6月、土地の抽選が行われ、
(6月)14日「新十津川村」と名付けられた当選地へ移った。
給与地は 鬱蒼たる樹木に覆われて昼も暗く、熊・貉・貂…等が危害を加える事も珍しくなかった。
加えて、マラリア・腸チブス等が流行し、先行きを案じて 母村へ逃げ帰る人も多かった。
が、(そのような中でも残った)人々は、それぞれ励まし合って木を伐り、鍬をふるう毎日が続いた。
「徳富の神さん」~ 病人訪問の日々(明治23年頃)
こうした中にも (西垣) 定喜が忘れることのなかったのは、
病気を救けられた神様の御恩と、井野(弥一郎)の言葉であった。(西垣定喜は) 開墾の合間を見ては 病人を尋ねて歩いた。
もちろん 道路があった訳ではない。
丈ほどの熊笹の刈分け道を、雨が降れば膝までぬかり、草鞋ばきでさえ容易でない中を 歩き続けた。
昼に神名を伝えに出た時は、夜に伐木し、あるいは、昼働いて、夜に 綿の様に疲れた身体で病人を訪ねる等(して布教活動に奮励努力した。
そのように西垣定喜が) 日夜 心にかけて通っている内に、戸長役場の目につき始め(た。
様々な方面から) 反対の声が出始めたが、かえって (西垣定喜の)信仰は白熱化した(のだった。)
しかし、(そのような西垣定喜の白熱化した布教活動は) おぢばを知らず、教理もよく解らないのであるから、
病人がたすかり「徳富(とっぷ)の神さん」「定喜まいり」といわれる(程の実績をあげる)様になったものの、(おたすけした後) それを導いてゆくのは 容易でなかった。
(西垣定喜には何ら) 資格が(あるわけでも)ないのであるから、(西垣定喜の布教活動の広がりは) 村民の反感や嘲笑を買い、役場や駐在所の干渉を 表面化させることとなった。
中島国蔵との出会い ~ 布教師派遣の願い出(明治24年~明治25年)
翌(明治) 24年(1891) 4月、
噂を聞いて 村内の 中島国蔵が訪ねてきた。彼(中島国蔵) は、故郷で「正明講」(南海支教会) について信仰して(いた。
遠国の地での思わぬ邂逅に話がはずみ) それでは…と、(西垣)定喜は 旭日(日元講)に、中島(国蔵) は南海(正明講) に連絡して布教師の派遣を願い、来て下さった方と一緒に信仰しようと話し合い、(それぞれに) 便りを出した。
(その後) 南海(正明講) から承知の返事があり、(明治)25年2月、2名の布教師が来道。
(丁度その頃は)農閑期でもあり、昼夜にかけて 教理やてをどりを習い、公開説教に力を注いだ。
大社教一色の村での布教 ~ 布教師の早期帰任(明治25年)
当時、新十津川村は、全村が「大社教」の信者であった。
前年(明治24年) 同教(大社教) の管長が来村して、公職者すべてが教職に補されており、他宗が入るのを 極度に嫌った。
こうした中で、両名 (西垣定喜と中島国蔵) の布教師は、移住早々なので 食糧等は自給し、2年余の滞在を予定していたが、南海支教会へ「本席」(が)来会(する) との報せがあり、わずか 2ヵ月にして 帰途についた。
しかし、わずかの滞在ではあったが (その間)、白紙の信仰に 親神の理とその思召を伝え(るべく奮闘した両名は)、
「有難い」だけの信仰から一歩も二歩も進め(て)、次第に強まってきた圧迫や嘲笑に心を倒す事のない 確固とした信仰を (現地の人々に) 伝えた。
「寄所」設立、不許可にて西垣私邸として始動(明治25年)
これより先の(明治25年) 1月5日、
(西垣) 定喜と中島(国蔵) は、せっかく信仰しても、神様をお祀りする所がないのでは申し訳ないと、同信の者と木を伐り出し、20坪の平家を建てて「寄所」として村へ出願した。しかし、開墾中は (寄所開設は) 許されず、止むなく 西垣の私宅として承諾を得た。
おぢば初参拝 ~ 「新十津川布教事務取扱所」の設立(明治25年~明治26年)
(明治)25年暮、初めて4人がおぢばに参拝。
(そして) 翌年(明治26年) 2月におさづけの理を拝戴した。
その折、南海(分教会) の山田(作治郎) 初代会長より「新十津川布教事務取扱所」として出願する様、下書を渡された。帰道後、周旋方一同で協議の上、出願。
(明治)26年(1893) 9月19日、教第346号を以て許しを得(て)、
北海道における最初の教会として (新十津川布教事務取扱所が) 設立(された)。
(西垣定喜が北海道)布教(を開始して)以来、3年目(のこと)であっ た。この喜びをもって、戸長へ地方庁認可の進達を願ったが、(戸長からは) 村評議会の決議を経ねば… と却下された。
地方庁認可を求めての苦難(明治27年~明治31年)
(明治) 27年1月、おさづけの理を拝戴した西垣(定喜)所長の布教は、いよいよ白熱的なものとなった。
戸長に呼び出され、
「百姓は 百姓仕事をするのが 第一得策である。知らん事や なれん事をしたって 駄目じゃ」
と怒鳴られ、一向に許可を得られなかった。
しかし、(そのような中でも) 教線は (着々と) 村外へ延び(ていき)、樺戸・空知・雨龍 の 3郡に及んだ。
(新十津川)村で 願書を受付けてくれぬまま 5年を経て、人々の心がいずんでいた時、南海の巡教員より
「設置を 村として受付けてくれぬなら、本部も最初は東京で許されているし、処を変えて願ってはどうか」
と(いう)提案があった。
(そこで) 幸い 深川村に信者がまとまりかけていたこともあり (深川村で) 出願したが、同郷人の戸長により (そこでも) 却下された。
(そのような閉塞的状況の中、
それに)加えて (明治)31年9月、石狩川の洪水で冠水し、収穫 皆無となってしまった。(新十津川布教事務取扱所一同は、まさしく) 物心両面から、どん底へ突き落とされた。
南海・山田敬誠のおさとし→ いんねんの自覚 ~ 待望の地方庁認可+雨龍出張所へ改称(明治31年~明治32年)
こうした (一同がどん底に沈んでいた)時期に、(上級の) 南海(分教会) より山田敬誠が訪れ(た。
山田敬誠は)
「十津川で水害に遭い、また (北海道で) 水害に遭うとは、いんねんが切れていない(姿である)」と諭し(た。
天を恨むばかりの一同であったが、このお諭しを受けて) 一同(は、浅い人間思案を越えた天の理の働きについて) 心底 得心した。
(自分たちのいんねんを自覚した一同は、その後) それぞれ 布教に専務する心を定め、(また、地方庁の) 公認(が得られるよう)手続をつくす等、大いに勇み立ち、布教意欲を燃やしてかかった(。
そうした)ところ、
明治32年(1899) 7月13日、
(ついに、待望の) 地方庁の公認を得る事ができた。
なお、前年(明治32年) 7月17日に、雨龍出張所と改称している。
教会の移転新築 ~ 部内出張所の設立(明治32年~明治33年)
(雨龍出張所一同は) この感激をもって、同年(明治32年) 暮、深川村メム原野へ教会の移転新築を進め、
翌(明治)33年 4月、落成を見た。
開筵式には700名余が参拝し、開村以来の賑いを呈した。
同時に役職等の任命を行い、布教態勢の充実を図って、12家族が 渡道以来 営々と伐り開いた土地を売り払い、教会に住み込んだ。
また、この年(明治33年) 10月、
新十津川・滝川、両出張所が 初の部内として設立された。
腸チブスの発生と試練(明治36年)
(雨龍の) 教線は、旭川・札幌・十勝・北見へと延び(ていっ)たが、(残念ながら) 喜びは長く続かなかった。
住み込み家族の中に、経済的な擦れ合いがくすぶ(るようにな)り、
(その)一方(で)、(明治)36年 5月(には)、教会内に 腸チブスが発生し、4名が出直(すという大きな節が現れ)た。
(そのような状況の中) 村から、村内の患者も、収容する避病院を教会へ臨時に置く様に要請され(た。
雨龍出張所としても、そのような要請を) 断り切れず、参拝場を莚で仕切って病室とし (腸チブス患者を教会施設で受け入れた。
それにより) 朝夕のおつとめはもちろん、月次祭もつとめられなくなり、役員宅に御幣を祀って 遙拝する状態であった。
(そのようにして、村へ全面協力体勢を敷いたにもかかわらず、村人からは)
「天理教は人だすけの神さんやと言っているが、自分等がチブスで死ぬとは、神さんもあてにならん」
と罵られ、(雨龍出張所の一同は) 街を歩くのも はばかられ(るような状態となっ)た。
(そのような厳しい状況となったが、雨龍出張所一同は) 南海分教会の畑林(爲七)会長の手紙をもとに話し合い、さんげしてつとめたところ、
(明治36年) 10月5日には、(ようやく) 一切の床払いをする事ができた。
教会管理者制度の改正 ~ 教会の自然消滅(明治36年)
ところが、同年(明治36年) 6月、
北海道庁令の改正で、改めて教会管理者を選定し、道庁の許可を得る事(が必要)となった。
西垣(定喜)所長(を教会管理者として改めて申請したところ、西垣定喜所長)は不適任であると(され)、却下になった。
(そして、それは 西垣定喜所長のみならず) 道内の教会のほとんどが、その憂目にあった。
人を代えて 3度願ったが、(すべて) 却下となり、ついに(は) 11月を以て 管理者は失格。
教会は (なんと) 自然消滅となっ(てしまっ)た。
看板が取りはずされ、鳴物の使用も止められた。
加えて、日露戦争には 役員・周旋方の多くが召集され、教会は火の消えた様な淋しさとなった。
苦難の中の再起 ~ 教祖20年祭活動(明治36年頃~明治38年)
当然、教会や役員の生活は極端に行詰り、借財はかさむばかりで、建物も人手に渡る寸前までいった。
しかし、(そのような中でも) 西垣(定喜)所長は、心倒さず、周囲の人の心を盛り立て、誰れ彼れなしに 教えを伝えた。そうこうしている内に、(明治)38年秋には 借財も整理され、加えて戦地よりの帰還者も(教会の立て直しを後押しした。)
(雨龍出張所は) その感激を心に 教祖20年祭の活動を進め、北海道より 49名 (おさづけの理拝戴 41名)、三河より 11名が 参拝。
教会は 未公認ながら、100名を越えた 授訓者は、教勢伸展の原動力となった。
本席出直し ~ 支教会への昇格(明治40年~明治42年)
(明治)40年6月「本席」出直しの報が 雨龍に届いた。
(この報せを聞いた) 一同は 御恩報じにその限りをつくし、(その中には) 布教専務に切り替える人も多かった。
(その翌年・明治41年、ついに天理教が明治政府より一派独立認可を受けた。)
一派独立の喜びは (教会組織改編につながり)、
(明治)42年(1909) 1月、南海(分教会)が大教会に、
雨龍(出張所)も、(明治)37年設立の北旭を加え、(明治42年) 3月16日、支教会に昇格となった。
部内教会の設立 ~ 市街地への移転(明治42年~明治44年)
(雨龍)部内も、(明治)42・43年に 各1ヵ所、(明治)44年には 8ヵ所、(明治)45年に 1ヵ所が新設された。
月次祭毎の参拝者も、次第にその数を増してきた。
駅や市街から1里も離れた原野では大変不便なため、市街地へ移転する事となった。
(その後、移転工事も順調に進み、明治)44年9月に (無事) 竣工した。
大凶作と借財の増大(大正2年頃)
世は、明治から大正へと移り変わった。
しかし、(移転)建築の借財の利子が、雪だるまの様にふくれ始め (支払いに困難が生じるようになってきた。
そのような)時、大正2年、北海道が大凶作に見舞われ(た。
教会の経済状況悪化に 凶作が追い打ちをかけ) 個人借りの取り立てが 相次ぐようになった。
(そうした非常に厳しい状況となっては) 止むなく 借り変えて一時をしのぐより方法がなく、
(また、それに)加えて、(雨龍)部内に「身上・事情」が続出。
(このようにして 重なり発生した厳しい諸事情は) 雨龍の伝道の 大きな遅れとなった。南海(大教会)より 幾度となく足を運んで指導にきたものの、2万円を越える (借金の)額は、容易な事でなかった。
借財完済の喜び(大正8年~9年)
(雨龍一同は) 一喜一憂の内にも、(西垣定喜)会長に心を合わせて進み、歳月を重ねる中に 事情も次第に好転。
大正8年~9年と支払いを進め、
10年間にわたって教会の死命を制するかにみえた借財も、
死力を尽くしての信者の努力によって、(見事)完済(。
一同で、そ)の喜びを分かち合った。
西垣洋一の2代会長就任 ~ 分教会への昇格(大正11年~大正13年)
かくて (雨龍)部内は、この喜びを台として、今まで自教会の事のみに捉われてきたことを反省した。
大正11年、おぢばより教祖40年祭執行の『諭達』が発表され、「お屋敷の拡張」(打ち出し)に伴って、(上級の) 南海(大教会においても) 詰所の移転建築が始まった。
また「教勢倍加」の声に添うべく、具体的活動も開始された。同年(大正11年)10月、(西垣定喜)初代会長は 南海の常詰となり、
(大正11年) 10月27日付で、長男・洋一が2代会長に就任した。
この間、(雨龍)部内教会は 大正7年に 1ヵ所新設されたのみであったが、
(大正)12年に 3カ所、
(大正)13年に 6ヵ所を設立し、
部内24ヵ所を数えた。
(大正)13年 12月11日に、分教会に昇格。
部内の 新十津川・旭川 は、支教会となった。
教祖40年祭頃(大正14年~大正15年)
(大正)14年に、(新設教会) 16ヵ所を設立。
明けて(大正)15年(1926) 1月、教祖40年祭が執行され、402名が参拝した。
なお、同年(大正15年)に 3ヵ所を設立、(雨龍)部内は 43ヵ所を数えた。
教会内容の充実期 ~ 停滞の兆し(昭和初期)
年号が昭和へと改元されたが、(教祖40)年祭を頂点として その大節がひいた後には、新設教会の「修理」が残されていた。
(西垣洋一)2代会長は 教会内容の充実に心を配ったが、(教祖40年祭へ向けた年祭活動の) 大活動後の一服で、布教は緩慢となり、沈滞の道を辿るかのようであった。
教線の海外進出 ~ 初代会長夫妻の出直し(昭和6年~昭和8年)
しかし、昭和6年、
(天理教教会)本部では、昭和普請が着工され、教祖50年祭の発表と共に 布教活動は(再び)活発となり、(雨龍の) 教線も、パラオ・樺太・満州へと延びていった。
昭和8年 4月、初代会長夫人・なみが、
(昭和8年) 10月には、(西垣定喜)初代会長が 78歳で出直した。
教祖50年祭 ~ 戦時下の困難(昭和11年~昭和17年)
(昭和)11年(1936) の教祖50年祭には、447名が参拝した。
しかし、(その頃) すでに戦雲は暗く、翌(昭和)12年、日華事変が起こり、戦火は拡大の一途を辿った。
それに伴ない、(天理教の)布教活動は 2次的なものとなり、加えて (雨龍)部内教会も、会長の出直しなどによる不振教会が多く(なった。
そこで、不振教会の)内 12ヵ所を 復興の対象として話し合いを進めたが、(その結果) 3ヵ所は他系統に所属し、6ヵ所は有名無実となった。(昭和)17年に入ると、戦争は苛烈となって、青年の殆どは戦地へ、老人・婦人まで工場や農村への出動となった。
各教会もまた、神の教えを伝える活気なく、月次祭も わずか数人でつとめるという淋しさとなった。
西垣洋一2代会長の出直し ~ 西垣春一の3代会長就任(昭和17年~昭和18年)
(昭和)17年(1942) 11月、(西垣洋一)2代会長(が出直した。
西垣洋一2代会長)の出直し後、空白であった会長職も、
(昭和)18年3月、長男・春一が 中国より4年ぶりに帰還したので、
(昭和18年) 4月20日、3代会長の許しを得て、就任した。
(昭和)19年には「いざひのきしん隊」が全教に結成され、(雨龍)部内からも 炭坑や工場へ出動した。
終戦 ~ 復元の提唱(昭和20年~昭和21年)
(昭和)20年8月、長年にわたった戦争が 日本の敗戦をもって終わりを告げた。
「復元」が提唱され、本来の教理に立ち返ろうという運動が進められた。
(全教的な復元運動に呼応して、雨龍)部内も次第に活気づいてきたものの、
(昭和)21年の教祖60年祭には、(戦争の爪痕はまだまだ深く残っており) 交通事情も悪く (残念ながら) 数名が帰参しただけであった。
(雨龍)部内は、(昭和)17年 1ヵ所、(昭和)21年 1ヵ所設立。
(戦争に) 動員された人々の帰還も、次第に進みつつあった。
創立50周年記念祭 ~ 神殿ふしん(昭和22年~昭和35年)
(昭和)22年8月、延期されていた創立50周年記念祭を執行。
600名が参拝し、全く久しぶりの盛儀であった。
(雨龍)部内も これを機として、修養科生も毎期その数を増し、布教も活発になってきた。
(事情を抱えた)各教会も、担任の変更、名称預かり教会の整備等、その充実に力をつくした。
(昭和)31年、教祖70年祭には、870名が参拝。
年祭後、上級教会より、老朽甚しかった神殿新築の声をうけ(た。
親の声を受けた雨龍一同は、昭和)33年より3ヵ年で工事を進め、(昭和)35年10月、(無事) 落成奉告祭を執行(した)。
(神殿落成奉告祭には) 1,200名が寄り集い、初代以来の信仰を偲び、報恩を誓い合った。
大教会への陞級 ~ 奉告祭(昭和39年~昭和40年)
昭和39年(1964)、大教会陞級の話を受け(た。
大教会陞級の話を受けた雨龍)部内は、一手一つとなって(教会)内容の充実を進め、
(昭和)40年1月に 1ヵ所、4月に 6ヵ所を設立。
同年(昭和40年) 4月26日、51ヵ所をもって (大教会)陞級の許しを得て、
(そして) 7月、(大教会陞級)奉告祭を執行した。
(大教会陞級奉告祭には) 1,600名が参拝し喜びの祭典をつとめた。
教祖80年祭 ~ 教祖90年祭(昭和41年頃~昭和51年頃)
(昭和41年の) 教祖80年祭には、1,500名が帰参した。
(大教会)陞級以来 心にかけていた 信者詰所のふしんも、
(昭和)47年、土地を求めて整地をなし、
(昭和)48年 3月より工事にかかって、
(昭和48年) 10月、真柱の臨席のもとに、無事、詰所開きを行った。
(そして)「おちばへ一人でも多く、一刻でも早く」と (雨龍)部内は、会長を芯に一つとなり、(昭和51年) 教祖90年祭を喜びの内に迎えた。〔現住所〕〒074-0006 北海道深川市6条7番1号
〔電話〕0164-23-3467(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,82〜84)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第133回目の今回は、
「雨龍大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

当記事冒頭で『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の冒頭・巻頭カラーページの雨龍大教会に関する記述を書写しましたが、
それ以外に、本文の中にも 雨龍大教会に関する記述がありましたので、こちらの方も自己覚え書きとして書写します。
道央
雨龍大教会の元一日は、明治二十二年、奈良県吉野 郡十津川村が大水害で被災し、北海道への移民団の一員として、西垣定喜が 新十津川村へ入植、布教してつけた道である。
定喜が、臨月の妻・なみと故郷を出立して 小樽に上陸したのは、十一月六日だった。
その航海中、なみは 男児を産み、洋一(雨龍二代) と名付けられた。定喜は 五町歩の地を与えられ、当籤地の 新十津川村上徳富高台七号川一線へ入植した。
しかし、やせ地であったので 代替地を申請し、八号二線に移った。
ここが、後に「新十津川布教事務取扱所」設置の地となった。定喜のおたすけ活動に、役場吏員の注意が及んだ。
移民誓約書に、各自五千坪以上を開墾するまでは 他の事業に従事してはならない、違反者には給与米を減らし、村中の交際を一切絶つ、とあったからである。さらに吏員は、
「おたすけに出ていては開墾に支障をきたすばかりか、他人の時間までつぶさせるのはけしからん」
「この村はこぞって出雲大社の信仰をしているから、村内統制上差し支える」
と厳しく指導した。
そのたびに「承知しました」と返事したが、御恩報じは続いた。やがて 不思議なたすけが現れはじめ、「徳富の神さん」「定喜詣り」と言われるようになった。
二十三年中に 二十戸余りが入信し、各戸持ち回りで 日待講 を勤めた。
別の地に入植していた 中島国蔵が訪ねて来た。
国蔵は南海初代・山田作治郎のおさづけでたすかった 十津川出身の人。
二人は意気投合し、それぞれ所属する 南海支教会と 日元講 (旭日) へ 布教師派遣を依頼した。
南海の作治郎から 返事が届いた。二十五年、二人の役員が来て おたすけに奔走し、お手振りも教えた。
翌年「新十津川布教事務取扱所」のお許しを頂いたが、村の評議会で否決された。
以降「雨龍」と改め、地方庁の認可を得るまで、七年を要した。さて、北海道庁は、三十六年、神仏道教務所説教所設置規程を制定。
布教者は教義などに精通するほか、中卒以上の学力を有することを原則とした。
雨龍および部内の出張所へも「担任者許可し難し」との指令が来た。雨龍は、後任を次々立てたが、却下また却下。
四十一年に 再認可を受けるまでの間は、
「名称看板ハ 取払ヒトナリ。表立テ 月次祭説教日 並ニ 御勤メモ 当然ナラン事ニ相成」(西垣定喜覚書) というありさまだった。経済的破綻は深刻となった。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,124〜125 )
そんな時、定喜は
「故郷の十津川にいたら、おれはワッパに飯つめて杣に行かにゃならん。おまえは二つ折りになって麦の草取りせにゃならん。そのこと思うたら今はどうや。おまえは三味線を弾き、おれは踊って通れる」
と 家族や役員たちを 励まし力づけた。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】133回目の当記事では『天理教事典』の中の「雨龍大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
雨龍大教会は、南海大教会から分かれた大教会ですね。
南海大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

当記事では
『天理教事典』の中の「雨龍大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。
今回学んだ「雨龍大教会」は、教会の元一日が一つの巨大な自然災害から始まっているという点で、これまで当シリーズで勉強してきた多くの大教会と異なる背景を持っていました。
巨大な自然災害が教会の元一日に関係しているという例は、明治24年の濃尾大地震をきっかけにして美濃尾張方面に生まれた 東愛大教会(第35回) や 岐美大教会(第71回) 等のケースがあり、そういった大教会の歴史についても、これまでの当シリーズの中で学んできました。
しかし、今回勉強した雨龍大教会は、そういった天災への救援活動を基礎として生まれた大教会とは異なり、
被災者自身の移住から教会の元一日が生まれたという点で、極めて特異な背景を持っていると感じました。
明治22年8月、奈良県吉野郡十津川村を襲った大水害。
山が崩れ、川が塞がれて溢れ出し、家も畑も一瞬のうちに流され、あるいは埋まり、168名もの命が奪われたとのこと。
『道〜天理教伝道史をあるく』には、
この時、被災した戸数は2,403戸にのぼり、そのうち600戸、2,600人余りが、生まれ育った土地を離れ、見知らぬ北海道を目指すことを決意した、と書いてありました。
険しい山道を越えながら、二度と見ることはないだろう故郷の村を 人々は何度も何度も振り返りながら歩を進めた、という『道〜天理教伝道史をあるく』の記述を読んだ時には、
生まれ育った場所を離れて見ず知らずの土地へ旅立たざるを得なかった人々は、その時一体どんな気持ちだったのだろう… と胸が締めつけられる思いがしました。
その一団の中に、雨龍大教会 初代会長となる西垣定喜・なみ夫妻がおられたとのこと。
なみ奥様は、その時、臨月であったといいます。
風雨の強い10月27日に十津川を発ち、堺から汽車を乗り継いで神戸へ、そこから日本海を渡って小樽へ。
11月6日、ようやく北海道の地を踏むことになったわけですが、その航海の最中、なみ奥様は船の上で男の子を産み落とされた。このお子様が、後に雨龍の2代会長となる洋一先生。
被災し、住む家を失い、生まれ育った土地さえも捨てざるを得なかった人々が、大きなお腹を抱えたまま、あるいは生まれたばかりの赤子を抱いたまま、慣れない船旅、慣れない汽車旅を経て、ようやくの思いで極寒の北の大地へと辿り着いた――
言葉にしてしまえば簡潔ですが、一つひとつの場面を思い浮かべると、その道のりは、きっと筆舌に尽くしがたい苦労の連続だったに違いない、ということが容易に想像されます。
そして、北海道到着後も、その先に待っていたのは 決して穏やかな新生活ではなかったことが、『道〜天理教伝道史をあるく』には記されていました。
入植地までは、寒風の中、屋根のない貨車に揺られ、さらに雪と泥にまみれながら50キロ余りを歩き通す、まさに決死の道のり。
そして、移住直後の12月までに39人、翌年7月までに実に96人もの方が、この地で命を落としたとのこと。
故郷での水害を生き延び、命からがら新天地に辿り着いた人々の多くが、なんと、今度は、その新天地の厳しさによって命を落としていった、という壮絶な歴史――
西垣定喜・なみ夫妻を始めとする十津川からの移住者達にとって、北の大地での長旅と、想像を絶する冬の厳しさ、そして原始的な耐乏生活が、いかに過酷なものであったか、ここに記述された数字だけでも十分に伝わってくる感じがします。
そのような極限の状況の中にあっても、西垣定喜先生は、開墾の合間を縫って、病人を訪ね歩く日々を続けたとのこと。
「昼に神名を伝えに出れば、夜は木を伐り、昼に木を伐れば、夜は疲れ切った身体で病人のもとへ向かう。まだおぢばも知らず、教理も十分に解っていないまま、ただ、自分がたすけて頂いた喜びと恩返しの一念だけを頼りに、人々のもとへ通い続けた」
『道〜天理教伝道史をあるく』にはそのように書いてありました。
『道〜天理教伝道史をあるく』には、そうした苦しい時期に西垣定喜先生が家族や役員たちにかけた言葉も記述されていました。
「故郷の十津川にいたなら、今頃は朝から晩まで杣仕事や畑仕事に追われていたはずだ。それを思えば、今のこの苦労も、まだしも心穏やかに過ごせているではないか」
という西垣定喜先生のお言葉。
多くの仲間をはじめ あらゆるものを失いながらも なお周囲の人々を励まし続けられた西垣定喜先生の心の強さと信仰心の深さには、全くもって言葉もありません。
ただただ感動し、その崇高なお姿に 深く胸を打たれるばかりです。

また、今回『天理教事典』「雨龍大教会」書写文を読んで印象深かったのは、地方庁の認可を得るまでの長く苦しい道のりでした。
明治26年に「新十津川布教事務取扱所」として本部の許しを得たものの、村評議会の決議を経ねばと却下され、それから実に地方庁の認可を得る明治32年まで、約7年もの歳月を要したとのこと。
戸長からは「百姓は百姓仕事をするのが第一得策である」と怒鳴られ、あるいは同郷人の戸長によって願いを却下された、却下につぐ却下の連続――『天理教事典』にはそのように書いてありました。
『天理教事典』書写文からは、当時の官憲がいかに天理教の布教活動を警戒し抑え込もうとしていたかが、生々しく伝わってきます。
前々回(第131回)「伊那大教会」前回(第132回)「小南部大教会」の勉強でも、地方庁からの認可がなかなか下りず、幾度となく却下されながらも、なお信仰を守り抜いた先人達の姿に触れました。
それら大教会が歩んだ壮絶な苦難の道のりには、その都度深い感銘を受けてきましたが、
今回学んだ「雨龍大教会」もまた、同様の苦難を味わった教会の一つであったことを知りました。
特に、北海道庁令の改正に伴い、改めて教会管理者を選定することが求められ、西垣定喜初代会長を教会管理者として申請したにもかかわらず、不適任として却下された結果、管理者不在とみなされ、教会が「自然消滅」という扱いになってしまったという歴史を知って、
自然消滅⁉(゚д゚;)
と驚き、言葉を失う思いがいたしました。
今、私達は、何の障りもなく、当たり前のようにお道を通らせて頂いているわけですが、
こうして数々の大教会の歴史を辿ってみると、それは決して当たり前のことではなく、
今のこの結構さというのは、国家権力から睨まれ時に弾圧を受けながらも信仰の灯を絶やすまいとした先人達の忍耐と犠牲の上に築かれたものなのだということを、改めて教えられました。

そして、もう一つ、心に重く残ったのが、大正2年頃の 極度の経済的困窮の歴史です。
明治44年に竣工した教会の建築借財の利子が 雪だるまのように膨れ上がっていた、まさにその折、北海道は大正2年、大凶作に見舞われた――
個人からの借金の取り立てが相次ぎ、止むなく借り換えて一時をしのぐより他に方法がなく、その額は 2万円を越えた、とのこと。
当時の2万円がどれほどの重みを持つ金額であったか正確には計り知れませんが、決して容易に返せる額ではなかったであろうことは想像に難くありません。
これまで当シリーズで数多くの大教会の歴史を辿ってきましたが、
その多くが、多かれ少なかれ、首の回らないほどの借財に苦しんできた歴史を持っているということを学んできました。
教会創立の勢いに任せて普請を進め、その返済に長年苦しめられる、というのは、もしかしたら当時の天理教教会に共通する、いわば「構造的」な課題であったのかもしれません。
その中でも、雨龍大教会の場合は、極寒の北海道という土地柄、そこへ追い打ちをかけるような大凶作という自然の猛威が重なった分、その経済的困窮の深刻さは、並大抵のものではなかったであろうと思われます。
そのような大変な中も、大正8年、9年と、死力を尽くしての信者の努力によって、10年越しの借財をついに完済した、とのこと。
完済を成し遂げた時の雨龍の皆様の歓びは如何ほどのものであったか、と想像すると胸が熱くなります。
と同時に、その道のりの険しさに、改めて 思いを馳せずにはいられませんでした。

こうして振り返ってみると、雨龍大教会の歩みは、
十津川大水害という故郷での大災害に始まり、
極寒の地への決死の移住、
地方庁認可を求めての長年の苦闘、
教会の自然消滅という制度上の試練、
そして大凶作による経済的などん底――
と、本当に、幾重にも重なる苦難また苦難の連続だったことがわかります。
思えば、雨龍の歩みには、他の大教会にはあまり見られない特徴がありました。
それは、苦難の種類そのものが、あまりにも多岐にわたっている、ということです。
大水害という天災、見知らぬ土地への移住という選択、地方庁という制度の壁、教会消滅という行政上の試練、そして大凶作という これまた天災――信仰そのものに対する弾圧や迫害だけでなく、自然の猛威と、時代の制度の両方から、代わる代わる試練を受け続けてきたのが、雨龍大教会の歴史だったのではないかと感じます。
しかも、それらの試練の一つ一つが、決して短期間で過ぎ去るものではなく、7年~10年という、気の遠くなるような歳月をかけて、じわじわと信者達の心身を削っていくような性質のものであった、というところにも、雨龍の苦難の重さを感じずにはいられません。
これまで当シリーズで勉強してきたどの大教会にも、それぞれに深い苦労の歴史が眠っていましたが、
雨龍大教会の苦難は、その種類の多さと、一つ一つの試練の長さという点において、とりわけ深いものがあったのではないかと、私には感じられました。
しかし、それでもなお、西垣定喜先生をはじめとする先人達が、心折れることなく、時に周囲を励まし時に励まされながら一歩ずつ道を切り開いていったその歩みそのものが「雨龍大教会」の今の礎となっているということ――実に感慨深いです。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出てくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「雨龍大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「雨龍大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。







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